戦国時代の薩摩を語る時、その名は島津貴久、そして彼の息子たちである義久、義弘、歳久、家久の「島津四兄弟」の輝かしい武勲の陰に隠れがちである。島津尚久(しまづ なおひさ)。彼について一般に知られるのは、「島津忠良の三男」「鹿籠(かご)領主」「武勇に秀でたが、若くして病死した」といった、あまりにも断片的な情報に過ぎない 1 。
しかし、現存する史料を丹念に読み解く時、その人物像は遥かに複雑で、かつ重要な光を放ち始める。彼の生涯は、島津氏が薩摩・大隅・日向の三国を統一する激動の時代と完全に重なり、その事業において極めて重要な軍事的役割を担っていた。それだけではない。薩摩半島南西の要衝、坊津(ぼうのつ)を拠点に、当時の東アジアを席巻した倭寇の活動とも深く関わる、もう一つの顔を持っていた可能性が浮かび上がってくるのである。
本報告書は、これらの断片的な記録を体系的に整理・分析し、陸の勇将として、そして海の領主としての尚久の多面的な実像に迫るものである。さらに、彼の早すぎる死をめぐる謎と、彼が後世に残した確かな遺産について、史料に基づき徹底的に考察する。
西暦 |
元号 |
年齢 |
島津尚久の動向 |
島津家および国内外の主要動向 |
1531 |
享禄4 |
1歳 |
1月15日、島津忠良の三男として誕生 1 。 |
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1537 |
天文6 |
7歳 |
兄・貴久の軍勢に初めて同行する 1 。 |
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1539 |
天文8 |
9歳 |
市来攻めに同行する 1 。 |
紫原の戦いで貴久方が勝利し、薩州家を圧倒 4 。 |
1551 |
天文20 |
21歳 |
嫡男・忠長が鹿籠にて誕生する 5 。 |
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1554 |
天文23 |
24歳 |
岩剣城攻めに加治木勢として出陣。10月1日夜、伏兵として城近くに潜む 1 。 |
島津氏、岩剣城を攻略し、薩摩統一に大きく前進。 |
1555 |
天文24 |
25歳 |
3月、帖佐での戦いで兄・忠将と共に祁答院氏・菱刈氏を破る 1 。 |
(この頃、倭寇の頭目「陳東」が中国沿岸で活動 1 ) |
1556 |
弘治2 |
26歳 |
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倭寇の頭目・徐海水軍が陳東の攻撃により壊滅 1 。 |
1557 |
弘治3 |
27歳 |
「賊舶のこと」(倭寇鎮圧)を朝廷に上言し、将軍義輝より賞され、後奈良天皇から綸旨を賜る 9 。 |
蒲生城が落城し、島津氏が薩摩をほぼ統一 10 。 |
1559 |
永禄2 |
29歳 |
松山城攻めなどで活躍 1 。 |
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1561 |
永禄4 |
31歳 |
6月、大隅国・廻城奪回戦に出陣。7月、同合戦で兄・忠将が戦死する 9 。 |
肝付氏との対立が激化。 |
1562 |
永禄5 |
32歳 |
3月1日、死去。憤死説も伝わる 1 。家臣・尾辻佐左衛門が殉死 13 。 |
同年、鄭若曽『籌海図編』が完成 1 。 |
島津尚久は、享禄4年(1531年)1月15日、島津忠良(ただよし、後の日新斎)と側室・桑御前(くわごぜん、上木貞時の娘)の子として生を受けた 1 。幼名を鎌安丸(かまやすまる)、通称を又五郎と称した 1 。
