戦国時代の信濃国木曾谷に、ひときわ異彩を放つ領主がいた。木曾義在(きそ よしあり)、その人である。明応2年(1493年)に生を受け、永禄元年(1558年)に没するまで、激動の時代を生き抜いた彼は、後世「風流太守」と称され、その温和な人柄と安定した治世で知られている 1 。しかし、この雅やかな異名は、彼の政治家としての一面に過ぎない。本報告書は、この木曾義在という人物の生涯と事績を、同時代の政治・社会状況の中に正確に位置づけ、彼の統治の本質と歴史的意義を多角的に解明することを目的とする。
本調査を進めるにあたり、まず明確にすべきは、平安時代末期に源平合戦で活躍した「木曾義仲(源義仲)」との区別である。戦国期の木曾氏が、自らの権威を高めるために義仲の子孫を称したことから、両者はしばしば混同されることがある 3 。本報告書が対象とするのは、あくまで戦国時代に生きた大名、木曾義在であり、平安時代の義仲とは別人である点をここに明記しておく。
義在が治めた木曾谷は、信濃・美濃・飛騨の三国が境を接する地政学上の要衝であった 4 。東に甲斐の武田氏、西に美濃の斎藤氏、そして北に飛騨の三木氏という強大な勢力に囲まれた中で、小領主である木曾氏がいかにして独立を保ち、領国の安定を維持したのか。この問いを解き明かすことが、本報告書の中心的な課題となる。彼の治世は、領土拡大のみを是とする戦国時代の価値観の中で、領国の安定化と内政の充実に心血を注いだ「守成(しゅせい)」の領主の、巧みな生存戦略を我々に示してくれる。その「風流」は単なる個人的な趣味ではなく、安定した統治という政治的基盤の上に花開いた文化的活動であり、同時にその文化的権威が領主としての正統性を補強するという、政治と文化の密接な相互関係の中にあった。本報告書では、この視点を軸に、木曾義在の実像に迫っていく。
戦国時代の木曾氏が、自らの系譜をいかに語っていたかは、彼らの自己認識と政治的立場を理解する上で重要である。木曾氏は、治承・寿永の乱で名を馳せた木曾義仲の子孫を自称していた 3 。しかし、これは木曾氏が義仲を意識して源氏を称するようになった室町時代後期以降のことであり、史料を遡ると、その出自は藤原氏、特に藤原秀郷の流れを汲む上野国の沼田氏にある可能性が高いと指摘されている 3 。戦国時代、地方の国人領主が自らの家格と正統性を高めるために、源平藤橘といった高貴な氏族の系譜に連なろうとすることは常套手段であった。木曾氏による源氏の権威の借用もまた、その一例と見なすことができる。
義在の治世を理解する上で、その出発点となった父・木曾義元の死は避けて通れない。義元は、木曾谷の西に勢力を持つ飛騨の三木氏との長年にわたる抗争の最中に命を落とした。通説によれば、永正元年(1504年)、三木氏の軍勢が木曾領の王滝へ侵攻した際、義元は王滝城でこれを迎え撃ったが敗れ、居城である木曽福島城への退却中に追撃を受けて戦死したとされる 6 。この事件は、木曾氏と三木氏の間に埋めがたい確執を生んだ。
ただし、義元の没年については、享禄元年(1528年)とする異説も存在し、史料によって記述が分かれている 6 。この年代の相違は、戦国初期における地方国人の記録の不確かさを示すと同時に、後世の編纂物において情報が錯綜していたことを物語っている。いずれにせよ、義在が若くして父を敵対勢力との戦で失ったという事実は、彼のその後の統治方針に大きな影響を与えたと考えられる。武力による報復ではなく、外交による安定を志向する彼の姿勢は、この悲劇的な原体験に根差している可能性が極めて高い。
