最終更新日 2025-06-24

島津忠将

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島津家飛躍の礎石 ― 猛将・島津忠将の生涯と遺産

序論:忘れられた「脇之惣領」

島津四兄弟、すなわち義久、義弘、歳久、家久。彼らの名は、戦国時代の九州を席巻した島津家の栄光と共に、今なお燦然と輝いている。しかし、その輝かしい功績の礎を築いた世代に、兄を支え、その武威を以て屋台骨を支えながらも、歴史の陰に埋もれがちな一人の猛将がいた。島津家中興の祖・島津忠良(日新斎)の次男にして、島津貴久の弟、島津忠将(しまづ ただまさ)その人である 1

彼の生涯は、島津氏が守護大名の座から戦国大名へと劇的な変貌を遂げる、まさに激動の時代と重なる。一般に忠将は、兄・貴久を補佐し、各地を転戦した末に廻城(めぐりじょう)の戦いで悲劇的な最期を遂げた勇将として記憶されている 2 。しかし、その存在は単なる「勇猛な弟」という一語に集約されるものではない。彼は、島津宗家の家督継承を巡る内乱の渦中で育ち、兄が不在の際には家督を継ぐべき「脇之惣領(わきのそうりょう)」という極めて重要な立場にあった 3

本報告書は、この島津忠将の生涯を、その誕生から最期、さらには子孫や史跡に至るまで徹底的に追跡し、彼の人物像と歴史的役割を再評価することを目的とする。彼の存在が、島津家の戦略上、いかに重要な位置を占めていたのか。そして、彼の死が次代にいかなる遺産を残したのか。断片的な史料を繋ぎ合わせ、その実像に迫ることで、島津家飛躍の真の原動力の一端を明らかにしたい。

第一章:動乱の時代への誕生 ― 島津宗家の内訌と相州家

1. 誕生の背景:永正17年(1520年)の生

島津忠将は、永正17年(1520年)5月5日に生を受けた 2 。父は、後に「日新斎(じっしんさい)」と号し、島津家中興の祖として敬仰される島津忠良(ただよし) 2 。母は、島津氏の有力分家である薩州家(さっしゅうけ)当主・島津成久の娘、寛庭夫人(かんていふじん)である 4 。忠将は忠良の次男であり、兄に貴久、弟に尚久がいた 4 。通称は又四郎、初めは政久と名乗ったとされる 2

彼が生まれた16世紀初頭の島津氏は、深刻な内紛の最中にあった。鎌倉時代以来、薩摩・大隅・日向の三州守護職を世襲してきた宗家(奥州家)の権威は失墜。12代当主・忠治、13代当主・忠隆が相次いで早世し、若年の14代当主・勝久の代には、家臣の反乱が頻発するなど、領国支配は混迷を極めていた 3 。このような状況下で、薩州家や、忠将の父・忠良が率いる相州家(そうしゅうけ)といった有力な分家が、それぞれに勢力を拡大し、宗家の家督を窺う機会を待っていたのである 8 。忠良は元々、伊作家の当主であったが、母の再嫁に伴い相州家をも継承しており、薩摩半島南部に確固たる地盤を築いていた 5

2. 兄・貴久の宗家継承と戦乱の幕開け

事態が大きく動いたのは、大永6年(1526年)のことである。宗家当主・勝久は、自らの求心力の低下を補うため、当時勢力を伸ばしていた忠良の軍事力に頼らざるを得なくなった。忠良は、自らの長男である貴久(当時・虎寿丸)を勝久の養嗣子とし、家督を継承させることを条件に、勝久への支援を約束した 3 。翌年、貴久は14歳で家督を譲られ、名目上は島津宗家の当主となった 3

しかし、この家督継承は新たな火種を生んだ。最大のライバルであった薩州家の当主・島津実久がこれに猛反発。あろうことか、一度は家督を譲ったはずの勝久までもが実久と結託し、貴久への家督継承を反故にする「悔い返し」という挙に出たのである 3 。これにより、貴久と父・忠良は本拠地である田布施(たぶせ)への退去を余儀なくされ、薩摩の覇権は、貴久を擁する相州家と、実久・勝久連合との間で争われることとなった。この十数年に及ぶ内乱の時代に、忠将は物心つき、武将として成長していくのである。

