最終更新日 2025-07-23

木付鎮秀

木付鎮秀は大友氏の忠臣。耳川の戦いで殿軍を務め武功を挙げるも、味方の裏切りで戦死。子の鎮直も主家滅亡に殉じ自害し、木付氏344年の歴史に幕を閉じた。

豊後の忠臣、木付鎮秀の生涯―大友家衰亡の奔流に散った一族の記録

序章:豊後の忠臣、木付鎮秀―落日の大友家を照らした最後の閃光

戦国時代の九州に覇を唱えた大名、大友氏。その栄光と没落の歴史は、数多の家臣たちの忠義と悲劇によって彩られている。本報告書が主題とする木付鎮秀(きつき しげひで)は、まさしくその象徴とも言うべき武将である。彼の生涯は、主家が最も輝いた時代から、内部崩壊を経て滅亡へと向かう激動の時代と完全に重なる。

ご依頼者が事前に把握されている「日向遠征(耳川の戦い)で大敗した際に殿軍(しんがり)を務めて賞賛された」という武功、そして「田原親貫の反乱鎮圧の最中、味方の裏切りによって戦死した」という悲劇的な最期は、鎮秀の生涯のクライマックスを的確に捉えている。しかし、その背景には、大友一門としての木付氏が背負った宿命、主君・大友宗麟の宗教政策が引き起こした家中の深刻な亀裂、そして鎮秀の死後、その息子と孫が辿る壮絶な運命といった、より深く、複雑な物語が横たわっている。

本報告書は、木付鎮秀という一人の武将の生涯を徹底的に掘り下げることを通じ、戦国大名・大友氏の盛衰の実像を解き明かすことを目的とする。彼の出自である木付氏の鎌倉時代以来の歴史から、彼が命を賭して守ろうとしたもの、そして彼の死がもたらした影響、さらには一族が三百四十四年にわたる歴史の幕を閉じるに至った経緯までを、多角的な視点から詳細に記述する。これは、鎮秀という「悲劇の忠臣」の生涯を追うことで、戦国という時代のダイナミズムと、そこに生きた人々の苛烈な運命を浮き彫りにする試みである。

第一章:大友一門・木付氏の系譜―鎌倉以来の忠節の血脈

木付鎮秀の揺るぎない忠誠心を理解するためには、まず彼が属した木付一族の成り立ちと、主家・大友氏との分かちがたい関係性を知る必要がある。木付氏の歴史は、単なる主従関係を超えた、運命共同体としての強い一門意識に貫かれていた。

1-1. 木付氏の起源と豊後入封

木付氏の祖は、鎌倉時代に遡る。大友氏の初代当主・大友能直の孫であり、二代当主・親秀の六男であった木付親重(きつき ちかしげ)がその始祖である 1 。建長二年(1250年)、親重は鎌倉幕府より豊後国速見郡の武者所として八坂郷木付荘(現在の杵築市周辺)に封じられた 2 。彼はこの地の名をもって「木付」を名乗り、竹ノ尾の高台に城を築いた。これが木付氏とその本拠地・木付城(後の杵築城)の始まりである 2

この入封は、大友氏が豊後国における支配体制を盤石にするための戦略の一環であった。宗家の血を分けた庶流を国内の要所に配置することで、領国支配の基盤を固めたのである。木付氏はその中でも特別な存在であり、主家・大友氏から家紋である「抱き杏葉」の使用を許された「同紋衆」の一家であった 2 。これは、木付氏が大友一門の中でも特に格式が高く、宗家と一蓮托生の運命にあることを示すものであった。この強固な血縁と主従の関係こそが、後の鎮秀、そしてその子・鎮直の常軌を超えた忠誠心の源泉となったのである。

1-2. 歴代当主の忠勤と「北志賀家の出」という記述の考察

木付氏の歴史は、大友宗家への忠勤の歴史でもあった。歴代当主の多くは、大内氏との戦いや大友家内部の抗争において、宗家のために戦い、戦場の露と消えている 2 。例えば、室町時代の当主・親公は、大友持直と大内盛見の戦いに連動した合戦で敵将と相討ちとなり、その子・能世もまた豊前の戦いで戦死した 2 。鎮秀の忠義は彼一代の資質ではなく、一族に代々受け継がれてきた気風であったことが窺える。

