徳川頼房という人物を語る際、しばしば引用されるのは、彼が徳川家康の十一男にして徳川御三家の一角、水戸藩の藩祖であり、幼少よりその才気煥発ぶりから父・家康の寵愛を受けたという評価です。特に、家康から望みを問われ、臆することなく「天下」と答えたという逸話は、彼の人物像を象徴するものとして広く知られています 1 。
この逸話は、頼房の非凡な器量と大胆な気質を端的に示していますが、彼の生涯をこの一つの物語のみで理解することは、その本質を見誤る危険性をはらみます。本報告書は、こうした広く流布する人物像を出発点としながらも、その枠組みを超え、徳川頼房という一人の人間を、より立体的かつ多角的に解明することを目的とします。
具体的には、彼を単なる「家康の末子」や、後に名君と称される「徳川光圀の父」として捉えるのではなく、徳川幕府の基盤が確立されていく江戸時代初期という過渡期において、いかにして特異な政治的地位を築き上げ、水戸藩の百年にわたる性格を決定づけたのか、その創業者としての「政治家・徳川頼房」の実像に迫ります。彼の生涯を丹念に追うことで、語られる逸話の背後にある歴史的文脈を読み解き、その行動原理、藩主としての実績、そして後世に遺した影響の大きさを明らかにしていきます。
徳川頼房は、慶長8年(1603年)8月10日、山城国伏見城において誕生しました 2 。この年は、父・徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開いた年であり、まさに徳川による泰平の世が幕を開けた象徴的な年でした。家康が61歳という、当時としては極めて晩年に授かった子であったという事実は、頼房の生涯を理解する上で重要な意味を持ちます 2 。
父は言うまでもなく天下人・徳川家康です。母は側室の蔭山殿(かげやまどの)、通称お万の方とされ、これは紀州徳川家の祖となる徳川頼宣の同母兄でもあります 2 。この血縁関係は、後に御三家として将軍家を支える尾張・紀州・水戸の関係性を考える上で、一つの基盤となります。
さらに、頼房の養育において特筆すべきは、准母(じゅんぼ、養母に準ずる立場)として家康の側室・お梶の方(英勝院)が深く関わったことです 2 。お梶の方は、家康から「一番おいしいものは何か」と問われ「塩です。塩がなければどんな料理も味付けできません」と答え、続けて「一番まずいものは何か」との問いにも「それも塩です。入れすぎれば食べられません」と答えて家康を感心させたという逸話が残るほどの才女でした 7 。頼房の実母である蔭山殿が早くに亡くなった後、家康はお梶の方に頼房の養育を託したとされています 7 。
頼房の出自は、単なる血縁以上の意味合いを帯びています。家康の晩年の子であることは、二代将軍・徳川秀忠(1579年生)とは24歳もの年齢差がある一方で、三代将軍となる甥の徳川家光(1604年生)とはわずか1歳差であったことを意味します 8 。この年齢的な近さが、後に二人が築く特別な信頼関係の揺るぎない土台となりました。
また、家康が聡明さで知られるお梶の方に養育を委ねたことは、単なる偶然とは考えにくい側面があります。これは、家康が頼房の内に秘められた才能を早くから見抜き、その資質を最大限に伸ばすための最適な教育環境を与えようとした、という意図の表れと解釈することができます。頼房が後年発揮する「才」は、天賦の資質のみならず、こうした計算された養育環境によって磨かれたものと考えるのが妥当でしょう。彼の誕生と幼少期の環境そのものが、後の政治的地位と個人の能力を形成する上で、決定的な要因となっていたのです。
幼名を鶴千代と名付けられた頼房は、父である大御所家康が隠居生活を送っていた駿府城において、同母兄の頼宣と共に育てられました 6 。これは、家康が自らの手元で、徳川の天下を盤石にするための次代の担い手たちを直接薫陶しようとしたことの証左です。数多いる息子たちの中で、晩年に生まれた義直、頼宣、頼房の三人は特に家康の寵愛を受け、将来の将軍家を支える藩屏としての役割を期待されていました 9 。
