最終更新日 2025-06-06

有馬晴純

「有馬晴純」の画像

有馬晴純:戦国期肥前における領主の実像と統治

1. 序論:有馬晴純とその時代背景

有馬晴純が生きた15世紀末から16世紀後半にかけての日本は、室町幕府の権威が著しく低下し、各地で守護大名や新興の戦国大名が実力をもって覇を競う、いわゆる戦国時代であった 1 。九州北西部に位置する肥前国(現在の佐賀県および長崎県の一部)もまた、この時代の激しい動乱と無縁ではなく、少弐氏や大友氏といった旧来の有力大名が影響力を保持しつつも、龍造寺氏のような新興勢力が急速に台頭し、松浦党を含む多様な国衆が複雑な合従連衡を繰り返していた 2 。有馬氏は、このような群雄割拠の状況下で、島原半島を本拠地として独自の勢力を築き上げ、肥前国東部に大きな影響力を持った戦国大名である。その中でも有馬晴純(1483年~1566年)の時代は、有馬氏が最も勢力を伸長させたとされる時期であり、彼の治世は肥前国の戦国史において重要な位置を占める。

この時代、九州地方は海外との窓口としての地理的特性から、南蛮貿易やキリスト教の伝来といった新たな歴史的潮流に直面していた。これらの要素は、諸大名の経済力や軍事力、さらには領国経営や外交戦略にも大きな影響を与えた。有馬晴純もまた、これらの新しい動きと無関係ではいられなかった。

本報告書は、戦国時代の肥前国に確固たる勢力を築いた武将、有馬晴純に焦点を当て、現存する史料や研究成果に基づき、その出自、生涯、具体的な事績、領国統治の政策、そして周辺の有力勢力との関係性を詳細かつ徹底的に調査し、明らかにすることを目的とする。特に、晴純が行った勢力拡大の戦略、室町幕府という中央権威との関わり方、子女を通じた巧みな外交政策、そして当時の日本社会に大きな影響を与え始めたキリスト教に対する彼の姿勢など、多角的な視点からその実像に迫る。

報告書の構成として、まず有馬氏の歴史的出自と晴純が登場する以前の動向を概観する。次に、晴純個人の生涯と彼が成し遂げた主要な事績を、勢力拡大、幕府との関係、外交戦略といった側面から具体的に分析する。続いて、彼の統治政策、とりわけ当時の重要な社会問題であったキリスト教への対応と、経済的基盤となり得た南蛮貿易への関与について詳述する。そして、晴純の晩年から死、さらに彼の没後の有馬氏の動向を辿り、最後に、これらの調査結果を踏まえて有馬晴純という歴史上の人物の総合的な評価と考察を試みる。

有馬晴純の生涯を詳細に検討することは、戦国時代における一地方領主の具体的な活動様態を理解する上で重要である。彼の行動は、単に武力による領土拡大に留まらず、婚姻や養子縁組を通じた外交、室町幕府のような既存の中央権威の戦略的利用、そして南蛮貿易やキリスト教といった新たな外的要因への対応など、戦国大名が「家」の存続と発展のために駆使した多様な手段を具体的に示している。晴純が室町幕府に接近し、官位や将軍の偏諱を求めた行動は、幕府の権威が低下したとされる戦国時代においても、なお中央の権威がある種の正統性や地域における優位性をもたらし得たことを示唆している。これは、戦国大名が完全に自立した存在としてのみ捉えられるのではなく、既存の権威構造を自らの戦略に巧みに組み込もうとしていた複雑な側面を浮き彫りにする。

2. 有馬氏の出自と晴純以前の動向

有馬晴純の理解を深めるためには、まず彼が属した有馬氏の歴史的背景と、晴純が登場する以前の動向を把握する必要がある。

有馬氏は、肥前国高来郡有間荘(現在の長崎県南島原市北有馬町・南有馬町一帯)を起源とする武士団であったと考えられている 2 。史料における初見は、鎌倉時代の宝治元年(1247年)に作成された譲状に見える左衛門尉朝澄(さえもんのじょう ともずみ)とされる 2 。当初、有馬氏は鎌倉幕府から小地頭として認識されており、その本領は島原半島の南端部に位置していた 2 。南北朝時代までは「有間」という苗字を用いていたが、室町時代中期の宝徳3年(1451年)に有馬氏澄(ありま うじずみ)が山田荘内の田地を家臣に宛行う史料(「深江家文書」)では「有馬」の苗字を用いており、この頃までには改称していたと考えられる 2 。15世紀中頃には、有馬氏の勢力は島原半島(現在の南高来郡)のほぼ全域に及んでいたことが研究によって示唆されている 2

晴純の祖父にあたる有馬貴純(ありま たかすみ、貴澄とも)の時代(15世紀後半)には、有馬氏はさらに積極的な勢力拡大を展開した。軍記物である『北肥戦誌』などによれば、貴純は少弐氏の復興を支援し、その功績によって白石(しらいし)・長島(ながしま)の地を与えられたとされる 2 。また、大村氏を攻撃し、彼杵郡(そのぎぐん)方面へも進出した記録が残されているが、これらの軍記物の記述に関しては、史料批判的な検討が必要であると指摘されている 2 。より確実性の高い史料からは、貴純が少弐政資(しょうに まさすけ)に従い、その偏諱(へんき、名前の一字を与えること)を受けて嫡男の尚鑑(なおすみ、後の純鑑か)が元服したと考えられており、この関係を通じて藤津郡(ふじつぐん)や杵島郡(きしまぐん)にも散在的な所領を獲得していったことが窺える 2

