最上義俊は祖父の57万石を継承も、家臣対立と幕府政策で5年で改易、27歳で死去。単なる暗君でなく、時代の犠牲者として再評価されるべき悲劇の君主。
最上義俊(もがみ よしとし)は、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけての歴史において、特異な悲劇性を帯びた人物として記憶されている。祖父である「出羽の驍将」最上義光が一代で築き上げた出羽山形57万石という広大な版図を、元和3年(1617年)にわずか13歳で継承しながら、そのわずか5年後にはすべてを失い、27歳という若さで失意のうちに生涯を閉じた 1 。
従来、彼の評価は「若年の上、不行跡などで御家騒動を招き、改易された」という言葉に集約されがちであった 1 。すなわち、藩主としての器量に欠ける「暗君」であったがゆえに、巨大な領国を維持できず、家を滅ぼしたという見方である。しかし、この評価はあまりに一面的ではないだろうか。57万石という、徳川御三家や大大名に匹敵する石高を誇った名門・最上家が、なぜ義光の死後わずか8年という短期間で崩壊に至ったのか。その原因を、若き当主一人の資質にのみ求めることは、歴史の複雑な綾を見過ごすことになりかねない。
彼の悲劇は、個人の資質のみに起因するものではなく、むしろ複数の要因が複雑に絡み合った結果として生じたと見るべきである。第一に、祖父・義光の代から最上家に内包されていた構造的矛盾。第二に、独立性の強い家臣団の激しい派閥対立と、それに翻弄される若き当主の無力さ。そして第三に、「元和偃武」と呼ばれる、徳川幕府が全国支配を盤石にするための政治的潮流である。
本報告書は、最上義俊という一個人の生涯を丹念に追うとともに、彼を取り巻くこれらの複合的な要因を多角的に分析することを目的とする。第一章では騒動の遠因となった最上家の光と影を、第二章では騒動の具体的な展開と義俊の人物像の再検討を、第三章では幕府の介入と改易に至る政治的背景を、そして第四章では改易後の義俊と最上家の運命を詳述する。これらの分析を通じて、単なる「暗君」というレッテルを剥がし、最上義俊という人物の歴史的実像、そして彼が直面した悲劇の本質に迫りたい。
最上義俊の悲劇を理解するためには、まず彼が継承した「57万石」という遺産が、いかにして築かれ、そしていかなる脆弱性を内包していたのかを検証する必要がある。その栄光は祖父・最上義光一人の才覚に大きく依存しており、その裏には次代を揺るがす深刻な亀裂が潜んでいた。
最上氏は、室町幕府の管領家である斯波氏の分家・斯波兼頼を祖とし、出羽国最上郡を本拠とした名門である 3 。しかし、戦国期には周辺の伊達氏や小野寺氏との抗争の中で、その勢力は必ずしも盤石ではなかった 3 。この状況を一変させたのが、第11代当主・最上義光(よしあき)である。
義光は、伊達輝宗(政宗の父)に嫁いだ妹・保春院を通じて伊達家と姻戚関係を結びつつも、時には激しく争い、また巧みな外交戦略を展開した。特に中央の織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康との関係構築に早くから着手し、自らの立場を有利に進めた 3 。その政治手腕が最も発揮されたのが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに連動して発生した「慶長出羽合戦」である。東軍に与した義光は、西軍・上杉景勝の猛攻を寡兵で耐え抜き、徳川家康から高く評価された。この戦功により、庄内地方などを加増され、出羽山形57万石の大大名へと一躍昇り詰めたのである 3 。
義光は軍事のみならず、領国経営においても卓越した手腕を見せた。居城である山形城を大規模に拡張・改修し、城下町の整備や治水事業(最上川の改修など)を精力的に推進した 4 。その善政は領民から慕われ、「最上源五郎は役をばかけぬ」と謳われるほどであったという 5 。義光一代にして、最上家はまさに栄華の頂点を極めたのである。
