慶長5年(1600年)9月15日、美濃国関ヶ原。日本の歴史上、最も有名かつ決定的な合戦の勝敗は、一人の若き大名の決断に委ねられていた。松尾山に一万五千の大軍を率いて布陣した小早川秀秋。彼が西軍を裏切り、東軍に寝返った瞬間、戦局は雪崩を打って徳川家康の勝利へと傾いた。この歴史的転換の背後で、優柔不断な主君を動かし、天下の形勢を操った中心人物こそ、本報告書が主題とする小早川家家老・平岡頼勝である 1 。
平岡頼勝の名は、関ヶ原の裏切り劇の主役である小早川秀秋や、共に調略にあたった稲葉正成の影に隠れがちである。しかし、東軍の黒田長政との間に築かれた強固な個人的信頼関係を基盤に、合戦前から水面下で内通工作を進め、合戦の最中には逡巡する秀秋を説得して東軍への加担を決断させた彼の役割は、関ヶ原の戦いの帰趨を決する上で不可欠であった。
だが、彼の生涯を紐解くと、単純な「裏切り者」というレッテルでは到底捉えきれない複雑な人物像が浮かび上がってくる。豊臣秀吉にその才能を見出されて立身し、秀吉の甥である秀秋の付家老として重用された「豊臣恩顧」の武将でありながら、なぜ彼は豊臣家を支える西軍を見限り、徳川家康に利する道を選んだのか。その行動は、私利私欲に基づく裏切りだったのか、あるいは主家である小早川家の存続を第一に考えた、家老としての冷徹な策略だったのか。さらに、関ヶ原の功労者でありながら、主君・秀秋の死後は一時浪人の身となり、徳川家康によって大名に取り立てられるも、その藩は息子・頼資の代でわずか二代にして改易の憂き目に遭う。
本報告書は、平岡頼勝という一人の武将の生涯を、その出自から徹底的に追跡する。摂津国の名門にルーツを持ちながら諸国を流浪した青年期、豊臣政権下での立身、関ヶ原における暗躍、そして徳川大名としての後半生と一族の末路までを、現存する史料の矛盾点を整理・分析しつつ多角的に検証する。これにより、彼の行動原理と歴史的役割を再評価し、「関ヶ原の仕掛人」の実像に迫ることを目的とする。
年号(西暦) |
満年齢 |
出来事 |
永禄3年(1560) |
0歳 |
摂津国溝杭(現・大阪府茨木市)にて、溝杭(平岡)頼俊の子として誕生 1 。 |
天正年間(推定) |
- |
父と共に諸国を流浪した後、豊臣秀吉に才能を認められ、その家臣となる 3 。 |
文禄4年(1595) |
35歳 |
小早川秀秋が小早川家を相続。稲葉正成と共に秀秋付きの家老に任命される 3 。 |
慶長5年(1600) |
40歳 |
9月15日、関ヶ原の戦いにおいて、黒田長政と通じ、主君・秀秋を説得して東軍へ寝返らせる。西軍の大谷吉継隊を壊滅させ、東軍勝利の決定的な要因を作る 6 。 |
慶長5年(1600)戦後 |
40歳 |
戦功により、主君・秀秋から備前国児島郡に二万石(三万石説あり)を与えられる 3 。 |
慶長7年(1602) |
42歳 |
10月18日、主君・小早川秀秋が岡山で死去。嗣子なく小早川家は改易となり、頼勝も浪人となる 4 。 |
慶長9年(1604) |
44歳 |
徳川家康に召し出され、美濃国可児郡・羽栗郡など9郡内に一万石余を拝領。美濃徳野藩を立藩し、初代藩主となる 9 。 |
慶長12年(1607) |
48歳 |
2月24日(29日説あり)に死去。享年48。菩提寺は岐阜県可児市の禅台寺 1 。 |
承応2年(1653) |
- |
息子で二代藩主の平岡頼資の代に、家督争いや頼資生前の「不法の事」を理由に徳野藩は改易となる 10 。 |
平岡頼勝の人物像を理解する上で、その出自は重要な要素である。彼の家系は、武家の棟梁として名高い清和源氏、その中でも摂津源氏の祖とされる源頼光に連なる名門であった 12 。『寛政重修諸家譜』などの系譜によれば、頼光の子である下野守頼資が摂津国溝杭(みぞくい、現在の大阪府茨木市周辺)を領地としたことから、その子孫は「溝杭氏」あるいは「横杭氏」を称したとされる 12 。この溝杭という地名は、頼勝の出身地としても記録されており 1 、彼のルーツがこの地にあることは確かと見られる。
