日本の戦国時代史を彩る人物は、なにも天下に号令した大名や、その一族ばかりではない。時に、歴史の表舞台には名を連ねることの少ない一人の家臣の生涯が、時代の激動と、その中で生きる武士の矜持、そして悲哀を雄弁に物語ることがある。本報告書で取り上げる川上忠実(かわかみ ただざね)は、まさにそのような人物である。
島津氏の陪臣、すなわち分家の家臣という立場にありながら、彼は島津氏の九州統一戦における武勇、文禄・慶長の役における絶体絶命の状況下での死闘、そして江戸時代初期の藩体制確立期における忠誠心と、その生涯のあらゆる局面で類稀なる働きを見せた。彼の戦功は、主君である島津義弘や忠恒(後の家久)から直接賞賛されるほどのものであった。
しかし、この輝かしい武功に満ちた生涯は、その最期において大きな謎に包まれている。薩摩藩の公式記録が伝える穏やかな死と、彼の終焉の地である垂水に根強く残る、主家への諫言の末に誅殺されたという悲劇的な伝承。この二つの異なる「死」は、なぜ存在するのか。本報告書は、川上忠実の生涯を徹底的に追跡するとともに、史料の比較検討を通じて、彼の武功の実像と、その死をめぐる謎の真相に迫るものである。彼の生涯を深く掘り下げることは、戦国乱世の終焉から近世の厳格な藩体制へと移行する時代の転換点を、一人の武士の視点から鮮烈に浮かび上がらせる試みとなるだろう。
川上忠実の人物像を理解する上で、まず彼の出自と、彼が仕えた主家との関係性を明らかにすることが不可欠である。彼は決して無名の出自ではなく、島津氏の歴史において重要な位置を占める一族の出身であった。
薩摩における川上氏は、島津宗家第5代当主・島津貞久の庶長子である頼久を祖とする、由緒ある一族である 1 。庶流であったため宗家の家督を継ぐことはなかったものの、島津氏の分家筋として重きをなし、代々島津宗家に仕えて家老職などの要職を輩出する有力な武家であった 3 。この血筋は、忠実が単なる一兵卒ではなく、武門の名家に連なる者としての誇りと責務を負っていたことを示唆している。
川上忠実は、永禄6年(1563年)、川上忠光の子として生を受けた 5 。彼の家系は、川上氏の中でも島津宗家と極めて近い関係にあった。忠実の父・忠光は、島津宗家第15代当主・島津貴久の弟にあたる島津忠将の家老を務めていた 5 。そして忠実自身は、その忠将の子である島津以久(もちひさ)の臣下となった 5 。
この島津以久の家系は、後に大隅国垂水を領して「垂水島津家」となり、江戸時代には薩摩藩主の一門家として最高の家格を与えられることになる 8 。また、以久自身は関ヶ原の戦いの後、日向国佐土原に封ぜられ、佐土原藩の初代藩主ともなった 7 。
ここで極めて重要なのは、忠実の立場が島津宗家の直接の家臣(直臣)ではなく、分家である垂水島津家に仕える「陪臣(ばいしん)」であったという点である。彼の忠誠心は、まず第一に直接の主君である島津以久、そしてその跡を継いだ彰久(てるひさ)、久信(ひさのぶ)といった垂水島津家の当主たちに向けられていた。この主従関係の構造こそが、彼の生涯における数々の行動、特にその後のキャリアと、命を賭して主家を諫めることになる最期の運命を理解する上で、決定的な鍵となるのである。
川上忠実が歴史の舞台で最初にその名を刻んだのは、島津氏が九州の覇権を賭けて龍造寺氏と激突した、天正12年(1584年)の「沖田畷(おきたなわて)の戦い」であった。この時、彼はまだ22歳の若武者であった。
当時、九州は薩摩の島津氏、豊後の大友氏、そして肥前の龍造寺氏が三つ巴で覇を競う状況にあった。天正12年、龍造寺隆信は、それまで従属していた有馬晴信が島津氏に寝返ったことに激怒し、これを討伐すべく自ら大軍を率いて島原半島へと侵攻した 10 。有馬氏の救援要請を受けた島津氏は、島津貴久の四男で猛将として知られた島津家久を総大将とする援軍を派遣。しかしその兵力は、龍造寺軍の数万に対し数千と、圧倒的に不利な状況であった 10 。
