戦国時代の九州を席巻した島津氏の興隆は、しばしば「島津四兄弟」と称される四人の傑出した兄弟の結束力によって語られる。すなわち、大局を見据え、一門を統率する「大器の長男」義久、戦場にあっては鬼神のごとき武勇を誇る「剛勇の次男」義弘、そして若くして軍略の才を発揮し、数々の奇跡的な勝利を演出した「軍略の四男」家久である 1 。この個性豊かな兄弟の中で、三男である島津歳久は、祖父であり島津家中興の祖と仰がれる日新斎(忠良)から「始終の利害を察するの智計並びなく」(物事の始めから終わりまでの利害得失を見通す知略は、他に並ぶ者がない)と評された 1 。この評価は後世に広く伝わり、歳久は「智計の三男」として歴史にその名を刻んでいる 1 。
しかしながら、この「智将」という一面的な評価は、彼の複雑で多層的な人物像を完全に捉えきれているとは言い難い。若き日の彼は、兄たちと共に自ら敵陣に斬り込み、重傷を負うことも厭わない「猛将」としての一面を見せていた 1 。また、天下人・豊臣秀吉に対しては、その実力を誰よりも早く見抜いて和睦を唱える冷静な現実主義者であったかと思えば、一転して最後まで徹底抗戦を主張する強硬な反骨の士へと変貌する。この一見矛盾した行動は、単なる「智将」という言葉だけでは説明がつかない。彼の生涯は、知略と武勇、冷静と激情、恭順と反骨といった相克する要素を内包し、その果てに島津家の安泰のために自らを犠牲にするという悲劇的な最期を迎える。
本報告は、島津歳久という武将の生涯を、現存する史料や各地に残る伝承を網羅的に調査・分析し、多角的に再構築することを目的とする。彼の輝かしい武功、領主としての巧みな統治、中央政権との緊張関係の中で下された政治的判断、そして島津家存続のために自らの命を絶ったとされる最期に至るまで、その行動原理と歴史的意義を深く掘り下げて解明する。通説である「智計の三男」という評価を再検討し、その知略の根源、行動の背後にあった一貫した論理、そして彼の死が後世に与えた計り知れない影響を明らかにすることで、島津歳久という一人の武将の実像に迫りたい。
島津歳久が生まれた16世紀前半の南九州は、長きにわたる動乱の時代であった。鎌倉時代以来の名門である島津氏も、室町時代には本家と複数の分家が互いに覇を競い、その勢力は大きく衰退していた 5 。この混乱を収拾し、戦国大名としての島津氏の礎を築いたのが、歳久の父である第15代当主・島津貴久である 5 。
貴久は本来、伊作島津家という分家の出身であったが、その器量を見込まれて弱体化していた宗家の養嗣子となり、内紛を制して当主の座に就いた 6 。彼は島津家「中興の祖」と称されるにふさわしく、卓越した政治力と軍事力で薩摩国の再統一を推し進めた 5 。また、貴久は旧来の慣習に囚われない進取の気性に富んだ大名でもあった。天文12年(1543年)に種子島へ鉄砲が伝来すると、その重要性をいち早く認識し、実戦に導入した 7 。さらに天文18年(1549年)には、宣教師フランシスコ・ザビエルと一宇治城で会見し、キリスト教の布教を一時的に許可するなど、海外の文物や情報にも開かれた姿勢を示した 8 。歳久が育ったのは、このような父・貴久の下で、島津家が旧弊を脱し、新たな時代の息吹を取り入れながら勢力を拡大していく、先進性と緊張感に満ちた時代であった。
島津歳久は、天文6年(1537年)7月10日、薩摩国伊作(現在の鹿児島県日置市吹上町)の亀丸城にて、島津貴久の三男として生を受けた 10 。母は薩摩の有力国人であった入来院重聡の娘、雪窓夫人である 12 。歳久には同母兄として、後に家督を継ぎ、島津家の総大将として君臨する義久と、勇猛果敢な戦いぶりで「鬼島津」と恐れられる義弘がいた。また、異母弟には、軍略の天才と評される家久がおり、この四兄弟の類稀なる才能と固い結束が、後の島津家の飛躍を支える原動力となった 1 。
彼らはそれぞれ異なる個性と役割を担い、一つの強力な軍事・政治組織として機能した。義久は本拠地である薩摩から動かず、全体の戦略を練り、政治を取り仕切る最高指導者であった 5 。義弘と家久は、その両腕として各地の戦線で軍を率い、敵を打ち破る実行部隊であった 2 。そして歳久は、その間にあって、戦局全体を俯瞰し、知略をもって兄弟たちを補佐する役割を担ったのである。
項目 |
島津義久 |
島津義弘 |
島津歳久 |
島津家久 |
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生誕年 |
天文2年 (1533) |
天文4年 (1535) |
天文6年 (1537) |
天文16年 (1547) |
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母 |
雪窓夫人(入来院重聡娘) |
雪窓夫人(入来院重聡娘) |
雪窓夫人(入来院重聡娘) |
本田親康女 |
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通称・官位 |
又三郎、修理大夫、龍伯 |
又四郎、兵庫頭、惟新 |
又六郎、左衛門督、金吾 |
