本報告書は、日本の戦国時代に活動した武将、明石長行(あかし ながゆき)、通称あるいは別名として明石正風(あかし まさかぜ)とも伝えられる人物に焦点を当てる。この人物は、播磨国明石郡を本拠とした国衆明石氏の一族とされ 1 、歴史上、主に二つの点でその名が記憶されている。一つは、神戸市西区の太山寺(たいさんじ)に現存する「太山寺本」と呼ばれる貴重な古典籍群の寄進者としてであり 1 、もう一つは、戦国時代を代表する軍師の一人である黒田官兵衛孝高(くろだ かんべえよしたか、後の如水)の母方の祖父にあたるという点である 5 。これらの事績は、彼が単なる地方武将に留まらず、文化的な側面や有力武家との姻戚関係においても注目すべき存在であったことを示唆している。本調査は、これらの点を踏まえ、明石長行(正風)の人物像とその歴史的役割を明らかにすることを試みるものである。
本報告書の目的は、提供された各種資料に基づき、明石長行(正風)の人物像、具体的な事績、家系、そして彼に関連する史料を多角的に分析し、その実像に可能な限り迫ることにある。特に、史料間で散見される情報の異同を整理し、関連する諸説を比較検討することで、現時点における明石長行(正風)に関する知見を包括的にまとめることを目指す。
本報告書を作成するにあたり、利用者からの指示に基づき、対象人物である明石長行(正風)と、宇喜多氏家臣でキリシタン武将として著名な明石全登(あかし てるずみ、または「ぜんとう」とも)とは別人であることを改めて強調する 7。明石全登は関ヶ原の戦いや大坂の陣での活躍で知られるが、本報告書では、両者の混同を避けるため、明石長行(正風)に直接関連しない限り、全登に関する情報は扱わない。
この区別が重要である背景には、歴史研究上の課題が存在する。明石姓の武将に関する情報は錯綜しやすく、特に明石全登が比較的著名であるため、長行(正風)に関する記録や評価が埋もれがちであったり、あるいは混同されたりする傾向が見られる。したがって、本報告書の焦点を明確に保ち、読者に対してもその区別の重要性を伝えることが肝要である。
明石長行(正風)を巡っては、まずその呼称自体に検討の余地がある。「明石長行」と「明石正風」という二つの名が存在し、史料や後世の研究によって、一方が用いられたり、両者が併記されたり、あるいは同一人物の異なる名として扱われたりしてきた。例えば、オンライン百科事典の一項目では、明石正風の別名として「長行」が挙げられており 10、これは両者を同一人物とみなす見解が一般にも流布していることを示している。
本報告書では、利用者の指示および複数の資料が示唆する蓋然性に基づき、基本的に明石長行と明石正風を同一人物として扱い、情報がどちらの呼称で言及されているかを可能な限り明示しつつ論を進める方針をとる。なお、明石姓の人物に関する情報の錯綜はこれに留まらず、『戦国人名事典』などが「明石修理亮(しゅりのすけ)」と長行を同一視する説も存在するが、これについては後述の通り、活動年代などから別人である可能性が高いと考えられる 1。
明石長行は、活動期において「四郎左衛門尉(しろうざえもんのじょう)」を名乗ったとされる 1。これは当時の武士の一般的な名乗りであり、彼の公的な立場を示すものであった可能性が高い。
一方、明石正風は「備前守(びぜんのかみ)」を称したと記録されている 5。官途名は、当時の武士にとって社会的地位や自負を示す重要な指標であり、彼が備前国に何らかの縁故や権益を有していたこと、あるいはその程度の格を持つ人物と認識されていたことを示唆する。
「四郎左衛門尉」と「備前守」という異なる名乗りが、同一人物の異なる時期や側面を示しているのか、あるいは史料の性質による記録の差異なのかは判然としない。例えば、「長行」の名で「四郎左衛門尉」を称し、「正風」の名で「備前守」を称したというように、諱(いみな)と通称・官途名が特定の組み合わせで用いられた可能性も考えられるが、現存史料からは断定が難しい。