しかし、この輝かしい栄光の裏には、深刻な構造的脆弱性が存在した。最上家の57万石という広大な領国は、義光一代の急激な勢力拡大によって成立したものであり、支配体制の確立が追いついていなかった 6 。その内実は、中央集権的な統治機構というより、独立性の強い一門や、元は国人領主であった譜代家臣団を内包した、一種の「連合体」に近い性格を持っていた 7 。
この脆弱性を象徴するのが、家臣団の知行高である。『最上家伝覚書』によれば、万石以上の家臣が16人、家臣全体の知行高を合計すると66万石余にもなり、藩の公称石高である57万石を上回るという異常な状態であった 6 。これは、家臣たちが藩主から知行を与えられるというよりも、自らの所領を安堵された半独立的な領主として振る舞っていた実態を示唆している。義光という強力なカリスマを持つ当主の存命中は、この連合体はかろうじて結束を保っていたが、彼の死後、その求心力が失われた時、この構造的脆弱性は家臣団の暴走という形で一気に露呈することになる。
最上家の悲劇の直接的な根源は、義光の晩年に起きた家督相続問題にまで遡ることができる。義光が築いた栄華は、同時に次代以降の深刻な対立の火種を孕んでいた。
本来、家督を継ぐべきは嫡男の最上義康であった。しかし、義康は父・義光との間に確執があり、その関係は険悪であったとされる 8 。慶長8年(1603年)、義康は何者かによって暗殺されるという悲劇的な結末を迎える 9 。この事件の真相は今なお不明な点が多いが、義光自身による謀殺説が有力視されており、最上家の歴史に暗い影を落としている 10 。
義康に代わって後継者となったのが、次男の家親(いえちか)であった 8 。家親は早くから徳川家康・秀忠父子に近侍として仕え、特に家康からは大いに寵愛を受けていた 9 。義光が幕府との強固な関係を最優先し、御家の安泰を図るために、幕府に気に入られている家親を後継者に据えたことは、政治的判断としては合理的であったかもしれない 3 。
しかし、この一連の継承劇は、最上家の家臣団に二つの危険な前例を植え付けた。一つは、「家督は必ずしも正嫡(長子)が継ぐものではない」という認識。もう一つは、「幕府の意向や家中の権力闘争次第で、当主の座は覆りうる」という危険な思想である。義光が家の安泰のために下した決断は、皮肉にも、後の世代が叔父の山野辺義忠を擁立して若き当主・義俊を廃そうとする動きの、格好の口実と正当性の根拠を与えてしまった。義俊が直面することになる危機は、彼自身が生み出したものではなく、祖父・義光の代に埋め込まれた「時限爆弾」であったと言えるだろう。
父・義光の死後、家督を継いだ家親は、幕府への忠誠を明確に示すことで、最上家の立場を安定させようと努めた。大坂冬の陣が勃発すると、豊臣家と親密な関係にあった実弟の清水義親を誅殺し、徳川方としての立場を鮮明にした 8 。また、冬の陣・夏の陣を通じて江戸城の留守居役を務め、幕府からの信頼を得ようとした 8 。
しかし、彼の治世は長くは続かなかった。元和3年(1617年)、家親は江戸屋敷にて36歳の若さで急死する 12 。幕府の公式記録である『徳川実紀』には、その死の様子が「猿楽を見ながら頓死す。人皆これをあやしむ」と記されている 8 。このあまりに突然で不自然な死は、毒殺の疑惑を強く抱かせるものであり、実際に家臣の間でもその噂が絶えなかった 15 。この謎に満ちた死が、当時まだ13歳であった嫡男・義俊を藩主の座に押し上げ、最上家を破滅へと導く御家騒動の直接的な引き金となるのである。
父・家親の急死により、最上義俊は広大な領国と、それ以上に根深い藩内の対立という重すぎる遺産を継承した。彼の治世は、若き藩主をないがしろにした家臣たちの権力闘争によって、終始混乱を極めることになる。
元和3年(1617年)、父の死を受けて、義俊は13歳で山形藩57万石の第3代藩主となった 1 。当初の名は家信(いえのぶ)であり、この「家」の一字は徳川将軍家から拝領した偏諱であったことからも、幕府からの期待がうかがえる。しかし、後に改易された際、この栄誉ある字を返上し、「義俊」と改名することになる 1 。
