最上義定は羽州探題最上家9代当主。伊達稙宗の侵攻で大敗し、伊達氏の傀儡となる。嫡子不在のまま死去し、伊達氏による最上家乗っ取りを招いた。
戦国時代の出羽国にその名を刻む最上家は、室町幕府において三管領家の一つに数えられた名門、斯波氏の血脈を引く武家である 1 。その祖、斯波兼頼は南北朝の動乱期、北朝方として羽州探題に任じられ、延文元年(1356年)に山形に入部した 2 。以来、最上家は代々羽州探題職を世襲し、出羽国における武家の棟梁としての格式を誇ってきた。しかし、応仁の乱を経て戦国の世が本格化すると、幕府の権威は失墜し、それに伴い羽州探題という職名もまた、その実質的な影響力を失っていった。最上義定が歴史の表舞台に登場する16世紀初頭には、かつて出羽一円に及んだはずの探題家の威令も、本拠地である村山地方周辺をかろうじて維持するに過ぎない、いわば「地域権力化」した状態にあった 4 。
義定の父であり、最上家8代当主であった最上義淳の治世は、この構造的な弱体化に直面しつつ、内外の脅威に対処する苦難の時代であった。南方に目を向ければ、置賜地方の旧守護・長井氏を滅ぼした伊達氏が、米沢を新たな本拠として着実に勢力を拡大し、虎視眈眈と北進の機会を窺っていた 3 。一方で、最上家の膝元である村山郡内には、鎌倉以来の名門・大江氏の血を引く寒河江氏が根を張り、長年にわたって最上氏と領地の覇権を争う宿敵として存在し続けていた 5 。
このように、最上義定が家督を継承する直前の出羽国は、最上家が内部の統制と宿敵との対峙に追われる一方で、南方からは伊達氏という巨大な脅威が刻一刻と迫りつつある、極めて不安定な政治情勢の只中にあった。義定が相続したのは、羽州探題という輝かしい家格とは裏腹に、すでに往時の勢いを失い、内外に深刻な課題を抱えた「斜陽の探題家」であった。彼の生涯を特徴づける悲劇は、単なる一個人の力量不足に起因するものではなく、この構造的な脆弱性と、伊達氏の急成長という時代の大きなうねりが交差した点に、その本質的な原因を見出すことができるのである。
永正元年(1504年)、父・義淳の死を受けて、最上義定は最上家9代当主として山形城主の座を継いだ 7 。通称を出羽太郎と称した義定は 11 、家督を相続するや否や、父祖の代からの課題であった領国の安定化と勢力拡大に、野心的な姿勢で取り組み始める。当時の最上家は、宗家を中心としながらも、天童氏、中野氏、山野辺氏といった有力な一門(庶流)が各地に分立し、必ずしも宗家の統制力が盤石とは言えない状況にあった。義定の初期の行動は、この脆弱な権力基盤を再構築し、失われつつあった探題家の権威を取り戻そうとする、強い意志の表れであった。
その野心が最も顕著に示されたのが、家督相続と同年に起こった、宿敵・寒河江氏への軍事介入である。長年のライバルであった寒河江氏の内部で当主の死に伴う後継者争いが勃発したことを好機と捉えた義定は、間髪入れずに軍を派遣した 5 。三度にわたる攻撃の末、義定は寒河江氏との和議を成立させ、一時的ではあるがこれを傘下に収めることに成功する 5 。この一連の軍事行動の過程で、寒河江荘の宗教的中心であった大寺・慈恩寺が兵火によって焼失したとの記録も残っており、その介入が如何に激しいものであったかを物語っている 7 。この成功は、義定が単に家督を守るだけの守勢の君主ではなく、村山郡の完全統一という明確な目標を掲げた、行動力のある人物であったことを示している。
軍事的な成功と並行して、義定は政略によっても領国の安定を図ろうとした。まず、最上氏一門の中でも有力な山野辺氏の当主・山野辺直広の娘を自らの正室として迎えた 11 。これは、一門との結束を固め、宗家の権力基盤を強化するための、当時の戦国大名としては極めて標準的な婚姻政策であった。さらに、屈服させた寒河江氏との関係を確かなものにするため、先々代の寒河江氏当主・知広の娘を、自らの弟が継いでいた中野氏の当主・義建の室として迎えさせている 7 。これにより、敵対関係にあった両家を婚姻によって結びつけ、支配を二重に固めようとしたのである。