生没年
明石長行の生没年については、多くの資料で「未詳」とされている 1。これは、彼の生涯に関する基本的な情報が史料上明確でないことを示している。
他方、明石正風に関しては、一部の資料で「大永4年(1524)- 天正13年(1585)8月22日」という具体的な生没年が提示されているものがある 11。しかしながら、この日付は、正風の娘婿にあたる黒田職隆(もとたか)の生没年「大永4年(1524年) - 天正13年8月22日(1585年9月15日)」 12 と完全に一致する。この事実は極めて重要であり、11に記載された正風の生没年は、黒田職隆のものの誤記または混同である可能性が濃厚である。オンライン百科事典の「明石正風」の項目でも生没年は「不明」としており 10、11の情報とは異なる。
この点から、明石長行(正風)の生没年については、現時点では「不明」として扱うのが最も安全かつ学術的に妥当な判断と言える。11のような情報がなぜ存在するのか、その背景(例えば、黒田職隆との関係の深さ故の混同など)については推測の域を出ないが、この一件は、明石長行(正風)に関する史料の希少性や、その取り扱いの難しさを示す好例と言えよう。
出身地
明石長行(正風)は、播磨国明石郡を本拠とした国衆明石氏の一族とされている 1。これが彼の出自に関する基本的な情報である。
一方で、明石正風を備前国福岡(現在の岡山県瀬戸内市の一部)の出身とする記述も見られる 11。しかし、これも前述の生没年の問題と同様に、備前福岡生まれである黒田職隆の情報 12 との混同である可能性が指摘できる。
より信憑性が高いと考えられるのは、明石長行を「播磨の豪族」としつつ、その活動拠点を「備前福岡」とする記述である 1。これは、彼が播磨の明石郡にルーツを持ちながらも、何らかの理由で備前国に活動の場を移したか、あるいは両地域に跨る活動を展開していた可能性を示唆する。この点は、彼が「備前守」を称したこと 5 とも関連するかもしれない。
明石長行(正風)の活動は、主に播磨国と備前国に跨っており、当時の複雑な政治状況を反映して、複数の勢力との関わりが記録されている。
赤松氏家臣として
明石正風は、播磨守護であった赤松晴政(はるまさ)に仕えていたとされる 5。これは彼のキャリアの初期、あるいは特定の時期における所属を示していると考えられる。
具体的な軍功としては、享禄4年(1531年)に赤松方として武庫河原の戦い(むこがわらのたたかい)に参陣し、浦上村宗(むらむね)軍に勝利したと伝えられている 5。
しかし、その後の天文7年(1538年)、山陰の雄・尼子晴久(あまご はるひさ)が播磨に侵攻した際には、正風は御着城(ごちゃくじょう)主の小寺則職(こでら のりもと)と共に尼子方に呼応し、主君であるはずの赤松政村(まさむら、後の晴政)と交戦した。この戦いに敗れた正風は、一時淡路国の岩屋城へ逃亡したが、後に赤松氏と和睦したとされている 5。この一連の動きは、当時の播磨における国衆たちが、中央の政情や周辺大名の動向に応じて離合集散を繰り返していた状況を如実に示している。
浦上氏との関係
一方で、明石長行は備前国の実力者であった浦上氏の家臣であったともされ、特に浦上宗景(むねかげ)に仕え、備前福岡を拠点として活動したという記録がある 1。
天文8年(1539年)には、浦上宗景から「備前国福岡庄の代官職」に任じられたとされており 1、これは彼が浦上氏の中で一定の信頼と地位を得ていたことを示している。
また、同天文8年(1539年)に、長行が「浦上宗景」と連署して「赤松晴政」に書状を送ったとする史料も存在する 1。ただし、この史料に関しては、長行が宗景の正式な家臣であったかどうかは不明であるとの注釈が付されており、連署の事実が必ずしも強固な主従関係を意味するものではない可能性も考慮する必要がある。
