本報告書は、戦国時代から江戸時代初期にかけて生きた武将、新庄直定(しんじょう なおさだ)の生涯を包括的に解明することを目的とする。一般的に彼の名は、父・直頼(なおより)の巧みな処世術や、関ヶ原の戦いで西軍に与して改易されたという事実の陰に隠れがちである。しかし、本報告書では、父が築いた政治的遺産を継承し、自らの武功によって徳川の世における一族の存続を確固たるものにした「二代にわたる存続戦略」の実行者として直定を再評価する。豊臣政権下での活動、関ヶ原での決断の背景、流転の日々、そして大坂の陣での忠誠の証明という彼の生涯を丹念に追うことで、時代の転換期を生きた一人の武将の実像に迫る。
新庄直定の生涯を理解するためには、まず彼が相続した一族の背景と、父・直頼が築き上げた特異な政治的地位を把握することが不可欠である。
新庄氏は、俵藤太(たわらのとうた)こと藤原秀郷の後裔を称する一族である 1 。その歴史は、南北朝時代に足利尊氏に仕えた俊名が、近江国坂田郡新庄(現在の滋賀県米原市)に居住して新庄氏を名乗ったことに始まるとされる 1 。戦国期に入ると、近江の国人領主として、当初は北近江の守護大名であった京極氏に、その後は浅井氏に仕える存在となった 1 。この「近江出身」という出自は、後に関ヶ原の戦後処理において、同じく近江をルーツに持つ蒲生氏との関係性で重要な意味を持つことになる。
直定の父・新庄直頼は、激動の時代を巧みに生き抜いた武将であった。当初は浅井長政の家臣として元亀元年(1570年)の姉川の戦いにも第四陣として参陣したが 1 、浅井氏が織田信長によって滅亡に追い込まれると、信長に降り、その配下で江北を任された羽柴秀吉の与力となった 3 。
秀吉の天下統一事業が進む中で直頼は次第に重用され、摂津山崎城主、近江大津城主、大和宇陀城主を経て、文禄4年(1595年)には摂津高槻城主3万石の大名にまで出世を遂げた 3 。特筆すべきは、直頼が単なる武将に留まらず、秀吉の話し相手や相談役を務める側近「御伽衆(おとぎしゅう)」の一員に列せられていたことである 3 。これにより、豊臣政権の中枢と密接な関係を築くことに成功した。
しかし、直頼の処世術の真骨頂は、豊臣家への忠勤に励む一方で、次代の天下人として台頭しつつあった徳川家康との関係構築も怠らなかった点にある。史料によれば、家康は直頼の質実剛健な人柄を高く評価し、「恩遇」していたとされ、『寛政重修諸家譜』には、政情不安に揺れた慶長4年(1599年)、直頼が加藤清正らと共に家康の伏見屋敷を警護したという記録が残っている 3 。後世の伝承では、家康の「囲碁相手」であったとも語られており、両者の親密さを物語っている 3 。
この直頼の行動は、主君への忠誠と将来を見据えたリスクヘッジを同時に行う、極めて高度な政治的判断であった。結果として、嫡男である直定は、「豊臣大名としての確固たる地位」と「次期権力者・家康との個人的な繋がり」という、相反する二重の政治的資産をそのまま相続することになった。この父が残した遺産が、後に新庄家の運命を劇的に左右することになるのである。
父・直頼が築いた盤石の基盤の上で、新庄直定は豊臣政権下のエリート武将としてそのキャリアをスタートさせた。彼の前半生は、豊臣家への忠誠を体現するものであった。
永禄5年(1562年)、新庄直定は直頼の長男として近江国で生を受けた。母は織田家臣の佐久間盛重の娘である 9 。
父と同じく豊臣秀吉に仕えた直定は、その武勇や才覚を認められ、秀吉子飼いの精鋭武士団である「金切裂指物使番(きんきりさしものつかいばん)」の一人に抜擢されるという栄誉を得た 10 。これは、彼が豊臣政権において将来を嘱望された若手武将であったことを明確に示している。天正19年(1591年)、父・直頼が近江大津城に移封された際には、直定にも1万2千石が分知されたとの記録があり 10 、父の所領と合わせて2万4千石から3万石の大名家の後継者としての地位を確立していた 3 。