貴純の外交政策は単純なものではなく、ある時期には大友・少弐陣営から離れ、周防の大内政弘(おおうち まさひろ)や九州探題の渋川教直(しぶかわ のりなお)の陣営に一時的に帰属したこともあった 2 。この頃に「貴澄」から「貴純」へと改名し、「肥前守(ひぜんのかみ)」を自称し始めた可能性が研究者によって指摘されている 2 。さらに、従来平姓であった有馬氏が、この貴純の代から藤原姓を称し、天慶の乱で知られる藤原純友(ふじわらのすみとも)の子孫を称するようになったとされる 2 。これは、鎌倉時代の小地頭に過ぎなかった有馬氏が、15世紀後半から急速に勢力を拡大する中で、自家の由緒を権威付けし、周辺の諸氏族に対して指導者としての正当性を主張するための戦略であったと推測されている 2

晴純の父である有馬尚鑑(ありま なおすみ、純鑑(すみかね)とも)の時代の具体的な事績については、提供された資料からは詳細な情報は少ない。しかし、尚鑑は少弐政尚(しょうに まさひさ、政資の子)から偏諱を受けたとされており 2 、貴純が築いた勢力基盤と外交路線を継承し、戦国初期の肥前における有馬氏の地位維持に努めたものと考えられる。

有馬氏のこのような初期の発展過程、特に貴純の代における家名や姓、通字(代々用いられる名前の一字)の変更、そして特定の祖先(藤原純友)を主張し始めたことは、単なる名目上の変更以上の意味合いを持つ。それは、地方の小領主から広域を支配する戦国期の権力へと成長していく過程で、自らの家の「格」を高め、他の勢力との差別化を図り、支配の正統性を内外に示そうとする意識的なアイデンティティ構築の試みであったと言えるだろう。島原半島という地理的条件は、有馬氏にとって防御上有利な側面と、外部への勢力拡大における制約という両面を持っていた。しかし、三方を海に囲まれたその立地は、後の時代に南蛮貿易との接点を持つ上で重要な布石となったことも見逃せない。

3. 有馬晴純の生涯と事績

3.1. 基本情報

有馬晴純は、文明15年(1483年)に生まれ、永禄9年2月28日(1566年3月19日)に84歳という当時としては長寿を全うして没した戦国武将である 9 。彼の初名は賢純(よしずみ、または「けんじゅん」)であったが、天文8年(1539年)7月に室町幕府の第12代将軍足利義晴から「晴」の一字(偏諱)を賜り、晴純と改名した 2 。隠居してからは仙岩(せんがん、仙巌とも記される)あるいは南明軒と号した 9

その家族構成を見ると、父は有馬尚鑑(ありま なおすみ) 9 、兄弟には西郷純久(さいごう すみひさ)がいた 9 。正室には肥前の有力国衆である大村純伊(おおむら すみこれ)の娘を迎えており、これは大村氏との強固な同盟関係を物語る 9 。晴純は多くの子女に恵まれ、その中でも男子は周辺の有力な国人領主の家へ養子として送り込まれ、有馬氏の勢力拡大と安定化のための重要な政略の駒となった。嫡男の義貞(よしさだ) 9 をはじめ、次男は後に日本初のキリシタン大名として長崎を開港することになる大村純忠(おおむら すみただ、大村純前の養子) 9 、三男は千々石ミゲルの父である千々石直員(ちぢわ なおかず、千々石氏の養子) 9 、四男は松浦盛(まつら さこう、相神浦松浦氏当主松浦親の養子) 2 、五男は天草の志岐諸経(しき もろつね、志岐鎮経の養子) 9 などが知られている。娘に関する具体的な記録は乏しいが、当時の慣習からすれば、彼女たちもまた政略結婚の重要な担い手であった可能性が高い。

表1:有馬晴純の家族構成(主要人物)

続柄

氏名

生没年・備考

関連資料

有馬尚鑑 (ありま なおすみ)

晴純の父。貴純の子。

2

兄弟

西郷純久 (さいごう すみひさ)

晴純の兄弟。西郷氏との関係を示唆。

9

正室

大村純伊の娘

大村氏との婚姻同盟。

9

嫡男

有馬義貞 (ありま よしさだ)

1521-1577。初名晴直。後に家督を継ぐも父晴純により追放。キリスト教に好意的。詳細は後述。

9

次男

大村純忠 (おおむら すみただ)

1533-1587。大村純前の養子。日本初のキリシタン大名。長崎開港。

9

三男

千々石直員 (ちぢわ なおかず)

生年不詳-1570。千々石氏の養子。釜蓋城主。千々石ミゲルの父。大村純忠と争い自刃。

9

四男

松浦盛 (まつら さこう)

生没年不詳。相神浦松浦氏16代当主松浦親の養子 2 。波多氏への養子説もある 23

2

五男

志岐諸経 (しき もろつね)

生没年不詳。天草の志岐鎮経の養子 21

9

不明

具体的な記録は少ないが、政略結婚に用いられた可能性が高い 10

25 (晴信の娘の情報), 9

この表に示されるように、晴純の家族関係、特に息子たちの養子縁組は、彼の広範な人的ネットワークと外交戦略の基盤を形成していた。これらの縁組は、有馬氏の勢力圏を安定させ、周辺の国衆との関係を強化、あるいは牽制するための重要な手段であった。

官位に関しては、修理大夫(しゅりのだいぶ、または「すりのだいぶ」)に任じられたことが複数の史料で確認できる 2 。また、従五位下に叙されたことも確実視されている 2 。一部史料 26 には兵庫頭(ひょうごのかみ)、侍従(じじゅう)、従四位下(じゅしいのげ)、参議(さんぎ)といった官位も挙げられているが、これは島津義弘の官位が誤って記載された可能性が高く、晴純自身のものとしては修理大夫と従五位下が最も信頼性が高い。例えば、 83 84 に見られる兵庫頭は、江戸時代の有馬氏倫(ありま うじのり)のものであり、晴純とは時代も人物も異なる。修理大夫という官途は、当時九州の有力大名であった大友義鑑も称していたものであり 2 、晴純がこれを獲得したことは、有馬氏の家格が著しく向上したことを象徴する出来事であった。

