岩城貞隆は、戦国時代の終焉から江戸時代初期にかけての激動の時代を生きた武将である。彼の生涯は、当時の武家が経験した浮沈の様相を色濃く映し出している。佐竹氏の一族として生まれながら岩城家の家督を継ぎ、豊臣政権下で大名としての地位を確立するも、関ヶ原の戦いを巡る政情の変化によって所領を没収され、浪人の身へと転落する。しかし、不屈の精神をもって再起を期し、大坂の陣での武功により再び大名へと返り咲いた。その波乱に満ちた生涯は、個人の武勇や才覚のみならず、本家や姻戚関係にある有力大名の動向、そして天下統一を進める中央政権の政策という、外部からの強大な力によって大きく左右されたものであった。これは、戦国末期から江戸初期にかけて多くの地方領主が直面した厳しい現実であり、貞隆の事例は、この時代の権力構造の転換期における武家の生き様を理解する上で、一つの典型と言えよう。
本報告書は、岩城貞隆の出自から、岩城家相続、関ヶ原の戦いにおける失脚、浪人生活、そして大名としての復帰、さらには彼の子孫による岩城家の存続に至るまでを、現存する史料に基づいて詳細に追うことを目的とする。彼の人生の軌跡を辿ることを通じて、戦国末期から近世初頭という時代の特性と、その中で武家がいかにして「家」の存続を図ったのかを考察する。
表1:岩城貞隆 略年表
年月 |
主な出来事 |
関連資料 |
天正11年(1583年) |
佐竹義重の三男として誕生 |
1 |
天正18年(1590年) |
岩城常隆の養嗣子となり家督相続、豊臣秀吉より磐城平12万石を安堵される |
1 |
慶長5年(1600年) |
関ヶ原の戦い。兄・佐竹義宣の意向により、東軍(徳川家康方)への明確な加勢をせず、上杉景勝征伐にも不参加。 |
2 |
慶長7年(1602年) |
関ヶ原の戦い後の処置により改易。磐城平12万石の所領を全て没収され、浪人となる。 |
2 |
慶長7年~元和元年頃 |
江戸浅草などで浪人生活を送る。 |
5 |
慶長20年/元和元年(1615年) |
大坂夏の陣に本多正信の配下として参陣し、戦功を挙げる。 |
7 |
元和2年(1616年) |
大坂夏の陣での戦功により、信濃国中村(川中島)に1万石を与えられ、大名として復帰。 |
1 |
元和6年(1620年)10月19日 |
信濃中村にて死去。享年38(数え年)。 |
1 |
この年表は、貞隆の生涯における主要な転換点を時系列で示しており、彼の複雑な経歴を概観する助けとなるであろう。各出来事の詳細は、本報告書の各章で詳述する。
岩城貞隆の生涯の初期は、彼自身の意思とは別に、周辺の有力大名、特に実家である佐竹氏の戦略に深く組み込まれる形で展開した。
岩城貞隆は、天正11年(1583年)、常陸国(現在の茨城県)の有力戦国大名であった佐竹義重の三男として生を受けた 1 。幼名は能化丸と伝えられている 1 。父・義重は「鬼義重」の異名を持つ猛将であり、佐竹氏の勢力を北関東から南陸奥へと拡大させた人物である。
一方、貞隆が養子に入ることになる岩城氏は、平安時代末期に常陸平氏の一族である平国香の子孫・則道が陸奥国岩城郡(現在の福島県浜通り南部)に土着したことに始まるとされる古い家柄である 9 。鎌倉時代以降、岩城郡内で一族が分立したが、15世紀にはその中の一派である白土氏が宗家を統合し、戦国大名としての地位を確立した 10 。貞隆の曾祖父は岩城重隆であり 2 、重隆の娘・久保姫は伊達晴宗に嫁ぎ、伊達政宗の祖母となっている。このように、岩城氏は周辺の伊達氏や佐竹氏と婚姻関係を結びつつ、独立を保ってきた。