義定の活動は村山郡内に留まらなかった。永正9年(1512年)、西方の庄内地方で武藤氏と砂越氏が争乱を起こした際には、その勝者が勢いに乗じて村山郡へ南下してくる事態を警戒し、自ら軍を率いて寒河江まで出陣している 7 。これは、彼が出羽国全体の情勢に鋭敏に反応し、領国の安全保障のために積極的に軍事力を行使する、活発な君主であったことを示している。
このように、最上義定の治世初期は、後世に伝えられる「伊達に敗れた弱将」という一面的なイメージとは大きく異なり、むしろ「失地回復と領国統一を目指す、野心と行動力を兼ね備えた君主」としての姿が浮かび上がる。彼の寒河江氏に対する一連の成功は、斜陽にあった最上家の再興を予感させるものであった。しかし、皮肉なことに、この積極果敢な勢力拡大こそが、南の巨人・伊達稙宗の強い警戒心を煽り、後の破滅的な介入を招く直接的な引き金となってしまったのである。彼の初期の成功は、自らの破滅の序曲でもあったのだ。
人物・勢力名 |
義定との関係 |
主要な動向・役割 |
伊達稙宗 |
宿敵、後に義兄 |
最上領に侵攻し、義定を屈服させる。義定死後は最上家を傀儡化。 |
寒河江氏 |
宿敵、後に同盟者 |
義定に一時服属。長谷堂で共に戦うも敗北。義定死後は反伊達で蜂起。 |
天童氏 |
最上氏一門(庶流) |
長谷堂で共に戦う。義定の権威失墜後、自立性を強め、反伊達蜂起に参加。 |
山野辺氏 |
最上氏一門、岳父 |
義定の最初の正室の実家。長谷堂の戦いで当主が戦死。 |
中野氏 |
最上氏一門(庶流) |
義定の弟が継承。義定死後、この家系から義守が当主として擁立される。 |
最上義定が村山郡の統一に向けて精力的に活動していた頃、南の置賜郡では伊達稙宗がその勢力を飛躍的に拡大させていた。稙宗は奥州探題・大崎氏の内紛に介入してこれを事実上の支配下に置くなど、南奥羽に一大勢力圏を築き上げつつあった 13 。彼の野心的な視線が、北隣で勢力を回復しつつある最上家に向けられるのは、もはや時間の問題であった。永正5年(1508年)頃から上山方面への進出を開始していた伊達氏は 12 、ついに永正十一年(1514年)、稙宗自らが大軍を率いて山形への本格的な侵攻を開始した 2 。この軍事行動の目的は、義定による村山郡統一の動きを未然に粉砕し、最上家そのものを伊達氏の勢力圏に組み込むことにあった。
この未曾有の国難に際し、義定は最上宗主として、領内の総力を結集して迎え撃つことを決意する。彼の呼びかけに応じ、天童氏、清水氏、延沢氏といった最上氏の有力な一門、そして前章で傘下に収めたばかりの寒河江氏らが馳せ参じ、一大連合軍が組織された 8 。義定はこの連合軍を率い、本拠・山形城の南方を守る最重要拠点である長谷堂城(はせどうじょう)を主戦場として、伊達軍の進撃を食い止めようとした 6 。
しかし、戦いの帰趨は無情であった。両軍が激突した長谷堂の戦いは、最上連合軍の決定的な大敗に終わる。信頼性の高い史料とされる『伊達正統世次考』によれば、この一戦で最上方は1000人を超える将兵を失い、軍は壊滅的な打撃を被った 8 。この敗北は、単なる兵力の損失に留まらなかった。義定の岳父であり、一門の重鎮であった山野辺直広、そして連合軍の中核を担っていた寒河江一族の吉川政周といった、最上宗家を支えるべき有力な武将たちが次々と討死したのである 8 。これは、最上家の軍事力の中枢を支える人的基盤そのものが崩壊したことを意味していた。
戦略上の要衝であった長谷堂城は伊達軍の手に落ち、稙宗は腹心の将である小梁川親朝を城主として駐留させた 12 。これにより、最上家の本拠地である山形城は、目と鼻の先に伊達軍の拠点を置かれることになり、常に直接的な脅威に晒されるという絶望的な状況に陥った。もはや山形城を維持することさえ困難となった義定は、屈辱のうちに居城を離れ、一門である中野氏が拠る中野城へと退避せざるを得なかった 3 。