晴純が賢純から晴純へと改名し、修理大夫の官位を得た背景には、周到な戦略があった。足利義晴の将軍宣下(1521年)から18年もの間、有馬氏は室町幕府と公式な音信不通の状態にあったが、天文8年(1539年)、晴純(当時は賢純)はこれを「御代始御礼(みよはじめのごれい)」と称して幕府との関係再構築を図った 2 。この交渉は、肥前国衆の大村純前や京都で活動していた連歌師の周桂(しゅうけい)を介して行われ、自身と嫡男(後の義貞、当時は軍童丸、後に晴直)への将軍からの偏諱授与、自身の修理大夫任官、さらには守護格の家柄に許される白傘袋(しろかさぶくろ)・毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)の使用許可、そして屋形号の免許獲得を目的としていた 2 。これらは単なる儀礼的なものではなく、肥前国における有馬氏の優越的地位を中央の権威によって公認させ、領国支配の正当性を強化するための明確な政治的意図に基づいた行動であった。大村純前がこの交渉を代行し、自身も同時に偏諱と任官を得ようとしたものの、有馬父子と同格になることを遠慮して辞退したという逸話は 2 、有馬氏がこの栄典獲得を主導し、大村氏がそれに協力的ながらも一段低い立場にあったことを示唆している。

また、晴純の正室が大村純伊の娘であり、次男の純忠が大村純前の養子となった事実は、有馬氏と大村氏との間に単なる同盟関係を超えた、より強固な主従関係に近い結びつきが存在した可能性を示している。特に、純前には実子の又八郎(後の後藤貴明)がいたにもかかわらず、有馬氏から純忠を養子に迎えて家督を譲ったことは 11 、大村氏が有馬氏の勢力を背景とし、その影響下にあったことを強く示唆するものである。「純前は有馬氏を憚りこれを後藤氏へ養子に出すことになる」との記述 11 や、幕府との交渉において大村純前が有馬父子と同等の待遇を遠慮したという事実は 2 、大村氏が有馬氏を上位者として認識していたことを裏付けている。晴純は、このような大村氏との関係を巧みに利用して、自らの影響力を保持・拡大していったと考えられる。

3.2. 勢力拡大と「高来の屋形」

有馬晴純の治世は、肥前有馬氏の歴史において最も勢力が伸長した時期とされ、彼はその巧みな政治手腕と戦略によって「高来(たかき)の屋形(やかた)」と称されるほどの威勢を誇った 8

晴純の代に有馬氏は、本拠地である高来郡(島原半島)を完全に掌握するだけでなく、藤津郡、杵島郡へと支配領域を拡大し、さらに彼杵郡や松浦郡方面へも強い影響力を行使するに至った 2 。史料によっては「肥前六郡を支配」したと記されており 9 、これは有馬氏の最大版図を示す言葉として用いられる。しかし、その具体的な範囲や支配の度合いについては、研究者の間でも見解が分かれている。高来郡、藤津郡、杵島郡、彼杵郡、松浦郡の五郡に加え、佐嘉郡(さがぐん)、神埼郡(かんざきぐん)、三根郡(みねぐん)の一部もその勢力圏に含まれていたとする説もあるが 29 、より詳細な研究によれば、中心的な支配領域は高来郡を中心とした肥前東部の四郡から六郡程度であったとする見方が有力である 8

特に、長崎大学の研究紀要に掲載された論文 27 は、有馬氏の支配の実態について詳細な分析を行っている。それによれば、高来郡南部(島原半島)が有馬氏の「本国」であり、経済的にも軍事的にも支配の基盤であった。高来郡北部、藤津郡、杵島郡は「収めた」と表現され、比較的安定した支配が及んでいたと考えられる。一方で、彼杵郡や松浦郡に対しては「圧力を加える」状況にあり、彼杵郡には関所を設けて一部に代官を派遣するなど直接的な支配の試みも見られたものの、その掌握は十分なものではなかったとされる 27

このような勢力拡大の背景には、晴純による肥前守護職の獲得が決定的な意味を持っていた。天文8年(1539年)に室町幕府の内談衆であった大館常興(おおだち つねおき)が記した日記『大館常興日記』には、「肥前国守護有馬」賢純(後の晴純)という記述があり、この時点で晴純が肥前守護の地位にあったことが確認される 2 。この守護職は、晴純の代に新たに獲得されたものではなく、彼の祖父である貴純か、父の尚鑑の時代に、周防国に亡命していた第10代将軍足利義材(よしき、後の義稙(よしたね))から、大友氏や少弐氏といった既存の勢力と、当時西国で強大な力を持っていた大内氏との間の対立を巧みに利用する形で獲得した可能性が指摘されている 2

晴純はこの肥前守護という公的な地位を最大限に活用し、将軍足利義晴から「晴」の字の偏諱、修理大夫への任官、さらには守護格の大名にのみ許される白傘袋や毛氈鞍覆の使用許可、そして「屋形」の称号を得ることに成功した 2 。これらの栄典は、有馬氏の家格を飛躍的に高め、他の肥前国衆に対する優越性を確立し、領国支配の正当性を内外に示す上で極めて有効であった。当時、九州の覇権を争っていた大友義鑑は、有馬氏へのこのような厚遇に対して幕府に強く抗議したが、一度下された許可が覆ることはなかった 2 。これは、晴純の外交手腕と、当時の室町幕府の権威が依然として地方の勢力図に影響を与え得たことを示している。

「高来の屋形」という称号は、この肥前守護職とそれに伴う幕府からの公認に裏打ちされたものであり、有馬氏の権威を象徴する呼称であった 2 。『大日本史料』などにも「高来の屋形と称され、有馬氏の威名を九州に広めた」との記述が見られるように 9 、この称号は有馬氏が肥前国において突出した存在であることを内外に知らしめるものであった。