彼の生きた時代は、島津宗家である奥州家(おうしゅうけ)の権威が失墜し、一門や有力国人衆が領地をめぐり相争う、混乱の極みにあった。尚久の父・忠良は、島津氏の分家である伊作家(いざくけ)の出身であったが、同じく分家の相州家(そうしゅうけ)当主・島津運久の養子となり、その家督を継承する 14 。さらに忠良は、自らの嫡男であり尚久の長兄にあたる貴久(たかひさ)を、弱体化した宗家14代当主・島津勝久の養子とすることで、一族再興の活路を見出したのである 18 。
この一連の複雑な家督継承は、当然ながら他の有力分家、特に薩州家(さっしゅうけ)当主・島津実久(さねひさ)の猛烈な反発を招き、島津家は血で血を洗う内戦状態に突入した 4 。尚久の幼少期から青年期は、まさに父・忠良と兄・貴久が、武力によって島津家の主導権を確立していく激動の過程そのものであった。
尚久の存在意義は、この島津家内部の権力闘争と分かちがたく結びついている。忠良と貴久は、正統な後継者ではなく、分家から実力で宗家の地位を掌握した、いわば「簒奪者」に近い存在であった。そのため、彼ら伊作・相州家の一族は、常に他の分家からの挑戦に晒されるという極めて不安定な立場に置かれていた。このような状況下で、貴久、忠将、そして尚久という三兄弟の結束は、単なる家族の絆以上に、自らの家系の存亡をかけた政治的・軍事的な共同体を形成する上で不可欠であった。尚久がわずか7歳にして兄の軍勢に同行したという記録は、この一族が置かれた厳しい状況と、幼少期から彼に課せられていた軍事的役割の重さを物語っている 1 。彼の武功の一つ一つが、兄・貴久の正統性を武力で裏付け、内外に示すための重要な要素だったのである。
尚久には、島津宗家を継いだ同腹の兄・貴久のほかに、異腹の兄(忠良と正室・寛庭夫人の子)で相州家を継いだ忠将(ただまさ)がいた 12 。この兄弟間には、貴久を中心とした戦略的な役割分担があった可能性が指摘されている。
近年の研究では、次兄・忠将は「脇之惣領(わきのそうりょう)」と位置づけられ、宗家当主である貴久に万一のことがあった場合、その後継者となるべき立場にあったとされる 23 。これは、内紛の絶えなかった島津家において、一族の安定的な継承を担保する極めて重要な役目であった。
一方で尚久は、薩摩半島南西の要衝である鹿籠(現在の枕崎市)と、国際貿易港である坊津の領主であった 1 。この所領の配置は、彼の役割を暗示している。忠将が貴久政権の「内」の安定、すなわち後継者としての役割を担ったのに対し、尚久は「外」への窓口を任されたと考えられる。坊津は古くから倭寇の拠点であり、琉球や明との交易、さらにはポルトガル船来航の舞台ともなった国際港であった 26 。このような経済的・情報的に重要な拠点を実弟である尚久に任せたのは、島津氏の財政基盤と海外情報を直接掌握するという、兄・貴久の明確な戦略的意図があったと推察される。すなわち、忠将が「陸の守り」と家中の安定を、尚久が「海の守り」と対外的な繋がりをそれぞれ分担し、貴久を頂点とする高度な統治体制が敷かれていたのではないか。
尚久の軍歴は驚くほど早く始まる。天文6年(1537年)、わずか7歳で兄・貴久の軍勢に同行し、天文8年(1539年)の市来攻めにも従軍している 1 。これは単なる元服前の見学ではなく、彼が幼少期から戦場の空気に晒され、次代を担う武将として厳しく育てられたことを示している。
彼の武将としての評価を決定づけた戦いの一つが、天文23年(1554年)の大隅国・岩剣城攻めである。この城は三方を断崖に囲まれた天然の要害であり、祁答院良重(けどういん よししげ)が立て籠もっていた。島津氏の薩摩統一における最大の難関の一つであったこの戦いにおいて、尚久は重要な役割を果たした。『岩剣合戦日記』によれば、総攻撃の前夜にあたる同年10月1日の夜、尚久は一軍を率いて城近くに潜み、伏兵としての任にあたった 7 。翌日の総攻撃で島津軍は祁答院・蒲生氏の連合軍を打ち破り、岩剣城を攻略。この勝利によって、島津氏は薩摩統一へと大きく前進した。尚久の働きは、この重要な戦局において戦術的な成功に貢献するものであった。
