戦国時代の出羽国(現在の秋田県、山形県)に、その武勇を「鬼九郎」「夜叉九郎」と称され、近隣の諸大名から恐れられた武将がいた。戸沢家第18代当主、戸沢盛安である 1 。彼の生涯は、わずか25年という短いものでありながら、智勇に優れた逸話の数々で彩られ、東北の地に鮮烈な輝きを放った。
しかし、その輝かしい武勇伝の陰で、歴史の片隅に追いやられた一人の男がいた。盛安の実兄であり、一度は戸沢家第17代当主の座に就いた人物、戸沢盛重(とざわ もりしげ)である 4 。彼の名は、弟・盛安の華々しい活躍を語る文脈で、しばしば「病弱であった兄」として触れられるに過ぎない。
本報告書は、この歴史の影に埋もれた人物、戸沢盛重の生涯を徹底的に追跡し、その実像に迫るものである。利用者が提示した「病弱のため、早くに家督を弟・盛安に譲って出家する。のちに還俗し戸沢政重の養子となった」という概要 [User Query] は、彼の複雑な人生の断片に過ぎない。本稿では、この情報を出発点とし、彼がなぜ家督を譲らねばならなかったのか、なぜ一度は捨てた俗世に還り、そしてなぜ実弟に対して謀反という破滅的な道を選んだのか、その背景にある人間模様と歴史の力学を丹念に解き明かす。
盛重の生涯は、戦国武家に課せられた家督相続の非情さ、嫡男としての期待と重圧、そして弟への嫉妬と屈辱という兄弟間の葛藤を色濃く映し出している。さらに、彼の運命は、織田信長、豊臣秀吉といった中央政権の台頭によって激変する時代の波に、地方の国人領主がいかに翻弄されたかを示す貴重な事例でもある。盛重の悲劇的な物語を通じて、戦国という時代の英雄譚の裏に隠された、無数の敗者たちの声なき声に耳を傾け、歴史の多層的な理解を目指す。
戸沢盛重の生涯を理解するためには、まず彼が背負っていた「戸沢家」という家の歴史と、彼らが置かれていた出羽国仙北郡の地政学的な状況を把握する必要がある。
戸沢氏の家伝によれば、その出自は桓武平氏の血を引くとされ、鎌倉時代初期には陸奥国岩手郡滴石(しずくいし、現在の岩手県雫石町)を本拠としていたと伝えられている 5 。しかし、これは多くの戦国大名が自らの権威を高めるために行った系譜の潤色であり、史料上でその存在が確認できるのは15世紀末からである 1 。
確かなことは、戸沢氏が当初の拠点であった滴石から、強大な隣人であった南部氏の圧迫を受けて西へ移動し、出羽国仙北郡(当時は山本郡)の門屋(かどや、現在の秋田県仙北市)へと拠点を移したことである 7 。この西遷は、戸沢氏が常に大勢力との緊張関係の中で、巧みな戦略によって家の存続を図ってきたことを示唆している。
そして15世紀末、戸沢秀盛の代に、一族はさらに南下して小松山城(後の角館城)を攻略し、ここを新たな本拠とした 7 。角館は周囲を山と川に囲まれた天然の要害であり、この地を得たことで、戸沢氏は仙北郡における戦国大名としての地位を本格的に確立していくことになる。
角館を本拠とした戸沢氏は、北の安東(秋田)氏、南の小野寺氏という二大勢力に挟まれる形で、絶え間ない抗争を繰り広げた 1 。彼らの歴史は、まさにこの両勢力との戦いの歴史であったと言っても過言ではない。
特に盛重の祖父・戸沢秀盛の時代には、外部勢力の調略が家中の内紛を誘発する危機も経験している。大永7年(1527年)の安東氏との合戦の際、秀盛の弟で前線の淀川城主であった戸沢忠盛が安東方へ寝返ったとの風聞が流れ、領内が動揺した 11 。この時は忠盛自らの弁明で事なきを得たが、一族の結束の脆さを露呈する事件であった。
