最終更新日 2025-07-10

平田範重

蘆名家宿老 平田一族の実像 ―「範重」をめぐる謎と、その一族の興亡―

序章:平田範重という謎 ― 史料の断片から浮かび上がる会津の武人

戦国時代の南奥州にその名を馳せた蘆名氏。その重臣として、平田舜範の子「平田範重」という武将が知られている。彼は、同じく蘆名家臣であった松本行輔の謀叛を鎮定し、また伊達政宗の軍勢が領内に侵攻した際にはこれを撃退するなど、主家のために武功を挙げたとされる 1 。しかし、この「平田範重」という人物の生涯を深く探求しようとすると、我々はすぐに一つの大きな謎に突き当たることになる。

彼の功績を記す他の史料や記録を参照すると、しばしば「慶徳範重」という、異なる名字を持つ人物が登場する 2 。驚くべきことに、この慶徳範重の経歴は、平田範重のそれと寸分違わず一致するのである。彼は平田舜範の子とされ、松本行輔の乱を鎮め、伊達軍と戦ったと記録されている 2

この史料上の交差は、単なる同姓同名の偶然では片付けられない。平田範重とは何者なのか。そして、慶徳範重とは誰なのか。両者は同一人物なのか、それとも別人なのか。この問いこそが、本報告書の出発点である。

本報告は、この「範重」という一人の武将をめぐる謎を解明すると同時に、彼が属した蘆名家宿老・平田一族の出自から、主家滅亡後の流転に至るまでの興亡の軌跡を、現存する史料を丹念に読み解きながら徹底的に追跡するものである。彼の生涯は、蘆名家が全盛期から衰亡へと向かう激動の時代そのものを映し出す鏡であり、主家の危機に際して譜代の重臣がいかなる政治的判断を下し、いかにして一族の存続を図ったかを示す、極めて貴重な歴史的ケーススタディと言えるだろう。

第一章:会津の柱石 ― 蘆名四天の宿老・平田氏

出自と家格

平田一族は、会津の地に根を張る国人領主ではなく、主君である蘆名氏と運命を共にしてきた譜代の重臣であった。その出自は清和源氏に遡るとされ、至徳元年(1384年)、蘆名氏第7代当主・直盛が京から会津へ下向した際に随行した平田大隅守光範が、会津平田氏の祖と伝えられている 5 。この事実は、彼らが蘆名氏による会津統治の最初期から、その体制の中核を担ってきたことを示している。

戦国期に至り、平田氏は松本氏、佐瀬氏、富田氏と並び、蘆名家の「四天の宿老」と称される最高位の家格を誇った 6 。これは単なる軍事的な支柱に留まらず、蘆名家の政治運営そのものに深く関与する重職であったことを意味する。時には四天の宿老の筆頭格とさえ見なされており、その影響力の大きさが窺える 5 。後年、上杉家の米沢藩士として存続した平田氏の記録である『米府鹿子』には、一族の家紋として「丸の内に三つ矢筈」が描かれており、武門としての誇りを後世に伝えている 5

拠点と勢力基盤 ― 「慶徳」の名の由来

平田一族の勢力基盤は、現在の福島県喜多方市慶徳町一帯に築かれた慶徳城であった 7 。江戸時代に編纂された会津藩の公式地誌『新編会津風土記』には、この城が蘆名氏の重臣・慶徳善五郎の居城であったと記されている 4

ここで注目すべきは、「慶徳」という名字である。これは、本報告書の中心的な謎である「平田範重」と「慶徳範重」の関係を解き明かす鍵となる。戦国時代の武士社会では、本姓(氏)とは別に、所領の地名を名字として名乗ることが一般的であった。平田一族のうち、慶徳の地を領した者が「慶徳殿」と呼ばれ、それがやがて公的な呼称として定着したと考えるのが自然である。事実、『新編会津風土記』は、慶徳城主・慶徳善五郎を「平田是亦斎(舜範)の子」と明記しており、平田一族が慶徳の地を領し、「慶徳」を名乗っていたことを裏付けている 4 。つまり、範重は平田本家から分家、あるいは慶徳の地を継承し、一つの家を立てるほどの有力な武将であったことが示唆される。