父・義元の戦死により、義在は一説に12歳という若さで家督を継承した 6 。通常、若年の当主の登場は家中の権力闘争や外部勢力の介入を招きかねない危機的な状況である。しかし木曾氏においては、義在の叔父にあたる黒川三郎義勝が後見人となり、彼を補佐することで、この難局を乗り切った 6 。この安定した権力移譲と後見体制があったからこそ、木曾氏は内紛による弱体化を免れ、若き当主・義在は内外の課題に集中して取り組むことができた。叔父の後見の下、直接的な復讐戦に駆り立てられることなく、長期的な視点で領国経営を学ぶ時間を得たことが、後の彼の現実的な統治者としての素地を養ったと言えよう。
父の死という困難な状況下で家督を継いだ木曾義在であったが、彼は卓越した内政手腕を発揮し、木曾谷の支配体制を盤石なものへと変えていった。その政策は、政治、経済、交通、そして宗教の各側面に及び、相互に連携しながら領国全体の強化に貢献した。
義在は17歳の時、それまで木曾氏の拠点であった須原(現・長野県木曽郡大桑村)から、木曾谷のより中心的な位置にある福島(現・木曽町)に「上の段城」を新たに築城し、本拠を移した 6 。これは単なる居城の移転ではなく、木曾谷全域に対する支配権を名実ともに確立し、新たな統治体制の始まりを内外に示す象徴的な事業であった。この政治的中心の明確化は、後の彼の諸政策を展開する上での強固な基盤となった。なお、須原にあった旧居館の跡地は、後に木曾氏の菩提寺である定勝寺の境内になったと推定されている 12 。
山がちで耕地に乏しい木曾谷において、経済基盤の確立は領主にとって最重要課題であった。義在はこの課題に対し、地域の特性を最大限に活かすことで応えた。すなわち、木曾谷に無尽蔵に存在する良質な木材を、隣国の美濃へ輸出し、その対価として領内で不足しがちな米穀を確保するという交易システムを確立したのである 6 。この林業を軸とした交易は、木曾谷の経済を支える生命線となり、彼の治世下で領国が安定を保つことができた最大の要因であったと言える。
経済政策と密接に関わるのが、交通網の整備である。義在は天文2年(1533年)、美濃国の落合から信濃国の塩尻へと抜ける木曾谷の幹線道を大規模に整備した。さらに、街道沿いに人家を集めて宿場を設け、馬籠から新洗馬(現在の塩尻市洗馬)に至るまでの宿駅を定めたと伝えられる 6 。これは、江戸時代に五街道の一つとして整備される中山道「木曽十一宿」の直接的な原型となるものであった。この事業は、木材の搬出と米穀の搬入を効率化する経済的効果はもちろん、人や物資、情報の流通を活性化させ、領内の一体感を醸成し、領主の支配力を隅々まで浸透させるという高度な政治的意図を持った、先見性に富んだ政策であった。
義在は、武力や経済力だけでなく、領民の精神的な支柱である宗教をも巧みに統治に利用した。天文23年(1554年)には、嫡男の義康と共に、木曽地域における山岳信仰の中心である御嶽神社の黒沢口里宮を再建し、鰐口を奉納している 11 。また、木曾氏代々の菩提寺である定勝寺にも梵鐘を寄進するなど 11 、寺社への手厚い保護を通じて、領主としての徳を示し、領民の求心力を高めた。これらの宗教政策は、木曾氏の支配の正統性を精神的な側面から補強する重要な役割を果たした。
歴史学者の柴辻俊六氏は、義在のこうした主体的な領国経営を高く評価し、この時期に木曾氏が単なる地方国人から「一定の戦国大名化を遂げていた」と結論付けている 6 。城の移転による「政治的中心」の確立、街道整備による「経済的動脈」の確保、そして寺社再興による「精神的支柱」の掌握は、まさに一人の領主が領国を統一的に支配する戦国大名へと脱皮していく過程そのものであった。
強大な隣国に囲まれた木曾氏にとって、巧みな外交は領国の存亡を左右する生命線であった。木曾義在は、武力衝突を極力避けつつ、婚姻や中央政権との連携を駆使して、絶妙なバランス感覚で木曾谷の平和と独立を維持した。