しかし、若年の義俊に、祖父・義光のようなカリスマや、父・家親が築いた幕府との個人的なパイプはなかった。藩内では早くから彼の器量を疑問視する声が上がり、統制は困難を極めた。この状況を憂慮した幕府は、元和4年(1618年)と元和6年(1620年)の二度にわたり、藩政を監督・監察するための目付を山形へ派遣するという異例の措置を取っている 11 。この事実は、義俊が家督を継いだ当初から、最上家の統治能力が幕府から危険視されていたことを示している。藩内の亀裂は、もはや内部での解決が不可能なレベルにまで達していた。
義俊の治世下で、最上家臣団の対立は先鋭化し、藩は二つの派閥に分裂して激しい権力闘争を繰り広げた。
一方の派閥は、若年の義俊では藩主の器ではないと見なし、義光の四男であり、武勇や人望に厚かったとされる義俊の叔父・山野辺義忠(やまのべ よしただ)を新たな藩主として擁立しようと画策した 1 。この反義俊派の中心には、山野辺義忠自身に加え、最上家譜代の重臣である鮭延秀綱(さきのべ ひでつな)らがいた 8 。彼らは公然と義俊の指導力に疑問を呈し、藩政の主導権を握ろうとした。
この膠着した対立に火をつけたのが、義光の甥にあたる松根光広(まつね あきひろ)であった。彼が義俊を擁護する立場から行動したのか、あるいは別の政治的意図があったのかは定かではない。しかし、元和8年(1622年)、光広は江戸幕府の老中・酒井忠世に対し、「先代藩主・家親の死は、義光の弟である楯岡光直(たておか あきなお)らによる毒殺であった」と正式に訴え出たのである 8 。この告発により、それまで藩内の問題であった内紛は、幕府の裁定を仰がざるを得ない公的な「御家騒動」へと発展した。
毒殺の嫌疑をかけられた楯岡光直は、義俊から見れば大叔父にあたる一門の重鎮であった。彼は幕府の調査を受けたが、結局、毒殺を裏付ける証拠は発見されなかった 8 。しかし、この訴えは藩内の対立を決定的にし、もはや修復不可能な状態へと陥れた。
この複雑な人間関係と対立構造を整理するため、以下に主要人物の相関図を示す。
人物名 |
続柄(義俊との関係) |
騒動における立場・役割 |
最終的な処遇 |
最上義俊 |
当事者(藩主) |
藩主。家臣団の統制に苦慮。 |
改易後、近江大森1万石へ。27歳で死去。 |
最上家親 |
父 |
先代藩主。彼の謎の死が騒動の引き金となる。 |
元和3年(1617年)に急死。 |
最上義光 |
祖父 |
初代藩主。彼の代に作られた家督継承の前例と藩の構造が騒動の遠因となる。 |
慶長19年(1614年)に死去。 |
山野辺義忠 |
叔父(義光の四男) |
反義俊派の旗頭。新藩主として擁立が画策される。 |
改易後、岡山藩預かりを経て水戸藩家老となる。 |
鮭延秀綱 |
重臣 |
反義俊派の重臣。山野辺義忠を支持し、幕府の裁定にも反発。 |
改易後、他家預かり。 |
松根光広 |
従叔父(義光の甥) |
騒動の告発者。「家親毒殺説」を幕府に訴え出る。 |
訴えが偽りとされ、柳河藩立花家へ配流。 |
楯岡光直 |
大叔父(義光の弟) |
毒殺の嫌疑をかけられた人物。 |
嫌疑は不問となるが、改易後は細川家預かり。 |
最上義俊を語る上で頻繁に引用されるのが、彼の「不行跡」である。特に、若年の藩主が「凡庸で文弱に溺れた」とされ、これが先代からの譜代家臣たちの信頼を失い、御家騒動を招いた一因とされてきた 8 。この評価は、彼が藩主としてのリーダーシップを発揮できなかった事実を指している。
しかし、この「暗君」という人物像は、一面的である可能性を否定できない。注目すべきは、元和5年(1619年)の福島正則改易に際しての一件である。この時、幕府は広島城の受け取りを命じたが、義俊はその立ち会いの任において、若年ながら見事な軍勢の統率力を発揮した。その働きは二代将軍・徳川秀忠の耳にも達し、直々に賞賛され、刀を賜ったという逸話が残っている 1 。