室町時代には、溝杭氏は足利将軍家に仕える奉公衆として、ある程度の地位を確立していた可能性が示唆されている。将軍足利義政の時代に成立した家紋集『見聞諸家紋』には、溝杭氏の家紋として「九曜」が収録されている 12 。これは、彼らが将軍家の近臣として、その権威を認められる存在であったことの証左と言える。
「平岡」という姓は、頼勝の代になって定着したものである。系譜によれば、一族の資正の代に、その子である資光が河内国平岡(現在の大阪府東大阪市)に居住したことから「平岡」を名乗る流れが生まれた 12 。資正の兄・資元の系統はその後も溝杭氏を名乗っていたが、頼勝の父・頼俊の代には平岡姓も併用されるようになり、頼勝に至って名字として完全に定着したと考えられる 12 。
このように由緒ある家系に生まれた頼勝であったが、その前半生は順風満帆ではなかった。多くの史料は、彼が父である溝杭(平岡)頼俊と共に「諸国を流浪」する浪人であったと記している 3 。この流浪の具体的な理由や期間については詳らかではない。戦国時代の混乱の中で主家を失ったためか、あるいは何らかの政争に巻き込まれて所領を追われたのか、その背景は想像の域を出ない。
しかし、この流浪の経験が、平岡頼勝という人物を形成する上で決定的な意味を持ったことは間違いない。単なる困窮生活ではなく、武士としての武芸や知略を磨き、各地の情勢や人の心の機微を学ぶ実践的な修行期間であったと捉えることができる。机上の空論ではない、現実世界を生き抜くための胆力と知恵、そして状況を的確に判断する能力は、この苦難の時代に培われたものであろう。
頼勝の人物像は、「清和源氏」という伝統的な権威を背景に持つ出自と、「流浪の浪人」という実力主義的な経歴という、一見矛盾する二つの要素が融合している点にこそ、その本質がある。戦国時代において、由緒ある家柄は人物の信頼性や格を保証する重要な要素であった。後に豊臣秀吉が彼を抜擢し、豊臣一門である小早川秀秋の付家老という重役に任じた背景には、単に彼個人の才能を見込んだだけでなく、この「家格」が一定の安心材料として機能した可能性は否定できない。
一方で、実際に「諸国を流浪」したという経験は、彼が世の実情に通じ、困難な状況を乗り越えるための現実的な判断力を持つ、叩き上げの人物であったことを示唆している。この二面性、すなわち伝統的権威と実力主義的価値観の両方を体現していたからこそ、彼は出自を問わず人材を登用した豊臣秀吉と、旧来の権威秩序を再構築しようとした徳川家康という、性質の異なる二人の天下人から評価される素地を持ち得たのである。このハイブリッドな特性こそが、時代の転換期を生き抜く彼の最大の武器となったと言えよう。
諸国を流浪していた平岡頼勝の運命を大きく変えたのは、天下人・豊臣秀吉との出会いであった。具体的な逸話は史料に残されていないものの、多くの記録が一致して、秀吉が頼勝の「才能を認め」、自身の家臣として取り立てたと記している 3 。これは、身分や出自を問わず、実力のある者であれば積極的に登用するという秀吉の人材発掘方針を象徴する一例と言える。流浪の生活で培われた頼勝の知略や交渉能力、あるいは世情に通じた現実的な判断力が、秀吉の目に留まったのであろう。
豊臣家臣となった頼勝に、その後の彼の運命を決定づける重要な役目が与えられる。文禄4年(1595年)、秀吉の甥(正室・高台院の兄・木下家定の子)であり、秀吉の養子でもあった羽柴秀俊が、毛利家の分家である名門・小早川隆景の養嗣子となり、小早川家を相続した。この時、秀俊(後の小早川秀秋)に付けられた付家老(つけがろう)の一人が、平岡頼勝であった 3 。もう一人の付家老は、後に徳川三代将軍・家光の乳母となる春日局の夫として知られる稲葉正成である 14 。
この人選には、秀吉の明確な政治的意図があったと考えられる。秀秋は豊臣家から送り込まれた養子であり、小早川家譜代の家臣団との間には、目に見えない軋轢や警戒感が存在したことは想像に難くない。秀吉は、頼勝や稲葉のような豊臣直系の、信頼できる家臣を秀秋の側近として送り込むことで、若年の秀秋を補佐し、後見すると同時に、巨大な力を持つ小早川家を内部から掌握し、豊臣政権の支配体制を盤石にすることを狙ったのである。頼勝は、秀吉の代理人として、秀秋の監督と小早川家の統制という二重の重責を担うことになった。
