最終更新日 2025-06-18

木村定光

「木村定光」の画像

木村定光(常陸介重茲)に関する総合的調査報告

表1:木村常陸介(重茲) 関連年表

年代

主要な出来事・役職

石高・所領

関連する歴史的事件

主要典拠

生年不詳

木村定重の子として誕生したとされる。

-

-

1

元亀元年 (1570)

金ヶ崎の戦いにおいて、木下秀長(豊臣秀長)の配下として武功を挙げる。

-

織田信長の越前侵攻

2

天正11年 (1583)

賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉方に属し、近江国堂木山砦の守将を務める。

若狭国 佐柿国吉城

賤ヶ岳の戦い

2

天正11年 (1583)

戦功により、若狭国佐柿の国吉城主となる。城の改修や城下町の整備に着手。

若狭国 佐柿国吉城

賤ヶ岳の戦後の領地再編

4

天正12年 (1584)

小牧・長久手の戦いに参戦。

若狭国 佐柿国吉城

小牧・長久手の戦い

2

天正13年 (1585)

越前国府中へ移封。12万石(一説に10万石)の大名となる。

越前国 府中城 12万石

丹羽長秀死後の領地再編

1

天正15年 (1587)

九州征伐に参戦。

越前国 府中城 12万石

九州征伐

2

天正18年 (1590)

小田原征伐に参戦。武蔵国岩槻城攻めで武功を挙げる。

越前国 府中城 12万石

小田原征伐

2

天正18年 (1590)

奥州仕置において、出羽国の検地奉行を務める。仙北一揆の平定にも関与。

越前国 府中城 12万石

奥州仕置

2

天正18年頃~

豊臣秀次の付家老(宿老)となり、政権中枢に関与。

越前国 府中城 12万石

豊臣秀次への権力移譲

2

文禄元年 (1592)

文禄の役(朝鮮出兵)に3,500の兵を率いて渡海。

越前国 府中城 12万石

文禄の役

2

文禄2年 (1593)

朝鮮での戦功などにより、山城国淀城へ18万石に加増移封される。

山城国 淀城 18万石

-

2

文禄2年 (1593)

閏9月9日までに朝鮮より帰国し、秀吉に拝謁。

山城国 淀城 18万石

豊臣秀頼の誕生

7

文禄4年 (1595)

豊臣秀次事件に連座。秀次を弁護した、あるいは与党と見なされ罪に問われる。

山城国 淀城 18万石

豊臣秀次事件

2

文禄4年7月15日 (1595年8月20日)

秀吉の命により、摂津国茨木の大門寺にて自害。

所領没収

秀次一族・家臣の粛清

1


序章:豊臣政権の光と影を映す武将・木村常陸介重茲

安土桃山時代という激動の時代、豊臣秀吉の下で数多の武将が栄達と没落を繰り返した。その中でも、木村常陸介重茲(きむらひたちのすけしげこれ)は、豊臣政権の成立からその内部矛盾が露呈するまでの過程を、自身の生涯をもって体現した象徴的な人物である。彼は秀吉の譜代の近臣として戦功を重ねて大名へと駆け上がり、政権の後継者である関白・豊臣秀次の宿老として権勢を振るった。しかしその栄華は、秀頼の誕生によって引き起こされた政権内部の粛清劇「秀次事件」によって、突如として終焉を迎える。彼の生涯は、まさに豊臣政権の光と影そのものであった。

謎に包まれた人物像:複数の名を持つ武将

ご依頼主が提示された「木村定光」という名は、この武将を指す呼称の一つに過ぎない 1 。史料や後代の編纂物においては、「重茲」「重高」といった複数の諱(実名)が記録されており、いずれが正確なものであるかはいまだ確定を見ていない 2 。この名の不確かさ自体が、彼の出自の曖昧さ、そして伝統的な家格によらず実力でのし上がった豊臣政権下の「新人」としての彼の立場を物語っている。父とされる「定重」との関係についても、親子説と同一人物説が併存するなど、その前半生は多くの謎に包まれている 1 。本報告書では、学術研究において比較的多く用いられ、一次史料の分析からも有力視される「重茲」を主たる諱とし、官途名である「常陸介」を冠して「木村常陸介重茲」として、その実像に迫る。