さらに、盛重の父である戸沢道盛(みちもり)がわずか6歳で家督を継いだ際には、後見人であった叔父の忠盛が、安東氏の後ろ盾を得て家督を簒奪しようと謀反を起こした 8 。この時、幼い道盛は一時城を追われる事態に陥るが、戸沢家の家臣団は忠盛の野心を支持しなかった。楢岡氏をはじめとする一門や重臣たちは、逆に団結して忠盛に圧力をかけ、彼を追放して道盛を角館城に復帰させたのである 7 。
この事件は、後の盛重の運命を考える上で極めて重要な意味を持つ。それは、戸沢家の家臣団が、当主個人の血縁や野心よりも、「家」そのものの存続と正統な家督継承者を守ることを最優先するという強固な行動規範を持っていたことを示す、最初の成功体験となったからである。彼らは自らの手で内乱を収拾し、家の分裂を防いだ。この「家の秩序を守る」という不文律は、家臣団の中に深く根付き、数十年後の盛重の謀反に対する彼らの行動を決定づけることになる。
戸沢道盛の嫡男として生まれた盛重は、本来であれば何事もなく父の跡を継ぎ、戦国大名としてその生涯を終えるはずであった。しかし、彼の運命は大きく狂い始める。
戸沢盛重は、天文20年(1551年)、出羽角館城主・戸沢道盛の嫡男として生を受けた 4 。父・道盛は、前述の通り幼少期の家督争いを乗り越え、小野寺氏や安東氏との激しい抗争の中で戸沢家の版図を拡大した人物である。
ここで注目すべきは、父・道盛の没年について二つの説が存在することである。『戦国人名事典』などでは慶長9年(1604年)に孫の政盛の移封先である常陸国で死去したとする一方、『最上郡史料叢書』に収録された「戸沢年譜」は天正6年(1578年)に53歳で死去したという異説を載せている 13 。もし後者の説が正しければ、盛重は父の死に伴って家督を継いだことになる。しかし、前者の1604年没説が事実であれば、道盛は息子である盛重の家督委譲、出家、還俗、そして謀反と死という、その波乱の生涯の全てを見届けた上で、さらに孫の政盛が近世大名として再生する過程までを見守ったことになる。このどちらの説を取るかによって、盛重の行動に対する父の関与や心境の解釈は大きく変わってくるが、本稿ではより多くの史料で支持される1604年没説を念頭に置きつつ、議論を進める。
いずれにせよ、盛重は父の隠居または死に伴い、戸沢家第17代当主として角館城主となった 4 。しかし、その治世は長くは続かなかった。天正6年(1578年)、盛重は家督を15歳年下の弟・盛安に譲るのである 2 。この時、盛安はわずか13歳であった。
公式な家督委譲の理由は「病弱」であったと、多くの記録が一致して伝えている 2 。しかし、戦国時代において「病弱」という理由は、必ずしも身体的な虚弱さのみを指すとは限らない。当主としての器量不足、政治的判断力の欠如、あるいは家臣団からの支持を得られなかった事実を糊塗するための、一種の政治的な常套句として用いられることも少なくなかった 15 。
この家督交代劇の裏には、家臣団の強い意向が働いていた可能性が指摘できる。弟の盛安は、13歳という若さにもかかわらず、すでに「鬼九郎」の異名をとるほどの勇将としての片鱗を見せていた 1 。周辺を強力な敵に囲まれ、一瞬の油断も許されない状況にあった戸沢家にとって、より有能で強力な指導者を戴くことは、家の存亡に関わる死活問題であった。家臣団が、将来有望な盛安を擁立し、盛重に隠居を迫ったというシナリオは十分に考えられる。盛重が本当に病弱であったのか、それとも当主としての資質を問われたのか、真相は定かではない。しかし、結果として彼は、嫡男でありながら家の頂点から引きずり下ろされることになったのである。