貞隆が岩城家の養子となる直接の契機は、天正18年(1590年)、岩城氏第17代当主・岩城常隆が病死したことであった 1 。常隆は豊臣秀吉の小田原征伐に参陣した帰途に病没したとされる。常隆には実子(後の伊達磐城守)がいたものの、常隆の死後に生まれたためか、あるいは当時、岩城氏に対して強い影響力を行使しつつあった佐竹氏の政治的圧力により、佐竹義重の三男である貞隆が、わずか8歳で岩城常隆の養嗣子として迎えられ、岩城家の家督を継承することとなったのである 3 。この養子縁組は、佐竹義重が実子がいたにも関わらず貞隆を岩城家の当主に据えたものであり、実質的に岩城家12万石を佐竹氏の影響下に置こうとする戦略の一環であったと見なすことができる 3 。幼少の貞隆が当主となることで、実家である佐竹義重・義宣親子が岩城領の経営に深く関与し、その支配を強化する意図があったことは想像に難くない。
天正18年(1590年)、岩城常隆の死去に伴い、岩城貞隆は岩城家の家督を相続した 1 。この家督相続は、天下統一を進めていた豊臣秀吉によって正式に承認され、岩城氏の旧領である磐城平12万石の所領も安堵された 1 。これは、秀吉による奥州仕置後の新たな秩序の中で、岩城氏が豊臣政権下の大名として正式に組み込まれたことを意味する。
しかし、この所領安堵は、岩城氏の独立性を完全に保障するものではなかった。むしろ、佐竹氏の影響下にある岩城領の実態を豊臣政権が公認した形であり、佐竹氏にとっては自らの勢力圏の維持・拡大を豊臣政権から追認されたという意味合いも持っていたと考えられる。豊臣政権は、全国の大名をその支配体制に組み込むにあたり、既存の地域勢力間の力関係を巧みに利用し、安定的な統治構造を構築しようとした。岩城氏の事例は、その一端を示すものと言えよう。
当時の岩城氏は、北に奥羽の覇権を狙う伊達政宗、南に実家であり強大な勢力を持つ佐竹氏という二大勢力に挟まれた、地政学的に困難な立場に置かれていた。貞隆の養父・常隆の父である岩城親隆は、伊達晴宗の長男として生まれ、岩城重隆の養子となった人物であり、一時は伊達氏との関係が深かった 12 。しかし、親隆の妻は佐竹義昭の娘であり、次第に佐竹氏の影響力が強まっていた。佐竹氏と伊達氏は、奥羽地方の覇権を巡って激しく対立しており、岩城氏はその間で揺れ動くことを余儀なくされていたのである 3 。貞隆の家督相続は、この佐竹氏の対伊達戦略、そして奥羽支配戦略の中に、岩城氏がより深く組み込まれていく過程を象徴する出来事であった。
豊臣秀吉の死後、天下の情勢は徳川家康を中心とする勢力と、反家康勢力との間で急速に緊張を高めていった。この対立が頂点に達したのが慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いであり、この戦いにおける岩城貞隆の動向は、彼の運命を大きく左右することになる。
関ヶ原の戦いが勃発すると、全国の大名は徳川家康率いる東軍につくか、石田三成らを中心とする西軍につくかの選択を迫られた。岩城貞隆は、当初は東軍、すなわち徳川家康方に味方する姿勢を示していたとされる 2 。
しかし、貞隆の行動に大きな影響を与えたのが、実兄であり佐竹本家の当主である佐竹義宣の動向であった。義宣は、石田三成と個人的に親交が深く、豊臣政権下での恩顧もあって、家康に対して明確な敵対姿勢こそ取らなかったものの、東軍への積極的な加担を躊躇した 3 。家康が会津の上杉景勝討伐の軍を起こした際、周辺の大名に出陣を命じたが、義宣はこの要請に応じず、北関東の自領に留まり、中立的な態度を維持しようとした 3 。