しかしながら、有馬晴純の「肥前六郡支配」という言葉は、実際の行政的な実効支配の範囲を正確に示すというよりは、有馬氏の最大勢力圏、あるいは政治的影響力が及んだ範囲を示す一種の表象と捉えるべきである。その実態は、中心部である高来郡における比較的強固な支配と、周辺部における間接的な支配や影響力行使という、多層的かつ濃淡のあるものであった。晴純による肥前守護職の確認と、それに伴う幕府からの各種栄典の獲得は、実力で勢力を伸長させた後に、それを既成事実として中央の権威によって追認させ、支配の正統性を内外に宣言するという、戦国大名に共通する戦略の巧みな実践であったと言える。

一方で、有馬氏の支配体制は、晴純の全盛期においてもなお、家臣団の完全な掌握には至っていなかった。有力家臣である島原氏や西郷氏は、有馬氏の城下への集住が進まず、半ば独立した勢力を保持しており、時には有馬氏に反抗的な動きを見せることもあったが、晴純はこれを完全に抑え込むことができなかったとされる 27 。この家臣団統制の不安定さは、有馬氏の領国経営における潜在的な弱点であり続けた。

3.3. 子女の養子縁組戦略

有馬晴純は、武力や幕府の権威を利用した勢力拡大と並行して、多くの子女を周辺の有力な国人領主の家へ養子として送り込むという、巧みな外交戦略を展開した 8 。これは、同盟関係の強化、影響力の浸透、そして潜在的な敵対勢力の無力化を目的とした、戦国時代に広く見られた政略であった。

表2:有馬晴純の子女の養子縁組・婚姻一覧(主要なもの)

対象者(続柄)

養子・婚姻先

備考(養家の状況、戦略的意義など)

関連資料

有馬義貞(嫡男)

(有馬本家継承)

晴純の後継者。詳細は後述。

9

大村純忠(次男)

大村純前

母が大村純伊の娘という縁故。純前には実子(後の後藤貴明)がいたが、有馬氏を憚り純忠を後継とした。日本初のキリシタン大名となり長崎を開港。有馬氏の大村領への影響力確保と、後の南蛮貿易・キリスト教布教の窓口となる重要な布石。

9

千々石直員(三男)

千々石氏

島原半島内の有力国衆。釜蓋城主。天正遣欧少年使節の一人、千々石ミゲルの父。後に実兄・大村純忠と争い、龍造寺氏に攻められ自刃。半島内の勢力固めの一環であったが、必ずしも安定した関係とはならなかった。

9

松浦盛(四男)

相神浦松浦氏(当主:松浦親)

肥前北部の有力勢力である松浦党の一派。永禄3年(1560年)に入部。松浦党への影響力確保を狙ったもの。波多氏への養子説もあるが、相神浦松浦氏説が有力。

2

志岐諸経(五男)

志岐鎮経

天草の国人領主。志岐鎮経には実子がいなかった。天草地方への影響力拡大と、海上交通路の確保を意図した戦略。

9

娘たち

不明(記録乏しい)

戦国時代の慣習として、周辺国衆との政略結婚に用いられた可能性が極めて高い。具体的な嫁ぎ先や人数は史料からは特定困難。

10 (晴信の娘の情報), 9

この表に示されるように、晴純は嫡男である義貞を除いた息子たちを、戦略的に重要な位置にある大村氏、千々石氏、松浦氏(相神浦)、そして天草の志岐氏といった肥前国およびその周辺の有力な国人領主の家へ養子として送り込んだ。

特に大村純忠の養子入りは、有馬氏の勢力圏維持・拡大において極めて重要な意味を持った。大村氏は有馬氏の南隣に位置し、その動向は有馬氏の安定に直接影響した。大村純前には実子(後の後藤貴明)がいたにもかかわらず、晴純の次男である純忠を養子に迎え入れた背景には、有馬氏の強大な影響力と、大村氏側の家督相続を巡る複雑な事情があったと考えられる 11 。純忠が後に日本初のキリシタン大名となり、長崎を開港したことは、有馬氏自身の歴史にも間接的ながら大きな影響を与えることになる。

千々石氏への養子縁組は、島原半島内における有馬氏の支配をより強固にするための一環であった。千々石直員は後に実兄である大村純忠と争うなど、養子縁組が必ずしも常に安定した同盟関係をもたらすわけではなかったことを示している 16

松浦盛の相神浦松浦氏への養子入りは、肥前北部に広がる松浦党諸氏への影響力確保を狙ったものであった。相神浦松浦氏は、平戸松浦氏との間にも複雑な関係を抱えており、この地域は常に流動的な情勢下にあった 2

志岐諸経の天草志岐氏への養子入りは、有明海から東シナ海へと抜ける海上交通の要衝である天草諸島への影響力を企図したものであった。天草はまた、比較的早い段階でキリスト教が広まった地域でもあり、この養子縁組は経済的・宗教的側面からも戦略的な意味合いを持っていたと考えられる 21

娘たちの具体的な嫁ぎ先に関する記録は乏しいが、戦国時代の通例として、彼女たちもまた周辺の国衆との間で政略結婚の重要な役割を担ったことは想像に難くない。

これらの養子縁組戦略は、有馬氏が肥前国およびその周辺地域において、広範な姻戚関係のネットワークを構築し、それを通じて政治的影響力を行使しようとした晴純の深謀遠慮な外交手腕を示している。しかし、これらの関係は養子先の代替わりや周辺情勢の変化によって常に変動する可能性を孕んでおり、永続的な安定を保証するものではなかった。

3.4. 周辺勢力との関係

有馬晴純の治世は、周辺の有力な戦国大名や国衆との複雑な関係性の中で展開された。特に、肥前国内で急速に勢力を拡大した龍造寺氏や、九州の覇権を争った大友氏、そして後に有馬氏と深く関わることになる島津氏との関係は、晴純の戦略を理解する上で重要である。

龍造寺氏(家兼、隆信)との抗争と和睦:

晴純の時代、肥前国では龍造寺氏が台頭し、有馬氏にとって最大の脅威の一つとなった。天文15年(1546年)、晴純は龍造寺家兼(りゅうぞうじ いえかね)が本拠としていた水ケ江城(みずがえじょう)を攻撃したが、わずか2ヶ月後には家兼の反撃によって奪回されるという苦杯を喫している 9。この戦いは、龍造寺氏の抵抗力の強さと、有馬氏の勢力拡大の限界を示すものであった。

晴純が隠居し、息子の義貞が家督を継いだ頃から、龍造寺隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)がその勢力を急速に拡大し、有馬氏への圧迫を一層強めていく 8 。永禄6年(1563年)頃に起こったとされる丹坂峠の戦いでは、有馬・大村連合軍が龍造寺隆信軍と衝突し、敗北を喫したと伝えられている 30

しかし、有馬氏と龍造寺氏の関係は、常に敵対的であったわけではない。両者の間には、和睦交渉や一時的な従属関係の変遷があったと考えられるが、提供された資料からは、これらの具体的な合戦(江上合戦など他の戦いを含む)の詳細な経緯や、和睦の条件、従属関係の具体的な内容などを網羅的に把握することは難しい 10 。『北肥戦誌(ほくひせんし)』のような軍記物にはこれらの戦いに関する記述が見られるものの、その史実性については慎重な吟味が必要であり、古文書などの一次史料との照合を通じた詳細な分析が求められる。

大友氏(義鑑、宗麟)との関係:

豊後の大友氏は、九州探題を世襲するなど、九州において広大な勢力を持つ名門であった。有馬晴純が室町幕府から偏諱や官位を得た際、当時の大友氏当主であった大友義鑑(おおとも よしあき)は、これに強く抗議したことが記録されている 2。これは、大友氏が九州における大名や国衆の家格秩序を自らが主導して維持しようとしていたことの表れであり、有馬氏の家格上昇を警戒したためと考えられる。

有馬晴純の没後のことではあるが、天正遣欧少年使節の派遣に際して、有馬晴信(晴純の孫)や大村純忠(晴純の子)が大友宗麟(おおとも そうりん、義鑑の子)の名義を利用したとの記述がある 32 。これは、依然として大友氏が九州における一定の権威を保持していたことを示唆している。晴純の存命中、大友氏との間には、このような家格を巡る緊張関係と、時には協力関係も存在した複雑な関係であったと推察される。

島津氏との関係:

薩摩の島津氏は、晴純の時代にはまだ肥前国に直接的な大きな影響力を行使するには至っていなかった。晴純と島津氏との間に大規模な軍事衝突や具体的な同盟関係があったことを示す直接的な史料は、提供された資料群の中には見当たらない。しかし、晴純の孫である有馬晴信の時代になると、龍造寺氏の強大な圧力に対抗するために、島津氏と同盟を結び、沖田畷の戦い(1584年)で龍造寺隆信を破るという大きな転換点を迎えることになる 33。晴純の時代における島津氏との関係は、将来の連携への伏線となるような間接的な接触があった可能性も否定できないが、史料的な裏付けは現時点では不明である。

晴純が勢力を拡大できた背景には、彼自身の戦略眼もさることながら、肥前周辺における一時的な「力の空白」が存在した可能性も指摘されている 8 。大内氏の支援を巧みに利用しつつ、この好機を捉えて版図を拡大したと考えられる。しかし、龍造寺氏という強力な新興勢力の台頭により、有馬氏は次第に守勢に立たされることになった。このような状況下では、養子縁組を通じた同盟関係の構築や、他の有力大名との連携といった外交努力が、有馬家の存続にとってより一層重要な意味を持つようになった。晴純の時代に築かれた人的ネットワークや外交関係のあり方は、後の時代の有馬氏の外交政策にも少なからず影響を与えたであろう。

また、肥前守護という高い称号を得た晴純であったが、龍造寺氏のような実力主義で台頭してきた勢力の前に、その権威が必ずしも絶対的なものではなかったことも明らかである。名目上の権威と、それを裏付ける実力との間の緊張関係、そしてそのバランスの変動こそが、晴純の時代の肥前国における政治状況を理解する上での鍵となる。

4. 有馬晴純の統治政策

有馬晴純の統治政策を考察する上で、当時の肥前国、ひいては日本全体が直面していた二つの大きな歴史的潮流、すなわちキリスト教の伝来と南蛮貿易の開始への対応は避けて通れない。

4.1. キリスト教への対応

天文18年(1549年)のフランシスコ・ザビエルによるキリスト教伝来以降、その教えは九州各地へ急速に広まりを見せ始めた。有馬氏の領国においても、天文19年(1550年)頃からポルトガル船が入港するようになると、南蛮貿易の活発化と並行してキリスト教が浸透し始めた 9

しかし、有馬晴純自身はキリスト教に対して好意的ではなく、領内での布教活動に対しては厳しい弾圧をもって臨んだとされる 9 。この点は、後に日本初のキリシタン大名となる次男の大村純忠や、同じくキリシタン大名として名を馳せることになる孫の有馬晴信(ドン・プロタジオ)の信仰とは明確な対照をなしている。

晴純による具体的な弾圧の内容や、それに関する法令、あるいは特定の事件についての詳細な記録は、提供された資料からは乏しい。豊臣秀吉や江戸幕府による禁教令や伴天連追放令に関する史料 37 は存在するものの、これらは晴純の時代よりも後のものであり、晴純自身の政策を直接示すものではない。キリスト教の布教方法や受容の様子、あるいは一般的な弾圧の状況に触れた史料 5 も存在するが、これらから晴純の具体的な弾圧行動を特定するには、さらなる史料の分析が必要となる。

宣教師ルイス・フロイスが著した『日本史』や、その他のイエズス会士による書簡類には、有馬晴純のキリスト教政策に関する記述が含まれている可能性があり、これらの史料を詳細に検討することが、晴純の宗教政策を理解する上で不可欠である 10 。ただし、フロイスの記録の中には、有馬氏がイエズス会の支援を受けて龍造寺氏の攻撃を凌いだという記述もあるが 5 、これは主に晴純の孫・晴信の時代のことであり、晴純自身の弾圧政策とは時期も内容も異なる点に注意が必要である。

