最終更新日 2025-06-13

岡部長盛

「岡部長盛」の画像

岡部長盛の生涯と徳川政権における役割

序論:岡部長盛とその時代背景

岡部長盛が生きた時代は、織田信長、豊臣秀吉による天下統一事業が進展し、その死後に徳川家康が覇権を確立して江戸幕府を開府するという、日本史上未曾有の変革期であった。この戦国乱世から近世へと移行する激動の中で、多くの武士たちが自身の存続と立身出世をかけて戦い、あるいは新たな秩序の構築に尽力した。岡部長盛もまた、そうした時代を生きた武将の一人であり、徳川家康の譜代家臣としてその天下統一事業を支え、江戸幕府成立後も要地を歴任した重要人物である。

譜代大名とは、関ヶ原の戦い以前から徳川氏に仕えていた家臣であり、江戸幕府においては全国の要所に配置され、幕政の中枢を担うことが期待された存在であった 1 。彼らは石高こそ外様大名に及ばない場合が多かったものの、将軍の側近として、また地方統治の要として、徳川の治世を盤石なものとする上で不可欠な役割を果たした 1

本報告書は、岡部長盛という一人の武将の生涯を、その出自から晩年に至るまで詳細に追うことで、当時の武士の生き様、主君との関係、そして徳川家の天下統一から幕藩体制確立への過程の一端を明らかにすることを目的とする。具体的には、長盛の家督相続の経緯、主要な合戦における武功、歴任した各藩での統治、人物像、そして彼の子孫による岸和田藩岡部家の成立までを、現存する史料に基づいて多角的に検証する。

表1:岡部長盛 略年譜

元号

西暦

出来事

石高

典拠例

永禄11年

1568年

駿河国岡部村にて岡部正綱の長男として誕生

4

天正11年/12年

1583年/1584年

父・正綱死去

6

天正12年

1584年

家督相続(16歳または17歳)

4

天正12年

1584年

小牧・長久手の戦いに従軍、武功を挙げる

4

天正13年

1585年

第一次上田合戦に従軍

5

天正16年

1588年

従五位下内膳正に叙任

5

天正18年

1590年

小田原征伐に従軍。徳川家康の関東移封に伴い、上総・下総に1万2千石を与えられ下総山崎藩主となる

1万2千石

9

天正19年

1591年

下総国堤台城を築城

1万2千石

5

慶長2年

1597年

嫡男・宣勝誕生

1万2千石

5

慶長5年

1600年

関ヶ原の戦いにおいて下野国黒羽城を守備

1万2千石

5

慶長14年

1609年

丹波亀山藩主となる

3万2千石

4

後に2千石加増

4万石

10

慶長15年

1610年

亀山城、天下普請による大改修

4万石

11

慶長19年

1614年

大坂冬の陣に従軍

4万石

7

元和元年

1615年

大坂夏の陣に従軍、武功を挙げる

4万石

10

元和7年

1621年

丹波福知山藩主となる(慶長20年説もあり)

5万石

410

福知山にて「行儀三十一カ条」を制定

5万石

13

寛永元年

1624年

美濃大垣藩主となる。瑞巌寺を再興

5万石

4

寛永9年11月2日

1632年12月13日

死去(享年65)

5万石

4

第一章:岡部長盛の出自と家督相続

岡部氏のルーツと長盛の誕生

岡部氏の歴史は古く、その興りは平安時代末期に遡る。藤原南家の流れを汲み、藤原武智麻呂の四男である参議乙麻呂を遠祖とする工藤氏の庶流、入江氏の末裔と伝えられている 9 。『尊卑分脈』によれば、工藤為憲から数代を経て清綱の代に、駿河国益頭郡岡部郷(現在の静岡県藤枝市岡部町)に居住し、岡部権守と称した。その子、泰綱が岡部氏を名乗ったのが始まりとされる 9 。岡部郷には、現在も岡部氏館跡と推定される場所や、氏寺であった万福寺の跡が残り、往時を偲ばせている 16

岡部長盛は、この岡部氏の血を受け継ぎ、永禄11年(1568年)、岡部正綱の長男として駿河国岡部村で生を受けた 4 。通称は弥次郎と称した 4 。岡部氏が古くからの名門である藤原氏の系譜を引くことは、戦国時代においてその家の格を示す上で一定の重みを持ち、また、駿河という今川氏の旧領出身であることは、後に徳川家康との関係を築く上で何らかの影響を与えた可能性も否定できない。