島津・有馬連合軍は、湿地帯を貫く一本の畷(あぜ道)である「沖田畷」を決戦の場と定め、地形の利を活かした迎撃策を採った 10 。
この九州の勢力図を塗り替える決戦において、川上忠実は島津家久の軍に属し、奮戦した。そして、敵将「龍造寺右衛門大夫(りゅうぞうじ うえもんのたいふ)」なる人物を討ち取るという大きな武功を挙げたのである 5 。
ここで、歴史上の記録を正確に読み解く必要がある。沖田畷の戦いでは、龍造寺軍の総大将・龍造寺隆信自身が討死し、龍造寺氏の没落を決定づけた。しかし、隆信の首級を挙げたのは、同じ川上一族の「川上忠堅(ただかた)」であり、忠実の功績ではない 12 。この二人の功績はしばしば混同されがちであるが、明確に区別して評価することが肝要である。
忠実が討ち取った「龍造寺右衛門大夫」という人物が具体的に誰であったかについては、諸説ある。「右衛門大夫」は当時ありふれた官途名であり、人物の特定は容易ではない 15 。しかし、『本藩人物誌』などの薩摩側の史料では、龍造寺氏の有力な一門であった「龍造寺家就(いえなり)」ではないかと推定されている 5 。いずれにせよ、総大将ではないものの、官途名を持つ敵の有力武将を討ち取ったことは、若き忠実の武勇と将来性を示すに十分な、輝かしい初陣の功績であったと言える。
沖田畷の戦いで武名を知らしめた忠実は、その後、豊臣秀吉による天下統一事業の一環として行われた文禄・慶長の役(朝鮮出兵)において、その武勇と忠誠心を極限の状況下で証明することになる。
文禄元年(1592年)に始まった朝鮮出兵に際し、川上忠実は主君である垂水島津家当主・島津以久の嫡男、島津彰久に付き従って朝鮮半島へと渡海した 6 。彰久は垂水島津家の未来を担うべき若き将であったが、異郷の地での過酷な戦いは彼の体を蝕んだ。文禄4年(1595年)、彰久は朝鮮南部の唐島(現在の巨済島)の陣中にて病に倒れ、帰らぬ人となった 20 。
主君を失った軍勢は、指揮系統を失い、混乱と士気の低下は必至であった。この危機的状況において、島津軍の総帥であった島津義弘は、一人の陪臣に白羽の矢を立てる。それが川上忠実であった。忠実は義弘の命により、彰久が率いていた部隊の「軍代(ぐんだい)」、すなわち総司令官代理という重責を担うことになったのである 6 。この異例の抜擢は、忠実の器量と忠誠心がいかに高く評価されていたかを物語っている。
忠実が軍代としてその真価を問われたのが、慶長の役における最も苛烈な戦いの一つ、「泗川(しせん/サチョン)の戦い」であった。慶長3年(1598年)9月、明の董一元が率いる数万の明・朝鮮連合軍が、島津軍が守る泗川城へと殺到した 22 。
忠実は、わずか300余の兵とともに前線の拠点である泗川古城の守備にあたっていた 6 。圧倒的な兵力差の前に、籠城は不可能と判断した忠実は、本城である泗川新城への決死の撤退を決断する。しかし、その撤退路は敵の大軍に阻まれていた。忠実の部隊は、鉄砲を放ちながら泥濘の畦道を進むも、敵の猛烈な追撃に晒され、半数近い150人以上が討死するという凄惨な状況に陥った 6 。
この死闘の中、忠実自身も獅子奮迅の働きを見せるが、全身に36ヶ所もの矢傷を負い、乗っていた馬も射抜かれてしまう 6 。もはやこれまでと思われたその時、海老原越後という武将の家臣・市助が、敵の馬を奪って忠実に与えるという機転を見せる。さらに、本城から伊勢貞昌の援軍が出迎え、忠実は満身創痍となりながらも、奇跡的に泗川新城への生還を果たした 6 。また、この絶望的な撤退戦に先立ち、忠実は部下に命じて敵の食糧庫を焼き討ちさせるという智将としての一面も見せており、これが結果的に大軍である敵の補給を断ち、後の島津軍の勝利に繋がった 23 。
この鬼神の如き戦いぶりは、島津軍全体を鼓舞した。直後の泗川新城での籠城戦において、島津軍は数で遥かに勝る明・朝鮮連合軍を撃退し、歴史的な大勝利を収める。この勝利は、後に「鬼島津」の武名を天下に轟かせるとともに、「稲荷神の化身である赤と白の狐が敵陣に突入し、島津軍を勝利に導いた」という奇瑞譚と共に語り継がれていくことになる 25 。その伝説の中核にあったのが、川上忠実の「36ヶ所の矢傷」に象徴される、人間離れした武勇であった。