活動拠点
彼の活動拠点としては、まず本拠地である播磨国明石郡 1 が挙げられる。この地域における具体的な居城としては、枝吉城(えだよしじょう、または「しきつじょう」)が知られている。明石長行の居城として言及されるほか 3、明石正風も枝吉城を拠点としたと記録されている 5。
枝吉城を巡っては、複数の戦闘が記録されている。天文8年(1539年)の「第一次枝吉合戦」では、赤松晴政・細川持隆(もちたか)連合軍が枝吉城の明石正風(あるいは明石長行・祐行父子 15)を攻囲し、結果として和睦に至った 14。また、天文23年(1554年)頃の「第二次枝吉合戦」では、三好長慶(みよし ながよし)の播磨侵攻に対し、明石左京亮祐行(さきょうのすけ すけゆき、正風の子とされる)が枝吉城で応戦したと伝えられている 15。
これらに加え、浦上氏家臣としての活動拠点であった備前国福岡 1 も重要な地であった。
赤松氏と浦上氏という、時には対立し、時には主従関係が逆転することもあった二つの勢力との関わりは、明石長行(正風)の戦国武将としての立場や戦略を理解する上で鍵となる。彼のキャリアの中で、これらの勢力との関係がどのように変遷したのか、史料を丹念に追い時系列で整理することが求められる。播磨の枝吉城主としての活動と、備前福岡での活動が時期的にどのように関連していたのか、あるいは並行していたのかについても、さらなる検討が必要である。
明石長行(正風)の名を今日に伝える最も重要な事績の一つが、太山寺への古典籍の寄進である。
寄進の経緯と内容
天文8年(1539年)11月2日、明石長行は、亡き妻「善室昌慶禅定尼(ぜんしつしょうけいぜんじょうに)」の一周忌に際し、その追善供養と即身成仏を祈って、自身の所蔵する古典籍多数を播磨国明石郡の太山寺に寄進した 1。
この時寄進された典籍群は、今日「太山寺本」として総称され、その中には国の重要文化財に指定されている『曽我物語』(仮名本)全10巻 2 をはじめ、『古今和歌集』、『拾遺和歌集』などの勅撰和歌集や、『伊勢物語』、『平家物語』といった、当時の教養層に必須とされた計11種の書籍が含まれていた 1。この事実は、「太山寺文書」と呼ばれる古文書によって確認されている 1。
寄進の経緯については異説もあり、一部資料では、長行が浦上宗景から備前国福岡庄の代官職を任された際、その代官職を妻の昌慶禅定尼に譲渡し、彼女が太山寺に奉納したという記述も見られる。その背景として、太山寺の住職であった「昌慶」という人物が昌慶禅定尼の親族であったため、その縁で奉納が行われたのではないかと推測されている 1。この説が事実であれば、寄進の主体や動機について、より多角的な解釈が可能となる。
文化的意義
明石長行夫妻が所蔵していたこれらの典籍は、当時の播磨国における冷泉派(れいぜいは)歌学の浸透ぶりを示す貴重な史料として、国文学研究上も重視されている 1。まさに、長行の名はこの蔵書群によって歴史に刻まれたと言っても過言ではない 1。
明石氏は代々、書や和歌を嗜む文化的な家風であったとされ、特に明石正風自身も、戦国武将でありながら風流を解し、時の関白であった近衛稙家(このえ たねいえ)に和歌を伝授したという記録も残っている 5。このような文化的素養が、「太山寺本」のような質の高い古典籍の収集と保存、そして後世への伝承を目的とした寄進へと繋がったと考えられる。
太山寺本の寄進は、単なる宗教的な追善行為に留まらず、明石長行(正風)とその妻・昌慶禅定尼の教養の高さ、そして深い文化的関心を示すものである。また、戦国時代の武将が、文化的活動を通じて地域社会や宗教機関と結びつきを持ち、文化財の保護・伝承に貢献していた実例としても極めて重要である。もし昌慶禅定尼が代官職を譲り受けて奉納したという説 1 が史実であるならば、当時の女性の社会的・経済的役割や、夫の活動への関与のあり方について、新たな光を当てる可能性も秘めている。