父・岡部正綱の経歴と長盛の家督相続の経緯

父である岡部正綱は、天文11年(1542年)に生まれ、当初は駿河の戦国大名今川義元に仕えた 6 。しかし、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで義元が討たれ今川氏が衰退すると、正綱は甲斐の武田信玄、そしてその子勝頼に仕え、駿河清水城(静岡県静岡市)を守るなど、武将としての経験を積んだ 6 。一説には、正綱が武田信玄に仕えることになった際、当時わずか二歳であった長盛は母と共に人質として武田氏の本拠地である甲斐国へ送られたとも伝えられている 7

天正10年(1582年)、織田信長・徳川家康連合軍によって武田氏が滅亡すると、正綱は徳川家康に仕えることとなる。家康が今川氏の人質であった時代に、正綱と親交があったとも言われ 9 、これが家康への帰順を円滑にした要因の一つと考えられる。家康は正綱の能力を評価し、甲斐・駿河両国内に所領を与えた 6

その父・正綱は、天正11年12月8日(1584年1月19日)に42歳で死去したとされるが 6 、史料によっては天正12年(1584年)の死去とするものもある。父の死を受けて、岡部長盛は天正12年(1584年)に家督を相続した 4 。時に長盛は16歳、あるいは17歳であったと記録されている 7

家督相続に関しては、「康綱」という名乗りにまつわる複雑な情報が存在する。一部の史料では、長盛以前に「康綱」(あるいは「忠綱」)と称する人物が岡部家の当主であった可能性や、長盛自身が初め康綱と名乗っていた可能性が示唆されている 9 。『寛政重修諸家譜』には、天正16年(1588年)に長盛が従五位下内膳正に叙任された際、徳川家康から偏諱(自身の諱の一字を与えること)として「康」の字を与えられ、「康綱」と名乗るよう勧められたものの、長盛はこれを固辞したという逸話が記されている 5 。一方で、この叙任に関する正式な文書(口宣案)には「康綱」の名が記されていたともされる 5 。また、長盛の別名として康綱を挙げる史料もある 4

この「康綱」を巡る問題は、岡部家の家督相続が単純なものではなかった可能性を示唆している。特に、岡部正綱の嫡男・家督継承者であるはずの岡部康綱に関する具体的な記録が乏しいこと、そして長盛が岡部氏代々の通字(家系で代々用いられる特定の漢字)である「綱」をその名に継いでいない点は注目に値する 9 。これは、同族の別の流れから家名を継承した可能性も含めて、今後の研究課題とされている 9 。家康からの偏諱授与と辞退の逸話は、若き長盛に対する家康の期待の大きさと、それに対する長盛の謙抑的な態度、あるいは何らかの複雑な事情が存在したことをうかがわせる。いずれにせよ、この時期の岡部家と徳川家の関係性を理解する上で重要な論点であると言えよう。

第二章:徳川家康への臣従と初期の戦歴

小牧・長久手の戦いにおける武功

岡部長盛が家督を相続した天正12年(1584年)は、織田信長の死後、覇権を争う羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と徳川家康・織田信雄連合軍との間で大規模な軍事衝突が発生した年であった。同年4月、長盛は家督相続から間もない時期であったが、小牧・長久手の戦いに徳川方として従軍する 4

この戦いにおいて、長盛は徳川軍の先鋒の一翼を担い、羽柴秀次(豊臣秀吉の甥、後の関白豊臣秀次)が率いる部隊と激戦を繰り広げた。その際、長盛は自ら槍を振るい、敵将の首二級を挙げるという目覚ましい武功を立てたと記録されている 7 。一部の記録では「有名な武将2人を討ち取った」ともされており 17 、その勇猛果敢な戦いぶりが窺える。討ち取った武将の具体的な氏名は現存する史料からは特定されていないが、この戦功は、家督を継いだばかりの若い長盛が、主君・家康に対して自身の武勇と忠誠を鮮烈に印象付ける絶好の機会となった。この戦いでの活躍は、長盛の武将としてのキャリアの輝かしい出発点となり、その後の家康からの厚遇へと繋がる重要な布石であったと言える。また、この戦功が評価され、後に「普請大名」としても重用される素地が形成された可能性も考えられる 17

第一次上田合戦など、その他の主要な合戦への参加

小牧・長久手の戦いでの活躍に続き、岡部長盛は徳川家康の下で主要な合戦に参陣し、武功を重ねていく。天正13年(1585年)、徳川軍が信濃国(現在の長野県)の上田城に拠る真田昌幸を攻めた第一次上田合戦に従軍した 5 。この戦いは、真田方の巧みな戦術により徳川軍が苦戦を強いられたことで知られるが、長盛はこの困難な戦局においても奮戦し、家康からその働きを賞賛する感状を与えられたと伝えられている 8 。『岸和田市史』には、この時の感状とされる文書が引用されており、「今度於丸子表自身手砕動之儀、感入候、殊其方家中之者共無比類之由、是又神妙候(この度、丸子(上田の地名)方面において自ら奮戦したこと、感服に堪えない。特に其方の家中の者たちの働きも比類なきものであり、これもまた見事である)」といった内容が記されている 7

