A. 人物とその時代
島津義久は、島津氏第16代当主として、戦国時代の激流を巧みに乗りこなし、一族を九州における権力の頂点へと導いた pivotal figure(中心人物)である。彼の生きた時代は、戦国時代の後半期にあたり、絶え間ない戦乱、強力な地方大名の台頭、そして徐々に進む国家統一への動きによって特徴づけられる。特に九州は、紛争の温床であると同時に、国際的な接触の窓口でもあり、日本史において独特の位置を占めていた。この九州という戦略的に重要な地域は、国内の権力闘争だけでなく、鉄砲やキリスト教といった新たな技術や思想が流入する地でもあった 1 。島津氏の領国経営においても、中国商人との交易などが言及されており 2 、こうした国際的な側面が、九州の諸大名が直面する状況を一層複雑にし、また豊かさをもたらす一方で不安定要因ともなっていた。義久の九州統一への野望は、このような戦略的要衝を掌握し、内外の挑戦に対応しようとする試みであったと解釈することも可能である。
B. 意義と本報告書の範囲
島津義久は、九州の地域史、さらには日本全体の歴史において重要な存在である。特に、彼の一族による九州統一寸前の勢力拡大と、その後の豊臣秀吉や徳川家康といった中央の統一者との関わりは特筆に値する。本報告書は、現存する史料に基づき、義久の生涯、指導力、戦略、そして後世に残した永続的な遺産について、包括的な分析を行うことを目的とする。
A. 生誕と家系
島津義久は、天文2年(1533年)に伊作亀丸城(現在の鹿児島県日置市)で生を受けた 3 。父は島津氏第15代当主の島津貴久であり、貴久は分裂していた島津氏の諸分家をまとめ上げ、島津氏を再興した人物として「島津家中興の祖」と称えられている 5 。この貴久の業績は、義久にとって強力な基盤となり、また野心的な拡大政策の先例ともなった。母は入来院重聡の娘、雪窓夫人である. 4 義久は、既に上昇軌道にあった一族の長子として、父が克服した内部対立の経験を間接的に受け継ぎ、さらなる発展を目指す運命にあった。
B. 島津四兄弟:強固な結束
義久は、それぞれが類稀な才能に恵まれた四兄弟の長兄であった。
第16代当主となった義久は 4 、これらの弟たちの力を巧みに結集し、一族を率いた。祖父である島津忠良は、義久が薩摩・大隅・日向の三州を統一する総大将の器量を持つと早くから見抜いていたとされる 4 。貴久による島津分家の統一 5 は、義久がその後大規模な拡大戦略を推進するための決定的な前提条件であった。内部の結束がなければ、九州制覇に必要な資源や兵力を動員することは不可能だったであろう。この内部統一が、義久と弟たちが外部へと目を向けることを可能にしたのである。
島津四兄弟:役割と特徴
氏名 |
義久との続柄 |
主要な特徴・能力 |
特筆すべき貢献・運命 |
島津義久 |
長男 |
当主、大戦略家、外交家、統一者 |
九州の大部分を制圧、豊臣・徳川政権との交渉 |
島津義弘 |
次男 |
戦術家(耳川の戦い、木崎原の戦い)、関ヶ原の戦いでの指揮 |
多くの戦功、関ヶ原からの「島津の退き口」 |
島津歳久 |
三男 |
知略家、秀吉の実力を見抜く、秀吉への抵抗 |
秀吉の不興を買い自刃を命じられる |
島津家久 |
四男(異母弟) |
野戦指揮官(沖田畷の戦い)、文武両道 |
多くの戦功を上げるも早世 |
この四兄弟のそれぞれ異なる、しかし相互補完的な才能は、義久の指導の下で、他に類を見ない強靭かつ効果的な指揮系統を形成した。この家族的な相乗効果は、戦国時代においてしばしば見られた、一人の傑出した指導者が信頼性の低い部下に悩まされる状況とは対照的に、島津氏の力を著しく増大させる要因となった。彼らの最盛期においてこの結束を維持した義久の統率力は、その成功の核心にあったと言える。