明石長行(正風)の直接の父祖については、史料が乏しく、明確な情報は少ない。
『戦国人名事典』は、明石長行を明石則行(のりゆき)の子であるとしているが、その根拠は特に示されていないようである 1。一方、明石正風の父については「不詳」とされている資料が多い 5。
これらの状況は、戦国期における明石氏の系譜自体が錯綜しているか、あるいは信頼できる記録が乏しいことを示唆している。長行(正風)の父が不明確であることは、彼の出自や一族内での位置づけを正確に把握する上での大きな制約となっている。主要な人名事典ですら父の名に確証がないという事実は、一次史料における言及が極めて少ないか、あるいは後世に編纂された系図に依拠しているものの、その系図の信頼性が高くないことを物語っている。
妻:昌慶禅定尼(しょうけいぜんじょうに)
明石長行の妻として最も確実に名が伝わるのは、法号を「善室昌慶禅定尼」という女性である 1。彼女は前述の通り、「太山寺本」寄進の直接的な契機となった人物であり、天文8年(1539年)11月2日の寄進は、彼女の一周忌にあたって行われた 1。
彼女の出自や生涯については、村上美登志氏の論文「太山寺本『曽我物語』とその時代 ―太山寺本奉納者明石長行と亡妻昌慶禅定尼をめぐって―」 5 において詳細な考察がなされている可能性が高い。
一方で、明石正風の室(妻)は宇喜多能家(うきた よしいえ)の娘であったとする記録もある 5。もし、本報告書で前提としているように明石長行と明石正風が同一人物であるならば、昌慶禅定尼は宇喜多能家の娘ということになる。宇喜多能家は、戦国大名・宇喜多直家(なおいえ)の父または祖父とされる人物であり、この婚姻が事実であれば、明石氏が宇喜多氏の台頭初期から深い関係を結んでいた可能性を示唆する。この点は、明石氏と宇喜多氏との政治的関係を考察する上で重要な手がかりとなり得る。
子
明石正風の子としては、複数の名が記録されている。男子には明石祐行(すけゆき)、明石安正(やすまさ)がおり、女子には黒田職隆の正室となった岩姫(いわひめ)、梶原景則(かじわら かげのり)室、そして黒田家重臣の栗山利安(くりやま としやす)室がいたとされている 5。
特に、15の記述によれば、天文8年(1539年)の「第一次枝吉合戦」において「明石長行・祐行父子」が赤松軍と戦ったとあり、これは長行の子が祐行であることを示唆している。この祐行が、正風の子とされる明石祐行と同一人物であれば、長行と正風が同一人物であるという説を補強する材料となる。
子供たちの婚姻関係、特に娘たちの嫁ぎ先である梶原氏や栗山氏がどのような家柄で、どの地域に勢力を持っていたかを詳細に調査することで、明石氏の勢力範囲や同盟関係、外交戦略の一端が明らかになる可能性がある。特に、黒田家とは岩姫の婚姻に加え、栗山利安室との関係もあり、二重の姻戚関係を結んでいた点は注目に値する。
明石長行(正風)の歴史的重要性を今日において高めている最大の要因の一つが、黒田家との深い姻戚関係である。
明石正風の娘・岩姫(いわひめ、1532年生 - 1560年没とされる)は、小寺政職(こでら まさもと)の養女となった後、姫路城の城代であった黒田職隆(もとたか)に嫁ぎ、後に豊臣秀吉の軍師として天下統一に貢献する黒田孝高(官兵衛・如水)を産んだ 5。これにより、明石正風は黒田官兵衛の母方の祖父にあたるという、極めて重要な位置を占めることになった。岩姫は、官兵衛が13歳の時に28歳という若さで亡くなったと伝えられている 6。