頼房の人格を物語る最も有名な逸話が、この駿府時代に生まれています。ある時、家康が義直、頼宣、そして頼房を連れて駿府城の天守閣に登り、戯れに「ここから飛び降りた者には、好きなものを何でも与えよう」と言いました。兄たちが躊躇する中、幼い頼房は即座に「私が飛び降りまする」と進み出ました。驚いた家康が「何が望みじゃ」と問うと、頼房は間髪入れずに「天下が欲しいにございます」と答えたと伝えられています。家康が「天下を取っても、死んでしまっては意味がなかろう」と諭すと、頼房は「一瞬でも天下人となれれば、我が名は歴史に末永く残りまする」と返し、家康を大いに感心させたとされています 1 。
この逸話の史実性を厳密に考証すること以上に、なぜこの物語が水戸徳川家において重視され、語り継がれてきたのかを分析することが重要です。
第一に、この逸話は頼房個人の、物怖じしない剛毅な性格と、内に秘めた野心的な気質を鮮やかに描き出しています。彼の生涯を通じて見られる行動力や、高い自負心の原点がここにあると見ることができます。
第二に、そしてより重要なのは、この逸話が水戸徳川家の「家格」を象徴する物語として機能した点です。徳川御三家は、将軍家に後嗣がない場合に将軍を出す役割を担う、幕府の中でも別格の存在でした。しかしその内実を見ると、尾張家(61万石)、紀州家(55万5千石)に対し、水戸家は当初25万石(後に28万石、実高35万石)と、石高において大きく劣っていました 10 。
この物理的な格差を埋めるために、水戸家には精神的な権威が必要でした。藩祖・頼房が幼少期に「天下」を口にするほどの器量の持ち主であったという物語は、水戸家が単なる一大名ではなく、将軍家を補佐し、時には天下国家を論じる資格を持つ特別な存在であるというアイデンティティを、幕府内外に示すための強力な「創生神話」としての役割を担ったのです。後に「副将軍」と称される水戸家の政治的地位は、こうした物語によっても補強されていきました。この逸話は、頼房の生涯を通じて一貫して見られる「格式」や「権威」に対する強い自負心の源流であり、水戸徳川家の精神的支柱を形成する重要な要素となったのです。
頼房は、慶長11年(1606年)、わずか3歳で常陸国下妻に10万石を与えられました 2 。そして慶長14年(1609年)、同母兄である頼宣が駿府へ転封となったことに伴い、その後を受けて常陸国水戸25万石の領主となります 2 。これが徳川御三家の一つ、水戸徳川家の始まりです。しかし、頼房は当時まだ6歳と幼少であったため、すぐには領地である水戸へは入らず、引き続き父・家康のいる駿府、家康の死後は江戸の藩邸で過ごすことになりました 6 。彼が初めて水戸の土を踏むのは、元和5年(1619年)、17歳の時でした 6 。
頼房の生涯、そして水戸藩の性格を決定づけたのは、甥にあたる三代将軍・徳川家光との極めて親密な関係でした。前述の通り、頼房と家光は1歳違いという同世代であり、頼房は家光の学友として共に育ちました 10 。この幼少期からの深い交流を通じて、家光は叔父である頼房に絶大な信頼を寄せるようになります。
一方で家光は、同じく叔父である尾張藩主・徳川義直や紀州藩主・徳川頼宣に対しては、時に警戒心を抱いていたとされます 2 。義直や頼宣は、家康から直接薫陶を受けた戦国時代の気風を残す大身であり、その存在感が時に将軍の権威を脅かしかねない側面を持っていました。事実、彼らには謀反の疑いがかけられたこともあったと伝えられています 2 。これに対し、家光は幼い頃から心を開いてきた頼房を、利害を超えた真に頼れる身内と見なしていました。家光が頼房に宛てたとされる「そなたのことはわけても心安く思い、何事も相談したいと思っている。兄弟はいても役に立たないので、そなたのことを兄弟同様に思っている。そなたもそう心得て欲しい」という趣旨の書状の存在は、二人の関係の特異性を雄弁に物語っています 1 。
