日本の戦国時代、群雄が割拠し、下剋上が日常であった16世紀の九州。この地は、豊後の大友氏、薩摩の島津氏、そして肥前の龍造寺氏という三つの大勢力が覇を競う、熾烈な闘争の舞台であった。中でも、一代で肥前一国を席巻し、「五州二島の太守」とまで称されるに至った龍造寺隆信は、その凄まじい武威から「肥前の熊」と恐れられた特異な存在である 1 。彼の急激な台頭は、単なる個人の武勇や野心のみによって成し遂げられたものではない。その背後には、義弟であり知謀の将であった鍋島直茂の補佐、そして成松信勝を筆頭とする、勇猛果敢な家臣団「龍造寺四天王」の存在があった 2 。
本報告書は、龍造寺家の興隆をその槍働きで支え、その悲劇的な終焉に殉じた武将、成松信勝の生涯を徹底的に掘り下げることを目的とする。彼は、龍造寺家臣団の中でも屈指の武功者として知られながら、その名はしばしば主君・隆信の強烈な個性の影に隠れがちである。しかし、彼の生涯を丹念に追うことで、単なる一武将の伝記に留まらない、より大きな歴史の潮流が見えてくる。それは、龍造寺家の栄光と挫折の物語であり、戦国武士が貫いた忠義の在り方、そして主家が滅んだ後の家の存続という、時代を超えたテーマである。
本稿では、信勝の出自から、彼の名を不滅のものとした「今山合戦」での大功、そして主君と共に散った「沖田畷の戦い」での壮絶な最期までを詳述する。さらに、彼が属した「龍造寺四天王」という存在の実像を史料から分析し、彼の死後、その子孫が辿った意外な運命にも光を当てる。これにより、寡黙なる忠臣・成松信勝の多面的な実像を明らかにし、彼が肥前の歴史、ひいては日本の戦国史において持つ重要性を再評価することを目指すものである。
成松信勝は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将である。その生年は天文9年(1540年)と伝えられるが、疑問符付きで記されることが多く、確定的ではない 4 。没年は、龍造寺家の運命を決定づけた沖田畷の戦いがあった天正12年3月24日(西暦1584年5月4日)である 4 。
彼の名乗りは、その生涯における地位の変遷を物語っている。幼名か通称かは定かではないが、当初は「新十郎」と呼ばれていた 5 。やがて武功を重ね、主君である龍造寺隆信からその名の一字(偏諱)を賜り、「信勝」と名乗るに至った 6 。これは、彼が隆信から個人的な信頼と期待を寄せられる、側近中の側近であったことの何よりの証左である。官位としては、刑部少輔、そして遠江守を称した 5 。これらの官職名は、彼の武将としての格式と、龍造寺家内における地位の高さを表している。
成松信勝がどのような人物であったかを知る上で、後世の軍記物や、さらには現代の創作物における人物描写は、彼が歴史的にどのように記憶されてきたかを探る手がかりとなる。複数の資料を統合すると、彼の人物像は単なる「猛将」という言葉では捉えきれない、複雑で深みのあるものであったことが浮かび上がってくる。
多くの描写で共通しているのは、「寡黙で威圧感がある」という、口数少なく、威厳に満ちた佇まいである 7 。戦場での勇猛さと相まって、近寄りがたい雰囲気を醸し出していたと想像される。しかし、その内面は「根は優しく情け深い」人物であったとも伝えられており、例えば戦で失敗した部下を厳しく叱責するのではなく、むしろ励ますような一面があったとされる 7 。この厳しさと優しさの共存は、彼が優れた将として部下から深く信頼されていた理由の一つであろう。
さらに、彼は「常に冷静沈着な清廉な武将」と評される 8 。龍造寺四天王には、良くも悪くも個性の強い人物が多かったとされ、その中で信勝は「唯一大人な対応ができる常識人」であり、癖の強い同僚たちに苦労させられることもあったという描写も見られる 7 。この評価は、彼が感情に流されることなく、常に大局を見据えて行動できる理知的な人物であったことを示唆している。感情の起伏が激しく、時に残忍とも評された主君・龍造寺隆信とは対照的なこの性格は、隆信の短所を補い、組織の安定に寄与する上で極めて重要な役割を果たしたと考えられる。