この黒田家との繋がりは岩姫だけに留まらない。明石正風の子である明石安正もまた、後に黒田氏に仕えたとされている 5。より詳細な情報によれば、安正は当初宇喜多秀家に仕え、文禄の役(朝鮮出兵)に従軍したが戦死した。その際、息子の安行(やすゆき)に対し、黒田家を頼るよう遺言したという。朝鮮の役の後、安行は父の遺言に従い、黒田官兵衛(当時は如水と号)・長政(ながまさ)親子を頼り、彼らに快く迎え入れられた。そして、関ヶ原の戦いの功により黒田長政が筑前福岡藩の初代藩主となった際、安行の一族も福岡に移り住み、福岡藩士として取り立てられたとされている 6。
黒田官兵衛という著名な武将の祖父であるという事実は、明石正風という人物の評価や後世における注目度を大きく引き上げる要因となった。この深い姻戚関係があったからこそ、他の多くの地方国衆に比べて、明石正風の名が比較的記録に残りやすかったとも考えられる。黒田家の家史である『黒田家譜』などに、明石正風の人となりや具体的な事績がどの程度詳細に記されているかについては、現時点での提供資料からは断片的な情報しか得られていないが 21、今後の研究において詳細な再検討がなされれば、人物像解明に大きく貢献する可能性がある。
明石長行に関する研究において、しばしば見られる混乱の一つに、明石修理亮(あかし しゅりのすけ)との同一人物説がある。『戦国人名事典』や、比較的新しい赤松氏関連の学術論文の多くが、この二人を同一人物と見なしていると指摘されている 1。
しかしながら、この説に対しては有力な反論が存在する。具体的には、史料「落穂ひろい」の記述によれば、「天文八年(1539)十二月、明石修理亮が隠居して『宗阿(そうあ)』と号したころ、当の長行は『四郎左衛門尉』の名で活動しているから、両者は明らかに別人である」と論じられており、その根拠として一次史料である『証如上人日記(しょうにょしょうにん にっき)』が挙げられている 1。
さらに、明石修理亮という人物は、応仁の乱(1467年~1477年)の頃に赤松家再興に尽力し、摂津などで勇戦した武将として記録されており 27、活動年代が天文年間(1532年~1555年)の明石長行とは大きく異なる。この年代のずれだけでも、両者を同一人物と見なすことには無理があると言わざるを得ない。『証如上人日記』に基づく反論は、同時代に近い史料によるものであり、その信憑性は比較的高いと考えられる。
この修理亮との混同は、戦国期の明石一族全体の系譜や個々の人物比定の難しさを示す一例であり、史料の慎重な取り扱いがいかに重要であるかを物語っている。
明石長行(正風)に関する情報は断片的であり、かつ史料間で齟齬が見られる場合も少なくない。そのため、各史料の信頼性を吟味し、情報を整理することが不可欠である。
例えば、新人物往来社発行の『戦国人名事典』は、長行を則行の子とし、また修理亮と同一視するなど、複数の点で他の情報源や近年の研究成果と矛盾する可能性のある記述を含んでいる 1。これらの記述については、典拠を確認し、慎重に扱う必要がある。
オンライン百科事典であるWikipediaの情報 5 は、複数の情報源を編纂しまとめている点で有用であるが、その元となる個々の史料の信頼性については別途検証が必要となる。特に、本報告書でも指摘した明石正風の生没年に関する記述 11 や、正風の別名として「長行」を挙げる際の典拠 10 などは、その由来を明確にすることが望ましい。
ウェブサイト「落穂ひろい」(ochibo.my.coocan.jp) 1 は、個人運営のサイトでありながら、『証如上人日記』や『太山寺文書』といった一次史料に言及しつつ独自の考察を加えており、本報告書の作成においても重要な情報源の一つとなった。
各史料や二次資料が、どの一次史料に基づいて記述しているのかを可能な限り突き止めることが、情報の信頼性を判断する上で不可欠である。特に、明石長行(正風)のように広範な一次史料が残存しているわけではない人物の場合、後世の編纂物や系図が誤りを含んでいたり、憶測に基づいていたりする可能性を常に念頭に置く必要がある。複数の情報源で一致する情報であっても、その元が一つの誤った情報源である可能性も否定できない。矛盾する情報が存在する場合には、より一次史料に近いもの、あるいは論理的整合性の高いものを優先的に検討すべきであるが、断定は避け、諸説あることを明記する姿勢が求められる。
