戦国時代の日本列島が群雄割拠の渦中にあったとき、南九州の地で一人の傑物が、分裂と衰退の淵にあった大名家を再興し、後の飛躍の礎を築いた。その名は島津忠良、後に出家して日新斎(じっしんさい)と号した人物である 1 。一般に彼は、薩摩藩士の精神的支柱となった教育詩『いろは歌』の作者として、また、島津義久・義弘ら勇猛果敢な四兄弟の祖父として知られている 3 。しかし、その実像は単なる「教育者」や「賢君」という言葉に収まるものではない。本報告書は、島津忠良を、守護大名体制が崩壊し戦国大名が勃興する時代の転換期において、南九州の権力構造そのものを再編した稀代の戦略家、思想家、そして為政者として捉え直す試みである。
忠良の生涯を貫くのは、「武力と謀略」そして「信仰と慈悲」という、一見すると相反する二つの側面である。彼の経歴をたどると、ある時は「薩摩の聖君」と称えられるほどの仁政を敷き、敵味方の区別なく戦死者を弔う深い信仰心を示す一方で、目的のためには冷徹な謀略も辞さず、十数年にわたる内乱を主導して宗家の実権を掌握するという「梟雄(きょうゆう)」的な側面も浮かび上がってくる 5 。この矛盾とも思える二元性こそが、島津忠良という人物の核心をなす。彼は、家臣団の結束と領民の安寧を願う理想主義的な思想家であると同時に、乱世を生き抜くためにはいかなる手段も厭わない冷徹な現実主義者でもあった。この二つの顔を巧みに使い分け、一つの目的—すなわち島津家の安泰と発展—のために全ての行動を収斂させていった点に、彼の非凡さがある。
本稿では、最新の研究成果と史料を基に、彼の波乱に満ちた生涯を時系列に沿って追い、その時々の決断の背景にある戦略と思想を解き明かす。伊作・相州という二つの分家を束ねて権力基盤を築いた青年期、嫡男・貴久を宗家に送り込み、南九州の覇権を賭けて一族と争った壮年期、そして『いろは歌』を完成させ、薩摩の精神文化の礎を築いた晩年期。その全貌を徹底的に解明することで、島津忠良がなぜ「中興の祖」と称されるのか、その真の理由を明らかにしていく。
西暦(和暦) |
年齢 |
主要な出来事 |
典拠 |
1492年(明応元年) |
1歳 |
9月23日、島津氏分家・伊作善久の嫡男として誕生。幼名は菊三郎。 |
1 |
1494年(明応3年) |
3歳 |
父・善久が馬丁に撲殺される。 |
1 |
1500年(明応9年) |
9歳 |
祖父・久逸が薩州家の内紛に関与し戦死。母・梅窓夫人が伊作家当主となる。 |
1 |
1501年(文亀元年) |
10歳 |
母・梅窓夫人が相州家当主・島津運久と再婚。忠良は運久の養子となる。 |
1 |
1506年(永正3年) |
15歳 |
元服し、伊作家10代当主となる。 |
1 |
1512年(永正9年) |
21歳 |
養父・運久から相州家の家督を譲られ、伊作・相州両家を兼帯する。 |
1 |
1526年(大永6年) |
35歳 |
嫡男・虎寿丸(後の貴久)を島津宗家14代当主・勝久の養子とする。 |
1 |
1527年(大永7年) |
36歳 |
貴久が宗家家督を継承するも、薩州家・島津実久が反発。勝久も実久方に転じ、内乱が勃発。忠良は出家し、日新斎と号す。 |
8 |
1533年(天文2年) |
42歳 |
南郷城を謀略を用いて攻略。 |
1 |
1539年(天文8年) |
48歳 |
加世田別府城の戦い、紫原の戦い、市来鶴丸城の戦いで実久方を破り、薩摩半島をほぼ平定。 |
1 |
1540年(天文9年) |
49歳 |
加世田城攻めの敵味方の戦死者を弔うため、六地蔵塔を建立。 |
11 |
1545年(天文14年) |
54歳 |
貴久が島津一門から「三国守護」として承認され、戦国大名としての地位を確立。 |
13 |
1546年(天文15年) |
55歳 |
『いろは歌』を完成させ、近衛稙家に献上する。 |
11 |
1550年(天文19年) |
59歳 |
貴久が鹿児島の内城に入り、忠良は加世田に隠居する。 |
11 |
1568年(永禄11年) |
77歳 |
12月13日、加世田にて死去。 |
1 |
島津忠良の生涯は、彼の意志とは無関係に、血と裏切りが渦巻く過酷な運命から幕を開ける。しかし、彼はその逆境を単に耐え忍ぶのではなく、自らの権力基盤を築き上げるための戦略的な好機へと転換させる稀有な才覚を示した。この章では、彼が薩摩半島の一角に確固たる勢力を築き上げるまでの前半生を追う。
明応元年(1492年)、忠良は島津氏の有力な分家である伊作家9代当主・島津善久の嫡男として生を受けた 1 。伊作家は、鎌倉時代に島津宗家3代当主・久経の次男・久長が薩摩国伊作荘(現在の鹿児島県日置市吹上地域)を領したことに始まる名門であった 17 。しかし、忠良を待ち受けていたのは、名門の御曹司という安穏な未来ではなかった。
明応3年(1494年)、忠良がわずか3歳の時、父・善久が家臣である馬丁に撲殺されるという衝撃的な事件が起こる 1 。さらにその6年後の明応9年(1500年)、伊作家の支柱であった祖父・久逸も、別の分家である薩州家の内紛に介入した末に加世田で戦死してしまう 1 。相次ぐ当主の非業の死により、伊作家は指導者を失い、存亡の危機に瀕した。この未曾有の事態に際し、一時的に伊作家の当主となったのが、忠良の母である梅窓夫人(常盤)であった 1 。