一方で、一部の資料には木付鎮秀を「大友一族の庶流である北志賀家の出」とする記述が見られる 5 。しかし、前述の通り、木付氏は大友親秀の子・親重を始祖とする独立した庶流であり、鎮秀の父も木付親諸(きつき ちかもろ、別名:鑑実(あきざね))であることが確認されている 1 。このことから、「北志賀家の出」という記述は、彼の直接的な父系を示すものではなく、母方が志賀氏の出身であったか、あるいは志賀氏との間に養子縁組や緊密な政治的連携が存在したことを示唆している可能性が高い。いずれにせよ、鎮秀が木付氏の当主として、大友宗家と一門の繁栄を自らの責務と捉える、強いアイデンティティを持っていたことは疑いようがない。

第二章:鎮秀の登場と大友家臣団における地位

木付鎮秀は、父・親諸(鑑実)の跡を継ぎ、大友氏が最も隆盛を極めた二十一代当主・大友義鎮(宗麟)、そしてその子である二十二代当主・義統の二代にわたって仕えた。彼は単なる武勇に優れた将というだけでなく、大友家の政治の中枢を担う重臣として、その存在感を示していた。

2-1. 大友家中枢への参画

鎮秀の家臣団における地位の高さは、彼が務めた役職からも明らかである。彼は、大友家の重要政策の決定に際し、奉書に連署する資格を持つ重臣「加判衆」の一員であった 1 。これは、彼が軍事のみならず、大友家の政務においても重要な役割を担っていたことを意味する。特に天正六年(1578年)からは、当主となった大友義統の加判衆を務めており、新体制の中核を担う人物と目されていた 6

さらに鎮秀は、吉岡長増、臼杵鑑速という二人の宿老を指す「二老」に次ぐ有力な国人領主として、「国衆」の一人に数えられている 6 。これは、彼が木付荘を領する在地領主として、大友家の領国経営において欠かせない存在であったことを示している。

主君からの信頼の証として、鎮秀は主君・大友義鎮(宗麟)から「鎮」の一字を偏諱(へんき)として授かった 6 。この栄誉は、彼の弟である鎮之(しげゆき)、そして嫡男の鎮直(しげなお)にも与えられており、木付一族全体が宗家から厚い信任を得ていたことを物語っている 6

2-2. 鎮秀の家族

鎮秀の家族構成は、彼の生涯と一族の末路を語る上で極めて重要である。彼の父は木付親諸(鑑実)、妻は生地安清(いくち やすきよ)の娘であった 1 。そして、彼には二人の子がいた。嫡男の鎮直と、後に大神鎮正(おおが しげまさ)に嫁いだ娘である 6 。また、弟の鎮之は、兄である鎮秀と常に行動を共にし、その最期まで分かつことのない存在であった 6 。これらの家族関係は、後の田原親貫の乱における悲劇、そして木付氏の終焉へと繋がる伏線となっていく。

第三章:落日の名誉―耳川の戦いと殿軍の功

天正六年(1578年)、大友氏の命運を大きく左右する戦いが日向国で勃発した。この「耳川の戦い」における未曾有の大敗は、大友家衰退の序曲となったが、その絶望的な状況下で木付鎮秀が見せた奮戦は、彼の忠臣としての名を不動のものとした。

3-1. 大友軍、未曾有の大敗

この戦役は、薩摩の島津氏に敗れて豊後に逃れてきた日向の伊東義祐を救済するという名目で、大友宗麟が主導して行われた 2 。宗麟は嫡男・義統を総大将に据え、三万とも四万とも言われる大軍を日向へ派遣した 2 。当初、大友軍は土持氏の諸城を攻略するなど優勢に戦を進めたが、高城川(耳川)を挟んで島津軍本隊と対峙すると、軍議の対立や指揮系統の混乱から統制を失う。島津義久の巧みな「釣り野伏せ」戦術の前に、大友軍は総崩れとなり、多くの宿将を失うという壊滅的な敗北を喫した。この一戦は、九州の勢力図を塗り替え、大友氏が長い凋落の坂道を転がり始める決定的な転換点となった。