3. 相州家の継承と「脇之惣領」としての宿命

兄・貴久が宗家(奥州家)の家督を継いだことにより、その実家である相州家は、次男である忠将が継承することになった 3 。だが、彼の立場は単なる分家の当主というだけではなかった。彼は、宗家当主である貴久に万一の事態が起きた場合、その後継者となるべき「脇之惣領」と位置づけられていたのである 3

この「脇之惣領」という制度は、単なる慣習や敬称ではなかった。それは、先見の明に長けた父・忠良が、不安定極まりない貴久の地位を盤石にするために考案した、高度な政治的・軍事的安全保障システムであったと考えられる。貴久の家督継承が、血で血を洗う内紛の引き金となった事実は、彼の命が常に危険に晒されていたことを物語っている 9 。このような状況下で、もし貴久が戦死あるいは暗殺されれば、後継者不在を理由に薩州家が家督を奪う口実を与えかねない。そこで忠良は、後継者として忠将を「脇之惣領」として明確に定めることで、指導者の不在による組織の崩壊を防ぎ、敵対勢力の介入を牽制しようとしたのである。したがって、忠将の存在は、兄・貴久が後顧の憂いなく薩摩統一戦争を遂行するための、いわば「生きた保険」であった。彼は、ただ戦うだけでなく、島津宗家の存続そのものをその双肩に担うという、重い宿命を背負っていたのだ。

第二章:兄の右腕として ― 薩摩半島統一戦での武功

1. 初陣と若き日の武勇

忠将が兄・貴久と共に歴史の表舞台に登場するのは、天文2年(1533年)のことである。この年、父・忠良は薩州家方の桑波田氏が守る南郷城(現在の日置市吹上町永吉)を攻略し、この地を「永吉」と改名した。そして、この城の守備に貴久(当時20歳)と忠将(当時14歳)の兄弟を任じたのである 3 。同年8月、鹿児島から平田左馬介率いる軍勢が永吉城に攻め寄せたが、忠良らはこれを撃退しており、この一連の戦いが兄弟の初陣であった可能性は極めて高い 3

忠将の武勇が史料に明確に記されるのは、天文7年(1538年)12月に行われた薩州家最大の拠点・加世田城(かせだじょう)攻めにおいてである。この時、忠将はわずか19歳にして、城の裏口を攻める搦手(からめて)口の大将という重責を任された 3 。彼は救援に駆け付けた薩州家方の軍勢を撃破する活躍を見せたが、その戦いは壮絶を極めた。城兵の市来家利(いちき いえとし)との一騎打ちでは、相手の歯を折るほどの激闘の末、自らも腕に深手を負ったと伝えられている 3 。この戦いでの負傷は、若き忠将の勇猛果敢さを示す最初期の具体的な逸話であり、彼が常に危険な最前線に身を置いていたことを物語っている。

2. 大隅経略の先鋒 ― 清水城主として

加世田城の攻略(天文8年、1539年)によって、薩摩半島における最大のライバルであった薩州家の勢力は大きく後退した 3 。これにより、島津貴久の目は、薩摩半島の外、東方に広がる大隅国へと向けられる。そして、この新たな戦略の中心に据えられたのが、弟の忠将であった。

天文17年(1548年)、忠将は大隅国の肝付(きもつき)氏や日向国の伊東氏に対する備えとして、最前線に位置する要衝・大隅清水城(現在の霧島市国分清水)の城主に任命された 4 。この任命は、単なる人事異動以上の、極めて重要な戦略的意味合いを持っていた。

