戦国時代の東北地方にその名を刻んだ武将は数多い。しかし、その多くは伊達政宗のような天下に野心を抱いた英雄か、あるいは悲劇的な最期を遂げた武将たちである。本報告書が光を当てる戸沢道盛(とざわ みちもり)は、そうした華々しい人物ではない。彼は、「鬼九郎」「夜叉九郎」と恐れられた出羽の驍将・戸沢盛安の父であり、江戸時代に新庄藩主として家名を存続させた戸沢政盛の祖父として、歴史の中に名を留めている 1 。子や孫の輝かしい功績の陰で、道盛自身の生涯や業績は、これまで十分に語られてこなかった。
戸沢道盛という人物を理解する上で、避けては通れない大きな謎が存在する。それは、彼の没年に関する二つの全く異なる記録である。一つは、『最上郡史料叢書』などが記す天正6年(1578年)に53歳で死去したという説。もう一つは、『戦国人名事典』などが採用する慶長9年(1604年)に81歳で死去したという説である 1 。この26年にも及ぶ隔たりは、単なる年代の誤記という問題に留まらない。もし天正6年に没していたならば、彼の人生は領土をいくらか広げ、息子に家督を譲って間もなく世を去った、典型的な地方の戦国大名として完結する。しかし、慶長9年まで生きていたとすれば、彼の人生は全く異なる様相を呈する。当主としての「動」の時代を終えた後、息子・盛安の栄光と夭折、孫・政盛の家督相続、豊臣政権の確立と崩壊、関ヶ原の戦い、そして徳川幕藩体制の黎明期という、日本史上最も劇的な転換期を「大いなる隠居」として、その目で見届けたことになるのである。
本報告書は、より多くの史料的状況証拠が示唆する慶長9年(1604年)没説を主軸に据え、戸沢道盛の生涯を再構築することを試みる。これにより、単なる一地方の戦国武将という評価を超え、時代の激変を生き抜き、一族存続の礎を築いた「守成の武将」として、そして近世の誕生を見届けた長老としての道盛の実像に迫ることを目的とする。
戸沢道盛の生涯を理解するためには、まず彼が背負った一族の歴史と、彼が生きた時代の出羽国の情勢を把握する必要がある。
戸沢氏の家伝によれば、その出自は桓武平氏に遡り、陸奥国岩手郡滴石庄(現在の岩手県雫石町)を名字の地としたとされる 3 。しかし、鎌倉時代を通じて北方から勢力を伸長させてきた南部氏の圧迫を受け、一族は存続のために新たな活路を見出さざるを得なかった。その結果、彼らは故地を離れ、奥羽山脈を越えて出羽国仙北郡の門屋(現在の秋田県仙北市)へと進出した 4 。これが、出羽戸沢氏の始まりである。
確実な史料としてその名が登場するのは15世紀後半、長享3年(1489年)の神宮寺八幡宮の棟札に「平朝臣飛騨守家盛」の名が見えるのが初見であり、この家盛が戸沢氏の当主であったと考えられている 4 。そして、この家盛の子、あるいは孫にあたる道盛の祖父・戸沢秀盛の治世であった文明年間(1469年-1487年)に、一族は本拠地を門屋から角館へと移した 4 。四方を山に囲まれ、防御に適した角館の地に城を構えたことで、戸沢氏は仙北地方における戦国大名としての確固たる基盤を築き上げたのである。
しかし、その地理的条件は、同時に戸沢氏を絶え間ない緊張状態に置くことになった。道盛が生誕した大永4年(1524年)頃の出羽国は、中央の権威が全く及ばない、実力のみがものをいう群雄割拠の時代であった。戸沢氏が本拠を置く仙北地方は、まさに強大な勢力の緩衝地帯であった。北には、檜山城と湊城を拠点に日本海交易を掌握する安東(秋田)氏が覇を唱え、南には、横手城を本拠として仙南から由利郡にまで影響力を持つ小野寺氏が勢力を誇っていた 7 。さらに東には、山形を拠点に最上郡、村山郡へと勢力を拡大しつつある最上氏が虎視眈々と機会を窺い、陸奥国からは巨大な戦国大名である伊達氏がその影響力を及ぼそうとしていた 10 。
