日本の近世大名家臣団のなかで、服部康成(はっとりやすなり)ほど、その評価と実像の間に深い謎を秘めた人物は稀である。陸奥弘前藩の初代藩主・津軽為信、二代藩主・信枚に仕え、最終的には筆頭家老として藩政を取り仕切り、後世「無類の良臣」と称賛された 1 。しかし、その輝かしい経歴の裏には、出自の不確かさ、津軽家における異例の昇進、そして徳川幕府との不可解な関係など、数多くの疑問符が付きまとう。
本報告書は、この服部康成という一人の武将の生涯を、多角的な視点から徹底的に検証し、その実像に迫ることを目的とする。具体的には、以下の五つの主要な論点を軸に分析を進める。第一に、彼の出自を巡る錯綜した情報、特に伊賀・甲賀との関係や、高名な服部半蔵正成との血縁関係の真偽を解明する。第二に、彼の人生の転機となった関ヶ原の戦いにおける功績と、それが津軽家仕官、ひいては彼のキャリアに与えた決定的影響を詳述する。第三に、弘前藩筆頭家老として、彼が藩政において果たした具体的な役割を明らかにすると共に、その異例の待遇の背景にある「徳川の監視役」説の妥当性を深く考察する。第四に、彼の晩年を襲ったお家騒動「船橋騒動」との関わりと、その志半ばでの死が藩に与えた影響を分析する。そして最後に、彼の死後、子孫や文化的遺産がどのように後世に受け継がれたかを探る。
これらの分析を通じて、服部康成が単なる忠臣ではなく、戦国から江戸へと移行する時代の激動の中で、自らの能力と政治的嗅覚を駆使して生き抜いた、極めて複雑で戦略的な人物であったことを明らかにしていく。
服部康成の人物像を理解する上で、最大の障壁となるのがその出自の曖昧さである。史料には互いに矛盾する記述が散見され、その経歴は謎の霧に包まれている。この情報の錯綜は、単なる記録の不備というよりも、康成自身、あるいは彼を取り巻く人々が、その出自を戦略的に「構築」しようとした結果である可能性を示唆している。
康成の出身地については、大きく二つの説が存在する。一つは、最も広く流布している「伊賀出身説」である。多くの記録が彼を「伊賀国の出身」としており 1 、徳川家康に仕え伊賀者を統率した服部半蔵正成のイメージと結びつきやすい 5 。伊賀というブランドは、忍びとしての彼の能力を権威づける上で極めて有効であったと考えられる。
一方で、「甲賀忍の達人」であったとする記述も複数存在する 6 。これは、後に弘前藩が甲賀忍者の中川小隼人らを召し抱え、「早道之者(はやみちのもの)」と呼ばれる隠密集団を組織した事実と無関係ではないかもしれない 7 。伊賀と甲賀、忍びの二大流派の名が彼の出自として語られること自体が、彼が卓越した諜報・謀略技能の持ち主であったことを物語っている。
康成の出自をさらに複雑にしているのが、「鬼半蔵」の異名で知られる徳川家康の重臣、服部半蔵正成との関係である。史料によってその記述は「嫡男」「庶長子」「同族」などと大きく揺れ動いている 3 。
特に、康成の子孫が残したとされる由緒書では、康成は「服部半蔵の嫡男」と明確に記されている 3 。これは、徳川の世において絶大な権威を持つ「服部半蔵」の血筋を主張することで、外様大名である津軽藩内での家格を高め、その地位を正当化しようとする意図があった可能性が高い。しかし、江戸幕府が編纂した公式の系譜集である『寛政重修諸家譜』によれば、正成の嫡男は服部正就(まさなり)とされており、康成の名は見当たらない 10 。この点から、由緒書の記述を史実として鵜呑みにすることはできない。