これは、島津家の勢力拡大戦略が、薩摩半島内部の平定という「守り」の段階から、大隅・日向という領国外への進出という「攻め」の段階へと明確に移行したことを示す転換点であった。薩摩半島統一に目途が立った今、次なる脅威が大隅の肝付氏と日向の伊東氏であることは自明の理であった 6 。その最前線である清水城に、最も武勇に優れ、信頼の置ける弟であり、かつ宗家の後継者候補でもある「脇之惣領」忠将を配置したのである。これは、守勢に留まるのではなく、来るべき大隅・日向への侵攻作戦の拠点と司令官を定め、攻勢への布石を打ったに他ならない。忠将は、一人の武将から方面軍司令官へとその役割を変え、兄・貴久の領土拡大政策の、文字通り「槍の穂先」としての重責を託されたのであった。

第三章:新時代の戦術と大隅平定戦

1. 岩剣城の戦いと鉄砲の実戦導入

清水城主となった忠将の活躍の場は、まもなく訪れる。天文23年(1554年)、大隅の国人である蒲生(かもう)氏、祁答院(けどういん)氏らが島津氏に反旗を翻し、大隅平定戦(大隅合戦)の火蓋が切られた 15

この緒戦の舞台となったのが、岩剣城(いわつるぎじょう、現在の鹿児島県姶良市)である。この城は東・西・北の三方を切り立った絶壁に囲まれた天然の要害であり、父・忠良が「三兄弟(義久・義弘・歳久)のうち誰かが死なねば落ちまい」と語ったと伝えられるほどの難攻不落の堅城であった 15

この極めて困難な城攻めにおいて、忠将は新時代の戦術家としての一面を覗かせる。岩剣城の戦いの前段にあたる、脇元での交戦において、島津忠将が率いる部隊が鉄砲を使用したという記録が残っているのである 14 。これは、天文12年(1543年)の鉄砲伝来から約10年後のできごとであり、島津氏の公式な戦史における、鉄砲の最初期の使用例とされる。

この事実は、忠将が単なる猪突猛進の武将ではなかったことを示唆している。彼は、鉄砲という新兵器の軍事的価値をいち早く見抜き、その導入と実戦投入を主導した、戦術的革新者であった可能性が高い。岩剣城のような堅固な山城を攻略するには、従来の力攻めでは多大な犠牲が避けられない。鉄砲の持つ圧倒的な火力と射程は、こうした膠着状態を打破する上で極めて有効な手段となり得る。忠将は、この新兵器を積極的に試用し、その有効性を実戦の場で検証する役割を担っていたと考えられる。彼の武勇は、個人的な勇ましさだけでなく、新しい戦術を果敢に試す先進性と結びついていたのである。

2. 蒲生氏攻略と大隅での転戦

岩剣城は激戦の末に落城し、島津氏の大隅進出の重要な足掛かりとなった 15 。この戦いを皮切りに、忠将は大隅平定戦の中心で奮戦を続ける。

弘治元年(1555年)3月から4月にかけて行われた蒲生氏の拠点・帖佐城(ちょうさじょう)の戦いや、弘治3年(1557年)4月の蒲生城への総攻撃にも従軍し、数々の武功を挙げた 14 。この一連の戦いを通じて、忠将は常に兄・貴久を軍事面で支え、島津軍の中核としてその武威を示し続けた。また、この大隅合戦は、甥である島津義久、義弘、歳久の初陣の場でもあった 19 。特に、後に「戦の神」と謳われることになる次兄・義弘は、叔父である忠将の勇猛果敢な戦いぶりを間近で見ながら、武将としての経験を積んでいったのである 20

第四章:廻城の戦い ― 悲劇的な最期とその影響

1. 肝付氏との対立激化

大隅における島津家の勢力拡大は、必然的に、大隅半島に覇を唱える有力大名・肝付氏との間に深刻な利害対立を生じさせた。かつては、忠将の姉が肝付兼続に嫁ぐなど、両家は姻戚関係にあったが、領土を巡る確執はもはや修復不可能なレベルに達していた 1

永禄4年(1561年)、ついに両者の対立は全面的な武力衝突へと発展する。肝付兼続は、島津方の廻城(現在の霧島市福山町)城主・廻久元(めぐり ひさもと)が盲目であり、嫡子も幼いという弱点に付け込み、城を奇襲して奪取したのである 1

