最終更新日 2025-06-24

新開実綱

阿波の驍将、非業に散る ― 新開実綱の生涯と丈六寺の悲劇 ―

巻頭資料:新開実綱 関連年表

新開実綱の96年にも及ぶ長大な生涯と、彼が生きた激動の時代背景を一覧できるよう、以下に年表を掲載する。

西暦

和暦

実綱の年齢

新開実綱および新開氏の動向

関連する歴史的出来事(阿波・四国・中央)

1486年

文明18年

1歳

阿波国牛牧荘にて、新開之実の子・鶴夜叉の子として誕生 1

1503年

文亀3年

17歳

元服し、軍役に就く年齢に達する 1

1536年

天文5年

50歳

阿南市正福寺の阿弥陀如来を補修。この時の銘文が彼の生年を特定する根拠となる 1

1553年

天文22年

67歳

阿波守護・細川持隆(氏之)が家臣の三好実休に殺害される。この政変を機に、実休の娘を室に迎え、三好氏に臣従する 2

三好実休が阿波の実権を掌握。

1562年

永禄5年

76歳

舅・三好実休に従い和泉国の久米田の戦いに参陣するが敗走。戦後、剃髪して道善(道然)と号す 2

三好実休、久米田の戦いで戦死 4

1577年

天正5年

91歳

長宗我部元親が阿波侵攻を開始。実綱は三好方の将として、阿波南部の防衛を担う 5

長宗我部元親、土佐を統一し四国制覇に乗り出す。

1579年

天正7年

93歳

桑野・今市合戦で長宗我部軍に敗北 1

長宗我部軍、阿波南部の諸将を次々と降す。

1580年

天正8年

94歳

居城・牛岐城を明け渡し、長宗我部元親に降伏 2

1582年

天正10年

96歳

6月 :本能寺の変。織田信長が死去 7

8月:中富川の戦い。元親方として参戦し、三好方(十河存保軍)を破る 2。

9月16日:丈六寺にて、長宗我部元親の命を受けた久武親直らに謀殺される 1。

父の死を知った嫡男・実成も自害し、新開氏は滅亡 9。

9月 :一宮城主・一宮成助が元親に謀殺される 5 。元親による阿波国衆の粛清が本格化。


序章:記憶される武将、新開実綱

徳島県徳島市に佇む古刹、丈六寺。その境内の一角、徳雲院の回廊に、見る者の心を揺さぶる「血天井」が現存する 10 。これは、天正10年(1582年)、土佐の長宗我部元親の謀略によって非業の死を遂げた阿波の武将・新開実綱(しんがい さねつな)と、その従者たちの無念の血が染み込んだ縁板であると伝えられる。伝説によれば、この血痕はいくら拭っても消えることがなく、彼らの供養のために天井板として張り替えられたという 2 。この凄絶な逸話は、新開実綱という武将の存在を、単なる歴史上の人物としてではなく、悲劇の主人公として現代にまで強く記憶させている。

一般に、新開実綱は「三好家臣で富岡城(牛岐城)主。勇将として知られたが、後に長宗我部元親に属し、謀殺された」と要約される。しかし、この簡潔な人物像の背後には、戦国乱世の荒波の中を96年という長きにわたって生き抜き、阿波南部に確固たる地盤を築いた有能な領主としての顔、そして中央の巨大な権力構造の変転に翻弄される地方国衆としての苦悩が隠されている。

本報告書は、現存する古文書、軍記物、寺社の伝承、そして郷土史研究の成果を網羅的に調査・分析し、新開実綱という一人の武将の生涯を徹底的に掘り下げるものである。その出自の謎から、三好家臣としての活躍、牛岐城主としての優れた治績、長宗我部氏との複雑な関係、そして丈六寺における悲劇の真相に至るまでを多角的に検証する。これにより、彼の死が単なる裏切りや粛清という言葉だけでは語り尽くせない、戦国時代の権力移行期における政治的力学の必然であったことを明らかにし、その実像に迫ることを目的とする。