晴純がキリスト教を弾圧した理由については、史料に基づく明確な記述は少ないものの、いくつかの可能性が考えられる。一つには、晴純自身が熱心な仏教徒であったとする指摘があり 36 、伝統的な宗教観や価値観との衝突を嫌った可能性である。また、キリスト教の排他的な教義や、既存の寺社勢力との間に生じるであろう摩擦、さらには信徒の団結が一向一揆のような政治的勢力へと発展することへの警戒感なども、弾圧の背景にあったと推測される。当時の戦国大名にとって、領内の宗教問題は単なる信仰の問題ではなく、領国統治の安定に直結する重要な政治課題であった。

4.2. 南蛮貿易への関与

キリスト教の伝来とほぼ時を同じくして始まった南蛮貿易は、戦国大名たちにとって大きな経済的・軍事的利益をもたらす可能性を秘めていた。有馬氏の領国にポルトガル船が入港するようになると、これによる貿易の利益は有馬氏の財政基盤を強化し、その勢力発展に寄与したと考えられている 9

しかし、有馬晴純自身がどの程度積極的に南蛮貿易を推進したのか、また、キリスト教弾圧という宗教政策との間で、この経済政策をどのように位置づけ、バランスを取ろうとしたのかについては、史料からは必ずしも明確ではない。晴純の晩年にあたる永禄5年(1562年)、息子の有馬義貞(または大村純忠の主導とも)によって領内の口之津(くちのつ)港がポルトガル船の寄港地として開かれた記録があるが 47 、晴純がこの開港やその後の貿易にどの程度主体的に関与したのかは、さらなる検討を要する。

南蛮貿易によってもたらされた品々、例えば火薬、鉄砲、中国産の生糸などは、戦国大名の軍事力強化や経済力向上に不可欠なものであった 48 。一方で、日本からの主要な輸出品は銀であり、これが海外へ流出することにもなった。晴純がこれらの貿易構造をどの程度理解し、領国経営に戦略的に組み込もうとしたのかは、彼の統治能力を評価する上で重要なポイントとなる。

晴純の統治において、キリスト教の弾圧と南蛮貿易の推進(あるいは容認)という二つの政策は、一見矛盾するように見える。当時の南蛮貿易は、少なからず宣教師がその仲介役を担っていた側面があり、キリスト教を厳しく弾圧すれば、貿易そのものに支障をきたす可能性もあったからである。晴純がこの潜在的なジレンマにどのように対処したのか、あるいは対処しきれなかったのかは、彼の統治者としての現実的な判断や限界を示すものとして興味深い。彼が貿易の利益は享受しつつも、キリスト教の浸透による領内の価値観の変化や既存の社会秩序への影響を警戒し、情報の統制や伝統的な支配体制の維持を優先した結果が、キリスト教弾圧という政策に繋がったのかもしれない。この宗教政策と経済政策の間の緊張関係は、晴純の統治における重要な特徴の一つであったと言えるだろう。

5. 晩年と死、そして有馬氏のその後

5.1. 隠居と号「仙岩(仙巌)」

有馬晴純は、天文21年(1552年)に嫡男である有馬義貞に家督を譲り、隠居したとされている 8 。隠居後の号は仙岩(せんがん、仙巌とも記される)、あるいは南明軒(なんめいけん)と称した 9 。しかし、この隠居は必ずしも名目上のものではなく、その後も晴純が実権を相当程度握り続けていた可能性が複数の史料から示唆されている。特に、後に家督を継いだ義貞を追放したという事実は 8 、隠居後も晴純が有馬家中に強い影響力を保持していたことを物語っている。戦国時代において、経験豊富な前当主が後継者の後見として、あるいは実質的な最高権力者として影響力を行使し続ける「院政」のような形態は珍しくなく、晴純の場合もこれに類するものであったと考えられる。隠居後の具体的な政治活動や日常生活に関する詳細な記録は、提供された資料群 49 からは特定することが困難であった。これらの多くは、晴純とは異なる人物や時代、あるいは一般的な事柄に関する記述が中心である。

5.2. 晴純の死と享年

有馬晴純は、永禄9年2月28日(1566年3月19日)に、84歳という長寿を全うしてこの世を去った 9 。彼の死は、有馬氏にとって一つの時代の終わりを意味するものであった。晴純の墓所や菩提寺に関する具体的な情報は、提供された資料 56 からは特定できなかった。これらの資料は、有馬氏全般や他の時代の城郭、寺社に関する情報が主であり、晴純個人の埋葬地を直接示すものではなかった。

5.3. 居城・日野江城の変遷(晴純時代を中心に)

有馬氏の代々の居城であった日野江城(ひのえじょう)は、晴純の治世において、その勢力拡大と権威の象徴として重要な役割を果たした 29 。晴純の時代に有馬氏の版図が最大となったことから、日野江城もまた、その中心拠点として相応の規模と機能を備えていたと考えられる 63

晴純の孫である有馬晴信の時代になると、日野江城はキリスト教文化の一大拠点となり、城下には宣教師養成のための学校であるセミナリヨが設置され、城自体も大規模な改修が施されたことが発掘調査などから明らかになっている 29 。晴純自身の時代の具体的な城の構造については、晴信時代の遺構や記録から遡って推測する必要があるが、少なくとも晴純が「高来の屋形」として権勢を誇った時期には、その居城もまた相応の威容を誇っていたであろう。

5.4. 晴純没後の有馬氏の動向(義貞、晴信の時代へ)