明石長行(正風)および関連する「太山寺本」に関しては、学術的な研究も行われている。その中でも特に注目されるのが、村上美登志氏と依藤保氏による研究と、それらを巡る議論である。
村上美登志氏は、論文「太山寺本『曽我物語』とその時代 ―太山寺本奉納者明石長行と亡妻昌慶禅定尼をめぐって―」(『中世文学』39号、1994年6月発行、中世文学会)5 を発表している。この論文のDOIは 10.24604/chusei.39_96 である 17。この論文は、副題からも明らかなように、太山寺本の奉納者である明石長行と、その妻である昌慶禅定尼に焦点を当てており、彼らの人物像、太山寺本寄進の歴史的背景、さらには昌慶禅定尼の出自(例えば宇喜多氏との関連など)について詳細な考証がなされているものと期待される。
この村上氏の論文に対して、依藤保氏が批判的検討を加えた論考「『太山寺本『曽我物語』とその時代』を読んで -村上美登志の明石氏系譜研究への批判-」が、神戸史学会の機関誌『歴史と神戸』第35巻第2号(通巻195号、1996年4月1日発行)に掲載されている 29。この批判論文の存在は、村上氏が提示した明石氏の系譜に関する研究に対して、学術的な異論が存在することを示している。
これらの学術論文の具体的な内容にまでは、提供された資料からは深く踏み込めないものの、その存在自体が、明石長行(正風)という人物が歴史学および国文学の研究対象として重要視されていること、そしてその解釈には複数の見解が並立し得ることを示している。「明石氏系譜研究への批判」という副題からは、特に明石長行(正風)の出自や一族関係について、村上説と依藤説の間で重要な論点が存在し、見解の相違がある可能性が強く推測される。この学術的対立の存在を認識することは、明石長行(正風)に関する研究の現状を理解する上で不可欠である。
本報告書では、戦国時代の武将・明石長行(正風)について、提供された資料群を基に多角的な調査を行った。その結果、以下の点が比較的確度の高い情報として確認された。
第一に、明石長行は天文8年(1539年)に、亡き妻・昌慶禅定尼の追善供養のため、播磨国太山寺に『曽我物語』を含む貴重な古典籍群(いわゆる「太山寺本」)を寄進した人物であること。この事績は、彼の名をとどめる最も重要なものの一つである。
第二に、明石正風(長行と同一人物と推定)は、黒田官兵衛孝高の母・岩姫の父であり、したがって官兵衛の母方の祖父にあたるという重要な姻戚関係にあったこと。この関係は、明石氏と黒田氏の結びつき、さらには明石氏の歴史的評価にも影響を与えている。
第三に、彼は天文年間(1532年~1555年)を中心に、播磨国明石郡の枝吉城を拠点としつつ、時には赤松氏に属し、また時には浦上氏と連携するなど、当時の複雑な政治状況の中で活動した国衆であったこと。通称として「四郎左衛門尉」、官途名として「備前守」を称したとされる。
一方で、その正確な生没年、父祖を含む詳細な系譜、赤松氏や浦上氏との具体的な関係性の変遷、さらには「長行」と「正風」という呼称の使い分けや関連性については、依然として不明な点が多く、史料によって記述に異同が見られるなど、諸説が存在する状況である。
限られた史料から浮かび上がる明石長行(正風)の人物像は、単なる一地方武将に留まらない多面性を持っている。太山寺への典籍寄進や、関白・近衛稙家への和歌伝授の逸話は、彼が高い教養と文化的関心を有していたことを示唆しており、戦国武将の文化人としての一面を垣間見せる。また、娘を黒田職隆に嫁がせ、黒田官兵衛の外祖父となったことは、婚姻政策を通じて有力武家との関係を構築しようとした当時の武家の姿を反映している。