義在の外交手腕を最も象徴するのが、飛騨の三木氏との関係である。三木氏は父・義元の仇敵であり、両家の間には深い確執があった。しかし義在は、個人的な怨恨よりも領国全体の利益を優先し、この宿敵との和睦を成立させた 1 。これは極めて現実的かつ戦略的な判断であった。西方の脅威である三木氏との関係を安定させることで、木曾氏は東方から迫りくる甲斐武田氏の脅威に全力を傾けることが可能となった。この和睦がなければ、木曾氏は東西から挟撃される危機に常に晒され、第二章で見たような内政の充実に注力する余裕は生まれなかったであろう。
信濃国内における地位を固めるため、義在は婚姻政策を有効に活用した。永正6年(1509年)、彼は信濃の有力国人であった松尾小笠原氏の当主・小笠原定基の娘を正室として迎えた 6 。この婚姻同盟は、木曾氏が信濃国内で孤立することを防ぎ、共通の敵に対抗するための重要な基盤となった。
義在の視野は、信濃国内や隣国に留まらなかった。彼は、当時形骸化しつつあったとはいえ、依然として最高の権威を持っていた室町幕府との関係構築にも努めた。永正10年(1513年)、時の将軍・足利義稙の命に応じ、近江国まで出兵して六角高頼と戦っている 6 。さらに大永7年(1527年)には、小笠原氏と共に上洛を果たし、朝廷から左京大夫の官位に任じられた 6 。
この任官は、単なる名誉職ではない。将軍や朝廷といった中央の権威を後ろ盾とすることで、周辺の他の国人領主に対して優位に立つための、極めて有効な政治的ツールであった。この事実は、義在が地方の動乱に埋没することなく、中央政情の動向を的確に把握し、それを自らの領国統治に利用しようとする、高度な政治感覚の持ち主であったことを雄弁に物語っている 16 。
義在の外交は、まさに「力の均衡」を巧みに利用したものであった。三木氏と和睦して西を固め、小笠原氏と結んで信濃国内での足場を確保し、中央の権威を借りて自らの地位を高める。彼の「温和な人柄」という評価の裏には、こうした冷徹なまでの戦略眼が隠されていたのである。彼の治世の平和は、来るべき武田氏の侵攻という嵐の前の静けさであり、彼自身もその脅威を認識した上で、周到な外交的布石を打っていたと評価できよう。
木曾義在を語る上で欠かせないのが、「風流太守」という雅やかな異名である 2 。この呼称は、彼が単なる武辺一辺倒の領主ではなく、文化的な素養を深く身につけた人物であったことを示唆している。しかし、戦国時代における「風流」の意味合いは、現代の我々が抱くイメージよりも遥かに多義的であり、彼の文化活動もまた、高度な政治性と結びついていた。
現代において「風流」という言葉は、静かで趣のある、優雅な様を指すことが多い。しかし、戦国時代における「風流(ふりゅう)」は、そうした側面だけでなく、人の意表を突く華美な装飾や奇抜な趣向、あるいは見る者を圧倒するような威勢といった、より動的で豪奢な意味合いをも含んでいた 18 。当時の武将たちが茶の湯や和歌・連歌に興じたのは、単に文化的教養を披露するためだけではない。それは、そのような高度な文化活動に没頭できるだけの経済力と、安定した領国を保持していることを内外に誇示する、極めて政治的なパフォーマンスでもあったのである 20 。
義在の人物像を伝える貴重な一次史料として、大桑村の定勝寺に現存する画像讃文が挙げられる。これは、義在が没した永禄元年(1558年)、慈雲寺の住職であった玄長天桂和尚という高僧から授けられた道号「英山宗雄大居士」とその由来を記した偈(げ、漢詩形式の仏教詩)である 11 。その内容は、義在を激賞する言葉で満ちている。
「一千人裏一先鋒 若論威風雲際竜 圧倒漢家三傑去 衝天気宇剣鋩峰」
(千人の中に立つ先鋒、その威風は雲の彼方の竜の如し。かの漢の三傑をも圧倒し、天を衝くその気概は鋭い剣の切っ先の如し) 11
この偈から浮かび上がるのは、「風流太守」という穏やかなイメージとはむしろ対照的な、勇猛果敢な武将の姿である。同時代を生きた高名な禅僧が、彼の文化的側面よりも武人としての器量を「竜」や「剣の切っ先」に喩えて最大限に称賛している点は極めて興味深い。これは、義在の「風流」が、武人としての確固たる実力という基盤の上に成り立っていたことを示す重要な証拠と言えよう。
