戦国の世、備前国に彗星の如く現れ、一代で大大名の地位を築いた梟雄・宇喜多直家。その謀略と野望に満ちた生涯の陰には、常に一人の傑出した武将の姿があった。その男の名は、戸川秀安。岡利勝、長船貞親と共に「宇喜多三老」と称されながらも、主君・直家から寄せられた信頼は他の二人を凌駕したと伝えられる、まさに宇喜多氏の「柱石」たる人物である。
秀安の生涯は、単なる一武将の武勇伝に留まらない。彼は、明禅寺合戦や八浜合戦といった修羅場を駆け抜けた勇将であると同時に、石山城(岡山城)の接収や常山城の統治に見られるように、優れた行政手腕を発揮した為政者でもあった。彼の存在なくして、宇喜多氏の備前・美作平定は成し得なかったと言っても過言ではない。
しかし、その輝かしい功績の裏で、彼の死は主家の運命に暗い影を落とす。彼という重石を失った宇喜多家は、内部対立の嵐に見舞われ(宇喜多騒動)、結果として関ヶ原の戦いで西軍の主力として敗北、改易の憂き目に遭う。一方で、秀安の嫡男・達安は主家を離反し、徳川の世で近世大名・庭瀬藩主として家名を存続させるという皮肉な結末を迎える。
本報告書は、『戸川記』や『備前軍記』といった後世の編纂物から、断片的ではあるが同時代に近い史料までを渉猟し、時に錯綜する情報を比較検討することで、伝承の奥に隠された戸川秀安の実像に迫るものである。彼の生涯を追うことは、宇喜多氏の興亡の軌跡を辿ることであり、同時に、戦国から近世へと移行する時代の激動の中で、武家がいかにして存続を賭けた選択を下したかを解き明かす試みでもある。
戸川秀安の生涯を語る上で、まずその生没年から見ていく必要があるが、史料によって記述に揺れが見られる。これは彼が大大名の家臣という立場であったため、彼個人の記録が限定的であることに起因する。
最も有力視されているのは、戸川家の家譜である『戸川記』や、それを基にした『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』などが採る「天文7年(1538年)生 - 慶長2年(1597年)没、享年60」という説である 1 。本報告書も、この説を主軸として論を進める。
しかし、これ以外にも複数の異説が存在する。例えば、生年を天文2年(1533年)頃、没年を天正20年(1592年)頃とする説や 4 、没年を慶長8年(1603年)とする説も伝えられている 4 。こうした情報の錯綜は、大名家とは異なり、家臣個人の正確な記録が後世の家譜や軍記物語に依存せざるを得なかった戦国時代の人物研究の難しさを示している。
表1:戸川秀安の生没年に関する諸説比較
説(生年 - 没年) |
典拠史料・文献(一部) |
備考 |
1538年 - 1597年 |
『戸川記』、デジタル版 日本人名大辞典+Plus |
最も広く受け入れられている有力説 |
1533年? - 1592年? |
異説として一部の文献に記載 |
生没年ともに5年ほどの差異がある |
1538年 - 1592年 |
異説として一部の文献に記載 |
没年が天正20年とされる説 |
1538年 - 1603年 |
異説として一部の文献に記載 |
没年が関ヶ原の合戦後とされる説 |
戸川秀安の出自に関しても、二つの主要な説が伝えられている。一つは『戸川家系譜』などに見られる「門田氏説」で、父を備後国の国人・門田定安とし、父の早世後に母・妙珠と共に美作国へ移り、母の姉婿であった富川入道のもとで養育されたというものである 3 。
もう一つは、江戸幕府が編纂した『寛政重修諸家譜』などが採る「宇喜多能家落胤説」である。これは、秀安の父・定安は宇喜多氏の祖である宇喜多能家の妾腹の子であり、家臣の富川正実の養子に出されたとする説である 3 。
この二つの説は、秀安の父の出自において異なる見解を示すが、いずれも彼が当初「富川」と名乗っていたことを示唆しており 2 、後の戸川家の家格を高めるために名門・宇喜多家の血筋を引くという系譜が創作された可能性も考えられる。
