最終更新日 2025-07-01

徳川頼宣

紀州藩祖 徳川頼宣 ― 泰平の世に生きた戦国武将の実像

はじめに

徳川頼宣(とくがわ よりのぶ)。徳川家康の十男にして、徳川御三家の一角、紀州徳川家の藩祖。彼の名は、しばしば「血気盛ん」「勇猛」といった、戦国武将を彷彿とさせる言葉と共に語られます。しかし、その人物像は、単純な武辺者という枠には到底収まりきりません。

本報告書は、徳川頼宣という人物を、単なる家康の子としてではなく、戦国時代の武断主義が終焉を迎え、江戸幕府による文治主義の泰平の世が確立されていく、まさにその過渡期において、自己の存在意義を模索し続けた類稀なる大名として捉え直すことを目的とします。彼の生涯は、偉大なる父・家康から受け継いだ戦国の気風と、新たな時代が求める統治者としての理性の間で揺れ動きながらも、見事に紀州55万5千石の礎を築き上げた軌跡そのものでした。

その治世は、巧みな領国経営、先見性に富んだ殖産興業、そして民を慈しむ仁政に彩られています。一方で、その強大な影響力と豪胆な気性は、時に幕府中枢から警戒され、謀反の嫌疑をかけられるほどの緊張関係を生み出しました。本報告書では、彼の「血気盛ん」というイメージの裏に隠された、卓越した統治能力、深い教養、そして複雑な政治的立場を、現存する資料に基づき多角的に解き明かしていきます。

そして何よりも、彼の最大の遺産は、孫にあたる八代将軍・徳川吉宗に与えた計り知れない影響にあります。頼宣が築いた紀州藩の気風と統治の哲学は、吉宗による享保の改革の源流となりました。徳川頼宣の実像に迫ることは、紀州藩の歴史のみならず、江戸幕府の安定と発展を理解する上で不可欠な鍵となるのです。


参考資料:徳川頼宣 公 年表

年代(西暦)

元号

出来事

典拠

1602年

慶長7年

3月7日、徳川家康の十男として伏見城にて誕生。幼名は長福丸。

1

1603年

慶長8年

11月7日、2歳で異母兄・武田信吉の遺領、常陸国水戸20万石を継承。

1

1606年

慶長11年

8月11日、元服し「頼将(よりまさ)」と名乗る。従四位下・常陸介に叙任。

1

1609年

慶長14年

12月、駿河国・遠江国・東三河からなる駿府50万石に転封。

1

1611年

慶長16年

3月、従三位・参議・左近衛権中将に昇叙転任。

1

1614年

慶長19年

大坂冬の陣に初陣。天王寺付近に布陣。

1

1615年

元和元年

大坂夏の陣に参陣。後詰として活躍。

1

1617年

元和3年

1月、加藤清正の娘・八十姫(瑤林院)を正室に迎える。

1

1619年

元和5年

7月19日、紀伊国・伊勢国にまたがる55万5千石に転封。紀州徳川家が創設される。

1

1621年

元和7年

父・家康を祀るため、和歌浦に紀州東照宮を創建。

9

1626年

寛永3年

8月19日、従二位・権大納言に昇叙転任。

1

1641年

寛永18年

藩士の服務規律を定めた「御家御条目」を発布。

5

1651年

慶安4年

7月、由比正雪の乱(慶安の変)で謀反の嫌疑をかけられ、江戸に留め置かれる。

2

1659年

万治2年

11月、約8年ぶりに紀州への帰国を許される。

2

1660年

万治3年

儒学者・李梅渓に命じ、領民教化のための「父母状」を作成・頒布。

2

1667年

寛文7年

5月、66歳で隠居。家督を長男・光貞に譲る。

2

1671年

寛文11年

1月10日、和歌山城にて薨去。享年70。法号は南龍院。

2

1915年

大正4年

11月10日、贈正二位を追贈される。

2


第一章:生涯の黎明期 ― 偉大なる父・家康の薫陶

1.1 誕生と血筋

徳川頼宣は、天下統一を成し遂げた徳川家康が61歳という晩年に授かった子として、慶長7年(1602年)3月7日、伏見城で生を受けました 1 。母は家康の側室、お万の方(蔭山殿)、後の養珠院です 3

