肥前の戦国大名・龍造寺隆信。その武威と勢威を象徴する存在として、後世に語り継がれるのが「龍造寺四天王」である 1 。彼らは主家躍進の原動力となり、その武名は九州に轟いた 1 。しかし、その栄光は天正十二年(1584年)の沖田畷の戦いにおける主君・隆信の劇的な戦死と共に、儚くも終焉を迎える。四天王の多くが主君と運命を共にする中、ただ一人、その戦場を生き延びたとされる武将がいた。木下昌直(きのした まさなお)である 4 。
彼の存在は、単なる生存者という点に留まらない特異性を放つ。彼は隆信の直臣ではなく、筆頭重臣・鍋島直茂の麾下にあった 4 。主君に殉じた他の四天王が「忠臣」の鑑として語られる一方で、直茂と共に生還した昌直の生涯は、一見するとその忠義の形に疑問を投げかけるかのようにも見える。なぜ彼は生き残ったのか。そして、なぜ隆信の直臣ではない彼が、主家を代表する猛将の列に加えられたのか。本報告書は、この「異色の武将」木下昌直の生涯を、現存する史料を基に徹底的に追跡し、その出自から晩年に至るまでの実像を明らかにする。さらに、彼の行動原理と後世の評価を分析することで、戦国から近世へと移行する時代の武士の忠義観の多層性、そして鍋島藩体制下で形成された歴史像の深層を解き明かすことを目的とする。
木下昌直の人物像を理解する上で、その出自は極めて重要な意味を持つ。彼は肥前土着の武士ではなく、中央である京都にルーツを持つ人物であった。この事実は、彼のキャリア全体を貫く特異性の原点となっている。
諸史料によれば、木下昌直は木下覚順(かくじゅん)、官途名を伊予守と称した人物の子とされる 4 。しかし、より詳細な記録では、昌直は京都の出身であり、覚順の養子として木下家に入ったという説が有力視されている 5 。父(または養父)である覚順自身も京都出身であったとされ 4 、この一族が畿内から肥前へ移住してきたことは、当時の社会情勢を色濃く反映している。
戦国時代、特に応仁の乱以降の京都は、戦乱により荒廃し、中央の権威は著しく失墜した。この混乱を逃れ、あるいは新たな活躍の場を求めて、公家や僧侶、武士、文化人たちが地方の有力大名を頼って下向する現象が頻繁に見られた 7 。一方で、龍造寺隆信は、肥前の一国人から九州三強の一角へと勢力を急拡大させる過程で、旧来の家臣団に固執せず、出自を問わない実力主義的な人材登用を進めていたと考えられる 9 。木下覚順・昌直親子は、こうした時代の大きな潮流の中で、隆信の武勇や勢力に魅せられ、あるいはその才能を認められて、肥前の地に根を下ろした「外様」の武士であったと推察される。彼らが譜代の家臣ではないという事実は、後に鍋島直茂の配下となる遠因ともなったであろう。
なお、昌直の姓である「木下」から、豊臣秀吉の正室・高台院の一族である木下家(足守藩主・木下家定など)との関連を想起する向きもあるが、両者は全くの別系統である 12 。この点はしばしば混同されるため、明確に区別しておく必要がある。
木下昌直の家族構成については、義兄弟として仙叔蔵主(せんしゅくぞうす、仙叔蔵王とも)という人物がいたことが記録されている 14 。この仙叔蔵主こそ、木下一族が佐賀の地に確かな足跡を残したことを示す鍵となる人物である。
佐賀市の寺院「光圓寺」の縁起によれば、この寺は龍造寺家の重臣・木下伊勢守入道覚順の「次男」が、18歳で京での仏道修行を終えた後、天文23年(1554年)に父・覚順の屋敷の一部に道場を建立したことに始まるとされる 15 。この「覚順の次男」こそが仙叔蔵主であり、この記述は昌直が覚順の「長子」であったことを傍証している 17 。
現在も光圓寺の境内には、木下昌直と仙叔蔵主の墓が並んで現存しており、さらに昌直の姿を描いたとされる掛軸絵も同寺に保存されている 18 。これらの遺物は、彼が単なる軍記物語上の人物ではなく、佐賀の地に生きた実在の武将であったことの動かぬ証左と言える。
木下昌直の龍造寺家臣団における立場は、極めて特徴的であった。彼は主君・隆信に直接仕える旗本ではなく、龍造寺家の政権と軍事の中枢を担った筆頭重臣・鍋島直茂の指揮下に置かれていたのである 4 。この主従関係が、彼のキャリアと運命を大きく左右することになる。