豊臣大名としての責務も忠実に果たした。文禄元年(1592年)に文禄の役が始まると、直定は兵300を率いて朝鮮へ渡海している 3 。帰国後は、国家的な大事業であった伏見城の普請を分担し、大名に課せられた役務を全うした 10 。
慶長3年(1598年)、天下人・秀吉がその生涯を閉じると、直定は遺物として名刀「景長」を拝領した 10 。これは、秀吉個人から一定の評価と信頼を得ていたことの証左であり、彼のアイデンティティが「豊臣恩顧の大名」という点に深く根差していたことを示唆している。彼のキャリアは、父の地位を背景に順調に形成されたものであり、その行動原理は、まず第一に豊臣家への奉公という自己認識に基づいていた。徳川家への接近はあくまで父・直頼の領域であり、直定自身は豊臣家への忠誠を自らの立身の基盤としていたのである。
豊臣秀吉の死後、天下の情勢は徳川家康を中心に大きく動き始める。豊臣恩顧の大名として生きてきた直定にとって、人生最大の岐路となる関ヶ原の戦いが目前に迫っていた。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発すると、新庄直頼・直定父子は西軍に与することを決断した 10 。この決断の背景には、複雑な事情があった。『寛政重修諸家譜』は、その理由を「上方諸将の大勢に逆らい難く石田三成に従った」と簡潔に記している 7 。
事実、新庄氏の居城であった摂津高槻城は、西軍の総大将・毛利輝元が入る大坂城に極めて近い。地理的に見て、周囲の有力大名が軒並み西軍に付く中で、単独で東軍への合流を表明することは、即座に自領が西軍の攻撃に晒されることを意味し、事実上不可能であった。豊臣恩顧という立場と、この地政学的な制約が、彼らに西軍加担以外の選択肢を与えなかったのである。
西軍に属した新庄父子であったが、その軍事行動は関ヶ原の主戦場からは離れた場所で展開された。彼らは別働隊として、城主・筒井定次が東軍として出陣し手薄になっていた伊賀上野城を攻撃し、これを占拠した 10 。
しかし、その後の行動は興味深い。急報を受けて帰国した筒井定次勢と対峙すると、新庄父子は激しい攻城戦を継続するのではなく、定次の息子を人質に取るという形で早期に和睦を結び、城から兵を退いている 10 。この一連の動きは、西軍としての軍役を果たすという体面を保ちつつも、決定的な戦闘や無用な損害を避け、東軍側に過度な遺恨を残さないように配慮した、計算された行動であったと解釈できる。
これは単なる日和見主義ではなく、父・直頼が築いた家康との関係性を頼みとする、絶体絶命の状況下での極めて現実的なサバイバル戦略であった。西軍に逆らわず形だけは従い、主戦場から離れた二次的な戦線で「西軍として戦った」という実績(アリバイ)を作る。そして敵将とは早期に和睦する。この「戦略的追従」こそが、豊臣恩顧の立場と家康との個人的な繋がりの間で板挟みになった新庄父子が取り得た、唯一の活路だったのである。
関ヶ原での西軍の敗北は、新庄家の運命を暗転させた。しかし、父・直頼が蒔いていた種が、絶望的な状況下で芽を吹くことになる。
西軍の敗戦により、新庄家は領地を没収される改易処分を受け、父子ともに会津60万石の領主・蒲生秀行に身柄を預けられることとなった 1 。
この時、預け先が蒲生秀行であった点は極めて重要である。蒲生氏も新庄氏と同じく近江の国人出身であり、家康は「同族の縁」を考慮してこの措置を取ったとされる 7 。これは単なる流罪ではなく、家康による一種の温情措置であり、将来の赦免を視野に入れた配慮であった可能性が高い。会津での蟄居生活中、慶長16年(1611年)には会津大地震に遭遇するなど、その日々は決して平穏なものではなかったことが史料から伺える 14 。
蟄居から4年後の慶長9年(1604年)、新庄父子は駿府に召し出され、徳川家康に拝謁し、正式に罪を赦された 7 。西軍に与した大名が改易後に再び大名として復帰すること自体が稀であり、この赦免はまさに奇跡的であった。
