最終更新日 2025-06-08

市橋長勝

「市橋長勝」の画像

日本の戦国時代における市橋長勝の詳細調査報告

1. はじめに

市橋長勝(いちはし ながかつ)は、弘治3年(1557年)から元和6年(1620年)にかけて活躍した、織豊時代から江戸時代前期の武将であり大名です 1 。彼の生涯は、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康という、日本の歴史上特筆すべき三人の天下人に仕えたという点で特徴づけられます 1 。美濃国(現在の岐阜県)の国人領主の家に生まれながらも、最終的には数万石を領する大名へと立身出世を遂げた人物です 1

市橋長勝がこれら三英傑に仕えたという事実は、単に経歴上の特異性を示すだけでなく、彼の武将としての能力、そして何よりも激動の時代を生き抜くための適応能力の高さを示唆しています。それぞれの主君の下で役割を果たし、信頼を勝ち得ていく過程は、戦国武将の典型的な立身出世の姿を映し出すと同時に、長勝個人の資質や処世術を色濃く反映していると考えられます。本報告書は、市橋長勝の出自から、各政権下での具体的な事績、人物像、そして彼と彼の一族が歴史に果たした役割を、提供された資料群に基づき、詳細かつ徹底的に明らかにすることを目的とします。

2. 市橋長勝の出自と初期の経歴

市橋氏のルーツと長勝の誕生

市橋氏は、美濃国池田郡市橋郷(現在の岐阜県揖斐郡池田町市橋)を発祥の地とする武家です 3 。その出自については複数の説が存在し、一つは清和源氏頼親流(大和源氏)であるとするもの 3 、もう一つは藤原氏支流(三条家末流)であるとするもの 5 です。資料によれば、源頼親の6代孫にあたる成田光治が承久の乱における鎌倉幕府方としての功績により、美濃国池田郡市橋庄の地頭に任命され、その弟である成田光重が市橋を名乗ったのが始まりとされています 3

しかし、市橋家は戦国時代前期の利治の代に一度断絶し、他家から養子を迎えて再興したと伝えられています 3 。この養子が利信とされますが、史料によって名が混同しており、市橋家の出自は戦国時代中期の長勝の代に至るまで不明な点が多いとされています 3 。このような出自に関する複数の説や不明瞭な点は、戦国時代の多くの武家に見られる特徴です。家名を高めるために名門の系譜に連なろうとする傾向や、実力でのし上がった家系では初期の記録が乏しいことは珍しくありませんでした。市橋氏もまた、長利・長勝の代に大きく飛躍した家であり、それ以前の歴史は必ずしも明確ではなかったと考えられます。

市橋長勝自身は、弘治3年(1557年)に美濃国で生まれたと記録されています 1 。彼の父は市橋長利(いちはし ながとし)とされており、通称を九郎左衛門または九郎右衛門、官位は壱岐守、号を一斎と称しました 5 。長利は美濃青柳城主、後に福束城主を務めた人物です 5

初期に仕えた可能性のある主君

長勝の父である市橋長利は、当初、美濃国の実権を握っていた斎藤道三、そしてその子義龍、孫龍興に仕えていました 3 。しかし、尾張国(現在の愛知県西部)から織田信長が美濃に侵攻してくると、長利はいち早く信長に通じ、その側近となりました 3 。この父・長利の決断は、市橋家の、そして長勝の将来に極めて大きな影響を与えました。斎藤氏から織田信長へといち早く帰順したことにより、市橋家は織田政権下で確固たる地位を築く基盤を得、長勝も信長の家臣団の中でキャリアをスタートさせる道が開かれたと言えます。長勝自身も、父の動向を踏まえ、早い段階から織田信長に仕えたと考えられています 1

3. 織田・豊臣政権下での活躍

織田信長への臣従と主な活動

市橋長勝は、父・長利と共に織田信長に仕えました 1 。父・長利は信長の近臣として重用され、永禄12年(1569年)の伊勢大河内城攻め、元亀元年(1570年)の近江小谷城攻めや姉川の戦い、元亀2年(1571年)の長島一向一揆攻めなど、信長の主要な合戦の多くに参加しています 5 。長勝もこれらの戦役、あるいは信長政権下での何らかの軍事行動に関与した可能性が考えられますが、提供された資料からは、長勝個人の具体的な活動に関する詳細な記録は限定的です。