この名の揺らぎは、単なる記録の混乱ではない。秀吉をはじめとする豊臣政権の重臣の多くは、伝統的な武家階級の出身ではなく、その出自は必ずしも明確ではなかった。彼らは立身出世の過程で主君から一字を拝領したり、改名を繰り返したりすることで、新たなアイデンティティを形成していった。重茲の名の不確かさは、まさに彼がそうした出自を持たず、秀吉への忠誠と実力のみを頼りに大名へと成り上がった人物であったことの証左と言える。この「不確かさ」を念頭に置くことは、彼の生涯と豊臣政権の特質を理解する上で不可欠である。

本報告書の視点:秀吉の譜代から秀次の宿老へ

本報告書は、木村常陸介重茲の生涯を、単なる一個人の伝記としてではなく、豊臣政権という巨大な権力機構の動態を映し出す鏡として捉える。第一部では、秀吉の譜代近臣として、いかにして彼が戦功を重ね、大名へと出世していったのかを追跡する。第二部では、政権の後継者である関白秀次の宿老という、権力の中枢における彼の役割と、秀次事件という政権内部の力学の変化によって悲劇的な最期を迎えるまでを詳細に分析する。そして第三部では、文化人としての側面や、彼の死が息子・木村重成、ひいては豊臣政権全体に与えた影響を考察する。

この分析を通じて、一人の武将の栄光と悲劇の裏にある、豊臣政権の権力構造、後継者問題、そして内部対立といった本質的な課題を浮き彫りにすることを目的とする。

第一部:豊臣秀吉の譜代近臣としての台頭

木村常陸介重茲のキャリアは、豊臣秀吉の天下統一事業と完全に軌を一にしていた。一介の武士から身を起こし、数々の戦役で功を立て、ついには十万石を超える大名へと成長するその過程は、豊臣政権下における立身出世の典型例であった。

第一章:出自と初期の武功

近江木村氏と父・定重

木村重茲の出自は、近江国の木村氏とされ、父は木村隼人正定重(きむらはやとのしょうさだしげ)と伝わる 1 。しかし、この父子関係は確定的ではなく、一部の研究では重茲と定重を同一人物と見なす説も提示されている 7 。戦国時代は社会の流動性が高く、特に新興勢力である豊臣家臣団においては、出自が不明確な人物は珍しくない。

確実な史料として、永禄12年(1569年)の段階で「木村隼人佐定重」が羽柴秀吉の家臣として活動していた記録が残っている 7 。これは、木村家が秀吉の織田信長仕官後の早い段階からその麾下にあったことを示しており、重茲が「譜代の近臣」と見なされる根拠となっている 9

秀吉への臣従と初期の軍歴

重茲が歴史の表舞台に明確に登場するのは、秀吉の軍事行動においてである。元亀元年(1570年)、織田信長が朝倉義景を攻めた際の「金ヶ崎の戦い」では、秀吉の弟である木下秀長(後の豊臣秀長)の部隊に所属し、蜂須賀正勝や前野長康らと共に武功を挙げたとされる 2

彼の地位を決定的に高めたのは、天正11年(1583年)の「賤ヶ岳の戦い」であった。この信長亡き後の覇権を賭けた戦いで、重茲は秀吉方として参陣し、近江国堂木山砦の守将という極めて重要な役割を任された 2 。これは、彼が単なる一兵卒ではなく、一軍の指揮を任されるほどの信頼と能力を、この時点で既に秀吉から得ていたことを示している。

第二章:大名への道

若狭国吉城主時代

賤ヶ岳の戦いにおける勝利は、秀吉に天下人への道を開き、重茲には大名への扉を開いた。戦の功績により、同年、重茲は若狭国佐柿(現・福井県美浜町)の国吉城主に任じられた 3 。国吉城は越前と若狭の国境に位置する要衝であり、その城主に抜擢されたことは、彼への期待の大きさを物語る。