この母・養珠院の出自は、房総の有力な土豪であった勝浦城主・正木頼忠の娘とする説が有力ですが 15 、母の再婚に伴い伊豆の蔭山氏広の養女となった経緯も伝えられています 16 。この血筋は、徳川家が関東、そして東海地方へと支配を拡大していく過程で、在地勢力といかにして関係を構築していったかを示す一端とも言えるでしょう。

頼宣には、同じくお万の方を母とする1歳年下の弟、徳川頼房がいました。この兄弟が、後に徳川御三家のうち、紀州家と水戸家の藩祖となることは、家康の天下泰平に向けた深遠な構想の一環であったと考えられます 1

1.2 家康の寵愛と戦略的教育

家康は、尾張家の祖・義直、そして頼宣、水戸家の祖・頼房という晩年に得た三人の息子たちを、自身の隠居城である駿府城に置き、手元で自ら養育しました 5 。中でも頼宣への寵愛は深かったと伝えられています。

その教育方法は、単なる甘やかしとは一線を画す、極めて戦略的なものでした。幼い頼宣を馬に乗せ、小川を飛び越えさせた際、落水してもあえて助けず、自力で這い上がるよう厳しく見守ったという逸話が残っています 2 。また、わずか8歳にして、駿府城内で諸大名を前に自ら能楽を演じさせたとも言われます 2

これらの薫陶は、単なるスパルタ教育や芸事の奨励ではありませんでした。それは、戦国の世を生き抜いた家康が、これから始まる泰平の世を治める大藩の主にふさわしい胆力と、人々を惹きつける威厳、そして文武両道の素養を、身をもって継承させようとする意図的な教育プログラムだったのです。頼宣の生涯を貫く武断的な気質と、時に見せる文化的な教養の深さは、この家康による原体験に深く根差していると言えるでしょう。

1.3 幼き藩主 ― 水戸から駿府へ

頼宣は、その生涯の始まりから、徳川家の天下における重要人物として位置づけられていました。慶長8年(1603年)、異母兄である武田信吉の死去に伴い、わずか2歳にしてその遺領である常陸水戸20万石の城主となります 1 。水戸は江戸の北方を固める戦略的要衝であり、そこに信頼する我が子を配することは、家康の明確な政治的意志の表れでした。

しかし、頼宣は水戸には入らず、引き続き父のいる伏見城や江戸城、駿府城で育てられました 1 。そして慶長14年(1609年)、8歳の時には、家康の隠居地そのものである駿河・遠江などからなる50万石へと転封されます 1 。これは、家康が頼宣を常に自身の庇護下に置き、後継者教育を施すと同時に、徳川政権の心臓部である東海道を掌握させるという、絶大な信頼と期待の証左に他なりません。

この時期、彼の傅役(教育係)として、三浦為春、水野重仲、そして後の紀州藩付家老となる安藤直次といった、徳川譜代の重臣たちが付けられました 1 。彼らは頼宣の家臣団の中核を形成し、後の紀州藩政の安定に繋がる極めて重要な布石となったのです。

このように、幼少期から巨大な領地と高い地位を与えられた経験は、頼宣の中に「自らは徳川体制の重要な支柱である」という強烈な自負心を育みました。この自負心こそが、彼の生涯を支える力の源泉となった一方で、兄・秀忠や甥・家光が率いる幕府中枢との間に、後に複雑な緊張関係を生む遠因ともなっていくのです。家康の「寵愛」は、頼宣にとって最大の資産であると同時に、彼の政治的生涯を規定する「宿命」でもありました。

第二章:武人としての覚醒 ― 大坂の陣と若き日の気概

2.1 初陣と後詰の屈辱

慶長19年(1614年)、豊臣家との最後の決戦である大坂の陣が勃発すると、13歳の徳川頼宣は初陣を飾ります。この時、父である大御所・家康が自ら頼宣の鎧初め(初めて鎧を着用する儀式)を執り行うという、破格の待遇を受けました 2 。これは、彼が次代を担う徳川家の重要な一員であることを、満天下に示すための壮大な演出でした。

冬の陣では天王寺付近に、翌年の夏の陣では天王寺・岡山の戦いで、兄・義直と共に後詰(後方支援部隊)として布陣しました 1 。しかし、徳川方の大軍の前に、豊臣方は為す術もなく、頼宣が最前線で武功を挙げる機会は訪れませんでした。