さらに、天正18年(1590年)には、豊臣秀吉による天下統一の総仕上げとも言える小田原征伐にも従軍しており 5 、徳川軍の主要な軍事行動には常にその名を連ねる存在であったことがわかる。

これらの初期の戦歴は、岡部長盛が単に勇猛なだけでなく、困難な戦況下でも冷静に任務を遂行し、成果を挙げることのできる優れた武将であったことを示している。特に、家康から直接感状を受けるほどの働きを見せたことは、主君からの信頼を確固たるものとし、譜代家臣としての地位を固めていく上で極めて重要な意味を持った。

第三章:関東移封と下総山崎時代

下総山崎藩(1万2千石)の立藩と統治

天正18年(1590年)、小田原北条氏が滅亡し、豊臣秀吉による天下統一が完成すると、徳川家康は本拠地を東海地方から関東地方へ移封されることとなった。この家康の関東入部に伴い、岡部長盛も上総国(現在の千葉県中部・南部)・下総国(現在の千葉県北部、茨城県南西部など)両国内において1万2千石の所領を与えられ、下総国葛飾郡山崎村(現在の千葉県野田市山崎)を拠点とする大名となった 5 。これにより、下総山崎藩が立藩されたと見なされる。

当初、長盛は山崎の梅台と呼ばれる地に「当分の御屋敷」として陣屋を構えたが 5 、翌天正19年(1591年)には、近隣の堤台(現在の野田市堤台)に新たに堤台城を築城し、そこを居城とした 5 。かつての梅台の陣屋跡には、後に海福寺が建立されたと伝えられており 5 、この寺は岡部家の墓所の一つともされる 10

この下総山崎時代において、長盛の人生における重要な出来事の一つが、徳川家康との姻戚関係の成立である。長盛は、家康の異父弟にあたる松平康元(当時、関宿藩主)の娘を継室として迎えた 5 。この女性は、家康の生母である伝通院(於大の方)の養女となり、「徳川家康の妹」という立場で長盛に嫁いだ 5 。この婚姻により、岡部家は徳川家とより一層強い結びつきを持つことになった。この継室との間には、慶長2年(1597年)に嫡男となる岡部宣勝が誕生している 5 。なお、長盛の正室については、松平清宗の娘とする史料も存在するが 13 、松平康元の娘とする記述の方が具体的であり、家康との関係性を強調する上で重要性が高いと考えられる。

家康の関東移封は、豊臣政権下における徳川家の新たな拠点構築であり、その譜代家臣の配置は極めて戦略的な意味合いを持っていた。長盛が1万2千石という比較的小規模ながらも独立した大名として遇され、新たに城を築くことを許されたのは、彼が一定の軍事力と地域支配の責任を担う存在として家康から期待されていたことの表れである。さらに、家康の「妹」を娶るという婚姻政策は、長盛を徳川家の一門に準ずる形で取り込み、その忠誠心をより強固なものにしようという家康の深謀遠慮があったと推察される。この下総山崎での経験は、長盛が単なる戦場での働きだけでなく、領国経営の実務を積み、徳川家との個人的な絆を深める上で、非常に重要な時期であったと言えるだろう。

関ヶ原の戦いにおける役割(下野国黒羽城守備)

慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後、天下の覇権を巡って徳川家康率いる東軍と石田三成らを中心とする西軍との間で関ヶ原の戦いが勃発した。この天下分け目の決戦において、岡部長盛は東軍に属し、本戦の地である関ヶ原からは離れた下野国黒羽城(現在の栃木県大田原市)の守備を命じられた 5

黒羽城守備の主な目的は、会津(現在の福島県西部)を本拠とする大大名・上杉景勝の南下を牽制することであった。上杉景勝は豊臣政権下で五大老の一角を占める有力者であり、強大な軍事力を有していた。もし景勝が家康の本隊の背後を突く形で南進すれば、東軍は挟撃される危険性があり、関ヶ原の戦いの勝敗にも大きな影響を与えかねなかった。したがって、長盛に与えられた黒羽城守備という任務は、直接的な戦闘には参加しないものの、東軍全体の戦略上、極めて重要な意味を持っていた。

譜代大名の中には、井伊直政や本多忠勝のように関ヶ原の本戦で華々しい活躍を見せた者もいるが 19 、長盛のように後方や側面の守りを固め、敵対勢力の動きを封じ込める役割もまた、全体の勝利には不可欠であった 1 。長盛がこの重要な任務を託されたことは、家康からの深い信頼を得ていたことの証左と言える。派手な戦功こそ記録されていないものの、徳川方の勝利に間接的ながらも大きく貢献したことは疑いなく、譜代大名が戦場での武勇だけでなく、戦略的な配置によって全体の戦局に寄与する存在であったことを示す好例である。

