最終更新日 2025-06-17

川村重吉

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川村重吉の生涯と仙台藩の発展に果たした役割

序章:川村重吉の人物像と本報告の目的

川村重吉、通称「孫兵衛」は、天正3年(1575年)に長門国阿武郡(現在の山口県)に生まれ、慶安元年(1648年)に74歳でその生涯を閉じた江戸時代前期の武士であり、卓越した土木・治水技術者として知られています 1 。彼は当初、毛利輝元に仕えていましたが、慶長年間(1596年~1615年)に伊達政宗に見出され、仙台藩の家臣となりました 2

伊達政宗は、関ヶ原の戦いの後、仙台藩の石高が62万石と定められたものの、その領地の多くが荒れ地であったことに課題を抱えていました。政宗は、この状況を打開し、実質的に100万石を超える領地を実現するという壮大な構想を抱いており、その実現のために重吉の並外れた土木技術に大きな期待を寄せました 5 。重吉は、数学、天文学、測量学、水理学といった多岐にわたる科学的知識に優れ、土木工事の計画から施工までを科学的かつ技術的に実施する能力を持っていました 1 。さらに、製塩や植林にも精通していたとされ、その専門性は単一分野に留まらず、複合的な地域開発を構想できる総合的な知見を有していました 5 。このような広範な知識と技術力は、政宗が重吉を単なる土木技術者としてではなく、藩全体の開発を任せられる「思わぬ逸材」として評価し、破格の待遇で迎え入れた背景にあると考えられます 5

本報告書は、川村重吉の生涯を時系列に沿って詳細に追跡し、彼の専門知識の形成過程、伊達政宗との関係性、そして仙台藩の経済基盤を築いた主要な土木事業の技術的側面を深く掘り下げます。また、これらの事業が仙台藩にもたらした経済的・社会的影響を分析し、彼の治水技術が当時の日本においてどれほど画期的であったかを考察します。さらに、後世における評価と現代に残る遺産についても言及し、川村重吉という人物の歴史的意義を多角的に検証することを目的とします。

第一章:生い立ちと毛利家臣時代

川村重吉は天正3年(1575年)、長門国阿武郡(現在の山口県)に生まれました 2 。幼名は万五郎と伝えられています 3 。彼の祖父は川村常吉とされていますが、父親の名前は明確には残されていません 3 。若くして毛利輝元に仕え、毛利家臣としての道を歩みました 2

しかし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いは、重吉の運命を大きく変えることになります。毛利氏が西軍に属した結果、大幅な領地削減を余儀なくされ、この混乱の中で重吉は浪人の身となりました 3 。浪人となった当時、彼は伊達領であった近江国蒲生郡に滞在していたとされています 3

重吉は、数学、天文学、測量学、水理学といった多岐にわたる科学的知識に加え、製塩や植林といった実用的な技術にも優れた能力を持っていました 1 。提供された資料からは、これらの専門知識が具体的にどのように培われたのか、あるいは師事した人物についての直接的な記述は確認できません 1 。しかし、毛利家臣時代には「才能を発揮することはなかった」という記述がある一方で 3 、浪人期には「水利、測量、天文、数学、製塩、植林などに通じた思わぬ逸材」と評されていることから 5 、彼は毛利家という特定の環境下ではその専門性を十分に活かせなかった可能性が考えられます。浪人という身分になったことで、より自由に各地を巡り、多様な知識や技術を習得する機会を得たのかもしれません。この不安定な期間が、彼に実践的な知識と技術を深めるための時間と動機を与え、結果として伊達政宗という新たな主君の下でその才能を開花させるための準備期間となったと解釈できます。個人の能力が最大限に発揮されるためには、適切な環境と機会が不可欠であるという一般的な原則を、重吉の生涯が示していると言えるでしょう。

第二章:伊達政宗との出会いと仙台藩への仕官

関ヶ原の戦い後、浪人として近江国蒲生郡に滞在していた川村重吉は、伊達政宗との運命的な出会いを果たします 3 。政宗は、重吉の並外れた技術力と、水利、測量、天文、数学、製塩、植林といった多岐にわたる知識に目をつけ、彼を「思わぬ逸材」と高く評価しました 5