大坂城が落城し、戦国の世が名実ともに終わりを告げた後、頼宣は家康の本陣に駆けつけます。そして、先陣を許されず、武人としての誉れである手柄を立てられなかったことを、涙を流して心から悔しがったと伝えられています 2

2.2 「14歳は再びあるのか」

その場に居合わせた家康の側近・松平正綱が「まだお若くいらっしゃいますから、このような機会はこれからいくらでもありましょう」と慰めたところ、頼宣は激昂し、こう言い放ちました。

「14歳が再びあるのか」 2

この有名な逸話は、単なる若さゆえの血気や功名心の発露として片付けることはできません。これは、戦国時代最後の、そして最大の合戦という、武人として名誉を立てる二度とない機会を逸したことへの、痛切な叫びでした。武功こそが武士の存在価値であるという、家康から叩き込まれた旧時代の価値観が凝縮された言葉だったのです。この報告を聞いた家康は、頼宣のその気概を「今の一言が槍働き(手柄)である」と高く賞賛したと言います 2 。家康自身が、息子の内に燃える戦国武将としての魂を肯定し、頼もしく感じた瞬間でした。

2.3 紀州への転封 ― 新時代の幕開け

家康の死から3年後の元和5年(1619年)、頼宣は大きな転機を迎えます。徳川家にとって所縁の地である駿府50万石から、紀伊和歌山55万5千石へと転封を命じられたのです 1

この国替えには、二代将軍・秀忠の高度な政治的計算がありました。父・家康の威光が色濃く残る駿府から、家康が最も寵愛した頼宣をあえて移すことで、自らの権威が父をも上回ることを天下に示す狙いがあったと考えられています 2 。家康が直々に配した頼宣ですら意のままに動かせることを諸大名に見せつけ、将軍を中心とする新たな支配体制を盤石にするための、象徴的な人事でした。

この時、頼宣自身は、西国支配の拠点として再建された大坂城への入城を希望したとされますが、それは叶いませんでした 2 。彼の西国統治への強い意欲と、幕府中枢の思惑との間に、この時点で既に微妙な齟齬が生じていたことがうかがえます。

大坂の陣での経験と、それに続く紀州への転封は、頼宣にとって、武人としての時代の終わりと、新たな時代の統治者としての始まりを告げる出来事でした。それはまた、徳川幕府の支配体制が「家康個人のカリスマ」から「将軍を頂点とする官僚機構」へと移行する、歴史の大きな転換点を象徴する事件でもあったのです。頼宣は、この体制転換の渦中で、自らの役割を再定義せざるを得なくなりました。

第三章:紀州藩の創設と藩政の確立 ― 名君「南龍公」の治世

元和5年(1619年)、18歳で紀州に入部した徳川頼宣は、以後、寛文7年(1667年)に隠居するまでの約48年間にわたり、初代藩主として精力的に領国経営に取り組みました。彼の治世は、武断的なイメージとは裏腹に、極めて合理的かつ多角的な視点に貫かれており、紀州藩240年の繁栄の礎を築いた「名君」としての側面を色濃く示しています。

3.1 西国の要、紀州への入部

頼宣が配された紀州は、単なる一大名の領地ではありませんでした。その地は、西国の外様大名を監視し、経済の中心地である大坂城を守護する、幕府にとって地政学的に極めて重要な拠点でした 1 。さらに、江戸と大坂を結ぶ海上交通路を確保する上でも、紀伊半島は要の位置を占めていました。

頼宣はこの重責を深く自覚していました。入国に先立ち、家臣の戸田隆重を派遣して、前領主であった浅野氏の統治方法や在地勢力の動向を詳細に調査させるなど 1 、周到な準備を行っています。このことからも、彼が単なる武辺者ではなく、優れた統治者としての資質を若くして備えていたことがわかります。

3.2 インフラ整備 ― 城郭と城下町のグランドデザイン

紀州に入った頼宣がまず着手したのが、藩の威容と権威の象徴である和歌山城の大規模な増改築でした。元和7年(1621年)、兄である将軍・秀忠から下賜された銀2000貫を元手に、城郭を拡張し、西国支配の拠点にふさわしい堅固な城へと変貌させたのです 2

この時の遺構として、国の重要文化財に指定されている岡口門 23 や、国の名勝として知られる西之丸庭園(紅葉渓庭園) 23 が現存しており、頼宣の築城思想や美意識を今に伝えています。