当主不在の伊作家は、周辺豪族の格好の標的となり、幾度となく攻撃に晒された 1 。梅窓夫人はその都度、近隣の田布施(たぶせ)を本拠とする別の分家・相州家の当主、島津運久に救援を要請し、辛うじて領地を守り抜いていた 1 。しかし、これはあくまで一時しのぎに過ぎず、根本的な解決にはならなかった。伊作家が生き残るためには、より抜本的で大胆な一手が不可欠であった。その決断を下したのが、母・梅窓夫人であった。
相州家当主の島津運久は、以前から未亡人となった梅窓夫人に思いを寄せており、求婚を申し出ていた 1 。梅窓夫人はこの申し出を、単なる個人的な縁談としてではなく、伊作家の未来を賭けた政治的取引の機会として捉えた。彼女は、文亀元年(1501年)、運久との再婚に同意するが、その際に一つの決定的な条件を提示する。それは、自らの息子である忠良を運久の養子とし、伊作家に加えて相州家の家督をも継承させることであった 1 。
これは、単なる家の存続策を超えた、極めて戦略的な構想であった。この婚姻と養子縁組により、伊作家と相州家という、薩摩半島中部に勢力を持つ二つの有力分家が統合されることになる。運久はこの条件を受け入れ、約束は忠実に履行された。永正3年(1506年)、忠良は15歳で元服し伊作家を継ぐと、永正9年(1512年)には運久から相州家の家督も譲られた 1 。時に忠良、21歳。彼は若くして阿多、田布施、高橋、伊作という広大な所領を束ねる大領主となったのである 1 。
父祖の死という絶望的な逆境は、結果として忠良に、他の分家を圧倒する強固な権力基盤をもたらした。彼はこの好機を逃さず、領主として卓越した手腕を発揮する。伊作の亀丸城、田布施の亀ヶ城を拠点に領国をよくまとめ、人道に基づいた善政を敷いたため、その徳は領内外に高く鳴り響いたと伝えられる 1 。この時期に培われた名声と、統合された二つの分家の軍事力・経済力が、後の宗家継承という、より壮大な計画の原動力となっていく。
忠良の人物像を形成する上で、その深い学識と信仰心を欠かすことはできない。彼は幼少期より、母・梅窓夫人と伊作にあった海蔵院の僧・頼増(らいぞう)から儒教と仏教の教えを授けられていた 2 。特に彼の思想に決定的な影響を与えたのが、禅僧・桂庵玄樹(けいあんげんじゅ)が薩摩にもたらした朱子学の学風であった 1 。
桂庵玄樹は、応仁の乱の混乱を避けて薩摩に下り、島津家11代当主・忠昌の招聘を受けて朱子学を講じた高名な学僧である 15 。忠良は直接の弟子ではないものの、桂庵の学統を受け継ぐ禅僧たちからその教えを学び、特に『朱子新註四書』、中でも『論語』に深く通じていたという 1 。忠良の学問は、単なる書斎での思索に留まらなかった。朱子学が説く修身・斉家・治国・平天下の思想は、彼にとって為政者としての行動規範そのものであった。若くして領民に善政を施し名声を得たのも、儒教的な徳治主義の実践に他ならない。
同時に、彼は禅の修行にも精進し、曹洞宗に深く帰依した 1 。さらに日本の伝統的な神道にも通暁し、その奥義を究めたとされる 1 。忠良の思想の独自性は、これら儒・仏・神の三つの教えを、それぞれ独立したものとしてではなく、一つの統合された実践哲学として捉え直した点にある。この独自の思想体系は、後に「日学(じつがく)」と称され、彼の全ての行動の理論的支柱となった 1 。学問と実利、信仰と統治を結びつけるこの思考様式こそ、忠良が他の戦国武将と一線を画す特質であり、その後の彼の行動を理解する上で不可欠な鍵となる。
家系 |
世代 |
人物名 |
忠良との関係 |
備考 |
典拠 |
島津宗家(奥州家) |
11代 |
島津忠昌 |
- |
13代忠隆・14代勝久の父 |
10 |
|
13代 |
島津忠隆 |
- |
早世 |
10 |
|
14代 |
島津勝久 |
貴久の養父 |
忠良に支援を求め、後に敵対 |
10 |
|
15代 |
島津貴久 |
嫡男 |
忠良の子。勝久の養子となり宗家を継承 |
9 |
|
16代 |
島津義久 |
孫 |
貴久の長男。「島津四兄弟」の長兄 |
3 |
伊作家 |
9代 |
伊作善久 |
父 |
馬丁に撲殺される |
1 |
|
10代 |
島津忠良(日新斎) |
本人 |
伊作家を継承 |
1 |
相州家 |
2代 |
島津運久 |
養父 |
忠良の母・梅窓夫人と再婚 |
1 |
|
3代 |
島津忠良(日新斎) |
本人 |
運久の養子となり相州家を継承 |
1 |
薩州家 |
- |
島津成久 |
妻の父 |
忠良の正室・寛庭夫人の父 |
22 |
|
5代 |
島津実久 |
宗家継承のライバル |
貴久の家督継承に猛反発し、内乱を起こす |
2 |
薩摩半島中部に確固たる地歩を築いた忠良は、次なる目標として、島津一門の頂点である宗家の家督を自らの血統に手繰り寄せるという、壮大かつ危険な計画に乗り出す。それは、旧来の守護大名としての権威が失墜し、実力が全てを決定する戦国乱世の到来を象徴する、南九州全土を巻き込んだ十数年にわたる大抗争の幕開けであった。
当時の島津宗家(奥州家)は、12代当主・忠治、13代当主・忠隆が相次いで早世し、若年で家督を継いだ14代当主・島津勝久の時代にあった 9 。しかし、勝久は若さゆえに家臣団や国人衆を掌握できず、その統治は困難を極めていた 10 。この宗家の弱体化という状況を、忠良は千載一遇の好機と捉えた。
