最上義忠は、最上義光の四男。最上騒動で流罪となるも、水戸藩家老として徳川光圀の傅役を務め、波乱の生涯を全うした。
本報告書は、最上義忠(もがみ よしただ)という一人の武将の生涯を丹念に追うことを通じて、戦国大名が近世大名へと移行する激動の時代における権力構造の変化、特に大大名の改易と幕藩体制の確立過程を多角的に解明することを目的とする。
最上義忠は、歴史上、特異な位置を占める人物である。父・最上義光が一代で築き上げた出羽57万石という巨大領国の継承者候補でありながら 1 、その栄華をわずか数年で崩壊させた「最上騒動」の中心人物と見なされた。しかし、彼の物語はそこで終わらない。騒動の責を負って流罪となった後、徳川御三家筆頭の水戸藩に家老として召し抱えられ、名君・徳川光圀の傅役(ふやく、教育係)を務めるという劇的な再生を遂げた。彼の生涯は、江戸時代初期における「敗者」のその後の軌跡を考察する上で、他に類を見ない貴重な事例を提供する。
義忠の人生は、戦国時代的な実力主義と国人領主の自立性が色濃く残る大名家が、徳川幕府という新たな中央集権的権力の下でいかに再編され、あるいは淘汰されていったかを象徴している。彼の生涯を貫く破滅と再生の物語は、時代の大きな転換点を生きた武士の宿命と、近世武家社会の厳格さ、そしてそこに存在したかすかな光明を我々に示唆するものである。
最上義忠は、天正16年(1588年)、“出羽の驍将”と謳われた最上義光の四男として生を受けた 4 。幼名は比治利丸(ひじりまる)と称したと伝わる 4 。彼の母については、系図上は「某氏」と記されるのみで詳らかではないが、父・義光の正室であった大崎夫人の所生ではないかとする説が有力である 4 。
義忠の家庭環境は複雑であった。父・義光には多くの子供がおり、長兄・義康、次兄・家親、三兄・清水義親など、異母兄弟も存在した 6 。特に、早くから徳川家康・秀忠に近侍し、徳川家との深い結びつきを背景に後継者と目された次兄・家親とは、その出自や立場において対照的な存在であった 4 。
当初、義忠は父・義光から偏諱(へんき、名前の一字を与えること)を受け、「光茂(みつしげ)」と名乗っていた 4 。山形県内に現存する、彼の領主時代の活動を示す古文書は、すべて「光茂」の名で記されており 4 、「義忠」へと改名するのは、後年、最上家改易の責を負って流罪の身となってからのことと推測されている 6 。この改名は、単なる心機一転以上の意味を持っていたと考えられる。父・義光の威光を象徴する「光」の字を捨て、清和源氏の通字であり、武門の正統性や主君への忠誠を想起させる「義」と「忠」の字を用いたことは、最上家という過去の栄光と決別し、武士としての本分に立ち返って再起を期すという、彼の強い決意の表れと解釈できよう。それは、後の水戸徳川家への仕官という新たな人生への伏線ともなっていた。
光茂の非凡な器量は、早くから周囲に認められていた。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが目前に迫る中、彼は13歳にして徳川家康への人質(史料では「證人」)として赴いている 6 。この時、家康は幼い光茂に謁見し、「将来恐るべき怪童」と評したという逸話が残る 7 。この伝承は、彼が少年期から並々ならぬ素質を備えていたことを示唆している。
関ヶ原の戦後、光茂は山野辺家の名跡を継ぎ、出羽国山野辺城主として1万9300石を領した 1 。山野辺は山形城の北西に位置する要衝であり、彼が重要な支城を任されたことからも、父・義光の期待の大きさがうかがえる。
領主としての光茂は、優れた行政手腕を発揮した。山野辺城の大規模な拡張改修、城下町の建設と定期市の開設、さらには「釣樋堰(つりひぜき)」の改修に代表される治水事業や交通網の整備を精力的に行い、領民からは善政を敷いたと高く評価された 11 。これらの実績は、彼が単なる武人ではなく、卓越した為政者としての能力を有していたことの証左である。この若き日の統治経験と、それによって得られた家臣団からの厚い信望が、後に彼を最上家の次期当主候補として押し上げることになる重要な基盤となった。