2. 忠将、死地へ ― 決死の救援

廻城の奪還は、大隅における島津家の覇権を維持するために不可欠であった。兄・貴久は、長男の義久と弟の忠将に、直ちに出陣を命じた 1 。島津軍は、貴久と義久が惣陣が丘(そうじんがおか)に本陣を置き、忠将は日州街道沿いの馬立(まだて)に、そして別動隊を竹原山(たけはらやま)に布陣するという態勢をとった 1

同年7月12日未明、戦況は急を告げる。肝付軍が、手薄であった竹原山の陣地に奇襲をかけたのである。味方が崩壊の危機に瀕しているとの報に接した忠将は、家老である町田忠林らが「突出は危険」と懸命に制止するのも振り切り、危機に陥った味方の将・町田久倍(ひさます)を救うべく、単騎で敵陣へと突撃した 1

この忠将の最後の行動は、彼の性格を最も象徴的に示している。それは、大将としての冷静な戦術的判断よりも、武士としての義理や、苦境にある仲間を見捨てられないという熱い情を優先する、彼の人間性を浮き彫りにするものであった。これまでの戦歴が示すように、彼は常に自らの武勇で局面を打開することに自信と誇りを持っていた。部下を見殺しにできないという将としての強い責任感と、自らの武力でこの危機を覆せるはずだという確信が、彼を死地へと向かわせたのである。この行動は、結果的に島津全軍の士気を高揚させることになったが、戦術的には極めて無謀な突出であった。彼の比類なき「勇猛さ」が、時として「無謀さ」と紙一重であったことを、この最後の瞬間は物語っている。

3. 壮絶な戦死と戦局への影響

救援に駆け付けた忠将であったが、彼の前には肝付方の周到な伏兵が待ち構えていた。たちまち大軍に囲まれた忠将は、一度は包囲を突破するも、後を追ってきた家臣たち共々、奮戦の末に力尽き、ついに討ち死にした 1 。享年42 2

最愛の弟の死の報せは、本陣にいた兄・貴久を激しく揺さぶった。貴久は弟の死に激怒し、自ら軍を率いて猛攻を開始。忠将の死に報いようと奮起した島津軍の猛攻の前に、肝付軍はついに敗走し、廻城は島津家の手に戻った 21

戦後、貴久は、弟の死という大きな災いを転じて、未来の福となすという強い願いを込め、この地の名であった「廻」を「福山」と改めたと伝えられている 21 。この逸話は、忠将の死が兄・貴久に与えた衝撃の大きさと、その死を決して無駄にはしないという固い決意を、今に伝えている。

第五章:人物像の再構築と後世への遺産

1. 忠将の人物像

島津忠将とは、いかなる人物であったのか。史料から浮かび上がるその姿は、多角的である。

第一に、彼は生涯を通じて領内統一戦のほとんどに参加し、常に最前線で戦い続けた、紛れもない 武勇の士 であった 1 。加世田城での負傷や、廻城での最期は、その勇猛さを雄弁に物語る。

第二に、彼は兄・貴久の覇業を支え続けた 忠誠の弟 であった。貴久が政務や外交に専念できた背景には、軍事という最も危険で困難な領域を、忠将が全面的に引き受けていたという事実がある。彼の存在なくして、貴久の薩摩・大隅統一は成し得なかったであろう。

そして第三に、彼は宗家の存続を担う**「脇之惣領」としての自覚**を持った人物であった。彼の存在そのものが、不安定な貴久政権の安全装置として機能していた。その重責を理解し、命を賭して兄を支え続けたのである。

2. 子・以久の活躍と二つの島津家

忠将の死は、彼の血脈の終わりを意味しなかった。むしろ、彼の遺した血は、その後の島津家の中で極めて重要な役割を果たし続けることになる。

忠将の嫡男・以久(ゆきひさ、または、もちひさ)は、父の死後、伯父である貴久や従兄の義久に養育された 24 。彼は長ずるにつれて父譲りの武勇を発揮し、天正6年(1578年)の高城川の戦いでは、敵陣に真っ先に切り込んで勝利のきっかけを作るなど、数々の大功を挙げた 11