この佐竹本家の動向は、その影響下にあった岩城貞隆の行動を強く規定した。貞隆は、兄・義宣の命令、あるいはその強い意向に従い、家康方としての上杉景勝征伐に参加しなかったのである 2 。結果として、関ヶ原の本戦においても、岩城氏は東軍として明確な軍事行動を起こすことなく、戦いは東軍の圧倒的な勝利に終わった。この一連の行動が、戦後の徳川政権による論功行賞において、貞隆にとって致命的な結果を招くことになる。
関ヶ原の戦いが徳川家康の勝利に終わると、戦後処理が開始された。佐竹義宣は、その曖昧な態度を徳川家康に咎められ、慶長7年(1602年)、常陸国水戸54万石から出羽国秋田20万石へと大幅に減転封された 8 。大大名であった佐竹氏は改易こそ免れたものの、その勢力は大きく削がれることとなった。
一方、岩城貞隆に対する処分は、佐竹本家よりもはるかに厳しいものであった。貞隆は、義宣と同様に家康への不加担を理由とされながらも、佐竹家が減封で済んだのに対し、磐城平12万石の所領を全て没収され、改易の処分を受けたのである 2 。これにより、貞隆は大名の地位を失い、一介の浪人へと転落した。
この厳しい処分の背景には、いくつかの要因が考えられる。まず、貞隆が佐竹氏の分家、あるいは与力大名と見なされ、本家よりも懲罰的な意味合いを込めて厳しく処断された可能性である。徳川政権としては、態度を明確にしなかった大名に対し、その勢力や影響力に応じて処分の軽重を調整することで、新体制への服従を効果的に促そうとした。佐竹本家のような大大名を取り潰すことは政治的リスクが大きい一方、その影響下にあった貞隆のような大名に対しては、より厳しい処分を下すことで、他の大名への「見せしめ」とする意図があったのかもしれない。
さらに、岩城氏の旧領である磐城平が、伊達政宗の領する仙台藩と、徳川譜代の有力大名が配置されることになる水戸藩との間に位置する戦略的要衝であったことも見逃せない。徳川家康は、奥羽の雄である伊達政宗の勢力伸長を常に警戒しており、磐城平に信頼できる譜代大名を配置することで、対伊達政策の拠点を確保し、この地域への直接的な影響力を強化しようとしたと考えられる。事実、貞隆の改易後、磐城平には徳川譜代の鳥居忠政が入封し、新たに磐城平城を築城しているが、この城の主な目的の一つは伊達政宗への牽制であったとされている 17 。したがって、貞隆の改易は、単なる懲罰という側面だけでなく、徳川政権の東北地方におけるより大きな地政学的戦略の中で決定された部分が大きかったと言えよう。
この不当とも思える厳しい処分に対し、貞隆は激しく憤慨し、兄・義宣に徳川への反抗、すなわち挙兵を促したと伝えられているが、義宣はこれを拒絶した 2 。これにより、岩城氏の旧居城であった飯野平城(大館城)は主を失い 19 、鳥居忠政による磐城平城築城に伴って廃城となった 18 。岩城氏の栄華は、ここに一旦終焉を迎えたのである。
関ヶ原の戦後の処置により磐城平12万石を没収され、改易となった岩城貞隆は、一転して不遇の時代を送ることになる。しかし、彼はその苦境の中で再起の道を模索し、ついに大名への復帰を果たす。
慶長7年(1602年)に所領を失った岩城貞隆は、一部の家臣を伴って江戸へ上り、浪人としての生活を余儀なくされた 4 。かつて12万石の大名であった身からすれば、その困窮は察するに余りあるものであっただろう。「岩城貞隆浅草御浪人中随身諸士名元覚の四十二士」という記録が残っており 21 、江戸の浅草周辺で、彼に付き従った家臣たちと共に、苦しいながらも再起の機会を窺っていた様子が偲ばれる。