義在自身が詠んだ和歌や連歌といった作品は、残念ながら現存していない 11 。しかし、彼が文化のパトロンとして果たした役割は大きい。塩尻市奈良井に専念寺を創建し 11 、地域の信仰の中心であった御嶽神社や木曾氏の菩提寺である定勝寺の再興に尽力し、多くの寄進を行っている 11 。これらの行為は、篤い信仰心の発露であると同時に、文化の保護者としての役割を積極的に果たすことで、領主としての「徳」を領民や周辺勢力に示し、自らの統治の正当性を高めるという、明確な政治的意図を伴うものであった。
「風流太守」という呼称は、彼の平和的な治世が後世に理想化された結果、特に強調された側面である可能性がある。同時代の評価は、むしろ彼の武威を讃えている。この二つの評価は、決して矛盾するものではない。戦国時代の理想的な領主像は、武勇に優れ(武)、同時に文化的な教養も深い「文武両道」の人物であった。義在は、武力で領国を守りつつ、文化を保護し嗜むことで、この理想像を体現していたのである。したがって、「風流太守」という呼称は彼の「文」の側面を捉えたものであり、その全体像を理解するためには、偈が示すような「英山雄公(優れた武人)」としての「武」の側面と統合して評価する必要がある。
義在が半世紀近くにわたって築き上げた木曾谷の安定は、しかし、時代の大きなうねりの中で永遠に続くものではなかった。彼の治世の晩年から、東の甲斐国より巨大な影が信濃全土を覆い始めていた。
天文11年(1542年)、義在は嫡男の義康に家督を譲り、黒川口松島にて隠居生活に入った 6 。この時、義在は49歳、後継者の義康は28歳であった 6 。しかし、これは完全な政務からの引退を意味するものではなかった。隠居後も義在が政治に関与していたことを示す文書が複数見られ、特に天文23年(1554年)には、当主である義康と連名で御嶽神社を再建している 6 。これは、家督譲渡後も義在が「大殿」として後見的な立場から一定の影響力を保持し、円滑な権力継承を支えていたことを示している。
義在が隠居した天文10年代は、甲斐の武田晴信(後の信玄)が信濃侵攻を本格化させた時期と重なる 22 。信濃の有力国人であった諏訪氏、小笠原氏、村上氏などが次々と武田軍の前に敗れ、その領地を追われる中、木曾谷にも武田の圧力は着実に及んでいた 22 。
最終的に、義在の子・義康の代、弘治元年(1555年)頃に木曾氏は武田氏に出仕し、その軍門に降ることになる 22 。木曾氏が他の信濃国人のように滅亡を免れ、臣従を許された背景には、義在が築き上げたものが大きく影響していたと考えられる。第一に、木曾谷が美濃・飛騨へ抜ける戦略的要衝であり、対上杉氏の前線、対斎藤氏の緩衝地帯として、武田氏にとって極めて高い価値を持っていたこと 22 。第二に、義在の治世によって木曾谷が安定し、統率の取れた国人衆となっていたため、武力で制圧して遺恨を残すよりも、味方に引き入れる方が得策であると信玄が判断したことである。
その後、義在の孫にあたる木曾義昌は信玄の娘・真理姫を正室に迎え、木曾氏は武田家の親族衆(一門)という破格の待遇で迎えられることになる 22 。
義在の生涯は、木曾氏が独立した戦国領主として存在し得た、最後の輝きの時代であった。彼が心血を注いで築き上げた領国の安定と巧みな外交の成果は、皮肉にも武田氏にとって木曾谷を魅力的な併合対象としての価値を高めることになった。しかし、見方を変えれば、その「価値」こそが、木曾氏が滅亡ではなく臣従という形で存続することを可能にした最大の要因であった。義在の「守成」の努力は、次世代が巨大勢力の枠組みの中で生き残るための、最大の遺産となったのである。