大永6年(1526年)、領国経営に行き詰まった勝久は、英明の誉れ高かった忠良に支援を要請する 16 。忠良はこれに応じる見返りとして、自らの嫡男である虎寿丸、すなわち後の島津貴久(当時13歳)を勝久の養子とし、島津本宗家の後継者とすることを認めさせた 8 。翌大永7年(1527年)4月、勝久は隠居し、貴久が正式に家督を継承。忠良はその後見人として、事実上、島津宗家の実権を掌握した 1 。
この一連の動きは、あまりにも性急かつ野心的であった。当然のことながら、一族内の有力者から猛烈な反発を招く。その筆頭が、薩摩国出水を拠点とする有力分家・薩州家の当主、島津実久であった 2 。実久は自らの姉が勝久の正室であった関係から、自身こそが宗家を継ぐべきと考えており、この決定を到底容認できなかった 10 。彼は、家督継承に不満を持つ他の分家や国人衆を糾合し、武力による貴久の排除へと動き出す。さらに、一度は家督を譲った勝久自身も、忠良の権勢を恐れて心変わりし、実久に担がれる形で貴久・忠良親子と敵対する側に回った 10 。こうして、島津本宗家の家督をめぐる争いは、忠良・貴久の相州家、実久の薩州家、そして勝久の旧宗家という三つ巴の内乱へと発展したのである。
内乱の序盤は、薩州家の実久が優勢であった。大永7年(1527年)6月、実久は鹿児島を急襲し、守護の座についたばかりの貴久を清水城から追放する 10 。命からがら本拠地である田布施へと逃れた忠良・貴久親子は、苦境に立たされる。実久は勝久を再び守護の座に据え、薩摩の支配権を掌握したかに見えた 24 。
しかし、忠良はここから粘り強い反撃を開始する。天文5年(1536年)、鹿児島奪還の拠点として伊集院の一宇治城を攻略し、態勢を立て直す 13 。彼の反攻は、単なる武力だけに頼るものではなかった。その真骨頂は、むしろ巧みな謀略にあった。
南郷城の攻略(天文2年、1533年)
この戦いは、忠良の非凡な智謀を示す逸話として知られる。実久方の桑波田栄景が守る日置南郷城を攻めるにあたり、忠良はまず盲僧を間者として城内に送り込み、情報を収集させた 1。そして、城主の栄景が狩りのために城を留守にすることを知ると、自軍の兵を猟師に変装させ、あたかも城主の狩りの一行が帰還したかのように見せかけて城門を通過させ、即日陥落させたのである 1。この奇計により南薩摩の要衝を手に入れた忠良は、この地を「永吉」と改め、自らの支配を刻み付けた。
紫原の戦い(天文8年、1539年)
十数年にわたる内乱の転換点となったのが、現在の鹿児島市紫原一帯で行われた決戦である 27。この年、忠良・貴久親子は攻勢を強め、実久方の拠点であった加世田、川辺、市来を次々と攻略していた 14。追い詰められた実久方は、谷山城主の禰寝氏らと結託して紫原に大軍を展開し、忠良・貴久軍を迎え撃った 27。この決戦で忠良・貴久軍は決定的勝利を収め、実久方を敗走させる 1。この勝利により、相州方は薩摩半島における覇権をほぼ手中に収めた 14。
市来鶴丸城の攻略(天文8年、1539年)
紫原での勝利の勢いに乗り、忠良・貴久親子は同年8月、実久方の重要拠点である市来鶴丸城を攻撃した 1。この戦いで実久の弟・忠辰を討ち取られると、実久の勢力は完全に瓦解 1。彼は本拠地である出水へと撤退を余儀なくされ、守護としての実質を完全に失った 1。ここに、十数年に及んだ島津宗家の家督を巡る内紛は、忠良・貴久親子の勝利という形で事実上の終結を迎えたのである 30。
この一連の内乱は、単なる一族内の権力闘争に留まらない、より大きな歴史的意義を持っていた。それは、室町幕府の権威を背景とする旧来の「守護大名」体制が崩壊し、自らの実力によって領国を直接支配する「戦国大名」体制へと、島津氏が変貌を遂げる過程そのものであった。学術的な研究( 28 )によれば、忠良と貴久は、この変革を巧みに主導したことがわかる。
忠良は、武力によって実久を圧倒するという「実力」を示す一方で、その支配の正当性を担保するための「名分」の獲得にも腐心した。彼は、自らが守護の座に就くのではなく、あくまで嫡男・貴久を正統な後継者として立て、自身は後見役に徹した。そして、京都の朝廷や幕府に働きかけ、貴久が島津宗家当主の伝統的な官途である「修理大夫(しゅりのだいぶ)」に任官されるよう画策した 28 。この外交工作において、京都の有力公家である近衛家や、鉄砲伝来によってその重要性を増していた種子島氏との連携が、決定的な役割を果たした 28 。
さらに、戦国大名としての実効支配を確立するため、旧来の権力構造にもメスを入れた。大隅国の守護代であった本田氏など、自立的な動きを見せる勢力を討伐し、領国支配の一元化を図ったのである 28 。
こうした軍事・外交・内政における周到な布石が実を結び、天文14年(1545年)、貴久は島津一門の諸家から正式に「三国(薩摩・大隅・日向)守護」として承認される 13 。これは、幕府の任命による名目的な守護ではなく、領国内の諸勢力を実力で束ねた「戦国大名」としての島津氏が、名実ともに誕生した瞬間であった 13 。この長期にわたる壮大な計画を立案し、幾多の困難を乗り越えて完遂させた忠良の戦略家としての手腕は、特筆に値する。彼は、権威がもはや与えられるものではなく、自ら「創り出す」ものであることを深く理解し、実力と名分を巧みに融合させることで、新たな時代の支配者としての正統性を構築したのである。