家督を譲った盛重が選んだ道は、出家であった 3 。戦国時代、家督争いに敗れたり、自ら身を引いたりした者が仏門に入るのは、ごく一般的な処世術であった 15 。僧籍に入ることは、俗世の権力や家督への野心を完全に放棄したことを内外に示す政治的な意思表示であり、新たな当主となった弟や家臣団を安心させ、自らの身の安全を確保するための最も確実な手段だったのである。この時点での盛重は、権力闘争の舞台から完全に降り、静かな余生を送ることを選んだかに見えた。
一度は仏門に入り、俗世との縁を断ったはずの盛重であったが、彼の人生は再び大きく転回する。それは、彼にとってさらなる屈辱の始まりであった。
しばらくの後、盛重は還俗(げんぞく)、すなわち僧侶の身分を捨てて俗人に戻るという、異例の決断を下す 4 。そして、戸沢一門の長老であった戸沢政重(とざわ まさしげ)の養子となったのである 4 。この政重は、盛重の祖父・秀盛の弟にあたる人物で、つまり盛重から見れば大叔父にあたる 18 。政重は三代にわたって戸沢家に仕え、一門衆の重鎮として家中で大きな影響力を持っていた 18 。
この養子縁組によって、盛重は戸沢氏の支流である「小館(こだて)氏」の当主となり、「小館盛重」と名乗ることになった 8 。小館氏は、戸沢氏が門屋から角館へ進出する以前の拠点であった門屋小館に由来する一門であり、角館城下の一角に屋敷を構えていたとされる 7 。
この一連の動きは、盛重の社会的地位を劇的に、そして決定的に変えた。彼はもはや戸沢家の前当主ではない。彼は、戸沢宗家の当主、すなわち実の弟である盛安に仕える数ある家臣の一人、一門衆の筆頭格という立場に成り下がったのである 3 。
以下の表は、盛重の生涯における地位の変遷と、それに伴う状況の変化をまとめたものである。
段階 |
地位 |
主な権利・立場 |
家臣団との関係 |
推定される心理状態 |
第一段階 |
戸沢宗家 第17代当主 |
領国全体の統治権、家臣の任免権、軍事指揮権 |
主君として絶対的な忠誠を受ける |
当主としての責任と誇り |
第二段階 |
出家(僧籍) |
俗世の権力からの離脱、身の安全の確保 |
庇護の対象 |
安堵と諦念、あるいは無力感 |
第三段階 |
分家「小館氏」当主 |
一門衆としての家臣の身分、弟である宗家当主への奉仕義務 |
主君(弟)に仕える臣下 |
屈辱、不満、嫉妬、権力への渇望 |
この表が示すように、一度は家臣団の頂点に君臨した人物が、出家を経て、今度はその家臣団の一員として、かつて家督を譲った実の弟に頭を下げなければならない。この身分上の転落が、盛重の自尊心をいかに深く傷つけたかは想像に難くない。史料が「その身分に不満を抱き」と明確に記述している通り 4 、この屈辱こそが、彼を後の謀反へと駆り立てる最大の動機となったのである。
この複雑な経緯から、戸沢家の公式な系図の中には、盛重を宗家の正当な世系から外し、彼の当主としての存在そのものを意図的に軽視、あるいは抹消しようとする扱いが見られる 11 。彼は、生きながらにして戸沢家の歴史から消されようとしていた。
天正18年(1590年)、盛重にとって積年の鬱屈を晴らす最大の好機が訪れる。しかしそれは、彼の人生を破滅に導く致命的な誤算でもあった。
この年、天下統一を目前にした豊臣秀吉は、関東に覇を唱える後北条氏を討つべく、大軍を率いて小田原城を包囲した(小田原征伐) 2 。秀吉はこれに先立ち、全国の諸大名に対して小田原への参陣を厳命。これに応じるか否かは、大名家の存亡を文字通り分ける踏み絵となった 21 。参陣しなかった大崎氏や葛西氏といった東北の名門が、戦わずして改易(領地没収)された「奥州仕置」がその厳しさを物語っている 22 。