この将軍からの特別な信頼に基づき、頼房には異例の措置が取られます。それは、諸大名に課せられた参勤交代の義務を免除され、江戸の小石川藩邸に常に居住する「定府(じょうふ)」を命じられたことです 6 。これは、家光が頼房を常に自らの側に置き、幕政の最高顧問としてその助言を求めたかったからに他なりません。
この「江戸定府」という特殊な立場こそが、水戸藩主が「天下の副将軍」と俗称されるようになった直接的な由来です 2 。もちろん、「副将軍」は幕府の正式な役職ではありません。しかし、将軍の最も信頼する相談役として幕政の中枢に深く関与するというその政治的実態を、これほど的確に表す言葉はありませんでした。この慣例は頼房一代に留まらず、その後の水戸藩主にも受け継がれ、水戸徳川家の大きな特徴となりました。
水戸藩は、御三家の中で最も石高が低く、また江戸から近距離に位置するという地理的特性を持っていました。通常、これは軍事的・経済的な潜在的弱点と見なされがちです。しかし、頼房と家光は、この「弱点」を巧みに逆手に取りました。
「江戸定府」という制度は、水戸藩が地方における物理的な拠点としての役割をある程度手放す代わりに、幕政の中枢における「情報」と「影響力」という、石高では測れない無形の政治資本を獲得するための極めて高度な戦略でした。頼房は江戸にいることで、幕府の政策決定の過程に直接関与し、諸大名の動向や天下の情勢を誰よりも早く、そして正確に把握することができました。これにより、水戸藩は他の大大名とは全く異なる次元でその存在価値を確立し、幕藩体制の中で独自の権威を築き上げることに成功したのです。
この一連の流れ、すなわち、(1)家光との個人的な信頼関係が、(2)「江戸定府」という特例措置を生み、それが(3)「副将軍」という政治的権威の源泉となり、(4)石高の低さを補って余りある独自の藩格を形成した、という因果の連鎖こそが、水戸藩の特異性を解き明かす鍵となります。
頼房は生涯の大半を江戸で過ごし、水戸に滞在した回数は、藩主となってから亡くなるまでの約42年間でわずか11回に過ぎませんでした 2 。しかし、彼は江戸からの遠隔統治という困難な状況にありながら、初代藩主として水戸藩の統治基盤の確立に多大な功績を残しました 6 。
藩政の根幹をなす事業として、頼房は寛永18年(1641年)に領内総検地を断行しました 6 。これは、佐竹氏時代からの複雑な土地所有関係を整理し、藩の石高を正確に把握することで、年貢徴収の公平化と財政基盤の安定化を図るためのものでした。この検地により、藩の公式な石高は28万石となり(元和8年(1622年)の3万石加増後)、実質的な石高は36万石余りに達したとされています 11 。この正確な測量と石高の確定が、その後の安定した藩経営の礎となりました。
頼房は、佐竹氏の居城であった水戸城の改修と、城下町の拡張整備にも着手しました 17 。特に、低湿地であった千波湖の東側を埋め立てて新たな町人地(下町)を造成し、商工業の中心地として発展させたことは、水戸の都市構造の基礎を築いた事業として評価されています 18 。一方で、水戸城の改築にあたっては、幕府への配慮から天守閣をあえて建造せず、代わりに三階建ての櫓を御三階櫓として天守の代用としました 6 。これは、将軍家への恭順の意を示すと同時に、華美を避けて実利を重んじる頼房の姿勢の表れでもありました。
