徳永昌重(とくなが まさしげ、1580-1642)の生涯は、豊臣政権から徳川幕藩体制へと移行する、日本の歴史上最も激動した時代における外様大名の運命を象徴している。彼の人生は、父が築いた戦功を背景とした立身、二代目藩主としての輝かしい武功、そして徳川幕府による中央集権体制が確立される過程で生じた突然の転落という、栄光と悲劇の物語を凝縮している 1 。
昌重の物語は、大坂の陣で武功を挙げ、家名を高めるという成功譚として始まった 2 。しかし、その結末は寛永5年(1628年)、幕府の厳格な統制下における「改易」という、武士にとって最も過酷な処分であった 1 。この栄光から挫折への軌跡は、単に一個人の資質や失態に起因するものではない。それは、父・徳永寿昌が豊臣恩顧の将でありながら、巧みに徳川方に転じて大名の地位を勝ち取ったという経緯に深く根差している。この「外様」という出自こそが、三代将軍・徳川家光の下で幕府の権威が絶対化されていく時代において、常に潜在的なリスクを抱える要因となり、後の悲劇的な結末への伏線となった。本報告書は、徳永昌重の生涯を詳細に追跡し、その運命を時代の大きな政治的潮流の中に位置づけることで、徳川幕藩体制確立期における外様大名の存在様態とその実像を解明することを目的とする。
徳永家の出自は近江国徳永村とされ、藤原氏の庶流を称している 5 。その名を歴史の表舞台に登場させたのは、昌重の父である徳永寿昌(ながまさ、1549-1612)であった。寿昌は当初、織田信長の重臣・柴田勝家の養子である柴田勝豊に仕官していた 5 。
彼のキャリアにおける最初の転機は、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いである。この戦いで主君・勝豊が戦わずして羽柴秀吉に降伏したため、寿昌は労せずして「勝ち組」である秀吉方に転じる機会を得た 5 。これは、彼の時勢を読む能力、あるいは強運を示す重要な出来事であった。その後、秀吉の直臣となり、秀吉の甥である豊臣秀次の附家老に抜擢されるなど、着実に出世の階段を上った。しかし、文禄4年(1595年)に秀次が謀反の疑いをかけられて切腹に追い込まれると、寿昌は連座を免れるどころか、秀次の罪状を並べ立てて自己の保身を図ったと伝えられている 5 。この冷徹ともいえる判断力と行動こそ、彼が激動の豊臣政権下で生き残るための処世術であったことを物語っている。
豊臣秀吉の死後、天下の情勢が徳川家康に傾くのを見るや、寿昌は速やかに家康への接近を図る。慶長4年(1599年)、徳川四天王の一人である井伊直政を介して家康に二心なきことを誓う誓書を提出し、その忠誠を明確にした 5 。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、寿昌の働きは際立っていた。家康から金森長近と共に先鋒部隊として西上するよう命じられるなど、外様でありながら高い信頼を得ていたのである 5 。西軍に妻子を人質に取られているにもかかわらず、次男・昌成を東軍の池田輝政に人質として差し出すことで、家康への絶対的な忠誠を示した 5 。
彼の具体的な戦功は、関ヶ原の本戦に先立つ美濃国での前哨戦に集中している。8月17日には西軍の丸毛兼利が守る福束城を攻略し、19日には高木盛兼が守る高須城を謀略を用いて陥落させた 5 。これらの功績は、東軍による美濃平定を決定づける上で極めて重要なものであった。戦後には、井伊直政や本多正信らと共に、諸大名の戦功を調査する論功行賞の役という重責も担っており、家康から軍事能力のみならず、実務能力も高く評価されていたことがうかがえる 5 。
関ヶ原での一連の戦功により、寿昌は美濃・尾張の四郡(美濃国多芸郡・不破郡・石津郡、尾張国海西郡)において合計5万600石を与えられ、自らが攻略した高須城を居城とする美濃高須藩の初代藩主となった 5 。
藩主となった寿昌は、高須城を修築し、城下町を整備するなど、藩政の基礎固めに尽力した 8 。特に、彼が整備した町割りの基礎は現在の海津市にもその名残を留めているとされ、彼が単なる武人ではなく、優れた行政家であったことを示唆している 6 。豊臣秀次配下時代にも用水路の整備を行った記録が残っており 5 、土木・内政手腕に長けていたことが一貫して見て取れる。