C. 指導者への道
義久は父・貴久の跡を継ぎ、第16代当主となった 4 。史料によれば、父が病に伏した永禄9年(1566年)頃から、実質的に島津家の采配を振るっていたとされる 7 。
A. 義久の構想:三州から全九州へ
義久の当初の目標は、薩摩・大隅・日向のいわゆる「三州統一」であった 4 。しかし、その野心はこれに留まらず、九州全土の支配へと拡大していった 7 。特に織田信長の横死後、日本の権力構造が流動化したことを好機と捉え、九州統一に向けて大きく舵を切ったのである 7 。義久は、必ずしも常に自ら戦陣に立ったわけではないが、城攻めの戦略立案などには深く関与していた 7 。
B. 主要な軍事的勝利:競合勢力の打破
1. 耳川の戦い(1578年):大友氏の撃破
九州の有力大名であった大友宗麟が、伊東氏を日向に復帰させるため侵攻してきたことが、この戦いの発端であった 8 。義久は2万余の軍勢を率いて出陣し、奇襲を成功させ、決定的な勝利を収めた 4 。この戦いは高城川の戦いとしても知られる 8 。結果として、大友氏は壊滅的な打撃を受け衰退し、島津氏は日向の支配を固め、九州における勢力図を大きく塗り替えた 9 。
2. 沖田畷の戦い(1584年):龍造寺氏の殲滅
肥前の龍造寺隆信と有馬晴信の間の紛争に、島津氏が有馬氏を支援する形で介入した 10 。島津軍の指揮は末弟の家久が執ったが、義久自身も肥後の水俣まで進出しており、全体の戦略を統括していたことがうかがえる 4 。島津・有馬連合軍は、沖田畷と呼ばれる湿地帯の地形を巧みに利用し、数的に優勢だった龍造寺軍を破った 4 。この戦いで龍造寺隆信をはじめ多くの重臣が討死し、龍造寺氏は島津氏に服属。これにより島津氏の支配は九州西部にまで拡大した 4 。
耳川と沖田畷での勝利は、単なる個別の戦勝ではなく、九州の「三大勢力」の残り二つ(大友氏と龍造寺氏)を計画的に排除していく、義久による大戦略の一環であったことを示唆している。これらの主要な地域競合勢力を一つずつ無力化していくという戦略的優先順位が明確に見て取れる 4 。
C. 九州支配のほぼ完成
これらの輝かしい勝利の結果、島津氏は筑前・豊後の一部を除く九州の大半を手中に収め、島津氏の最大版図を築き上げた 4 。隈本城の攻略は、肥後制圧の鍵と見なされていた 7 。しかし、この九州統一寸前の状況は、皮肉にも島津氏が独立した超地域大国としての運命を決定づけることになった。単一勢力による九州のこのような支配は、豊臣秀吉自身の全国統一の野望にとって許容できない脅威となり、彼の介入をほぼ不可避なものとしたのである。島津氏の成功そのものが、より強大な勢力との対決の条件を作り出したと言える。
島津義久の主要な戦役と生涯の出来事年表
年代(西暦/和暦) |
出来事 |
主要関連人物(島津方) |
対戦相手 |
意義・結果 |
1533 (天文2) |
島津義久、誕生 |
― |
― |
― |
c.1566 (永禄9) |
島津家家督を実質的に継承 |
義久 |
― |
島津家の指導者となる |
1572 (元亀3) |
木崎原の戦い |
島津義弘 |
伊東氏 |
伊東氏を破る |
1578 (天正6) |
耳川の戦い(高城川の戦い) |
義久、家久 |
大友宗麟 |
大友氏衰退、日向確保 |
1584 (天正12) |
沖田畷の戦い |
島津家久 |
龍造寺隆信 |
龍造寺氏服属、九州西部へ勢力拡大 |
1587 (天正15) |
戸次川の戦い |
島津家久 |
豊臣軍先鋒 |
豊臣軍先鋒(長宗我部・仙石勢)を破るが、大勢に影響なし |
1587 (天正15) |