しかし、彼のキャリアの出発点を考える上で、これら二つの説に共通する、より現実的で重要な事実が存在する。それは、 秀安の母・妙珠が、主家滅亡後に流浪していた宇喜多直家の弟・忠家や春家の乳母として仕えた という点である 3 。この「乳母の縁」こそが、秀安の運命を決定づけた。血筋の貴賤よりも、主君の家族と幼少期から築かれたこの極めて個人的で強固な繋がりが、彼を直家の小姓として取り立てさせ、生涯にわたる絶対的な信頼関係の礎となったのである。これは、謀略家として知られ、他人を決して信用しなかった直家が、なぜ秀安にだけは心を許したのかを解き明かす鍵と言える。
戸川秀安の家族構成は、彼の宇喜多家中における地位をより深く理解する上で示唆に富んでいる。正室は鷹取備中守の妹を迎えている 1 。
子には、嫡男で後に初代備中庭瀬藩主となる**戸川達安(みちやす)**をはじめ、次男・正安、三男・勝安がいた 1 。特に達安は父の武勇を受け継ぎ、数々の戦で功を挙げている 7 。
さらに注目すべきは、娘の一人が宇喜多一門の重鎮である**坂崎直盛(宇喜多詮家)**に嫁いでいることである 1 。坂崎直盛は宇喜多忠家の子、すなわち主君・直家の甥にあたる人物である 8 。この婚姻は、単なる家族関係の構築に留まらず、秀安が宇喜多家の中枢、すなわち一門衆と姻戚関係を結ぶことで、譜代家臣団の筆頭としての地位を盤石なものにしていたことを物語っている。この強固な立場こそが、父の死後、息子・達安が「宇喜多騒動」において譜代家臣団を代表して行動する際の政治的な基盤となったのである。
宇喜多直家が備前の一国人から戦国大名へと飛躍する過程において、戸川秀安は常にその最前線に立ち、直家の野望を具現化する「剣」であり「盾」であった。彼の武功は数々の合戦記録に刻まれており、その智勇は宇喜多家の版図拡大に不可欠なものであった。
戸川秀安の戦歴は、宇喜多家の興隆の歴史そのものである。
明禅寺合戦(永禄10年、1567年)
備前国の覇権を賭けて、宿敵・三村氏と激突したこの合戦は、宇喜多家の運命を左右する決戦であった 9。主君・直家が自ら陣頭に立つ中、秀安も主力部隊の一翼を担い、三村軍を総崩れに追い込む「明善寺崩れ」の勝利に大きく貢献した 4。この一戦により、宇喜多氏は備前における優位を確立し、秀安の名もまた、宇喜多家中における勇将として不動のものとなった。
辛川合戦(天正7年、1579年)
宇喜多直家が長年の同盟相手であった毛利氏を見限り、織田信長に与するという一大転換を行った際、毛利氏の報復攻撃の矢面に立ったのが秀安であった。彼は備前の要衝・辛川城の守将として、毛利の大軍を迎え撃った 10。この防衛戦において、秀安は巧みな指揮で城を固守し、毛利勢の侵攻を食い止めることに成功する 10。この戦功は、彼の武勇だけでなく、防衛戦における冷静な指揮官としての一面を如実に示している。
児島八浜合戦(天正9年、1581年 もしくは 天正10年、1582年)
この戦いは、戸川秀安の武将としての真骨頂を示す逸話として、後世に語り継がれている。毛利方の穂井田元清が率いる軍勢と児島半島で対峙したこの戦いで、宇喜多軍は総大将の宇喜多基家(直家の弟とも庶子ともされる)が討死するという、絶体絶命の窮地に陥った 11。
軍記物語『備前軍記』によれば、総大将を失い、兵たちが総崩れとなって敗走を始める中、秀安は退却を良しとしなかった。「大将が討ち死にした今、我一人生き永らえて何の面目があろうか」と覚悟を決めると、ただ一騎、馬首を返して敵陣へと突撃しようとした 14。その決死の姿は、絶望に打ちひしがれていた将兵の心を打ち、能勢又五郎をはじめとする者たちが次々と秀安に続いて反撃に転じた。これにより、崩壊寸前だった宇喜多軍は奇跡的に態勢を立て直し、窮地を脱したと伝えられる 4。