彼の名「康成」にも、その出自を探る鍵が隠されている可能性がある。「康」の字は主君である徳川家康から、「成」の字は服部正成から、それぞれ一字を拝領したとする説が存在する 6 。もしこれが事実であれば、出自不明の浪人とされる彼が、徳川宗家および服部宗家と極めて密接な関係にあったことを示す重要な証左となる。名前は、単なる記号ではなく、彼の政治的アイデンティティを表明するツールであったのかもしれない。
これらの錯綜する情報を総合的に考察すると、服部康成の出自の「謎」そのものが、彼の本質を浮かび上がらせる。彼は特定の血筋に頼るのではなく、自らの能力と政治的手腕によって乱世を渡り、その過程で「伊賀・甲賀の忍び」「服部半蔵の縁者」といった、当時の社会で最も価値のあるブランドを巧みに利用した、卓越した自己演出家であったと評価できる。彼の出自の重要性は、血統の事実関係そのものよりも、彼がいかにしてその「物語」を権力基盤へと転換させたかという点にあると言えよう。
表1:服部康成の出自に関する諸説の比較検討 |
説の名称 |
伊賀出身説 |
甲賀出身説 |
服部半蔵の嫡男説 |
服部半蔵の庶長子・同族説 |
家康・正成からの偏諱説 |
出自の霧に包まれた服部康成が、歴史の表舞台に確かな足跡を記す最初の出来事が、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いである。この天下分け目の戦いに付随して起きた美濃大垣城攻めは、彼の人生を決定的に変える転機となった。
当時、康成がどのような経歴を歩んでいたかは史料上定かではない 9 。一説には、美濃岐阜城主・織田秀信に仕えた後、浪人していたとも伝わる 12 。確かなことは、彼が関ヶ原の戦いにおいて東軍に与した津軽為信の軍勢に加わったことである。為信は、この出自不明の男の才覚を見抜き、300石という破格の待遇で召し抱えた 7 。南部氏から独立したばかりで、有力な家臣団を渇望していた為信にとって、康成はまさに渡りに船の存在であった。一方の康成にとっても、自らの能力を存分に発揮し、大きな功績を挙げる絶好の機会が到来したのである。
康成の真価は、大垣城攻めで遺憾なく発揮された。彼はその卓越した諜報能力、すなわち「忍術」を用いて単身城内に潜入したと伝えられる 4 。そこで城内の兵士の士気や食糧の状況、防御体制の脆弱な箇所といった内部情報を詳細に調査し、味方にもたらした。さらに、偽の情報を流して城内に疑心暗鬼を生じさせ、内部から組織を撹乱するという高度な謀略を実行した 7 。こうした彼の諜報・謀略活動は、物理的な戦闘以上に敵の戦意を削ぎ、結果的に大垣城の早期開城に大きく貢献した。これは、彼が単なる武勇の士ではなく、情報戦を制する戦略家であったことを証明するものである。
この大垣城での目覚ましい功績は、主君である津軽為信だけでなく、東軍の総大将である徳川家康の耳にも達した。戦後、康成は家康に直接謁見し、その功を賞賛されるという、一介の客将としては異例の栄誉に浴した 7 。この出来事は、彼のキャリアにおいて決定的な意味を持つ。それは、彼の存在と能力が、天下人である徳川家康その人によって公に認められたことを意味するからである。
大垣城での一連の出来事は、単なる戦功譚に留まらない。それは、①忍びとしての卓越した「専門技能」、②その才能を見出し抜擢した津軽為信という「主君」、そして③最高権力者たる徳川家康からの「公認」という、彼の後の立身出世に不可欠な三つの要素を一度に手に入れた、完璧なキャリアの船出であった。この家康による評価こそが、後に彼が津軽藩内で特異な地位を築き、さらには「徳川の監視役」と目されるようになる伏線となったのである。