一方で、この大規模な城普請は、幕府の警戒を招く一因ともなりました。城下南部の外堀拡張工事が、幕府からの命令で中止させられたという逸話は、その象徴です。この工事が中止された場所が、現在の和歌山市に残る「掘留(ほりどめ)」という地名の由来になったとされています 2 。この出来事は、御三家という高い格式を持つ頼宣でさえ、幕府の厳格な統制下にあったことを如実に物語っています。

3.3 藩体制の基盤構築

頼宣の藩政の巧みさは、ハード面の整備だけでなく、ソフト面、すなわち統治システムの構築においてより顕著に現れます。

地士制度の創設

紀伊国には、古くから独立性の高い土豪や地侍が各地に根を張っていました。頼宣は、彼らを力で抑えつけるのではなく、「地士(じし)」という新たな身分を与えて藩の体制下に組み込むという、巧みな政策を打ち出しました 1 。地士には名字帯刀や藩主への謁見が許され、有事の際には藩の軍事力として動員される一方、平時には地域の安定を担う存在となりました 27 。これは、在地勢力を懐柔して領内を安定させると同時に、その武力を藩の戦力として活用するという、一石二鳥の優れた制度設計でした。

浪人対策

関ヶ原の戦い以降、改易された大名家などに仕えていた多くの武士が浪人となり、社会不安の一因となっていました。頼宣は、こうした浪人たちを全国から積極的に召し抱え、家臣団を増強しました 1 。これにより、藩の軍事力を強化すると同時に、社会の不安定要因を解消しようとしたのです。しかし、この政策は「頼宣は天下の浪人を集めて謀反を企んでいる」という噂を呼び、幕府の警戒心を煽る結果にも繋がりました 14

3.4 殖産興業による富国策

頼宣は、軍事や統治だけでなく、藩の経済基盤を豊かにすることにも並々ならぬ情熱を注ぎました。

紀州みかんの奨励

彼は領内を巡察し、平野が少なく傾斜地の多い紀州有田地方の地理的特性が、みかんの栽培に最適であることを見抜きました 28 。そして、みかん栽培を大規模に奨励し、税を免除するなどの手厚い保護政策を実施したのです 29 。彼の慧眼により、紀州みかん(有田みかん)は一大ブランドへと成長し、江戸で高値で取引される藩の重要な財源となりました 7 。今日の和歌山県が日本一のみかん生産地である礎は、まさに頼宣によって築かれたのです 29

諸産業の育成

みかんだけでなく、漆器である黒江塗の生産も奨励し、藩の特産品として育成しました 7 。その他、熊野の豊富な森林資源を活用した材木業や、塩田開発 35 にも力を入れるなど、多角的な産業振興策によって、紀州藩の経済は飛躍的に発展しました。

3.5 法令と教学による領民統治

頼宣は、武力や経済力だけでなく、法と教育による秩序の確立こそが、長期的な安定に不可欠であると考えていました。

寛永18年(1641年)には、藩士の心得や倹約、徒党の禁止など、日常生活に至るまでを厳しく律した「御家御条目」を発布し、家臣団の統制を徹底しました 5

さらに、万治3年(1660年)には、藩の儒学者・李梅渓(りばいけい)に命じて「父母状(ふぼじょう)」を作成させ、領内に広く頒布しました 2 。これは、親孝行や遵法精神といった儒教的な徳目を、平易な言葉で領民に説くための道徳教科書でした。この「父母状」は、藩祖・頼宣の教えとして幕末まで紀州藩の教育理念の根幹をなし、領民の精神的支柱となったのです 5

このように、頼宣の藩政は、インフラ整備、人材登用、産業振興、法整備、民衆教化という、近代的国家運営にも通じる包括的なアプローチによって、紀州藩を盤石なものとしました。彼の政策には、常に有事を想定する戦国武将としてのリアリズムと、泰平の世を治める為政者としての先見性が同居していたのです。

第四章:幕府との緊張関係 ― 野心と忠誠の狭間で

紀州藩主として卓越した手腕を発揮し、領国を磐石なものとした徳川頼宣。しかし、その強大な存在感と、戦国の気風を色濃く残す豪胆な性格は、中央集権化を進める江戸幕府との間に、生涯にわたる複雑な緊張関係を生み出しました。彼は自らを「徳川の天下の忠実な守護者」と自負していましたが、その自負のあり方が、幕府中枢の目には「分を越えた野心」と映ることも少なくありませんでした。