戦国大名の家臣団は、大名を頂点とする一枚岩の組織ではなく、多くの場合、有力重臣が自身の家臣団(「内衆」や「寄騎」などと呼ばれる)を抱える重層的な構造をなしていた。木下昌直は、まさに鍋島直茂が率いる私兵集団の一員、すなわち直茂の「内衆」というべき存在であった。
このことは、彼の忠誠の第一義的な対象が、主家の当主である龍造寺隆信であると同時に、直属の上官である鍋島直茂に向けられていたことを意味する。龍造寺家全体への奉公と、直茂個人への奉公という二重の忠誠構造の中で、彼は武士としての務めを果たしていた。この複雑な主従関係こそ、後の沖田畷の戦いにおける彼の行動原理を解き明かす上で、決定的に重要な鍵となる。
鍋島直茂の麾下にあって、木下昌直は武勇と才覚を遺憾なく発揮し、数々の戦功を立てている。
これらの戦功は、彼が龍造寺家臣団の中で確固たる地位を築いていたことを証明している。そして、その武勇と忠勤は、彼を龍造寺家の歴史における最も重要な局面へと導いていくのであった。
天正十二年三月二十四日(1584年5月4日)、龍造寺氏の命運を賭した戦いが、島原半島の沖田畷で勃発した 21 。この戦いは、木下昌直の生涯における最大の転機であり、彼の武士としての真価が問われる試練の場となった。
龍造寺氏に臣従していた有馬晴信が、薩摩の島津氏と結んで離反したことが、この戦いの直接的な引き金となった 21 。これに対し、龍造寺隆信は2万5000とも、一説には5万を超える大軍を率いて島原半島に侵攻した 21 。対する有馬・島津連合軍はわずか6,000から8,000程度であり、兵力では龍造寺軍が圧倒的に優位であった 21 。
この決戦において、木下昌直は主君・隆信が率いる本隊には加わらず、鍋島直茂が指揮する別動隊に所属していた 4 。この配置が、結果的に彼の運命を大きく分けることとなる。
数の上で慢心した龍造寺本隊は、湿地帯である沖田畷の隘路に誘い込まれ、島津家久の巧妙な「釣り野伏せ」戦法の前に総崩れとなった 21 。混乱の中、総大将である龍造寺隆信自身が討ち取られるという、龍造寺軍にとって壊滅的な事態が発生した 21 。
この主家存亡の危機に際し、木下昌直の真価が発揮される。彼は同僚の北島治部丞と共に、いち早く別動隊の鍋島直茂のもとへ駆けつけ、隆信の戦死という絶望的な報を伝えた 4 。主君を失い、組織的統制が崩壊した戦場で、直茂は全軍の撤退を決断する。その際、最も危険な役割である殿(しんがり)の将として、追撃してくる島津軍の前に立ちはだかったのが昌直であった 4 。
この時の昌直の奮戦ぶりは、江戸時代に成立した軍記物『九州治乱記』(別名『北肥戦誌』)に記されている 4 。彼は死力を尽くして敵の追撃を食い止め、直茂とその部隊を無事に退却させることに成功した。その後、直茂の部将である下村生運らが守る大野城に合流し、最終的に本国佐賀への帰還を果たしたのである 4 。
この一連の記録は、一部で語られる「沖田畷で討死した」という説 6 が、後世の創作や、他の四天王の運命と混同されたことによる誤伝であることを明確に否定するものである。
後世、佐賀鍋島藩の武士道精神を体系化した書物『葉隠』は、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」という有名な一節に象徴されるように、主君のための死を至上の価値とする死生観を提示した 26 。この『葉隠』的な価値観から見れば、主君が討ち死にした戦場で生き残った昌直の行動は、一見すると不忠の誹りを免れないように映るかもしれない。
しかし、彼の行動は「誰への忠義か」という文脈で再評価されねばならない。前述の通り、彼の直属の上官は鍋島直茂であった。龍造寺軍が組織的に崩壊し、主君・隆信が既に亡き者となった状況下において、彼が果たすべき最大の責務は何か。それは、無謀な突撃で犬死にすることではなく、龍造寺家の再建に不可欠な唯一無二の指導者、鍋島直茂を生きて本国へ帰還させることであった。