岩剣城攻めの翌年、天文24年(1555年)3月には、帖佐(ちょうさ、現在の姶良市)での戦いで、次兄・忠将と共に敵陣に攻めかかり、宿敵である祁答院氏・菱刈氏を敗走させる武功を挙げた 1 。
さらに永禄2年(1559年)には、日向国の伊東氏との勢力争いの最前線であった松山城の救援戦でも活躍するなど、島津氏の勢力拡大に伴う主要な合戦のほとんどに参加し、兄・貴久の覇業を武力で支え続けた 1 。
尚久個人の武勇を伝える逸話は複数存在する。各種の記録によれば、「五尺余(約150センチメートル以上)の大太刀を振るい、弓の達人でもあった」とされ、個人の武芸に極めて秀でていたことが窺える 1 。特に弓の腕前は、猪すら一撃で仕留めるほどであったと賞賛されている 29 。
また、江戸時代後期の編纂物である『薩州旧伝集』には、「島津尚久は大男」という項目があり、体格に恵まれた威風堂々たる武将であったことが伝承として残っている 30 。同書には「島津尚久の謡」という項目も見られ、武辺一辺倒ではなく、謡曲などの文化的素養も持ち合わせていた可能性が示唆される 30 。
これらの記録を総合すると、尚久の武功は、単なる個人の勇猛さだけではなく、戦術的な役割を的確にこなす知性を兼ね備えていたことを示している。岩剣城での伏兵としての働きは、猪武者ではなく、戦況を冷静に読み、与えられた命令を忠実に実行する判断力があったことを物語る 7 。大太刀や弓の達人という伝承は、当時の武将に求められた個人の武芸の高さと、戦場での存在感を想起させる。彼は、父・忠良や兄・貴久の描く戦略を、最前線で具現化する信頼に足る野戦指揮官であり、その活躍は島津軍の戦闘力を支える重要な柱の一つであったと言えよう。
尚久の所領は、薩摩半島南端の鹿籠(現在の鹿児島県枕崎市)と坊津であった 1 。彼の居城は鹿籠の桜之城(別名:山之城)とされている 9 。
特に坊津は、遣唐使の時代から知られた天然の良港であり、戦国時代には琉球や明との公式・非公式な交易、そして「後期倭寇」と呼ばれる国際的な海上勢力の活動拠点として、大きな賑わいを見せていた 26 。この地を治めることは、島津氏の財政と情報網を支える上で死活的に重要であった。尚久は、この混沌としつつも活気に満ちた海の世界を差配する役割を、兄・貴久から任されていたのである。
島津尚久という人物像を最も複雑にし、歴史的な興味を掻き立てるのが、中国・明代の地理書『籌海図編』(1562年完成)の記述である 1 。
この書物は、16世紀に中国沿岸を荒らした後期倭寇について詳述しているが、その中で、倭寇の大頭目である徐海(じょかい)の同盟者として活動し、後にその徐海水軍を壊滅させたとされる日本人倭寇の頭目「陳東(ちんとう)」について、驚くべき記述を残している。それは、陳東が「薩摩州君の弟、書記を掌せる酋」であったというものである 1 。当時の「薩摩州君」、すなわち薩摩の国主は兄の島津貴久であり、その「弟」となれば、尚久を指している可能性が極めて高い。
この記述から、「島津尚久=倭寇の頭目・陳東」という大胆な説が生まれている。尚久が「坊津を基地とする海賊衆を束ねていた」という日本側の伝承も、この説を補強するように見える 1 。
しかし、この説には大きな矛盾点も存在する。陳東が中国沿岸で活発に活動していたとされる嘉靖34年から35年(日本の弘治元年~2年、1555~1556年)の間、尚久は帖佐合戦など薩摩国内の戦いに参加しており、物理的に中国沿岸で倭寇の大頭目として活動することは困難であったという指摘がある 31 。