関ヶ原の戦いで華々しいデビューを飾った服部康成は、その後、津軽家の家臣として、そして弘前藩の重鎮として、その地位を不動のものとしていく。彼の藩内での軌跡は、異例の昇進と藩政への多大な貢献によって特徴づけられ、やがて「無類の良臣」という最高の評価へと結実する。
大垣城攻めの功績により津軽家に仕官した康成は、その能力を高く評価され、破格のスピードで出世を遂げる。当初300石であった知行は、目覚ましい働きによってまず1,000石に加増され、最終的には3,000石もの高禄を得るに至った 7 。
この3,000石という知行には、彼の特異な立場を物語る極めて重要な事実が隠されている。それは、知行の内訳が「弘前藩から2,000石、江戸幕府から1,000石」であったと記録されている点である 7 。通常、大名の家臣が主家とは別に幕府から直接知行を与えられることはあり得ない。これは、彼が単なる津軽家の家臣という枠を超え、幕府からも直接的な責務を負う、いわば「公人」としての側面を持っていたことを強く示唆している。この幕府からの禄が、彼の藩内における絶対的な権威の源泉の一つとなったことは想像に難くない。
初代藩主・津軽為信が慶長12年(1607年)に没すると、康成の政治的重要性はさらに高まる。彼は、跡を継いだ二代藩主・信枚の後見人となり、若き藩主を補佐して藩政の実権を握った 7 。
彼の行政手腕は、藩の重要プロジェクトにおいて遺憾なく発揮された。寛永7年(1630年)には岩木山百沢寺(現在の岩木山神社)の山門造営、翌寛永8年(1631年)には為信の菩提寺である長勝寺の三門造営において、それぞれ奉行を務めている 14 。これらの大規模な寺社建設は、単なる建築事業ではなく、藩の宗教的権威を高め、領民の心を統合し、津軽家の支配体制を盤石にするための高度な政治的営為であった。康成は、こうした事業を差配することで、藩の基盤整備に大きく貢献したのである。
こうした藩政における多大な功績により、服部康成は津軽藩内で「無類の良臣(比類なき優れた家臣)」と称賛された 1 。この評価は、彼が忍者としての謀略の才だけでなく、藩を治める優れた行政能力をも兼ね備えていたことを示している。
しかし、この「無類の良臣」という評価は、二重の意味合いを持っていた可能性がある。津軽家にとっては、藩の黎明期を支え、その礎を築いた紛れもない忠臣であった。だが、幕府の視点から見れば、豊臣恩顧で潜在的な警戒対象である津軽家を、内部から穏健に統治し、徳川の天下泰平に貢献する「都合の良い良臣」と映ったかもしれない。康成は、藩主への忠誠と幕府への配慮という、時に相反しかねない二つの要求を同時に満たすという絶妙なバランス感覚を発揮することで、その地位を確立した。彼の軌跡は、藩への忠誠心だけでは説明がつかない、極めて高度な政治力によって描かれたものであった。
服部康成の弘前藩における異例の出世と、幕府から直接知行を得るという特異な待遇。これらの謎を解く鍵は、彼が「徳川幕府による監視役」であったとする説にある。この仮説は、当時の津軽家が置かれた政治的状況と、康成のキャリアにおける数々の不可解な点を合理的に結びつける。
江戸幕府にとって、津軽家は潜在的な警戒対象であった。その理由は複数存在する。まず、初代藩主・津軽為信は、主家である南部氏から謀略を駆使して独立し、豊臣秀吉との関係を巧みに利用して大名の地位を公認された経緯を持つ 16 。秀吉への恩義は深く、為信は城内に秀吉の木像を密かに祀っていたほどである 16 。