父・寿昌は、この「土木・内政」の才覚によって藩の礎を築き、為政者としての評価を確立した。しかし、歴史の皮肉とでも言うべきか、その息子・昌重は、同じ「土木(普請)」事業の失敗によって家を失うことになる。この鮮烈な対比は、単なる父子の能力差の問題ではない。自らの領地経営の実力が評価された戦国の世と、幕府への奉公と絶対服従が求められる江戸の世という、時代の価値観の根本的な変化を象徴しているのである。
徳永昌重は、天正8年(1580年)に越前国で生まれた 1 。父・寿昌と同様に豊臣秀吉に仕え、慶長3年(1598年)の秀吉の死に際しては、遺物として名刀「兼光」を受領している 2 。これは、徳永家が父子二代にわたって豊臣家から一定の評価と信頼を得ていたことを示す重要な事実である。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、父と共に家康の会津征伐に従軍した 2 。父・寿昌が先鋒として美濃へ西上する際には、昌重は家康のもとに留め置かれた 5 。これは実質的な人質であり、徳永家の徳川家への忠誠を担保する重要な役割であった。慶長17年(1612年)、父の死に伴い家督を相続し、33歳で美濃高須藩の二代目藩主となった 1 。
昌重の武人としてのキャリアの頂点は、豊臣家を滅亡に追い込んだ大坂の陣であった。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、松平忠明の配下に属し、大坂城南方の要衝である船場を守備した 2 。これは徳川方にとって重要な防御ラインであり、堅実な任務遂行が求められる持ち場であった。
翌年の慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、夏の陣屈指の激戦として知られる道明寺の戦いに参戦した 10 。この戦いは、後藤基次や真田信繁(幸村)ら豊臣方の精鋭部隊と徳川方の主力部隊が激突した戦場であり、昌重は水野勝成、本多忠政、伊達政宗といった錚々たる武将たちと共に徳川方の一員として名を連ねている 10 。この戦いにおいて、昌重は「首級73を得る武功を挙げた」と具体的に記録されている 2 。この数字は、彼が単に名目上の指揮官ではなく、自ら軍を率いて激しい戦闘を繰り広げ、顕著な戦果を挙げたことを証明するものである。
この武功は幕府に高く評価され、元和3年(1617年)、開墾地の石高と合わせて所領が5万3,700石へと加増された 2 。これは、昌重の忠誠と能力が徳川幕府から公に認められた証であり、彼の人生における絶頂期であった。
藩主として、昌重は家督相続以前の慶長16年(1611年)に禁裏(皇居)普請の助役を務めるなど、早くから幕府の公役に従事していた 2 。これは大名としての責務であり、後の大坂城普請へと繋がる経験でもあった。また、海津市には、慶長6年(1601年)に徳永氏の上級家臣である今堀傳四郎に宛てて発給された連署状が残されており、昌重が父の存命中から藩政の実務に深く関与していた可能性を示唆している 12 。
父が築いた藩政を安定的に継承し、大坂の陣での功績によって加増を受けるなど、改易事件に至るまでは順調な治世であったと推察される。大坂の陣での華々しい武功とそれによる加増は、昌重の人生の頂点であった。彼の武功は、かつての主家である豊臣家を滅ぼす戦いにおいて、新たな主君・徳川家のために立てたものであり、これ以上ない忠誠の証であったはずである。しかし、そのわずか10年余り後、同じ幕府によってその全てを剥奪されることになる。このあまりに皮肉な運命こそ、徳川幕藩体制確立期の非情さと、大名の立場の脆弱性を象徴している。なぜ、これほどの功臣が、たった一度の普請の遅延で改易されなければならなかったのか。その答えは、事件の裏に隠された政治的意図の中にある。