島津家が豊臣秀吉に降伏し、徳川の世へと移る激動の時代にあって、以久は巧みに立ち回り、その地位を確保した。関ヶ原の戦いの後、徳川家康との戦後交渉を経て、以久は関ヶ原で戦死した島津豊久(家久の子)の旧領である日向佐土原(さどわら)を与えられ、3万石の佐土原藩初代藩主となったのである 24

一方で、以久は佐土原に移る以前に領有していた大隅垂水(たるみず)の地を、朝鮮出兵で病没した長男・彰久の子である久信に譲った 25 。これにより、忠将を初代とし、薩摩藩内で最高の家格である「一門家」の一つに数えられる垂水島津家が成立した 6

忠将の死は悲劇であったが、彼の功績は死後も高く評価され、その血脈は本藩(鹿児島藩)を支える有力な支藩(佐土原藩)と、藩内最高の家格を持つ一門家(垂水島津家)という二つの重要な家として存続した。これは、島津本宗家が、忠将とその子孫を、単なる家臣ではなく、一族の繁栄に不可欠な支柱として遇し続けたことの何よりの証左である。

3. 「戦う次男」の系譜 ― 義弘への影響

忠将がその生涯を以て確立した役割、すなわち「政務を担う長兄(貴久)を、軍事の最前線で支える次男」という役割分担のモデルは、次代の島津家、特に島津四兄弟の関係性に色濃く影響を与えたと考えられる。

「政の義久、戦の義弘」と称されるように、貴久の長男・義久が当主として采配を振るう一方、次男の義弘が軍事司令官として数々の伝説的な戦いを指揮した 11 。この役割分担は、貴久と忠将の関係と驚くほど酷似している。若き日に叔父である忠将の鬼神の如き働きを目の当たりにした義弘にとって、忠将こそが理想の武将像としてその目に焼き付いていたとしても不思議ではない 1

廻城の戦いで、忠将は敵の包囲を突破できずに無念の死を遂げた。その約40年後、関ヶ原の戦いで、甥の義弘は絶望的な状況下で敵中を正面から突破する「島津の退き口」を敢行し、生還を果たした。これは単なる偶然の相似ではなく、叔父が果たせなかった無念を、甥が晴らしたという、歴史の連続性を感じさせる逸話である 1 。忠将の生き様と死に様は、島津義弘という戦国史上屈指の猛将を形作る上で、計り知れない影響を与えたのかもしれない。

結論:島津家飛躍の礎として

島津忠将の42年の生涯は、島津氏が内紛に明け暮れる守護大名から、九州統一に手をかける戦国大名へと飛躍する、まさにその黎明期と完全に重なる。彼は、兄・貴久の「剣」であり「盾」であった。そして同時に、宗家の血統が途絶えることを防ぐ「最後の砦」でもあった。

彼の武功は、薩摩・大隅の統一を早め、来るべき九州制覇への道を切り拓いた。彼の存在は、兄・貴久の権力基盤を安定させ、組織としての島津家を強固にした。そして彼の生き様は、次代の英雄・島津義弘に強烈な影響を与え、島津軍の強さの源流の一つとなった。

廻城の露と消えたその命は、決して無駄ではなかった。彼の勇猛果敢な生涯と悲劇的な死は、その武功、精神、そして血脈を通じて次代の島津四兄弟に確かに受け継がれ、島津家が戦国時代の頂点へと駆け上がるための、揺るぎない礎となったのである。島津忠将の名は、輝かしい島津家の歴史の、決して忘れてはならない第一頁に、深く刻まれている。


補遺:島津忠将ゆかりの史跡と人物

本報告書で言及した史跡と主要人物について、以下に一覧表として整理する。

表1:島津忠将ゆかりの史跡

史跡名

所在地

文化財指定等

現状と見学情報

清水城跡

鹿児島県霧島市国分清水 31

-

島津忠将が城主を務めた大隅経略の拠点となった山城跡。遊歩道が整備されているが、遺構の保存状態は万全ではなく、見学には山城としての注意が必要 32

廻城跡(仁田尾城跡)