主家が改易となれば、家臣たちもまたその禄を失い、路頭に迷うことになる。岩城家の旧家臣の中には、新たな仕官先を求めて、かつての隣国であり、時には緊張関係にあった伊達政宗に仕えたり、あるいは岩城氏の旧領に入った鳥居忠政に仕官したりする者も少なくなかった 4 。これは、主家改易後の家臣たちが直面した厳しい現実と、生き残りのための必死の選択を示すものである。そのような状況下にあっても、貞隆のもとに留まり続けた家臣がいたという事実は、彼の人徳や、あるいは岩城家再興への強い期待感の表れであったのかもしれない。この主従の絆は、近世初期における武士の「家」の存続にかける執念を物語るものと言えよう。
浪人生活を送りながらも再起を目指していた貞隆に、転機が訪れる。幕府の重臣であった土井利勝の取り計らいにより、徳川家康に岩城家再興を嘆願する機会を得て、家康の側近中の側近であった本多正信の配下となったと伝えられている 8 。本多正信の庇護下に入ったことは、貞隆にとって再興への大きな足がかりとなった。
そして慶長19年(1614年)からの大坂の陣は、貞隆にとってその武勇を示す絶好の機会となった。慶長20年(元和元年、1615年)の大坂夏の陣において、貞隆は本多正信の組下として参陣し、奮戦して戦功を挙げたのである 7 。この戦功が、彼の運命を再び好転させる直接的な要因となった。
大坂夏の陣における戦功が認められ、岩城貞隆は元和2年(1616年)、信濃国川中島四郡の一角(現在の長野県下高井郡木島平村中村周辺)に1万石の所領を与えられ、大名としての地位に復帰を果たした 1 。関ヶ原の戦いで改易されてから実に15年近くの歳月が流れており 3 、その間の苦難を乗り越えての奇跡的なカムバックであった。
この大名復帰の背景には、大坂の陣での貞隆自身の武功が最も大きな要因であったことは間違いない。しかし、それだけではなく、徳川秀忠政権を支えた本多正信への日頃の奉公や、実兄である出羽秋田藩主・佐竹義宣からの幕府への働きかけなど、複数の要因が複合的に作用した結果であったと考えられている 7 。
貞隆の大名復帰は、単に一個人の武功に対する恩賞という側面だけでなく、より大きな文脈の中で捉えることができる。大坂の陣が終結し、徳川幕府の支配体制が盤石なものとなりつつあったこの時期、幕府はかつて敵対、あるいは中立的な立場を取った勢力であっても、その実力や忠誠心次第で積極的に取り込み、体制の安定と強化を図ろうとしていた。本多正信のような幕府中枢の実力者が貞隆を推挙したことは、個人の能力を評価し、それを活用しようとする幕府のプラグマティズムの一端を示すものと言えるだろう。また、佐竹本家との関係改善といった政治的配慮も、貞隆の再登用に影響した可能性も否定できない。こうして、岩城貞隆は再び歴史の表舞台にその名を刻むことになったのである。
信濃国中村において1万石の大名として復帰した岩城貞隆であったが、その治世は長くは続かなかった。しかし、彼の奮闘によって再興された岩城家は、その子孫によって形を変えながらも近世を通じて存続していくことになる。
信濃中村藩主として約4年間の統治を行った後、岩城貞隆は元和6年(1620年)10月19日に死去した 1 。享年は38歳(数え年)であり、志半ばでの早すぎる死であった。
貞隆の死後、家督は慶長4年(1609年)生まれの嫡男・岩城吉隆(幼名は修理大夫)が継承し、信濃中村1万石の領主となった 22 。吉隆は当時まだ12歳であった。