天正3年(1575年)に信長が嫡男の信忠に家督を譲ると、父・長利は信忠直属の家臣となったとされています 5 。長勝の当時の立場についての直接的な記述は見当たりませんが、父と同様の立場にあったか、その下で経験を積んでいたと推測されます。織田政権下における市橋長勝個人の具体的な活動や戦功に関する記録が少ないのは、彼がまだ若年であったか、あるいは父・長利の活動の陰に隠れていたためかもしれません。しかし、後に豊臣秀吉や徳川家康に重用されることを考えると、この時期に武将としての基礎を築き、何らかの形で信長や信忠にその存在を認識されていたと考えるのが自然です。記録に残りづらい、馬廻衆としての地道な活動などが中心だった可能性も否定できません。

豊臣秀吉への臣従後の動向

本能寺の変による織田信長の横死後、天下の覇権を握った豊臣秀吉に、市橋長勝は仕えることになります 1 。秀吉政権下で、長勝は着実にその地位を向上させていきました。

主要な戦役への参加としては、九州征伐(天正14年~15年、1586年~1587年)および小田原征伐(天正18年、1590年)への従軍が記録されています 6 。これらの大規模な軍事行動への参加は、秀吉政権下における長勝の武将としての地位を確立する上で重要な意味を持ちました。さらに、文禄・慶長の役(文禄元年~慶長3年、1592年~1598年)においては、直接朝鮮へ渡海したという記録は見当たらないものの、肥前名護屋城(現在の佐賀県唐津市)に駐屯したとされています 2 。これは、秀吉からの信頼を得て、後方支援や兵站維持といった重要な任務を任されていたことを示唆します。

これらの功績が認められ、市橋長勝は天正15年(1587年) 1 、あるいは資料によっては天正17年(1589年) 8 に、美濃国安八郡今尾(現在の岐阜県海津市平田町今尾)に1万石を与えられ、今尾城主となりました 1 。これにより、市橋長勝は近世大名としての第一歩を踏み出し、豊臣政権下における有力な武将の一人として確固たる地位を築いたのです。この1万石の知行は、秀吉の天下統一事業に貢献したことへの明確な評価であり、後の徳川政権下でのさらなる飛躍の基盤となりました。

4. 関ヶ原の戦いにおける動向

東軍への参加経緯

慶長3年(1598年)の豊臣秀吉の死後、豊臣政権内では五大老筆頭の徳川家康が急速に影響力を強め、政局は不穏な様相を呈します。このような状況下で、市橋長勝は徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いにおいては、家康率いる東軍に与しました 1

彼が東軍を選択した具体的な経緯の詳細は、提供された資料からは必ずしも明らかではありません。しかし、秀吉亡き後の混沌とした政情の中で、家康の卓越した力量や将来性を見抜いた戦略的判断があったと考えられます。また、長勝の拠点である美濃国が東西の結節点に位置していたという地理的要因や、同じく元織田・豊臣系で家康に味方した福島正則や池田輝政といった他の美濃出身の有力大名との連携なども、彼の決断に影響を与えた可能性があります。この東軍への参加という決断が、結果的に市橋家の存続と江戸時代における発展に繋がったことから、長勝の先見の明を示す重要な行動であったと言えるでしょう。

前哨戦:福束城攻めにおける戦功

関ヶ原の戦いの本戦に先立って、美濃国では東西両軍による激しい前哨戦が繰り広げられました。当時、美濃今尾城主であった市橋長勝は、この南美濃の戦いにおいて重要な役割を果たします。

慶長5年8月16日、東軍の主力部隊が美濃へ進軍する中、福島正則の命令を受けた市橋長勝は、松ノ木城主・徳永寿昌と共に、西軍の丸毛兼利が守る福束城(現在の岐阜県安八郡輪之内町)を攻撃しました 11 。この福束城攻めにおいて、市橋長勝らは奇計を用いたと伝えられています 12 。具体的には、夜間に兵を福束城近隣の楡俣(にれまた)や十連坊(じゅうれんぼう)といった地点に忍び込ませて火を放ち、これを東軍の新たな援軍襲来と誤認した丸毛兼利は戦意を喪失し、福束城を放棄して大垣城へ敗走したとされています 13 。この結果、福束城は東軍の手に落ちました 11