又七郎、中務大輔 |
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評価・役割 |
大器(総大将・政治) |
剛勇(猛将・実行部隊) |
智計(智将・参謀) |
軍略(戦術家・実行部隊) |
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主な功績 |
三州統一、九州制覇の総指揮 |
木崎原の戦い、朝鮮出兵 |
耳川の戦いでの後方支援、対秀吉交渉 |
沖田畷の戦い、戸次川の戦い |
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最期 |
慶長16年 (1611) 病死 (享年79) |
元和5年 (1619) 病死 (享年85) |
天正20年 (1592) 自害 (享年56) |
天正15年 (1587) 急死 (享年41) |
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出典: 1 |
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歳久の「智計」を最初に見抜いたのは、祖父である島津忠良(日新斎)であった 4 。日新斎は、自らも島津家の内紛を乗り越えてきた経験から、武力だけでなく、人心掌握や大局観の重要性を説いた教育者でもあった。彼が遺した『日新公いろは歌』は、後世の薩摩藩士の精神的支柱となったことで知られる。その日新斎が、四人の孫を評した際に、歳久に対して与えたのが「始終の利害を察するの智計並びなく」という言葉であった 1 。
この評価は、単に頭脳明晰であるとか、机上の空論に長けているといった意味ではない。それは、目前の戦況だけでなく、戦いが終わった後の統治や、敵味方の利害関係の変化までをも見通し、最も合理的な判断を下す能力を指している 1 。戦国という混沌の時代において、目先の勝利に酔うことなく、常に最終的な着地点を冷静に見据えることができる、極めて高度な戦略的思考力を評価したものである。この祖父による的確な人物評は、歳久が後に見せる、一見すると矛盾に満ちた政治的判断や、複雑な行動様式を理解する上で、極めて重要な鍵となる。
歳久の「智計」は、天性のものだけに帰することはできない。それは、父・貴久が示した、鉄砲やキリスト教といった新しい時代の変化を恐れず、現実的に利用しようとする先進的な統治姿勢 7 と、祖父・日新斎が説いた、人間の本質を見抜き、大局的な利害を調整する現実的な帝王学という、二つの異なる、しかし補完的な教育的土壌から育まれたものと考察できる。貴久から学んだ「先進性」と「現実主義」、そして日新斎から受け継いだ「人間洞察」と「大局観」。この二つが融合した結果として、歳久独自の戦略眼が形成されたのではないか。この視点は、彼の生涯を貫く複雑な判断の根源を解き明かす上で、不可欠な前提となるだろう。
祖父・日新斎によって「智計」を高く評価された歳久であるが、その武将としてのキャリアは、知略よりもむしろ勇猛さを示すことから始まった。彼の初陣は、天文23年(1554年)、17歳(一説に18歳)の時に行われた大隅国・岩剣城攻めであった 10 。この戦いは、22歳の長兄・義久、20歳の次兄・義弘にとっても初陣であり、島津四兄弟の伝説が幕を開けた記念すべき合戦であった 12 。
岩剣城は、祁答院良重が拠る、三方を断崖に囲まれた天然の要害であり、攻め落とすのは至難の業であった 10 。祖父・日新斎がその険しさを見て、「三兄弟のうち、誰かが死ななければ落ちまい」と語ったと伝えられるほどの激戦となった 10 。この戦いで、若き歳久は兄たちと共に奮戦し、勝利に貢献した。
初陣での成功は、彼の闘争心に火をつけた。以降の合戦において、歳久は当主一門という安全な立場に甘んじることなく、自ら先陣を切って敵陣深くへと斬り込んでいった。ある戦では左腿に矢が貫通するという重傷を負いながらも、「全く痛くはありませぬ。当たりどころが良かったのでしょう」とうそぶいたという逸話が残っている 1 。その命知らずな戦いぶりは、総大将である兄・義久を大いに心配させ、負傷して後方に下げられた歳久に対し、「いまは精いっぱい養生することが肝要ぞ」と気遣う見舞状を送らせるほどであった 1 。この若き日の姿は、「智将」という後年の評価とは裏腹に、むしろ「猛将」と呼ぶにふさわしいものであった。
数々の戦功を重ねた歳久は、永禄5年(1562年)、26歳の若さで吉田城(現在の鹿児島市吉田)の城主に任命された 10 。吉田は島津氏の本拠地である鹿児島に近く、戦略的にも重要な拠点であった。歳久はここを拠点として、天正8年(1580年)に祁答院へ移るまでの18年間、周辺地域の統治にあたった 10 。
この吉田城主時代は、歳久が単なる武人から、民を治める領主へと成長を遂げる重要な期間であったと考えられる。戦場での武功に関する具体的な記録は多くないが、彼の統治が優れたものであったことは、後世の事実が物語っている。歳久が祁答院へ去った後、吉田の士民は彼の遺徳を深く慕い、その壮絶な最期を偲んで、城跡に「島津歳久公招魂碑」を建立したのである 10 。領民が自発的に領主の碑を建てるというのは、彼が善政を敷き、領民から深く敬愛されていたことの何よりの証左と言えよう。若き日の武勇に加え、領主としての統治能力もこの時期に培われたのである。