成松信勝の有能さは、戦場での槍働きだけに限定されるものではなかった。その証拠に、彼は主君・隆信が隠居した後もその側に近侍し、隆信の隠居城であった須古城の普請奉行を務めたという記録が残っている 6 。普請奉行とは、城郭や建物の建設・修繕といった土木工事を監督する役職であり、高度な計画性、管理能力、そして技術的な知識が要求される。
この事実は、信勝が単なる戦場の勇士ではなく、行政手腕にも長けた有能な吏僚としての一面を併せ持っていたことを明確に示している。彼は、龍造寺家という組織を運営していく上で、軍事と内政の両面に通じた、まさに「柱石」とも言うべき存在であった。彼の冷静沈着で常識的な性格は、こうした実務的な役職においても大いに発揮されたに違いない。戦場では先陣を切って敵を打ち破り、平時においては城の普請を取り仕切る。この多才さこそが、成松信勝が龍造寺家にとって不可欠な人材であったことを物語っている。彼の存在は、感情的な判断に傾きがちな隆信の政権運営に、実務的な安定と均衡をもたらす重しのような役割を担っていたと推察されるのである。
成松信勝の名を語る上で欠かせないのが、「龍造寺四天王」という称号である。これは、主君・龍造寺隆信に仕えた家臣の中でも、特に武勇に優れた四人の武将を顕彰した呼称である 9 。しかし、この「四天王」という名称が、隆信の存命中に公式な部隊名や役職として存在したわけではない点には注意が必要である。むしろ、彼らの目覚ましい活躍を後世に伝えるため、江戸時代に成立した軍記物や史書の中で形作られ、定着していったブランドイメージと捉えるのが実態に近い 1 。類似の呼称として、より隆信の旗本(直属の親衛隊)からの選抜というニュアンスが強い「四本槍」や「四天王の槍柱」といった言葉も史料に見られる 9 。
「四天王」というからには四人と考えるのが自然だが、興味深いことに、どの史料を参照するかによってその顔ぶれには若干の異動が見られる。これは、「龍造寺四天王」という概念が固定的なものではなく、時代や筆者の立場、史料の成立意図によって解釈が異なっていたことを示す重要な証拠である。実際に四天王として名前が挙げられる武将は、合計で五名確認できる 1 。
その五名とは、成松信勝(遠江守)、百武賢兼(志摩守)、木下昌直(四郎兵衛尉)、江里口信常(藤七兵衛尉)、そして円城寺信胤(美濃守)である 11 。
主要な史料における構成員の比較を以下の表に示す。
史料名(成立年) |
呼称 |
成員1 |
成員2 |
成員3 |
成員4 |
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成松遠江守信勝戦功略記 (慶安3年/1650年) |
龍造寺の四天王 |
(成松)遠江守 |
百武志摩守 |
木下四郎兵衛尉 |
江里口藤七兵衛尉 |
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九州記 (元禄13年/1700年) |
四本槍 |
成松遠江 |
百武志摩 |
円城寺美濃 |
江里口藤七兵衛 |
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陰徳太平記 (正徳2年/1712年) |
四天王の槍柱 |
成松遠江守 |
百武志摩守 |
円成寺美濃守 |
江里口藤七兵衛 |
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葉隠 (享保元年/1716年) |
四天王 |
百武志摩守 |
木下四郎兵衛 |
成松遠江守 |
江里口藤七兵衛 |
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九州治乱記(北肥戦誌) (享保5年/1720年) |
隆信四天王 |
成松遠江守 |