この八浜での逸話は、後世の軍記物特有の脚色が加わっている可能性は否定できない 15 。しかし、史実性の検証とは別に、なぜこのような物語が生まれ、語り継がれたのかを考察することが重要である。それは、秀安が当時の武士たちから、主君への忠義、絶望を覆す不屈の勇気、そして周囲を鼓舞するカリスマ性を兼ね備えた「理想の武将」として認識されていたことの証左に他ならない。冷静な政治手腕と、戦場で見せる激情的なまでの勇猛さ。この二面性こそが、戸川秀安という武将の評価を不動のものにしたのであろう。
戸川秀安の功績は、戦場での武功だけに留まらない。彼は岡利勝(家利)、長船貞親と共に**「宇喜多三老」**と称され、直家の領国経営と、その死後は幼い新当主・秀家の補佐という重責を担った 3 。
三老の中でも、主君・直家からの信任は秀安が群を抜いて厚かったとされ、直家の晩年には宇喜多家の国政の多くを委ねられていたという 3 。その信頼の厚さは、具体的な行政実績からも窺い知ることができる。元亀元年(1570年)、直家が謀略によって備前金光城主・金光宗高を排除した際、その居城であった石山城(後の岡山城)の接収という、謀略の後始末を任されたのが秀安であった 6 。これは、主君の非情な決断の意図を正確に理解し、混乱なく実務を遂行できる能力と忠誠心を、直家が高く評価していたことを示している。
彼の家中における傑出した地位は、その知行高にも明確に表れている。秀安の知行は 二万五千石余 に達し、これは宇喜多一門の明石氏に次ぐ、家臣団では実質的な筆頭格の待遇であった 4 。この石高は、方面軍司令官クラスに匹敵するものであり、彼の政治的・経済的影響力の大きさを物語っている。
謀略家として知られ、自らは城に籠って策を巡らすことの多かった主君・直家。その直家を「静」とするならば、その意を受けて実際に軍を動かし、占領地の統治にあたる秀安は、まさに「動」の存在であった。直家の領国拡大という壮大な事業は、彼の謀略と、秀安ら腹心の将の実行力が両輪となって初めて成し遂げられたのである。この強固なパートナーシップこそが、宇喜多家の躍進を支えた核心であった。
宇喜多氏が備前一国をほぼ手中に収めた後、戸川秀安は備前南部の要衝・常山城の城主として、新たな役割を担うことになる。戦場での活躍から一歩進み、領地を治める為政者としての一面が、この時代に顕著となる。
天正3年(1575年)、戸川秀安は常山城(現在の岡山県玉野市)の城主に任じられた 18 。この城は、彼が入城する以前、戦国史に残る悲劇の舞台であった。備中兵乱の最終局面において、城主・上野隆徳とその妻・鶴姫が毛利の大軍に攻められ、鶴姫は三十四人の侍女たちと共に薙刀を振るって奮戦したものの、壮絶な自害を遂げたという「常山女軍哀詩」の伝承が残る地である 21 。
秀安は、この悲劇の城を、毛利氏の海上勢力に対する備えとして、また児島半島を統治する拠点として、堅固な近世城郭へと生まれ変わらせた。現在、城跡に見られる石垣を多用した遺構の多くは、この戸川氏の時代に大規模な改修が行われた結果であると考えられている 21 。過去の悲劇に感傷的になるのではなく、城が持つ戦略的価値を最大限に引き出すことを優先したこの改修事業は、秀安が感傷に流されない現実主義的な戦略家であり、領国防衛の全体像を把握して必要なインフラ整備を断行できる、優れた為政者であったことを示している。
絶対的な主君であった宇喜多直家が天正9年(1581年)に病没し、その子・秀家がわずか10歳で家督を継ぐと、宇喜多家は大きな転換期を迎える。この激動の時代の始まりにあって、秀安は意外な決断を下す。天正10年(1582年)頃、まだ45歳前後であったにもかかわらず、早々に家督を嫡男・達安に譲り、自らは隠居の道を選んだのである 3 。
