志賀親守(しが ちかもり、生没年不詳)は、戦国時代に九州北部に覇を唱えた豊後国の大名、大友氏に仕えた武将である 1 。その生涯を通じて兵部少輔、民部少輔、安房守といった官位を称し、後に出家して道輝(どうき)、あるいは道珠、道魁といった法名を名乗った 1 。彼は、大友宗麟(義鎮)、そしてその子・義統という二代の当主にわたり、大友氏の最高意思決定機関である「加判衆」の一員として政権の中枢を担った、紛れもない重臣であった 1 。
しかし、その生涯を追うと、一人の人物の行動としては不可解な矛盾に満ちている。天文19年(1550年)のお家騒動「二階崩れの変」においては、若き宗麟の家督相続を支え、新政権樹立の功臣として重用された 1 。一方で、天正6年(1578年)、大友氏の命運を賭けた島津氏との決戦「耳川の戦い」では、軍監という要職にありながら消極的な行動に終始し、歴史的な大敗の一因を作ったと非難される 1 。さらに主家の存亡の危機であった天正14年(1586年)の「豊薩合戦」においては、宿敵である島津氏に内通し、大友領国を崩壊させる「裏切り者」として暗躍した記録が残る 1 。その一方で、同じ合戦において主君・宗麟と共に臼杵の丹生島城に「籠城」し、城を死守したという、正反対の記録も存在するのである 8 。
忠臣か、裏切り者か。本報告書は、これらの史料に残された矛盾した記録を丹念に比較・検証し、志賀親守という人物を単純な二元論で評価することを避ける。彼の行動原理、そしてその背景にあった大友氏の内部構造を深く掘り下げることで、一人の武将の生涯を通して戦国という時代の複雑な実像に迫ることを目的とする。
志賀親守の権威と影響力を理解するためには、まず彼が属した志賀氏そのものの家格を把握する必要がある。志賀氏は、大友氏の始祖である大友能直の八男・能郷を祖とする、大友一門の庶流であった 7 。その家格は極めて高く、同じく大友庶流の田原氏、詫摩氏と並んで「大友三家」と称される、別格の名門として重んじられていた 1 。
親守の家系は、志賀氏の中でも「北志賀家」と呼ばれ、豊後国の南部に勢力を持つ国人領主たちで構成された軍事・行政ブロックである「南郡衆」の筆頭格と位置づけられていた 1 。豊後南部は、宿敵・島津氏の領国と直接境を接する国防の最前線である。その地で筆頭の地位にあったということは、北志賀家、ひいては親守が、平時においても有事においても、大友氏の国家安全保障上、極めて重要な軍事的・政治的役割を担っていたことを示している。
親守が、単なる名門の当主から大友政権の中枢を担う実力者へと飛躍する契機となったのが、天文19年(1550年)に勃発した大友氏最大のお家騒動「二階崩れの変」である 12 。この事件は、当時の当主・大友義鑑が、嫡男であった義鎮(後の宗麟)を疎んじ、寵愛する側室の子である三男・塩市丸に家督を譲ろうと画策したことに端を発する。義鑑は義鎮派の重臣の粛清を試みるが、逆に家臣団の反発を招き、自らが襲撃され命を落とすという悲劇的な結末を迎えた。
この未曾有の混乱の中、志賀親守は父・親益と共に、一貫して正嫡である義鎮の家督相続を強く支持し、その実現のために奔走した 1 。この迅速かつ的確な政治判断と行動により、義鎮は無事に家督を継承し、大友氏第21代当主となった。若き新当主・宗麟にとって、自らの命と地位を守ってくれた親守は、命の恩人とも言うべき存在であった。この功績により、親守は宗麟から絶大な信頼を勝ち取り、新政権において揺るぎない地位を確立したのである。
宗麟の下で最盛期を迎えた大友氏は、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後、豊前の北部九州六ヶ国にまたがる広大な版図を支配した。この巨大な領国を統治するために整備されたのが、重臣による合議制「加判衆(かはんしゅう)」である 13 。加判衆は、宿老や年寄とも呼ばれ、大名が発給する公式な文書に連署(加判)することで、その命令の執行を保証する役割を担った 14 。いわば、現代の内閣に相当する最高幹部会であり、その一員であることは、大友家臣団の最高位にいることを意味した。志賀親守は、宗麟・義統の両政権下で、この加判衆の一員を務めたことが複数の史料から確認できる 1 。