第一部:阿波新開氏の黎明

第一章:一族の源流 ― 武蔵から阿波へ

新開実綱の人物像を理解するためには、まず彼が属した新開一族の出自と、阿波国に根を下ろすに至った経緯を解き明かす必要がある。新開氏の系譜には、二つの異なる、しかし相補的な出自伝承が存在する。

第一に、渡来系の名族・秦河勝(はたの かわかつ)の末裔を称する伝承である 2 。秦氏は古代において技術や文化を大陸から伝えた有力氏族であり、この系譜を主張することは、一族に古くからの由緒と文化的な権威を与えるものであった。興味深いことに、後に新開氏を滅ぼすことになる長宗我部氏もまた、秦氏の後裔を称している 9 。これは、両者が元をたどれば同族であった可能性を示唆しており、実綱の悲劇に一層の皮肉な色合いを添えている。

第二に、より具体的かつ武家社会における正統性を示すものとして、桓武平氏の流れを汲む相模国の有力御家人・土肥実平(どい さねひら)の次男、新開荒次郎実重(しんがい あらじろう さねしげ)を祖とする系譜がある 1 。土肥実平は源頼朝の挙兵を支えた鎌倉幕府創設の功臣であり、その子を祖とすることは、新開氏が単なる在地の土豪ではなく、武門としての確固たる「格」を持つ一族であることを示すものであった。この二重の出自伝承は、新開氏が自らの権威を、古代からの血統的尊貴さと、中世武家社会における実績の両面から構築しようとした戦略的な意図の表れと解釈できる。

この新開一族は、平安時代末期から武蔵国新開(現在の埼玉県深谷市新戒)を本拠としていたが、鎌倉時代の終わり頃に阿波国へ移住したとされる 9 。この移住は、阿波国守護として入部した細川氏に従ったものと考えられており、一族は那賀川下流域の牛牧荘(うしまきのしょう、現在の徳島県阿南市富岡町一帯)に入り、牛岐城(うしきじょう)を拠点として戦国時代に至るまでその地を治めた 9

第二章:実綱の登場と三好家への臣従

新開実綱は、阿南市富岡町の正福寺に伝わる阿弥陀如来坐像の胎内銘文により、文明18年(1486年)の生まれであることが判明している 1 。応仁の乱の終結から間もなく生を受け、本能寺の変の年に没するという、まさに戦国時代の始まりから終わりまでを体現した生涯であった。96歳という当時としては驚異的な長寿を全うした彼は、阿波国における権力の変転をその身をもって体験することになる。

実綱が歴史の表舞台に登場する16世紀前半、阿波国は守護・細川氏の支配下にあった。新開氏も代々細川氏に仕える家臣として、その地位を保っていた 2 。しかし、戦国の世は主家の安泰を許さない。阿波国内では、守護代であった三好氏が徐々に実力を蓄え、主家を凌駕する勢いを見せ始めていた。

この下克上の画期となったのが、天文22年(1553年)の事件である。三好長慶の弟であり、阿波を統治していた三好実休(じっきゅう)が、主君である守護・細川持隆(氏之)を攻め滅ぼし、阿波の実権を完全に掌握した 2 。この権力移行の渦中で、当時すでに67歳であった実綱は、一族の生き残りを賭けた重大な政治的決断を下す。彼は旧主・細川氏を見限り、新たな支配者である三好実休の娘を自らの室として迎え入れたのである 2 。この政略結婚により、新開氏は三好氏の姻族となり、阿波三好家における有力な重臣としての地位を確保した。

三好氏の配下となった実綱は、その武将としての役割も果たしている。永禄5年(1562年)、舅である三好実休に従って和泉国へ渡り、畠山高政軍と戦った(久米田の戦い)。しかしこの戦いで三好軍は敗北し、実休は討死 4 。実綱は辛くも戦場を離脱した。この敗戦後、彼は剃髪して入道し、「道善(どうぜん)」あるいは「道然(どうねん)」と号した 2 。これは敗戦の責任を取るという形式的な意味合いと共に、俗世から一歩引いた立場を示すことで、政治的な危険を回避し家を保とうとする、戦国武将特有の処世術でもあった。