島津忠良の人物像を際立たせているのは、戦場における武勇や政争における謀略だけではない。彼は同時に、深い思索と信仰に根差した独自の思想体系を構築し、それを後世にまで続く教育の形として遺した、稀有な思想家でもあった。この章では、彼の精神世界の核心である「日学」と思想の結晶である『いろは歌』、そしてそれが薩摩の武士道に与えた影響について詳述する。
忠良の思想の根幹をなすのは、「日学(じつがく)」と称される独自の思想体系である 1 。これは、彼が生涯を通じて深く学んだ三つの教え—儒教、仏教、神道—を、単に折衷するのではなく、武士が乱世を生き抜くための実践的な道として有機的に融合させたものであった。
その基盤には、桂庵玄樹が薩摩にもたらした朱子学がある 15 。君臣の道や修己治人(己を修めて人を治める)を説く儒教の教えは、忠良にとって領国を統治するための理論的支柱であった。彼が出家後に名乗った「日新斎」という号は、儒教の経典である『大学』の一節、「苟(まこと)に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなり」に由来すると考えられている 1 。これは、常に自己を省み、日々向上し続けようとする彼の強い意志の表れであった。
一方で、彼は曹洞宗の禅に深く帰依し、仏教的な世界観を持っていた 34 。戦の無常を肌で感じていた彼にとって、生と死を超越した境地を目指す禅の教えは、精神的な安寧をもたらすものであっただろう。さらに、日本の古来の信仰である神道への理解も深く、その奥義を究めたとされる 1 。
「日学」は、これら三つの教えを統合し、武士としての「あるべき姿」を示した。それは、儒教的な忠孝と仁義を重んじ、仏教的な慈悲と無常観を持ち、神道的な敬虔さと清浄な心を尊ぶという、複合的な人間像の追求であった。この独自の思想体系こそが、後に詳述する『いろは歌』の根底を流れる精神であり、薩摩武士道の源流となったのである。
忠良の思想と教育哲学が最も凝縮された形で表現されているのが、彼が制作した全四十七首の和歌、通称『日新斎いろは歌』である 5 。天文15年(1546年)頃に完成し、関白・近衛稙家に献上されたこの歌集は、「い」「ろ」「は」の47文字で始まるそれぞれの歌に、人間として、そして武士として歩むべき道を説いた教訓が織り込まれている 15 。それは単なる道徳訓の羅列ではなく、リーダーシップ、自己規律、人材育成、対人関係といった、現代の組織論にも通じる極めて実践的な内容を含んだ、体系的なマネジメント教本であった。
以下に、その全四十七首と現代語訳を一覧で示す。
|
原文 |
現代語訳 |
い |
いにしへの道を聞きても唱へても わが行にせずばかひなし |
昔の聖人賢者の立派な教えを聞いたり、口で唱えたりしても、自ら実行しなければ何の役にも立たない。 |
ろ |
楼の上もはにふの小屋も住む人の 心にこそは高きいやしき |
立派な御殿に住んでいようと、粗末な小屋に住んでいようと、それで人間の価値は決まらない。住む人の心のあり方こそが、その人の真価を決めるのだ。 |
は |
はかなくも明日の命を頼むかな 今日も今日もと学びをばせで |
明日があるさと命を頼りにして、今日もまた学問や修行を怠ってしまうのか。人の命は儚いものだ。 |
に |
似たるこそ友としよけれ交らば 我にます人おとなしき人 |
自分と似たような者とは友人になりやすいが、徳を高めるためには、自分より優れた見識を持つ人や、思慮深く穏やかな人を友とすべきである。 |
ほ |
仏神他にましまさず人よりも 心に恥ぢよ天地よく知る |
神仏はどこか遠くにいるのではなく、自分自身の心の中にいるのだ。他人の目よりも、まず自分の心に恥じることのないようにせよ。天地は全てお見通しである。 |
へ |
下手ぞとて我とゆるすな稽古だに つもらばちりも山とことの葉 |
自分は下手だからと諦めて努力を怠ってはならない。稽古を積み重ねていけば、塵も積もって山となるように、必ず上達する。 |
と |
科ありて人を斬るとも軽くすな 生かす刀もただ一つなり |
たとえ罪があって人を斬る場合でも、決して軽々しく行ってはならない。人を活かすも殺すも、その刀一つ、判断一つにかかっているのだ。 |
ち |
知恵能は身につきぬれど荷にならず 人はおもんじはづるものなり |
知恵や技能はいくら身につけても荷物になることはない。多くを学んだ人は、世間の人々から重んじられ、逆に学のない者は恥じることになるだろう。 |
り |
理も法も立たぬ世ぞとてひきやすき 心の駒の行くにまかすな |
道理も法も通用しない乱世だからといって、安きに流れやすい自分の心を、馬の赴くままにさせてはならない。常に自らを律せよ。 |
ぬ |
ぬす人はよそより入ると思うかや 耳目の門に戸ざしよくせよ |
盗人は外からやって来ると思っているかもしれないが、本当に恐ろしい盗人は、目や耳から入ってくる欲望や邪念である。心の門戸をしっかりと閉ざしなさい。 |
る |
流通すと貴人や君が物語り はじめて聞ける顔もちぞよき |
身分の高い人や主君が話をされるときは、たとえ聞き知っていることであっても、初めて聞くような真摯な態度で拝聴するのが良い。 |