この二つの相容れない評価は、義俊の人物像が、騒動の過程や後世の視点によって意図的に構築された可能性を示唆している。すなわち、「凡庸」「文弱」という評価は、義俊を廃して山野辺義忠を擁立しようとした反対派にとって、自らのクーデター的な行動を正当化するための格好のプロパガンダであったと考えられる。一方で、将軍秀忠による公の場での評価は、彼が少なくとも幕府から与えられた職務を滞りなく遂行する能力と責任感を持ち合わせていたことを客観的に証明している。
これらの事実を総合すると、義俊は武断的な気風が色濃く残る最上家の家風とは相容れない、文化的・内向的な資質の持ち主であったのかもしれない。しかし、それは必ずしも「無能」を意味するものではない。彼に貼られた「不行跡」のレッテルは、統制不能なまでに分裂した家臣団をまとめきれなかった「結果としての無力さ」を指しているのであり、必ずしも彼個人の怠慢や悪徳を示すものではないと捉え直すことが可能であろう。彼は、自らの手に余る巨大な組織の崩壊という運命に、なすすべもなく巻き込まれていった悲劇の当主だったのかもしれない。
最上家の内紛は、松根光広の直訴によって幕府の公式な裁定の場へと引きずり出された。当初は温情的な解決を目指した幕府であったが、家臣団の強硬な態度と、当時の政治情勢が相まって、最終的に最上家は改易という最も厳しい結末を迎えることになる。
松根光広による「家親毒殺説」の訴えを受け、幕府は関係者の取り調べを開始した。老中・酒井忠世が中心となり、嫌疑をかけられた楯岡光直を査問したが、毒殺を裏付ける決定的な証拠は見つからなかった 8 。結果、幕府はこの訴えを「事実無根」と断定し、騒動を巻き起こした張本人として松根光広を筑後柳河藩主・立花宗茂のもとへ配流(お預け)処分とした 8 。
一方で、幕府は最上家の深刻な内紛を重く見て、その解決に乗り出した。徳川家康の代から同盟関係にあった最上家に対し、幕府が当初提示した裁定案は、驚くほど温情的なものであった。その内容は、「藩主・義俊には一旦、本領である山形57万石を離れ、別の地に新たに6万石を与える。そして、義俊が壮年に達し、藩主としての器量が備わった後に、再び山形の本領を還す」というものであった 1 。これは、若き義俊と対立する家臣団を物理的に引き離し、時間的猶予を設けることで事態の軟着陸を図ろうとする、極めて配慮に富んだ仲裁案であった。
しかし、この幕府の温情ある裁定を、反義俊派の家臣たちは受け入れなかった。山野辺義忠と重臣・鮭延秀綱らは、この裁定に納得せず、「松根のような(藩を混乱させた)家臣を重用する義俊を、我々は当主として盛り立てていくことはできない」と公然と幕府に言上したのである 8 。これは、藩主個人の資質を問題視するに留まらず、幕府最高権力機関である老中会議が下した決定そのものを拒否するに等しい行為であった。彼らのこの頑なな態度は、最上家の運命を決定づける致命的な失策となる。
家臣団が将軍の代理である老中の裁定を公然と拒否したことは、確立しつつあった幕藩体制の秩序に対する重大な挑戦と受け取られた。幕府は態度を硬化させ、もはや温情は不要と判断した。元和8年(1622年)8月21日、幕府は最終的な裁定として、最上家に対し出羽山形57万石(51万石とも)の所領をすべて没収する「改易」を命じた 1 。
この処分は、江戸時代を通じて最大級の改易事件の一つであった。没収された石高は、大坂の陣で滅亡した豊臣秀頼(約65万石)、将軍・秀忠の弟でありながら改易された松平忠輝(約75万石)に次ぐ規模であり、一大名家の御家騒動に対する懲罰としては異例の厳しさであった 8 。