この歴史の岐路において、弟の戸沢盛安は迅速に行動した。彼は商人に変装して敵地を抜け、途中、増水した大井川を泳いで渡って秀吉のもとに馳せ参じたという逸話が残るほど、必死の参陣を果たした 2 。この忠誠心が秀吉に高く評価され、戸沢家は北浦郡4万4千石の所領を安堵された 2 。これにより、戸沢家は戦国大名から近世大名へと脱皮し、家を存続させる道を確保したのである。
盛安が主力の家臣を率いて関東へ出陣し、角館が手薄になった。盛重はこの千載一遇の好機を逃さなかった。彼は積年の恨みを晴らし、家督を奪還すべく、ついに謀反の兵を挙げたのである 8 。
盛重がまず標的としたのは、角館の留守居役を任されていた一門の重臣・門屋宗盛(かどや むねもり)であった。彼は宗盛の屋敷を急襲し、これを殺害する 8 。門屋氏は、戸沢氏が角館に移る以前の本拠地であった門屋城を代々任されてきた譜代の重臣一族である 25 。その当主を殺害するという行為は、単なる私怨によるものではなく、盛安が築いた支配体制そのものに対する明確な挑戦であり、宣戦布告に他ならなかった。
しかし、盛重の目論見は大きく外れる。彼の謀反に対し、角館に残っていた他の家臣たちは誰一人として与しなかった。それどころか、彼らは即座に一致団結し、反乱の鎮圧に動いたのである 3 。
この家臣団の迅速な対応の背景には、単に当主・盛安への個人的な忠誠心だけでは説明できない、より高度な政治的判断があった。天正18年という年は、秀吉による天下統一が完成し、新たな秩序が日本全土を覆い尽くそうとしていた時期である。家臣たちは、このような天下の情勢下で内紛を起こすことが、いかに危険な行為であるかを痛いほど理解していた。もしこの謀反が長引いたり、あるいは盛重が一時的にでも角館を占拠するような事態になれば、戸沢家は「主君の留守中に内乱を起こす統治能力のない家」と見なされ、秀吉から所領安堵を取り消され、改易される危険性が極めて高かった。
彼らの行動は、かつて道盛の代に叔父・忠盛の謀反を鎮圧した成功体験に根差している。あの時と同様、家臣団は個人の野心よりも「お家」の存続を最優先した。盛安が中央政権との協調路線によって確保した家の未来を、盛重の時代錯誤な反乱によって台無しにされてはならない。この極めて合理的で政治的な判断が、彼らを結束させ、盛重を「家の秩序を乱す敵」として迅速に排除させたのである。盛重の最大の好機は、彼自身の政治感覚の欠如と、家臣団の成長によって、最悪の誤算へと変わった。
家臣団にまで見捨てられた盛重に、もはや故郷に居場所はなかった。彼の人生は、逃亡と客死という、最も惨めな形で終幕を迎える。
謀反に失敗し、追われる身となった盛重が逃亡先に選んだのは、皮肉にも長年にわたる戸沢家の宿敵、小野寺義道(おのでら よしみち)の領地であった 8 。戸沢氏と小野寺氏は、仙北地方の覇権を巡って幾度となく干戈を交えてきた間柄であり、盛重の亡命は極めて異例の事態であった 1 。
小野寺義道が、敵対する戸沢家の前当主であり、現当主の実兄である盛重を受け入れた背景には、冷徹な政治的計算があったと考えられる。戦国時代、敵対勢力からの亡命者は、相手方の内情を探る貴重な情報源であると同時に、将来的に相手を揺さぶるための外交カード、あるいは軍事介入の口実として利用価値があった 30 。義道は盛重を庇護することで、戸沢家に対する有効な「駒」を手に入れたと考えていたのかもしれない。