倭寇の頭目説とは全く逆の側面を示す史料も存在する。『本藩人物誌』などの記録によれば、弘治3年(1557年)、尚久は「賊舶のこと」(倭寇の船に関する事柄)について朝廷へ上言した 9 。この報告と彼の働きが将軍・足利義輝に評価され、後奈良天皇から綸旨(りんじ、天皇の命令書)を賜ったとされるのである 9 。
これは、尚久が倭寇の活動を取り締まり、海上の秩序維持に貢献したことで、中央の権威から公式にその功績を認められたことを意味する。倭寇の頭目と目される人物が、同時にその鎮圧者として朝廷から表彰されるという、一見して矛盾した状況がここにある。
この二つの事実は、尚久が単なる「倭寇の頭目」でも、純粋な「倭寇の取締官」でもなかったことを示唆している。彼の実像は、その両義的な性格を併せ持つ「海の管理者」であったと考えるのが最も妥当であろう。戦国時代の大名は、公式な外交ルートとは別に、商人や海賊衆といった非公式なルートを用いて情報収集や経済活動を行うことが常であった 33 。尚久は坊津の海賊衆を自らの影響下に置き、ある時は彼らを密貿易や私掠活動の担い手として利用し(これが中国側から見れば倭寇の頭目と映る)、またある時は彼らの活動を抑制・鎮圧することで(これが朝廷への功績報告となる)、島津家の利益を最大化していたのではないか。
「陳東」は尚久本人ではなく、彼の配下にあった倭寇の頭目の一人であり、尚久はその活動を背後で操っていた可能性も考えられる。彼の役割は、法や秩序の及ばぬ海の世界に島津氏の権益を打ち立てるという、極めて高度な政治力と実行力を要するものであった。
永禄4年(1561年)、島津氏の長年のライバルであった大隅国の肝付兼続(きもつき かねつぐ)は、国人・廻氏の当主が盲目となり、その後継者が幼いという隙を突いて、その居城である廻城を奪取した 29 。
廻氏と友好関係にあった島津貴久は、この暴挙に対し、城の奪還を決意。嫡男・義久と弟の忠将、そして尚久らを大将とする軍を派遣した 35 。しかし、この戦いの最中、同年7月12日(史料によっては13日)、突出した味方を救おうとした次兄・忠将が肝付軍の猛攻を受けて討死するという悲劇が起こる 9 。
兄・忠将の死から約8ヶ月後の永禄5年(1562年)3月1日、尚久は32歳という若さでこの世を去った 1 。彼の死因については、二つの説が伝えられている。
一つは 病死説 である。多くの公式記録では、廻城奪回戦の後に病にかかり、死去したと記されている 1 。これが表向きの死因であり、最も広く知られているものである。
もう一つが 憤死説 である。この説によれば、廻城の戦いで兄・忠将を見殺しにしたと、父・忠良(日新斎)から厳しく叱責された尚久が、その憤りのあまり食事が喉を通らなくなり、やがて衰弱して死に至ったというものである 1 。
この「病死」と「憤死」は、必ずしも相反するものではなく、一つの出来事の異なる側面を捉えたものと解釈できる。尚久の死は、精神的な衝撃に起因する心身症的な病であった可能性が極めて高い。史実を基にした二次創作『戦国島津史伝』には、廻城の戦いの後、尚久が自責の念から食事が喉を通らなくなり、無理に粥を口にしても吐いてしまい、やがて病に臥せったという具体的な描写がある 29 。兄・忠将は、貴久に次ぐ「脇之惣領」という一族にとって極めて重要な存在であった 23 。その兄が、自らも指揮官として参陣した戦で命を落としたことに対する尚久の精神的負担は計り知れない。