領民の生活と農業生産の安定のため、頼房は水利事業にも力を注ぎました。水戸藩の領地は那珂川や久慈川といった大河川を有していましたが、その水利用は必ずしも十分ではありませんでした。頼房は、奉行の望月五郎左衛門に灌漑用水対策を命じ、永田茂衛門・勘衛門といった技術者を登用して、領内の水利開発を推進しました 19 。彼らの手によって、小場江用水路などの灌漑施設が整備され、多くの新田が開かれました 20 。また、城下町の水不足を解消するために計画された笠原水道も、その基礎はこの時代に遡ります 22 。これらの事業は、藩の農業生産力を飛躍的に向上させ、民生の安定に大きく貢献しました。
頼房は、佐竹氏旧臣や徳川家譜代の家臣を組み合わせて新たな家臣団を編成し 17 、家老、奉行、番頭といった役職を定めるなど、藩の職制を確立しました 16 。また、藩の基本的な法令を整備し 10 、近世大名家としての統治機構を着実に整えていきました。
頼房の藩政における一連の治績を俯瞰すると、そこには二つの明確な原則が浮かび上がります。一つは、検地や水利事業に象徴される、藩の財政基盤を強化し、民生の安定を図るという徹底した「実利主義」です。もう一つは、水戸城の普請に見られるような、将軍家に対する「配慮」と恭順の姿勢です。
彼は、江戸にあって幕政の中枢に関わる自らの特異な立場を深く理解し、藩政のあらゆる局面において幕府の意向を常に意識していました。藩の力を誇示するような行動は慎みつつ、藩の実力を着実に高めていく。この絶妙なバランス感覚こそが、彼が有能な政治家であったことの証左です。彼が江戸からの遠隔統治という難しい課題を成功させることができたのは、この明確な統治哲学と、それを実行に移す政治的手腕があったからに他なりません。
徳川頼房は、単なる政治家、統治者という一面だけでは語れない、非常に多面的な魅力を持つ人物でした。
頼房は、父・家康に似て、鷹狩りをこよなく愛しました。元和5年(1619年)に初めて水戸へ入国した際も、城に到着するや否や、旅の疲れも見せず鷹狩りに出かけたと伝えられています 6 。また、将軍家光に随行して行った鷹狩りでは、見事に二頭の猪を射止めて献上したという逸話も残っています 6 。寛永12年(1635年)には、領内で500頭もの猪を仕留めるという、極めて大規模な狩りを実施しており 6 、その武勇を好み、活動的で豪快な気性が見て取れます。武芸全般に秀で、特に短弓の名手としても知られていました 6 。
その血気盛んな気性は、若い頃には「かぶき者」としての側面となって現れました。派手で奇抜な服装や刀を好み、自由奔放に振る舞う頼房の姿に、付家老の中山信吉が自らの死を賭して諫言したという逸話が残されています 1 。これは、彼の内に秘めた型破りなエネルギーを示すと同時に、主君の過ちを命がけで正そうとする家臣との間に、真摯な主従関係が築かれていたことをも物語っています。
頼房は、武辺一辺倒の人物ではありませんでした。香道に深く通じ、自ら香に関する著書を記したとも言われています(残念ながら現存していません) 2 。さらに、学問、特に儒学に強い関心を示し、京都から人見林塘(ひとみりんとう)といった高名な儒学者を侍講(じこう、学問の師)として招聘しました 6 。この学問を尊ぶ姿勢が、後の水戸学が花開くための重要な知的土壌を育むことになります。
彼の人間性を伝える逸話として、献上品の鮭を運んでいた水戸藩の中間(ちゅうげん)・茂兵衛の話があります。茂兵衛は京へ向かう道中、岡部宿で十数人の旗本に道を塞がれ、公用であることを伝えても通そうとしないため、乱闘となりました。脇差しか持たない身でありながら、茂兵衛は数人を斬り伏せる奮闘を見せましたが、多勢に無勢、ついに槍で刺されてしまいます。彼は息絶える間際に「馬にある荷物は水戸様より朝廷へのご献上品である。このことは必ず伝えおくように」と言い残しました。この報告を受けた頼房は、茂兵衛の忠勇を深く讃え、その遺体を手厚く葬ると共に記念碑を建て、以後、水戸藩の中間は公用に限り太刀を帯びることを許可したとされています 2 。この逸話は、頼房が家臣の忠義に厚く報いる、情の深い君主であったことを示しています。