最上家の栄華が頂点に達したその裏で、巨大な領国を蝕む亀裂はすでに深く進行していた。その根源は、父・義光が自らの手で蒔いた悲劇の種にあった。義光は、豊臣家との繋がりが深い長男・義康を疎んじ、徳川幕府との関係を重視して、家康・秀忠に近侍する次男・家親を後継者とすることを画策した。その結果、慶長年間(慶長8年説や16年説など諸説あり)に義康は暗殺されるという悲劇に見舞われる 2 。この非情な決断は、家督継承における正統性の原則を根底から揺るがし、後の家臣団の分裂と抗争を招く根本的な原因となった。
義光の死後、家督を継いだ家親であったが、その治世は長くは続かなかった。元和3年(1617年)、家親は山形城内で突如としてこの世を去る 18 。幕府の公式記録である『徳川実紀』に「猿楽を見ながら頓死す。人皆これを怪しむ」と記されているように、その死には毒殺の疑いが絶えず、藩内に深刻な疑心暗鬼を蔓延させた 8 。
家親の跡を継いだのは、まだ若年の嫡男・家信(後に義俊と改名)であった 17 。しかし、若く、指導力に欠けるとされた義俊には、巨大で複雑な最上家臣団を統率する力はなく、藩内に危険な権力の空白が生まれることとなった 9 。
藩主の相次ぐ不可解な死と幼君の登場という危機的状況下で、最上家臣団は二つの派閥に分裂し、激しい内紛へと突入する。
家臣団の多くは、若年の義俊に57万石の藩の未来を託すことを危惧し、山野辺城主として善政の実績があり、信望も厚い山野辺義忠(光茂)を新たな当主として擁立しようと画策した 5 。この「義忠派」の中心となったのは、義光の弟で一門の長老格であった楯岡光直や、数々の合戦で武名を馳せた勇将・鮭延秀綱といった、義光と共に最上家の勢力拡大を支えた譜代の功臣たちであった 7 。
一方で、義光の甥にあたる松根光広らは、あくまで正統な血筋である義俊を藩主として支持し、「義俊派」として義忠派と鋭く対立した 7 。
この対立は、単なる後継者争いという側面だけでは説明できない。その深層には、最上義光というカリスマ的指導者の死によって露呈した、最上家の「統治構造の脆弱性」があった。義光は一代で領地を急激に拡大させたが、その統治体制は中央集権化が不十分であり、実態は強力な国人領主層を家臣として内包する「豪族連合体」の性格を色濃く残していたのである。『最上家伝覚書』によれば、最上家には万石以上の知行を持つ家臣が16人も存在し、彼らは半ば独立した大名のような権力と自立性を持っていた 1 。義光の存命中は、彼の卓越した武威と調略によってこの強力な家臣団をかろうじて統制できていたが 16 、江戸に長くいて藩内に強力な基盤を持たなかった家親や、幼い義俊には、もはや彼らを制御する力はなかった 9 。結果として、有力家臣たちは藩全体の利益よりも自らの派閥の論理を優先して行動し、藩は統治不能の状態に陥った。義忠派の決起は、この構造的欠陥が引き起こした必然的な帰結であった。
派閥 |
主要人物 |
立場・役職 |
備考 |
義忠派(反主流派) |
山野辺義忠(光茂) |
最上義光四男、山野辺城主(1万9300石) |
家臣団の信望を集め、当主候補に擁立される 7 |
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楯岡光直 |
最上義光の弟、楯岡城主 |
一門の長老格として義忠を支持 7 |
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鮭延秀綱 |
真室川城主(1万1500石)、譜代の勇将 |
義忠派の中心人物の一人 17 |
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氏家光氏、延沢光昌など |
天童城主、野辺沢城主など |
義光時代の功臣、大身領主層 1 |
義俊派(藩主擁護派) |
最上義俊(家信) |
三代藩主、最上家親の嫡男 |