豊臣秀吉による九州平定 |
義久、義弘、家久 |
豊臣秀吉 |
降伏、領地削減 |
1600 (慶長5) |
関ヶ原の戦い |
島津義弘 |
徳川家康(東軍) |
西軍として参戦、敗走 |
1602 (慶長7) |
義久、公式に隠居。忠恒が家督継承 |
義久、島津忠恒 |
― |
三殿体制へ |
1611 (慶長16) |
島津義久、死去 |
― |
― |
― |
A. 秀吉の介入:九州征伐(1586-1587年)
島津氏による滅亡の危機に瀕した大友宗麟が豊臣秀吉に助けを求めたことが、秀吉介入の直接的な契機となった 12 。中央日本の大部分を掌握していた秀吉は、これを自らの権威を九州に及ぼす好機かつ必要事と捉えた。秀吉は当初、「惣無事令」(全国的な停戦命令)を発したが、自らの力に自信を持つ島津氏はこれを無視し、筑前や豊前での軍事行動を継続した 12 。この島津氏の初期の反抗的な態度は、秀吉による侵攻軍の規模を巨大化させる一因となった可能性が高い。秀吉は単なる名目上の合意ではなく、完全な服従を確実にするために、圧倒的な力を見せつける必要があったのである。
秀吉は20万から27万とも推定される大軍を動員し 14 、島津氏の兵力(2万から5万と推定 12 )を圧倒した。この遠征は、秀吉の弟である羽柴秀長が率いる軍勢と、秀吉自身が率いる軍勢の二手に分かれて進められた。緒戦である戸次川の戦いでは、島津家久が秀吉軍の先鋒(長宗我部元親・仙石秀久ら)を破る戦術的勝利を収めたが 11 、大局を覆すには至らなかった。日向の根白坂の戦いにおける豊臣秀長軍に対する島津軍の決定的な敗北が 14 、趨勢を決した。
B. 降伏と服従
圧倒的な兵力差と内部からの離反に直面し、義久は降伏を選択した 16 。降伏の条件として、義久は剃髪して龍伯と号し、川内の泰平寺で秀吉に正式に臣従した 4 。領土に関しては、島津氏の支配域は大幅に削減された。当初、義久には薩摩一国、義弘には大隅一国、そして義弘の子である久保(島津久保)には日向国諸県郡が安堵された 4 。これにより、九州のほぼ全域を支配していた島津氏の勢力は、薩摩・大隅・日向の一部という中核的領土に限定されることになった 14 。
C. 豊臣政権下における島津氏
島津氏は豊臣政権の家臣となり、軍役の提供や中央の指令に従う義務を負った。秀吉は、対外的には義弘を島津家の事実上の当主として扱った節があり、領地安堵の朱印状を義弘宛に発給したり 4 、義弘に豊臣姓や羽柴姓を与えたりしている 14 。一方、義久には羽柴姓のみが与えられた 4 。これは秀吉が義弘を懐柔しようとしたか、あるいは島津家の忠誠心を分裂させようとした試みであった可能性がある。
しかし、島津氏は豊臣政権に対して微妙な抵抗や不服従の姿勢を見せ続けた。秀吉の刀狩令への対応は遅々として進まず 4 、朝鮮出兵のための兵員動員も十分には達成できなかった 4 。さらに、島津家臣である梅北国兼が反乱を起こした梅北一揆は、秀吉に島津氏の不服従の表れと見なされ、結果として秀吉は島津歳久の首を要求。義久はやむなく歳久に自害を命じることとなった 4 。
秀吉が公式には義弘をより重視する一方で 4 、義久が薩摩国内で実質的な権力を保持し続ける 5 というこの複雑な「二重権力」構造は、興味深い状況を生み出した。これは、(a) 秀吉による島津家内部分裂の試み、(b) 義弘の外交的役割の現実的な承認、あるいは (c) 義久が内部権力を固める一方で、義弘を通じて対外関係を管理するという島津側の意図的な戦略であった可能性が考えられる。この曖昧さは、対外的にはより従順な顔を見せつつ、中核的な指導力を維持するという点で、島津氏の利益にかなっていたのかもしれない。