頼房の人物像を構成するこれらの多様な要素は、彼が生きた時代そのものを映し出しています。鷹狩りを好み、時に「かぶき者」として振る舞う姿は、実力と気概が重視された戦国時代の武将の気風を色濃く残しています。一方で、儒学者を招聘して学問を奨励し、家臣の忠義に情をもって応える姿は、徳治を理想とする泰平の世の君主が目指すべき姿です。
頼房の中には、旧時代の価値観と新時代の価値観が、矛盾することなく共存していました。彼は、時代の大きな転換点を敏感に感じ取り、自らの役割を柔軟に適応させていった人物であったと言えます。その多面性、そして剛と柔を兼ね備えた器の大きさこそが、江戸初期の複雑な政治状況を乗り切り、水戸藩という新たな組織を創り上げることを可能にした最大の要因であったと考えられます。
徳川頼房の家庭生活における最大の特徴は、生涯にわたって正室(御簾中)を迎えなかったことです 2 。これは、将軍家や他の御三家との間に複雑な姻戚関係を生じさせないための政治的な配慮であった可能性も指摘されています。その一方で、高瀬局(久昌院)や円理院をはじめとする多くの側室との間に、男子15人、女子13人、計28人(うち2名は夭折、資料により人数に差異あり)もの子女を儲けました 6 。この多産であった事実が、後の水戸徳川家の血脈の広がりと、他家への養子輩出による影響力の拡大に繋がっていきます。
表1:徳川頼房 家系図(要約版)
続柄 |
氏名(院号など) |
生没年 |
備考 |
典拠 |
父 |
徳川家康 |
1543-1616 |
江戸幕府初代将軍 |
2 |
母 |
蔭山殿(お万の方) |
不詳 |
紀州藩祖・頼宣の母でもある |
2 |
准母 |
お梶の方(英勝院) |
1578-1642 |
家康側室。頼房の養育を担う |
2 |
本人 |
徳川頼房(威公) |
1603-1661 |
水戸藩初代藩主 |
2 |
側室 |
高瀬局(久昌院) |
1604-1662 |
長男・頼重、三男・光圀の母 |
28 |
長男 |
松平頼重 |
1622-1695 |
讃岐高松藩初代藩主。高松松平家の祖 |
28 |
三男 |
徳川光圀(義公) |
1628-1701 |
水戸藩二代藩主。「水戸黄門」として知られる |
10 |
側室 |
円理院(お勝の方) |
不詳 |
四男・頼元、七男・頼雄の母 |
28 |
四男 |
松平頼元 |
1629-1693 |
常陸額田藩(後の陸奥守山藩)初代藩主。守山松平家の祖 |
28 |
七男 |
松平頼雄 |
1630-1697 |
常陸宍戸藩初代藩主。宍戸松平家の祖 |
28 |
側室 |
玉宝院(喜佐の方) |
不詳 |
長女・大姫の母 |
28 |
長女 |
大姫(亀姫) |
1627-1656 |
加賀藩主・前田光高に嫁ぐ |
28 |
注:上記は主要な人物を抜粋したものであり、全ての子女を網羅したものではありません。
江戸時代の武家社会において、家督相続は「長子相続」が絶対的な原則でした。しかし、水戸家ではこの原則が覆されます。頼房は、長男である松平頼重ではなく、三男の光圀を水戸藩の世子(跡継ぎ)と定めたのです 31 。これは極めて異例の決定であり、その背景には複雑な事情がありました。
そもそも光圀は、頼房が側室に子を儲けることを良しとしなかった時期に生まれたため、当初は堕胎を命じられていたという経緯があります 33 。家臣の三木之次がこれを不憫に思い、密かに匿って育てた後、数年経ってからようやく頼房の子として認められました。このような出生の経緯を持つ三男が、健康で器量にも恵まれた長男を差し置いて跡継ぎに選ばれたのです。
なぜ、頼房は長子相続の原則を破ってまで光圀を世子としたのでしょうか。長男・頼重が疱瘡を患ったため病弱であると見なされた、という説も存在しますが、彼が後に高松藩主として95歳まで長寿を保ったことを考えると、決定的な理由とは言えません 28 。