3-2. 崩壊の中の奮戦

味方の兵が算を乱して敗走する地獄絵図の中、木付鎮秀は冷静に己の役割を判断した。彼は自ら買って出て、全軍の最後尾で敵の追撃を防ぐ「殿(しんがり)」という、最も危険で生還の望みが薄い任務を引き受けたのである 1 。殿軍の成否は、味方本隊がどれだけ損害を抑えて撤退できるかに直結する。鎮秀は戦場に踏みとどまり、押し寄せる島津軍の猛追をその身で受け止め、見事に味方の撤退を成功させた 1

この捨て身の奮戦は、敗戦に沈む大友家中にあって一筋の光明であった。総大将であった大友義統は鎮秀の功績を高く評価し、感状を与えてその忠功を賞賛した 5 。この耳川での働きにより、「忠臣・木付鎮秀」の名は家中に轟き、彼の評価を決定的なものとした。しかし、この名誉からわずか二年後、彼はさらに過酷な運命に直面することになる。

第四章:裏切りの刃―田原親貫の乱と鎮秀の最期

耳川の戦いで失った権威を取り戻せないまま、大友家は内部から崩壊の兆しを見せ始める。天正八年(1580年)に勃発した田原親貫の乱は、その象徴的な事件であった。そしてこの乱は、忠臣・木付鎮秀にとって、あまりにも理不尽な最期をもたらすことになる。

4-1. 乱の火種―大友家内部の亀裂

反乱の首謀者である田原親貫は、大友一門の有力者・田原親宏の子であった。彼が反旗を翻した直接的な動機は、父・親宏が大友宗麟によって毒殺されたと信じ、その恨みを晴らすためであったとされる 5 。しかし、この反乱の根底には、より深刻な問題、すなわち大友宗麟のキリスト教への過度な傾倒が引き起こした、家臣団のイデオロギー対立と価値観の分裂があった。

4-2. 奈多鎮基の背信―複雑に絡み合う動機

木付鎮秀に致命傷を与えたのは、反乱軍の刃ではなかった。味方であるはずの、奈多鎮基(なた しげもと)の裏切りであった。この背信行為の背景を解明することこそ、鎮秀の死の真相に迫る鍵となる。

奈多鎮基は、単なる一武将ではない。彼は、国東半島に絶大な宗教的権威を誇る奈多八幡宮の大宮司であり、かつ大友宗麟の正室・奈多夫人(大友義統の生母)の実弟という、極めて重要な立場にあった 11 。彼は、大友宗家と二重三重の縁で結ばれた、本来ならば中核にいるべき人物であった。

しかし、主君・宗麟が熱心なキリシタンとなり、日本の伝統的な神仏を破壊するような行動を見せるようになると、状況は一変する。宗麟は、神道を篤く信じる正室・奈多夫人と離縁し、その侍女を新たな妻として洗礼まで受けさせた 16 。この一連の行動は、奈多八幡宮大宮司であり、奈多夫人の弟である奈多鎮基にとって、宗教的アイデンティティと一族の誇りを根底から揺るがす、耐え難い屈辱であった。史料『奈多記』には、宗麟の「暴挙」に対し、奈多鎮基が田原親貫と同様に「念懣やるせない」思いを抱き、親貫の反乱に同情したことが記されている 11

つまり、鎮秀の死は、単なる個人的な裏切りが引き起こした偶発的な事件ではなかった。それは、宗麟の急進的な宗教改革が招いた大友家臣団の「構造的な分裂」が生んだ必然的な悲劇だったのである。奈多鎮基にとって、宗麟への絶対的な忠誠を貫く木付鎮秀は、憎き「キリシタン派・宗麟派」の象徴であった。彼が鎮秀を攻撃した行為は、宗麟本人を討つに等しい、代理戦争的な意味合いを帯びていた。鎮秀は、この深刻なイデオロギー対立の奔流に、その身を飲み込まれたのである。

4-3. 塩屋原の悲劇

天正八年(1580年)、大友義統の命を受けた木付鎮秀は、弟の鎮之と共に軍を率い、田原親貫が籠城する安岐城(国東市安岐町)を攻撃していた。その最中、突如として背後から味方の旗印を掲げた軍勢が襲いかかった。奈多鎮基率いる奈多の神軍であった 6