第二章:父・平田舜範(是亦斎)の時代 ― 全盛期を支えた宿老

平田範重の人物像を理解するためには、まず彼の父であり、蘆名家中興の祖と謳われる第16代当主・蘆名盛氏の治世を支えた重臣、平田舜範(ひらた きよのり)の時代を概観する必要がある。舜範の生涯は、蘆名家の栄光の時代を象徴するものであった。

平田輔範の子として生まれた舜範は、左京亮や周防守といった官途名を名乗り、また是亦斎(ぜえきさい)と号した文化人としての一面も持っていた 9 。彼の名は、蘆名家の重要な歴史的局面に度々登場する。天文9年(1540年)2月、黒川城下で焼失した諏訪神社の再建落成に際しては、他の重臣たちと共に連署奉加帳に名を連ねており、家中の中心人物であったことがわかる 10

彼の武将としての器量が示されたのが、天正6年(1578年)の事件である。この年、越後の上杉謙信が急死すると、その混乱に乗じて蘆名領内の大槻城主・大槻政通や山ノ内重勝らが反旗を翻した。舜範は主君の命を受けて直ちに出陣し、この反乱を見事に鎮圧することに成功している 9

舜範が活躍した時代は、主君・盛氏の卓越した政治手腕により、蘆名氏が伊達氏と並び立つ南奥州の覇者として君臨した最盛期と重なる。舜範の役割は、この安定した統治体制を内部から支え、盤石なものにすることであった。彼はまさに「秩序の維持者」として、蘆名家の黄金期を築いた功臣の一人だったのである。しかし、この栄光の時代は長くは続かなかった。彼の息子である範重が家督を継ぐ頃には、蘆名家は深刻な内憂外患に直面し、範重は父とは全く異なる「崩壊の管理者」としての過酷な役割を運命づけられることになる。

第三章:「平田範重」か「慶徳範重」か ― 人物同定の核心

史料上に散見される「平田範重」と「慶徳範重」。両者の関係を明らかにすることは、この武将の実像に迫る上で不可欠である。結論から述べれば、両者は同一人物である蓋然性が極めて高い。その論拠は、両者の記録された功績と血縁関係が完全に一致する点にある。

まず、両者の功績を比較してみよう。利用者様がご存知の通り、「平田範重」は松本行輔の謀叛鎮定と対伊達防衛戦で活躍したとされる 1 。一方、「慶徳範重」もまた、ゲームのデータや各種史料において、松本行輔の謀叛鎮定 2 、そして伊達軍の侵攻に対する奮戦 3 という、全く同じ功績を残したと記録されている。

さらに決定的なのは、両者が同一の父親を持つという記録である。「慶徳範重」は平田舜範の子であるとされ 2 、また『新編会津風土記』に登場する慶徳城主「慶徳善五郎」も、平田舜範の号である「是亦斎」の子であると明記されている 4

これらの事実を総合すると、一つの明快な結論が導き出される。「平田」は彼の一族の姓(本姓)であり、「慶徳」は彼が領した土地の名から取られた名字である。そして「範重」は彼の諱(実名)であった。つまり、「平田範重」という呼称は彼の出自と実名を、「慶徳範重」という呼称は彼の所領と実名をそれぞれ示したものであり、両者は同一人物を指しているのである。

この人物同定のプロセスを明確にするため、以下に情報を整理する。

功績・情報

「平田範重」名義の記録

「慶徳範重/善五郎」名義の記録

共通の父

主要出典

松本行輔の乱の鎮圧

平田舜範

1

対伊達軍防衛戦

○ (慶徳善五郎として)

平田是亦斎 (舜範)

1

居城

(言及なし)