この比類なき戦功に対し、島津義弘は自ら景光作の名脇差を授与。帰国後には、義弘・忠恒父子から馬2頭、そして本来の主家である垂水島津家の当主・以久から500石の加増を受け、忠実の名声は頂点に達した 6 。
朝鮮での死闘を生き延びた川上忠実は、帰国後、戦国時代から江戸時代へと移行する激動の時代を、主家である垂水島津家の家老として支え続けた。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、忠実は島津義弘の配下としてこれに参加。西軍が敗北する中、敵中を突破して薩摩へ帰還した有名な「島津の退き口」にも加わり、無事に生還を果たした記録が残っている 6 。これは、彼が島津軍の中枢にあり、義弘から厚い信頼を寄せられていたことを示している。
戦後の徳川家康との困難な交渉の末、島津氏は本領を安堵され、薩摩藩として新たな時代を迎える。この過程で、忠実の主家である垂水島津家にも変化が訪れた。初代当主の島津以久が日向佐土原藩3万石の藩主となり、その本領であった大隅垂水は、朝鮮で陣没した彰久の子、すなわち以久の孫にあたる久信が継承した 7 。これにより、以久の家系は佐土原藩主家と、薩摩藩の一門家臣である垂水島津家とに分かれることになった。忠実は、引き続き垂水島津家の家老として、その家政を預かった。
忠実は、天正18年(1590年)には既に家老職にあったとされ、長年にわたり垂水島津家の重臣として辣腕を振るっていた 4 。彼の忠誠心と政治的手腕を示す具体的な行動として、慶長15年(1610年)の出来事が挙げられる。この年、佐土原藩主となっていた島津以久が死去すると、忠実はただちに幕府の重臣であった山口直友のもとへ赴き、以久の孫である久信が滞りなく佐土原藩の家督を相続できるよう、正式に請願を行った 6 。これは、主家の家督相続という最も重要な問題に対し、陪臣の身でありながら中央政権と直接交渉するという、極めて重要な役割を担ったことを意味する。彼の行動は、常に主家の安泰を第一に考える、忠臣そのものであった。
数々の戦功を立て、主家を支え続けた忠臣・川上忠実。その輝かしい生涯とは裏腹に、彼の最期については二つの全く異なる物語が伝えられている。一つは藩の公式記録に見る穏やかな死、もう一つは地元垂水に伝わる悲劇的な誅殺である。
薩摩藩が編纂した公式の人物伝である『本藩人物誌』や、それに基づく後世の記録によれば、川上忠実は元和9年(1623年)6月3日に死去したとされる。享年は61であった 6 。これらの記録には死因は明記されていないが、その文脈から病死もしくは天寿を全うした自然死と解釈するのが一般的である。墓所は、彼の領地であった垂水の福寿寺にあると記されている 4 。これが、公式に認められた川上忠実の最期である。
しかし、忠実がその生涯を閉じた大隅国垂水の地には、公式記録とは全く異なる、衝撃的な伝承が今なお語り継がれている 4 。
その伝承によれば、事件は元和9年(1623年)に起こった。当時、垂水島津家の第5代当主であった島津久敏は、幕府への人質として江戸に滞在していた。その不在を突いて、家中に久敏を廃嫡し、庶子である忠政に家督を継がせようとする不穏な動きが起こった。家老であった川上忠実は、この主家の筋目と忠義にもとる企てに激しく反対し、首謀者たちを厳しく諫めた。しかし、その忠言が聞き入れられることはなかった。
自らの死を覚悟した忠実は、長男ではなく次男の忠利を伴って登城し、城中にて親子共々斬殺されたというのである 4 。この悲劇的な最期のため、忠実は島津家の公式な墓地への埋葬を許されず、その忠義を不憫に思った福寿寺の住職が、伊地知家の菩提寺である同寺の敷地内に密かに葬ったと伝えられている 29 。
なぜ、一人の人物の死に対して、これほど対照的な二つの記録が存在するのか。この謎を解く鍵は、当時の薩摩藩が置かれていた政治的状況にある。