第二部:牛岐城主・新開道善

第三章:阿波南部の統治者

三好氏の重臣となった新開実綱(道善)は、阿波南部の要衝である牛岐城を拠点に、単なる武将としてだけでなく、優れた領国経営者としてその手腕を発揮した。彼の統治は、地域の安定と発展に大きく貢献し、領民から深い信望を集める礎となった。

牛岐城は、現在の阿南市中心部に位置し、周囲を川や湿地帯に囲まれた天然の要害であった 20 。満潮時には城のある丘が水面に浮かぶ亀のように見えたことから「浮亀城(うききじょう)」とも呼ばれ、特に川の土手を切れば城下が水浸しになるという「水城(みずき)」としての特性は、敵の侵攻を困難にさせた 20 。この難攻不落の城を拠点に、実綱は阿波南部の軍事と行政を担った。

彼の領主としての資質を物語るのが、地元に伝わる「治績六業」である 1 。これは、実綱が行ったとされる六つの功績を総称したもので、その内容は多岐にわたる。

  1. 耕地の開墾と農工の奨励 : 農業生産基盤を強化し、領内の食糧事情を安定させた。
  2. 水利事業の推進 : 治水や灌漑設備を整え、水害を防ぎつつ農業用水を確保し、民生の安定を図った。
  3. 社寺の建立と保護 : 正福寺や景徳寺などを庇護し、領民の精神的な拠り所を提供することで人心を掌握した 1
  4. 商業・物流の振興 : 牛岐城が那賀川河口の港湾を擁する立地を活かし、土倉(金融・倉庫業)や船倉を経営し、海運や造船を盛んにした。これにより、牛牧荘は年貢米の積出港や中継地として発展し、地方経済の活性化に大きく貢献した 1
  5. 学問と武芸の奨励 : 領内に学問所を設け、文武両道の人材育成に努めた。
  6. 新開桜の移植 : 祖先の故地である武蔵国から桜の木を取り寄せ、菩提寺である正福寺などに植えた。この桜は「新開桜」として知られ、彼の文化人としての一面と故郷への想いを今に伝えている 22

これらの治績は、実綱が単に主家から派遣された城代ではなく、その土地に深く根を下ろし、経済的・文化的に豊かな領国を築き上げた卓越した統治者であったことを示している。彼が掌握した港湾からもたらされる経済力は、三百貫(約1500石)という公式な家禄をはるかに超える影響力を彼に与えたであろう 1 。しかし、この領主としての有能さと領民からの信望こそが、後に彼の運命を暗転させる要因となる。阿波の新たな支配者を目指す長宗我部元親にとって、在地に深く根を張り、容易に懐柔できない有力国衆の存在は、自らの直接支配を確立する上で最大の障害と映ったのである。

第四章:土佐の波濤 ― 長宗我部元親との攻防

天正年間に入ると、土佐一国を統一した長宗我部元親が、四国制覇の野望を胸に阿波国への侵攻を開始した 26 。阿波南部に拠点を置く新開道善は、三好方の最前線として、この土佐からの波濤に立ち向かうこととなる。勇将として知られた道善は、長宗我部軍の侵攻を頑強に防ぎ、元親にとって大きな難敵となった 2

しかし、長宗我部氏の勢いは凄まじく、阿波南部の国衆は次々とその軍門に下っていった。天正7年(1579年)、道善は長宗我部方に寝返った東条関之兵衛の要請で出陣した元親の弟・香宗我部親泰の軍勢と桑野・今市(現在の阿南市)で激突するも、敗北を喫した 1 。そして翌天正8年(1580年)、ついに持ちこたえきれなくなった道善は、居城である牛岐城を明け渡し、元親に降伏した 2 。時に道善、94歳。長きにわたる戦いの末の、苦渋の決断であった。