百武志摩守 |
木下四郎兵衛 |
江里口藤七兵衛 |
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焼残反故 (享保9年/1724年) |
隆信公四天王 |
百武志摩守 |
成松遠江守 |
木下四郎兵衛 |
円城寺美濃守 |
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出典: 9 に基づき作成 |
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この表からいくつかの重要な点が読み取れる。第一に、成松信勝、百武賢兼、木下昌直の三名は、ほとんどの史料でメンバーとして挙げられており、彼らが四天王の中核を成す存在と広く認識されていたことがわかる 11 。第二に、江里口信常と円城寺信胤の二名が、史料によって入れ替わる形で記載されている 11 。
この変動には理由が考えられる。例えば、沖田畷の戦いで主君・隆信に殉じたという壮絶な最期は、四天王の物語性を高める上で重要な要素である。成松、百武、江里口、円城寺の四名は隆信と共に戦死したが、木下昌直は鍋島直茂の率いる別動隊に属していたため、この戦いを生き延びている 5 。この史実が、「隆信に殉じた猛将たち」という特定のイメージを強調したい場合に、木下が外され、代わりに円城寺が数えられる一因となった可能性は否定できない。
また、史料の成立背景も影響している。例えば、表の筆頭に挙げた『成松遠江守信勝戦功略記』は、その名の通り信勝の孫である成松新兵衛が祖父の功績を顕彰するために記したものであり、信勝が筆頭に置かれているのは当然の帰結と言える 5 。このように、誰を四天王に含め、どのような順番で記すかという点に、筆者の意図や立場が色濃く反映されているのである。
構成員に多少の揺れはあるものの、成松信勝が龍造寺四天王の代表格であったことは疑いようがない。彼は、現存する主要な史料のほぼすべてにおいて四天王の一員として名を連ねており、その武勇と功績が後世において広く、そして高く評価されていたことの動かぬ証拠である 11 。
特に、彼の子孫によって編纂された『成松遠江守信勝戦功略記』において筆頭に挙げられている事実は、単なる身内の贔屓として片付けるべきではない 9 。それは、彼の功績、特に龍造寺家の命運を決定づけた今山合戦での大功が、家中で最も輝かしいものの一つとして記憶されていたことを示唆している。彼は、龍造寺家臣団という個性派集団の中にあって、その武勇、実務能力、そして人格において、中心的な役割を担う傑出した武将であったと結論付けられる。
元亀元年(1570年)、龍造寺家は存亡の危機に瀕していた。当時、九州で最大の勢力を誇っていた豊後の戦国大名・大友宗麟が、数万ともいわれる大軍を率いて肥前へ侵攻したのである。龍造寺家の本拠地である佐賀城は完全に包囲され、城内の兵力はわずか数千。兵力差は歴然であり、落城は時間の問題と見られていた 12 。この戦いは、文字通り龍造寺家の、ひいては肥前一国の未来を決する「肥前分け目の戦い」であった 12 。
城内では、徹底籠城か、あるいは城外へ打って出るかで評定の意見が真っ二つに割れた。圧倒的な兵力差を前に、多くの家臣が籠城を主張する中、乾坤一擲の夜襲作戦を強く進言したのが、知将・鍋島直茂であった 14 。一説には、主君・隆信の母であり、女傑として知られた慶誾尼が「そのような弱気でどうする」と家臣たちを叱咤し、夜襲の決断を後押ししたとも伝えられている 15 。
作戦は決まった。しかし、それは九死に一生を求める無謀ともいえる賭けであった。鍋島直茂と成松信勝らは、わずか17騎という極めて少数の手勢で、深夜、密かに佐賀城を抜け出したと記録されている 16 。この逸話は、作戦がいかに決死の覚悟で行われたかを物語っている。彼らが敵陣へと向かう道中、その壮絶な覚悟と義気に心打たれた者たちが次々と馳せ参じ、決行の地である道祖神社に到着した頃には、百武賢兼らも合流し、総勢は50余名にまで膨れ上がっていたという 16 。このドラマチックな展開は、龍造寺家臣団の強固な結束力と、絶望的な状況下でも屈しない精神力の現れであった。