「長谷堂の敗戦」は、最上義定個人の、そして最上家そのものの運命を決定づけた、単なる一合戦以上の意味を持つ歴史的な転換点であった。この一日ともいえる戦いによって、義定が治世初期に築き上げた政治的・軍事的な資産は一挙に失われた。最上家は、自立した戦国大名としての地位から、強大な隣国・伊達氏に従属する勢力へと、その立場を転落させたのである。義定の抱いた再興への野心は完全に打ち砕かれ、彼の残りの生涯は、この敗戦の後始末と、伊達氏の圧倒的な圧力の下での苦渋に満ちたものとなる。この敗北は、義定の治世を「野心と拡大」の前期と、「屈辱と従属」の後期へと、明確に分断する分水嶺となったのである。
長谷堂での壊滅的な敗北と、本拠地・山形城からの退避という絶望的な状況下で、最上義定に残された選択肢は極めて限られていた。敗戦の翌年、永正十二年(1515年)、義定は伊達稙宗との和睦に踏み切る。その条件は、それまでの正室であった山野辺氏の娘との離縁を前提とし、新たに稙宗の妹(一説には父・尚宗の娘ともされる 12 )を正室として迎えるという、極めて屈辱的なものであった 2 。
この婚姻は、単なる縁組ではなく、最上家が伊達家の姻戚となることで、その政治的な優位性を認め、事実上の支配下に入ることを意味する従属儀礼に他ならなかった。この和睦の成立をもって、山形城の喉元に突きつけられた刃であった長谷堂城駐留の伊達軍も撤退し 17 、表面的な平和は訪れた。しかし、それは最上家が自主性を代償として得た、かりそめの平穏であった。
この和睦がもたらした影響は、対外的な地位の低下だけに留まらなかった。宗主である義定の権威が、長谷堂での大敗と伊達氏への屈服によって完全に失墜したことは、最上家内部の権力構造にも深刻な地殻変動を引き起こした。これまで最上宗家に従属、あるいは同盟関係にあった天童氏、延沢氏、白鳥氏といった有力な庶流(分家)や国人領主たちは、もはや義定の威令を意に介さなくなった。彼らは宗家の統制から離れ、自立性を急速に強めていく。
特に天童氏を中心とした村山郡北部の国人たちは、互いに連携を深め、連合して宗家の意向に対抗する独自の政治勢力を形成し始める。これが、後に最上義光の領国統一事業において最大の障壁となる国人領主連合「最上八楯(もがみやつだて)」が形成される、直接的な遠因となった 5 。義定の敗北は、最上家を外部からの圧力に晒しただけでなく、内部からの分裂をも助長するという、二重の危機をもたらしたのである。
和睦成立後、最上家は事実上、伊達家の厳格な監督下に置かれ、領国経営における一切の自主性を喪失した 3 。伊達稙宗は、軍事占領という直接的でコストのかかる支配形態ではなく、婚姻関係を楔(くさび)として最上家を内部からコントロールするという、より巧妙で持続可能な支配体制の構築に着手した。義定の存在は、もはや独立した大名ではなく、伊達氏の意向を追認するための傀儡当主に過ぎなくなり、最上領の実権は、山形にはなく米沢の稙宗が掌握していた 5 。
この時代、伊達氏との和睦は、最上家にとって平和の到来を意味しなかった。それは、「見えざる支配」の始まりであり、最上家が自らの意思で未来を決定する権利を失った時代の幕開けであった。この苦渋の時代は、義定の死、そしてその後継者問題を巡る更なる混乱へと続いていくことになる。
伊達氏の風下に立ち、失意の日々を送っていた最上義定は、永正十七年(1520年)2月2日、その生涯を閉じた 11 。戒名を「雲祥寺殿惟翁勝公大居士」といい、その墓所は、かつて彼が退避した中野城の故地、現在の山形市中野にある雲祥院に現存している 12 。彼の死が最上家にもたらした最大の危機は、伊達家から迎えた正室との間に、家督を継承すべき男子が生まれなかったという事実であった 11 。この権力の空白は、最上家の内政に深く干渉する機会を窺っていた伊達稙宗にとって、まさに千載一遇の好機となった。