慶徳城

-

4

この表が示す通り、記録された活動と血縁関係は完全に重なり合っており、両者が同一人物であることは疑いようがない。以降、本報告ではこの武将を「平田(慶徳)範重」と表記し、その生涯を追うこととする。

第四章:揺らぐ蘆名家と範重の武功

父・舜範が支えた蘆名家の安定は、当主・盛氏の死(天正8年/1580年)と共に終わりを告げた。跡を継いだ蘆名盛隆の時代、家中の亀裂は深まり、隣国・伊達政宗の野心が会津に迫る。この動乱期において、平田(慶徳)範重は武将としてその真価を発揮し、二つの重要な戦いで主家の危機を救うことになる。

黒川城の動乱 ― 松本行輔の乱(天正12年/1584年)

天正12年(1584年)10月、蘆名家は未曾有の危機に瀕した。第18代当主・蘆名盛隆が、寵愛していた小姓・大庭三左衛門によって居城である黒川城内で暗殺されるという衝撃的な事件が起きたのである 13 。盛隆はもともと二階堂氏からの養子であり、彼が実家を優遇する政策をとったことが、一部の譜代家臣の間に根強い不満を生んでいた 14 。この事件は、そうした家中の軋轢が爆発した結果とも考えられる。

当主を失い、指導者不在となった黒川城の混乱に乗じ、四天宿老の一角である松本行輔が、森代の地頭であった栗村下総守と結託して謀叛を起こした 6 。彼らは黒川城を占拠し、会津の支配権を掌握しようと試みたのである。松本一族は、過去にも度々蘆名家に反旗を翻してきた歴史があり、この叛乱は一族の積年の不満が噴出したものだった 18

この主家存亡の危機に際し、鎮圧の勅命を受けたのが平田(慶徳)範重と、同じく宿老の佐瀬河内守であった。彼らは直ちに兵を率いて黒川城を攻撃し、謀叛の首魁である松本行輔と栗村下総を討ち取ることに成功、見事に城を奪還した 6 。この功績により、範重は当主暗殺後の混乱を収拾し、蘆名家の秩序を回復させた中心人物として、その名を高めたのである。

北方戦線 ― 関柴・檜原合戦(天正13年/1585年)

黒川城の動乱は鎮圧されたものの、蘆名家の内紛は、隣国で急速に勢力を拡大していた伊達政宗に絶好の機会を与えた。天正13年(1585年)、政宗は蘆名領の北方、関柴・檜原方面への侵攻を開始する。世に言う「関柴合戦」である 19 。この侵攻の直接的な引き金となったのは、関柴館主・松本輔弘の伊達への内応であった。宿老・松本一族の離反は、蘆名家臣団の結束がもはや崩壊しつつあったことを示している。

伊達軍の侵攻に対し、平田(慶徳)範重は同僚の中目盛光(中目式部大輔)らと共に迎撃の任に当たった 3 。『新編会津風土記』によれば、この戦いで範重(慶徳善五郎として記録)は奮戦し、伊達軍の第一陣を打ち破るという目覚ましい戦果を挙げている 4 。さらに、伊達に内応した松本輔弘を討ち取り、侵攻の勢いを挫くことに成功した 8

この二つの戦いにおける範重の活躍は、彼が単なる名家の当主ではなく、実戦経験豊富な有能な武将であったことを証明している。彼は、内部からの謀叛と外部からの侵略という二重の危機から、身を挺して主家を守り抜いたのである。しかし、彼の奮闘も虚しく、蘆名家は滅亡への坂道を転がり落ちていくことになる。

第五章:滅亡への道程 ― 蘆名家臣団の分裂と平田氏の選択

平田(慶徳)範重の武功によって一時的に保たれた蘆名家の安寧は、長くは続かなかった。天正14年(1586年)、盛隆の遺児で幼き当主であった亀王丸がわずか3歳で夭逝すると、蘆名家は再び後継者不在という致命的な危機に陥る 14 。この後継者問題を巡る深刻な内紛こそが、名門蘆名家を滅亡へと導き、そして範重自身の運命をも大きく変える転換点となった。