このような状況下で、戸沢氏の歴史は、常に周辺の強大な勢力との間でいかにして生き残るかという、絶え間ない闘争の記録であった。南部氏の圧迫から逃れてきた歴史が示すように、彼らは常に外部からの圧力に対応する形でその存続を図ってきた。特に、北の安東氏と南の小野寺氏という二大勢力に挟まれた立地は、常に二正面作戦を強いられる危険性をはらんでおり、仙北三郡(北浦、中郡、上浦)の覇権を巡る争いは常態化していた 4 。この地政学的な宿命が、戸沢氏の歴代当主に、武力だけでなく、婚姻や一時的な和睦を巧みに使いこなす、極めて現実的で柔軟な戦略眼を求め続けたのである。戸沢道盛の治世に見られる巧みな立ち回りは、まさにこうした一族の歴史的経験の産物であったと言えよう。
大永4年(1524年)、戸沢道盛は戸沢家15代当主・秀盛の嫡男として、角館城で生を受けた。通称は平九郎と伝わる 1 。彼の母は、仙北の有力国人であった楢岡長祐の娘であった 1 。この婚姻は、在地勢力との連携を深め、戸沢氏の支配基盤を固めるための重要な政略結婚であり、道盛は生まれながらにして仙北地方の複雑な力関係の中に位置づけられていた。
しかし、彼の人生の船出は決して順風満帆ではなかった。父・秀盛の死により、道盛はわずか6歳(数え年)という幼さで家督を継ぐことになった 6 。若年の当主の出現は、ただでさえ不安定な戦国の世において、家中の動揺を招く格好の要因となる。案の定、道盛は叔父にあたる戸沢忠盛の謀反に遭い、本拠である角館城を追われるという、一族の存亡に関わる最大の危機に直面した 6 。
史料には、この追放からいかにして彼が角館城主として復帰したかの具体的な経緯は記されていない。しかし、母方の実家である楢岡氏をはじめとする、父・秀盛恩顧の家臣団の支援があったことは想像に難くない。権力の頂点から、最も信頼すべき身内の裏切りによって奈落の底へと突き落とされたこの経験は、道盛の人格形成に強烈な影響を与えたはずである。力なき当主がいかに脆い存在であるかを身をもって知った彼は、権力基盤の安定、すなわち家中の掌握と、外部勢力との確実な同盟関係の構築こそが、当主として最も優先すべき課題であると痛感したであろう。彼の治世に見られる、敵対と和睦を巧みに使い分ける現実主義的な外交や、有力国人との婚姻政策は、この幼少期の原体験から学んだ「二度と足元を掬われない」という強い意志の表れと解釈できる。彼は、いたずらに領土拡大を目指す攻撃的な覇者ではなく、まず自らの地盤を盤石にすることに心血を注いだ「守成の武将」としての道を歩むことになったのである。
西暦(和暦) |
戸沢道盛(年齢)の動向 |
戸沢盛安の動向 |
戸沢政盛の動向 |
戸沢家・周辺情勢 |
典拠 |
1524(大永4) |
誕生(1歳) |
- |
- |
父・秀盛が当主 |
1 |
c.1530 |
幼少で家督相続、叔父に追放される |
- |
- |
家中不安定化 |
6 |
1547(天文16) |
淀川城・荒川城を攻略(24歳) |
- |
- |
安東氏に対し優位に立つ |
4 |
1566(永禄9) |
(43歳) |
誕生 |
- |
|
2 |
1578(天正6) |
隠居(55歳)。家督を盛安に譲る |
13歳で家督相続 |
- |
(異説ではこの年に死去) |
1 |
1585(天正13) |
(62歳) |
(20歳) |
誕生 |
|
14 |
1587(天正15) |
(64歳) |
唐松野の合戦で安東氏を破る |
(3歳) |
戸沢家、仙北での覇権確立 |
16 |
1590(天正18) |
(67歳) |
小田原参陣中に病没(享年25) |
(6歳) |
叔父・光盛が家督継承 |
13 |
1592(文禄元) |
(69歳) |
- |
(8歳) |
光盛が病没。政盛が家督継承 |
18 |
1600(慶長5) |
(77歳) |
- |
東軍に属し関ヶ原の戦いに参陣 |
最上氏と共に上杉勢と対峙 |
18 |
1602(慶長7) |
常陸へ移封(79歳) |
- |
常陸松岡・小河4万石の領主となる |