さらに、加判衆はそれぞれが担当する国や郡を持つ「方分(ほうぶん)」という制度を担っていた 13 。これは単なる担当地域というだけでなく、その地域の統治責任者として、現地の国人衆の統括や軍団の指揮権をも掌握する、極めて重要な役職であった。史料によれば、志賀親守は「肥後方分」および「筑後方分」を担当していたと記録されている 15 。肥後国は大友領の南の玄関口であり、筑後国は西の龍造寺氏と対峙する最前線である。この二つの重要方面の責任者を兼任していたという事実は、親守が大友氏の軍事戦略において、南西方面の安全保障を一手に担う方面軍司令官とも言うべき、比類なき重責を担っていたことを物語っている。
大友宗麟政権後期における親守の地位を相対化するため、当時の主要な加判衆とその推定される担当方分を以下に示す。
加判衆 |
推定される主な担当方分 |
史料上の主な活動時期 |
備考 |
志賀親守(道輝) |
肥後、筑後 |
天文19年~天正14年頃 |
南郡衆筆頭。本報告書の中心人物。 |
戸次鑑連(道雪) |
筑前、筑後 |
永禄年間~天正13年 |
大友氏随一の猛将。立花山城督。 |
臼杵鑑速 |
豊後(海部郡)、日向 |
永禄年間~元亀2年 |
「豊州三老」の一人。内政・外交に長ける。 |
吉弘鑑理 |
豊後(国東郡)、筑前 |
永禄年間~元亀2年 |
「豊州三老」の一人。鑑速と共に宗麟を補佐。 |
田原親賢(紹忍) |
豊前、筑前 |
元亀年間~天正14年 |
宗麟の義兄。キリシタンに批判的。 |
佐伯惟教(宗天) |
豊後(海部郡)、日向 |
元亀年間~天正6年 |
豊後南部の重鎮。耳川の戦いで戦死。 |
志賀親度 |
(父の後継として) |
永禄年間~天正14年頃 |
親守の子。父と共に加判衆を務める。 |
この表が示すように、親守の権力基盤は、第一に大友一門という血縁的家格、第二に南郡衆筆頭という地縁的影響力、そして第三に二階崩れの変での功績による宗麟との個人的な信頼関係、という三本の強固な柱によって支えられていた。しかし、この構造は、宗麟という絶対的な庇護者が存在して初めて安定するものであった。当主が宗麟からその子・義統へと交代し、この個人的な信頼関係が揺らいだ時、彼の忠誠心もまた、その基盤から揺らぐという脆弱性を内包していたのである。彼の忠誠は「大友家」という組織に対してではなく、あくまで「大友宗麟」という個人に向けられていた可能性が、この時点から示唆される。
天正6年(1578年)、大友宗麟は、長年の宿願であった九州統一と、自身が深く帰依していたキリスト教の理想国家を日向国に建設するという個人的な動機も相まって、大規模な軍事行動を開始した 18 。その標的は、島津氏と手を結び大友氏に反旗を翻した日向の国人・土持親成であった 19 。大友氏はこの遠征に4万ともいわれる大軍を動員し、その威信を賭けて日向へと侵攻した 20 。
作戦計画は、軍を二手に分けるというものであった。田原親賢らが率いる本隊が豊後から日向北部の縣(現在の延岡市)へ直接南下する一方、志賀親守と朽網鑑康が率いる別動隊が、西の肥後国から山を越えて日向高千穂方面へ進軍し、島津軍の側面を突くという壮大な構想であった 19 。親守は「肥後方分」の責任者として、この別動隊の指揮を任されたのである。
しかし、この大友氏の命運を左右する決戦において、親守の行動は不可解なものであった。複数の史料が、彼がこの日向出兵そのものに当初から反対しており、合戦が始まってからも「軍勢を積極的に動かそうとしなかった」と一致して記録している 1 。
この消極的な姿勢は、大友家臣団内部でも問題視されていた。同じくこの出兵の無謀さを訴えていた重臣中の重臣、立花道雪は、戦後、軍監という重要な立場にありながら責務を果たさなかったとして、親守を名指しで痛烈に批判している 6 。これは、親守の行動が単なる個人的な判断ミスではなく、大友軍全体の敗因に繋がりうる重大な問題であったと、当時の武将たちに認識されていたことを示している。
では、なぜ親守は積極的に戦おうとしなかったのか。その理由は、複数の要因が複合的に絡み合っていたと考えられる。