鹿児島県霧島市福山町福山 33

-

忠将最期の地となった山城跡。現在は駐車場が整備され、錦江湾と桜島を望む景勝地となっている 21 。本丸跡への道はやや険しい 22

島津忠将供養塔

鹿児島県霧島市福山町福山(中茶屋公園付近) 1

-

忠将が戦死した地に、子の以久が天正3年(1575年)に建立したとされる供養塔 36 。旧日州街道沿いに現存し、彼の最期を伝える貴重な史跡である。

楞厳寺跡

鹿児島県霧島市国分清水 4

-

忠将の菩提寺であったが、明治の廃仏毀釈により廃寺となった 1 。忠将の墓も太平洋戦争の空襲で破壊され、現在はその痕跡が残るのみである 1

垂水島津家墓所

鹿児島県垂水市田神 29

国指定史跡 29

忠将を初代とする垂水島津家の墓所。忠将自身の墓は焼失したが、16代当主の墓碑に合祀されている 29

表2:島津忠将を巡る主要人物

人物名

続柄・関係

忠将との関わり

島津忠良(日新斎)

2

島津家中興の祖。忠将の父として、その成長と島津家の戦略に絶大な影響を与えた。

島津貴久

2

島津宗家15代当主。忠将が生涯をかけて支えた主君であり、実兄。

島津尚久

4

忠将と共に各地を転戦した弟。

島津義久

7

貴久の長男。廻城の戦いでは忠将と共に出陣。後の島津家16代当主。

島津義弘

7

貴久の次男。「戦う次男」として忠将の役割を継承したと考えられる人物。

佐多忠成の娘

4

忠将の正室。

島津以久

嫡男 6

忠将の子。父の死後、武将として大成し、日向佐土原藩の初代藩主となる。

島津忠長

婿 38

弟・尚久の子(忠将の甥)。忠将の娘を娶り、婿となった。

肝付兼続

敵将 4

大隅の有力大名。廻城の戦いで忠将を討ち取った宿敵。

引用文献

  1. 島津忠将公供養塔(七寶塔) - 鹿児島よかもん再発見! https://kagoshimayokamon.com/2016/05/25/shimazutadamasa/
  2. 島津忠将(しまづ ただまさ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%BF%A0%E5%B0%86-1080930
  3. 生誕 500年特集 島津忠将 ~貴久の弟にして右腕、その生涯 - しまづくめ https://sengoku-shimadzu.com/tadamasa500/
  4. 島津忠將- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%BF%A0%E5%B0%87
  5. 島津忠良|国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1592
  6. 島津忠将 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%BF%A0%E5%B0%86
  7. 歴史の目的をめぐって 島津貴久 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-12-shimadu-takahisa.html
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  10. 薩摩・島津家の歴史 - 尚古集成館 https://www.shuseikan.jp/shimadzu-history/
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  17. 岩剣城の戦いで大隅国人衆らを破る - 尚古集成館 https://www.shuseikan.jp/timeline/iwatsurugi-jo-no-tatakai/
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  19. 岩剣城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%89%A3%E5%9F%8E
  20. 島津義弘 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E5%BC%98
  21. 廻城跡 (仁田尾城跡) | 観光スポット | 霧島市観光サイト Visit Kirishima https://visitkirishima.com/meguri-jo-ato/
  22. 廻城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/2938
  23. 3つの陣が丘 その1 | カゴシマガジン https://www.kagomaga.jp/?p=2148
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  35. 霧島市の福山町にある「知られざる絶景スポット」 - カゴシマガジン | https://www.kagomaga.jp/?p=3585
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  37. 垂水島津家墓所 - 鹿児島県観光サイト https://www.kagoshima-kankou.com/guide/70089
  38. 島津忠長_(宮之城家)とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%BF%A0%E9%95%B7_%28%E5%AE%AE%E4%B9%8B%E5%9F%8E%E5%AE%B6%29