彼の存在は、戦国期における播磨・備前地域の在地領主の動向を理解する上で貴重な事例を提供する。中央の大きな権力構造の変動の中で、国衆がいかにして自らの勢力を維持し、あるいは拡大しようとしたのか、その一端を明石長行(正風)の行動から読み取ることができる。また、太山寺本の存在は、中央の文化が地方へといかに伝播し、受容され、そして保存されていったかを示す文化史的意義も持つ。
明石長行(正風)に関する未解明な点を明らかにし、その実像にさらに迫るためには、いくつかの研究課題が挙げられる。
第一に、黒田家関連史料、特に『黒田家譜』などの詳細な再検討である。黒田官兵衛の外祖父という関係から、黒田側の記録に明石正風に関するより具体的な記述が残されている可能性は否定できない。
第二に、太山寺をはじめとする関連寺社に伝わる古文書のさらなる調査である。「太山寺文書」の全容解明や、他の未発見史料の探索が期待される。
第三に、村上美登志氏や依藤保氏らによる先行研究の内容を詳細に精査し、学術的論点を整理することである。これにより、明石氏の系譜や「太山寺本」寄進に関する研究の現在地を正確に把握し、今後の研究の方向性を見出すことができる。
明石長行(正風)の研究は、一地方武将の生涯を追うことに留まらず、戦国期の地域社会、文化の様相、武家間のネットワークの実態を具体的に理解する上での重要なケーススタディとなり得る。彼の記録の断片性は、戦国を生きた多様な人物たちの歴史が、いかにして記録として残り、また時には失われていったのかを考える上でも、示唆に富む事例と言えるだろう。
年代 |
出来事 |
主な関連人物 |
典拠 (例) |
備考 |
大永4年 (1524) |
(明石正風の生年とされる説があるが、黒田職隆の生年との混同の可能性が高い) |
(明石正風) |
11 |
生年は不明とするのが妥当。 |
享禄4年 (1531) |
武庫河原の戦いで浦上村宗に勝利 (赤松方として)。 |
明石正風 |
5 |
|
天文7年 (1538) |
尼子晴久の播磨侵攻。明石正風は小寺則職と共に尼子方に呼応し赤松政村と交戦、敗れて淡路へ逃亡後、和睦。 |
明石正風、尼子晴久、赤松政村 |
5 |
第一次枝吉城の戦いに関連する可能性あり ( 16 では天文8年)。 |
天文8年 (1539) |
4月8日:第一次枝吉城の戦い。赤松晴政・細川持隆連合軍が枝吉城の明石正風を攻囲、正風は和睦。 |
明石正風、赤松晴政 |
14 |
『赤松記』による。 15 では明石長行・祐行父子が降参したとされる。 |
天文8年 (1539) |
11月2日:妻・昌慶禅定尼の一周忌に際し、太山寺に古典籍(太山寺本)を寄進。 |
明石長行、昌慶禅定尼 |
1 |
『曽我物語』(重文)などが含まれる。 |
天文8年 (1539) |
浦上宗景より備前国福岡庄の代官職を任される。 1 |
明石長行、浦上宗景 |
1 |
寄進の経緯について異説あり。 |
天文8年 (1539) |
浦上宗景と連署して赤松晴政に書状を送る。 |
明石長行、浦上宗景 |
1 |
長行が宗景の家臣であったかについては、この書状だけでは断定できないとの注釈あり。 |
天文年間 |
四郎左衛門尉を名乗り活動。 |
明石長行 |
1 |
|
(不明) |
娘・岩姫 (1532-1560) が黒田職隆に嫁ぐ。 |
明石正風、岩姫、黒田職隆 |
5 |
黒田官兵衛の母。 |
天文23年(1554)頃 |
第二次枝吉合戦。三好長慶が播磨に侵攻。明石左京亮祐行(正風の子とされる)が枝吉城で応戦。太山寺が三好方の陣となる。 |
明石祐行、三好長慶 |
15 |
日輪寺、大谷寺などが焼失したと伝わる。 |
天正13年(1585) |
(明石正風の没年とされる説があるが、黒田職隆の没年との混同の可能性が高い) |
(明石正風) |
11 |
没年は不明とするのが妥当。 |