この厳しい処分の背景には、単なる御家騒動への懲罰というだけではない、幕府の明確な政治的意図が存在した。この時期は、元和元年(1615年)の大坂夏の陣終結後、世の中が戦乱から泰平へと移行する「元和偃武」の時代であった。徳川幕府は、支配体制を盤石にするため、特に有力な外様大名の力を削ぎ、幕府に反抗する可能性のある勢力を徹底的に排除する政策を強力に推進していた。元和5年(1619年)の福島正則(広島49万石)の改易や、同じ元和8年(1622年)の本多正純(宇都宮15万5千石)の改易など、些細な法令違反を口実に大大名が次々と取り潰されていたのである 20 。
このような時代背景において、東北地方に巨大な勢力を持つ外様大名・最上家の内紛は、幕府にとって渡りに船であった。幕府は、この騒動を絶好の口実として、57万石という巨大な領地を解体し、その跡地に親藩や譜代大名を配置することで、奥羽地方への直接的な支配力を一気に強化しようとしたのである 7 。最上家の家臣団の頑なな抵抗が改易の直接的な引き金となったことは間違いないが、その背後には、幕府の冷徹な国家戦略があった。最上家は、時代の大きな奔流に飲み込まれたのである。
最上家の改易後、その広大な領地は幕府の意向に沿って分割・再編された。山形城には譜代大名の鳥居忠政が22万石で入部し、その他、新庄藩(戸沢政盛)、上山藩(松平重忠)、本荘藩などが新設され、庄内地方には同じく譜代の重臣である酒井忠勝が鶴岡城主として入った 21 。これにより、かつて最上家が支配した地域は細分化され、幕府の統制が隅々まで及ぶ体制が構築された。
この一連の過程で、奇妙な事件が起きている。最上家の改易を執行し、山形城の受け取りの正使であった老中・本多正純が、その任務の道中で突如として失脚し、改易させられるという事件である(宇都宮城釣天井事件) 8 。この事件は、最上家の改易が、単なる一地方大名の問題に留まらず、幕府中枢における将軍側近たちの熾烈な権力闘争とも密接に連動していたことを強く示唆している。最上家の悲劇は、江戸初期の政治のダイナミズムを象徴する、複雑な背景を持っていたのである。
57万石という広大な領国を失った最上義俊であったが、幕府は家康の代からの旧功に免じ、最上家の家名存続は許した。しかし、その処遇は懲罰的な意味合いが色濃く、義俊のその後の人生は短いものとなった。彼の死後、最上家は旗本としてかろうじて命脈を保っていくことになる。
元和8年(1622年)の改易処分と同時に、義俊には近江国蒲生郡・愛知郡・甲賀郡および三河国内に、新たに計1万石の知行地が与えられた 1 。これにより、近江大森(現在の滋賀県東近江市大森町)に陣屋を構える大森藩が立藩され、義俊は辛うじて大名としての身分を保つことができた 25 。
しかし、この1万石は通常の大名が領する所領とは性格が異なっていた。諸史料には、この所領が「御扶持方(おふちかた)」や「堪忍分(かんにんぶん)」といった名目で与えられたと記されている 24 。これは、幕府から給与として与えられる扶持米に近い性格を持つものであり、大名としての自主的な領国経営が大幅に制限され、幕府の厳重な監視下に置かれていたことを意味する。57万石からの転落は、石高の数字以上に過酷なものであった。
近江に移った義俊は、大森の地に陣屋を構えて新たな生活を始めた 27 。しかし、故郷を遠く離れた地での生活と、巨大な藩を失った失意は、彼の心身を深く蝕んだのかもしれない。転封からわずか10年後の寛永8年(1631年)11月22日、最上義俊は江戸屋敷にて病死した 1 。享年27(満26歳)という、あまりにも早い死であった 1 。
彼の亡骸は江戸・浅草の万隆寺に葬られ、また故郷である山形の光禅寺にも墓所が設けられている 1 。戒名は「月照院殿華岳英心大居士」 1 。その名は、彼の短い生涯が、華やかであった最上家の栄光がまさに月のように欠けていく様を象徴しているかのようである。
義俊の死後、家督は嫡男の最上義智(よしとも)が継承した。しかし、当時、義智は寛永8年(1631年)生まれの、わずか1歳(数え年で2歳)の幼児であった 30 。幕府は当主が幼少であることを理由に、さらなる減封を断行。義俊に与えられていた1万石のうち、三河国の5000石は収公され、近江国内の5000石のみが安堵されることとなった 25 。