この奇襲作戦において、成松信勝は中核的な役割を果たした。作戦決行に先立ち、彼は隆信の命を受けて夜陰に乗じ、敵である大友軍の陣営に潜入してその内情を偵察したとされる 13 。この情報収集が、手薄な本陣を正確に突くという作戦の成功に不可欠であったことは想像に難くない。
そして、元亀元年8月20日の夜明け、夜襲は決行された。鍋島直茂率いる決死隊は、油断しきっていた大友軍の本陣に猛然と襲いかかった。大混乱に陥る敵陣の奥深くへと突き進んだ成松信勝は、ついに敵の総大将である大友親貞(大友宗麟の弟)を発見し、一騎討ちの末、見事その首級を挙げるという千金の値千金の大功を立てたのである 6 。
総大将を失った大友軍は指揮系統を完全に失い、烏合の衆と化して敗走した 17 。この歴史的な勝利の後、信勝は主君・隆信からその比類なき功績を称えられ、感状(公式な表彰状)を授与された 6 。龍造寺家を滅亡の淵から救い、九州の勢力図を塗り替えるきっかけを作ったこの一撃は、成松信勝の名を不滅のものとした。
この今山合戦における信勝の武勇伝は、単なる口伝や記録だけに留まらない。彼の武功を雄弁に物語る遺物が、現代にまで伝えられている。その一つが、大友親貞を討ち取った際に使用したと伝わる槍である 6 。この槍は、全長が実に431cm(二間半)にも及ぶ長大な直槍で、穂先には独鈷剣の彫物があり、中心には「相州住周廣」という刀工の銘が刻まれている 18 。これほどの長槍を自在に操るには、相当な腕力と技量が必要であり、彼の武人としての卓越した能力を物語っている。
もう一つは、信勝が所用したとされる「黒漆塗萌黄糸威五枚胴具足」という甲冑である 6 。黒と萌黄色(若草色)のコントラストが美しいこの具足は、彼の武将としての威厳と美意識を今に伝えている。これらの貴重な遺物は、現在、佐賀県立博物館に寄託されており 6 、我々が成松信勝という武将の存在をよりリアルに感じることを可能にしている。彼の栄光の瞬間は、これらの遺物を通じて、450年以上の時を超えて輝き続けているのである。
この今山での勝利は、龍造寺家の歴史における最大の転換点であった。信勝の槍働きは、単なる一人の武将の勇猛さの証明に留まらず、圧倒的な劣勢を覆すほどの戦略的価値を持っていた。彼は、龍造寺家という組織が持つ、危機的状況を打破する力、そして大胆不敵な精神性を体現する存在であり、この勝利によって九州の覇権争いにおける主役の一人へと龍造寺家を押し上げた、紛れもない立役者であった。
今山合戦での奇跡的な勝利から14年の歳月が流れた天正12年(1584年)、龍造寺家は九州最大の大名へと成長を遂げていた。しかし、その栄華は同時に、組織の内に潜む脆さをも育んでいた。この年の春、龍造寺氏の支配下にあった肥前島原の領主・有馬晴信が、隆信の圧政に耐えかねて離反し、南九州で勢力を急拡大していた島津氏に救援を求めたことが、悲劇の引き金となった 19 。
この報に接した龍造寺隆信は、自ら大軍を率いて有馬氏を討伐することを決断する。この時、義弟の鍋島直茂は、敵地での決戦を避け、持久戦に持ち込むべきだと慎重論を唱えたが、自軍の圧倒的な兵力を過信し、驕慢になっていた隆信はこれを退けた 15 。かつて今山で奇跡の勝利を呼び込んだ大胆さは、この時には油断と慢心へと変質していたのである。
この運命の戦いに、成松信勝は龍造寺四天王の一人、円城寺信胤と共に「軍奉行」として従軍した 21 。軍奉行とは、現代の軍隊における監察官や参謀に近い役職であり、軍全体の規律を維持し、総大将の命令が滞りなく実行されるよう監督する重責を担う。この人選は、信勝が単なる勇将としてだけでなく、軍全体の動きを把握し、統制する能力を持つ指揮官として、隆信から絶大な信頼を置かれていたことを示している。