近世大名への転身 |
18 |
1604(慶長9) |
常陸小河城にて死去(享年81) |
- |
(20歳) |
|
1 |
角館城主として復帰した道盛は、内憂を克服した後、一族の生存を賭けた外患へと対処していく。彼の統治は、単なる武力一辺倒でも、弱腰な外交一辺倒でもない、自家の国力と敵との力関係を冷静に分析し、最も効率的かつ損害の少ない方法を選択する、高度な政治判断に貫かれていた。
道盛の治世において、最大の脅威であり続けたのが北の安東氏であった。戸沢氏が仙北地方で勢力を固めるためには、安東氏の南下を阻止する必要があった。両者の争いは一進一退を続けたが、天文14年(1545年)には、戸沢氏の重要拠点であった淀川城を安東氏によって奪われるという苦杯を喫している 4 。しかし、道盛はここで屈しなかった。2年後の天文16年(1547年)、彼は反攻に転じ、淀川城を武力で奪還。勢いに乗って荒川城をも攻略した。さらに、大曲地方の有力国人であった富樫氏を臣従させることに成功し、戸沢氏の勢力は、悲願であった北浦郡全域から仙北中郡の一部にまで及ぶこととなった 4 。これは、道盛の治世における最大の軍事的功績であり、彼の武将としての力量を明確に示すものである。
一方で、南の雄・小野寺氏に対しては、異なるアプローチを見せる。小野寺氏とも仙北の覇権を巡って激しく争ったが、永正年間には、道盛の母方の実家である楢岡氏が仲介に入る形で和睦を成立させている 4 。これは、北の安東氏との対決に戦力を集中させるため、南の戦線を外交によって安定させるという、極めて合理的な戦略的判断であった。戦うべき時と、手を結ぶべき時を的確に見極める、道盛の現実主義者としての一面が窺える。
さらに道盛は、婚姻政策を巧みに利用して勢力の安定化を図った。彼は正室として、仙北中郡で独立した勢力を保っていた本堂氏の当主・本堂親条の娘を迎えた 1 。本堂氏は当初、戸沢氏と対立関係にあったが 21 、この婚姻同盟によって両家の関係は劇的に改善した。これにより、戸沢氏は南の小野寺氏に対する強力な防壁を築くとともに、本堂氏を自らの勢力圏に事実上組み込むことに成功したのである 22 。
このように、道盛の領国経営は、対安東氏に見られるような直接的な「軍事行動」と、対小野寺氏・本堂氏に見られるような「外交戦略」という二本の柱を巧みに組み合わせた、いわばハイブリッド戦略であった。彼は、自らの置かれた地政学的な困難さを深く理解し、利用できる全ての手段を駆使して、一族の生存領域を確保し、拡大していったのである。
領国の安定と拡大に成功した道盛であったが、彼の治世の後半は、後継者問題という新たな課題に直面することになる。正室・本堂氏との間には、盛重、盛安、光盛、甚盛、盛吉といった多くの子息が生まれた 1 。
嫡男として生まれた盛重は、しかし病弱であったと伝えられている 2 。一方で、次男(一説には三男)であった盛安は、早くからその非凡な武勇の才を発揮し、周囲から「鬼九郎」「夜叉九郎」と称されるほどの器量の片鱗を見せていた 13 。
そして天正6年(1578年)、道盛は突如、隠居を宣言し、家督を盛安に譲る。この時、盛安はわずか13歳であった 2 。長子相続が絶対的な原則であったこの時代において、病弱とはいえ存命であった長男・盛重を飛び越えての家督継承は、極めて異例のことであった。もし、道盛がこの年に死去したのであれば、その理由は病気によるものと単純に説明できる。しかし、慶長9年(1604年)まで生きたとすれば、彼はまだ55歳という壮健な年齢で隠居したことになる。その決断の裏には、複雑かつ深遠な戦略的意図があったと考えざるを得ない。
第一に、乱世を乗り切るための冷徹なまでの能力主義的判断である。自らが幼少期に家を追われた経験から、指導者の資質が家の存亡を左右することを誰よりも痛感していた道盛にとって、病弱な盛重では安東・小野寺といった強敵が割拠する出羽の荒波を乗り越えられないと判断した可能性は高い。