第一に、公式記録の性質を考慮する必要がある。『本藩人物誌』は、あくまで薩摩藩という公権力によって編纂された史書である 30 。藩にとって不名誉な内紛、すなわち「輝かしい戦功を持つ忠臣を、耳の痛い諫言をしたが故に主君の一派が斬殺した」という事実は、藩の権威を著しく損なうものである。そのため、こうした事件を公式の歴史から抹消し、穏当な内容に改竄することは、当時の武家社会の常識から見て十分に考えられる。
第二に、この誅殺説の信憑性を補強する強力な状況証拠が存在する。それは、忠実が殺害される約24年前の慶長4年(1599年)、薩摩藩初代藩主・島津忠恒(後の家久)が、藩の重臣であった伊集院忠棟を伏見の自邸で自ら斬殺した事件である 32 。忠棟は豊臣政権と直接結びつき、その権勢が宗家の統制を脅かす存在と見なされたために粛清された。この「伊集院忠棟誅殺事件」は、江戸時代初期の薩摩藩において、藩主による強権的な家臣統制、すなわち藩の安定のためには有力家臣であっても容赦なく排除するという冷徹な政治判断が、現実に行われていたことを示す動かぬ証拠である。
これらの点を踏まえると、忠実の死の真相について、以下のような蓋然性の高いシナリオが浮かび上がる。
関ヶ原の戦いを経て、薩摩藩は徳川幕府との関係を安定させつつ、藩内の権力基盤を強化する中央集権化を急いでいた 35。垂水島津家は宗家に次ぐ家格を持つ有力な一門家であり、その家督問題は藩全体の安定に直結する重要事案であった 8。その家老である忠実の家督問題に対する諫言が、薩摩藩宗家の意向に沿わないものであった場合、それは単なる家中の意見対立ではなく、藩の統制に対する「反逆」と見なされる危険性を孕んでいた。
結果として、川上忠実は、藩の安定を優先する冷徹な政治力学の犠牲となり、その非業の死という事実は公式記録から抹消された。そして、その空白を埋めるように、事件の真相が地元垂水の口伝や記録として、今日まで語り継がれてきたと考えられるのである。
表:川上忠実の最期に関する二つの説の比較
項目 |
公式記録(『本藩人物誌』等) |
垂水伝承 |
没年 |
元和9年(1623年)6月3日 |
元和9年(1623年) |
享年 |
61歳 |
不明(同年代と推定) |
死因 |
不明(病死または自然死と解釈) |
誅殺(斬殺) |
状況 |
穏やかな死 |
垂水島津家の家督相続問題で主君を諫言した末、次男と共に城中で殺害される。 |
墓所 |
垂水・福寿寺 |
同左。ただし、島津家墓地を許されず、寺の住職が不憫に思い伊地知家の墓地に葬ったとされる。 |
根拠 |
薩摩藩の公式編纂物 |
垂水市の郷土史、口伝、観光協会資料 |
川上忠実の生涯は、戦国武将として求められる個人の武勇と、近世封建社会の家臣として求められる主家への絶対的な忠誠という、二つの徳目を体現したものであった。沖田畷の戦いでの若き日の武功、そして泗川の戦いで見せた鬼神の如き奮戦は、彼が当代屈指の武人であったことを証明している。同時に、主家の家督相続のために中央政権と渡り合い、最後は自らの命を賭して主君を諫めたその姿は、近世武士の理想とされた「忠臣」そのものであった。
彼の生涯における「輝かしい武功」と「悲劇的な最期」は、決して無関係ではない。むしろ、表裏一体のものであったと考えるべきだろう。戦場で示した不屈の精神と、主家に対する揺るぎない忠誠心があったからこそ、彼は主家の内紛という不正義に際しても、自らの信じるところを貫き、死を恐れずに諫言するという道を選んだのである。
最終的に、川上忠実という一人の陪臣の生涯は、戦国乱世の終焉と、それに続く厳格な藩体制の確立という、時代の大きな転換点に生きた武士の栄光と悲哀を、我々に鮮烈に伝えてくれる。彼の死をめぐる二つの物語は、歴史がしばしば権力者によって記される一方で、公式記録から抹消された真実が、地域社会の記憶の中に根強く生き続けることを示す、極めて象徴的な事例と言えるだろう。川上忠実は、その忠義の故に歴史の闇に葬られようとしたが、その名は今なお、故郷垂水の地で語り継がれている。