天正8年(1580年)、歳久は44歳の時、これまでの功績を認められ、新たに平定された祁答院十二郷(現在の鹿児島県さつま町一帯)1万8千石を加増され、その本城である虎居城へ移封された 12 。以後、自害によって56歳で生涯を閉じるまでの12年間、この地が彼の本領となった 13 。歳久はこの地名から「祁答院殿」、あるいはその官名(左衛門督)の唐名から「金吾様」と呼ばれ、領民に親しまれた 4 。
祁答院は、周囲を山々に囲まれた盆地で、北薩摩の穀倉地帯へと繋がる要衝であった 10 。歳久はこの地をよく治めながら、島津家の三州統一、そして九州制覇の戦いにおいて、引き続き重要な役割を果たしていく 10 。彼が率いる直属の家臣団は「祁答院衆(宮之城衆)」と呼ばれ、精強な軍団として知られた 12 。歳久と祁答院衆の間の信頼関係は極めて厚く、後に歳久が自害したという報が届くと、3000人もの家臣たちが主君の死を悼んで虎居城に立て籠もったという伝承が残るほどであった 12 。これは、彼が家臣たちから絶大な信望を集める、優れた統率者であったことを示している。
歳久の武将としてのキャリアは、若き日の「個人的武勇」を誇る段階から、領主として兵を養い、組織を率いる「統率者」の段階へと、明確な成長の軌跡を描いている。岩剣城や蒲生城攻めでの無謀ともいえる突撃と、それによって負った重傷の経験は、彼に一個人の武功の限界と、将として自軍の損害を抑えることの重要性を痛感させたのかもしれない。そして、吉田城主、祁答院領主としての長年にわたる統治経験は、戦争を単発の戦闘(点)としてではなく、領国経営という長期的な視点(線)で捉える戦略眼を養わせた。その結果、彼は兵を単なる戦闘の駒としてではなく、統治の基盤であり、守るべき民として慈しむようになった。この変化こそが、祁答院衆との厚い信頼関係を築き、後の九州統一戦における兵站重視の姿勢や、損害を最小限に抑えようとする知略へと結実したと考えられる。彼の「智」は、戦場での痛みを伴う経験と、領主としての重い責任感の中から磨き上げられたものだったのである。
島津貴久の代に再統一された薩摩を基盤に、義久が家督を継ぐと、島津家は積年の悲願であった三州(薩摩・大隅・日向)の統一へと本格的に乗り出した。歳久もまた、この壮大な事業の中核を担う武将として、兄たちと共に各地を転戦した。日向の強敵・伊東氏や、大隅の有力国人・肝付氏などを次々と打ち破り、天正5年(1577年)、ついに島津家は三州の太守となった 7 。
この一連の戦いの中で、歳久の「智将」としての一面が際立ってくる。例えば、日向の都之城を攻めた際には、力攻めによる無益な殺生を避け、まずは降伏勧告を行うことで敵の戦意を削ぎ、後の統治を円滑に進めることを見据えた、理に適った戦い方をしたと伝えられている 21 。彼の戦いは、単に敵を殲滅するだけでなく、その後の領国経営までを視野に入れた、まさに「始終の利害を察する」ものであった。
三州統一を果たした島津氏に対し、北九州の雄・大友宗麟は深刻な脅威を感じ、天正6年(1578年)、4万ともいわれる大軍を日向へ侵攻させた。これに対し島津軍は、総力を挙げてこれを迎え撃つこととなる。世に言う「耳川の戦い」である 2 。
この島津家の命運を賭けた決戦において、次兄・義弘や末弟・家久が前線で目覚ましい活躍を見せ、島津伝統の「釣り野伏せ」戦法で大友軍を壊滅させたことは有名である 2 。しかし、この華々しい勝利の陰には、歳久による地道で、しかし極めて重要な働きがあった。彼はこの戦いで、直接戦闘部隊を率いるのではなく、軍監として、また後方支援の責任者として、戦い全体を支える役割を担った 21 。
具体的には、数万の軍勢が長期間にわたって活動するための兵糧を確保し、前線への補給路を維持すること、そして広大な戦域に展開する各部隊間の連絡を密にするための伝令網を整備することであった 21 。これらは戦史において語られることは少ないが、作戦の成否を左右する生命線である。歳久は、この目立たないが決定的に重要な任務を完璧に遂行することで、義弘や家久が何の憂いもなく前線での戦いに集中できる環境を整えた。耳川での歴史的な大勝利は、彼の「見えざる戦功」なくしてはあり得なかったのである。さらに、大友軍を撃破した後、その本拠である臼杵城を包囲した際には、城下への補給路を断つ兵糧攻めを提案したとも言われ、彼の知略が攻撃面でも発揮されたことがうかがえる 21 。
耳川の戦いで大友氏が大きく後退すると、島津家の次の目標は、肥前の龍造寺氏、そして肥後・筑後の平定へと移った。天正12年(1584年)、有馬氏の救援要請に応じる形で、島津軍は龍造寺隆信の大軍と島原半島で激突する。「沖田畷の戦い」である 2 。この戦いでも、歳久は大軍の一部を率いて参陣し、龍造寺軍の撃破と当主・隆信の討ち取りに大きく貢献した 21 。