さらに決定的なのは、西軍の首魁であった石田三成との親密な関係である。関ヶ原の戦いで三成が敗死した後も、津軽家はその遺児である石田重成を領内に庇護し、さらに三成の三女・辰姫を二代藩主・信枚の側室として迎えた 9 。そして、その間に生まれたのが、後の三代藩主・津軽信義である 19 。これは、徳川の治世において、豊臣方への極めて強いシンパシーを示す行為であり、幕府が津軽家に対して厳しい警戒の目を向ける十分な理由となった。
このような政治的背景の中、徳川家康や服部半蔵との繋がりを持つとされる康成が、外様の家臣でありながら異例の速さで藩政の中枢に食い込み、筆頭家老にまで上り詰めた。この事実は、彼が幕府によって津軽家に送り込まれた「付家老(つけがろう)」、すなわち監視役であったとする説に強い説得力を与える 9 。
彼の役割は、単に津軽家の動向を逐一幕府に報告する密偵に留まらなかったであろう。むしろ、藩政の中枢から幕府の意向を巧みに反映させ、津軽家が幕府の体制に反するような行動に出ることを未然に防ぐ「指令の伝達者」としての機能が期待されていたと考えられる 9 。幕府から支給された1,000石の知行は、まさにこの重要な任務に対する報酬であったと解釈できる。
幕府が有力な外様大名を内側からコントロールするために、信頼できる人物を重臣として送り込むという政策は、他の藩でも見られる。例えば、加賀百万石の前田家には、家康の側近であった本多正信の次男・本多政重が送り込まれた 14 。また、後に備後福山藩の初代藩主となる水野勝成も、様々な大名家を渡り歩いた経歴を持ち、その過程で幕府の意向を汲んだ役割を果たしたとされる 14 。これらの事例は、康成のケースが孤立したものではなく、江戸初期における幕府の巧妙な外様大名統制策の一環であったことを裏付けている。
康成は、単なるスパイや密告者ではなかった。彼は藩政を安定させ、寺社造営などの事業を通じて藩を発展させるという「善政」を行うことで、津軽家が幕府に睨まれるような不祥事を起こさないように導いた、極めて有能な「リスク管理者」であった。彼の監視は、弾圧的なものではなく、藩の安定化を通じた懐柔策であり、それゆえに彼は藩内でも「無類の良臣」と評価され得たのである。彼の存在は、力だけではない、洗練された徳川幕府の支配体制を象徴する好例と言えるだろう。
栄華を極め、弘前藩の盤石な基礎を築いた服部康成であったが、その晩年は平穏ではなかった。彼が直面した最後にして最大の試練は、藩を二分するお家騒動「船橋騒動」である。この騒動は、康成が築き上げた藩政の安定がいかに彼個人の政治力に依存していたかを露呈させ、彼の死は藩に大きな動揺をもたらした。
寛永8年(1631年)、二代藩主・信枚が没し、その子・信義がわずか13歳で三代藩主の座に就いた 20 。信義は、藩の飛び地であった上野国大舘で生まれ育ったが、その際の乳母が、旧宇喜多秀家家臣であった船橋半左衛門長真の妻であった 19 。この縁故から、信義が藩主となると、船橋親子が新参の側近として急速に権勢を強め、藩政に介入し始める 20 。
船橋派の台頭は、為信の代から津軽家を支えてきた譜代の重臣たちとの間に深刻な亀裂を生んだ。特に、兼平伊豆(信孝)や乳井美作(建定)といった譜代家老は、新参者の専横に強く反発し、藩内は船橋派と譜代派に二分され、一触即発の事態に陥った 21 。
寛永11年(1634年)、ついに対立は限界に達し、兼平、乳井ら譜代派の家臣たちが江戸の町屋に立てこもり、藩に対して船橋一派の追放を公然と要求する事件が発生する 21 。藩の分裂という最悪の事態を前に、筆頭家老であった服部康成は、その収拾に奔走した。彼は、その老練な政治手腕をもって両派の調停を試みたが、長年の確執は根深く、事態は容易に鎮静化しなかった 12 。