吉隆が家督を相続して間もない元和8年(1622年)、転機が訪れる。出羽国山形藩主であった最上氏が改易されたことに伴い、その旧領の一部であった出羽国由利郡内に1万石を加増されたのである 22 。これにより、岩城家の所領は合計2万石となった。
そして翌元和9年(1623年)、吉隆は信濃国中村の領地を幕府に収公され、その替地として先の加増地である出羽国亀田(現在の秋田県由利本荘市岩城亀田)へ政庁を移すことになった 13 。これによって、出羽亀田藩2万石が成立し、岩城吉隆がその初代藩主となった。亀田藩の領域は、現在の由利本荘市の岩城・大内地域を中心に、本荘地域の一部、さらには秋田市や大仙市の一部にも及ぶ広大なものであった 13 。
移封当初、岩城氏は大名の格式としては城を持つことを許されない「無城格」であったため、高城山の北麓、現在の亀田城美術館の隣接地に藩の政庁と藩主の居館を兼ねた「亀田陣屋」を構え、ここを中心に藩政を執り行った 13 。岩城氏が城主格となり、陣屋を「亀田城」と称することができるようになるのは、時代が下った幕末の嘉永5年(1852年)のことである。
亀田藩初代藩主となった岩城吉隆の運命は、さらに大きく動く。寛永5年(1628年)、吉隆は伯父にあたる久保田藩(秋田藩)の初代藩主・佐竹義宣の養嗣子として迎えられ、名を佐竹義隆と改め、久保田藩20万石の第2代藩主を継承することになったのである 13 。これは、佐竹本家の血筋を絶やさず、安定した藩政を継続するための重要な措置であった。岩城貞隆の血は、こうして佐竹本家にも受け継がれることになった。
吉隆が佐竹本家を継いだため、空位となった亀田藩の藩主には、佐竹義宣の実弟であり、貞隆にとっては叔父にあたる多賀谷宣家が、岩城宣隆と名を改めて養子として入り、亀田藩第2代藩主となった 13 。これにより、岩城家は亀田の地で藩主家として存続することが確定した。この後も、亀田藩の初期の藩政においては、検地の実施や城下町の建設など、佐竹本家による全面的な支援が見られた。
しかし、この関係は必ずしも平穏なものではなかった。久保田藩は亀田藩を実質的な支藩として扱おうとし、キリシタン取締などの諸法度を亀田藩にも適用させるなど、藩経営が安定した後も藩政への介入を続けることがあった 22 。特に、久保田藩の年貢米輸送の重要なルートであった雄物川の一部が亀田藩領を通過していたため、亀田藩がこの川船に対して課税しようとした際には「雄物川一件」と呼ばれる激しい対立が生じ、両藩間の相互不信を招くこともあった 22 。
それでも、岩城氏は幕末に至るまで亀田藩主として存続し、明治維新を迎えた 10 。その間、亀田藩では新田開発や、酒造業、製麺業、織物業といった殖産興業の振興に力が注がれた。また、学問も奨励され、藩校として「長善館」、医学校として「上池館」が設置されるなど、人材育成にも努めた記録が残っている 13 。亀田の龍門寺は、岩城家の菩提寺として歴代藩主の墓所が置かれ、今日にその歴史を伝えている 24 。
岩城吉隆の佐竹本家相続は、岩城家にとっては血筋が本家と一体化することを意味し、一方で亀田藩岩城家は佐竹一門としての色彩をより強めることになった。これは、小藩が大藩との関係性の中で家の存続を図るための一つの戦略であり、江戸時代の藩体制における「家」の存続の多様な形態を示す事例と言える。関ヶ原の戦いで改易された大名家が、形を変えながらも近世を通じて家名を保ち続けた岩城家の歴史は、貞隆の不屈の精神と武功、そしてその後の子孫や佐竹本家との複雑な関係性が絡み合った結果であり、徳川幕府の支配体制下における「家」の存続のあり方について、多くの示唆を与えてくれる。