豊臣秀吉の九州征伐前後の島津氏の状況比較
側面 |
九州征伐前(c. 1586年) |
九州征伐後(c. 1588年) |
領土 |
九州の大部分 4 |
薩摩、大隅、日向の一部 4 |
自律性 |
ほぼ独立した地域大国 |
豊臣政権の家臣 |
軍事力 |
九州で支配的 |
大幅に削減されるも依然として強力 |
指導者の認知(対外) |
義久が議論の余地なく当主 |
秀吉は義弘とより多く交渉 4 |
A. 関ヶ原の戦い(1600年):分裂した姿勢か?
関ヶ原の戦いにおいて、島津義弘は約1,000という寡兵を率いて石田三成方の西軍に参加した 18 。彼のこの決断は、徳川方の将(例えば鳥居元忠が伏見城への入城を拒否したこと 19 )に軽んじられたことや、徳川家康に対する既存の緊張関係に影響された可能性がある。一方、義久は薩摩本国に留まり、義弘からの増援要請にもかかわらず、島津の主力軍を西軍に送らなかった 11 。一説には、義弘の子である忠恒が島津家の家老を殺害した事件が原因で義久と義弘の間が「決裂」しており、義弘が兵を動員しにくかったともされる 18 。西軍壊滅後、義弘が東軍の陣中を突破して壮絶な撤退戦(「島津の退き口」)を敢行したことは伝説となっている。この撤退戦では井伊直政を負傷させるなどの損害を与えたが、島津豊久をはじめとする多くの犠牲者も出した 18 。
義久が義弘に大規模な増援を送らなかったことの曖昧さ――それが忠恒の行動に起因する真の不和であったのか 18 、あるいは計算された戦略的ヘッジであったのか――は、最終的に島津家の利益となった。これにより、義久は家康との交渉において、もっともらしい否認権を確保できたのである。
B. 義久の巧みな戦後交渉
勝利した徳川家康は、西軍に与した島津氏を罰しようとした。これに対し、義久は一貫して、義弘が独断で行動したのであり、島津家全体が責任を負うものではないと主張した 5 。さらに、病気や資金不足を理由に、家康からの説明要求の召喚を繰り返し回避し続けた 5 。この状態は2年近く続いた 11 。
最終的に家康は譲歩した。その主な理由は、島津氏が依然として遠隔地の本領に相当な軍事力と資源を保持しており 5 、薩摩への侵攻は費用と時間がかかる困難な作戦になること、そして家康自身が、強力な周縁大名に対する懲罰的な戦争よりも、国内の迅速な安定化を優先したためと考えられる。結果として、島津氏の領土(薩摩・大隅・日向の一部)は削減されることなく安堵され(本領安堵)、賠償金や人質の要求もなかった 18 。これは関ヶ原で敗者側に付いた大名としては異例の成果であった。
義久の家康に対するこの成功した抵抗と交渉は、島津領を保全しただけでなく、薩摩の粘り強さと自律性の評判を強化した。中央権力に対するこの「成功した抵抗」の遺産は、その後の徳川幕府内における薩摩の独特な地位と自己主張の強い行動に微妙な影響を与え続け、最終的には明治維新における彼らの役割へと繋がっていくことになる。家康という当代随一の実力者を手玉に取ったか、あるいは譲歩させたという事実は 5 、島津氏が容易に屈しないという前例を築いたのである。
A. 経済政策と開発
義久の統治は、軍事面だけでなく、領国の経済的発展と安定にも注力されていたことを示している。永禄年間(1558年~1570年)には検地を実施し、公平な年貢徴収と地侍層の統制を図った 20 。これは中央集権的な領国支配への初期の努力を示す。
交易政策においては、自由貿易を標榜し、中国人商人を保護したとされる 2 。特に、外国商人と領国商人の取引における平等待遇や、価格形成への権力的介入の禁止を強調した点は注目に値する(「売買ノ貴賎有ルベカラズ事」、「価ノ貴賎ヲ論ゼズ、権威ヲ濫リニ揮ッテ売買ヲ致スベカラズ事」 2 )。これは商業に対する洗練された理解を示唆している。「唐船奉行」という役職を設け、円滑な貿易を促進し、公的な買い入れを管理させた 2 。島津氏はまた、朱印船貿易にも直接的、あるいは権利や船を貸し出す形で関与していた 2 。晩年には葉タバコなどの商品作物の栽培も奨励している 5 。
B. 民政と社会への配慮
民衆の福祉にも心を砕き、軍事費よりも飢饉救済を優先し、「民飢エテハ国ノ根幹揺ラグ」と述べたと伝えられる 20 。また、商業取引における不正を禁じるなど 2 、公正な社会秩序の維持にも努めた。