第四章:丹波亀山藩主時代

丹波亀山への加増移封(3万2千石、後に4万石)

関ヶ原の戦いにおける功績、特に上杉景勝に対する抑えとしての役割が評価され、岡部長盛は慶長14年(1609年)8月、丹波国亀山(現在の京都府亀岡市)において3万2千石を与えられ、加増移封となった 4 。これにより丹波亀山藩が成立し、長盛はその初代藩主となった。その後、さらに2千石の加増を受け、最終的に丹波亀山藩の石高は4万石となった 10

丹波亀山は、京都の西の玄関口にあたり、山陰道と山陽道を結ぶ交通の要衝であった。また、依然として大坂城に拠点を置き、潜在的な脅威であった豊臣家に対する備えとしても、さらには西国諸大名への睨みを利かせる上でも、戦略的に極めて重要な拠点であった 11 。徳川家康がこの地を重視し、譜代の重臣である長盛を配置したことには、明確な戦略的意図があったと考えられる 17 。長盛の丹波亀山への移封は、彼個人の武功と忠勤に対する報奨であると同時に、徳川政権による全国支配体制の強化、特に京都および西国に対する抑えの戦略の一環として理解する必要がある。

亀山城の拡張と治水事業(天下普請への関与)

徳川家康は丹波亀山城の戦略的重要性を深く認識しており、藩主となった岡部長盛に城の完成と強化を命じた 17 。慶長15年(1610年)には、家康の命により「天下普請」として西国諸大名が動員され、築城の名手として知られる藤堂高虎が縄張(設計)を担当し、亀山城は近世城郭として大規模な改修が行われた 11 。この天下普請において、長盛は城主としてその監督・推進に深く関与したと考えられる。

天下普請は、単なる城郭の建設・改修に留まらず、諸大名の財力と軍事力を削ぎ、徳川の絶対的な権威を全国に示すという高度な政治的意味合いを持つ大規模事業であった。長盛がその対象となった亀山城の城主であったことは、彼が徳川政権の重要なインフラ整備事業の一翼を担う存在として認められていたことを意味する。記録によれば、長盛は亀山において城郭の拡張のみならず、治水事業にも尽力したとされており 13 、武勇だけでなく、このような大規模な土木事業を遂行する行政能力も求められ、それに見事に応えたことが窺える。これは、譜代大名が軍事面だけでなく、領国経営やインフラ整備においても重要な役割を担っていたことを示す好例と言えよう。

大坂の陣(冬・夏)における活躍

丹波亀山藩主としての岡部長盛の治世は、豊臣家との最終決戦である大坂の陣(慶長19年(1614年)の冬の陣、元和元年(1615年)の夏の陣)と時期を重ねる。この徳川の天下を最終的に決定づける戦いにおいて、長盛は徳川方として参陣し、重要な役割を果たした。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、長盛は嫡男である岡部宣勝と共に出陣し、天満口方面での戦闘において武功を挙げたと記録されている 7 。翌元和元年(1615年)の大坂夏の陣においても、長盛は引き続き軍功を重ねた 10 。また、同年には、丹波国内で発生した一揆の鎮圧にも、父子で当たったと伝えられている 7

大坂の陣におけるこれらの戦功は、長盛が譜代の臣として徳川家への忠勤を改めて示したものであり、その後のさらなる加増移封へと繋がる重要な実績となった。また、この時期に嫡男である宣勝が既に父と共に戦場で活躍し、武功を挙げている点は、岡部家の次世代への武門の伝統と家康(幕府)への忠誠が順調に継承されていることを示すものであり、岡部家が今後も徳川家にとって有用な存在であり続けることを印象づけるものであった。

第五章:丹波福知山藩主時代

丹波福知山への加増移封(5万石)

大坂の陣における戦功が評価され、岡部長盛は元和7年(1621年)、丹波国福知山(現在の京都府福知山市)へ5万石で加増移封された 4 。これにより、岡部家は丹波亀山から同じ丹波国内の福知山へと拠点を移し、石高も1万石増加した。ただし、移封の時期については、史料によって慶長20年(1615年)の大坂夏の陣直後とする説も見られるが 10 、元和7年とする記述がより多くの史料で確認される。福知山は由良川中流域に位置し、山陰地方への交通路を抑える戦略的にも重要な地であった。

藩政:「行儀三十一カ条」の制定

丹波福知山藩主となった岡部長盛は、武勇だけでなく領国経営においてもその手腕を発揮した。福知山においては、「行儀三十一カ条」と呼ばれる法令を制定し、領内の統治に努めたことが記録されている 13