4.1 慶安の変と由比正雪

頼宣の政治生命における最大の危機は、慶安4年(1651年)に訪れます。軍学者・由比正雪が幕府転覆を企てたクーデター未遂事件、いわゆる「慶安の変」です。この事件で、自決した正雪の遺品の中から、頼宣の署名がある書状(偽書とされます)が発見され、彼は謀反の首謀者として重大な嫌疑をかけられることになりました 2

当時の将軍・家綱はまだ11歳の少年であり、頼宣は尾張藩主・義直の死後、徳川一門の最長老として絶大な影響力を持っていました 2 。文治政治を推進する幕閣にとって、頼宣は潜在的な脅威であり、この事件を機にその力を削ごうという政治的意図が働いた可能性は否定できません。

幕閣による江戸城での厳しい詰問に対し、頼宣は動じることなく、こう切り返したと伝えられています。

「外様大名の加勢を頼む偽書であるならば天下は危ういが、この頼宣の偽書を使うようならば、天下は安泰である」 2

これは、自らの潔白を主張すると同時に、「徳川の天下はもはや盤石であり、謀反の神輿として担がれるのが、外様大名ではなく将軍家の身内である自分ならば、それはむしろ体制の安定の証左に他ならない」という、相手の意表を突く高度な政治的レトリックでした。この一言で、彼は嫌疑を晴らしたとされます。

しかし、この事件の代償は大きなものでした。頼宣は、万治2年(1659年)までの約8年間、江戸に留め置かれ、国元である紀州への帰国を許されませんでした 2 。これは事実上の軟禁状態であり、彼の政治的影響力を削ぐための、幕府による明確な措置だったのです。

4.2 鄭成功からの援軍要請

慶安の変とほぼ同時期、もう一つの逸話が頼宣の武断的な気質を物語っています。当時、明の再興を目指して清と戦っていた遺臣・鄭成功(国姓爺)から、日本に対して援軍の要請がありました 2

これに対し頼宣は、海外への出兵に極めて積極的な姿勢を見せ、「西国に将軍家の身内は自分一人である。西国諸大名の全指揮権を名代として自分に与えてくれるならば、日本の面子を十分に立てて参ろう」と豪語したと伝えられています 2

この言動は、大坂の陣で満たされなかった武功への渇望と、国際情勢に対する並々ならぬ関心の高さを示すものです。しかし、鎖国体制を国是としていた幕府にとって、このような自主的な軍事行動は、国家の秩序を乱しかねない極めて危険な発想と映ったことでしょう。

4.3 幕閣との相克

頼宣が持つ、父・家康から受け継いだ戦国武将的な気質、家康直系であるという威光、そして西国における強大な地盤。これらすべてが、保科正之らを中心とする文治政治を推進する幕閣にとっては、統制の及ばぬ「煙たい存在」でした 2 。彼の行動や言動は、本人の意図とは別に、しばしば「野心」や「山っ気」の表れと解釈され、幕府との間に絶え間ない緊張感を生み出す要因となったのです。

慶安の変は、頼宣の政治的キャリアにおける大きな転機となりました。彼の巧みな対応は、彼が単なる武辺者ではなく、高度な知略と政治感覚を併せ持つ人物であったことを証明しましたが、同時に幕府権力の絶対性と、自らの立場の危うさを痛感させる出来事でもありました。この事件以降、彼の言動からはかつてのような豪胆さが影を潜め、より内省的で円熟した統治者へと変貌していくことになります 6 。それは、一人の武将の気風が、江戸幕府という巨大な統治システムの中に、完全に組み込まれていく過程を象徴する出来事でもあったのです。

第五章:人物像の多面性 ― 豪胆さと理性の共存

徳川頼宣の人物像は、「血気盛ん」という一言で語り尽くせるものではありません。彼の生涯を彩る数々の逸話は、戦国武将の荒々しさと、近世大名としての深い理性、そして豊かな人間性が同居する、極めて多面的な人格を浮かび上がらせます。