当時の小早川家臣団は、極めて複雑な構成を持っていた。毛利家以来の小早川譜代の家臣たち、養父・隆景が秀秋のために残した家臣たち、そして頼勝や稲葉正成のように秀吉が付けた付家老、さらには秀秋自身が新たに召し抱えた者たちなど、多様な出自を持つ武士たちの寄せ集めであった 14 。このような一枚岩とは言えない組織では、家中の意見を統一することは難しく、若き当主である秀秋が強力な指導力を発揮することは困難であった 15 。
このまとまりのない家臣団の中で、秀吉から直接送り込まれた付家老である頼勝は、秀秋にとって最も信頼でき、また頼らざるを得ない側近の一人であった。彼は、秀秋の意思決定に最も大きな影響力を持つ立場にあり、その言動は小早川家の進路を左右する重みを持っていた。この特異な立場こそが、後の関ヶ原の戦いにおいて、彼が歴史を動かす「仕掛人」となるための舞台装置となったのである。
慶長3年(1598年)の秀吉の死後、豊臣政権は内部対立を深め、徳川家康が急速に台頭する。そして慶長5年(1600年)、天下は家康率いる東軍と、石田三成らを中心とする西軍に二分され、関ヶ原で激突することになる。この国家的な動乱の中で、平岡頼勝は自身の持つ人脈と立場を最大限に活用し、歴史を動かすための調略を開始する。
頼勝の調略を成功に導いた最大の要因は、東軍の主力武将であった黒田長政との極めて近しい姻戚関係にあった。頼勝の正室は、長政の父である黒田如水(官兵衛)の姪にあたる女性であった 3 。より詳細には、頼勝の正室は播磨上月城主・上月景貞の娘であり、その母・妙寿尼は、黒田如水の正室である光(照福院)の実の姉であった 16 。この関係により、平岡頼勝と黒田長政は義理の従兄弟(いとこ)同士という間柄になる 4 。
この血縁という強固な絆は、疑心暗鬼が渦巻く戦乱の世において、何物にも代えがたい信頼の基盤となった。東西両軍が睨み合い、互いに調略を仕掛け合う緊迫した状況下で、極秘の交渉を行う上で、この個人的な繋がりは決定的に重要であった。黒田長政は、従兄弟である頼勝からの情報を疑うことなく受け入れ、それを基に家康への報告と作戦立案を進めることができたのである 7 。
関ヶ原の合戦に先立ち、小早川秀秋は西軍の一員として伏見城攻めに参加するなど、表向きは西軍として行動していた 17 。しかしその裏では、頼勝が稲葉正成と共に東軍への内応工作を主導していた。『慶長年中卜斎記』などの記録によれば、頼勝らは黒田長政や、家康の側近であった山岡道阿弥(道安)らを使者として幾度となくやり取りし、徳川家康に対して内通の意を伝えていた 6 。
そして運命の9月15日、松尾山に布陣した秀秋は、眼下で繰り広げられる激戦を前に、東軍に寝返るか西軍に留まるかの決断を下せずにいた。西軍の石田三成や大谷吉継からの催促と、東軍の黒田長政からの密約との間で、19歳の若き総大将の心は激しく揺れ動いていた。業を煮やした家康が松尾山に向かって威嚇射撃を行ったという有名な逸話は、この時の緊迫した状況を物語っている。この土壇場において、秀秋の背中を押し、決断させたのが家老・平岡頼勝であった 1 。彼は主君の側で説得を続け、東軍への寝返りこそが小早川家が生き残る唯一の道であることを力説したと考えられる。
正午過ぎ、ついに決断した秀秋の軍勢は、松尾山を駆け下り、西軍で最も奮戦していた大谷吉継の陣に襲いかかった。予期せぬ味方の裏切りにより側面を突かれた大谷隊は、奮戦むなしく壊滅。これをきっかけに、脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠といった西軍諸将も次々と東軍に寝返り、西軍の陣形は総崩れとなった 1 。小早川秀秋の寝返りは、関ヶ原の戦いの勝敗を決定づけた瞬間であり、その背後で調略を成功させた平岡頼勝の功績は、東軍勝利の最大の要因の一つと言っても過言ではない。