寛永5年(1628年)2月28日、徳永昌重の運命は暗転する。幕府が威信をかけて行った「大坂城二の丸」の石垣普請において助役を務めていたが、担当工事の遅延を理由にその責任を問われ、改易(領地没収・除封)という武士にとって最も重い処分を受けたのである 1 。
幕府が公式に示した理由は「監督不行届」 1 や「勤務怠慢」 4 であった。一部の記録には「酒食に耽って工事が遅滞した」という、より個人的な不行跡を強調する記述も見られる 9 。これが事実であれば、昌重自身の油断や慢心が招いた悲劇とも解釈できる。しかし、この種の理由は、幕府が不満を持つ大名を処分する際の常套句でもあり、額面通りに受け取ることはできない。大坂の陣で73もの首級を挙げた武将が、わずか10年余りでそのような怠惰な人物に変貌したとは考えにくい。事件の真相は、より複雑な政治的背景の中にあったと見るべきである。
昌重の改易は、三代将軍・徳川家光が武断政治を推し進め、幕府の絶対的権威を確立しようとしていた時期に発生した。この寛永期、幕府は「武家諸法度」を厳格に適用し、特に豊臣恩顧の外様大名に対しては、些細な過失を口実に改易・減封を断行する「見せしめ」の政策を採っていた 13 。
大坂城の改修のような大規模な天下普請は、城を修復するという物理的な目的以上に、諸大名の財力を削ぎ、幕府への服従度を試すための「忠誠度試験」という政治的な意味合いが強かった。定められた工期や品質を守ることは絶対であり、その遅延は幕府の権威に対する挑戦と見なされかねない、極めて危険な失態であった。
昌重の改易は、単独の事件としてではなく、同時期に相次いだ外様大名の改易事例と比較分析することで、その本質が明らかになる。
これらの事例から浮かび上がるのは、徳永昌重の改易が福島正則や加藤忠広のケースと軌を一にする、寛永期の外様大名統制政策の一環であったという構図である。研究者・笠谷和比古が提唱する大名改易の三類型(軍事的・族制的・法律的原因)のうち、昌重のケースは表向き「法律的原因」(勤務不良という武家諸法度違反)に該当する 13 。しかし、その法の適用自体が、幕府の政治的意図によって恣意的に行われたものであり、実質的には「政治的粛清」であったと結論付けられる。彼の「勤務怠慢」は、幕府が豊臣恩顧の大名を取り潰すための格好の口実として利用された可能性が極めて高い。昌重の悲劇は、個人の失敗というミクロな視点と、幕藩体制確立というマクロな歴史の潮流が交差した点にその本質がある。
改易処分を受けた徳永昌重は、出羽国庄内藩主・酒井忠勝に身柄を預けられた 2 。酒井家は徳川四天王・酒井忠次の系譜を引く譜代大名の筆頭格であり、改易大名の預かり先として、幕府の信頼が厚い大名が選ばれたことがわかる。その後、寛永9年(1632年)には、同じく出羽国の新庄藩主・戸沢政盛のもとに移管された 2 。
配流先での生活の詳細は史料に乏しいが、5万石余の大名としての栄華から一転、罪人としての屈辱と不自由を強いられる厳しい日々であったことは想像に難くない。寛永19年(1642年)6月19日、昌重は配流の地で、家名再興の夢を見ることなく63年の生涯を閉じた 1 。
父・昌重の改易に連座し、嫡男の徳永昌勝(まさかつ、1605-1654)は越後新発田藩主・溝口宣勝に預けられるという不遇の青年期を送った 22 。父の死後も赦免への道は閉ざされていたが、昌勝は家名再興を諦めなかった。彼の正室が預かり先である溝口宣勝の娘であったこと 23 は、赦免に向けた働きかけにおいて重要な後ろ盾となった可能性がある。
長い雌伏の時を経て、慶安3年(1650年)、昌勝はついに赦免され、幕府に召し出されて旗本として取り立てられた 22 。これは、父・昌重の改易から実に22年の歳月が流れた後のことであった。