を |
小車の我が悪業にひかれてや つとむる道をうしと見るらん |
小さな車が(牛に引かれるように)自分の怠け心に引かれて、本来務めなければならない道を辛いものと感じてしまうのではないか。 |
わ |
私を捨てて君にし向はねば うらみも起り述懐もあり |
私心を捨てて主君に仕えなければ、不平不満が心に生じ、恨み言も出てくるものだ。 |
か |
学文はあしたの潮のひるまにも なみのよるこそなほ静かなれ |
学問をするのに朝でも昼でも構わないが、万物が寝静まる夜の静けさこそ、より一層集中できるものである。 |
よ |
善きあしき人の上にて身を磨け 友はかがみとなるものぞかし |
人は自分の行いの善し悪しには気づきにくいが、他人のそれはよく見える。友人を鏡として、良い点は見習い、悪い点は自らを省みよ。 |
た |
種となる心の水にまかせずば 道より外に名も流れまじ |
私利私欲という悪の種を心の水に任せて育ててしまえば、人の道に外れた悪評が立つだろう。その種を断ち切り、仏の教えに従うべきだ。 |
れ |
礼するは人にするかは人をまた さぐるは人を下ぐるものかは |
礼を尽くすことは、相手のためではなく、自らを敬い、高めることである。同様に、人を見下すことは、自らを貶めることなのだ。 |
そ |
そしるにも二つあるべし大方は 主人のためになるものと知れ |
人を謗るのにも二種類ある。多くは主君のためを思っての忠言であり、私怨によるものとは区別して、自分の戒めとすべきである。 |
つ |
つらしとて恨みかへすな我れ人に 報ひ報ひてはてしなき世ぞ |
相手から辛い仕打ちをされても、恨みを返してはならない。報復は報復を呼び、果てしなく続いてしまう。 |
ね |
ねがはずば隔てもあらじ偽りの 世に誠ある伊勢の神垣 |
無理な願い事をしなければ、神は分け隔てなく人を見てくださる。偽りの多い世の中だが、伊勢の神宮には誠があるのだ。 |
な |
なすことのならぬ働きするひとは 人の心をみぬにやあるらん |
何事も上手くいかない人は、人の心をよく見ていないからではないだろうか。 |
ら |
楽も苦も時すぎぬれば跡もなし 世に残る名をただ思ふべし |
楽しいことも苦しいことも、時が過ぎれば跡形もなく消えてしまう。一時の感情に惑わされず、後世に残る名誉をこそ考えるべきだ。 |
む |
無勢とて敵をあなどることなかれ 多勢を見ても恐るべからず |
味方が少数だからといって敵を侮ってはならない。また、敵が多数だからといって恐れてはならない。兵の強弱は数ではない。 |
う |
憂かりける今の身こそはさきの世と おもへば今ぞ後の世ならん |
辛いことの多い現世は、前世の行いの結果である。そう思えば、今の自分の行いこそが、来世の自分を作るのだ。 |
ゐ |
亥にふして寅には起くと夕露の 身を徒にあらせじがため |
夜10時に寝て朝4時に起きる。それは、露のようにはかない命を無駄にしないためである。時間を大切にせよ。 |
の |
のがるまじ所をかねて思ひきれ 時に到りて涼しかるべし |
どうしても逃れられない死地に追い込まれたならば、かねてから覚悟を決めておけ。そうすれば、いざという時に未練なく、心清らかでいられるだろう。 |
お |
思ほへず違ふものなり身の上の 欲をはなれて義を守れ人 |
予期せぬ過ちというものは、私欲から生じるものである。人は私欲を捨てて、人として正しい道(義)を守るべきだ。 |
く |
九重の雲の上まで聞えあげて 誠あるとは人のこころぞ |
天皇の住む宮中にまで聞こえるほど素晴らしいもの、それは人の持つ「誠」の心である。 |
や |
やはらぐと怒るを両方もちもちて ときによるこそ道にはかなへ |
柔和な態度と厳しい態度の両方を持ち合わせ、時と場合によって使い分けることこそ、人の道を実践することになる。 |
ま |
万能も一心とあり事ふるに 身ばし頼むな思案堪忍 |
多くの才能を持っていても、真心がなければ役に立たない。自分の才能を過信せず、常に深く考え、耐え忍ぶことが大切である。 |
け |
賢不肖用ひ捨つると言ふ人も 必ずならば殊勝なるべし |
賢い者を登用し、愚かな者を遠ざけるべきだ、と口で言う人は多い。もしそれを必ず実行できるなら、本当に素晴らしいことだ。 |
ふ |
不勢なる身をばかへりみず人の上を すくはんとのみおもふべし |
自分の不利な状況を顧みず、まず人の苦難を救おうと思うべきである。 |
こ |
心こそ軍する身の命なれ そろはで破れ揃ひては勝つ |
心の結束こそ、戦う者たちの命である。心が揃わなければ敗れ、揃えば勝つことができる。 |
え |
廻向には我と人とを隔つなよ 看経はよししてもせずとも |
死者を弔い極楽往生を祈る「廻向」においては、敵味方の区別をしてはならない。読経をするかどうかは本質ではない。 |
て |
敵となる人こそ己が師匠ぞと 思ひかへして身をも嗜め |
自分に敵対する者こそ、自分を成長させてくれる師匠だと思い直し、自らの行いを戒めよ。 |
あ |
あきらけき目も呉竹のふしごとに よろづの理わりことわりを知る |
明るく澄んだ目は、竹の節を見るように、物事の節目ごとに道理を見極めることができる。 |
さ |
酒も水流れも酒となるぞかし ただ情あれ君がことの葉 |