そして、この混乱の渦中、康成を病魔が襲う。騒動の解決を見ることなく、彼は寛永12年(1635年)7月21日、志半ばでこの世を去った 9 。享年70。藩の最大の調停者であり、重しであった彼の死は、騒動の行方を一層不透明なものにした。
康成の死後、藩内の自浄能力は失われ、騒動はついに幕府の介入を招くこととなった。幕府評定所での審理の結果、寛永13年(1636年)、この騒動に対して「喧嘩両成敗」という厳しい裁定が下された 12 。これにより、船橋半左衛門親子は伊予松山藩へ、対する兼平信孝・乳井建定は長州藩へ、それぞれお預け(配流)という形で処罰され、騒動はようやく終結した 23 。
この結末は、服部家にも大きな影響を及ぼした。康成の家督を継いだ長男の服部左近成昌は、この幕府の裁定を不服とし、なんと弘前藩を離れてしまうのである 9 。彼はその後、加賀藩前田家に仕官したと伝えられている 9 。筆頭家老の嫡男が幕府の裁定に異を唱えて出奔するという前代未聞の事態により、弘前藩における服部家の権威は失墜し、その地位は大きく低下した 24 。
長男・成昌のこの行動は、服部康成の生涯を考える上で極めて示唆に富む。生涯を通じて「幕府の監視役」として、その権威を背景に藩政を動かしてきた父に対し、息子は幕府の裁定に公然と反旗を翻した。これは、服部家が単なる幕府の傀儡ではなく、自らの理や誇りを持つ武士の家であったことを示している。康成が保っていた「津軽家臣」と「幕府の代理人」という絶妙なバランスは、彼一代限りのものであり、継承不可能なものであったことが、息子の行動によって皮肉にも証明されたと言えるだろう。
服部康成の死と船橋騒動による嫡男の離反は、弘前藩における服部家の政治的影響力を大きく後退させた。しかし、彼が残した遺産は、政治的なものに留まらなかった。子孫、菩提寺、そして近年再発見された肖像画などを通じて、彼の記憶は数百年の時を超えて現代に伝えられている。
康成の死後、服部家は二つの道を歩む。長男・成昌は、前述の通り船橋騒動の裁定を不服として弘前藩を去り、加賀藩前田家に仕官したとされている 9 。加賀藩には服部姓の家臣や、服部南郭のような著名な文人も存在するが 26 、成昌自身の具体的な活動や家系の詳細は、現存する資料からは追跡が困難である。
一方、弘前藩には康成の次男(一説には弟)・安昌が残留し、家名を存続させた 12 。政治的な地位はかつての筆頭家老職からは大きく後退したものの、家系は途絶えることなく続いた。明治時代になると、康成の子孫は鯵ヶ沢町(旧舞戸村)に移住し、村長を務めるなど、地域の有力者として活躍した 6 。そして、現在もその子孫は青森県内に在住していると伝えられている 6 。
康成は、弘前藩の重臣として、自らの菩提寺となる安盛寺を開基した 25 。寺伝によれば、当初は深浦に創建され、その後、堀越を経て現在の弘前市禅林街に移転したとされる 6 。康成は、寛永元年(1624年)に初代藩主・為信の画像と寺領30石を寄進したと記録されており、その信仰の篤さが窺える 27 。
しかし、安盛寺の歴史もまた、服部家の浮沈と運命を共にした。船橋騒動で長男・成昌が離反した結果、藩から与えられていた寺禄30石は一時召し上げられてしまった 25 。後に20石の寺禄が改めて下されたものの、この出来事は、服部家の栄枯盛衰を象徴する出来事であった。
康成の歴史的評価を大きく変える可能性を秘めた発見が、近年、彼の菩提寺である安盛寺でもたらされた。同寺には、長らく弘前藩三代藩主・津軽信義のものと伝えられてきた肖像画が所蔵されていた。しかし、2020年頃から鯵ヶ沢町教育委員会などが専門家と協力して服部家の資料を調査した結果、この肖像画が服部康成のものである可能性が極めて高いことが判明したのである 6 。