この福束城攻めでの勝利は、単なる一戦闘の勝利以上の意味を持ちました。東軍にとっては、関ヶ原へ向かう上での背後の安全を確保し、西軍にとっては美濃における重要な拠点を失うことになりました。特に、長勝が単なる力押しだけでなく、知略を用いた戦術家であった可能性を示唆するこの戦功は、関ヶ原本戦を前にした東軍の士気を高め、徳川家康からの評価を得る上で非常に重要なものでした。

今尾城の防衛

市橋長勝の居城であった今尾城 12 が、関ヶ原の戦いの際に西軍の攻撃を受けたとする記述も一部に見られます。資料 6 には「この間に居城である今尾城が石田三成軍の攻撃を受けたが引き返して撃退した」とあります。しかし、他の資料 11 では、長勝は福島正則の命令を受けて福束城攻撃に向かっており、今尾城が直接大規模な攻撃を受けたという詳細な記述は見当たりません。

この情報間の差異は、戦国時代の合戦記録における情報錯綜の一例である可能性も考えられます。あるいは、福束城攻撃が主たる任務であったとしても、自らの居城である今尾城の防衛にも当然注意を払っていたでしょうし、西軍による牽制攻撃や偵察活動があった可能性は否定できません。「引き返して撃退した」という表現が、必ずしも大規模な籠城戦を意味するのではなく、機動的な対応で脅威を排除したことを指すのかもしれません。いずれにせよ、長勝は自身の拠点防衛にも意を用いていたと考えられます。

本戦への関与

提供された資料からは、関ヶ原の本戦における市橋長勝の具体的な戦闘行動に関する詳細な記述は見当たりません。彼の功績は主に前哨戦における福束城攻略にあったと考えられます。しかし、東軍の一翼を担う大名として、本戦にも何らかの形で関与(例えば、特定の部隊に属して布陣する、あるいは後方支援や警戒任務にあたるなど)していたと考えるのが自然です。

5. 徳川政権下での市橋長勝

関ヶ原の戦後の論功行賞と加増(伯耆矢橋藩主)

関ヶ原の戦いにおける市橋長勝の功績は、徳川家康によって高く評価されました。戦後、長勝は1万石を加増され、合計2万石(資料によっては2万1300石 1 や2万1000石 16 )を領する大名となりました 8 。そして、慶長13年(1608年) 1 もしくは慶長15年(1610年) 1 には、伯耆国矢橋(八橋、現在の鳥取県東伯郡琴浦町八橋)に移封され、矢橋藩(八橋藩)の藩主となりました 1

この加増と伯耆矢橋への移封は、徳川政権における市橋長勝の地位を明確に示すものです。1万石の加増は、前哨戦での功績が確実に評価されたことを意味します。また、美濃から伯耆への移封は、徳川家康による全国的な大名配置の一環であり、長勝が外様大名として一定の信頼を得て、西国の抑えの一つとして配置されたと解釈できます。これにより、徳川政権下における市橋家の地位は確固たるものとなりました。

大坂の陣での功績

徳川家康による天下統一の総仕上げとも言える大坂の陣(慶長19年の冬の陣、慶長20年・元和元年の夏の陣)においても、市橋長勝は徳川方として参加し、重要な功績を挙げています 1

特に注目されるのが、大坂夏の陣における働きです。当時、長勝は河内国星田(現在の大阪府交野市星田)の領主でもありました。豊臣方が徳川家康の本陣設営を妨害するために、交野地方を含む近隣の村や寺社に次々と火を放つ焦土作戦を展開する中、長勝はこの動きをいち早く予見し、自身の領地である星田村の守りを固め、焼き討ちから守り抜きました 2 。その結果、徳川家康は安全が確保された星田村の庄屋・平井三郎右衛門清貞宅に本陣を構え、英気を養って決戦の地である大阪城へ向かうことができたと伝えられています 2

さらに、長勝は武勇だけでなく、細やかな情報収集と報告によっても家康の作戦遂行を助けました。例えば、大坂の陣の際には、事前に天満川の川幅や水深を詳細に測量し、その情報を家康に報告したとされています 8 。これらの行動は、長勝が単なる武勇に優れた武将であるだけでなく、先見性、準備周到さ、そして主君のニーズを的確に把握する能力(いわゆる「世渡り上手」)に長けていたことを示しています。こうした働きは家康からの個人的な信頼を勝ち取る上で非常に効果的であり、結果として「譜代同様に扱われた」 8 という高い評価に繋がったと考えられます。