しかし、小野寺氏の駒として盛重が再び歴史の表舞台に立つことはなかった。亡命後の彼の具体的な動向を伝える史料はほとんど残されていない。
確かなことは、彼が謀反からわずか2年後の文禄元年(1592年)に死去したという事実だけである 4 。享年42。その死が、失意のうちの病死であったのか、あるいは亡命先で不慮の死を遂げたのか、その詳細は歴史の闇に葬られている。
奇しくもこの文禄元年は、弟・盛安の跡を継いだもう一人の弟・光盛が、秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)に従軍する途中、播磨国姫路で病没した年でもあった 8 。戸沢家が当主の相次ぐ死という最大の危機に見舞われる中、かつてその家の当主であった盛重は、宿敵の領地で誰に看取られることもなく、その波乱の生涯を閉じた可能性が高い。彼の死は、故郷の誰にも悼まれることはなかったであろう。
戸沢盛重という一人の男の悲劇とは対照的に、彼が反旗を翻した「戸沢家」は、その後の危機を乗り越え、近世大名として新たな時代を生き抜いていく。
盛安、光盛という二人の当主を相次いで失った戸沢家であったが、盛重の謀反を鎮圧した忠実な家臣団が再びその力を発揮する。彼らは、小田原で病死した盛安が遺したわずか4歳の嫡男・政盛を新たな当主として擁立した。そして、当時すでに天下の実権を握りつつあった徳川家康の斡旋を得て豊臣秀吉に家督相続を認めさせ、見事に家の存続を成功させたのである 6 。
この幼き当主・政盛は、家臣団の補佐のもと、関ヶ原の戦いでは父・盛安の中央志向を受け継いで東軍に与し、戦功を挙げた。その結果、慶長7年(1602年)、常陸国松岡に4万石で加増転封される 32 。さらに元和8年(1622年)には、出羽国新庄に6万石で移され、新庄藩初代藩主となった。以後、戸沢家は一度の国替えもなく、明治維新に至るまで約250年間にわたり新庄の地を治める大名家として繁栄した 34 。
戸沢盛重の生涯は、一個人のプライドや野心が、「家」の存続という戦国武家の至上命題の前ではいかに無力であったかを示す、痛切な悲劇である。彼が抱いたであろう当主の座への渇望や弟への嫉妬は、人間として自然な感情であったかもしれない。しかし、時代の大きなうねりの中で、その感情は「お家」を滅ぼしかねない危険なものとして、彼がかつて率いた家臣団自身によって断罪された。
彼の謀反と、それに対する家臣団の行動は、戦国時代後期から近世へと移行する中で、武士の忠誠の対象が「個人としての殿様」から「組織としての永続的なお家」へと変化していく、過渡期の様相を明確に示している。家臣団は、もはや当主個人の器量や血縁の正統性だけで動くのではなく、家全体の利益と存続可能性を冷静に判断する、政治的な集団へと成長していたのである。
もし盛重が家督を継ぎ続けていたら、戸沢家は安東氏や小野寺氏との抗争の果てに消耗し、秀吉の天下統一の波を乗り切れずに消滅していたかもしれない。もし彼に弟・盛安ほどの器量があれば、あるいはもし彼が還俗後の屈辱的な地位に甘んじていれば、その後の人生は違ったものになっていたであろう。
しかし、歴史に「もし」はない。歴史は彼を、「鬼九郎」盛安の輝かしい功績の影に隠れ、家の礎からその名を抹消された「忘れられた当主」として記録した。戸沢盛重の物語は、華々しい英雄譚の裏側にある、無数の敗者たちの声なき物語の一つとして、戦国という時代の非情さと複雑さを、現代の我々に静かに語りかけている。