後継者問題と派閥対立

亀王丸の死後、家臣団は二つの派閥に分裂して激しく対立した。一つは、隣接する最大勢力である伊達政宗の弟・小次郎(竺丸)を養子に迎え、伊達氏との連携によって家の安泰を図ろうとする「伊達派」。もう一つは、南関東の雄・佐竹義重の子である義広を当主に迎え、反伊達連合を形成して政宗の膨張に対抗しようとする「佐竹派」である 21 。これは単なる家督争いではなく、蘆名家が今後、北の伊達と南の佐竹、どちらを枢軸として生き残るかという、国家の将来を左右する外交・安全保障路線の選択を巡る深刻な対立であった。

伊達派としての平田氏と政治的敗北

この権力闘争において、平田氏はどのような立場を取ったのか。史料は、彼らが明確に「伊達派」であったことを示している。蘆名家の執権とも称された重臣・金上盛備が、佐竹派の領袖として「小次郎を迎えようとする平田・富田らを抑えて」佐竹義広の入嗣を強行した、という記録がその動かぬ証拠である 22 。譜代の宿老である平田氏と富田氏は、伊達氏との協調路線こそが蘆名家の活路であると判断していたのである。

しかし、この政治闘争は佐竹派の勝利に終わった。結果として、平田氏ら伊達派は家中の主導権を失い、新当主・義広と共に会津入りした佐竹家臣団が実権を握る中で、次第に疎外されていった 14 。この政治的敗北が、彼らの忠誠心の対象を「佐竹派が牛耳る蘆名家」から「平田一族そのものの存続」へとシフトさせる決定的な要因となった。もはやこの体制に未来はないと判断した彼らは、生き残りをかけて、かつての敵であった伊達政宗と水面下で接触を開始する。

摺上原の戦いと伊達への帰順

天正17年(1589年)6月、伊達政宗は満を持して会津侵攻を開始した。蘆名家中の分裂を巧みに利用し、一門衆である猪苗代盛国を寝返らせることに成功する 21 。そして、磐梯山麓の摺上原で、奥州の覇権をかけた決戦の火蓋が切られた。

この決戦において、平田氏の動向は彼らの立場を明確に物語っている。伊達成実が記したとされる『政宗記』によれば、平田氏(平田氏範、周防守舜範として言及)は富田氏実らと共に、政宗の黒川城攻撃に呼応して城中から「火の手を上て」内応することを事前に申し出ていた 25 。もはや彼らは蘆名家の家臣としてではなく、伊達方の協力者として行動していたのである。

摺上原で蘆名軍が壊滅的な敗北を喫した後、政宗が黒川城へ無血入城を果たすと、「会津の平田氏をはじめとする侍衆」がすぐさま政宗のもとへ挨拶に訪れたという 26 。彼らは最後まで戦うことなく、新たな支配者を迎え入れた。これは、裏切りというよりも、権力闘争に敗れた者が一族の存続をかけて下した、冷徹な政治的決断の帰結であった。

第六章:主家滅亡後の一族の行方

摺上原の戦いによって戦国大名としての蘆名氏は滅亡し、会津の地は伊達政宗の支配下に入った。しかし、その支配も長くは続かず、翌天正18年(1590年)、天下人となった豊臣秀吉による奥州仕置によって会津は没収され、蒲生氏郷に与えられる。その後、蒲生氏の転封を経て、慶長3年(1598年)には越後の上杉景勝が120万石で会津に入封した。平田一族は、この目まぐるしい権力者の交代という激動の時代を、いかにして乗り越えたのであろうか。