さらなる加増と移封(越後三条藩主)

大坂の陣での目覚ましい功績により、市橋長勝はさらなる評価を受け、元和2年(1616年)には越後国三条(現在の新潟県三条市)へ5万石(資料により4万1300石 1 または5万石 2 )で加増移封されました 1 。これは、長勝の武将としてのキャリアの頂点と言えるでしょう。

この背景には、同年に改易された松平忠輝(家康の六男)の旧領が再編されたことがあり、その一部である三条に、関ヶ原の戦いや大坂の陣で功績のあった長勝が初代藩主として入封したのです 7 。外様大名でありながら、これほどの加増を得たことは、家康からの信頼がいかに厚かったかを物語っています。また、越後という地は上杉氏の旧領の一部であり、戦略的にも重要な地域への配置であったと考えられます。これにより、彼の石高は最大となり、徳川政権における重要な外様大名の一人としての地位を確立しました。

徳川家康との関係性

市橋長勝は、徳川家康から極めて厚い信任を得ており、外様大名でありながら譜代大名と同様に扱われたとされています 8 。その信頼の深さを示す象徴的な出来事として、元和2年(1616年)4月に家康が駿府城で死去する直前、長勝は堀直寄や松倉重政といった他の信頼篤い大名たちと共に枕元に呼ばれ、後事を託されたと伝えられています 8 。これは、家康が長勝の能力と忠誠心を最後まで高く評価していたことの何よりの証左と言えるでしょう。

また、資料 18 には、大坂夏の陣で家康が星田に陣を置いた際、かつて本能寺の変(天正10年、1582年)の折に家康が危機を脱した「伊賀越え」を長勝(あるいは市橋家)が助けたことが評価されたという伝承も記されています。ただし、長勝自身が本能寺の変の際に直接家康を助けたという明確な一次史料は提供された資料の中には見当たりません。長勝の父・長利が何らかの形で関与した可能性は別途検討の余地がありますが、このような伝承が生まれるほど、家康と市橋家の関係が良好であり、長勝が家康から特別な信頼を得ていたことを示唆しているのかもしれません。外様大名である長勝がこれほどの信頼を得た背景には、単なる戦功だけではない、長年にわたる忠実な奉仕や、大坂の陣で見せたような細やかな配慮と情報提供、そしておそらくは人間的な魅力があったと考えられます。この個人的な信頼関係が、後の市橋家存続の危機を救う重要な伏線となります。

表1:市橋長勝の主な経歴と知行の変遷

年号(和暦)

年号(西暦)

主な出来事

主君

領地・居城

石高(推定含む)

典拠例

弘治3年

1557年

美濃国にて出生

1

天正年間初期

1573年頃

織田信長に仕官

織田信長

1

天正15年または17年

1587/1589年

美濃国今尾城主となる

豊臣秀吉

美濃国今尾城

1万石

1

(参考) 九州征伐

1586-87年

従軍

豊臣秀吉

6

(参考) 小田原征伐

1590年

従軍

豊臣秀吉

6

(参考) 文禄・慶長の役

1592-98年

肥前名護屋城に駐屯

豊臣秀吉

2

慶長5年

1600年

関ヶ原の戦い(東軍)、福束城攻略

徳川家康

美濃国今尾城

1万石

11

慶長5年

1600年

関ヶ原の戦後、1万石加増

徳川家康

(伯耆へ移封前)

2万石

8

慶長13年または15年

1608/1610年

伯耆国矢橋藩主となる

徳川家康

伯耆国矢橋城

2万1300石

1

慶長19年-元和元年

1614-15年

大坂の陣に従軍、星田村防衛、天満川測量など

徳川家康

2

元和2年

1616年

大坂の陣の功により越後国三条藩主となる

徳川秀忠

越後国三条城

4万1300石~5万石

1

元和6年

1620年

江戸にて死去

徳川秀忠

1

6. 長勝の死と市橋家の継承

元和6年(1620年)の死去

輝かしい武功を重ね、徳川家康からの厚い信任を得て越後三条藩主となった市橋長勝ですが、その栄華は長くは続きませんでした。元和6年3月17日(西暦1620年4月19日)、長勝は江戸の藩邸において病のため死去しました 1 。享年64歳でした。