木曾義在の生涯を振り返るとき、我々は戦国時代の一つの理想的な領主像を見出すことができる。それは、領土拡大という華々しい功績ではなく、自らの領国をいかに豊かにし、民を安んじ、次代へと繋いでいくかという、「守成の名君」としての姿である。
父・義元の戦死という悲劇的な状況から出発した義在は、半世紀近くにわたり、木曾谷に平和と安定をもたらした。彼は、宿敵であった三木氏と和睦し、小笠原氏との婚姻同盟を結び、さらには中央の将軍権威を利用するという、卓越した外交戦略を展開した。内政においては、拠点を移して支配体制を強化し、林業と交易によって経済を潤し、後の中山道の原型となる街道を整備して物流の礎を築いた。これらの政策は、彼が単に温和なだけでなく、極めて現実的で先見性に富んだ統治者であったことを証明している。
木曾義在の歴史的評価をめぐっては、研究者の間で見解が分かれている。歴史学者の柴辻俊六氏は、義在の主体的な領国経営や外交政策を高く評価し、この時期に木曾氏が在地豪族である国人領主から脱皮し、「一定の戦国大名化を遂げていた」と論じている 6 。一方で、歴史学者の笹本正治氏は、同時代に義在が発給した文書が少ないことなどを根拠に、大名としての権力構造が確立されていたと見なすことには慎重な姿勢を示し、その支配を「国人領主制の頂点にあった」と評価する 6 。
この学術的な論争は、戦国大名の定義そのものに関わる重要なものである。本報告書としては、義在が領域拡大こそ行わなかったものの、その統治の実態は、領国内において一円的かつ自立した権力を行使しており、小規模ながらも戦国大名としての実質を備えた存在であったと結論づけたい。彼はまさに、地方の国人が戦国大名へと変貌していく過渡期を体現した人物であった。
木曾義在が後世に残した遺産は大きい。彼が整備した木曾谷の街道と宿駅は、江戸時代の中山道へと発展し、日本の大動脈の一部を形成した 6 。彼が確立した木材交易のシステムは、近世に木曾谷を支配した尾張藩の重要な財源となり、地域の経済的基盤となった 28 。
そして何よりも、彼の安定した治世がなければ、木曾氏は武田信玄による苛烈な信濃侵攻の前に、他の多くの国人たちと同様、歴史の舞台から姿を消していた可能性が極めて高い。戦国の荒波の中で巧みに舵を取り、一族を滅亡から救い、次代の義康・義昌の時代へと繋いだこと。それこそが、「風流太守」木曾義在の最大の功績と言えるであろう。
西暦/和暦 |
木曾義在・木曾氏の動向 |
周辺勢力・中央の動向 |
典拠史料 |
1493年(明応2年) |
木曾義在、生まれる。 |
|
6 |
1504年(永正元年) |
父・義元、飛騨三木氏との戦いで戦死(異説あり)。義在が家督相続。 |
|
6 |
1509年(永正6年) |
須原から福島へ拠点を移し、上の段城を築く。松尾小笠原定基の娘を娶る。 |
|
6 |
1513年(永正10年) |
将軍・足利義稙に従い、近江へ出兵。 |
足利義稙、六角高頼と対立。 |
6 |
1527年(大永7年) |
上洛し、左京大夫に任官。 |
|
6 |
1533年(天文2年) |
木曾谷の街道(後の中山道)と宿駅を整備する。 |
|
6 |
1542年(天文11年) |
嫡男・義康に家督を譲り隠居。 |
武田晴信(信玄)、信濃侵攻を本格化。 |
6 |
1549年(天文18年) |
定勝寺に梵鐘を寄進。 |
飛騨の三木氏と和睦したとされる。 |
1 |
1554年(天文23年) |
義康と共に御嶽神社黒沢口を再建、鰐口を奉納。 |
武田氏、伊那郡を制圧。 |
11 |
1555年(弘治元年) |
子・義康が武田晴信に出仕(臣従)。 |
第2次川中島の戦い。 |
22 |
1558年(永禄元年) |
木曾義在、死去。戒名は英山雄公。 |
|
6 |
Mermaidによる関係図
注:本系図は主要な人物関係を簡略化して示したものである。典拠: 6