5.1 粗暴さと度量

若い頃の頼宣は、試し斬りを好んだと伝えられています。ある時、自ら囚人を斬った後、その名刀の切れ味を家臣一同に自慢しました。その際、儒学者の那波活所が進み出て、「名刀ならば古代中国に優れた剣があり、人を殺すことを楽しんだ王ならば殷の紂王のような悪王がおります。そもそも殺生を面白がるのは人の道に外れた行いです」と、主君を恐れず諫言しました。頼宣はこれを聞き、即座に試し斬りをやめたといいます 1 。この逸話は、彼の内に秘めた荒々しい一面と、道理をわきまえた人物からの諫言を素直に受け入れる、理知的な側面が共存していたことを示しています。

また、もう一つの有名な逸話として、付家老・安藤直次との関係が挙げられます。若い頼宣が粗暴な振る舞いに及んだ際、直次は力ずくで主君を押さえつけ、諫めました。この時に頼宣の股には傷跡が残りましたが、後年、医師がこれを治そうとすると、頼宣はそれを断り、「今の自分があるのは、あの時、直次が命懸けで諫めてくれたおかげである。この傷跡はそのことを思い出させてくれる大切なものだ」と語ったとされます 1 。主君としての器の大きさと、忠臣への深い感謝の念を示す、感動的な逸話です。

5.2 晩年の姿

慶安の変を経て江戸から帰国した晩年の頼宣は、かつての鋭い豪胆さが和らぎ、円熟した為政者としての顔を見せるようになります。領内を頻繁に見て回り、民の暮らしを直接その目で確かめました 6

寛文5年(1665年)、64歳の時には和歌山沖の鯨漁に自ら参加し、銛を突いて鯨を仕留めると、その肉を城下の領民に惜しみなく振る舞ったという、豪放な逸話も残っています 6

その翌年の寛文6年(1666年)には、領内の牢獄から罪人が一人もいなくなるという、善政の証ともいえる出来事が起こります。頼宣はこれを大いに喜び、担当の奉行や代官を招いて祝宴を催し、その労をねぎらいました 6 。この姿からは、自らの治世が領内に平和と安定をもたらしたことへの、為政者としての深い満足感がうかがえます。

5.3 文化的素養と自然観

頼宣は武辺一辺倒の人物ではありませんでした。紀州藩のお抱え絵師として狩野派を登用し、江戸から狩野興甫を招いて紀伊狩野派の礎を築くなど、文化振興にも力を注いでいます 39

また、彼の高い見識を示す逸話として、和歌の浦の景観保護の話があります。家臣が、古来より風光明媚なことで知られる和歌の浦を埋め立て、新田開発を進言した際、頼宣はこれをきっぱりと退けました。「歌に詠まれた名所旧跡には決して手を触れてはならない。将来、頼宣は利欲のために美しい自然を壊したと後世から謗られてはならない」と述べたとされます 41 。経済合理性だけでなく、文化的な遺産や景観の価値、そして後世からの評価をも重んじる、長期的で高い視野を持っていたことがわかる逸話です。

これらの逸話が示すように、頼宣は戦国武将の気骨と近世大名の統治能力、そして儒教的教養に裏打ちされた理性を併せ持つ、稀有な人物でした 42 。彼の生涯は、荒々しい若年期、藩政に心血を注ぐ壮年期、そして円熟した晩年期という、一人の人間の確かな成長の軌跡を描いています。その多面性こそが、彼を単なる「危険な野心家」ではなく、後世に「名君・南龍公」として敬愛される所以なのです 13


参考資料:徳川頼宣 公 系譜

関係

院号・氏名

生没年

続柄・備考

典拠

徳川家康

1543-1616

江戸幕府初代将軍

8

養珠院(お万の方)

1577/1580-1653

側室。正木頼忠の娘。蔭山殿。

14

同母弟

徳川頼房

1603-1661

水戸徳川家藩祖

1

正室

瑤林院(八十姫)

1601-1666

加藤清正の次女。

2

側室

理真院(中川氏)

?-1658

2

長男

徳川光貞

1627-1705

母は理真院。紀州藩2代藩主。

2

長女

因幡姫(茶々姫)

1631-1709

母は理真院。鳥取藩主・池田光仲の正室。

2

側室

山田氏(円住院)

?-1688

2

次女

松姫

1631-1678

母は山田氏。旗本・松平信平の正室。

2

側室

越智氏

不詳

2

三男

松平頼純

1641-1711

母は越智氏。伊予西条藩の藩祖。

2


第六章:家族と血脈

徳川頼宣の公的な生涯を理解する上で、彼の私的な側面、すなわち家族との関係や、彼が遺した血脈の重要性を見過ごすことはできません。政略結婚が常であった時代において、彼の家庭は、幕府との緊張関係に常に晒されていた彼にとって、精神的な安寧の場であったと考えられます。