降伏後、道善は長宗我部氏の配下として、皮肉にも旧主である三好氏との戦いに従軍することになる。天正10年(1582年)8月、阿波の覇権を賭けた中富川の戦いでは、道善は同じく元親に降っていた一宮城主・一宮成助と共に土佐勢に加わり、三好方(十河存保軍)を打ち破る上で重要な貢献を果たした 2

しかし、元親の道善に対する不信感は根深かった。道善が降伏後も、旧主である勝瑞城の三好氏と密かに連絡を取り続けていたという疑惑が絶えなかったのである 2 。これは、支配者がめまぐるしく変わる戦国の世において、自家の存続を図る地方国衆がしばしば取る両属的な態度であり、生き残りのための現実的な方策であった。だが、四国の完全支配を急ぐ元親にとって、このような態度は許しがたい裏切り行為と映った。中富川の戦勝からわずか一月後、この猜疑心は、道善を悲劇的な結末へと導くことになる。

第三部:丈六寺の悲劇

第五章:謀殺 ― 天正10年9月16日

天正10年(1582年)8月の中富川の戦いで勝利を収め、阿波平定を目前にした長宗我部元親は、かねてよりその動向を警戒していた新開道善の排除を決意する。その舞台に選ばれたのが、徳島市にある古刹・丈六寺であった。

同年9月16日(天正9年説もあるが、中富川の戦いとの前後関係から天正10年が有力 1 )、元親は「戦勝の論功行賞について相談したい」という名目で、道善を丈六寺に呼び出した 1 。元親本人は姿を見せず、名代として道善に応対したのは、長宗我部家の重臣で策謀家として知られる久武内蔵助親直(ひさたけ くらのすけ ちかなお)であった 1

親直は、道善に対し恩賞として新たに勝浦郡を加増することを約束し、その忠功を称えた 3 。96歳の老将はこれに喜悦し、警戒心を解いた。やがて酒宴が設けられ、道善はすっかり酩酊したという 3 。宴が終わり、道善が従者を連れて帰途につこうと客殿の縁側に出た、その時であった。親直が「道善殿の御馬をこちらへ」と声を上げたのを合図に、潜んでいた刺客・横山源兵衛が背後から道善に斬りかかった 1 。不意を突かれた道善はなすすべもなく、その首は縁側から転がり落ち、阿波の驍将は非業の最期を遂げた。

この惨劇は、道善一人の死では終わらなかった。主君の異変を察知した家臣の松田新兵衛は、主の刀を手に取ると、間髪入れずに主君の仇である横山源兵衛に斬りかかり、これを討ち取った 3 。しかし、忠臣の奮戦もそこまでであった。多勢に無勢、松田新兵衛もまた、その場で壮絶な討死を遂げた。こうして丈六寺の縁板は、主従の血で赤く染まったのである。

この謀殺劇の背景には、元親の冷徹な政治計算があった。同年6月の本能寺の変によって、長宗我部氏の四国統一を阻んでいた最大の壁である織田信長が消滅した 7 。これは元親にとって、四国を完全に掌握する千載一遇の好機であった。そのためには、阿波国を迅速かつ確実に支配下に置き、旧三好勢力やそれに通じかねない在地有力者を一掃する必要があった 29 。道善の謀殺は、その直前に行われた一宮城主・一宮成助の粛清と連動した、計画的な国衆排除政策の一環だったのである 5 。公然と討伐すれば、他の国衆の反発を招きかねない。それゆえに元親は、標的を個別に呼び出して排除する「謀殺」という、効率的かつ恐怖によって他者を屈服させる非情な手段を選択した。道善の死は、一個人の悲劇であると同時に、四国統一という大きな戦略目標を達成するための、冷徹な政治的帰結であった。