『豊陽志』によれば、奈多鎮基は田原親貫に呼応し、大友方に与する木付鎮秀を塩屋(安岐町塩屋)にて討ったとある 11 。安岐城の城兵と奈多軍によって前後から挟撃されるという絶望的な状況下で、鎮秀と鎮之の兄弟は奮戦空しく、この塩屋原の地で討ち死にした 11 。鎮秀、享年43歳前後と伝えられる 5 。彼の墓は、今も決戦の地であった安岐町の心月寺前の松山に、静かに佇んでいる 6

第五章:一族の黄昏―木付氏、三百四十四年の終焉

父・鎮秀の非業の死は、木付氏の悲劇の序章に過ぎなかった。家督を継いだ嫡男・鎮直は、父の忠義を受け継ぎ、傾きかけた主家を支えようと奮闘する。しかし、彼の武功も虚しく、大友家の没落という時代の大きなうねりは、ついに木付一族三百四十四年の歴史に終止符を打つことになる。

5-1. 息子の奮闘―豊薩合戦と勝山城

父と叔父を一度に失った後、木付氏十六代当主となった鎮直は、父に劣らぬ器量の武将であった 9 。その真価が発揮されたのが、天正十四年(1586年)から始まった島津氏の豊後侵攻、いわゆる「豊薩合戦」である。

島津の大軍の前に大友義統が府内を捨てて逃亡するなど、豊後全土が蹂躙される中、鎮直は居城・木付城に籠城した 18 。島津方の猛将・新納忠元が率いる軍勢に包囲されながらも、鎮直は二ヶ月にわたって城を死守 9 。やがて豊臣秀吉の援軍が九州に上陸するとの報が届き、島津軍が撤退を開始すると、鎮直は城から打って出て追撃に転じ、敵に大打撃を与えて大勝利を収めた 2 。この目覚ましい武功を賞賛した大友義統は、木付城を「勝山城」と改称してその栄誉を称えたという 2

5-2. 主家の没落と一族の殉死

しかし、鎮直の奮闘も、大友家の運命を変えるには至らなかった。天正二十年(文禄元年、1592年)から始まった豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が、木付氏にとっての最後の悲劇の舞台となる。

文禄二年(1593年)、この戦役に従軍していた大友義統が、敵を前にして戦わず逃亡したという失態を咎められ、秀吉の怒りを買って改易処分となった 2 。戦国大名・大友氏の滅亡である。この報は、朝鮮の戦陣にあった木付勢にも届いた。鎮直の嫡男であり、鎮秀の孫にあたる木付統直(きつき むねなお)は、主家の改易という屈辱に耐えきれず、帰国の途上、門司の浦で入水自害を遂げた 2 。さらに、統直の子、すなわち鎮秀の曾孫にあたる甚九郎直清も、朝鮮の鳳山の戦いで既に戦死していた 2

豊後の木付城でこの悲報を受け取った鎮直の絶望は、察するに余りある。彼は武功を立てて守り抜いた主家を失い、未来を託すべき子と孫を同時に亡くしたのである。鎮直は、城内を塵一つなく掃き清めると、妻と共に静かに自害して果てた。享年66 9 。ここに、鎌倉時代から三百四十四年間にわたり豊後の地を治めた木付氏は、その歴史の幕を閉じた 2

鎮秀の「戦場での死」と、その子・鎮直の「主家の不名誉に殉じた死」は、時代の大きな転換点を象徴している。父・鎮秀の死は、裏切りという悲劇を含みながらも、あくまで武士の本分である「戦」の中で迎えたものであった。対して、子・鎮直は輝かしい武功を立てながらも、戦場では死ななかった。彼の死は、主君の武運ではなく、主家の「名誉」と「存続」という、より政治的・社会的な価値に殉じたものであった。これは、武士の忠義のあり方が、個人の武勇から、主家の家格や名誉と一体化していく近世武家社会の論理を先取りした悲劇であり、父子の死の対比は、時代の変容を鮮やかに映し出している。


【表】木付鎮秀と木付一族の年表

西暦(和暦)

出来事

関連人物

典拠

1250年(建長2)

大友親秀の六男・親重が豊後国木付荘に入封。木付氏の歴史が始まる。

木付親重

2

1538年頃?