6.1 正室・八十姫との関係

元和3年(1617年)、頼宣は肥後熊本藩主・加藤清正の次女である八十姫(やそひめ、後の瑤林院)を正室に迎えました 1 。この婚姻は、生前の家康と清正が交わした約束に基づくものであり、旧豊臣系の大物大名であった加藤家との結びつきを強めるという、高度な政治的意味合いを持っていました 2

二人の間に実子はいませんでしたが、その夫婦仲は50年近くにわたり、極めて円満であったと伝えられています 45 。豪放磊落な性格の頼宣にとって、名将・清正の娘である八十姫の存在は、公私にわたる大きな支えとなっていたことでしょう。

6.2 後継者・光貞

頼宣の跡を継いだのは、側室・中川氏との間に生まれた長男・光貞でした 2 。頼宣は、自らが築き上げた紀州藩を継承するこの嫡男の育成にも心を配っていたことがうかがえます。創作物の中ではありますが、光貞の病を心から心配する頼宣の姿が描かれることもあり 37 、彼の父親としての一面を垣間見ることができます。光貞もまた父の遺志を継ぎ、安定した藩政を行いました。

6.3 祖父としての頼宣 ― 将軍・吉宗への影響

徳川頼宣が歴史に残した最大の功績は、単に紀州藩の礎を築いたことだけではないかもしれません。それは、彼の血脈と精神が、孫である八代将軍・徳川吉宗へと受け継がれ、江戸幕府そのものの中興に繋がった点にあります 2

吉宗は、祖父である頼宣を深く尊敬し、為政者としての理想像として憧れていたとされています 9 。吉宗が断行した「享保の改革」に見られる質実剛健の気風、武芸の奨励、民情への細やかな配慮、そして先見性のある経済政策には、頼宣が紀州藩で実践した藩政(「御家御条目」による綱紀粛正や「父母状」による民衆教化、みかん栽培の奨励など)からの影響が色濃く見て取れます。

この事実を鑑みる時、頼宣の治績は紀州一藩に留まるものではなかったことがわかります。彼が築いた安定した紀州藩の基盤と、彼が遺した「名君」としての藩祖像が、吉宗という稀代の為政者を生み出す土壌となったのです。頼宣が紀州で実践した藩政改革の精神は、孫の吉宗によって、幕政改革という形で全国規模へと展開されることになりました。徳川頼宣の存在なくして、徳川吉宗の登場も、ひいては江戸幕府の再興も語ることはできないのです。

結び:遺産と後世への影響

徳川頼宣の70年の生涯は、まさに「戦国の気風を泰平の世に持ち込んだ最後の武将」であり、同時に「近世的な統治体制を築き上げた最初の名君」という、二つの顔を持つ類稀なものでした。彼の人物像は、武断と文治、豪放と理性、そして野心と忠誠といった、一見矛盾する要素が複雑に絡み合い、類い稀な魅力を放っています。

彼の功績は、和歌山の地に深く刻まれています。藩祖「南龍公」として神格化され、自らが創建した紀州東照宮に、父・家康(東照大権現)と共に「南龍大神」として祀られていること 7 は、彼が領民からいかに敬愛され、その治績が後世まで記憶されているかの何よりの証左です。また、和歌山県海南市の長保寺に、壮麗な墓所が現存すること 48 も、紀州徳川家における彼の絶対的な地位を物語っています。

最終的に、徳川頼宣は、単なる将軍の弟や血気盛んな武将という評価に留まる人物ではありません。彼は、日本の歴史が大きな転換点を迎える中で、旧時代の価値観と新時代の要請との間で葛藤しながらも、見事に自らの役割を果たし、次代への確かな礎を築いた、日本史上極めて重要な大名であったと結論付けられます。

彼が紀州の地に根付かせた殖産興業の精神、民を思う為政者の心、そして文武両道を重んじる気風は、時代を超えて受け継がれました。そしてその遺産は、孫である徳川吉宗という形で結実し、徳川幕府の歴史に再び大きな輝きをもたらしたのです。徳川頼宣の生涯を深く理解することは、泰平の世がいかにして築かれ、維持されていったのかを知るための、不可欠な旅路と言えるでしょう。

引用文献

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