政宗は重吉に対し、当時の基準から見ても破格の待遇である500石というスカウト料を提示しました 5 。当時の1石は米約150kgに相当し、これはおよそ1年分の米に匹敵するほどの高待遇でした 5 。しかし、重吉はこの破格の申し出を一度辞退するという意外な行動に出ます 5 。彼が代わりに所望したのは、耕作されていない湿地帯である「野谷地(のやち)」でした 5

重吉は、この数百ヘクタールに及ぶ広大な荒れ地を、わずか数年で肥沃な美田へと変えることに成功しました 5 。この目覚ましい成果により、彼に与えられた知行地は当初の倍である1000石となり、その卓越した力量は仙台城内に広く知れ渡ることとなりました 5 。この逸話は、重吉が単なる金銭的報酬を超え、自身の専門技術と実績を直接的に示す機会を求めていたことを示唆しています。彼は自身の能力に対する絶対的な自信と、それを最大限に活かせる環境を重視していたと考えられます。資料にある「したたかな人物」という評価は 5 、彼が単なる技術者ではなく、戦略的な思考の持ち主であったことを裏付けるものです。

この重吉の行動は、政宗に彼の力量をより深く確信させ、その後の大規模な土木事業を彼に一任する決定的な「信頼」を築く要因となりました 5 。政宗もまた、目先の報酬ではなく、重吉が実証した「荒れ地を美田に変える」という本質的な価値を見抜く先見性を持っていたと言えるでしょう。司馬遼太郎が重吉を「仙台藩の歴史の中で第一等の人物」と評していることからも 5 、政宗が重吉をいかに高く評価し、信頼していたかが伺えます。重吉は、仙台城下町の土木工事から貞山堀の設計・開削、さらには鉱山発見まで手がける「超人的」な動きを見せ、政宗の期待に見事に応えました 5 。これは、優れたリーダーと専門家が互いの価値を認識し、信頼関係を構築することで、組織の大きな目標達成に繋がるという好例として評価できます。

第三章:仙台藩の経済基盤を築いた主要土木事業

川村重吉が伊達政宗に仕えて以降、彼は仙台藩の経済基盤を確立するための多岐にわたる大規模な土木事業を指揮しました。これらの事業は、治水、利水、舟運、都市計画、新田開発といった広範な領域に及び、それぞれが相互に連携しながら、藩全体の発展に不可欠な役割を果たしました。

以下に、重吉が手掛けた主要な土木事業を一覧で示します。

事業名

主要実施期間

主要な目的

具体的な内容/工法

主な成果/影響

北上川の大改修

元和2年(1616年)~寛永3年(1626年)

治水、舟運、新田開発

江合川・迫川と北上川の合流、北上川の流路変更(柳津-石巻間)

仙北平野の新田化、舟運確立、米の増産と江戸への輸送

石巻港の開港と整備

北上川改修と同時期

米の積出港の拠点化

鹿又~石巻間の流路開削と港湾整備

仙台藩の財政基盤確立、江戸廻米の主要拠点化

貞山運河(木曳堀)の開削

慶長2年(1597年)着手、重吉が整備

資材運搬、新田開発

阿武隈川河口~名取川河口間の運河開削(約15km)

仙台城築城資材運搬、沿岸地域の新田開発促進

四ツ谷用水の建設

慶長6年(1601年)開始

城下町の水不足解消、生活用水確保

広瀬川からの取水、潜穴・土樋を用いた水路網の構築

城下町の生活用水・防火用水供給、地下水涵養

広範な新田開発

各土木事業と連動

石高向上、食料増産

早股の地、伊豆野原などの湿地・荒れ地の開墾

仙台藩の石高を実質100万石以上へ向上、財政強化

北上川の大改修

仙台藩は、大雨のたびに洪水を引き起こす北上川、江合川、迫川の水害に長年苦しめられていました。広大な湿地帯や湖沼地帯が広がり、新田開発も困難な状況でした 5 。伊達政宗は、これらの川を大改造して肥沃な穀倉地帯に変え、実質的に100万石の領地を実現するという野望を抱いており、北上川の改修は、洪水防御、湛水被害の解消、そして舟運の改良を主要な目的としていました 5