この処分により、最上家の知行は1万石を下回り、大名の地位を完全に失った。以後、最上家は5000石の旗本として存続することになる。しかし、その家格は一般の旗本よりも高く、江戸城への出仕や参勤交代の義務を持つ大名に準ずる格式の「交代寄合」として遇された 30 。最上家は、かつての栄光の面影をわずかに残しながら、近江大森の地で明治維新までその血脈を伝えていくことになる。
興味深いのは、義俊とその子・義智に対する後世の評価が対照的である点だ。藩を失った父・義俊が「暗君」の烙印を押されたのに対し、5000石の旗本となった息子・義智は、領地において「名君」として伝えられている 32 。事実、義智の旧領地である東近江市には、彼の徳を偲んで領民が踊り始めたとされる郷土芸能「最上踊り」が、滋賀県の無形民俗文化財として今なお受け継がれている 32 。
この対照的な評価は、一つの重要な事実を示唆している。義俊の悲劇は、彼が「57万石」という、彼の器量や当時の政治状況では到底背負いきれない重荷を課せられたことに起因するのではないか。一方で、息子・義智は「5000石」という身の丈に合った領地で、かつ内紛の火種もなくなった安定した状況下で統治に専念できたため、名君としての評価を得ることができた。これは、義俊の悲劇が個人的資質の問題だけでなく、彼が置かれた「状況」の問題であったことを逆説的に証明している。最上家に代々続いた悲劇の連鎖は、皮肉にも改易と減封という没落によって、ようやく断ち切られたのかもしれない。
最上義俊の生涯と、彼が当主であった時代の最上家の改易は、単に「若き暗君が家を滅ぼした」という一言で片付けられる単純な事件ではない。その背景には、個人的資質を超えた、複数の歴史的要因が複雑に絡み合っていた。
第一の要因は、最上家自身が内包していた 内的・構造的要因 である。祖父・義光が正嫡の義康を廃し、幕府の意向を汲んで次男・家親を後継者としたことは、家臣団に「家督は実力と政治で覆る」という危険な前例を示した 3 。加えて、急拡大した領国は中央集権化が不十分な「連合体」であり、強力な家臣団を統制する仕組みが脆弱であった 6 。この不安定な土台の上に、義俊は立たされていたのである。
第二の要因は、 人的要因 、すなわち統制不能な家臣団の存在である。山野辺義忠を擁立しようとする一派は、若き藩主を支えるどころか、その権威を失墜させようと画策した。最終的に彼らが幕府の仲裁案すら拒否したことは、将軍の権威への挑戦と見なされ、改易という最悪の結末を招く決定的な引き金となった 7 。義俊は、この家臣たちの暴走を止める術を持たなかった。
そして第三の要因は、 外的・時代的要因 である。義俊が家督を継いだ元和年間は、徳川幕府が「元和偃武」のスローガンの下、有力外様大名の力を削ぎ、幕藩体制を盤石にしようと躍起になっていた時代であった 7 。幕府にとって、最上家の内紛は、東北の雄である57万石の大大名を取り潰し、その領地を幕府の支配下に組み込むための絶好の口実であった。最上家は、時代の大きな政治的潮流の前に、抗うすべもなく飲み込まれたのである。
これらの複合的な要因を考慮する時、最上義俊の人物像は再構築されるべきである。彼が傑出した君主でなかったことは事実かもしれない。しかし、すべての責任を彼一人に負わせる「暗君」という評価は、歴史の複雑さを見過ごした短絡的な見方と言わざるを得ない。
むしろ彼は、祖父が残した負の遺産、分裂し暴走する家臣団、そして大名家を取り潰す機会をうかがう幕府という、自らの意思ではどうすることもできない三つの巨大な歯車に翻弄された人物であった。彼は、名門最上家の終焉という役割を運命づけられた「時代の犠牲者」として捉え直すことが、より公正な評価と言えるだろう。最上義俊の短い生涯は、戦国から江戸へと移行する時代の激しい転換期において、一個人のみならず一つの大名家が直面した悲劇の象徴として、後世に多くの教訓を投げかけている。