この「行儀三十一カ条」という具体的な法令名が史料に残されていることは注目に値する。江戸時代初期、各藩では幕府が定めた武家諸法度を基本としつつも、それぞれの藩の実情に合わせた独自の法令、いわゆる藩法を整備する動きが活発であった 23 。長盛が制定したこの「行儀三十一カ条」も、武士の服務規律、領民の生活規範、訴訟手続き、あるいは経済活動に関する規定など、多岐にわたる内容を含んでいたと推測される。具体的な条文内容は現存する提供史料からは詳らかではないが、このような法令の制定は、長盛が単に武勇に優れた武将であっただけでなく、領国経営における秩序の維持や民政の安定にも意を注いでいたことを明確に示している。その存在自体が、彼の藩主としての統治能力の一端を物語るものであり、今後の地域史研究などによって内容が解明されることが期待される。

第六章:美濃大垣藩主時代と晩年

美濃大垣への移封(5万石)と藩政

寛永元年(1624年)、岡部長盛は丹波福知山から美濃国大垣(現在の岐阜県大垣市)へ5万石で移封された 4 。これにより、岡部家は大垣藩の初代藩主家となった 4 。石高は福知山時代と同じ5万石であったが、大垣の地は戦略的にさらに重要な意味を持っていた。

大垣は、中山道と美濃路(東海道と中山道を結ぶ脇往還)が交差し、また揖斐川を利用した水運の拠点でもある交通の要衝であった。軍事的にも経済的にも極めて重要な地点であり、関ヶ原の戦いにおいては西軍を率いた石田三成の本拠地であったことからも、その戦略的位置づけが理解できる。徳川政権にとって、大垣は西国諸大名への抑えとして、また江戸へ至る関門の一つとして、信頼の置ける譜代大名を配置する必要性の高い場所であった。長盛がこれまでの数々の戦功と幕府への忠勤を評価され、この重要拠点である大垣の藩主に任じられたことは、幕府からの厚い信頼を物語っている。

大垣藩主として、長盛は領内経営にも力を注いだ。具体的には、大垣城下の町割(都市計画)の再編を行ったと伝えられている 13 。また、寛永元年(1624年)には、美濃国揖斐郡(現在の大垣市に隣接する揖斐川町、当時は大垣藩領であったか)にある瑞巌寺の諸堂を再興しており 10 、文化的な側面でも足跡を残している。長盛のキャリアを通じて、戦略的に重要な拠点への配置が一貫して見られることは、家康および初期徳川幕府が譜代大名をどのように活用し、全国支配体制を盤石なものとしていったかを示す具体例と言えるだろう 1

人物像:「岡部の黒鬼」の異名と武勇

岡部長盛の武勇は際立っており、その勇猛さから「岡部の黒鬼」という異名で称えられた 8 。この異名は、長盛が戦場において黒い甲冑を身にまとい、六尺(約180cm)もの長い槍(「丸子槍」とも呼ばれる 26 )を自在に操り、鬼神のごとく奮戦した姿に由来するとされる 8 。その戦いぶりは敵を恐れさせ、味方を鼓舞し、主君である徳川家康からも高く賞賛されたという 8

戦国時代において「鬼」の異名を冠されることは、単に腕力が強いというだけでなく、尋常ならざる武勇や統率力、そして時には敵対する者にとっては恐怖の対象となるほどの威圧感を持つ武将への畏敬と賞賛を込めた呼称であった 27 。長盛が「黒鬼」と称された背景には、彼の戦場での際立った強さに加え、黒で統一された武具が与える威圧的な印象も影響していたと考えられる 29 。甲冑の色にはそれぞれ意味が込められることがあり、黒は力強さや威厳を象徴する色とされることもある 31 。この「岡部の黒鬼」という異名は、長盛の武人としてのアイデンティティを象徴するものであり、徳川家への多大な貢献の源泉でもあったと言えるだろう。それはまた、武士としての「もののふ」の精神、すなわち勇猛さや名誉を重んじる武士道の体現者としての一面を強く示している 33

文化的側面:茶道への通暁

「岡部の黒鬼」と称されるほどの猛将であった岡部長盛だが、武辺一辺倒の人物ではなかった。史料によれば、長盛は茶道にも通じていたと記録されている 4 。戦国時代から江戸時代初期にかけての武将にとって、武勇は当然のこととして、茶道、和歌、能といった文化的教養を身につけることは、一流の武人としての嗜みであり、また時には政治的な社交の場としても重要な意味を持っていた。