頼勝の調略が成功したのは、彼が「二重の信頼構造」の結節点にいたからに他ならない。一つは、黒田長政との「血縁」に基づく個人的な信頼である。この強固なパイプがあったからこそ、東軍は小早川家の内応を戦略の前提に組み込むことができた。もう一つは、主君・秀秋からの「付家老」という公式な立場に基づく職務上の信頼である。秀秋にとって頼勝は、父同然の存在であった秀吉が付けた後見人であり、寄せ集めの家臣団の中では最も頼りにできる相談相手であった。頼勝はこの二つの信頼関係を巧みに利用し、東軍に対しては内通を約束し、主君に対しては寝返りを説得するという、極めて高度な政治工作を成し遂げた。個人的関係と公的立場という二つのネットワークを自在に操ったからこそ、彼は歴史を動かす「仕掛人」となり得たのである。
関ヶ原の戦いで決定的な功績を挙げた小早川秀秋は、戦後、徳川家康から備前・美作両国にまたがる51万石に加増転封された。この論功行賞に伴い、寝返りを成功させた最大の功労者である平岡頼勝も、主君・秀秋から備前国児島郡に所領を与えられた 4 。その石高については、二万石であったとする史料 8 と、三万石であったとする史料 3 が存在するが、いずれにせよ一介の家老としては破格の待遇であった。これは家康からの直接の恩賞ではなく、あくまで小早川家内での加増という形であったが、これにより頼勝は小早川家の家老という身分のまま、小大名に匹敵する領地と権力を持つに至った。彼は備前の要衝である下津井城を任されるなど、岡山藩の重臣として藩政の中枢を担った 20 。
関ヶ原後の頼勝の動向については、史料によって記述が異なり、謎に包まれている部分がある。多くの編纂物や記録は、主君・秀秋が次第に酒色に溺れ、政務を顧みない「乱行」が目立つようになり、それに愛想を尽かした家臣たちが次々と出奔していく中で、頼勝は「最後まで秀秋に忠義を尽くした」と記している 3 。この記述に従えば、頼勝は関ヶ原で主君に裏切りをそそのかした張本人でありながら、その後は主君を見捨てることなく、その最期まで支え続けた忠臣ということになる。
しかし一方で、江戸幕府が編纂した公式系譜集である『寛政重修諸家譜』や、彼が晩年を過ごした可児市の記録などでは、秀秋の存命中に何らかの理由で小早川家を離れ、浪人になったとされている 20 。この「出奔」の理由として、禅台寺の寺伝などは「讒言(ざんげん)にあった」ためと伝えている 22 。これは、関ヶ原での功績を妬む者や、旧来の小早川譜代の家臣団との間に深刻な対立が生じ、頼勝が失脚させられた可能性を示唆している。
この「関ヶ原の裏切り」と後の「忠義」という一見矛盾した評価は、当時の武士が持つ「忠義」という概念の複雑さを浮き彫りにしている。頼勝の行動原理は、主君個人への情緒的な忠誠心というよりも、主家である「小早川家」そのものの存続と繁栄を最優先する、より大局的で実利的な「忠義」にあったと解釈できる。
関ヶ原において、西軍に味方し続けることは、豊臣家への義理は立つかもしれないが、時勢を読めば敗北は濃厚であり、小早川家は改易・滅亡の道を辿る可能性が高かった。東軍への寝返りは、秀秋個人や豊臣家への裏切りに見えるが、頼勝にとっては「小早川家」を存続させるための唯一かつ最善の選択であり、家老としての「職務」を全うする行為であった。
そうした論理で家を存続させた以上、その当主である秀秋がたとえ「乱心」しようとも、彼を支え続けるのが家老としての責任である。多くの家臣が秀秋個人に見切りをつけて出奔する中、頼勝が最後まで留まろうとしたのは、自らが招いた「家の存続」という結果に対して、最後まで責任を取ろうとした忠義の発露と見ることができる。もし「讒言による出奔」説が事実であれば、その物語はより悲劇的な色合いを帯びる。彼は大局的な忠義を尽くしたにもかかわらず、家中の派閥争いや個人的な嫉妬によって、その忠義を全うする場すら失ってしまったことになる。いずれの説を取るにせよ、彼の行動は単純な忠臣・逆臣の二元論では割り切れず、時代の価値観の中で極めて合理的かつ現実的な判断を下そうとした結果であったと言えるだろう。