この異例の措置が実現した最大の理由は、『寛政重修諸家譜』が明確に記すように、父・直頼と家康との間にあった「旧好(古くからのよしみ)」に他ならなかった 7 。家康が直頼の囲碁相手であったという伝承も 3 、この個人的な親密さを象徴する逸話と言えよう。
赦免された新庄家は、常陸国と下野国内に合わせて3万3百石の所領を与えられ、常陸麻生藩(あそうはん)を立藩。父・直頼が初代藩主となった 4 。この石高は、改易前の高槻3万石とほぼ同等であり、西軍加担大名への処遇としては前代未聞であった 17 。
この一連の出来事は、単なる家康の個人的な温情に留まらない。これは、徳川政権による巧みな統治戦略の一環であった。西軍の主だった大名を厳しく処罰する「ムチ」の側面を見せる一方で、新庄家のように「やむなく従った」者や、個人的な繋がりを持つ者には寛大な「アメ」を示す。これにより、他の大名に対して「家康個人との繋がりがあれば、一度の過ちも許される可能性がある」という強力なメッセージを発信し、新政権への求心力を高める狙いがあった。新庄家の劇的なV字回復は、家康の天下統治戦略の中に位置づけられるべき象徴的な事例なのである。
父・直頼の尽力によって奇跡の再興を果たした新庄家。そのバトンを受け継いだ直定には、一族の未来を確固たるものにするための最後の試練が待ち受けていた。
慶長17年(1612年)12月19日、初代藩主であった父・直頼が75歳で死去する 3 。翌慶長18年(1613年)、直定は家督を相続し、常陸麻生藩の第二代藩主となった 9 。
その際、父の遺領3万3百石のうち、3千石を実弟の新庄直房(なおふさ)に分与した 10 。これは「分知」と呼ばれ、これにより大名である麻生藩新庄家(本家)とは別に、将軍家に直接仕える幕府直臣(旗本)としての新庄家(分家)が創設された。これは、万が一本家が断絶した場合でも一族の血脈を確実に残すためのリスク分散策であり、徳川の世に適応するための堅実な一手であった。
関ヶ原で西軍に与したという「過去」を持つ新庄家にとって、徳川家と豊臣家の最終決戦である大坂の陣は、その汚名を完全に雪ぎ、徳川家への絶対的な忠誠を証明するための絶好の機会であった。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣において、直定は徳川譜代の重臣である酒井忠世の配下に属し、松平信吉と共に今里の附城(つけじろ)を守備する任に就いた 10 。
そして翌慶長20年(1615年)の夏の陣、最終決戦である5月7日の「天王寺・岡山の戦い」において、直定は目覚ましい働きを見せる。同じく酒井忠世隊の一員として奮戦し、大坂城内に突入、 敵兵の首級を13挙げる という大功を立てたのである 10 。
関ヶ原で改易された外様大名にとって、大坂の陣は単なる戦ではなかった。それは、新しい支配者である徳川家に対して、自らの武威と忠誠心を「行動」で示すための最終試験であった。直定が挙げた「首級13」という具体的な戦功は、数値化された忠誠の証であり、幕府に対するこれ以上ないアピールとなった。父・直頼が「人脈」で掴んだ再興のチャンスを、息子・直定が自らの「武功」で確実なものにした瞬間であった。この功績により、新庄家は徳川の世で外様大名として存続する正当性を完全に獲得したのである。直定の生涯におけるクライマックスは、関ヶ原ではなく、この大坂の陣にあったと言っても過言ではない。
大坂の陣で一族の未来を確かなものにした直定の人生は、その頂点で終わりを迎える。
大坂の陣の後、直定は麻生藩主として領地の治世に努めたが、その期間は長くはなかった。元和4年(1618年)4月21日、57歳でその生涯を閉じた 9 。戒名は「総寧寺殿節岩了忠大居士」。墓所は父・直頼と同じく、江戸の吉祥寺(現在の東京都文京区)に築かれた 10 。
直定の跡は、正室である公家・日野資友の娘との間に生まれた嫡男の新庄直好(なおよし)が継ぎ、麻生藩第三代藩主となった 10 。また、直定が分知して創設した旗本の弟・直房の家系も存続し、新庄家は本藩と分家が共に徳川の世を生き抜いていく体制が整えられた。