岩城貞隆の生涯は、佐竹家からの養子入りに始まり、若年での岩城家家督相続、豊臣政権下での大名としての地位、そして関ヶ原の戦いを巡る不運とそれに続く改易という大きな挫折を経験した。しかし、彼は15年近くに及ぶ浪人生活にも屈することなく、大坂の陣での戦功によって奇跡的とも言える大名への復帰を果たし、その後の岩城家が亀田藩として存続していくための道筋をつけた。
歴史における岩城貞隆の評価は、まず第一に、時代の大きな波に翻弄されながらも、不屈の精神力で再起を成し遂げた武将として記憶されるべきであろう。彼の人生は、実家である佐竹本家の意向に大きく左右されるなど、戦国末期から江戸初期における中小大名が抱えた苦悩と葛藤を体現している。自らの意思だけではどうにもならない大きな力の奔流の中で、いかにして家名を保ち、再興を果たすかという課題に、彼は生涯をかけて向き合った。
貞隆自身の人物像について詳細に伝える史料は限られており( 28 、 29 は直接的な評価ではない)、その性格や具体的な統治能力などを詳細に知ることは難しい。しかし、改易という絶望的な状況下にあっても彼を見捨てずに付き従った家臣たちがいたこと( 21 の「四十二士」など)、そして最終的に大名復帰を成し遂げたという事実そのものが、彼が困難な状況下でも諦めない粘り強さや、あるいは家臣を惹きつける何らかの指導力や人徳を備えていた可能性を示唆している。
岩城貞隆の生涯は、近世初期における「家」の存続という、武士階級にとって至上命題とも言える課題に対し、個人の武勇や政治的才覚、そして巡り合わせといった「運」がいかに複雑に絡み合って影響したかを示す好例である。彼の物語は、単なる一個人の浮沈の記録を超えて、徳川幕藩体制が確立していく過渡期における社会の流動性と、その中で生きる人々の強靭さ、そして「家」を繋いでいくことへの執念を浮き彫りにする。彼の存在と行動が、結果として岩城氏の血脈を(亀田藩岩城家として、また佐竹本家を通じて)江戸時代を通じて存続させることに繋がったという事実は、彼の歴史的意義を物語る上で最も重要な点と言えるだろう。
表2:岩城貞隆 関係主要人物一覧
氏名 |
貞隆との関係 |
備考(関連資料など) |
佐竹義重 |
実父 |
常陸国の戦国大名。「鬼義重」として知られる。 1 |
佐竹義宣 |
実兄 |
佐竹家当主。関ヶ原の戦いでの中立的態度が貞隆の運命にも影響。後に久保田藩(秋田藩)初代藩主。 2 |
岩城常隆 |
養父 |
岩城家17代当主。貞隆が家督を継ぐ。 1 |
豊臣秀吉 |
天下人 |
貞隆の岩城家相続と磐城平12万石の所領を安堵。 1 |
徳川家康 |
江戸幕府初代将軍 |
関ヶ原の戦後処理で貞隆を改易。後に大坂の陣での戦功を認め、大名復帰を許す。 6 |
本多正信 |
徳川家康・秀忠の側近 |
貞隆の浪人時代に庇護し、大坂の陣での活躍を助け、大名復帰に尽力。 7 |
岩城吉隆(佐竹義隆) |
嫡男 |
貞隆の死後、信濃中村藩を継承。後に出羽亀田藩初代藩主。さらに佐竹義宣の養子となり久保田藩2代藩主。 13 |
鳥居忠政 |
徳川譜代大名 |
貞隆改易後の磐城平に入封し、磐城平城を築城。 17 |
伊達政宗 |
陸奥国の戦国大名 |
仙台藩初代藩主。岩城氏とは隣接し、緊張関係にあった。 4 |
岩城宣隆(多賀谷宣家) |
貞隆の叔父(佐竹義宣の実弟) |
岩城吉隆が佐竹本家を継いだ後、亀田藩2代藩主となる。 22 |