重吉は、元和2年(1616年)から寛永3年(1626年)にかけて、この大規模な北上川の治水工事を指揮しました 3 。元和2年には江合川と迫川を合流させ、さらに元和9年(1623年)から寛永3年(1626年)の4年間をかけて、北上川の柳津-神取間(約5.2km)の河道を整備し、三つの川を合流させました 4 。この際、鹿又から石巻までの流路も一部新たに開削しながら整備が進められました 11 。当時の技術水準を考えると、5.2kmもの流路を4年間で完全に開削することは困難であったという指摘もあり、重吉は既存の流路を舟運に支障がないように大規模に改修した可能性も考えられます 11

工事は極めて困難を伴い、人夫たちの疲労は限界に達し、地域住民からも「そんなことができるはずがない」「ここで生まれ育ったものでもないくせに何を言っている」といった不信の声が上がるほどでした 9 。しかし、重吉は困難な状況下でも冷静かつ毅然とした態度で指揮を執り、工事の遅れを人夫に話さず、自らの首元を示して「はい、このくらいでございましょうか」と答えることで、自身の覚悟を示しました 9 。政宗が工事現場を視察した際、重吉が自ら家々を訪ね歩き、頭を下げて協力を求めているという話を聞いた人夫たちは、工事の成功を信じて作業を継続しました 9

この大改修により、仙北の平野では広大な野谷地が新田へと変わり、米作りのための水が安定して確保され、人々は安心して耕作できるようになりました 9 。また、仙台藩内の胆沢などから石巻港まで平田船で米を運ぶ舟運が確立され、現在の岩手県南部にあたる南部藩の城下町盛岡までの船の航行も可能となりました 3 。集められた米は、千石船によって直接江戸へと運ばれるようになり、その量は江戸で消費される米の三分の一から二分の一にまで及んだとされています 9 。貞享元(1684年)までに新田開発高は30万石余に達し、特に北上川水系では123,173石の新田開発が行われました 11

石巻港の開港と整備

北上川の改修と並行して、川村重吉は石巻港の開港と整備にも尽力しました 11 。石巻港は、北上川水運の終点として、仙台藩で生産された米を江戸へと送るための極めて重要な積出港となり、藩の財政基盤確立に大きく貢献しました 9 。特に、江戸への米の輸送(江戸廻米)は、仙台藩の現金収入の約40%を占めるほどであり、江戸市中で流通する米の1/3から2/3を占めることもあったと言われています 11

石巻市では、重吉の功績を称え、市制施行50周年の昭和58年(1983年)8月1日に、港町石巻の基礎を築いた大恩人として彼の銅像が河北新報社によって建立され、日和山公園に寄贈されました 3 。また、毎年8月に盛大に開催される「石巻の川開き」祭りは、孫兵衛への感謝の気持ちが込められた伝統行事として、現在も地域に根付いています 9

貞山運河(木曳堀)の開削

貞山運河は、伊達政宗が仙台城の築城や城下町の建設に必要な資材の調達を目的として、慶長2年(1597年)に着手された運河です 13 。重吉は、仙台城への資材運搬を円滑化させるため、既存の堀を運河として開削しました。これが政宗の法名にちなんで名付けられた貞山堀(ていざんぼり)です 5

貞山運河は、北は塩竈湾から南は阿武隈川河口まで、仙台湾に沿って横たわる日本最長の運河であり、総延長は約31.5kmに及びます 14 。この運河は、「木曳堀」「御舟入堀」「新堀」の三つの堀で構成されており、重吉が手掛けたのは、その中で最も古い「木曳堀」と呼ばれる区間です 14 。木曳堀は、阿武隈川河口の荒浜から名取川河口の閖上までの約15kmを結び 13 、阿武隈川の水を運び、増田川の河口潟である広浦と合流することで、沿岸部の湿地帯の開墾にも寄与しました 14 。この運河は、木材やその他の物資を阿武隈川から名取川、広瀬川を経由して仙台城へ運搬するために利用され、多くの新田開発を可能にしたと言われています 13

四ツ谷用水の建設と城下町への影響

川村重吉は、関ヶ原の戦い後に本拠を移した仙台城下の水不足を解消するため、四ツ谷用水の建設にも着手しました。広瀬川の上流から支流を引き込み、その水を地中に染み込ませることで地下水を確保するという、現在の四ツ谷用水の原型を築き上げました 3