3月24日、龍造寺軍と島津・有馬連合軍は、島原半島北部の沖田畷で激突した。この地は、その名の通り「畷(田んぼの中の細い道)」が縦横に走り、その両脇には足を踏み入れると胸まで沈むような深い湿地帯が広がる、大軍の運用には極めて不向きな地形であった 20 。
兵力で劣る島津軍の総大将・島津家久は、この地形を最大限に利用した。彼は、隘路に誘い込んだ敵主力を伏兵で三方から包囲殲滅するという、島津家得意の戦法「釣野伏せ」を仕掛けたのである 20 。数に任せて一直線に進軍してきた龍造寺軍は、この巧妙な罠にまんまとはまり、身動きの取れない湿地帯の中で、島津軍の鉄砲と弓による集中砲火を浴びて次々と斃れていった。
後方の本陣にいた隆信は、前線が停滞していることに激怒し、状況を理解しないまま「進め、進め」と無謀な前進命令を繰り返したと伝えられる 23 。この命令が、混乱と被害をさらに拡大させた。軍奉行であった信勝も、総大将の厳命を前にしては、この破滅的な突撃を止めることはできなかった。
戦いが始まって数時間後の午後2時頃、ついに龍造寺軍の総崩れは決定的となる。本陣で床几に腰掛けていた巨漢の主君・龍造寺隆信が、島津方の若武者・川上忠堅によって発見され、その首を落とされたのである 20 。総大将の戦死という衝撃的な報は、瞬く間に戦場を駆け巡り、龍造寺軍の士気と組織は完全に崩壊した。
主君の討死を知った成松信勝が、その瞬間、何を選択したか。それは、生き延びて再起を図ることではなかった。彼は、主君を守りきれなかった軍奉行としての責任をその身に負い、そして一人の武士としての忠義を貫くため、絶望的な状況と化した敵陣の真っ只中へと最後の突撃を敢行。獅子奮迅の戦いの末、主君の後を追うように壮絶な戦死を遂げたと伝えられている 8 。
この沖田畷の戦いにおいて、龍造寺家は総大将・隆信を筆頭に、成松信勝、百武賢兼、円城寺信胤、そして江里口信常といった、四天王と称された猛将たちのほとんどを一日で失った 20 。二百数十名もの重臣が討死するという壊滅的な打撃を受け、「肥前の熊」が一代で築き上げた巨大な王国は、事実上、この日に崩壊したのである。
信勝の最期は、武士の鑑とされた「忠義」の究極的な発露であった。しかし同時に、それは主君の驕りと油断が生んだ組織的敗北の悲劇的な帰結でもあった。彼の英雄的な死をもってしても、組織全体の崩壊という大きな流れを止めることはできなかった。その栄光に満ちた今山での武功と、悲劇に終わった沖田畷での殉死。彼の生涯は、まさに龍造寺家の栄枯盛衰そのものを体現していたと言えるだろう。
沖田畷の戦いで主君・龍造寺隆信と共に当主と重臣の多くを失った龍造寺家は、事実上滅亡した。その後、肥前の実権は知将・鍋島直茂が掌握し、江戸時代には鍋島氏が治める佐賀藩が成立する。主家が代わるという激動の中、成松信勝の家系、成松氏は断絶することなく、佐賀藩の藩士として存続を許された 5 。これは、信勝が龍造寺家に対して示した比類なき功績と忠義が、新時代の支配者である鍋島氏からも高く評価され、その子孫が尊重されたことの証である。戦国の世は終わっても、信勝が命を懸けて守ろうとした「家」は、形を変えて生き続けたのである。
成松家が存続したことは、信勝自身の評価を後世に伝える上で極めて重要な意味を持った。江戸時代前期の慶安3年(1650年)、信勝の孫にあたる成松新兵衛が、祖父の輝かしい武勇伝を後世に遺すため、一冊の書物を編纂した。それが『成松新十郎信勝戦功略記』である 5 。
この書物は、今山合戦での大功をはじめとする信勝の活躍を詳細に記録した、我々が彼の生涯を知る上で欠かせない貴重な一次史料である。と同時に、子孫が先祖の栄誉をいかに誇りとし、それを後世に伝えようと努めたかを示す、心揺さぶる証拠でもある。今日我々が知る成松信勝の英雄的なイメージの多くは、この子孫による顕彰の書に源流を持っていると言っても過言ではない。