与え方次第で、酒も水のように無価値になり、水のような僅かなものでも酒のように人の心を奮い立たせることができる。人の上に立つ者は、ただ情け深い言葉をかけるべきである。 |
き |
聞くことも又見ることもうちつけに みな迷なりみなさとりなり |
聞くことも見ることも、先入観なく素直に受け止めれば、全てが迷いにもなり、全てが悟りにもなる。 |
ゆ |
弓を得て失ふことも大将の こころひとつの手をばはなれず |
軍勢の結束を保ち勢いを盛んにするも、それを失い軍を弱体化させるも、全ては大将の心一つの働きによる。 |
め |
めぐりては我が身にこそつかへけれ 先祖のまつり忠孝の道 |
先祖を祀ることや、主君や親に忠孝を尽くすこと。それらは巡り巡って、やがては自分自身のためになるのだ。 |
み |
皆人のそしりもほめも風の音の 心にふれて残らぬぞよき |
他人からの悪口も賞賛も、まるで風の音のように心に留めず、一喜一憂しないのが良い。 |
し |
舌だにも歯のこはきをばしるものを 人は心のなからましやは |
柔らかい舌でさえ、硬い歯に触れることを知って自らを守る。ましてや心ある人間が、危険を察知できないことがあろうか。 |
ゑ |
ゑへる世をさましてやらで盃に 無明の酒をかさねるはうし |
この迷いの多い世の中を正そうともせず、さらに酒を重ねて酔いしれ、迷いの闇を深めるのは情けないことだ。 |
ひ |
人をただすことこそ己れをただすなれ 人をたださで己れたださん |
人の行いを正すことこそ、自分自身を正すことにつながる。人を正そうとせずして、どうして自分を正すことができようか。 |
も |
もろもろの国や人の栄ゆるも 亡ぶるもみな天の道なり |
様々な国や人が栄えるのも滅びるのも、全ては天の摂理によるものである。 |
せ |
善をみてただちにうつる心こそ 学文せずして道にかなへり |
良い行いを見たら、すぐにそれを見習おうとする心。それこそが、難しい学問をせずとも人の道にかなうものである。 |
す |
すこし身に痛きことこそ薬なれ 好めるものゝ身のためならず |
少し身に痛いと感じるような苦言や試練こそが、自分を成長させる薬となる。ただ好むものばかりが、自分のためになるとは限らない。 |
出典: 36 等の資料を基に編纂。
忠良が遺した『いろは歌』は、単なる個人の著作に留まらなかった。それは後の薩摩藩において、武士の子弟を教育するための独自のシステム「郷中教育(ごじゅうきょういく)」の根幹をなす聖典として、絶大な影響力を持つことになる 4 。
郷中教育とは、城下の各居住区(郷中)ごとに組織された、武士の青少年たちのための自治的な教育共同体である 41 。その最大の特徴は、特定の教師を置かず、年長の青少年(二才、にせ)が年少の者(稚児、ちご)を指導するという縦の繋がりを基本とした点にある 42 。彼らは共に学び、共に遊び、武芸に励む中で、武士としての価値観や行動規範を身体で覚えていった。
この郷中教育において、『いろは歌』は暗唱が義務付けられ、その精神は薩摩武士の行動規範そのものとなった 44 。特に「いにしへの道を聞きても唱へても わが行ひにせずばかひなし」という実践重視の精神は、薩摩の気風を象徴するものとなった。
さらに、郷中教育では「詮議(せんぎ)」と呼ばれる独特の訓練が行われた 46 。これは、武士として遭遇しうる様々な困難な状況(例えば「敵討ちの相手に海で助けられたらどうするか」など)を想定し、それに対してどう判断し行動すべきかを即座に答えさせ、議論するというケーススタディ形式の討論訓練である 46 。この訓練は、『いろは歌』に示された理念を、いかにして現実の複雑な状況で応用するかを鍛えるための、いわば実践訓練装置であった。理念の学習(いろは歌)と、その応用訓練(詮議)が一体となったこの教育システムこそが、幕末に至るまで薩摩藩が強靭な精神力と団結力を誇る人材を輩出し続けた源泉であり、その大本には忠良の思想があったのである。
忠良の思想を語る上で、もう一つ特筆すべきは、彼の深い信仰心に根差した慈悲の行いである。天文7年(1538年)から翌年にかけて、長年の宿敵であった島津実久方の拠点・加世田城を攻略した際、忠良は戦勝に驕ることなく、この戦いで命を落とした敵味方双方の兵士を弔うため、天文9年(1540年)に六地蔵塔を建立した 7 。
この行為の背景には、仏教、特に忠良が帰依した曹洞宗が説く「怨親平等(おんしんびょうどう)」という思想がある 49 。これは、怨みのある敵も、親しい味方も、仏の前では平等であり、等しく慈悲の対象とすべきであるという教えである。戦国時代、敵の首を塚に埋めて供養する例は他にも見られるが、忠良のように敵味方の区別なく、平等にその菩提を弔うという行為は、彼の深い信仰心と人間性を示すものと言えよう。
しかし、これは単なる宗教的な行為に留まるものではなかった。敵兵をも手厚く弔う領主の姿は、新たに支配下に入った加世田の領民の心を慰撫し、自らの徳の高さを示すことで、統治を円滑に進めるという高度な政治的意図をも含んでいたと考えられる。武力による制圧の後に、慈悲による慰撫を行う。この硬軟両様の使い分けこそ、忠良の統治術の巧みさであった。この「怨親平等」の精神は、孫の島津義弘が木崎原の合戦後や朝鮮出兵後に敵味方の供養塔を建立したことにも受け継がれており、島津氏の家風として定着していった 52 。