長盛が茶道に通暁していたという事実は、彼が当時の大名として求められる文化的素養を兼ね備えていたことを示している。茶の湯の席は、単に趣味を楽しむ場であるだけでなく、大名間の情報交換や政治的な交渉、あるいは主君との意思疎通を図るための重要なコミュニケーションの手段としても機能した。長盛が茶道を通じてどのような人々と交流し、それが彼の政治的立場や情報収集にどのように影響したかまでは詳らかではないが、この文化的側面は彼の人物像に深みを与え、多面的な理解を促すものである。

最期と墓所

数々の戦功を挙げ、要地の藩主を歴任し、徳川幕府の基盤確立に貢献した岡部長盛は、寛永9年11月2日(西暦1632年12月13日)、美濃大垣藩主在任中に65歳でその生涯を閉じた 4

長盛の墓所は、彼自身が寛永元年に再興した岐阜県揖斐郡揖斐川町にある瑞巌寺に設けられた 10 。大名が最後に藩主を務めた地に葬られることは一般的であり、長盛が大垣で逝去し、縁の深い瑞巌寺に眠ることは自然な流れと言える。一方で、長盛の子孫は後に和泉国岸和田藩主となり、その菩提寺である泉光寺(大阪府岸和田市)には、岡部長盛の肖像画が大切に伝えられている 8 。泉光寺は長盛の嫡男・宣勝が建立した寺院である 8 。これは、子孫たちが岡部家初代の功績を深く記憶し、後世に顕彰し続けたことの証左であろう。墓所と肖像画の伝承は、長盛個人の終焉の地を示すと同時に、岡部家の歴史とアイデンティティが後世にどのように受け継がれていったかを示唆するものである。

第七章:岡部長盛の家族と子孫

正室(松平康元娘、伝通院養女)と子女

岡部長盛の家庭生活、特にその婚姻関係は、徳川家との結びつきを強化し、岡部家の地位を安定させる上で重要な役割を果たした。長盛の継室は、前述の通り、徳川家康の異父弟である松平康元の娘であり、さらに家康の生母・伝通院(於大の方)の養女となって「家康の妹」という立場で長盛に嫁いだ洞仙院であった 5 。この婚姻により、岡部家は徳川将軍家と極めて近い姻戚関係を結ぶこととなり、譜代大名としての立場をより強固なものとした。

この洞仙院との間に、慶長2年(1597年)、嫡男となる岡部宣勝が誕生している 5 。宣勝は後に父の跡を継ぎ、岸和田藩岡部家の初代藩主となる人物である。

長盛には宣勝の他にも複数の子女がいた。次男の岡部与賢(おかべ あたかた)は、徳川二代将軍秀忠に仕え、4500石を領する大身の旗本として別家を興した 9 。その他にも、岡部長政、岡部佳深(四男)、岡部定直(六男)といった男子がいたことが記録されている 13

女子についても、その嫁ぎ先は岡部家の政治的立場を反映している。長女とされる高源院(菊姫)は、徳川家康の養女という形で、肥前国佐賀藩の藩主である鍋島勝茂の継室として嫁いだ 13 。これは外様の大藩である鍋島家との間に強力なパイプを築くことを意味した。その他の女子も、織田信則(織田信雄の子か、詳細は不明)の正室、伊予国大洲藩主加藤泰興の正室(吉)、肥後国富岡藩主(後に天草の乱で改易)寺沢堅高の正室、そして大久保教勝(小田原藩家臣か)の正室となるなど 13 、それぞれ大名家や有力な武家へと嫁いでいる。

これらの婚姻政策は、岡部長盛個人のみならず、岡部家全体の地位の安定と、他の大名家との間に広範な姻戚ネットワークを形成する上で、極めて大きな効果をもたらしたと考えられる。特に、将軍家の養女という形で有力外様大名へ嫁いだ例は、岡部家が徳川幕府からいかに厚い信任を得ていたかを示すものであり、その後の岡部家の繁栄の礎となったと言えよう。

嫡男・岡部宣勝と岸和田藩岡部家の成立

寛永9年(1632年)に岡部長盛が死去すると、家督は嫡男である岡部宣勝が相続し、美濃大垣藩5万石の藩主となった 13 。宣勝もまた父同様、徳川幕府に忠勤を励み、その治世は父・長盛の築いた基盤の上に展開された。

宣勝の代になると、岡部家は再び移封を経験する。寛永10年(1633年)、宣勝は美濃大垣から播磨国龍野藩(現在の兵庫県たつの市)へ、さらに寛永13年(1636年)には摂津国高槻藩(現在の大阪府高槻市)へと、いずれも同じ5万石の石高で転封となった 9 。これらの頻繁な移封は、江戸時代初期の譜代大名にはしばしば見られたことであり、幕府による全国支配体制の調整や、適材適所の配置戦略の一環であったと考えられる。