成松家の歴史は、武士としての名誉を守り続けるだけに留まらなかった。時代が下り、戦乱が遠い昔となった江戸時代中期から後期にかけて、信勝の子孫は全く異なる分野で歴史にその名を刻むことになる。信勝から数代後の子孫である成松信久(通称・萬兵衛)は、佐賀藩の重要な財源であった磁器生産の中心地、有田皿山の代官に任じられた 6 。
信久は代官として優れた治績を挙げ、有田焼の生産を大いに支援し、その発展に貢献した。彼の為政は領民から深く敬愛され、彼が任を終えて佐賀に戻る際には、皿山の人々がその徳を慕い、八幡宮の境内に「成松社」という石碑を建てて彼を祀ったほどであったという 27 。武勇で名を馳せた先祖の血は、この時代、民を慈しみ産業を育む「良吏」の才として花開いたのである。
驚くべきことに、この流れはさらに続く。信久の次男である百武兼貞(成松家から百武家へ養子に入った)もまた、父の跡を継いで有田皿山代官を務めた 6 。そして、その兼貞の子、すなわち成松信勝から数えて玄孫にあたる百武兼行は、幕末から明治にかけて活躍し、日本における西洋画の導入と発展に尽力した、日本最初の洋画家の一人として歴史に名を残すことになった 6 。
この一族の軌跡は、まさに日本の歴史の縮図である。戦国武将の「武」の奉公から、江戸時代の代官としての「政」の奉公へ。そして、明治維新を経て、近代国家の新しい「文化」を創造する担い手へ。成松信勝という一人の武将の血脈が、時代の変化に見事に対応しながら、その役割を昇華させていった様は、武士階級が持つ強靭な適応力と、社会貢献の精神の継承を示す、稀有な実例と言えるだろう。
寡黙なる忠臣・成松信勝は、現在、佐賀市川副町にある浄土宗の寺院・正定寺に眠っている。その墓は、一族の墓と共に、今も静かに彼の生きた時代を伝えている 6 。
また、彼の名は歴史書の中だけに留まらない。現代においても、戦国時代をテーマにした歴史シミュレーションゲームや様々な創作物の中で、龍造寺四天王の代表格として頻繁に登場する 7 。そこでは、今山での武勇と沖田畷での忠義を象徴する、冷静沈着でありながら内に熱い魂を秘めた武将として描かれることが多い。その姿は、時代を超えて人々を魅了し、彼の物語が現代にも確かに受け継がれていることを示している。
成松信勝は、戦国時代の肥前を駆け抜けた、傑出した武将であった。彼の生涯を総括する時、我々は三つの際立った側面を見出すことができる。第一に、今山合戦で敵の総大将を討ち取った、比類なき「武勇」。第二に、平時において須古城の普請奉行を務め上げた、冷静沈着な「実務能力」。そして第三に、沖田畷の戦いにおいて主君の後を追い、その身を捧げた、絶対的な「忠誠心」。これら武・政・忠の三徳を兼ね備えた彼は、まさしく戦国武将の一つの理想像を体現していたと言える。
彼の歴史的意義は、龍造寺家の興隆と滅亡の軌跡と分かちがたく結びついている点にある。彼が今山で挙げた大功は、龍造寺家を滅亡の淵から救い、九州の覇者へと押し上げる原動力となった。一方で、彼が沖田畷で遂げた壮絶な死は、主君・隆信の驕りが招いた組織の崩壊を象徴するものであった。彼の栄光と悲劇は、そのまま龍造寺家という一大勢力の盛衰の物語と完全に重なり合っているのである。
しかし、成松信勝が後世に遺したものは、戦場での逸話だけに留まらない。彼の死後もその家名は佐賀藩士として存続し、子孫たちは武士としての誇りを保ち続けた。さらに時代が下ると、その血脈は有田焼を育んだ名代官や、近代日本の新しい芸術を切り開いた洋画家を輩出するという、驚くべき文化的・経済的遺産へと繋がっていった。これは、彼の「家」が、武力による奉公から、行政や文化による社会貢献へとその役割を昇華させながら、時代の変遷を生き抜いたことを物語っている。
寡黙なればこそ、その行動と功績は雄弁である。成松信勝は、その生涯を通じて武士の忠義を貫き、その死後も子孫を通じて長く社会に影響を与え続けた。彼は、肥前の歴史、ひいては日本の戦国武士道を語る上で、決して忘れてはならない、深遠なる輝きを放つ重要人物であると、ここに結論付ける。