四ツ谷用水は、伊達政宗によって広瀬川の河岸段丘地に、全く新たに開かれた仙台城下へ水を導くために建設された用水路です 17 。本流は郷六地区で広瀬川から取水され、潜穴(ずいどう)を経て八幡町、北六番丁を東へと流れていました 18 。過去には洪水によって取水部が流失したことがあり、約800メートル上流に移設された経緯があり、これにより潜穴が1箇所増えて合計4箇所となりました 18 。この用水路の工事には、自然流下勾配の確保、安定した岩盤を求めたずい道掘削、4箇所の渓谷を渡る土樋技術、段丘の高位部に本流を流す測量技術など、当時の高度な土木技術と多くの工夫が凝らされていました 19

四ツ谷用水は、仙台城下の生活用水や防火用水として利用されましたが、飲料水ではなく、主に洗い物などに用いられたと考えられています 18 。この水路網によって地下にしみこんだ広瀬川の水は、地下水を豊かにし、さらに井戸水となって人々の生活を支え、仙台を湧水と井戸水に恵まれた城下町としました 20 。藩の役人の下で用水管理の責務を負わされた人々が、春と秋の年2回の大掃除や、寒い時期の氷割りを行うなど、その維持管理に努めました 18 。明治時代に入ると、四ツ谷用水は不衛生な状態となり、井戸水の水質にも影響を与えたため、上水道や下水道の整備が進められることとなります 18 。しかし、太平洋戦争中には、空襲時の防火用水として改修されるなど、その役割は時代と共に変化しながらも長く利用されました 18 。2016年には、「杜の都仙台の水環境を支える近世より継承された貴重な土木遺産」として、土木学会選奨土木遺産に認定されています 1

広範な新田開発

川村重吉による土木事業は、広範な新田開発を可能にし、仙台藩の石高向上に直接的に貢献しました。彼は、政宗から「田の代わりに荒れ地をいただきたい」と希望し、手に入れた湿地帯である「早股の地」を開墾し、1千石の美田へと変えました 16 。さらに、栗原郡の広大な原野の開墾にも成功し、その領地は約1万5000石に達したとされています 16

伊豆野原(現在の栗原市築館周辺)では、二代目川村孫兵衛である養子の元吉と共に、川よりも高い土地へ水を引くという難工事に挑み、3年がかりで「伊豆野堰」を開削しました。これにより、この地でも1万5千石の収穫が得られるようになりました 16 。これらの新田開発は、木曳堀の掘削や北上川の治水工事といった大規模な土木事業と密接に連携して推進されました 16

重吉のこれらの活躍により、仙台藩の公式な石高が62万石であったにもかかわらず、実際には100万石を超えると言われるほどの経済的基盤が築かれました 16 。特に北上川の治水工事は、仙台藩の石高を大きく向上させ、陸奥北部との海運も発達させることで、藩の財政を確固たるものにしました 3

これらの北上川改修、石巻港開港、貞山運河、四ツ谷用水、そして広範な新田開発は、それぞれが独立した事業ではなく、相互に深く関連し、相乗効果を生み出した複合的なインフラ整備プロジェクトでした。治水(洪水防御、湛水解消)が新田開発を可能にし、新田開発による増産が石巻港からの廻米量を増やし、運河がその輸送を効率化し、用水路が城下町の生活と産業を支えました。この複合的なアプローチこそが、仙台藩が「実質200万石」と称されるほどの経済力を短期間で確立できた主要因であると言えます。重吉は単なる「土木技術者」ではなく、藩全体の経済戦略を理解し、それを具現化する「総合プロデューサー」としての役割を果たしたと評価できます。彼の事業は、単なる技術的課題の解決に留まらず、地域経済の構造変革と持続的発展に直結していました。

第四章:川村重吉の治水技術の評価と後世への影響

川村重吉の治水技術は、当時の日本の土木技術水準において画期的なものでした。彼は、数学、天文学、測量学、水理学といった科学的知識に基づき、土木工事を計画・施工する能力を持っていました 1 。特に、北上川の三川合流工事(1616年-1626年)は、広大な低湿地帯を開発し、水上輸送網を確立した点でその先進性が際立っていました 22 。四ツ谷用水の建設に見られる、自然流下勾配の確保、安定した岩盤を求めたずい道掘削、渓谷を渡る土樋技術、段丘の高位部に本流を流す測量技術などは 19 、当時の高度な土木技術を示すものです。当時の土木技術は、支配層だけでなく、地元農民の中にも巧者が存在したという証言もあり 23 、重吉のような専門家が、そうした在来の知見と自身の科学的知識を融合させた可能性も考えられます。