義久の統治は、軍備と経済発展、社会福祉のバランスを取る全体的なアプローチを示している。彼の政策は単に場当たり的なものではなく、強靭で繁栄した領国を築くことを目指していた。特に、対外貿易 2 や農業開発 5 に関する彼の先見性のある経済政策は、後の徳川体制下における薩摩藩の経済力と独立性のための重要な基礎を築いた。この経済基盤は、幕末期における薩摩藩の影響力にとって不可欠なものとなる。
A. 性格と指導者としての資質
島津義久の人物像は、一見矛盾するような要素が同居する複雑なものであった。彼は一貫して、戦勝は弟たちや家臣の手柄であり、自身は何ら貢献していないと謙虚に語り 5 、その態度は徳川家康をも感心させたとされる 5 。しかしこの個人的な謙虚さは、島津家の誇りと、秀吉や家康といった外部勢力に対する不屈の決意と表裏一体であった。彼の謙虚さは、内部結束を高めるための計算された指導術であり、対外的な弱さの表れではなかったのかもしれない。
彼は実利を重んじる現実主義者であり、外見よりも実質を評価した。質素な茅葺きの城門で満足し、立派な門よりも良い統治が重要であると述べたことは有名である(「城門ナド粗末デ構ワヌ。肝要ナ所ニ気ヲ配レ」 5 )。冷静沈着で威厳があり、結果を重視する人物であったと評される 11 。
戦場での直接指揮は弟たちに任せることが多かったが、島津の戦略を立案したのは義久自身であり 7 、有能な弟たちの力を効果的に引き出し、組織した。彼の指導力は、集団の力を最大限に活用することにあった 21 。また、自室に歴史上の悪人の肖像画を飾り、常に自らを戒める材料としていたという逸話は 4 、彼の規律正しさと内省的な一面を示している。
謙虚な側面とは裏腹に、秀吉の最初の命令に反抗し 12 、家康との間で粘り強い交渉を展開したこと 5 に見られるように、強い意志と粘り強さも持ち合わせていた。秀吉の「卑しい出自」を見下していたとも伝えられる 11 。異母弟である家久に対しては、その境遇を気遣い、励ましたというエピソードもあり 5 、家族に対する配慮も窺える。
B. 宗教的信仰と実践
義久は仏教を信仰しており、秀吉に降伏した際に龍伯妙谷寺殿貫明存忠庵主という法名を授かっている 4 。京都や大坂滞在時には、北野天満宮、平野神社、住吉大社、金閣寺、大徳寺、青蓮院、西芳寺、鞍馬寺、清水寺など多くの寺社を参詣した記録が残っており 24 、これは当時の武将として一般的な信心深さと文化的教養を示している。また、戦の吉凶を占うために籤(くじ)を用いることを好み、家臣の上井覚兼の日記にはその様子がやや懐疑的に記されている 5 。島津家は稲荷信仰とも関連があったとされる 25 。なお、「龍伯様としての信仰」つまり義久が龍伯様として神格化され、特定の宗教的崇拝の対象となったという具体的な証拠は、提示された資料からは確認できない。龍伯という法名は、隠居した大名としては標準的なものである。
C. 私生活と家族
義久には男子がおらず 4 、これが晩年の後継者問題の一因となった。娘には以下の人物がいる。
義久の個人的な価値観――実用主義、実質重視、自己規律 4 ――は、彼の統治スタイルに直接反映されていた。質素な城門を良しとし 5 、民衆の福祉を優先し 20 、公正な交易を志向したこと 2 などは、その現れである。彼の性格は統治と不可分であり、その治世の根幹を成していた。
A. 隠居と「三殿体制」
慶長7年(1602年)、義久は公式に家督と島津家伝来の「御重物」(家督の象徴となる宝物)を、甥であり娘婿でもある島津忠恒に譲り隠居した 4 。しかし、隠居後も江戸幕府と書状をやり取りするなど絶大な権威を持ち、亡くなるまで家中に発言力を保持し続けた 4 。この、義久(龍伯)、義弘(惟新)、忠恒(中納言)の三者が並立して影響力を持った時期は「三殿体制」と呼ばれる 4 。この体制自体が、義久の並外れた個人的権威の証左であり、正式な隠居を超越するものであった。これほどの影響力を維持できた隠居大名は稀であり、彼が家中で深い尊敬(あるいは畏怖)を集めていたことを示唆している。慶長9年(1604年)には大隅の国分に国分城(舞鶴城)を築き、移り住んだ 4 。