慶長7年(1602年)10月、主君・小早川秀秋は嗣子のないまま21歳の若さで急死する。これにより、名門・小早川家は無嗣断絶となり、改易された。主家を失った平岡頼勝は、再び浪人の身となった 4 。
しかし、彼の運命はここで終わらなかった。関ヶ原での彼の功績を、誰よりも高く評価していた人物がいた。天下人となった徳川家康である。家康は、浪人していた頼勝を召し出し、自身の家臣として取り立てることを決めた 1 。この再登用には、関ヶ原で東軍との交渉窓口を務めた家康の側近、山岡道阿弥(道安)が関与したと『寛政重修諸家譜』は伝えている 20 。これは、関ヶ原での内通者ネットワークが、戦後も彼らのキャリアを保障する一種のセーフティネットとして機能していたことを示している。家康にとって、頼勝のような調略に長けた有能な人物を遊ばせておくのは惜しく、また、関ヶ原の功労者に報いることで、徳川政権の恩義と権威を示す狙いもあった。
慶長9年(1604年)8月、頼勝は家康から美濃国において、可児郡、羽栗郡、中島郡、大野郡など9つの郡内にまたがる一万石余(正確には10,270石余)の所領を与えられ、大名として復活を遂げた 9 。彼は美濃国可児郡徳野村(現在の岐阜県可児市徳野)に陣屋を構え、美濃徳野藩の初代藩主となった 8 。流浪の身から豊臣家臣へ、そして小早川家家老を経て、ついに彼は自らが藩主となる一国一城の主にまで上り詰めたのである。
しかし、大名としての頼勝の治世は長くは続かなかった。徳野藩主となってわずか3年後の慶長12年(1607年)、頼勝は48歳でその波乱の生涯を閉じた 1 。没した日付については、2月24日とする説 4 と、2月29日とする説 1 がある。
彼の墓所は、自らが菩提寺として創建した平岡山禅台寺(岐阜県可児市下恵土)にあり、現在も五輪塔が残り、可児市の史跡に指定されている 8 。その戒名は「高善院殿心月宗安大居士」と伝えられている 4 。
父・頼勝の死により、徳野藩一万石の家督は、嫡男の平岡頼資(よりすけ)が相続した。しかし、頼勝が死去した時、頼資はわずか3歳という幼さであった 10 。頼資の母は、頼勝の正室であった上月景貞の娘であり、後に頼資が迎えた正室は、当代一流の文化人であり大名でもあった小堀政一(遠州)の娘であった 25 。これは、平岡家が徳川大名として、名家との縁組を通じて家の格を維持しようとしていたことを示している。
幼くして藩主となった頼資であったが、彼が治めた徳野藩は長続きしなかった。承応2年(1653年)、頼資が49歳で死去すると、徳野藩は幕府の命令によって改易、すなわち取り潰しとなった 10 。平岡頼勝が一代で築き上げた大名の地位は、わずか二代、およそ50年で失われることとなったのである。
史料によれば、この改易の理由は主に二つ挙げられている。第一に、頼資の生前における「不法の事」である 9 。この「不法」の具体的な内容については記録がなく不明だが、藩主としての素行に問題があったことや、藩の統治に何らかの重大な欠陥があったことを示唆している。第二に、頼資の晩年から死後にかけて、家中で深刻な家督争いが発生したことである 10 。この争いは、頼資の庶長子(側室の子)である平岡新十郎と、嫡子(正室の子で次男)であった平岡頼重との間で繰り広げられた 25 。
徳川幕府は、支配体制を盤石にするため、藩の統治に問題があったり、お家騒動を収拾できない大名家に対しては、容赦なく改易処分を下す厳しい姿勢で臨んでいた。徳野藩も、藩主の不行跡と家督争いという二つの理由により、その標的となったのである。
しかし、大名家としての平岡家は断絶したものの、家名そのものが途絶えることは免れた。幕府は、関ヶ原における初代・頼勝の功績に免じてか、嫡子であった平岡頼重に新たに美濃国内で1,000石の所領を与え、幕府直属の家臣である旗本として家名の存続を許した 10 。この旗本平岡家は、その後代を重ねる中で加増を受け、最終的には6,000石の大身旗本として明治維新まで存続することになる 27 。