続く天正13年(1585年)から14年(1586年)にかけて、島津家は九州統一の総仕上げとして、肥後・筑後への全面的な侵攻を開始する。歳久はこの方面の軍団においても、前線を指揮する将として、また占領地の政務や軍備を統括する責任者として、八面六臂の活躍を見せた 2 。彼の城攻めは、常に損害を最小限に抑えることを第一とした。力攻め一辺倒ではなく、調略を用いて内応を誘ったり、降伏勧告によって戦わずして城を明け渡させたりするなど、武力と知略を巧みに使い分けた 21 。
歳久の九州統一戦における最大の貢献は、義弘や家久のような華々しい直接的な武功ではなく、戦いを盤石なものにするための戦略立案と後方支援にあったと言える。彼の「智計」は、義弘の「剛勇」や家久の「軍略」が戦場で最大限に発揮されるための、いわば土台として機能していた。総大将である義久が、自らの功績について「弟や家臣がよく戦ったから勝てたのであって、私は何もしていない」と謙遜したという逸話があるが 5 、その言葉の内実を具体的に支えていたのが、歳久の働きであった。義久が全軍を統括し、義弘と家久が敵の戦列を砕き、そして歳久がその足元を支える。この見事な役割分担こそが、数的に不利な状況を何度も覆し、九州の覇権をほぼ手中に収めるに至った島津軍の強さの源泉であった。したがって、歳久の戦歴を評価する際には、彼が討ち取った首級の数ではなく、彼が防いだであろう自軍の兵の損害や、彼が確保したであろう兵糧の量を想像する必要がある。彼の功績は、まさに「見えざる戦功」であり、島津軍の持続的な戦闘能力の根源であった。
天正14年(1586年)、島津家の勢威は頂点に達し、九州統一は目前に迫っていた。しかし、その快進撃は、予期せぬ方向からの介入によって大きな転換点を迎える。追い詰められた大友宗麟が、中央で天下統一を目前にしていた関白・豊臣秀吉に助けを求めたのである 5 。秀吉はこれに応じ、九州の諸大名に対して私戦を禁じる「惣無事令」を発令した 7 。
この時、島津家中は長年の連戦連勝に沸き立ち、秀吉の命令を「由来なき仁」からのものとして一笑に付し、徹底抗戦を叫ぶ声が圧倒的多数を占めていた 24 。しかし、この熱狂の中でただ一人、冷静に中央の情勢を見据えていたのが歳久であった。彼は、秀吉が「農民から体一つで身を興したからには只者ではない」とその非凡な実力を正確に見抜き、この強大な敵と戦うことは得策ではないと判断した 5 。そして、四兄弟の中で唯一、秀吉との和睦を強く主張したのである 5 。
この歳久の主張は、極めて現実的かつ合理的なものであった。しかし、九州の覇者としての誇りと自信に満ちた家中の空気を変えることはできなかった。彼の和睦案は評議の場で一蹴され、島津家は秀吉率いる天下の中央政権との全面対決へと突き進むことになった 5 。
歳久の危惧は、現実のものとなった。天正15年(1587年)、秀吉は弟の秀長を総大将とする先発隊に続き、自らも20万を超える空前の大軍を率いて九州に上陸した 5 。いかに精強を誇る島津軍といえども、この圧倒的な兵力差の前には為す術もなかった。戸次川の戦いで一矢報いるも、日向の根白坂の戦いなどで決戦に敗れ、島津軍は敗走を重ねた 28 。
敗色が濃厚となり、兄・義久が全軍の消耗を避けるために剃髪して降伏を決断すると、島津家中の空気は一転して和睦へと傾いていった 7 。ところが、ここで不可解な現象が起きる。当初、誰よりも和睦を唱えていたはずの歳久が、今度は「和睦には時勢があり、今、このまま降伏すべきではない」「この期に及んで降参するとは何事か。ここで秀吉を倒さなければ島津の武門がすたる」と述べ、兄弟の中でただ一人、徹底抗戦を主張し始めたのである 12 。
この突然の方針転換は、一見すると矛盾しており、彼の気まぐれや意地と捉えられがちである。しかし、それは表面的な見方に過ぎない。義久、義弘が秀吉に降伏し、島津家の敗北が確定した後も、歳久は自らの領地である祁答院に立てこもり、最後まで秀吉に恭順の意を示さなかった 13 。この頑なな抵抗こそが、彼の「智計」の最後の発露であった。
歳久の反骨精神を最も象徴する出来事が、秀吉の駕籠への矢射かけ事件である。義久の降伏後、秀吉が薩摩の川内から大口へ陣を移すため、歳久の領内を通過した。その際、歳久は家臣の本田四郎左衛門らに命じ、険しい山道に秀吉軍を巧みに誘い込み、秀吉が乗っているはずの駕籠めがけて矢を六本射かけさせた 12 。
秀吉は襲撃を予期していたか、あるいは用心のために空の駕籠に乗っており、難を逃れた 12 。しかし、天下人たる自分の駕籠に矢を射かけるという前代未聞の行為は、秀吉の歳久に対する不信と怒りを決定的なものにした 1 。この事件は、歳久が単なる敗軍の将ではなく、天下人の支配に屈しない危険な存在であることを天下に知らしめる、強烈な示威行動であった。
歳久の態度の変遷は、矛盾や気まぐれではなく、「島津家の存続と国益の最大化」という一貫した目的意識に基づく、高度な戦略的判断の結果であったと解釈できる。彼の思考は、状況に応じて柔軟に、しかし常に合理的に変化していた。