大名への復帰こそ叶わなかったものの、「旗本」として徳川家に再び仕えることができたという事実は、極めて重要である。この出来事は、単なる一家族の幸運な物語ではない。徳川幕府の統治方針が、家光時代の武断的な強硬策から、四代将軍・家綱時代の文治政治へと移行しつつあったことを象徴している。幕府は、かつての功臣の子孫に対して一定の温情を示すことで、体制の安定と人心の掌握を図るという、より成熟した統治術へと転換し始めていた。徳永家は、江戸幕府が編纂した公式系譜集である『寛政重修諸家譜』にもその系譜がしっかりと記録され 24 、江戸時代を通じて旗本として存続した 26 。一度は完全に断絶しかけた家を再興した昌勝の執念と、それを受け入れた時代の変化が、この結末をもたらしたのである。
徳永昌重の生涯は、父が築いた遺産を継承し、自らも戦場で功を立てて家を盛り立てた有能な二代目大名として始まった。しかし、彼の運命は、徳川幕府という巨大な権力構造が確立される過程で、その礎の一つとして利用され、そして翻弄されたものであった。
彼の悲劇は、個人の能力や努力だけでは抗うことのできない、時代の大きな力学の存在を現代の我々に教えてくれる。昌重の改易は、徳川の泰平がいかに多くの大名家の犠牲と服従の上に成り立っていたかを物語る象徴的な事件であった。彼の物語は、幕府の命令一つで、大坂の陣の功臣でさえも一瞬にして全てを失うという、江戸初期の武家社会の非情な現実を浮き彫りにする。
一方で、息子・昌勝による家名再興の物語は、武士社会における「家」の存続にかける執念と、時代の変化に柔軟に対応していく強かさを示している。栄光、挫折、そして再興という徳永家のドラマは、戦国から江戸へと至る時代の転換期を生きた武家社会の光と影を鮮やかに映し出している。徳永昌重の人生は、徳川三百年の歴史を理解する上で、個人の運命と国家の形成史が交錯する、貴重な一つの視座を提供してくれるのである。
西暦(和暦) |
徳永昌重の動向 |
父・寿昌/子・昌勝の動向 |
関連する歴史的事件・幕府の政策 |
1549年(天文18年) |
|
父・徳永寿昌、誕生 7 。 |
|
1580年(天正8年) |
越前国にて誕生 1 。 |
|
|
1583年(天正11年) |
|
父・寿昌、賤ヶ岳の戦いで主君が降伏し、羽柴秀吉方となる 5 。 |
賤ヶ岳の戦い。 |
1598年(慶長3年) |
豊臣秀吉の死に際し、遺刀「兼光」を受領 2 。 |
父・寿昌、朝鮮からの撤兵交渉のため派遣される 5 。 |
豊臣秀吉、死去。 |
1600年(慶長5年) |
父と共に徳川家康の会津征伐に従軍。家康のもとに留まる 2 。 |
父・寿昌、関ヶ原前哨戦で福束城・高須城を攻略 5 。 |
関ヶ原の戦い。東軍勝利。 |
1601年(慶長6年) |
|
父・寿昌、戦功により美濃高須藩5万600石の初代藩主となる 5 。 |
|
1605年(慶長10年) |
徳川秀忠の将軍宣下の参内に供奉 2 。 |
子・徳永昌勝、誕生 22 。 |
徳川秀忠、二代将軍に就任。 |
1611年(慶長16年) |
禁裏普請の助役を務める。知行は5万700石 2 。 |
|
|
1612年(慶長17年) |
父の死により家督を相続、高須藩二代藩主となる 1 。 |
父・寿昌、死去(享年64) 5 。 |
|
1614年(慶長19年) |
大坂冬の陣に参戦。松平忠明配下で船場を守備 2 。 |
|
大坂冬の陣。 |
1615年(慶長20年) |
大坂夏の陣に参戦。道明寺の戦いで首級73を挙げる武功 2 。 |
|
大坂夏の陣。豊臣家滅亡。武家諸法度(元和令)発布 14 。 |
1617年(元和3年) |
武功により加増され、5万3,700石となる 2 。 |
|
|
1619年(元和5年) |
|
|
福島正則、改易。 |
1628年(寛永5年) |
大坂城二の丸石垣普請の遅延を理由に改易。出羽庄内藩主・酒井忠勝預かりとなる 2 。 |
子・昌勝、連座して越後新発田藩主・溝口宣勝預かりとなる 22 。 |
|
1632年(寛永9年) |
預かり先が出羽新庄藩主・戸沢政盛に変更される 2 。 |
|
加藤忠広、改易。 |
1642年(寛永19年) |
6月19日、配流先にて死去(享年63) 1 。 |
|
|
1650年(慶安3年) |
|
子・昌勝、赦免され幕府に召し出され、旗本として家名再興を果たす 6 。 |
|
1654年(承応3年) |
|
子・昌勝、死去(享年50) 23 。 |
|