同時代の他の治水家、例えば加藤清正、成富兵庫、武田信玄などが治水の達人として知られており、彼らの治水術は中国の明の技術と類似するとされています 24 。提供された資料からは、重吉の治水技術がこれらの同時代の治水家と比較してどれほど独創的・先進的であったかについて、詳細な比較は直接的に確認できません 8 。しかし、重吉がキリシタンであった可能性が指摘されており、もしそれが事実であれば、キリスト教と共に伝わった西欧技術による開発が行われた可能性も考えられます 22 。もし西欧の技術が彼の治水技術に取り入れられていたとすれば、それは当時の日本の治水技術に新たな視点や工法をもたらし、彼の独創性や先進性を一層際立たせる要因となったでしょう。

重吉の功績は、後世においても高く評価され、様々な形で顕彰されています。大正4年(1915年)11月10日には、大正天皇即位式にあたり、故川村孫兵衛重吉に対して「正五位」が贈位され、約300年前の河川改修の偉業が国家的に評価されました 3 。昭和58年(1983年)8月1日には、石巻市制施行50周年を記念して、港町石巻の基礎を築いた大恩人としての業績を後世に伝えるため、重吉の銅像が河北新報社によって建立され、石巻市に寄贈されました。この銅像は現在、日和山公園に設置されています 3 。また、毎年8月に盛大に開催される「石巻の川開き」祭りは、孫兵衛への感謝の気持ちが込められた祭りとして、地域に深く根付いています 9 。さらに、2000年度には「野蒜築港関連事業」(木曳堀、現在の貞山運河)、2004年度には「北上川分流施設群」、2016年度には「四ツ谷用水」が土木学会選奨土木遺産に認定されており 1 、重吉が関わった事業が現代においても土木技術の貴重な遺産として高く評価されていることを示しています。

重吉の功績が死後300年以上を経て国家的に顕彰され、さらに現代においても土木遺産として認定されていることは、彼の事業が単なる一時的な成果に留まらず、極めて長期にわたる社会基盤の形成に貢献したことを明確に示しています。これは、一人の技術者の専門性と先見性が、数世紀にわたる地域の繁栄と人々の生活の安定にどれほどの影響を与えうるかを示す好例です。彼の治水・利水事業によって整備された河川や運河、用水路は、現代の宮城県の豊かな田園風景や水資源の基盤となっています 9 。彼の功績が現代の「川開き祭り」として地域文化に根付いている点は、技術的偉業が単なる物理的構造物としてではなく、地域住民の記憶や感謝の念として継承されていることを意味します。これは、土木事業が単なる工学的な成果に留まらず、地域社会のアイデンティティや文化形成にも深く関与するという、より広範な視点を提供します。東日本大震災では、重吉が手がけた貞山堀周辺も甚大な被害を受けましたが 5 、彼の築いたインフラが長年にわたり地域を支えてきた歴史的意義は大きく、現代社会が直面する災害対策や国土強靭化を考える上で、その価値は改めて見直されるべき先人の知恵と言えるでしょう。

第五章:晩年と子孫の系譜

川村重吉は寛永15年(1638年)に隠居しました 3 。その後、慶安元年閏1月27日(1648年3月21日)に74歳で死去しました 1 。彼の墓所は宮城県石巻市中浦2-2-11にある普誓寺に位置しています 3 。なお、重吉の具体的な死因については、提供された資料からは確認できません 3

隠居に際し、重吉は自身の所領を三人の息子に分割相続させました。長男の元吉には500石、次男の資吉には350石、三男の重成には257石が与えられました 3 。特筆すべきは、これらの子息が重吉の血縁上の子ではなく、養子であったという点です 3 。長男の元吉は加藤頼定の三男、次男の資吉は日野長門の次男、三男の重成は横山甚蔵の次男でした 3 。一部の資料には「井深監物重次」が重吉の嫡男であるという記述も見られますが 31 、他の主要な資料では元吉が嫡男とされており 3 、この点については史料間の異同が存在します。