殿軍という、生還の保証が最も低い任務を敢えて引き受け、それを完遂した昌直の行動は、感情的な殉死ではなく、組織の未来を見据えた理性的かつ高度な忠義の実践であったと評価できる。彼の「生存」は、観念的な武士道ではなく、戦国乱世の現実を生きる武士の、極めてプラグマティックな忠義のあり方を示す貴重な事例なのである。
木下昌直の生涯を語る上で、「龍造寺四天王」の一人という称号は欠かせない。しかし、この称号の実態と、彼がその一員に数えられるに至った経緯は、単純な武勇の顕彰に留まらない、複雑な歴史的背景を内包している。
「龍造寺四天王」という呼称は、江戸時代中期以降に成立した複数の史料で確認できる。しかし、その構成員は史料によって異同が見られ、固定されたものではなかった 2 。主要な史料における構成員を比較すると、その流動性は一目瞭然である。
年代 |
史料名 |
名称 |
構成員1 |
構成員2 |
構成員3 |
構成員4 |
慶安3年(1650年) |
『成松遠江守信勝戦功略記』 |
龍造寺の四天王 |
成松信勝 |
百武賢兼 |
木下昌直 |
江里口信常 |
元禄13年(1700年) |
『九州記』 |
四本槍 |
成松信勝 |
百武賢兼 |
円城寺信胤 |
江里口信常 |
享保元年(1716年) |
『葉隠』 |
四天王 |
百武賢兼 |
木下昌直 |
成松信勝 |
江里口信常 |
享保5年(1720年) |
『九州治乱記(北肥戦誌)』 |
隆信四天王 |
成松信勝 |
百武賢兼 |
木下昌直 |
江里口信常 |
享保9年(1724年) |
『焼残反故』 |
隆信公四天王 |
百武賢兼 |
成松信勝 |
木下昌直 |
円城寺信胤 |
出典: 2 に基づき作成
この表が示すように、四天王として名前が挙がるのは、 成松信勝 、 百武賢兼 、 木下昌直 、 江里口信常 、 円城寺信胤 の5名である。このうち、成松、百武、木下の3名はおおよその史料で共通して挙げられているが、江里口と円城寺は入れ替わりが見られる 2 。この事実は、「四天王」という呼称が、後世の編纂者の意図によって選択・再構成される、流動的な概念であったことを示唆している。
四天王の候補者5名の中で、木下昌直の経歴は際立って特異である。
第一に、昌直を除く4名(成松信勝、百武賢兼、江里口信常、円城寺信胤)は、いずれも龍造寺隆信の旗本(直参家臣)であり、「四本槍」あるいは「四天王の槍柱」とも称される、隆信子飼いの猛将たちであった 3 。そして彼らは全員、沖田畷の戦いで主君・隆信と運命を共にしている 3 。
第二に、昌直は前述の通り、隆信の直臣ではなく「鍋島直茂の配下」であり、沖田畷の戦いを「唯一生き延びた」人物である 4 。この二重の特異性こそが、彼が四天王に数えられる理由を考察する上での核心となる。
なぜ、このような特異な経歴を持つ昌直が、主君に殉じた旗本たちと並び称されるようになったのか。その答えは、龍造寺氏から鍋島氏へと実権が移行し、佐賀藩体制が確立していく歴史的過程の中に求められる。
沖田畷の戦いの後、龍造寺家の実権は鍋島直茂が掌握し、その子・勝茂の代に名実ともに鍋島藩が成立する 27 。この権力移行を正当化し、旧龍造寺家臣団を新たな支配体制に統合していく上で、鍋島氏への忠誠を促す物語が必要とされた。四天王の伝説が確立されたのは、まさに鍋島氏の治世が安定した江戸時代中期であり、その編纂には鍋島藩の意向が強く反映されていたと考えられる 2 。
この文脈において、木下昌直の存在は極めて象徴的な意味を持つ。隆信に殉じた他の四天王が「旧主・龍造寺家への忠義」の象徴であるならば、昌直は「新時代の主・鍋島家への忠義」の象徴として顕彰されたのではないか。直茂の命を救うために奮戦し、その後も一貫して鍋島家に仕え続けた彼の生涯は、龍造寺家から鍋島家への権力の禅譲を円滑かつ正当なものであったと見せ、家臣団に鍋島家への忠誠を促す上で、理想的なモデルケースであった。
したがって、木下昌直の「四天王入り」は、単なる武勇の評価に留まらず、鍋島藩体制下における歴史の再解釈、すなわち、鍋島氏による支配の正統性を補強するための政治的な意図が込められた「顕彰」であったと結論付けられる。