そして寛永17年(1640年)、岡部宣勝は1万石の加増を受け、合計6万石で和泉国岸和田(現在の大阪府岸和田市)へ移封された 5 。これ以降、岡部家は幕末・明治維新に至るまで約230年間にわたり岸和田の地を治めることとなり、岸和田藩岡部家としての歴史を刻んでいくことになる。宣勝は岸和田において、さらなる外堀を築いて城下町を拡大するなど、藩政の基礎固めに尽力した 38 。後に、宣勝の子である行隆が藩主を継ぐ際に、弟たちに合計7000石を分与したため、岸和田藩の石高は5万3千石となった 38

宣勝の岸和田への配属は、大坂に近く、また紀州徳川家(徳川御三家の一つ)に対する抑えという戦略的な意味合いがあったとする説もある 10 。岡部長盛が生涯を通じて築き上げた徳川家からの信頼と数々の功績が、息子の宣勝の代になって岸和田という安定した所領に結実し、幕末まで続く大名家としての岡部家の盤石な基礎を固めたと言えるだろう。

結論:岡部長盛の生涯とその歴史的意義

岡部長盛の生涯を概観すると、彼は戦国時代の動乱期から江戸幕府の確立期にかけて、徳川家康の譜代家臣として一貫して忠誠を尽くし、主家の発展と幕藩体制の安定に大きく貢献した武将であったと評価できる。

第一に、徳川家康からの信頼の厚さと、譜代大名としての役割の重要性が挙げられる。家康がまだ三河の一大名であった頃からの旧臣ではないものの、父・正綱の代から徳川家に仕え、長盛自身は家督相続直後の小牧・長久手の戦いをはじめ、数々の重要な合戦において武功を重ね、その勇猛さと指揮能力を遺憾なく発揮した。その結果、家康の関東移封時には1万2千石を与えられて下総山崎に配され、関ヶ原の戦いでは後方の要衝である下野国黒羽城の守備を任されるなど、戦略上重要な役割を担った。その後も丹波亀山、丹波福知山、そして美濃大垣といった、いずれも畿内や交通の要衝に位置する藩の藩主を歴任したことは、家康および初期徳川幕府からの彼に対する深い信頼を如実に物語っている。長盛の生涯は、譜代大名が武力によってのみならず、戦略的な配置と領国経営を通じて、徳川政権の安定と拡大にいかに貢献したかを示す典型的な事例と言えるだろう。

第二に、武将として、また藩主としての長盛の多面的な能力が評価される。「岡部の黒鬼」と称されたほどの際立った武勇は、同時代においても高く評価され、敵にとっては脅威であった。その勇猛さは、徳川軍の戦力の中核を担うものであった。しかし、長盛は単なる武辺者ではなかった。丹波亀山における城郭の拡張や治水事業への関与、丹波福知山における「行儀三十一カ条」という法令の制定、美濃大垣における町割の再編など、各任地において領内経営にも着実な実績を残している。これらの事績は、彼が優れた統治能力をも備えていたことを示している。さらに、茶道に通じていたという記録は、武辺と文事を兼ね備えた、当時の理想的な武将像に近い人物であったことを示唆している。

岡部長盛が築いたこれらの武功、統治実績、そして徳川家との強固な信頼関係は、彼一代に留まらず、その子孫へと受け継がれた。嫡男・宣勝の代に和泉国岸和田藩主となり、以後、岡部家は幕末まで岸和田の地を治め、譜代大名としての家格を維持した。これは、長盛が築いた基盤がいかに強固なものであったかを示している。

総括すれば、岡部長盛は、戦国の動乱を生き抜き、主君・徳川家康の天下統一事業を助け、江戸幕府の成立と安定に多大な貢献を果たした、近世初期における模範的な譜代大名の一人として歴史にその名を刻んでいる。彼の生涯は、一個人の武勇伝であると同時に、徳川政権の統治戦略、譜代大名の役割、そして激動の時代を生きた武士の生き様を具体的に反映する、貴重な歴史的事例として位置づけることができる。