頼勝が一代で築いた大名の地位が、次代であっけなく失われたという事実は、時代の大きな変化を象徴している。頼勝の生涯は、流浪、調略、主君の乗り換えといった、まさに戦国乱世の生存術そのものであった。彼の成功は、個人の知謀と胆力、そして政治的嗅覚といった「武」の論理に依存していた。しかし、その息子・頼資に求められたのは、父のような波乱万丈の立身出世ではなく、徳川幕府という確立された秩序の中で、安定した藩経営を行う「文」の統治能力と、家臣団をまとめる組織管理能力であった。
「不法の事」や「家督争い」という改易理由は、頼資がこの新しい時代の統治者像に適応できなかった悲劇を示している。戦国の論理で成功した者の遺産が、泰平の世の統治システムに適応できずに瓦解した典型例と言えよう。一個人がいかに大きな成功を収めても、その遺産を次代に継承し、新しい時代の秩序に適応させることがいかに困難であったかを示す、歴史の教訓がここにある。それでもなお、家名が旗本として存続したことは、頼勝が関ヶ原で立てた功績がいかに大きく、幕府の記憶に深く刻まれていたかの証左であり、不幸中の幸いであった。
平岡頼勝の生涯を俯瞰するとき、彼が単なる「裏切り者」でも、あるいは純粋な「忠臣」でもない、複雑で多面的な人物像が浮かび上がる。彼は、戦国から江戸へと移行する時代の転換期を生き抜くために、状況に応じて「忠義」の対象やその形を変化させた、極めて現実的で冷徹な策略家であった。彼の行動原理の根底にあったのは、豊臣家への旧恩や主君個人への情緒的な忠誠心よりも、自らと一族の「家」を存続させ、発展させるという、武士としてのより根源的な欲求であったと考えられる。
彼の評価をより立体的にするため、関ヶ原で運命を共にしたもう一人の付家老、稲葉正成のその後の経歴と比較することは有益である。
項目 |
平岡頼勝 |
稲葉正成 |
出自 |
清和源氏頼光流 溝杭氏 |
美濃斎藤氏庶流 稲葉氏 |
小早川家での役職 |
付家老 |
付家老 |
関ヶ原での役割 |
東軍への内通工作・秀秋の説得 |
東軍への内通工作・秀秋の説得 |
関ヶ原後の処遇 |
秀秋から備前児島二万石を与えられる |
秀秋と対立し美濃へ蟄居 28 |
秀秋死後 |
浪人 |
浪人 |
徳川政権下での再起 |
家康に召され美濃徳野一万石の大名となる |
家康に召され美濃国内で一万石の大名となる 30 |
キャリアの転機 |
関ヶ原での功績 |
妻・福(春日局)が将軍家光の乳母に就任 |
最終的な地位 |
初代徳野藩主(一万石) |
下野真岡藩主(二万石) 28 |
家のその後 |
二代で改易後、旗本として存続 |
子孫は山城淀藩主など譜代大名として幕末まで繁栄 28 |
この比較から明らかなように、二人は極めて似た経歴を辿りながら、その後の家の運命は大きく分かれた。稲葉正成もまた、関ヶ原後に秀秋と対立して浪人となるが、彼の妻・福が徳川三代将軍・家光の乳母「春日局」として絶大な権勢を握ったことで、彼の運命は劇的に好転する 33 。正成自身も大名として華々しく復活し、その子孫は老中を輩出する譜代大名として幕末まで繁栄を続けた。
この対照的な結末は、近世初期において、個人の武功や才能だけでなく、幕府中枢とのコネクションや縁故がいかに重要であったかを浮き彫りにしている。頼勝の家が二代で大名の座を失ったのに対し、稲葉家が繁栄したのは、春日局という将軍家との強力なパイプの有無が決定的な差となった。
結論として、平岡頼勝は、歴史の転換点において、自らの知謀と人脈を最大限に活用し、一介の浪人から大名にまで上り詰めた傑物であった。彼の生涯は、戦国武将のダイナミックな立身出世物語であると同時に、その成功がいかに脆く、新しい時代の秩序の中で次代へ継承することがいかに困難であったかを示す、一つの典型例でもある。彼の存在なくして関ヶ原の結末は変わっていたかもしれず、その歴史的意義は、彼が興した藩が短命に終わったという事実を遥かに超えて大きい。彼はまさに、乱世が生んだ最後の「仕掛人」の一人であったと評価できるだろう。