嗣子なく死去したことによる改易の危機

長勝の死は、市橋家にとって大きな危機をもたらしました。彼には実子がおらず、法的に跡を継ぐべき嗣子がいないまま死去したためです 1 。江戸時代初期の武家社会において、大名が嗣子なく死去した場合、その家は断絶し、領地は没収される「改易」となるのが原則でした 21 。市橋家も例外ではなく、4万石を超える大名家でありながら、取り潰しの対象となりかけたのです。

甥・市橋長政による家名相続と近江仁正寺藩への移封

しかし、市橋家は断絶の危機を乗り越えることになります。その最大の要因は、生前の徳川家康が長勝に寄せていた並々ならぬ信頼であったと考えられます 8 。家康は既に元和2年(1616年)に亡くなっていましたが、その遺志や長勝への評価は、2代将軍徳川秀忠の政権下においても影響力を持ち続けていたのです。加えて、長勝自身が晩年、自らの死後の家名存続を願い、幕府の老中に何度も嘆願書を提出していたことも、事態を好転させる上で大きな役割を果たしたとされています 8

これらの事情が考慮され、特例として長勝の甥であり養子となっていた市橋長政(いちはし ながまさ)が家名を継承することを許されました 1 。長政は、長勝の姉妹の子(父は林右衛門左衛門)であり、長勝にとっては血縁の近い養子でした 22

ただし、長勝が有していた越後三条の所領全てが安堵されたわけではありませんでした。長政は新たに近江国野洲郡・蒲生郡および河内国交野郡内に合計2万石を与えられ、近江仁正寺(にしょうじ、現在の滋賀県蒲生郡日野町西大路)に陣屋を構え、仁正寺藩の初代藩主となりました 1 。資料 22 によれば、長政は元和6年(1620年)5月15日に養父長勝の所領が一旦没収された後、同年のうちに仁正寺に移封されたとあります。石高は大幅に減少したものの、市橋家は大名家として存続することができたのです。これは、嗣子なき場合の改易が厳格に適用されていた江戸幕府初期においては極めて異例の措置であり、いかに長勝個人への評価と、彼が築き上げた徳川家との信頼関係が強固なものであったかを物語っています。

7. 人物像と逸話

市橋長勝の人物像は、一面的に捉えることが難しい、複雑な魅力に満ちています。提供された資料からは、大胆不敵な「放狂の者」としての一面と、細やかな配慮のできる「世渡り上手」な一面という、対照的な特徴が浮かび上がってきます。

『老人雑話』に記される「放狂の者」としての一面と具体的な逸話

江戸時代初期の医師・江村専斎の談話を記録した逸話集『老人雑話』には、市橋長勝が「放狂の者」(常軌を逸した、あるいは奇矯な人物)として記されており、その具体的なエピソードが紹介されています 8

その逸話とは、織田信長のもとに若狭国の守護大名であった武田元明の使者が訪れた際のことです。使者は名門の出であることを鼻にかけ、格式ばった態度で信長の来訪を待っていました。これを見た長勝は、美濃の田舎武士を見下していると感じたのか、信長が来る前に使者の部屋に立ち寄り、突然使者の目の前で仰向けに寝転がると、自らの陰嚢を取り出して弄びながら、「御使者殿、これほどの大きさの餅をいくつ食べられますかな。言われるだけご用意いたしますぞ」と述べたといいます。使者はこの常軌を逸した行動に大変驚きましたが、後にこの話を聞いた信長は怒るどころか大笑いしたと伝えられています 8

この「放狂」の逸話は、長勝の型破りな性格や、大胆不敵な一面を示していると考えられます。しかし、単なる奇行として片付けるのではなく、その背景や意図を考察する必要があります。使者の尊大な態度に対する意図的な挑発や、侮りに対する反発があったのかもしれません 8 。また、主君である信長がこれを大笑いしたという点は非常に重要です。信長自身が旧来の権威や慣習にとらわれない革新的な人物であったため、長勝のこのような行動をむしろ面白がり、許容した可能性があります。これは、信長と長勝の間に、ある種の共感や特異な信頼関係が存在したことを示唆しているのかもしれません。

世渡り上手、家康からの厚遇

一方で、市橋長勝は非常に気が利き、現実的な判断力に優れた「世渡り上手」な人物であったとも評されています 8 。その代表的な例が、大坂の陣の際に見せた行動です。前述の通り、事前に天満川の深さを測量して徳川家康に報告したり 8 、豊臣方の焼き討ちから自領の星田村を守り抜き、家康の本陣として提供したりする 2 など、その働きは極めて実務的かつ効果的でした。