この異例の決定の背後には、将軍・徳川家光の強い意向があったと考えるのが最も合理的です。光圀という名は、家光の諱(いみな)である「家光」から「光」の一字を賜ったものであり、これは将軍からの特別な期待と寵愛の証でした 32 。また、頼房の養母であり、大奥で隠然たる力を持っていた英勝院も、光圀を強く推したとされています 35 。
つまり、この世子決定は、水戸家という一家の内部問題に留まるものではなかったのです。将軍家を藩屏として支えるという御三家の役割、とりわけ江戸に常住し将軍の最高顧問を務めるという水戸家の特殊な使命を考えた時、誰をその後継者とするかは幕政全体に関わる重要事でした。頼房は、そして彼に絶対の信頼を置く家光は、その非凡な才能の片鱗を見せていた光圀こそが、水戸家の未来、ひいては将軍家を支える役割を担うに最もふさわしいと判断したのでしょう。これは、水戸徳川家の将来を見据えた、極めて戦略的な後継者指名であったと言えます。
頼房は、50年以上にわたり水戸藩主の座にあり、二代将軍・秀忠、三代・家光、四代・家綱と、三代の将軍に仕えました 36 。寛文元年(1661年)2月、水戸へ就藩していた頼房は病に倒れ、同年7月29日、水戸城内においてその波乱に満ちた生涯を閉じました。享年59(満57歳)でした 2 。
死に臨んで、頼房は「我が身に万一のことがあっても、家臣は決して殉死してはならない」という遺言を残しました 6 。戦国時代の気風がまだ色濃く残る当時、主君の死に際して忠臣が後を追って自刃する「殉死」は、一種の美徳と見なされる風潮がありました。しかし頼房は、有能な人材を失うことは藩にとって大きな損失であると考え、これを固く禁じたのです。
この遺言は、武士の忠誠のあり方が、主君個人への私的な奉仕から、藩という公的な組織への永続的な奉仕へと転換すべきであるという、時代の変化を鋭く捉えた先進的な思想の表れです。幕府が公式に殉死禁止令を発布するのは、この2年後の寛文3年(1663年)のことです 37 。頼房のこの遺言は、それに先んじるものであり、彼の為政者としての先見性を示す重要な証左と言えます。
水戸藩といえば、幕末の尊王攘夷運動の思想的支柱となった「水戸学」で知られています。その基礎を築いたのは、二代藩主・光圀が編纂を開始した『大日本史』です 10 。頼房自身がこの修史事業に直接関与したわけではありません。しかし、彼が藩主として儒学を奨励し、人見林塘のような優れた学者を京都から招聘したこと 6 が、水戸藩に学問を尊ぶ気風、すなわち後の水戸学が生まれるための豊かな知的土壌を育んだことは疑いようのない事実です。頼房による種蒔きなくして、光圀による学問の藩としての開花はあり得ませんでした。
徳川頼房の52年間にわたる治世 16 を通観するとき、彼の歴史的役割は単なる一藩の統治に留まらないことがわかります。彼は、創業者として、水戸徳川家という巨大な組織のグランドデザインを描き、その礎を完璧に築き上げました。
検地や水利事業によって藩の財政・経済基盤という「ハードウェア」を整備し、同時に、江戸定府という特殊な政治的地位を確立し、学問を奨励することで、後に「水戸っぽ」と呼ばれる気風や「水戸学」として結実する藩の独自の価値観、すなわち「ソフトウェア」を設計しました。そして、この有形無形の遺産を継承し、さらに発展させるに最もふさわしい後継者として、自らの政治的判断で光圀を選び抜きました。彼の生涯は、水戸徳川家という一大プロジェクトの壮大な設計図を描き、その揺るぎない基礎を築き上げる過程そのものであったと言えるでしょう。
本報告書における分析を通じて、徳川頼房の歴史的評価は、新たな光を当てることで再定義されるべきであることが明らかになりました。彼は、単に徳川家康の息子であるという高貴な血統によってその地位を得たのではなく、自らの卓越した政治的手腕と、時代を読む鋭い先見性によって、徳川幕府の安定期における水戸藩の独自の地位と役割を創造した人物です。