帰農か仕官か ― 減封に伴う決断

蘆名旧臣の多くは、新たな領主となった上杉景勝に仕えた。平田一族もその例に漏れず、上杉家臣として武士の身分を維持した。しかし、彼らにとって最大の試練は、関ヶ原の戦いの後に訪れる。西軍に与した上杉景勝は、慶長6年(1601年)、徳川家康によって会津120万石から米沢30万石へと大減封されてしまう。

この大幅な所領削減は、上杉家臣団に過酷な選択を強いた。多くの家臣が禄を失い、浪人となるか、武士を捨てて帰農するかの決断を迫られたのである。この危機に際し、平田一族が取った選択は、彼らのしたたかな生存戦略を象徴している。当時の一族の当主であった「鮮範」(せんぱん)は、二人の息子の進路を分けた。長男の内匠は武士の身分を捨てて会津の地に残り、農民として生きる道を選んだ 5 。一方で、次男の平田範吉(のりよし)は、減封された上杉景勝に従い、新たな本拠地である米沢へと移り住み、武士としての道を歩み続けたのである 5

これは、一族の血脈を絶やさぬためのリスク分散であった。万が一、米沢藩士としての上杉家が将来的に断絶するようなことがあっても、帰農した家系が血を繋ぐことができる。逆に、武士としての家系が続けば、一族の名誉は保たれる。どちらの道が絶えても、もう一方で一族が存続することを願った、究極の保険戦略であったと言えよう。

米沢藩士・平田氏

米沢へ移った平田範吉の系統は、その後も米沢藩士として存続した。江戸時代に編纂された米沢藩の公式な分限帳(家臣の名簿)である『米府鹿子』には、平田氏の名と、蘆名時代から続く家紋「丸の内に三つ矢筈」が明確に記されている 5 。これにより、範吉の子孫が江戸時代を通じて上杉家に仕え、武士としての家名を保ち続けたことが確認できる。蘆名家滅亡という激動を乗り越え、平田一族は新たな主君のもとで、新たな時代を生き抜いたのである。

終章:結論 ― 平田範重とその一族が残した歴史的足跡

本報告書は、戦国武将「平田範重」という一人の人物をめぐる謎から始まった。調査の結果、彼の正体は、蘆名家の宿老・平田舜範の子であり、自らの所領の名を冠して「慶徳範重」とも呼ばれた、平田一族の有力な武将であったことが明らかになった。

彼の生涯は、二つの異なる側面から評価されなければならない。第一に、彼は蘆名家が内憂外患に揺れる動乱期において、武将として卓越した能力を発揮した忠臣であった。当主暗殺後の謀叛を鎮定し、強大化する伊達政宗の侵攻を一時的に食い止めた彼の武功は、疑いようのない事実である。

しかし、彼の真の歴史的重要性は、第二の側面、すなわち主家の存亡をかけた政治的選択と、その後の巧みなサバイバル戦略にある。蘆名家中の後継者争いにおいて伊達派として政治的に敗北した彼は、佐竹派が主導する主家に見切りをつけ、一族の存続を最優先する道を選んだ。その帰結が、摺上原の戦いにおける伊達政宗への内通であった。この行動は、単なる「裏切り」という言葉で断罪できるほど単純なものではない。それは、滅びゆく主家と自らの一族の未来を天秤にかけ、非情な現実の中で最善の道を選ぼうとした、戦国末期の有力家臣の苦悩と冷徹な決断の物語なのである。

さらに、主家滅亡後、上杉家の減封という更なる危機に際して、一族を「仕官」と「帰農」に分けた選択は、戦国武士のしたたかな生命力を象徴している。平田範重という武将個人の探究から始まった本報告は、結果として、蘆名家の滅亡という大きな歴史の転換点において、地方の有力武家がいかにして時代の荒波を乗り越えようとしたかという、より普遍的なテーマを浮き彫りにした。彼ら平田一族が歴史に残した足跡は、戦国という時代の厳しさ、そしてそこに生きた人々の複雑で人間的な実像を、我々に力強く伝えている。

引用文献

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