麻生藩はその後、5代藩主・直矩の代で嗣子がなく一時改易の危機に瀕するも、幕府の特別な計らいによって再興されるなど、紆余曲折を経ながらも明治維新まで存続した 15 。この存続の根底には、直頼が築き、そして直定が武功によって固めた徳川家との良好な関係があったことは疑いようがない。
直定個人の藩主としての治績に関する記録は多くない。しかし、彼の歴史的役割は、藩政の具体的な手腕よりも、豊臣の世から徳川の世へと、一族を無事に「橋渡し」した点にある。父が旧体制(豊臣)で得た地位と新体制(徳川)へのコネクションを、自らが新体制下での軍功によって完全に有効化し、次代に引き継いだ。彼は、激動の「転換点」に立ち、一族の存続という最も重要な任務を完遂した人物として評価されるべきである。
年代(和暦) |
年齢 |
主な出来事 |
役職・石高など |
典拠 |
1562年(永禄5年) |
1歳 |
近江国にて、新庄直頼の長男として誕生。 |
|
9 |
天正年間 |
|
豊臣秀吉に仕え、金切裂指物使番に選ばれる。 |
|
10 |
1591年(天正19年) |
30歳 |
父・直頼の大津城移封に伴い、1万2千石を分知される。 |
1万2千石 |
10 |
1592年(文禄元年) |
31歳 |
文禄の役に従軍し、朝鮮へ渡海する。 |
兵300を率いる |
3 |
1598年(慶長3年) |
37歳 |
豊臣秀吉の死に際し、遺物として刀「景長」を拝領。 |
|
10 |
1600年(慶長5年) |
39歳 |
関ヶ原の戦いで西軍に属し、伊賀上野城を占拠。 |
高槻城主(父・直頼) |
10 |
|
|
戦後、改易。父と共に会津の蒲生秀行預かりとなる。 |
領地没収 |
7 |
1604年(慶長9年) |
43歳 |
父と共に赦免され、大名として復帰。 |
常陸麻生藩3万3百石 |
4 |
1613年(慶長18年) |
52歳 |
父・直頼の死により家督を相続。麻生藩二代藩主となる。 |
麻生藩主 2万7300石 |
9 |
|
|
弟・直房に3千石を分知し、旗本家を創設。 |
|
10 |
1614年(慶長19年) |
53歳 |
大坂冬の陣に従軍。 |
徳川方・酒井忠世隊 |
10 |
1615年(慶長20年) |
54歳 |
大坂夏の陣に従軍。天王寺・岡山の戦いで首級13を挙げる。 |
徳川方・酒井忠世隊 |
10 |
1618年(元和4年) |
57歳 |
4月21日、死去。 |
|
9 |
新庄直昌
(近江朝妻城主)
┃
┏━━━━━━━━━┻━━━━━━━━━┓
新庄直頼 新庄直忠
(初代麻生藩主) (叔父)
┃
┏━━━┻━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
新庄直定(本報告書の主題) 新庄直房
(二代麻生藩主) (旗本家・祖)
┃
新庄直好
(三代麻生藩主)
典拠: 2
新庄直定の生涯は、父・直頼という稀代の処世術を持つ人物の存在なくしては語れない。しかし、父が残した絶妙な布石を、自らの行動によって見事に活かしきったのは直定自身の手腕である。関ヶ原での苦渋の決断、改易というどん底からの再起、そして大坂の陣での命を懸けた忠誠の証明。これら一連の経験を通じて、彼は豊臣恩顧の二世大名から、徳川の世に生きる外様大名へと自己を変革させ、一族の未来を確固たるものにした。
彼は歴史の表舞台で華々しく活躍する英雄ではなかったかもしれない。しかし、時代の変化を的確に読み、自らに課せられた役割を冷静に、そして実直に果たした。彼の生涯は、戦国から江戸への移行期という日本史上最もダイナミックな時代において、武家がいかにして生き残りを図ったかを示す、極めて貴重なケーススタディと言えるだろう。新庄直定は、派手さはないが、一族の存続という最も重要な任務を完遂した、有能な「二代目」であった。