第六章:血天井の伝説と一族の末路

丈六寺における新開道善の死は、阿波の有力国衆・新開氏の完全な滅亡を意味した。そして、その凄惨な最期は、後世にまで語り継がれる強烈な伝説を生み出すことになる。

最も有名なのが「血天井」の伝説である。道善と忠臣・松田新兵衛らが流した血は、丈六寺の縁板に深く染み込み、いくら拭き清めても消えることはなかったという 2 。その無念の思いを供養するため、寺の者たちはこの縁板を剥がし、徳雲院の回廊の天井板として用いた 10 。手形や足形にも見えるという染みが残るこの天井は、長宗我部元親の非情さと、それに散った主従の悲劇を物語る物理的な「証拠」として、今日までその生々しい記憶を伝えている。

一方、牛岐城に残っていた道善の嫡男・新開実成(さねなり)は、父の悲報に接すると、もはやこれまでと覚悟を決め、父の後を追って自害して果てた 9 。これにより、鎌倉時代から約200年にわたって阿波南部に君臨した新開氏は、歴史の舞台から完全に姿を消した。現在、阿南市富岡町の正福寺には、道善と実成の墓が並んで建てられている 33 。実成の墓はもともと桑野町の梅谷寺にあったが、昭和41年(1966年)に父の墓がある正福寺へと移されたものである 35

主家を失った家臣団のその後については、断片的な伝承が残るのみである。その一つによれば、家臣の一部は主家滅亡後、摂津国伊丹(現在の兵庫県伊丹市)へと落ち延び、主家の旧姓を継承して「伊丹」と名乗った。その後、阿波に帰還した際に「篠塚」と改姓したという 38 。これは、主家滅亡後の家臣たちが辿った苦難の道のりと、主君への忠誠の記憶を今に伝える貴重な口伝である。

終章:歴史のなかの実綱

新開実綱の生涯は、丈六寺における悲劇的な最期によって幕を閉じた。しかし、彼の存在は故地・阿波において、様々な形で記憶され、語り継がれている。

その最も興味深い例が、彼が「禁酒の神様」として信仰されていることである 2 。酒宴の席で謀殺されたという逸話が転じ、酒による失敗を戒める神として祀られるようになったもので、牛岐城址公園の近くには彼を祀る新開神社も建立されている 33 。これは、彼の悲劇が人々の深い同情を呼び、一種の民間信仰へと昇華したことを示している。

また、彼が故郷の武蔵国から移植したと伝えられる「新開桜」は、今なお春になると阿南市役所前などで可憐な花を咲かせ、領民に安らぎを与えようとした実綱の文化人としての一面を偲ばせている 22 。これらの事実は、彼が単なる武人ではなく、領民に慕われた統治者であったことを裏付けている。

新開実綱の生涯は、三好、織田、長宗我部といった中央の巨大な権力の間で、自家の存続を賭けて巧みに立ち回りながらも、最後はより大きな政治的力学に飲み込まれていった戦国時代の地方領主(国衆)の典型的な姿を映し出している。特に、彼の領主としての卓越した能力と在地での強い影響力こそが、新たな支配者である長宗我部元親に危険視され、排除の直接的な原因となったという事実は、下克上の時代の非情さと複雑さを象徴している。

最後に、彼の死に関する記録の対立について考察することは、歴史を理解する上で重要である。阿波側の諸記録や伝承が一致して「謀殺」とする一方、土佐側の記録である『元親記』などは「元親の命により切腹させられた」と記している 2 。これは単なる事実認定の問題ではない。勝者である長宗我部側の記録は、道善を「謀反の疑いある者」とし、その死を「正当な処罰(切腹)」と記すことで、元親の行為を正当化し、支配の正統性を主張する意図があったと考えられる。対して、敗者となった阿波側の「謀殺」伝承と「血天井」という物理的な記憶装置は、元親の非道と裏切りを告発し、失われた郷土の英雄への同情と哀悼を表現する、文字記録に対する「記憶の抵抗」であったと言えよう。

このように、新開実綱の物語は、記録の対立そのものが、戦国時代の権力交代がもたらした地域社会の断絶と、勝者と敗者の間で繰り広げられる「歴史の物語」を巡る闘争を今に伝えている。彼の悲劇は、400年以上の時を経てなお、我々に多くのことを問いかけているのである。

引用文献

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