第一段階、すなわち和平論を唱えた時、島津家は九州の覇者であり、秀吉との戦争は得るものがなく、失うものばかりの「ハイリスク・ノーリターン」な賭けであった。ここで有利な条件で和睦を結ぶことが、島津家の利益を最大化する最も合理的な選択肢であった。これは彼の「始終の利害を察する」能力の的確な現れである。
第二段階、すなわち抗戦論に転じた時、圧倒的な兵力差によって敗北は決定的となっていた。この状況で島津家が交渉のテーブルで持ちうるカードは、もはや「武門の意地」と「抵抗を続けた場合に秀吉側が被るであろう損害」の二つしかなかった。無条件降伏では、領地を大幅に削り取られる可能性が極めて高い。ここで歳久が徹底抗戦を叫び、実際に矢を射かけるという反骨の姿勢を演じることは、秀吉に対して「島津を甘く見ると、今後の統治に多大なコストを要する危険な存在だ」と強烈に認識させるための、計算されたパフォーマンスであった。彼の目的は、もはや「勝つこと」ではなく、「より有利な条件で負けること」へと戦略的にシフトしていたのである。
結果として、島津家が本領である薩摩・大隅に加えて日向の一部を安堵されるという、敗者としては破格の条件で存続を許された背景には 1 、総大将・義久の巧みな降伏交渉に加え、歳久が演じきった「危険で厄介な反逆者」という役割が、秀吉に「これ以上の深追いは得策ではない」という判断を促し、一定の妥協を引き出させた側面があったのではないか。彼の矛盾に見える行動は、その実、終始一貫して島津家のために尽くされた、究極の「智計」であったと結論付けられる。
豊臣秀吉への降伏から5年後の天正20年(文禄元年、1592年)、秀吉は明の征服という壮大な野望を掲げ、朝鮮への出兵(文禄の役)を開始した 31 。島津家もこの国策に従い、次兄・義弘が一万の兵を率いて朝鮮半島へと渡海した 25 。しかし、歳久は長年患っていた中風(あるいは風疾と呼ばれるリューマチ系の病)を理由に、この出兵には参加しなかった 13 。これは仮病ではなく、実際に歩行も困難な状態であったとされるが 34 、九州征伐以来の反抗的な態度と相まって、秀吉の不興を買う大きな一因となった 12 。秀吉は義久、義弘、そして既に亡き家久にはその功績を認める朱印状を与えていたが、歳久には最後まで与えなかった 12 。これは秀吉による島津氏分断の意図があったとも考えられている 12 。
その年の6月、九州の政治情勢を揺るがす大事件が勃発する。島津家の家臣であり、湯之尾(現在の鹿児島県伊佐市)の地頭であった梅北国兼が、朝鮮出兵で主力が不在となった肥後国の軍事的空白を突き、加藤清正の居城であった佐敷城を占拠するという反乱を起こしたのである 13 。この「梅北一揆」は、秀吉の支配に対する反発や、朝鮮出兵への不満などが複雑に絡み合った、計画的な大規模反乱であった 25 。
梅北一揆は、加藤氏や相良氏の軍勢によって間もなく鎮圧され、首謀者の国兼は討ち取られた 25 。しかし、問題はこれで終わらなかった。一揆に加担した者たちの中に、歳久配下の家臣が多数含まれていたことが発覚したのである 13 。これにより、歳久に一揆の黒幕であるという重大な嫌疑がかけられることになった。
歳久が実際にこの一揆に関与していたか否かについては、今日に至るまで定説がなく、歴史上の大きな謎とされている。主な説としては、以下の三つが挙げられる。
いずれの説にも決定的な証拠はなく、真相は藪の中である。しかし、いずれにせよ、この事件が歳久の運命を決定づけたことは間違いない。
駕籠への矢射かけ事件などで、以前から歳久を危険人物と見なしていた秀吉は、梅北一揆の報告、とりわけ歳久の家臣の関与を知り、激怒した 1 。秀吉は、この反乱が歳久の差し金であると断定し、島津家に対して極めて非情な命令を下す。高名な文化人でもあった武将・細川幽斎を薩摩へ派遣し、総大将である兄・義久に対して、「弟・歳久の首を差し出せ」と、一門の粛清を命じたのである 1 。
この命令は、義久にとって苦渋の極みであった。共に幾多の戦場を駆け抜け、島津家の栄光を築いてきた最愛の弟を、自らの手で討たねばならない。しかし、ここで秀吉の命令に背けば、島津家そのものが謀反の咎で取り潰される危険性があった。豊臣政権という巨大な権力構造の中で、家名を存続させるためには、もはや選択の余地はなかった。義久は断腸の思いで、弟・歳久の追討を決断する 1 。この悲劇的な決断の背景には、秀吉による島津氏分断の意図や、中央政権との取次役であった石田三成らの政治的暗躍があったとも指摘されている 12 。
梅北一揆は、単なる一地方の反乱ではなかった。それは、豊臣政権による中央集権的な支配(太閤検地や兵農分離の強制など)の強化と、それに抵抗しようとする九州の在地領主層の最後の足掻きという、大きな権力闘争の文脈の中に位置づけられるべき事件である 38 。歳久は、九州征伐後も秀吉への反骨精神を隠さなかったため、領内の反豊臣勢力にとって、いわば精神的なシンボルとなっていた可能性が高い。彼の家臣が一揆に加わったのは、歳久自身の直接的な命令があったかどうかにかかわらず、彼の意を汲んだ結果か、あるいは彼を旗頭として担ぎ上げようとした結果であったかもしれない。