B. 関係の緊張と政策の相違
晩年、忠恒や亀寿との関係は、亀寿と忠恒の夫婦仲の悪さや子供がいなかったことなどから、次第に悪化したと言われる 4 。義久は外孫の島津久信を忠恒の次の後継者に据えようとしたが、これは失敗に終わったとされる 4 。また、義弘・忠恒親子が積極的に推進した琉球出兵(1609年)には反対していたとされ 4 、隠居後も重要な政策を巡る意見の対立があったことを示している。慶長15年頃には、龍伯(義久)、惟新(義弘)、中納言(忠恒)の関係が疎遠になり、それぞれの家臣が三派に分かれ、世上に不穏な噂が流れていたという 4 。
C. 死と直後の影響
慶長16年(1611年)1月21日、義久は国分城にて病死した。享年79 4 。辞世の句は「世の中の 米(よね)と水とを くみ尽くし つくしてのちは 天つ大空」と伝えられる 4 。
義久の死は「三殿体制」の終焉を意味し、忠恒の権威が藩内唯一の最高権力として確立される契機となったと考えられる 4 。また、琉球政策などにおいて、義久という重石が取れたことで、政策決定における議論の力学が変化した可能性もある。彼の生涯にわたる絶大な影響力を考えると、その死は島津家内部の権力バランスに大きな変動をもたらしたはずである。義久の死は、島津家が徳川時代の新たな現実に適応していく過程を加速させたとも言える。彼が薩摩藩の存続を確実にした一方で、彼の逝去は、忠恒を中心とする次世代が、旧守派であったかもしれない義久の反対なしに、琉球侵攻とその後の処理のような新時代の政策をより完全に実行することを可能にしたのかもしれない 4 。
A. 指導力と能力の評価
島津義久の指導者としての資質は多面的である。弟たちがしばしば戦場で直接指揮を執ったのに対し、義久は九州統一を目前にするまでの諸戦役を立案・統括した大戦略家であった 4 。彼の真価は、個々の戦術よりも、長期的な構想力と弟たちの能力を最大限に引き出す調整能力にあった。
外交手腕においては、特に関ヶ原の戦い後の徳川家康との巧みな交渉が際立っている。絶体絶命の状況から島津家の領土を保全したその手腕は 5 、彼の政治的力量を如実に示している。
一族の長としては、有能な弟たちをまとめ上げ、勢力拡大期における一族の結束を維持した 21 。また、彼の領国経営政策は、領国の長期的安定を目指す統治者の姿を映し出している 2 。豊臣政権下における義弘との「二頭体制」 22 が、意図的な戦略であったのか、あるいは外部からの圧力によるものであったのかは、歴史的議論の対象であり続けるだろう。
B. 日本史における位置づけ
義久は、戦国時代を代表する大名の一人であり、辺境の一大名を九州という主要な島の支配者寸前にまで押し上げた人物である。彼の物語は、戦国時代の激しい地域主義と、中央集権化を進める統一権力との劇的な衝突を象徴している。義久の尽力によって確保された島津家の存続と徳川時代におけるその後の隆盛は、薩摩藩が後の日本史(特に明治維新)において決定的な役割を果たすことを可能にした。
C. 義久の下での島津家の永続的遺産
島津義久は、その後数世紀にわたり存続する島津家の権力基盤を固めた。彼の遺産は、単なる軍事的征服に留まらず、卓越した政治手腕、逆境における強靭さ、そして圧倒的な中央権力に直面しながらも自らの領土と民衆を保護する能力にこそ見出される。彼の指導下で示された武勇、戦略的深慮、外交的技巧の組み合わせは、九州および日本の歴史に消えることのない足跡を残した。
島津義久の歴史的重要性は、単に地域的な軍事拡大を成し遂げた点にあるのではなく、戦国時代の征服者から統一日本における現実的な生存者へと移行し得たその卓越した能力にある。彼の指導力は、軍事指揮を委任しつつ最高の戦略的・外交的統制を保持するという独特の均衡、家族的忠誠心を育んだ個人的な謙虚さ、そして自領の利益を守るという猛烈な決意によって特徴づけられた。彼の生涯は、戦国時代から江戸時代への移行期において、最も成功した大名とは、必ずしも最も攻撃的な征服者ではなく、たとえ究極的な野心を犠牲にしても、変化する政治情勢に適応できた者たちであったという重要なテーマを浮き彫りにしている。九州統一を目指した野心家から、巧みな交渉者へと変貌を遂げた彼の姿は、この適応能力を明確に示している。