加えて、父・忠良は、その作とされる「いろは歌」に示されるように、厳格な武士道精神と儒教的道徳観の持ち主であった 38 。彼が息子の戦死に際し、現場の指揮官であったもう一人の息子・尚久を厳しく詰問したことは十分に考えられる。これらの要素、すなわち兄を失った自責の念と、父からの叱責という強烈なストレスが引き金となり、深刻な心身の不調(摂食障害や消化器系の疾患など)をきたし、結果的に「病死」に至ったと考えるのが最も合理的であろう。「憤死」という言葉は、その死の背景にあった強烈な精神的葛藤を、後世の人々が象徴的に表現した伝承と解釈できる。
尚久の死に際し、家臣の尾辻佐左衛門(おつじ さざえもん)という人物が殉死したことが記録されている 1 。伝承によれば、殉死を決意した佐左衛門に対し、父・忠良は刀を取り上げてそれを止めようとした。しかし、彼の決意は固く、角のある石で自らの腹を切り、主君の後を追ったという 13 。この悲壮な逸話は、尚久が家臣から深く敬愛され、共に死ぬことを厭わないほどの強い主従関係を築いていたことを雄弁に物語っている。
尚久自身は、薩摩国宮之城(みやのじょう、現在の鹿児島県さつま町)を直接治めたことはない。しかし、彼の嫡男である島津忠長(ただなが)が、関ヶ原の戦いの後にその地を領したことから、尚久は宮之城島津家の初代(祖)として位置づけられている 1 。宮之城島津家の系図は『藤姓島津氏族尚久一流系図』と称され、その家系は明確に記録されている 1 。
尚久の子・忠長は、父の武勇を受け継ぎ、島津宗家16代当主・義久の家老・老中として活躍した。日向の伊東氏や肥前の龍造寺氏との戦い、さらには豊臣秀吉による文禄・慶長の役でも軍功を挙げ、島津家の重鎮としてその地位を確立した 5 。
忠長に始まる宮之城島津家は、江戸時代を通じて1万5千石余を知行する薩摩藩の一門家臣(御一門)として重きをなし、代々家老などの要職を務め、藩政を支え続けた 24 。幕末には、島津斉彬の異母弟で「国父」として権勢を振るった島津久光の次男・久治が家を継ぎ、戊辰戦争で功を挙げている。
明治維新後、宮之城島津家は士族に列せられた。そして明治30年(1897年)、先代・久治の維新における功績により、その子・長丸が男爵に叙せられ、華族の一員となった 24 。
尚久の最も永続的な遺産は、彼の血筋が薩摩藩の権力構造の中核を担う有力な分家として存続したことである。戦国大名にとって、自らの血を引く有力な分家を創設することは、本家の安定と領国支配体制の強化に直結する重要な戦略であった。尚久の生涯は短かったが、彼は嫡男・忠長という優れた後継者を残した。その忠長が優れた武将・政治家として成長し、宮之城島津家という藩政を支える重要な家を確立したことで、尚久は死してなお、島津家の発展に大きく貢献したと言える。彼の武功や海上での活動は一代のものであったが、彼が遺した血脈は、その後数世紀にわたって島津家の歴史に確かな影響を与え続けたのである。
島津尚久の生涯は、32年というその短さの中に、戦国武将の持つべき要素が凝縮されている。彼は、兄・貴久の三州統一事業を最前線で支える勇猛な武将であったと同時に、国際港・坊津を差配し、倭寇との複雑な関係を管理する知略と政治力を備えた「海の領主」でもあった。
彼の死をめぐる「憤死説」は、単なる伝説として片付けるべきではない。それは、兄の戦死に対する深い自責の念と、厳格な父からの叱責という精神的重圧が引き起こした悲劇の真相を物語っている可能性が高い。また、彼と倭寇との関わりは、当時の戦国大名が公式・非公式のルートを駆使して繰り広げた、現実的で多面的な外交・経済活動の実態を解明する上で、極めて示唆に富む事例である。
一人の武将として数々の武功を立て、一つの家の祖として後世に確かな血脈を残した島津尚久。彼は、島津家の歴史の影に埋もれさせておくにはあまりにも惜しい、智勇兼備の将であり、その実像は今こそ再評価されるべきである。