秀吉の側から見れば、この一揆は、九州、とりわけ一筋縄ではいかない島津領の支配を盤石なものにするための、またとない口実となった。そして、その反乱の「黒幕」として断罪するのに最も都合の良い人物が、以前から反抗的な態度をとり続けていた歳久であった。したがって、歳久が実際に黒幕であったか否かは、もはや問題ではなかった。彼は、豊臣政権が九州の戦国的な在地領主制を完全に解体し、中央集権体制を確立するための「最後の仕上げ」として、政治的に抹殺される運命にあったのである。彼の死は、一個人の悲劇に留まらず、一つの時代が終わり、新たな時代へと移行する画期を象徴する出来事であった。
兄・義久からの追討命令が下されたことを知った歳久は、祁答院の居城・虎居城に立てこもり、兄の軍勢と戦うという選択はしなかった。彼は「自分の兵を失うは、すなわち薩摩島津の兵を失うことである」と考え、島津家内部での大規模な同士討ちによる戦力の消耗を避けたのである 12 。これは、最後まで島津家の将来を案じる彼らしい判断であった。
歳久は、彼に最後まで付き従うことを誓った僅か27名の家臣と共に、居城を密かに出立した 12 。そして小舟に乗り、錦江湾を南下して竜ヶ水(現在の鹿児島市吉野町)の浜辺に上陸した。この地は、彼の初陣の地であり、武門の始まりを飾った岩剣神社にも近い、ゆかりの場所であった 12 。彼はここを自らの最期の場所と定めた。
やがて、義久が差し向けた町田久倍率いる追討軍が到着し、歳久らを包囲した。しかし、追手の兵たちも、昨日までの主君の弟であり、敬愛する将であった歳久に刃を向けることなどできず、ただ遠巻きにするだけで手出しができなかったと伝えられている 13 。しばしの膠着状態が続いた後、歳久は静かに自決の覚悟を決めた。
歳久の最期は、壮絶を極めた。彼は長年患っていた中風(風疾)の影響で体が思うように動かず、武士の魂である刀を自らの手で握ることすら困難な状態であった 12 。
伝承によれば、彼は傍らにあった手頃な石を拾い上げると、それを懐刀に見立てて自らの腹に当て、割腹しようとしたという 12 。病に侵されながらも、武士としての誇りを失わずに死に臨もうとするその凄絶な姿は、敵味方の区別なく、その場にいた全ての者たちの胸を打った。この逸話から、歳久は後に「お石様」と呼ばれ、武神として信仰の対象となる 12 。
もはやこれまでと覚悟を決めると、歳久は追討軍の将に向かって「早う近づきて首を取れ」と促し、傍らに控えていた家臣の原田甚次に介錯を命じた。天正20年(1592年)7月18日、島津四兄弟の一人、智将・島津歳久は、その波乱に満ちた56年の生涯を閉じた 11 。彼の自害に際し、付き従った27名の家臣も一人残らず殉死したと伝えられている 19 。その様を見た追討軍の兵たちは、皆、武器を投げ捨てて地に伏し、声を上げて泣いたという 13 。
歳久の亡骸からは、兄・義久に宛てた遺書と、辞世の句が見つかった。そこには、彼の真意が切々と綴られていた。遺書には、おおよそ次のような内容が記されていたという。「私は病に侵され、太閤殿下の御前に出ることができなかったのであって、何らやましいところはない。しかし、謀反の疑いをかけられた以上、島津家の安泰のために切腹しようと思う。付き従う家臣たちは私の身を案じ、承服しがたい様子であったため、武士の本分を貫くべくやむを得ず交戦の構えを見せたが、これは兄上に対して弓を引こうというものでは決してない。また、彼ら家臣たちには全く罪はないので、残された家族にまで累が及ばぬよう、何卒お取り計らい願いたい」 13 。これは、自らの潔白を主張すると同時に、最後まで家門の安泰と家臣の将来を気遣う、彼の深い情愛を示すものであった。
また、自害に際して詠んだとされる辞世の句は、彼の心境を象徴している。
「晴蓑(せいさ)めが 魂(たま)のありかを 人問わば いざ白雲の 上と答へよ」 1
(晴蓑(歳久の法号)の魂がどこへ行ったのかと人が尋ねたならば、さあ、あの白雲の上の方へと消え、行方は知れないと答えてくれ)
この歌には、無実の罪で死ぬことへの無念の思いと、しかし島津家のために死ぬ自分に一片の悔いもないという、武士としての矜持が込められている。
さらに、歳久は死に際に「女もお産の時に苦しい思いをするであろう。自分の死後はそういった女の苦しみを救ってやろう」と語ったとも伝えられており、この言葉から、彼は武神としてだけでなく、安産の神としても広く信仰されることになった 12 。
歳久の自害の様相は、単なる悲劇的な死ではなく、彼の生涯を貫いた「智計」を締めくくる、最後の計算された自己演出であったと考察できる。彼が兄の追討軍に抵抗し、「討たれる」という形を選んだのは、もし素直に自害すれば、その背後にいる兄・義久にまで秀吉の嫌疑が及ぶ可能性を危惧したためであろう。あえて「内乱」の形をとり、問題を島津家内部で完結させることで、豊臣政権がさらに介入してくる口実を断ち切った。これは島津本家を守るための、最後の深慮遠謀であった 1 。