第一に、純粋な 戦略的判断説 である。島津軍の精強さと、日向という地の利を熟知していた親守は、この遠征が無謀な博打であると冷静に判断していた可能性がある。大友氏随一の戦略家と評される立花道雪までもが反対していた事実を鑑みれば、親守の判断が単なる臆病さや怠慢に起因するものではなかった可能性は十分に考えられる 6 。
第二に、大友家中の 政治的思惑説 である。この遠征の総大将格は、宗麟の義兄であり、当時最も寵愛を受けていた田原親賢であった 19 。親守のような古くからの譜代の重臣たちが、キリスト教に傾倒する宗麟や、その側で権勢を振るう田原のような新興の寵臣が主導する戦に対して、意図的に非協力的な態度を取ったという、家臣団内部の深刻な対立が背景にあった可能性も否定できない。
そして第三に、 主家への不満の萌芽説 である。この頃には、既に家督は宗麟から嫡男の義統へと譲られていた。後述するように、親守と新当主・義統との関係は良好とは言えず、この時点で既に対立の兆しが見え始めていた。主家、特に新当主・義統のために命を懸けて戦うことへの躊躇が、彼の行動を鈍らせた可能性も考えられる。
これらの考察から見えてくるのは、耳川での親守の行動が、単なる戦術的な選択ミスや個人的な怠慢ではなく、宗麟政権の末期に顕在化しつつあった大友家臣団内部の亀裂が、戦場で表面化した最初の兆候であったという点である。親守の不作為は、大友軍全体の戦略構想を根底から覆す、致命的な影響を及ぼした。彼が率いる肥後方面軍が動かなければ、島津軍は西からの圧力を全く感じることなく、全戦力を東の主戦場である高城川周辺に集中させることが可能となる。結果として、田原親賢率いる大友軍本隊は、側面からの支援を一切受けられないまま敵地の奥深くに突出することになり、島津軍の得意とする包囲殲滅戦(釣り野伏せ)の格好の餌食となった。親守の消極性は、大友氏の歴史的大敗と、それに続く長い衰退の時代を決定づける、重要な一因となったのである。
耳川の戦いでの大敗は、大友氏の権威を失墜させ、領国の動揺を招いた。当主・大友義統の求心力も著しく低下し、家臣団の統制は困難を極めた。このような危機的状況下で、志賀親守・親度父子と主君・義統との対立は、修復不可能なレベルにまで先鋭化していく。
その亀裂を決定的にしたのが、二つの事件であった。第一の事件は、天正12年(1584年)から13年(1585年)頃に起こった。当時、隠居の身であった宗麟は、島津氏の侵攻ルートと目される豊後南部の要衝・宇目村の守備を、旧臣である親守に命じた。しかし、親守は敵襲の噂に恐怖したのか、持ち場を放棄して無断で逃げ帰ってしまったのである。この一件について、宗麟が義統に宛てた書状が現存しており、そこには親守の職務放棄の原因が、彼が「女色家」であるため、女性問題で任務に集中できなかったからだと、辛辣な言葉で記されている 1 。この前代未聞の敵前逃亡に対し、当主・義統は激怒し、親守に強制的に隠居を命じた 7 。
第二の事件は、その直後に起こる。親守の跡を継いで志賀家の当主となっていた嫡男の親度(ちかのり)が、あろうことか主君・義統の愛妾であった「一の対」という女性を奪い取り、自らのもとに囲っていたことが露見したのである 7 。主君への面目を徹底的に潰された義統の怒りは頂点に達し、親度を捕らえて蟄居を命じた。一説には、父子ともに殺害されそうになったが、宗麟の仲介でかろうじて命だけは助かったという 1 。
これらの事件により、大友家中に完全に居場所を失った志賀父子は、ついに主家を見限る決断を下す。同じく大友氏に強い不満を抱いていた津賀牟礼城主・入田義実(にゅうた よしざね)の誘いに乗り、宿敵である島津氏への内通を約束したのである 7 。
この内通の事実は、単なる軍記物語の記述ではなく、島津氏の家老であった上井覚兼(うわい かくけん)が記した、極めて信憑性の高い一次史料『上井覚兼日記』によって裏付けられている。
この日記の記述は、志賀父子が島津氏による豊後侵攻(豊薩合戦)において、単に寝返っただけでなく、侵攻を促し、積極的に手引きをしていたことを示す、動かぬ証拠と言える。