彼は「自任斎枋授 友林 (ゆうりん)」と号し、政治の第一線から退いた 3 。この早すぎる隠居の理由は定かではない。長年仕えた主君・直家の死に殉じるような心境であったのか、あるいは、叔父の宇喜多忠家や他の宿老たちによる集団指導体制が確立されたことを見届け、新当主・秀家の下で息子・達安に実戦経験を積ませ、円滑な世代交代を図ろうとした深慮遠謀であったのかもしれない。いずれにせよ、権力そのものに固執しない彼の恬淡とした性格が窺える。
伝承によれば、隠居後の秀安は熱心な仏教徒として、また温厚な人柄で知られ、愛着のある常山城の麓に住み、領民と親しく交わりながら穏やかな日々を過ごしたという 21 。戦場での勇猛さとは対照的なこの姿は、彼の人間的な深みを示している。
慶長2年(1597年)9月6日、秀安は常山の地でその生涯を閉じた。享年60 1 。その亡骸は、彼の号を冠した
友林堂 に葬られ、今も常山の麓に静かに眠っている 3 。しかし、彼が築いた平穏は長くは続かなかった。彼という絶対的な重石を失った宇喜多家は、彼の死後わずか2年にして、分裂の危機へと突き進んでいくことになる。
戸川秀安の死は、単に一人の名将が世を去ったというだけではなかった。それは、宇喜多家という巨大な組織の内部に存在した歪みを露呈させ、やがて家そのものを崩壊へと導く巨大な亀裂を生む引き金となった。しかし、その混乱の中から、戸川家は新たな時代の活路を見出し、近世大名として生き残るという劇的な運命を辿る。
秀安が没した2年後の慶長4年(1599年)、宇喜多家を根底から揺るがす内紛、**「宇喜多騒動」**が勃発した 26 。
この騒動の核心にあったのは、二つの対立軸であった。一つは、戸川達安、岡貞綱、花房正成ら、父・直家の代から仕える譜代の武断派家臣団。もう一つは、若き当主・宇喜多秀家が寵愛し、家中の実権を握りつつあった新参の文治派側近・ 中村次郎兵衛 である 16 。
対立の原因は複合的であった。豊臣秀吉の庇護の下で貴公子として育った秀家と、叩き上げの父・直家と共に苦難を乗り越えてきた譜代家臣団との間には、埋めがたい価値観の相違があった 29 。また、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)による莫大な戦費負担や、秀家の豪奢な生活によって宇喜多家の財政は逼迫しており、中村次郎兵衛らが断行した増税を伴う検地(文禄検地)は、家臣や領民の不満を増大させていた 31 。さらに、秀家夫妻がキリスト教に好意的であったのに対し、達安ら譜代家臣の多くは熱心な日蓮宗徒であり、根深い宗教的対立も存在した 28 。
達安らは中村の罷免を秀家に強く迫ったが、秀家はこれを拒否。事態は一触即発の状況となり、達安らは大坂の屋敷に立てこもった 32 。この前代未聞の家中騒動の調停に乗り出したのが、五大老筆頭の徳川家康であった。最終的に家康の裁定により、騒動は鎮圧されたものの、その代償は大きかった。達安、岡、花房といった宇喜多家の中核を担うべき譜代の重臣たちが、一斉に宇喜多家を退去することになったのである 24 。
この騒動を振り返る時、戸川秀安の不在が決定的な意味を持っていたことは明らかである。もし秀安が生きていれば、譜代家臣団の筆頭として、また主家への絶対的な忠誠心を持つ重鎮として、両者の間に立つ「緩衝材」の役割を果たし得たであろう。彼の政治力と人望は、家臣団の不満を吸収しつつ、主君・秀家に対して穏当な形で諫言することを可能にしたはずである。しかし、彼という「重石」を失ったことで、宇喜多家中の権力バランスは崩壊した。父ほどの政治的柔軟性や秀家との個人的な信頼関係を持たなかった息子・達安は、原理原則を掲げて新参の中村らと正面から衝突した。宇喜多騒動とは、秀安の死によって生じた権力の空洞化が招いた、必然の悲劇であった。