その最大の根拠は、服部家に伝わる由緒書の裏書きに「元和3年(1617年)12月5日、康成が初代藩主為信と康成自身の絵像を安盛寺に奉納した」という明確な記述が見つかったことである 6 。これまで康成の容貌を伝える確かな絵像は確認されておらず、この発見は彼の人物像を具体的に知る上で非常に貴重なものである。一人の家臣の肖像画が、三代にわたって藩主のものと誤伝されてきたという事実自体が、彼がいかに藩主にも匹敵するほどの存在感と権威を藩内で持っていたかを物語る、何よりの証左と言えよう。
康成の名は、津軽地方を代表する祭りである「青森ねぶた祭」の起源を巡る伝説にも登場する。一説によれば、文禄2年(1593年)、津軽為信が京都に滞在中、康成に命じて巨大な灯籠を作らせ、都大路を練り歩かせたことが、ねぶたの原形になったという 7 。しかし、この時点では康成はまだ津軽家に仕官していないため、この説の史実としての信憑性は低いと考えられている 7 。だが、信憑性の有無は別として、このような伝説が生まれたこと自体が、彼が単なる政治家ではなく、津軽の文化史における象徴的な「偉人」として、人々の記憶に刻まれていることを示している。
本報告書を通じて行ってきた多角的な分析の結果、弘前藩筆頭家老・服部康成は、「無類の良臣」という一言では到底語り尽くせない、極めて多面的で複雑な人物像を浮かび上がらせる。彼は、戦国の動乱から徳川の泰平へと時代が大きく転換する狭間で、自らの価値を最大化し、主家と自己の安泰を両立させた稀有な存在であった。
第一に、彼の出自は依然として謎に包まれているが、その曖昧さこそが彼の本質を物語っている。伊賀か甲賀か、服部半蔵の嫡男か庶子かという錯綜した情報は、彼が特定の血筋に頼るのではなく、忍びとしての卓越した技能という「実」と、服部半蔵や徳川家康に連なるという「名」を巧みに利用し、自らのブランドを構築した戦略家であったことを示唆している。
第二に、彼のキャリアの原点である関ヶ原・大垣城攻めでの功績は、単なる武功に留まらない。それは、津軽為信という主君を得て、徳川家康という最高権力者から公認されるという、後の飛躍に不可欠な政治的資本を獲得した決定的な瞬間であった。
第三に、弘前藩における彼の役割は、藩政を安定させる「良臣」の顔と、幕府の意向を体現する「監視役」の顔を併せ持っていた。この二つの顔は矛盾するものではなく、むしろ表裏一体であった。彼は、豊臣恩顧の津軽家を内部から穏健に統制し、善政を敷くことで幕府の懸念を払拭するという、極めて高度な政治的ミッションを遂行した。幕府から与えられた1,000石の知行は、その役割の重要性を何よりも雄弁に物語っている。
第四に、晩年の船橋騒動と、その最中の彼の死、そして嫡男・成昌の離反は、彼が築いた権力とバランスがいかに個人的で一代限りのものであったかを浮き彫りにした。父が幕府の権威を巧みに利用したのに対し、息子がその権威に反発したという事実は、康成が保っていた絶妙な政治バランスの継承がいかに困難であったかを示している。
服部康成は、忠臣であり、有能な行政官であり、冷徹な政治家であり、そして幕府の代理人でもあった。これらの多様な顔を、一人の人物の中に矛盾なく統合させ、激動の時代を駆け抜けた。彼の生涯は、江戸初期の幕藩体制がいかに巧妙な力学の上に成り立っていたか、そして外様大名とその家臣団がいかに複雑な立場に置かれていたかを解明する上で、今後も重要な示唆を与え続けるであろう。近年発見された肖像画を始め、長男・成昌のその後の足跡の解明など、彼の物語には未だ探求すべき余地が残されており、今後の研究の進展が待たれる。