ところが、この決定的な内通の記録とは真っ向から対立する情報も存在する。『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』などの後世に編纂された複数の資料には、「天正14年(1586年)島津氏の侵入に際し、宗麟とともに臼杵丹生島に籠城、死守した」という記述が見られるのである 8 。内通者が、なぜ主君と共に籠城するのか。この明白な矛盾は、どのように解釈すればよいのだろうか。
この謎を解く鍵は、親守の置かれた複雑な立場にある。一次史料である『上井覚兼日記』の信憑性を考慮すれば、彼が内通していたことは事実と見なさざるを得ない。その上で籠城の記録を考えると、最も合理的な推論は、彼が**「表面的には籠城しつつ、実態としては内通していた」**という二重の行動を取っていたというものである。
島津の大軍が豊後府内に迫る中、大友宗麟は海に面した天然の要害である臼杵の丹生島城に立て籠もった 25 。親守は、宗麟を支えた旧臣の筆頭格であり、南郡衆の重鎮でもある。彼が宗麟の側に侍り、共に籠城することは、周囲から見れば当然の忠義の行動に映る。しかし、その水面下では、入田義実を通じて刻々と変わる城内の状況や大友方の情報を島津軍に流し、他の国人衆への切り崩し工作を行っていた可能性が極めて高い。つまり、彼は大友方が勝っても負けても自らの一族が生き残れるよう、両陣営に足をかけるという、究極の保険をかけていたのである。後世の編纂物が、彼の「籠城」という外面的な事実のみを捉えて記述した結果、内通という内実との間に、一見すると解決不可能な矛盾が生じてしまったと考えられる。
この親守・親度の裏切りは、志賀一族に悲劇的な分裂をもたらした。父と祖父が島津に与する中、若き当主であった志賀親次(ちかつぐ、親守の子、あるいは孫とされる)は、ただ一人大友氏への忠節を貫き、居城である岡城にわずかな兵で立て籠もり、島津の大軍を相手に徹底抗戦を続けたのである 11 。この対照的な行動は、単なる親子間の意見の相違ではない。親守・親度は、主君との個人的な関係性を絶対視する旧来の価値観に生きた武将であり、義統との確執が裏切りに直結した 7 。一方、若き親次は、主家である「大友家」そのものへの忠誠を貫いた。また、親次は熱心なキリシタンであったため 26 、キリスト教を弾圧する島津氏の支配を宗教的な信念から拒絶したという動機も、その行動を支える大きな要因であったと考えられる 7 。志賀一族の分裂は、主君の代替わり、世代間の忠誠観の相違、そして宗教対立という、戦国末期の有力国衆が抱えた苦悩の縮図であった。
天正15年(1587年)、大友宗麟の救援要請に応えた豊臣秀吉が20万を超える大軍を率いて九州に上陸すると、戦局は一変する。島津氏は豊臣軍の圧倒的な物量の前に敗北を重ね、降伏。豊薩合戦は、大友・豊臣連合軍の勝利で終結した 28 。
戦後、豊後の領主として復帰した大友義統は、島津に与した裏切り者たちへの厳しい粛清を開始した。主君の愛妾を奪い、敵軍を領内に引き入れた志賀親度は、その罪を問われて義統から自害を命じられ、天正15年(1587年)にその生涯を閉じた 5 。
しかし、驚くべきことに、内通の首謀者の一人であったはずの父・親守は、この粛清を免れている 1 。息子が処刑される一方で、父が許されるという不可解な処遇の裏には、何があったのだろうか。
親守が処罰を免れた理由は、二点考えられる。第一に、彼の巧みな立ち回りである。息子の親度は、島津軍の先導役を務め、さらには実子である親次が守る岡城を直接攻撃するという、誰の目にも明らかな敵対行動を取った 1 。一方で、父の親守は、前述の通り、最後まで臼杵城で宗麟の側にあり、「表立って反抗しなかった」 1 。この外面的な忠誠のポーズが、彼の罪一等を減じる要因となった可能性は高い。
しかし、最大の理由は、孫(あるいは子)である志賀親次の存在であろう。親次は、父祖が裏切るという絶望的な状況の中、難攻不落の岡城を死守し、島津軍の豊後完全制圧を阻止した 5 。彼の奮戦がなければ、大友氏は秀吉の援軍到着を待たずして滅亡していた可能性すらある。この功績は豊臣秀吉からも「抜群の武功」として激賞されており 28 、親次は大友家存続の最大の功労者となっていた。この英雄の祖父まで処刑することは、親次の面目を潰し、戦後の家臣団に新たな火種を生みかねない。義統は、親次の功績に免じて、不本意ながらも親守を赦免せざるを得なかったと考えるのが最も自然である。