「石で腹を」という壮絶な逸話、「安産の神」となる慈悲深い遺言、そして自らの潔白と忠誠を訴える遺書と辞世の句。これら全ては、彼が単なる「反逆者」として歴史から抹殺されることを防ぎ、後世における自身の評価と、島津家の精神的結束を巧みにコントロールするための、計算され尽くしたパフォーマンスであった。彼の死は、自らの汚名を逆手にとって、①島津本家の安泰、②自身の英雄化、③後世の薩摩藩士の精神的支柱の確立、という三つの目的を達成するための、究極の「戦略的自決」だったのである。
島津歳久の死は、彼の物理的な存在を歴史から消し去ったが、その血脈と精神は、形を変えて後世へと受け継がれていった。歳久は、島津氏の有力な分家である「日置島津家」の祖とされている 11 。
歳久には男子がいなかったため、彼の死後、その家督は長女・湯之尾が嫁いだ薩州家出身の島津忠隣の子、常久が継承した 12 。常久は歳久の外孫にあたり、彼が日置島津家の第3代当主(初代を歳久、2代を忠隣とする)となった。日置島津家は、江戸時代を通じて薩摩藩の一門家臣として9000石を領し、藩政において重要な地位を占め続けた 12 。
幕末の動乱期には、この日置島津家から藩の家老を務めた桂久武や、藩内の権力闘争である「お由羅騒動」に際して藩主への忠義を貫き切腹した赤山靭負など、薩摩藩の歴史に名を残す重要な人物が多数輩出されている 1 。歳久の反骨と忠義の精神は、彼の子孫たちによって脈々と受け継がれていったのである。
歳久の死後、その首は秀吉の元へ送られ、京の一条戻橋で晒し首にされた 1 。しかし、従兄弟の島津忠長らが危険を顧みずにこれを奪還し、京都の浄福寺に密かに葬ったという 1 。一方、胴体は帖佐(現在の鹿児島県姶良市)の総禅寺に埋葬された 13 。
歳久が生前最後に治めた旧領地の祁答院(現在の鹿児島県さつま町)では、彼の悲劇的な最期と領主としての遺徳を偲び、領民たちから「金吾様(きんごさぁ)」という愛称で呼ばれ、神として深く敬愛されるようになった 4 。現在でもさつま町内には、歳久を主祭神とする大石神社をはじめ、彼を祀る神社や供養塔が15箇所以上も現存している 4 。
特に中津川地区にある大石神社で毎年秋に行われる秋季例大祭では、豊作と無病息災を祈願して「金吾様踊り」が奉納され、多くの人々で賑わいを見せる 12 。これは、歳久への信仰が単なる過去の遺物ではなく、400年以上の時を経た今なお、地域の文化として生き続けていることの証である。
歳久の評価を決定的に高めたのは、兄・義久の行動であった。天下人・秀吉が亡くなった直後の慶長4年(1599年)、義久は歳久が自刃した竜ヶ水の地に、その菩提を弔うための寺院「心岳寺」を建立した 13 。これは、歳久の死が不本意なものであり、彼が島津家にとって紛れもない功臣であったことを、島津家当主が公式に認めたことを意味する。
江戸時代を通じて、この心岳寺への参詣、いわゆる「心岳寺詣り」は、次兄・義弘を祀る妙円寺(徳重神社)への「妙円寺詣り」、祖父・日新斎を祀る竹田神社(旧・大乗寺)への参詣と並ぶ「鹿児島三大詣り」の一つとして、薩摩藩の極めて重要な年中行事となった 12 。薩摩藩士たちはこの参詣を通じて、中央の権力に屈することなく、家の存続のために自らを犠牲にした歳久の反骨と忠義の精神を学び、自らの行動規範としていった。
この精神的な影響力の大きさを示す最も有名な逸話が、幕末の西郷隆盛にまつわるものである。安政の大獄で幕府から追われる身となった西郷は、僧・月照と共に錦江湾に小舟で逃れた。死を覚悟した西郷は、月照に対して歳久の故事を語り聞かせた後、心岳寺のある方角に向かって静かに手を合わせ、闇夜の海に身を投じたと伝えられている 12 。この逸話は、歳久の生き様と死に様が、時代を超えて後世の薩摩隼人たちにとって、いかに大きな精神的支柱となっていたかを雄弁に物語っている。
歳久の死は、彼の物理的な存在をこの世から消し去った。しかしそれは同時に、彼を一人の武将という「個」の存在から、薩摩藩という共同体のアイデンティティを形成する上で不可欠な「物語」へと昇華させる契機となった。彼の悲劇的な死は、「中央の理不尽な権力に屈せず、家のために犠牲となった英雄」という、時代を超えて共感を呼ぶ普遍的な物語の型に合致した。義久による心岳寺建立はこの物語を公的に承認し、「心岳寺詣り」という儀式は、藩士たちがその物語を定期的に追体験し、自らの精神に内面化するための装置として機能した。この物語は、薩摩藩が徳川幕府という中央政権と対峙し、独自の気風を維持していく上で、藩士の結束を高める極めて有効な精神的支柱となったのである。西郷隆盛が死を覚悟した際に歳久を想起したのは、彼が歳久の物語の中に、自らが直面する境遇と、貫くべき忠義の理想像を見出したからに他ならない。歳久の死は、単なる過去の出来事ではなく、後世の薩摩人が自らの行動を正当化し、自らを鼓舞するための、生きた手本であり続けたのである。
島津歳久の生涯を振り返る時、その行動は一見すると矛盾に満ちている。豊臣秀吉という天下人の実力を誰よりも早く、そして正確に見抜きながら、その秀吉に誰よりも長く、そして最後まで抵抗し続けた。冷静な現実主義者でありながら、激情的な反骨の士でもある。この二面性こそが、島津歳久という人物の評価を複雑にし、また同時に、人々を惹きつけてやまない魅力の源泉となっている。