このような細やかな配慮と確かな実務能力が、徳川家康からの絶大な信頼を得て、外様大名でありながら譜代大名同様に扱われるという厚遇に繋がったと考えられます 8

「放狂の者」という評価と、「世渡り上手」で家康に厚遇されたという事実は、一見矛盾するように見えるかもしれません。しかし、これらは長勝という人物の多面性を示していると解釈できます。若い頃や特定の状況下では大胆不敵な行動をとる一方で、主君に対しては細やかな配慮を忘れず、実務能力も高いという、状況に応じて異なる側面を見せることのできる人物だったのではないでしょうか。あるいは、「放狂」の逸話が若き日のものであり、年齢を重ねるにつれて、より計算高く、現実的な処世術を身につけていった可能性も考えられます。このある種の二面性、あるいは状況適応能力の高さこそが、彼が戦国から江戸初期という激動の時代を生き抜き、三人の天下人に仕えて立身できた秘訣だったのかもしれません。

8. 市橋家(仁正寺藩)のその後

仁正寺藩の成立と市橋長政以降の藩主

市橋長勝の死後、その家督と大名としての地位は、甥で養子の市橋長政によって継承されました。長政は、元和6年(1620年)、近江国蒲生郡仁正寺(現在の滋賀県蒲生郡日野町西大路)に2万石を与えられ、仁正寺藩を立藩しました 1

長政はその後、元和8年(1622年)に市橋長吉(三四郎)に2000石を分与したため、藩の石高は1万8000石となりました 23 。さらに、慶安元年(1648年)に長政が死去し、長男の市橋政信が跡を継いだ際、弟の市橋政直に1000石を分与したため、仁正寺藩の石高は1万7000石となりました 23

仁正寺藩市橋家は、初代藩主・長政の後、2代・政信、3代・信直、4代・直方、5代・直挙、6代・長璉、7代・長昭、8代・長発、9代・長富、そして10代・長和と続き、明治維新に至るまで約250年間にわたり存続しました 23

藩政の概要

歴代藩主の中では、第5代藩主・市橋直挙(いちはし なおたか)が教養人として知られ、時の第8代将軍徳川吉宗にも認められた人物であったと伝えられています 23

また、第7代藩主・市橋長昭(いちはし ながあき)は学問を好み、文武を奨励した人物として記録されています。彼は寛政8年(1796年)に藩校「日新館(にっしんかん)」を設立しました 24 。藩校の設立は、江戸時代中期以降の諸藩において、藩士の教育や人材育成を目的として盛んに行われたものであり、仁正寺藩もこの流れに沿って文教政策に力を入れていたことがうかがえます。なお、会津藩にも同名の有名な藩校「日新館」がありますが 25 、仁正寺藩の「日新館」とは別のものです。

明治維新に至るまでの経緯

幕末の動乱期において、仁正寺藩は文久2年(1862年)に藩名を西大路藩(にしおおじはん)と改称しました 23

最後の藩主となったのは第10代・市橋長和(いちはし ながかず)です。長和は当初、佐幕派の立場をとっていましたが、時代の大きな流れの中で次第に新政府側に傾いていきました。明治天皇が東京へ行幸する際には、天皇の奉送や京都守衛などで功績を挙げたとされています 23

明治2年(1869年)の版籍奉還により、長和は西大路藩知事となりました。そして、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県によって西大路藩は廃藩となり、西大路県が設置されました。その後、西大路県は同年11月に大津県に統合され、さらに翌明治5年(1872年)1月に滋賀県と改称され、現在に至っています 3

市橋長勝の死後、市橋家が仁正寺藩(西大路藩)として明治維新まで約250年間存続したことは、長政以降の歴代藩主が比較的安定した藩経営を行ったことを示唆します。特に大きな改易や転封もなく続いたことは、幕府との良好な関係を維持し、藩内統治にも大きな破綻がなかったことを意味します。幕末期に佐幕から新政府支持へと立場を変えたのは、多くの小藩と同様に、時代の大きな流れを見極め、家の存続を最優先した結果と考えられます。

9. 史跡と顕彰

市橋長勝とその一族に関連する史跡や顕彰物は、彼らが歴史に刻んだ足跡を今に伝えています。

神祖営址之碑(交野市星田)