有馬晴純という強力な指導者を失った後、有馬氏は急速に困難な時代へと突入する。晴純の死後、一度は父によって追放された経験を持つ有馬義貞が家督を再継承したか、あるいは晴純の生前に既に復帰していた可能性が指摘されている 36 。しかし、義貞の時代には、隣国で勢力を急拡大させていた龍造寺隆信からの圧迫が日増しに強まり、有馬氏は守勢に立たされ、次第に衰退の道を辿ることになる 8

義貞の子(晴純の孫)である有馬義純は早世し、その弟である有馬晴信(当初は鎮純(しげずみ))が幼くして家督を継承することになった 35 。この有馬晴信の時代、有馬氏はまさに激動の運命を辿る。龍造寺氏からの離反、薩摩の島津氏との連携による沖田畷の戦いでの龍造寺隆信討伐、豊臣秀吉の九州平定に伴う臣従、そしてキリスト教の受容とそれに関わる南蛮貿易の推進、さらには江戸幕府成立後の岡本大八事件への連座と改易という、目まぐるしい変転を経験することになる 8

晴純の隠居が名目上のもので、実際には彼が「仙岩」として家中の実権を掌握し続けていた可能性は高い。これは、戦国時代における当主交代の難しさや、経験豊富な前当主による影響力行使の継続という、一つのパターンを示している。しかし、晴純という重石が取れたことで、有馬氏内部の権力バランスや対外関係が不安定化したことは想像に難くない。義貞の統率力、あるいは龍造寺氏のさらなる軍事的圧力といった要因が複合的に作用し、晴純が築き上げた有馬氏の勢力は、彼の死後、急速にその輝きを失っていくことになったのである。

6. 有馬晴純の歴史的評価と考察

有馬晴純は、戦国時代の肥前国において有馬氏の勢力を頂点にまで高め、その名を九州に轟かせた重要な領主であった。彼の治績と統治政策は、多角的な視点から評価されるべきである。

有馬氏最盛期を築いた領主としての晴純は、その政治的手腕と戦略眼において高く評価される。彼の治世において、有馬氏の版図は最大となり、高来郡を本拠として肥前東部に広大な影響力を及ぼし、「高来の屋形」と称されるほどの威勢を誇った 8 。また、室町幕府との関係を巧みに構築し、肥前守護の地位や修理大夫といった官位、将軍からの偏諱を賜るなど、中央の権威を巧みに利用して在地領主としての格を高め、領国支配の正当性を強化した 2 。さらに、多くの子女を周辺の有力国衆へ養子として送り込むことで、巧みな外交ネットワークを築き、勢力圏の安定と拡大を図ったことは、戦国武将としての彼の深謀遠慮を示すものである 8

戦国時代の肥前国における晴純の位置づけを考えるとき、彼は龍造寺氏が本格的に台頭する以前の時期において、肥前で最も有力な大名の一人であったと言える 8 。しかし、その支配は高来郡を中心としたものであり、「肥前六郡」を完全に実効支配していたというよりは、影響力の濃淡があったと理解するのが妥当であろう 8 。彼の周囲には、豊後の大友氏や、後に肥前の覇権を握る龍造寺氏といった強大な勢力が存在し、有馬氏の勢力維持は常に緊張と隣り合わせであった。

キリスト教政策における晴純の態度は、歴史的に見て非常に興味深い。南蛮貿易による経済的利益を認識し、ポルトガル船の寄港を(少なくとも晩年には)容認しつつも、キリスト教そのものに対しては一貫して弾圧的な姿勢を取り続けた 9 。これは、後にキリシタン大名として名を馳せることになる息子の有馬義貞(一時的)、大村純忠(養子)、そして孫の有馬晴信とは明確に対照的であり、有馬氏の宗教政策における過渡期的な、あるいは伝統的価値観に根差した側面を示している。この弾圧が、結果として領内におけるキリスト教の初期の浸透をどの程度抑制したのか、あるいは逆に潜伏化や後の急拡大の遠因となったのかについては、さらなる詳細な研究が待たれる。

後世への影響という点では、晴純が築き上げた有馬氏の勢力基盤と外交関係は、彼の死後、有馬氏が戦国の荒波を乗り越えていく上で一定の役割を果たしたと言える。しかし、彼という強力な指導者を失った後、そして龍造寺隆信という新たな強敵の本格的な圧迫の前に、有馬氏は急速に衰退の道を辿ることになり、晴純時代の栄光は長くは続かなかった 8 。晴純の統治と政策、特にその宗教観や外交戦略は、良くも悪くも、その後の有馬氏の運命、さらには島原半島を中心とする地域の歴史に複雑な影響を残した。例えば、晴純のキリスト教への厳しい態度は、有馬氏内部や領民の間に、後のキリスト教受容や、さらには島原の乱といった歴史的事件に繋がる複雑な宗教的土壌を醸成した一因となった可能性も否定できない。

晴純は有馬氏の勢力を頂点にまで高めたが、その勢力を次代に安定して維持・発展させることの難しさが、彼の死後の有馬氏の動向から明確に見て取れる。これは、晴純個人の問題というよりも、多くの戦国大名家が直面した普遍的な課題であった。彼が築いた「最盛期」は、彼自身の卓越した能力と、時代の好機を捉えた戦略に大きく依存していた側面があり、盤石な統治体制や後継体制を確立するには至らなかったため、その後の急速な衰退を招いたと考えられる。これは、一代の英雄によって隆盛を極めた勢力が、その死後に急速に力を失うという、歴史上しばしば見られるパターンの一つである。

また、晴純の統治期は、日本社会の価値観が大きく変動する時期にあたっていた。特にキリスト教の伝来や南蛮貿易の拡大といった新たな要素に対し、伝統的な価値観を持つ領主であった晴純がどのように対応しようとしたのか、その限界と葛藤は、当時の武将が直面した普遍的な課題を反映している。

地域史という観点から見れば、有馬晴純の時代は、有馬氏にとってのみならず、島原半島を中心とする肥前東部の歴史において、一つの重要な「画期」をなす時代であったと言える。彼の統治と政策が、その後の地域の政治、経済、そして文化にどのような影響を具体的に残したのかを、長期的な視点で捉え直すことは、今後の研究においても重要なテーマとなるであろう。