「天下」を望んだと伝えられる若き日の野心は、長じては将軍家への絶対的な忠誠と、幕政全体への貢献という、より成熟した形へと昇華されました。「副将軍」という俗称は、公式な役職ではないにせよ、彼のその特異な生涯と、幕政の中枢で果たした比類なき政治的役割を的確に捉えたものと言えます。
頼房が築いた藩政の強固な礎と、彼が育んだ学問を尊ぶ気風は、名君・徳川光圀に引き継がれて花開き、さらには幕末の徳川斉昭へと受け継がれて、水戸藩の、ひいては日本の歴史に測り知れないほど大きな影響を与え続けました。徳川頼房は、逸話の中の才人という一面に留まらず、水戸徳川家260年の歴史を方向づけた、真に「偉大なる創業者」として、再評価されるべき人物です。
西暦(和暦) |
年齢 |
出来事 |
典拠 |
1603年(慶長8年) |
1歳 |
8月10日、伏見城にて誕生。幼名は鶴千代。 |
2 |
1606年(慶長11年) |
4歳 |
9月23日、常陸国下妻10万石を与えられる。 |
2 |
1609年(慶長14年) |
7歳 |
12月22日、兄・頼宣の転封に伴い、常陸国水戸25万石に転封。 |
2 |
1611年(慶長16年) |
9歳 |
元服し、頼房と名乗る。 |
2 |
1619年(元和5年) |
17歳 |
10月、初めて水戸へ就藩する。 |
2 |
1622年(元和8年) |
20歳 |
10月、3万石を加増され、28万石となる。 |
2 |
1625年(寛永2年) |
23歳 |
この年から寛永7年まで、毎年水戸へ就藩する。 |
2 |
1641年(寛永18年) |
39歳 |
領内総検地を実施する。 |
6 |
1642年(寛永19年) |
40歳 |
11月、8回目の就藩。 |
2 |
1661年(寛文元年) |
59歳 |
2月、最後の水戸就藩。7月29日、水戸城にて死去。 |
2 |
西暦(和暦) |
年齢 |
官位 |
典拠 |
1609年(慶長14年) |
7歳 |
従四位下・左衛門督に叙任。 |
2 |
1611年(慶長16年) |
9歳 |
正四位下・左近衛権少将に昇叙。 |
2 |
1617年(元和3年) |
15歳 |
左近衛権中将に転任。 |
2 |
1620年(元和6年) |
18歳 |
参議に補任。左近衛権中将は元の如し。 |
2 |
1626年(寛永3年) |
24歳 |
従三位・権中納言に昇叙。 |
2 |
1627年(寛永4年) |
25歳 |
正三位に昇叙。 |
2 |
注:権中納言昇叙の際、外様大名である前田利常らと同日であったことに不満を示し、翌年早々に異例の速さで正三位に昇叙されたという逸話が残る 1 。これは彼の格式を重んじる気質を示すものである。
人物名 |
頼房との関係 |
関係性の要点 |
典拠 |
徳川家康 |
父 |
晩年の子として寵愛。頼房の才能を見抜き、特別な教育環境を与えた。 |
7 |
徳川家光 |
甥 |
1歳違いの叔父と甥。学友として育ち、将軍と藩主として絶対的な信頼関係を築く。頼房の「江戸定府」はこの関係の賜物。 |
1 |
徳川義直 |
異母兄(尾張家祖) |
頼房より3歳年長。家光からは頼房ほどには信頼されず、時に警戒の対象と見なされた。学問を好む点は共通するが、より慎重な性格。 |
2 |
徳川頼宣 |
同母兄(紀州家祖) |
頼房より1歳年長。戦国武将の気風を色濃く残し、勇猛果敢な性格。家光からは義直同様、警戒されることもあった。 |
2 |
徳川光圀 |
三男(水戸家二代) |
頼房の跡を継ぎ、名君と称される。長男を越えて世子となった背景には、頼房と家光の政治的判断があった。 |
10 |
松平頼重 |
長男(高松松平家祖) |
本来の相続者であったが、弟・光圀に家督を譲る。これにより水戸家と高松松平家は特別な関係で結ばれた。 |
28 |