第二に、家中融和策としての側面である。盛重を当主とした場合の将来への不安を抱く家臣団と、盛安の非凡な才能に期待を寄せる家臣団との間で、将来的な対立が生まれることを予見した道盛が、先手を打って盛安を後継者に指名することで、家中の分裂を未然に防ごうとした狙いがあったのかもしれない。
第三に、院政への移行という高度な政治的判断である。自身は経験豊富な後見役として実権を握りつつ、若く勇猛な盛安を「表の顔」として自由に活動させる。これにより、老練な道盛の「守り」の統治と、若き盛安の「攻め」の武勇を両立させ、戸沢家の影響力を最大化しようとした可能性も考えられる。
いずれにせよ、この盛安への家督継承は、単なる「隠居」ではなく、戸沢家の未来を賭けた道盛の生涯で最も重要な「戦略的決断」であった。彼は、伝統や情よりも、「一族の生存」という至上命題を優先した。自らが築き上げた安定した領国という基盤を、最も能力のある後継者に引き継がせることで、その価値を最大化しようとしたのである。それは、一族の未来への、道盛からの最大の投資であったと言えよう。
天正6年(1578年)に隠居した道盛の人生は、終わりではなく、新たな幕開けであった。彼は表舞台から退いた後、26年にもわたって生き続け、一族の、そして日本の激動を、最長老として見つめ続けることになる。
道盛の期待通り、家督を継いだ息子・盛安は、その才能を遺憾なく発揮する。「夜叉九郎」の異名は出羽一国に轟き、天正15年(1587年)の唐松野の合戦では、大軍を率いて侵攻してきた安東愛季の軍勢を撃破するなど、連戦連勝を重ねた 16 。戸沢家の版図は、この盛安の時代に最大となった。しかし、その栄光はあまりにも短かった。天正18年(1590年)、天下統一を進める豊臣秀吉の小田原征伐にいち早く参陣した盛安は、その忠誠を認められ所領を安堵されるも、陣中にて突如病に倒れ、わずか25歳の若さでこの世を去った 13 。隠居の身であった道盛は、自らの判断で後継者に指名した、最も輝かしい息子の、あまりにも早すぎる死という悲劇に直面したのである。
一族の危機は続く。盛安の嫡男・政盛はまだ4歳という幼児であったため、盛安の遺言に基づき、道盛の另子であり政盛の叔父にあたる光盛が家督を継承した 13 。しかし、その光盛もまた、文禄の役(朝鮮出兵)への出陣中に姫路にて病没してしまう 18 。
相次ぐ当主の死により、戸沢家は断絶の危機に瀕した。文禄2年(1593年)、ついに道盛の孫にあたる政盛が、わずか7歳で家督を継ぐことになった 19 。通常であれば、幼い当主の家督相続は、家臣の離反や周辺勢力の侵攻を招く絶好の機会となる。しかし、戸沢家はこの最大の危機を乗り越えた。その背景には、表舞台には立たずとも、先々代当主であり、一族の最長老である道盛の存在があったことは間違いない。彼の存在そのものが、家中の求心力を維持し、外部からの干渉を牽制する「見えざる重石」として機能したのである。彼はその権威によって、若き政盛を中心とする新体制が軌道に乗るまでの時間を稼ぎ、一族の危機を救った「静かなる功労者」であったと言える。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、戸沢家は当主・政盛の名の下、東軍(徳川家康方)に与した 18 。出羽国においては、最上義光と共に西軍方の上杉景勝の勢力と対峙するという重要な役割を担った 5 。この重大な局面において、戦国乱世の機微を知り尽くした老練な道盛の助言が、まだ16歳の若き当主・政盛の判断に大きな影響を与えたことは想像に難くない。道盛の長い隠居期間は、決して平穏な余生ではなく、一族の存亡を賭けた激動の時代を、陰から支え続けるための時間だったのである。