引用文献

  1. 譜代大名 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/fudaidaimyo/
  2. 譜代大名(フダイダイミョウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%AD%9C%E4%BB%A3%E5%A4%A7%E5%90%8D-124912
  3. 【歴史】江戸幕府の支配制度と身分制度 - 家庭教師のやる気アシスト https://www.yaruki-assist.com/tips/regular-exam/post-0046/
  4. 岡部長盛(おかべ ながもり)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%B2%A1%E9%83%A8%E9%95%B7%E7%9B%9B-1062239
  5. 下総山崎藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E7%B7%8F%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E8%97%A9
  6. 岡部正綱(おかべ まさつな)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%B2%A1%E9%83%A8%E6%AD%A3%E7%B6%B1-1062252
  7. 六百年さいへば三字なるも相當に長い年月 岸和田發達史 第二 同部時代の岸和田 https://www.city.kishiwada.lg.jp/uploaded/attachment/125055.pdf
  8. 泉光寺 | おじかくらぶ https://ameblo.jp/hanuru200204/entry-11655352192.html
  9. 岡部氏 (藤原南家) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E9%83%A8%E6%B0%8F_(%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%8D%97%E5%AE%B6)
  10. F011 岡部長盛 - 系図コネクション https://www.his-trip.info/keizu/%EF%BD%86011.html
  11. 亀岡城(丹波亀山城)の歴代城主 - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/193/memo/1216.html
  12. 亀山城 京都通百科事典 https://www.kyototuu.jp/Sightseeing/HistorySpotKameyamaJyo.html
  13. 岡部長盛 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E9%83%A8%E9%95%B7%E7%9B%9B
  14. 婆娑羅大名土岐頼遠とは?大活躍も酔って上皇に狼藉、その後と子孫は? - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/204296/
  15. 瑞巌寺 (岐阜県揖斐川町) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9E%E5%B7%8C%E5%AF%BA_(%E5%B2%90%E9%98%9C%E7%9C%8C%E6%8F%96%E6%96%90%E5%B7%9D%E7%94%BA)
  16. ぶらぶら岡部の郷 - 岸ぶら https://kishibura.jp/sotokara/2020/04/okabe/
  17. 岡部長盛 長久手の戦いで名を馳せた普請大名 - 亀岡市公式ホームページ https://www.city.kameoka.kyoto.jp/soshiki/4/1516.html
  18. 戦国!室町時代・国巡り(19)駿河編|影咲シオリ - note https://note.com/shiwori_game/n/na194c52e2caa
  19. 練馬区史 歴史編 https://www2.i-repository.net/contents/myc/text_2rekishihen/rekishihen_honcho4.xhtml
  20. 徳川四天王の家に行った - 歩き旅応援舎ホームページ https://arukitabi.biz/blog/20230825/
  21. 亀山藩家臣のご先祖調べ https://www.kakeisi.com/han/han_kameyama.html
  22. 丹波福知山城(明智光秀由縁の城) https://tangonotimei.com/amata/hukytiyamajyo.html
  23. 小津330年のあゆみ・第二章 https://www.ozuwashi.net/330/006a.html
  24. 時評:御成敗式目と武家諸法度 | 社会包摂デザイン・イニシアティブ - 九州大学 https://www.didi.design.kyushu-u.ac.jp/shikimoku/
  25. 大垣藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9E%A3%E8%97%A9
  26. 【なにぶん歴史好きなもので】戦国大名今川氏、武田氏を支えた地元の武士団を深掘り!「戦国武将岡部氏と朝比奈氏」展に行ってきました/藤枝市郷土博物館 - アットエス https://www.at-s.com/life/article/ats/1592177.html
  27. 真壁氏幹-最強の剣豪・剣士/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/73542/
  28. 森長可と名刀「人間無骨」の逸話/ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/anecdote-sword/morinagayoshi-ningenmukotsu/
  29. 赤備えと黒備えの”MRーG”対決! | STAFF BLOG - BASIS SPECIES https://www.basisspecies.jp/blog/staff-blog/2019/11/11/%E8%B5%A4%E5%82%99%E3%81%88%E3%81%A8%E9%BB%92%E5%82%99%E3%81%88%E3%81%AE%EF%BD%8D%EF%BD%92%E3%83%BC%EF%BD%87%E5%AF%BE%E6%B1%BA%EF%BC%81/
  30. 『黒備え』MRG-G2000CB-1AJR 再入荷!!-G-SHOCK- | プリベ石川|愛媛県(松山・新居浜)で腕時計 https://prive.co.jp/prive_blog/9990/
  31. 人形の平安大新 / 鎧兜の名称 https://www.heiandaishin.com/user_data/about/armorparts
  32. 著名な武将の甲冑/ホームメイト https://www.touken-collection-kuwana.jp/armor-basic/busyo-kattyu/
  33. 武士道:日本人精神的理论基础 - nippon.com https://www.nippon.com/cn/japan-topics/g00665/
  34. 武士道- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E6%AD%A6%E5%A3%AB%E9%81%93
  35. File:Okabe Nagamori.jpg - 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/wiki/File:Okabe_Nagamori.jpg
  36. 岡部宣勝とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%B2%A1%E9%83%A8%E5%AE%A3%E5%8B%9D
  37. 大垣藩(おおがきはん)[岐阜県] /ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/edo-domain100/oogaki/
  38. 13代にわたった岡部藩政時代・岸和田の産業を切り拓いた寺田財閥|わがまちヒストリー https://www.city.kishiwada.lg.jp/kinenshi/m100th_p12-13.html