島津忠良の功績は、宗家の再興や思想の確立に留まらない。彼は、息子・貴久が築く戦国大名としての島津家の支配体制を盤石にするため、経済、軍事、そして人材育成の各方面において、後世にまで続く強固な礎を築き上げた。この章では、彼が晩年に心血を注いだ領国経営の実態を明らかにする。
天文19年(1550年)、嫡男・貴久が名実ともに薩摩の支配者として鹿児島の内城に入ると、忠良は第一線から退き、南薩摩の加世田に隠居した 11 。しかし、これは完全な引退を意味するものではなく、彼は加世田をモデルケースとして、自らの理想とする領国経営を実践し始めた。
彼の統治は「仁政」、すなわち領民の生活を豊かにし、安寧をもたらすことを第一とした。具体的な施策として、交通の要衝である万之瀬川に橋を架け、養蚕などの新たな産業を興して領内の経済を活性化させた記録が残っている 1 。
特に注目すべきは、忠良が加世田で整備した「麓(ふもと)」と呼ばれる武家屋敷群を中心とした町づくりである 1 。これは単なる城下町の整備ではない。後の薩摩藩が、広大な領国を統治するために創り上げた独自の地方支配システム「外城制度(とじょうせいど)」の原型ともいえるものであった。外城制度とは、本城である鹿児島城以外に、領内各地に「外城」と呼ばれる拠点を置き、そこに地頭と武士団を常駐させて地方の軍事・行政を担わせる仕組みである 42 。その中心となる武家屋敷群が「麓」であった。
このシステムは、(1)有事の際には即応可能な防衛拠点となり(軍事)、(2)平時には地方行政の中心として機能し(行政)、(3)郷中教育の実践の場となる(教育)、という三つの機能を併せ持った、極めて合理的かつ複合的な統治機構であった 57 。武士を各地に分散させ、半農半士として土地に根付かせることで、平時の統治コストを抑制しつつ、有事の際の動員力を最大化する。この薩摩藩の強さの源泉となった制度の萌芽が、忠良の加世田統治に見られることは、彼の為政者としての先見性を示している。
戦国大名がその勢力を維持・拡大するためには、強大な軍事力と、それを支える豊かな経済力が不可欠である。忠良は、この二つの要素を両輪として強化する戦略を巧みに実行した。
第一の柱が、貿易による富の蓄積である。南九州という地理的優位性を活かし、忠良は早くから琉球王国を介した明との中継貿易に着目していた 5 。当時、琉球は東アジアの海上交易のハブであり、明からは生糸や陶磁器、東南アジアからは香辛料などがもたらされた。島津氏はこれらの交易品、特に火薬の原料として軍事的に極めて重要であった硫黄などを輸出することで、莫大な利益を上げていたと考えられる 59 。忠良・貴久親子は、山川港などを拠点としてこの貿易体制を整備し、島津家の財政基盤を強固なものとした 59 。この時代に築かれた海外とのパイプと貿易のノウハウは、後の江戸時代に薩摩藩が密貿易によって財政を再建する際の遠因ともなった。
第二の柱が、最新兵器の導入である。天文12年(1543年)、種子島にポルトガル船が漂着し、日本に初めて鉄砲が伝来した 64 。忠良と貴久は、この新兵器がもたらす軍事革命の重要性を誰よりも早く見抜き、その導入に乗り出した 5 。彼らは種子島氏から鉄砲を入手し、家臣にその製法を学ばせ、国産化を推進した 66 。そして息子の貴久は、天文24年(1553年)の岩剣城の戦いにおいて、史料上確認できる限り、日本の戦国大名として初めて鉄砲を実戦で使用したとされている 22 。
この二つの政策は、密接に連携していた。貿易によって得た莫大な利益が、高価な鉄砲の大量購入と国産化のための財源となった。そして、鉄砲によって飛躍的に強化された軍事力が、貿易ルートの安全を確保し、さらなる領土拡大を可能にした。忠良が創出したこの「経済力と軍事力の好循環」こそ、島津家が九州の強豪へと飛躍する原動力となったのである。
忠良の数ある功績の中でも、最大の遺産と呼べるのが、優れた後継者を育成したことである。彼は、自らが心血を注いで宗家の家督を継がせた嫡男・貴久を、名実ともに「島津の英主」と呼ばれる立派な大名へと育て上げた 22 。貴久が当主となった後も、加世田から後見役としてその治世を支え続け、薩摩・大隅の統一事業を二人三脚で推進した。
さらに、忠良の卓越した人物眼は、孫の世代にも注がれていた。貴久には、義久、義弘、歳久、家久という、後に「島津四兄弟」と称され、戦国史にその名を轟かせる四人の息子がいた。忠良は、この孫たちがまだ幼い頃から、それぞれの個性と才能を的確に見抜いていたと伝えられている 23 。『名将言行録』などによれば、忠良は四兄弟を次のように評したという。
この評価は、後の彼らの活躍—すなわち、大将として家を束ねた義久、戦場で鬼神のごとき武勇を示した義弘、知略で家を支えた歳久、そして戦術の天才であった家久—の姿を驚くほど正確に予見している。これは、忠良が単に情に厚い祖父であっただけでなく、人の本質を見抜く冷徹な観察眼を持った、優れた教育者・組織の指導者であったことの何よりの証左である。彼が築いた盤石な基盤と、彼が育てた有能な後継者たち。この二つが揃ったことで、島津家は九州統一に迫るほどの隆盛を迎えることになるのである。