処罰を免れた親守は、志賀家の家督を継いだ英雄・親次の「後見役」という名誉職を与えられた 1 。彼は天正15年(1587年)5月に亡くなった旧主・大友宗麟の葬儀にも参列しており、その後も何事もなかったかのように義統の側近として仕え続けたという記録が残っている 1 。
さらに、文禄元年(1592年)から始まった文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の際には、当主・義統が軍を率いて朝鮮半島へ渡海する中、親守は豊後国に残り、領国の留守を守るという重要な役目を任されている 1 。彼の没年は不明であるが、少なくともこの時点までは、大友家臣として活動を続けていたことが確認できる。
しかし、この平穏も長くは続かなかった。文禄2年(1593年)、大友義統は朝鮮の戦線において、明軍に包囲された小西行長隊の救援要請を無視して敵前逃亡したとして、豊臣秀吉の激怒を買い、改易(領国没収)を命じられた 28 。これにより、鎌倉時代から400年以上続いた名門・大友氏は、戦国大名としての歴史に幕を閉じた。
主家を失った志賀親次は、その武勇と名声を頼りに、福島正則、小早川秀秋、毛利輝元といった諸大名に仕えた後、最終的には長門国(現在の山口県)宇部市で万治3年(1660年)に没したと伝えられる。その享年は95歳に及び、当時としては驚異的な長寿であった 27 。一方で、主家を失った他の多くの大友家臣たちは、他家への仕官も叶わず、故郷で帰農し、庄屋などとして生きる道を選んだという 36 。志賀一族も、親次の系統は武士として存続したが、多くの庶流は歴史の奔流の中に埋もれていったと考えられる 37 。親守の最期に関する具体的な記録は見当たらないが、大友氏の改易と共に、彼の波乱に満ちた生涯も静かに終わりを迎えたものと推測される。
本報告書で検証してきた通り、志賀親守は「忠臣」か「裏切り者」かという、単一のレッテルで評価できる人物ではない。彼は、大友宗麟の時代には家督相続を支え、政権の中枢で領国経営を担った「功臣」であった。しかし、主君が義統に代わると、個人的な確執から主家を裏切り、敵を領内に引き入れる「内通者」へと変貌した。また、戦場では無謀な作戦に異を唱える「戦略家」としての一面を見せる一方、私生活では「女色家」と評される人間的な弱さも持ち合わせていた 1 。
彼の行動原理を読み解く鍵は、その忠誠の対象にある。彼の忠誠心は、主家である「大友家」という抽象的な組織に対してではなく、二階崩れの変で自らが擁立した「大友宗麟」という個人に対して、より強く結びついていたと結論づけられる。宗麟の死と、そりの合わない義統への代替わりは、彼にとって忠誠を捧げる対象の喪失を意味した。その結果、彼は大友家全体の利益よりも、自らの一族と所領を守るという、国人領主としての現実的な生存戦略を優先し、保身と家名存続のための裏切りへと突き進んだのである。
志賀親守の生涯は、北部九州に巨大な版図を築いた戦国大名・大友氏が、その内部に多くの半独立的な国人領主を抱え、当主の個人的な力量や人間関係にその統制を大きく依存していたという、構造的な脆弱性を象徴している。彼の裏切りは、大友氏衰退の直接的な原因そのものではなく、むしろ、耳川の敗戦に端を発する衰退という大きな歴史の流れの中で発生した、一つの必然的な結果であったと見なすべきであろう。
彼は、時代の激動の中で、自らの一族が生き残るためにあらゆる手段を尽くした、一人の有力国衆領主の典型であった。その行動は、現代の倫理観から見れば非難されるべき点も多い。しかし、家の存続が個人の信義よりも優先されることも珍しくなかった戦国という時代を生きた武将の、冷徹なリアリズムの表れとして評価することもまた、可能なのではないだろうか。彼の複雑な生涯は、我々に戦国時代の主従関係の多層性と、そこに生きた人々のリアルな姿を雄弁に物語っている。