正統な家督継承者 8 |
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松根光広 |
最上義光の甥、白岩城主 |
幕府に家親毒殺説を訴え出る 17 |
元和8年(1622年)、義俊派の松根光広が幕府老中・酒井忠世に対し、「二代藩主・家親の死は、楯岡光直らによる毒殺である」と訴え出たことで、事態は幕府の介入を招く 15 。幕府は調査を行ったが、毒殺の確たる証拠は見つからず、騒動を大きくした責任を問い、松根を九州柳河藩立花家預かりの処分とした 7 。
幕府は当初、57万石の大大名である最上家の改易を避けるため、温情的な裁定案を提示した。それは、「一旦、最上領を幕府が預かり、義俊には新たに6万石を与える。家臣団は一致協力して幼い義俊を支え、彼が成長した暁には本領を返す」というものであった 17 。これは、最上家にとってまたとない再起の機会であった。
しかし、山野辺義忠、鮭延秀綱ら義忠派の重臣たちは、この幕府の裁定を「松根のような(讒言を行う)家臣を重用する義俊を盛り立てることはできない」として、公然と拒否した 17 。自らの主張を曲げず、幕府の仲裁にすら従わない家臣団の姿は、幕府の目に「統治能力の完全な欠如」と映った。
この最上家の態度は、将軍の権威に対する挑戦と見なされた。結果、幕府は態度を硬化させ、同年8月、ついに最上家に対して改易という最も厳しい処分を下した 5 。57万石の大大名の消滅は、豊臣秀頼、松平忠輝に次ぐ江戸時代有数の規模であり、全国の大名に幕府の権威を改めて見せつける衝撃的な事件となった 17 。
この厳しい裁定の背景には、当時の政治状況が大きく影響している。時の二代将軍・徳川秀忠は、大坂の陣を経て幕藩体制の基礎を固めるため、『武家諸法度』を厳格に適用し、武断的な大名統制策を推し進めていた 27 。親藩や譜代大名でさえ、内紛や法度違反を理由に容赦なく改易しており 29 、同時期には老中筆頭の本多正純までもが些細な嫌疑で改易されている(宇都宮城釣天井事件) 17 。このような文脈において、最上家の内紛と幕府裁定への不服従は、秀忠政権がその絶対的な権威を天下に示すための、格好の「見せしめ」として利用された側面が強かったのである。
57万石の領国は雲散霧消し、義忠の人生は栄光の頂点から奈落の底へと突き落とされた。改易の首謀者と見なされた彼は、その責を負い、備前岡山藩主・池田忠雄のもとへ預けられる流罪の身となった 5 。この流浪の生活の中で、彼は名を「光茂」から「義忠」へと改めたと推測される 6 。二人の息子と16人の忠実な近臣だけが、彼の苦難の道に従った。35歳から46歳に至るまでの12年間、彼は岡山で幽閉の身として、雌伏の時を過ごすこととなる 6 。
雌伏の時は、予期せぬ形で終わりを告げる。寛永10年(1633年)9月、三代将軍・徳川家光の直々の命令によって、義忠は突如として赦免された 6 。さらに、徳川御三家筆頭である水戸藩の初代藩主・徳川頼房にその身柄が預けられ、1万石の家老職という、改易された大名一族に対しては前代未聞の破格の待遇で召し抱えられることになった 5 。
この異例の抜擢は、単なる温情措置ではなかった。そこには、将軍・家光による高度な政治的判断が働いていたと考えられる。第一に、最上騒動の犠牲者でありながら、家康にも評価されたほどの優れた器量を持つ義忠を 7 、あえて重要な役職に登用することで、幕府の権威と度量の大きさを示す狙いがあった。第二に、彼を御三家である水戸藩に置くことで、その能力を有効に活用しつつ、常に幕府の監視下に置くことができる。水戸藩は江戸に常駐する定府であり、謀反などの懸念を払拭しながらその知見を活用するには最適な配置であった。そして第三に、父・秀忠の時代に行われた厳しい処分の後始末を行い、自らの治世における政権の安定化を図るという、家光自身の政治的意図も含まれていたのである。
水戸藩に仕えた義忠に与えられた最も重要な役割は、藩主・頼房の三男であった千代松、すなわち後の二代藩主であり「水戸黄門」として知られる名君・徳川光圀の傅役(教育係)であった 6 。