しかし、彼の行動を「島津家の存続と、その国益の最大化」というただ一点の、一貫した目的の下で見直す時、その矛盾は氷解する。彼の行動は全て、その時々の状況に応じて、島津家にとっての最善手を模索し続けた「智計」の結果として、一つの論理的な線で結びつけることができる。戦うべきでない時には和睦を唱え、ただ降伏するだけでは全てを失うと判断した時には、あえて反逆者の仮面を被ってでも有利な条件を引き出そうと試みた。彼の死すらも、兄・義久に累が及ぶことを避け、自らの汚名を逆手にとって後世の藩士たちの精神的支柱となることまで計算された、最後の「智計」であった可能性が高い。
したがって、島津歳久は、単なる「反骨の悲劇の将」ではない。彼は、自らが犠牲となることで家門を救い、その死に様をもって未来の共同体の礎を築くことまで見通していた、「深慮の智将」であったと評価するのが最も妥当であろう。彼の悲劇は、戦国という旧時代の論理が、豊臣政権という新しい中央集権体制の論理によって駆逐されていく過渡期において、島津家が生き残るために支払わなければならなかった、あまりにも大きな代償だったのである。
島津歳久が歴史に遺したものは、多岐にわたる。第一に、日置島津家という血脈の遺産である。この家系は江戸時代を通じて薩摩藩の重臣を輩出し、幕末の動乱期においても重要な役割を果たした 1 。第二に、旧領地である鹿児島県さつま町に今なお色濃く残る、「金吾様」信仰という地域的な文化遺産である 50 。これは、彼が領民から深く敬愛される領主であったことの何よりの証である。
しかし、彼が遺した最も重要で、かつ影響力の大きな遺産は、物理的なものではない。彼の生き様と死に様そのものが、「薩摩武士の精神的典型」の一つとして結晶化し、後世の薩摩藩士たちの心に深く、そして永続的に刻み込まれたことである。理不尽な権力に屈しない反骨の精神、家門のために自らを犠牲にする究極の忠義、そして民を思う慈悲の心。これらの要素が凝縮された彼の「物語」は、江戸時代を通じて、そして西郷隆盛に代表される幕末の志士たちが活躍した動乱期に至るまで、薩摩隼人の精神を涵養し、その行動を方向づける、生きた規範であり続けた。
結論として、島津歳久は、戦国乱世を駆け抜けた一人の優れた武将であると同時に、その死をもって薩摩という強固な共同体の精神的礎の一つを築き上げた、日本史上でも稀有な存在であったと言えるだろう。
年号 |
西暦 |
歳久の年齢 |
出来事(歳久関連) |
出来事(島津家・国内情勢) |
天文6年 |
1537 |
0歳 |
7月10日、伊作亀丸城にて誕生 10 。 |
|
天文23年 |
1554 |
17歳 |
大隅岩剣城の戦いで初陣を飾る 12 。 |
父・貴久が岩剣城を攻略。 |
弘治3年 |
1557 |
20歳 |
蒲生北村城の戦いで重傷を負う 12 。 |
|
永禄5年 |
1562 |
25歳 |
横川城攻めの総大将を務める 12 。 |
|
永禄6年 |
1563 |
26歳 |
吉田城(松尾城)城主となる 10 。 |
|
元亀2年 |
1571 |
34歳 |
|
父・貴久が死去。兄・義久が家督を相続 21 。 |
元亀3年 |
1572 |
35歳 |
木崎原の戦いに伏兵として参加したとされる 21 。 |
義弘が木崎原で伊東軍を撃破 2 。 |
天正3年 |
1575 |
38歳 |
弟・家久に続き、情報収集のため上洛 18 。 |
|
天正5年 |
1577 |
40歳 |
日向方面軍の将として伊東氏攻略に貢献 21 。 |
島津家が三州(薩摩・大隅・日向)を統一 20 。 |
天正6年 |
1578 |
41歳 |
耳川の戦いで後方支援・軍監を務める 21 。 |
島津軍が耳川で大友軍に大勝 2 。 |
天正8年 |
1580 |
43歳 |
祁答院十二郷を与えられ、虎居城主となる 18 。 |
|
天正12年 |
1584 |
47歳 |
沖田畷の戦いに参陣 21 。 |
島津・有馬連合軍が龍造寺隆信を討つ 2 。 |
天正13年 |
1585 |
48歳 |
肥後国平定戦で指揮を執る 21 。 |
豊臣秀吉が関白に就任。 |
天正14年 |
1586 |
49歳 |
家中が抗戦に傾く中、秀吉との和睦を主張 25 。 |
秀吉が九州惣無事令を発令 7 。九州征伐開始。 |
天正15年 |
1587 |
50歳 |
降伏局面に転じ、徹底抗戦を主張。秀吉の駕籠に矢を射かけさせる 12 。 |
根白坂の戦いで島津軍が敗北。5月、義久が秀吉に降伏 54 。弟・家久が急死。 |
天正20年 |
1592 |
55歳 |
病を理由に朝鮮出兵(文禄の役)に参加せず 12 。梅北一揆に家臣が加担し、首謀者と疑われる 13 。7月18日、竜ヶ水にて自害 13 。 |
文禄の役が始まる。6月、梅北一揆が勃発 37 。 |
慶長4年 |
1599 |
- |
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秀吉の死後、兄・義久が歳久自刃の地に心岳寺を建立 43 。 |