7. 結論

7.1. 本報告の要約

本報告書は、戦国時代の肥前国に大きな足跡を残した武将、有馬晴純について、現存する史料と研究成果に基づき、その生涯、事績、統治政策、そして歴史的評価を多角的に検討した。

有馬晴純は、15世紀末から16世紀後半にかけての動乱期に、島原半島を拠点とする有馬氏の勢力を飛躍的に拡大させ、一時は「高来の屋形」と称され、肥前国東部に「六郡」とも言われる広大な影響圏を築き上げた。彼は、室町幕府の権威を巧みに利用し、肥前守護の地位や修理大夫の官位、将軍からの偏諱を得ることで自らの権威を高め、他の国衆に対する優位性を確立した。また、多くの子女を周辺の有力国衆へ養子として送り込むことで、巧みな外交戦略を展開し、勢力圏の安定と拡大を図った。

しかし、その支配の実態は、本拠地である高来郡周辺の強固な支配と、それ以外の地域への間接的な影響力行使という多層的なものであり、家臣団の統制も必ずしも盤石ではなかった。特に、肥前国内で急速に台頭した龍造寺氏との間には、水ケ江城攻防戦をはじめとする激しい抗争が繰り返され、晴純の晩年からその死後にかけて、有馬氏は龍造寺氏の強大な圧力の前に次第に勢力を後退させることとなる。

宗教政策においては、南蛮貿易による経済的利益を認識しつつも、新たに伝来したキリスト教に対しては一貫して弾圧的な態度を取り、これは後にキリシタン大名となる息子・義貞(一時的)や大村純忠(養子)、そして孫・晴信とは対照的な姿勢であった。このことは、有馬氏の宗教政策における過渡期的な側面、あるいは晴純自身の伝統的価値観を反映しているものと考えられる。

天文21年(1552年)に隠居して「仙岩」と号した後も、家中に隠然たる影響力を保持し続けたとされる晴純は、永禄9年(1566年)に84歳でその波乱に満ちた生涯を閉じた。彼が築き上げた有馬氏の栄光は、彼自身の卓越した政治手腕と時代の好機に支えられたものであったが、その死後、有馬氏は龍造寺氏のさらなる攻勢の前に急速に衰退の道を辿ることになる。

7.2. 有馬晴純研究における今後の課題

有馬晴純に関する研究は進展を見せているものの、なおいくつかの課題が残されている。

第一に、「肥前六郡支配」とされる有馬氏の最大版図について、その具体的な範囲、各郡における支配の実態(直轄、間接支配、影響力の度合いなど)、そしてその変遷過程を、より詳細な一次史料に基づいて実証的に検証する必要がある。特に、高来郡、藤津郡、杵島郡以外の郡(彼杵郡、松浦郡、佐嘉郡、神埼郡、三根郡など)への関与の実態解明が望まれる。

第二に、晴純によるキリスト教弾圧の具体的な政策内容、その思想的背景(個人的な信仰、政治的判断など)、そして領内社会や後の有馬氏の宗教政策に与えた影響について、より踏み込んだ分析が求められる。特に、ルイス・フロイスの『日本史』やその他のイエズス会関連文書、国内の寺社関連史料などを横断的に再検討し、弾圧の実態とその歴史的意義を明らかにすることが重要である。

第三に、晴純の隠居後の「仙岩」としての具体的な政治活動や、家督を継いだ嫡男・義貞との関係性の実態、さらには義貞追放の真相など、晴純晩年の動向については不明な点が多い。これらの解明は、有馬氏の権力構造や家督継承のあり方を理解する上で不可欠である。

第四に、『北肥戦誌』などの軍記物に描かれる有馬晴純像と、古文書などの一次史料から浮かび上がる実像との比較検討をより徹底して行う必要がある。これにより、晴純に関する伝承の形成過程や、歴史的事実との差異を明らかにすることができる。

最後に、晴純の個人的な資質、例えば戦略家としての能力、外交官としての手腕、宗教観、そして人間性などについて、断片的な史料からでも可能な限り多角的にプロファイリングし、より血の通った歴史的人物像を再構築する試みが期待される。

これらの課題に取り組むことを通じて、有馬晴純という一人の戦国武将の理解を深めるだけでなく、戦国時代の地方権力のあり方、中央と地方の関係、そして宗教と政治が複雑に絡み合った時代の特質をより鮮明に描き出すことが可能となるであろう。

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  67. 乱期を統一して、十五代将軍足利義昭を追放した一五七三年までの約三百八十年間で、時代区分として は鎌倉時代 - 佐賀市 https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/usefiles/downloads/s34621_20121227051939.pdf
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  70. 日野江城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E6%B1%9F%E5%9F%8E
  71. 有馬義貞 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E7%BE%A9%E8%B2%9E
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  73. 137 - 地方史情報 http://www.iwata-shoin.co.jp/local/local-info_137.pdf
  74. 外交とは何か 不戦不敗の要諦 -小原雅博 著|中公新書 https://www.chuko.co.jp/shinsho/2025/03/102848.html
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  79. Virksomhedsbesøg hos Kompan | Erhvervsklubfyn https://erhvervsklubfyn.dk/event-past/virksomhedsbesoeg-hos-kompan/
  80. 南方熊楠全集6、新聞随筆 http://kiebine2007.amearare.com/minakata6.htm
  81. www.bekkoame.ne.jp http://www.bekkoame.ne.jp/i/ga3129/kiheitai.html
  82. 第8回カクヨムWeb小説コンテスト 最終選考結果 https://kakuyomu.jp/contests/kakuyomu_web_novel_008
  83. 有馬氏倫 - 大河ドラマ+時代劇 登場人物配役事典 https://haiyaku.web.fc2.com/arima.html
  84. 有馬氏倫 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E6%B0%8F%E5%80%AB