義忠が経験した、栄光からの転落、そして再生という壮絶な人生は、若き光圀の人格形成に測り知れない影響を与えたと推察される。大国の興亡を間近で見た彼の歴史への深い洞察は、光圀が後に生涯をかけた大事業『大日本史』の編纂へと向かう精神的な土壌を育んだ一因となったであろう 7 。名君・光圀の誕生の陰には、傅役・山野辺義忠の豊かな薫陶があったのである。
一方で、山野辺家は水戸藩において御附家老の中山家に次ぐ1万石という高い禄高を有しながらも、幕末の文政年間(1820年代)に至るまで、藩政の中枢で権力を振るうことは意図的に避けていたとされる 6 。彼らが担ったのは、主に朝廷や将軍家に対する儀礼的な役職であった。これは、最上騒動の苦い経験から、藩内の権力闘争に再び巻き込まれることを避けるための、義忠が遺した家訓であった可能性が指摘されている。
徳川光圀が水戸藩二代藩主となるのを見届けた後、義忠は寛文3年(1663年)に隠居し、仏門に入って道慶と号した。そして翌寛文4年(1664年)12月16日、77歳でその波乱の生涯を閉じた 5 。かつて骨肉の争いを繰り広げた父・義光の息子たちの中で、唯一天寿を全うしたのが義忠であった 6 。その墓所は、茨城県那珂市の名刹・常福寺にあり、今も静かにその功績を伝えている 7 。
義忠が再興した山野辺家は、その後も水戸藩の名門として繁栄した。息子の義堅は光圀に仕え、藩主・頼房の七女・利津姫を正室に迎えた 32 。以降も山野辺家は代々水戸徳川家と姻戚関係を重ね、家老職を世襲し、幕末までその家名を保った。幕末期には、子孫の山野辺義観や義芸が藩政の重責を担い、天狗党の乱に代表される激しい政争の渦中に身を置くことになったが 5 、最上義光の血脈は、水戸徳川家を支える重臣家として、歴史の中に確かな足跡を残したのである。
代 |
当主名 |
石高 |
水戸徳川家との主な関係・役職 |
初代 |
山野辺 義忠 |
1万石 |
初代藩主・頼房の家老、二代藩主・光圀の傅役 6 |
二代 |
山野辺 義堅 |
1万石 |
頼房の七女・利津姫を正室とする。光圀の家老 32 |
三代 |
山野辺 義清 |
1万石 |
養子(義忠の叔父・楯岡光直の孫) 7 |
... |
... |
... |
... |
七代 |
山野辺 義質 |
1万石 |
藩主・徳川治保の甥。家老 36 |
八代 |
山野辺 義観 |
1万石 |
九代藩主・斉昭の側室(直)の兄。斉昭の三女・祝姫を長男・義正の妻に迎える。家老、助川海防城主 35 |
九代 |
山野辺 義正 |
1万石 |
斉昭の三女・祝姫を正室とする 35 |
十代 |
山野辺 義芸 |
1万石 |
家老。天狗党の乱で失脚するも後に復帰 5 |
最上義忠の生涯は、一個人の優れた資質や強い意志だけでは抗うことのできない、時代の巨大な奔流に翻弄されたものであった。彼は、最上家という巨大組織が内包していた構造的欠陥と、徳川幕府による強固な中央集権化政策という二つの抗いがたい力の狭間で、一度は「敗者」としての烙印を押された。最上騒動は、カリスマ的指導者に過度に依存した組織の脆弱性と、新たな中央権力との関係構築の失敗が、いかに巨大な組織をも容易に崩壊させるかを示す、普遍的な歴史的教訓として記憶されるべきである。
しかし、義忠の物語は単なる敗者のそれではない。彼の後半生は、類稀な再生の物語でもある。将軍家光による異例の抜擢と、水戸藩における重用は、個人の能力と人格が正当に評価されれば、絶望的な状況からでも再起の道が開かれる可能性を示している。同時にそれは、確立期にあった江戸幕府が、必ずしも硬直的ではなく、政権安定のために柔軟な人材登用を行っていたという一側面を浮き彫りにする。
かくして、最上義忠の生涯は、破滅と再生という両極端な経験を通じて、戦国から近世へと移行する時代の厳しさと、そこに確かに存在した武士社会の理(ことわり)、そして一筋の光明を、後世の我々に力強く伝えているのである。