重吉が実子ではなく養子に事業と所領を継承させた事実は、当時の武家社会における家督継承の慣習だけでなく、彼の事業の専門性と重要性を鑑みた戦略的な判断であった可能性を示唆しています。土木・治水という専門性の高い分野において、血縁よりも能力や適性を重視し、最適な後継者を選定したと考えられます。

重吉の死後も、彼の志と功績は子孫によって継承されました。養子である二代目孫兵衛元吉は、重吉の遺志を継ぎ、貞山堀の完成に尽力しました 21 。また、元吉は当時荒野であった伊豆野原を開墾するため、一迫川上流に「伊豆野堰」を建設し、広大な原野を実り豊かな美田へと変えるなど、新田開発事業を継続しました 16 。川村孫兵衛が二代にわたり大規模な工事を行った結果、宮城県は「豊穣の地」となり、現在も美しい田園風景が広がっています 9 。これは、個人の才能と功績が、血縁を超えて組織的な知識と技術として継承され、長期的な社会貢献に繋がった稀有な事例として評価できます。

結論:川村重吉の生涯と功績の総括

川村重吉は、伊達政宗の野望であった仙台藩の実質的な石高向上と経済基盤確立において、不可欠な役割を果たした人物です。彼の多岐にわたる土木・治水事業、すなわち北上川の改修、石巻港の開港、貞山運河の開削、四ツ谷用水の建設、そして広範な新田開発は、治水、利水、舟運、都市機能の全てを網羅していました。これらの事業は、仙台藩を東北有数の穀倉地帯へと変貌させ、特に北上川の改修による大規模な新田開発と水運の確立は、仙台藩の経済的繁栄の根幹をなしました。

重吉の事業は、単なる技術的成果に留まらず、地域社会の発展と人々の生活の安定に直接貢献しました。彼の科学的知識と実践的技術の融合、そして困難に立ち向かう強い意志とリーダーシップは、現代のインフラ整備や地域開発においても重要な示唆を与えます。彼の功績が後世にわたり高く評価され、土木遺産や地域文化として継承されている事実は、持続可能な社会基盤の構築における歴史的知見の重要性を再認識させるものです。

重吉が築いた治水・利水システムが、東日本大震災のような大規模災害を経験した現代においてもその歴史的意義を再評価されていることは、過去のインフラが現代社会の課題解決に貢献しうる可能性を示唆しています 3 。彼の事業は、短期的な経済効果だけでなく、長期的な視点での国土強靭化と地域コミュニティの持続可能性を考慮したものであったと解釈できます。これは、現代の土木技術者や政策立案者に対し、過去の成功事例から学び、自然環境と調和しながら、将来の世代にわたって機能し続けるインフラを構築することの重要性を強く訴えかけます。川村重吉の生涯と功績は、単なる歴史上の偉人伝としてではなく、現代社会が直面する環境問題や災害対策、地域活性化といった課題に対する実践的な示唆を提供するものとして、その価値は計り知れません。

引用文献

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  25. 「国難」をもたらす 巨大災害対策についての 技術検討報告書 - 土木学会 委員会サイト https://committees.jsce.or.jp/chair/system/files/%E6%9C%AC%E7%B7%A8_%E3%80%8C%E5%9B%BD%E9%9B%A3%E3%80%8D%E3%82%92%E3%82%82%E3%81%9F%E3%82%89%E3%81%99%E5%B7%A8%E5%A4%A7%E7%81%BD%E5%AE%B3%E5%AF%BE%E7%AD%96%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%AE%E6%8A%80%E8%A1%93%E6%A4%9C%E8%A8%8E%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8_6.pdf
  26. 宮城県 大崎西部農業水利事業 - 水土の礎 https://suido-ishizue.jp/kokuei/tohoku/Prefectures/0403/0403.html
  27. 近世の民間土工専門家・黒鍬 - AgriKnowledge https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2030928570.pdf
  28. 時や洪水時のみ流れる流路などがあ - 国土交通省 東北地方整備局 https://www.thr.mlit.go.jp/karyuu/symposium/magobeemap_2.pdf
  29. 伊達輝宗 - 猛将妄想録 - ココログ http://mousouroku.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-76e9.html
  30. 伊達輝宗 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E8%BC%9D%E5%AE%97
  31. 《い》会津の著名人/遇直なまでに至誠な気質 - 会津への夢街道 https://aizue.net/siryou/tyomeijin-i.html