大阪府交野市星田2丁目には、「神祖営址之碑(しんそえいしのひ)」と呼ばれる石碑が現存し、交野市の指定文化財となっています 2 。これは、慶長20年(元和元年、1615年)の大坂夏の陣の際、徳川家康が市橋長勝の領地であった星田村の平井三郎右衛門清貞宅に本陣を置いたことを記念し、長勝の功績を称えるために建てられたものです 2

この碑は、市橋家8代当主である仁正寺藩主・市橋長昭が、星田村の庄屋であった平井三郎右衛門貞豊と共に、文化2年(1805年) 2 もしくは文化3年(1806年) 27 に建立しました。碑文には、家康を助けた長勝の功績を広く後世に知らせ、称えるという目的が記されているとされます 2 。この碑の存在は、市橋家にとって、始祖である長勝の功績、特に徳川家康との深い繋がりを後世に伝え、家の権威を高める上で重要な意味を持っていました。大坂夏の陣における長勝の機転が、結果的に豊臣家滅亡と徳川幕府の盤石化に貢献したという歴史的意義を強調するものと言えるでしょう。

墓所

市橋長勝の墓所については、東京都台東区谷中4丁目にある瑞輪寺(ずいりんじ)に存在するとされています 6 。その墓石には、「長勝」および「元和六年」という文字がかすかに読み取れると記されており、彼の没年と一致します 6

また、長勝の父である市橋長利の墓は、京都紫野にある臨済宗大徳寺の塔頭・総見院(そうけんいん)にあるとされています 5

菩提所としては、上記の他に岐阜県大垣市赤坂にある法泉寺も挙げられています 28 。これらの墓所や菩提寺の存在は、子孫や旧家臣団による追慕の念の表れであり、武将の歴史的評価が後世の顕彰活動によっても形作られていくことを示しています。

その他

市橋長勝が所用したとされる甲冑として、「伊予札腰取二枚胴具足(いよざねこしとりにまいどうぐそく)」が大阪城天守閣に所蔵されているとの情報があります 2

また、長勝が関ヶ原の戦いの前哨戦で拠点とした今尾城の跡は、現在の岐阜県海津市平田町の今尾小学校敷地内にあり、城跡を示す石碑と案内板が設置されています 12

これらの史跡や遺物は、市橋長勝という武将が確かに存在し、歴史の中で重要な役割を果たしたことを物語る貴重な手がかりとなっています。

10. おわりに

市橋長勝の生涯を総括すると、彼は美濃の国人領主の子として生まれながらも、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康という戦国乱世の三人の天下人に巧みに仕え、その時々の政権において着実に地位を築き上げた、類稀なる処世術と実力を兼ね備えた武将であったと言えます。

特に、関ヶ原の戦いおよび大坂の陣における徳川方としての目覚ましい戦功は、徳川家康からの絶大な信頼を得る強固な基盤となりました。この信頼関係は、長勝自身が嗣子なきまま死去するという絶体絶命の危機に際しても、市橋家の家名存続を可能にするという、極めて大きな結果をもたらしました。

彼の人物像は、『老人雑話』に伝えられるような「放狂の者」としての一見奇矯な一面と、大坂の陣で見せたような細やかな配慮のできる「世渡り上手」な側面を併せ持つ、複雑で多面的なものでした。この二面性こそが、彼が戦国乱世の激動を生き抜き、異なる個性を持つ三人の指導者の下でそれぞれ評価を得て立身できた要因の一つであったのかもしれません。それは、単に武勇に優れるだけでなく、時には大胆不敵に、時には慎重かつ周到に、状況に応じて最適な行動を選択できる知恵と強かさの表れであったと言えるでしょう。

市橋長勝の生涯は、個人の能力と時流を読む洞察力、そして何よりも主君との間に強固な信頼関係を構築することの重要性が、武将の運命を左右した時代であったことを示す好例です。彼の生き様は、戦国時代から江戸時代初期への大きな転換期を生きた武将の一つの典型として、歴史の中に確かな位置を占めていると結論付けられます。彼の成功は、武勇、戦術眼、先見性、忠誠心、そして人間関係を構築し主君の信頼を勝ち取る能力といった、複数の資質の組み合わせの賜物であり、戦国武将が単に戦場で勇猛であるだけでは生き残れず、政治的な判断力や人間的な魅力、そして時には計算高さも必要とされた時代の縮図と言えるでしょう。

引用文献

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