島津忠良、号して日新斎。彼の77年の生涯は、分裂した一族を再統合し、衰亡の危機にあった大名家を南九州の覇者へと押し上げる、まさに「中興」の事業そのものであった。彼の功績は、同時代の他の戦国大名と比較することで、より一層その独自性と先進性が浮き彫りになる。本章では、彼の歴史的評価を総括し、その遺産が後世に与えた影響を考察する。
忠良が「島津家中興の祖」と称される所以は、単に内紛を収拾し、嫡男・貴久を当主の座に据えたという事実だけに留まらない 7 。彼の真の功績は、戦国大名・島津氏がその後2世紀以上にわたって繁栄を続けるための、多岐にわたる盤石な礎を、その生涯をかけて築き上げた点にある。
その功績は、以下の四点に集約できる。
第一に、権力構造の再編である。彼は、幕府の権威に依存する旧来の守護大名体制から、自らの実力と領国支配の正当性に基づく戦国大名体制へと、島津氏を完全に移行させた。
第二に、統治イデオロギーの確立である。彼は「日学」という独自の思想を体系化し、その実践的教えを『いろは歌』として結実させた。これは、武士団に共通の価値観と行動規範を与え、強固な精神的結束を生み出す装置となった。
第三に、経済・軍事基盤の近代化である。琉球貿易による富の蓄積と、鉄砲という最新兵器の導入・国産化を推進し、島津家の経済力と軍事力を飛躍的に向上させた。
第四に、後継者育成システムの構築である。自ら息子や孫を薫陶しただけでなく、『いろは歌』を核とする「郷中教育」の原型を築き、有能な人材を継続的に輩出する仕組みを遺した。
これらの事業は、いずれも単なる対症療法ではなく、国家建設にも通じる長期的かつ体系的なビジョンに基づいていた。忠良が敷いたこの礎があったからこそ、孫の義久・義弘らの代に、島津家は九州統一に迫るほどの飛躍を遂げることができたのである。
忠良の独自性を理解するために、同じく戦国時代初期に台頭し、一代で大名家の基礎を築いた北条早雲、毛利元就と比較することは有益である。
北条早雲との比較
「最初の戦国大名」とも称される北条早雲は、領国支配の安定化のため、検地をいち早く実施し、「四公六民」という画期的な税制改革を行うなど、卓越した民政家であった 71。忠良もまた、加世田で仁政を敷くなど民政に意を用いたが、彼の特色はそれに加え、琉球貿易という「外部からの富」を積極的に導入し、経済基盤を強化した点にある。さらに、早雲が遺した『早雲寺殿廿一箇条』が主に行動規範を定めた家訓であるのに対し、忠良の『いろは歌』は、より体系的な思想に基づき、家臣団の内面から変革しようとする、徹底した「精神教育」の側面が強い。
毛利元就との比較
「謀神」と称された毛利元就は、「三本の矢」の逸話に象徴される一族の結束を説き、巧みな謀略と婚姻政策によって中国地方の国人領主たちを巧みに統制し、一代で中国地方の覇者となった 75。忠良もまた謀略に長けていたが、彼が家臣団の結束を醸成するために用いた主要な手段は、謀略よりも『いろは歌』と郷中教育という「教育システム」であった。また、元就がまとまった形の分国法(家法)を制定しなかったのに対し、忠良の『いろは歌』は、事実上の分国法として、薩摩武士の行動を隅々まで規定する役割を果たした点も対照的である。
この比較から浮かび上がるのは、忠良の際立った特質である。彼は、軍事力や政治制度といった「ハードパワー」の重要性を認識しつつも、それ以上に、共通の価値観や思想、教育といった「ソフトパワー」を重視した。武力による支配だけでなく、思想による内面からの統治を目指した点に、彼の先進性がある。この強固なソフトパワーこそが、島津家が幾多の危機を乗り越え、長期にわたって強固な団結を維持できた最大の要因であったと言えるだろう。
加世田に隠居してからの18年間、忠良は実権を握り続けながらも、主に思想家、教育者としての活動に専念した 11 。彼は、自らが築き上げた戦国大名・島津家の未来を、息子・貴久と孫たちに託し、その成長を静かに見守った。
永禄11年(1568年)12月13日、忠良は加世田の地で、77年の波乱に満ちた生涯を閉じた 1 。彼が遺した辞世の句は、その生涯を凝縮するかのように、深い禅的な境地を示している。
不来不去 四大不空 本是法界 我心如心
(ふらいふきょ しだいふくう ほんぜほうかい がしんにょしん)
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「来ることもなく、去ることもない。この身体を構成する四大(地水火風)も本質的には空(くう)である。万物は本来、真理の世界(法界)そのものであり、我が心もまた、その真理の心と一つである」。これは、生と死、存在と無という対立を超越し、宇宙の真理と一体化するという仏教的な悟りの境地を詠んだものと解釈される。
智勇を兼ね備えた武将、冷徹な謀略家、仁政を敷いた為政者、そして深遠な思想家。多くの顔を持った島津忠良の死後も、彼が遺した『いろは歌』と郷中教育の精神は、薩摩藩士の血肉となり、その独特な気風を形成し続けた。幕末の動乱期、西郷隆盛や大久保利通をはじめとする多くの薩摩の志士たちが、この教えを胸に抱いて時代を動かしたことを思えば、島津日新斎が日本の歴史に与えた影響は、南九州の一大名の功績に留まらない、計り知れない広がりを持つものと言えよう。彼の蒔いた種は、三百年の時を超えて、近代日本の黎明期に大きな花を咲かせたのである。