木付鎮秀、生まれる(推定)。

木付鎮秀

5

1578年(天正6)

耳川の戦い。大友軍が大敗する中、鎮秀は殿軍を務めて武功を挙げる。

木付鎮秀、大友義統

1

1580年(天正8)

田原親貫の乱。鎮秀と弟・鎮之は、安岐城攻めの最中に奈多鎮基の裏切りに遭い、塩屋原で戦死する。

木付鎮秀、木付鎮之、田原親貫、奈多鎮基

6

1586年(天正14)

豊薩合戦。鎮秀の子・鎮直が木付城に籠城し、島津軍の猛攻を2ヶ月にわたり防ぎきり、撃退する。

木付鎮直、新納忠元

2

1592年(文禄元)

文禄の役が始まる。鎮直の子・統直、その子・直清らが大友義統に従い朝鮮へ渡海する。

木付統直、木付直清、大友義統

2

1593年(文禄2)

大友義統、敵前逃亡の咎で豊臣秀吉により改易。大友家が滅亡。

大友義統、豊臣秀吉

2

1593年(文禄2)

主家改易と子・直清の戦死を知った統直が、帰国途上の門司浦で入水自害。

木付統直、木付直清

2

1593年(文禄2)

主家の滅亡、子と孫の死を知った鎮直が、妻と共に木付城内で自害。木付氏の嫡流は断絶する。

木付鎮直

9


結論:忠義に生きた武士の生涯―木付鎮秀が現代に遺すもの

木付鎮秀の生涯は、主家である大友氏の栄光と衰亡の軌跡そのものであった。彼は、大友一門としての誇りを胸に、崩壊しつつある主家を支えようと最後まで奮闘した。耳川の戦いでの殿軍という輝かしい武功は、彼の武勇と忠誠心の高さを証明している。しかし、その忠誠心ゆえに、彼は主君・宗麟の政策が引き起こした家中の深刻な対立の渦中に身を置くこととなり、結果として味方の裏切りという最も理不尽な形で命を落とした。

彼の死は、単なる一個人の悲劇に留まらない。それは、戦国大名・大友氏が内包していた構造的矛盾の顕在化であり、その後の滅亡を予兆する出来事であった。

さらに、彼の死後、その遺志を継いだ息子・鎮直と孫・統直らが辿った運命は、戦国武士が抱いた「忠義」という価値観の純粋さと、その裏にある苛烈さを現代に伝えている。主家の不名誉に殉じる形で一族の歴史に自ら幕を引いたその生き様は、時代の大きな転換期の中で、武士がいかに生き、いかに死んだのかという、人間の尊厳と悲哀に満ちた一つの典型である。木付鎮秀とその一族の物語は、大友氏の盛衰史という大きな歴史のうねりの中で、忘れ去られるべきではない、確かな足跡を遺している。

引用文献

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  2. 武家家伝_木付氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ot_kituki.html
  3. 杵築城(木付城) https://www.city.kitsuki.lg.jp/soshiki/7/bunka/bunkazai/bunkazai/1823.html
  4. スタッフからの現地便り(2009年12月21日)|ロイヤルシティ別府 ... https://www.daiwahouse.co.jp/shinrin/blog/blog_detail.asp?bukken_id=kitsuki&Mct=2009&blog_id=65
  5. 木付 鎮秀-きつき しげひで http://bit.sakura.ne.jp/tuwamono/busyou1/d12/d12kyuu-page1/d12-b8.htm
  6. 木付鎮秀 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E4%BB%98%E9%8E%AE%E7%A7%80
  7. 大友義鑑とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E7%BE%A9%E9%91%91
  8. 大友義鎮 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E7%BE%A9%E9%8E%AE
  9. 木付鎮直 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E4%BB%98%E9%8E%AE%E7%9B%B4
  10. 耳川の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%B3%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  11. 三月一 H宗麟から萱島に対して「田原親家 http://bud.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=4782
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  15. 神兵 奈多鑑基(なた あきもと)|ひでさん - note https://note.com/hido/n/n465f350a27a5
  16. 大友宗麟の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46473/
  17. 「大友義統」悲運の豊後大友家第22代当主。六ヵ国の国持大名から流罪の身へ | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/757
  18. 杵築城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.kitsuki.htm
  19. 杵築城 http://tabi817.sakura.ne.jp/picup/castle/ca-oo/ca-oo-kituki-m.html