稙宗は、この機を逃さなかった。彼は最上家を完全に自らの影響下に置くため、後継者問題に決定的な介入を行う 20 。その計画は、最上家を滅ぼして直接統治するのではなく、最上家という「器」はそのままに、その中身を意のままに操れる人物に入れ替えるという、極めて周到なものであった。
稙宗が白羽の矢を立てたのは、最上家の血を引く者の中から選ばれた、義定の弟・中野義建の孫にあたる香(こう)という名の幼児であった 2 。彼は当時、わずか二歳。この幼児こそが、後の最上家10代当主・最上義守である。成人した有力な一門の武将ではなく、物心もつかぬ幼児を当主に据えるという選択は、稙宗の狙いがどこにあったかを雄弁に物語っている。すなわち、自らが後見人として最上領の実権を合法的かつ恒久的に掌握し、最上家を完全な傀儡と化すことであった 2 。
この前代未聞の家督相続は、義定の死から二年後の大永二年(1522年)にようやく決定された 19 。この二年間という空白の期間は、最上家中でこの伊達氏の露骨な介入に対する強い反発や抵抗、そして水面下での激しい交渉があったことを強く示唆している。しかし、最終的には伊達氏の圧倒的な政治力と軍事力の前に、最上家臣団は屈せざるを得なかった。
さらに、この後継者選びの裏には、より暗い謀略があった可能性を指摘する説も存在する。それは、義定には伊達氏から正室を迎える以前の、最初の妻であった山野辺直広の娘との間に、正当な後継者となりうる男子が実際に存在したというものである 11 。この説が事実であるとすれば、伊達稙宗の行動は、単なる後継者問題への「調停」や「介入」などではなく、正当な後継者を意図的に排除し、自らの意のままになる幼児を当主の座に据えた、まさしく「乗っ取り」、すなわち政治的クーデターであったことになる。確たる証拠に乏しい説ではあるが、稙宗のその後の行動原理や、二歳というあまりに不自然な後継者の年齢を鑑みれば、十分に考えうるシナリオとして歴史の闇に横たわっている。
最上義定の死と、それに続くわずか二歳の義守の家督相続は、伊達稙宗の深謀遠慮が最も鮮やかに、そして最も冷徹に発揮された局面であった。それは、戦国時代における権力闘争の非情さと、政治的支配の巧妙さを示す、象徴的な出来事として最上家の歴史に深く刻み込まれることとなった。
伊達稙宗の策謀によって、わずか二歳の最上義守が新たな当主として擁立されたことは、最上家の自主性が完全に失われたことを内外に示す決定的な出来事であった。この露骨な傀儡化に対し、これまで最上宗家の権威失墜を傍観、あるいは助長さえしてきた村山地方の国人領主たちの間に、強い危機感と反発の念が急速に広がっていった 15 。彼らは、たとえ最上宗家と利害が対立することはあっても、外部勢力である伊達氏に自らの土地が支配されることは断じて許容できなかったのである。
この反伊達の気運は、やがて具体的な軍事行動となって噴出する。まず口火を切ったのは、上山城主の最上義房(上山氏)であった。彼が伊達氏に対して反旗を翻すと、それに呼応するように、天童氏、高櫛氏、そしてかつて義定と共に伊達軍と戦った寒河江氏らも次々と蜂起し、村山地方の各地で反伊達の一揆が燃え上がった 15 。これは、最上家中の国人たちが、自らの存立をかけて伊達氏の支配に最後の抵抗を試みた、決死の蜂起であった。
しかし、国人たちの抵抗は、伊達稙宗の圧倒的な軍事力の前に脆くも粉砕される。反乱の報に接した稙宗は、自ら大軍を率いてただちに出羽へ侵攻。まず反乱の震源地である上山城を攻め落とすと、かつて義定が追われた山形城に堂々と本陣を構え、そこを拠点として周辺の反乱勢力の掃討作戦を開始した 19 。
伊達軍は高櫛館、天童城を次々と攻撃し、かつて義定が失った長谷堂城や、反乱の中心地であった上山城を再び占領するなど、徹底的な武力鎮圧を展開した 19 。壮大な軍勢を目の当たりにした寒河江氏も戦意を喪失し、稙宗に謝罪して伊達の軍門に降ることを余儀なくされた 15 。この容赦ない鎮圧作戦によって、最上領内に存在した反伊達勢力は一掃され、彼らの抵抗は完全に潰えた。