宇喜多家を離れた戸川達安の選択は、結果的に一族の運命を大きく変えることになる。彼は徳川家康の庇護下に入り、来るべき天下分け目の決戦に備えた 7 。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、達安は迷わず東軍に与した。宇喜多家が西軍の主力として1万7000の大軍を率いて参陣したのとは対照的であった。達安は前哨戦である木曽川・合渡川の戦いで一番槍の功名を挙げるなど、東軍の勝利に貢献した 7 。
さらに、本戦において西軍最強と謳われた勇将・**島清興(左近)**を討ち取ったという伝承も残されている 7。この戦功の証として達安が持ち帰ったとされる兜は、後に徳川家康に献上され、久能山東照宮に現存するとも言われる 7。この目覚ましい活躍は、徳川方における彼の評価を決定的なものにした。
戦後、西軍に与した宇喜多秀家は改易となり、八丈島へと流罪になった 29 。その一方で、東軍で功を挙げた戸川達安は、家康から備中国都宇郡・賀陽郡内に
二万九千二百石 の所領を与えられ、 備中庭瀬藩の初代藩主 として大名の列に加わった 33 。かつての主家が滅び、その旧臣が新たな大名として取り立てられるという、戦国乱世の終焉を象徴する出来事であった。
表2:戸川家のその後(庭瀬藩と旗本分家)
家系 |
初代当主 |
石高 |
拠点(備中国) |
備考 |
庭瀬藩 戸川家(宗家) |
戸川達安 |
29,200石 |
庭瀬 |
4代藩主・安風の代に無嗣断絶 37 。 |
旗本 早島戸川家 |
戸川安尤(達安の三男) |
3,400石 |
早島 |
幕末まで存続 6 。 |
旗本 帯江戸川家 |
戸川安利(達安の四男) |
3,300石 |
帯江 |
幕末まで存続 6 。 |
旗本 妹尾戸川家 |
戸川安成(3代藩主の弟) |
1,500石 |
妹尾 |
幕末まで存続 6 。 |
庭瀬藩の宗家は4代で断絶するものの、達安が分与した分家は旗本として幕府に仕え、明治維新に至るまでその家名を存続させた。宇喜多秀安が築いた礎は、宇喜多家という枠組みを超え、徳川の世で新たな形で花開いたのである。
戸川秀安は、宇喜多直家という稀代の梟雄が描いた覇業を、軍事と行政の両面から支え抜いた第一の功臣であった。彼の智勇と、主君からの絶対的な信頼なくして、宇喜多氏が備前・美作57万石の大大名へとのし上がることは不可能であっただろう。彼の生涯は、主君への揺るぎない忠誠を貫いた「戦国武将の鑑」として、後世に記憶されている。
しかし、歴史の皮肉は、彼の死が宇喜多家内部の脆弱性を露呈させ、結果として家中の分裂と衰退を招く引き金となった点にある。彼という絶対的な調停者を失った宇喜多家は、内部崩壊の道を突き進み、関ヶ原でその歴史に幕を閉じた。
ここに、一つの歴史的なパラドックスが浮かび上がる。秀安が生涯をかけて体現した「主君個人への忠誠」という戦国時代の価値観。そして、その息子・達安が下した「主家離反による家の存続」という近世的な決断。一見、この二つの行動は矛盾しているように映る。
だが、これは戦国乱世から徳川幕藩体制へと移行する時代の、価値観の大きな転換を象徴している。秀安が生きた時代では、主君と運命を共にすることが武士の美徳であった。しかし、豊臣政権が崩壊し、徳川が新たな支配者として君臨する時代の過渡期において、滅びゆく主家に殉じることは、一族の断絶を意味した。達安の選択は、旧来の「忠義」から、何よりも「家(いえ)」を存続させることを最優先する、近世武士の新たな「家臣道」への移行を示すものであった。
したがって、戸川秀安の歴史的評価は、彼個人の功績に留まるものではない。彼の生涯と死、そしてその後の息子の決断を通じて、我々は武士の忠誠観が大きく変質していく時代のダイナミズムを垣間見ることができる。戸川秀安が築いた礎は、宇喜多家という枠組みの中では完成を見なかった。しかし、それは形を変え、徳川の世で大名・旗本として存続する「戸川家」の礎として、その真価を発揮したのである。彼は、一人の忠臣であると同時に、戦国から近世へと続く、一つの武家の物語の偉大なる創始者であった。