関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わり、徳川家康が天下の実権を掌握した。東軍に与した戸沢家は、その功績を認められ、所領を安堵された。しかし、家康が推し進める全国的な大名配置換え、いわゆる「天下普請」の一環として、慶長7年(1602年)、戸沢家は先祖代々の地である出羽国角館を離れ、常陸国松岡・小河(現在の茨城県高萩市・小美玉市周辺)に4万石で移封されることとなった 18 。これは、旧領からの加増を伴う栄転であると同時に、旧来の地盤から大名を切り離し、徳川の新たな支配秩序の中に完全に組み込むという、巧みな政策であった 26 。
道盛は、当主である孫・政盛に従い、79歳という高齢で、見知らぬ新天地である常陸へと移り住んだ。この地で、孫の政盛は、中世的な国人領主の統治体制から脱却し、検地の実施や家臣団の再編成を通じて、近世大名としての新たな統治システムを確立していく。この常陸松岡時代に築かれた藩政の仕組みや、新たに召し抱えられた家臣団が、後の新庄藩経営の礎となったことは、『新庄市史』にも記されている通りである 26 。道盛は、戦国乱世の記憶を持つ最後の世代として、孫が新たな時代の支配者へと脱皮していく姿を、その最晩年に静かに見守ったのである。
そして、慶長9年(1604年)7月15日、戸沢道盛は、移封先の一つである常陸小河城にて、81年の波乱に満ちた生涯に幕を閉じた 1 。小河城は、かつて佐竹氏の家臣が守っていた城で、戸沢氏の入封後は政盛の支配下にあった 28 。道盛がこの城で亡くなったという事実は、彼が最期まで孫の新たな領国経営に寄り添っていたことを物語っている。
彼の死は、戸沢家が一つの時代を終え、新たな時代へと完全に移行したことを象徴する出来事であった。道盛は出羽の土着領主として生まれ、その地で戦い、領土を広げた。彼のアイデンティティは、まぎれもなく「角館の戸沢」にあった。しかし、彼の死に場所は、徳川の命令によって与えられた新領地・常陸であった。これは、もはや領主が土地と不可分な存在ではなく、幕府の意向によってその居場所を定められる存在になったことを意味する。道盛の死は、彼個人の物語の終わりであると同時に、戸沢家が「在地の国人領主」としての時代を終え、徳川幕府を頂点とする新たな支配秩序に組み込まれた「近世大名」としての歴史を開始した、その転換点を明確に示しているのである。
戸沢道盛の生涯を俯瞰するとき、我々の前に現れるのは、伊達政宗のような野心的な英雄でも、息子の盛安のような華々しい武勇伝を持つ武将でもない。しかし、彼の歴史的功績は、決して彼らに劣るものではない。
第一に、「守成の武将」としての功績である。幼少期に城を追われるという最大の危機を乗り越え、安東、小野寺といった強敵に囲まれた中で、軍事と外交を巧みに使い分け、領土を維持・拡大し、一族の基盤を安定させた。彼の堅実な治世なくして、息子・盛安の飛躍はあり得なかった。道盛が築いた盤石な土台こそが、戸沢家が戦国大名として飛躍するための不可欠な前提条件であった。
第二に、慶長9年没説に立つならば、彼の真骨頂は「大いなる隠居」としての一面にこそ見出される。伝統的な長子相続の慣習を乗り越え、非凡な才能を持つ息子・盛安へ大胆な権力移譲を行った戦略的決断。相次ぐ当主の死という一族最大の危機において、その存在自体が「重石」となり家中の動揺を抑えた役割。そして、孫・政盛の代で、戦国大名から近世大名へと軟着陸するまでの道のりを、最長老として見届けたその生涯。これらは、派手な「創業者」とは異なる、組織を次代へ繋ぎ、存続させる「承継者」としての、稀有なリーダーシップの姿を我々に示している。
戸沢道盛の生涯は、歴史の表舞台で脚光を浴びることだけが成功ではないことを教えてくれる。地道に組織の基盤を固め、次世代の才能を見出して道を譲り、危機に際しては静かに支柱となる。そのようなリーダーシップの重要性を、彼の81年の人生は静かに、しかし雄弁に物語っている。激動の時代を乗り切るための、もう一つの確かな指針が、ここにある。