この一連の「傀儡擁立→反乱→鎮圧」というプロセスを経て、大永二年(1522年)、最上義守の家督相続は正式に確定した 19 。しかし、それはもはや最上家による自主的な決定ではなく、伊達氏による支配体制が武力によって追認されたに過ぎなかった。これにより、最上家は名実ともに伊達氏の完全な支配下に置かれることとなり、約20年間にわたる長く暗い従属の時代を迎える。
この屈辱的な状況が変化するのは、それから20年後の天文十一年(1542年)、宗主である伊達家内部で当主・稙宗とその嫡男・晴宗が家督を巡って争うという、未曾有の内乱「天文の乱」が勃発した時であった 22 。この伊達家の内紛に乗じ、青年へと成長した最上義守は、父祖の代からの宿願であった伊達氏からの自立を果たすべく、稙宗方についてこの乱に深く介入していくことになる 21 。義定の死後に始まった最上家の激震は、この天文の乱をもってようやく、新たな局面へと移行するのである。
最上義定の治世は、その後の最上家の歴史に、二つの重い「負の遺産」を遺した。第一に、そして最も決定的なのは、「伊達氏からの自立」という、その後数十年にわたって最上家を縛り続けることになる国家的課題である。長谷堂での一度の敗戦と、その後の後継者問題における対応の失敗は、最上家を長期にわたる伊達氏への従属へと追い込んだ。この屈辱的な関係を清算し、独立した戦国大名としての地位を回復することは、後継者である最上義守、そしてその子・義光の生涯をかけた宿願となった。
第二に、宗主である義定の権威が失墜したことは、最上家内部の分裂を深刻化させた。彼の敗北を契機に自立性を強めた天童氏らの有力庶流は、やがて「最上八楯」として連合し、宗家にとって内なる脅威として立ちはだかることになる。後の最上義光が、出羽統一という大事業に乗り出す際、まず乗り越えなければならなかったのは、伊達氏という外敵であると同時に、この内なる壁であった。義定の時代の混乱が、最上家中に根深い分裂の種を蒔いたのである。
では、最上義定は単なる「失敗した当主」として断じられるべきなのだろうか。彼の治世を詳細に検証すると、異なる側面も見えてくる。家督相続直後に見せた寒河江氏への積極的な介入など、治世初期の彼は領国統一に意欲を燃やす、決して無能な君主ではなかった 7 。しかし、彼の時代は、南奥羽において伊達稙宗という、戦国史上有数の傑出した才能がその勢力を爆発的に拡大させる時期と、不運にも完全に重なってしまった。彼の生涯は、強大な隣国の圧倒的な圧力の前に、一個人の努力や野心がいかに無力であるかを示す、一つの悲劇的な事例として捉えることができる。
最上義定の存在は、その子・義守、そして孫の代にあたり「出羽の驍将」と称されることになる最上義光の、華々しい活躍の影に隠れがちである。しかし、義定の時代に経験した苦難と屈辱の歴史こそが、義光の強烈な独立志向と、執拗ともいえる領国統一への渇望の原点となったことを忘れてはならない。義定の悲劇なくして、義光の英雄譚は始まり得なかったのである。
昭和期に編纂された『山形市史』などにおいて、最上義光の評価が、その謀略的な側面を強調される形で一時的に低下したことがある 24 。しかし、義定の時代から続く伊達氏との複雑で屈折した関係性を踏まえなければ、義光の行動原理やその功罪を正しく評価することはできない。
最上義定の歴史的役割は、「失敗者」としてではなく、次代への「課題設定者」として捉え直されるべきである。彼が解決できなかった「伊達からの自立」と「家中の分裂」という二つの課題は、そのまま最上義光の生涯をかけたテーマとなった。その意味で、最上義定の生涯は、最上氏が戦国大名として再生し、最大の版図を築き上げる壮大な物語の、不可欠な序章として再評価されるべき存在なのである。