沖田畷の戦いを生き延びた木下昌直は、その後も一貫して鍋島直茂の忠実な家臣として、戦国末期から江戸時代初期にかけての激動の時代を生き抜いた。
沖田畷の悲劇から8年後の文禄元年(1592年)、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)が始まると、昌直は主君・鍋島直茂に従い、朝鮮半島へ渡海した 4 。この事実は、彼が沖田畷での奮戦後も隠居することなく、依然として鍋島軍の中核を担う第一線の武将として活動していたことを明確に示している。主家が龍造寺氏から鍋島氏へと実質的に移行していく過渡期において、彼が引き続き重用されていたことがうかがえる。
朝鮮から帰国した後、昌直は出家し、「生安(しょうあん)」と号した 4 。これは戦乱の世を生き抜いた多くの戦国武将に見られる行動であり、武人としての役目を終え、静かに余生を送ろうとした彼の心境がうかがえる。通称であった「生直(なりなお)」の一字を取った法号である可能性も考えられる 4 。
そして、慶長十五年四月十三日(1610年6月4日)、木下昌直はその生涯を閉じた 4 。戒名は「心月生安」と伝わる 4 。主君・龍造寺隆信の死から26年後のことであり、この没年は、彼が沖田畷で討死したという説を完全に否定するものである。彼の死は、龍造寺氏の時代が完全に終わり、鍋島氏による新たな治世が確立された時代に訪れたのであった。
木下昌直の死後も、彼の一族はその血脈を佐賀の地に留め、歴史にささやかながらも確かな足跡を残した。彼の生涯と一族のその後は、戦国乱世の現実と、そこで生きた武士たちの多様な生き様、そして歴史記述の奥深さを我々に示してくれる。
昌直の忠義は、彼の子孫の行く末にも大きな影響を与えた。昌直の子・四郎兵衛は、父の跡を継いで龍造寺家を事実上継承した鍋島氏にそのまま仕え、木下一族は佐賀藩士として幕末まで家名を保った 5 。
その具体的な証拠は、江戸時代に作成された佐賀藩の分限帳(家臣の名簿と禄高を記した帳面)に見出すことができる。例えば、ある時期の分限帳には「木下市郎右衛門」という人物が物成40石の知行を得て「鍋島十太夫組」に所属していた記録や、「木下文七」が切米5石5斗を得ていた記録が確認できる 28 。また、佐賀県立図書館には「木下家文書」が所蔵されており 30 、一族が藩政の中で活動していたことがうかがえる。主君を守り抜いた昌直の功績は、一族の安泰という形で報われたのである。
木下昌直の生涯を丹念に追うことで、単なる一武将の伝記に留まらない、いくつかの重要な歴史的側面が浮かび上がってくる。
第一に、彼は 時代の転換点を体現した人物 である。龍造寺隆信というカリスマ的指導者の死と、それに続く鍋島直茂による新たな支配体制の確立という、肥前における権力移行の激動期を、彼は当事者として生き抜いた。彼のキャリアは、龍造寺から鍋島へと続く歴史の連続性と非連続性の双方を象徴している。
第二に、彼は**「忠義」の多層性**を示した。主君への殉死のみが忠義の形ではない。組織が崩壊する危機的状況において、次代を担うべき指導者を守り抜き、主家の再建に貢献するという彼の選択は、より現実的で高度な忠義の実践であった。これは、『葉隠』に代表される観念的な武士道とは一線を画す、戦国武士のリアルな生存戦略と組織論理を我々に教えてくれる。
第三に、彼の存在は 歴史的評価の形成過程 を物語る。生前は鍋島直茂の有能な配下の一人であった彼が、死後、鍋島体制の正統性を補強する象徴として「龍造寺四天王」という栄誉ある列に加えられた。彼の評価の変遷は、歴史がいかに後世の権力者の意図によって編纂され、語り継がれていくかを示す好例である。
結論として、木下昌直は、沖田畷の戦場で死ぬことでその忠義を証明した他の四天王とは対照的に、 生き抜いて忠義を尽くす ことで、より複雑で深遠な歴史的意味を持つに至った武将である。彼の生涯は、戦国という時代の過酷な現実、武士たちの多様な価値観、そして鍋島佐賀藩成立の裏面史を、雄弁に物語っているのである。