重茲は城主となると、単に軍事拠点として駐留するだけでなく、積極的に領国経営に着手した。特に、国吉城を中世的な山城から近世的な石垣造りの城郭へと改修し、同時に城下町・佐柿の町並みを整備したことは特筆に値する 6 。この事業は、軍事能力だけでなく、統治者・行政官としての彼の才幹をも示している。

越前府中十二万石への栄転

重茲の栄達は留まることを知らなかった。天正13年(1585年)、越前の大領主であった丹羽長秀が死去すると、秀吉は大規模な領地再編を実施する。この時、重茲は若狭国吉城から越前国府中(現・福井県越前市)へと移封され、一挙に12万石(あるいは10万石とも)を領する大名へと昇進した 1

府中に入った重茲は、領内の在地有力者である内田吉左衛門家などに対し、所領を保証する安堵状を発給しており、領主としての支配権を速やかに確立しようと努めた様子がうかがえる 9 。また、領内の蝋燭商人の特権を認める文書も残っており、地域の経済活動にも配慮していたことがわかる 14

天下統一事業への貢献

大名となった重茲は、秀吉が推し進める天下統一事業の主要な一翼を担い続けた。天正15年(1587年)の九州征伐、そして天正18年(1590年)の小田原征伐には、いずれも一軍の将として参陣している 2 。特に後北条氏を滅亡させた小田原征伐では、豊臣軍の先鋒部隊に加わり、武蔵国岩槻城の攻略で武功を挙げた 2

出羽検地と仙北一揆

小田原征伐後、秀吉は日本の東端である奥羽地方の仕置に着手する。この奥州仕置において、重茲は出羽国の検地奉行という重職を命じられた 2 。太閤検地は、豊臣政権の支配を全国に浸透させるための根幹政策であり、その実行を任されることは、秀吉からの絶大な信頼の証であった。

この検地は、現地の国人や農民の強い反発を招き、仙北一揆と呼ばれる大規模な反乱を引き起こす一因となった 7 。しかし、重茲はこの一揆の平定においても軍功を挙げたと記録されており、文武両面にわたる能力で秀吉の期待に応えた 7

興味深いことに、この奥州仕置の文脈では、もう一人の「木村」である木村吉清の名が頻繁に登場する 16 。吉清は葛西・大崎氏の旧領を与えられた新領主であったが、彼の統治は大規模な一揆(葛西大崎一揆)を招き、結果的に改易されるという対照的な結末を迎えた 17 。中央から派遣された奉行として検地という国家的事業を遂行した重茲と、在地に根を下ろす領主として統治に失敗した吉清。この二人の「木村」の対照的な運命は、豊臣政権による中央集権的な支配の強行と、それが在地社会に引き起こした深刻な軋轢という、奥州仕置の二面性を象徴している。重茲の「成功」は、あくまで政権の尖兵としての任務遂行能力の高さを示すものであり、豊臣政権の地方支配が常に不安定さと矛盾をはらんでいたことを示唆している。

第二部:関白秀次体制と悲劇的末路

栄華を極めた木村常陸介重茲であったが、その運命は豊臣政権の根幹を揺るがす後継者問題によって暗転する。秀吉から甥の関白・秀次へと権力が移譲される過程で重用された彼は、その関係性の深さゆえに、政権内部の粛清の嵐に巻き込まれていく。

第一章:栄華の頂点

関白秀次の宿老へ

天正18年(1590年)の小田原征伐と奥州仕置を経て、秀吉の天下統一が完成に近づくと、政権の焦点は次代への継承へと移った。秀吉は後継者として甥の羽柴秀次(後の豊臣秀次)を指名し、天正19年(1591年)には関白の位を譲る。この権力移譲に伴い、重茲は秀次の付家老(宿老)という極めて重要な地位に就いた 2

秀吉が自らの譜代であり、信頼の厚い重臣である重茲を秀次の側近に配したのは、後継者の脇を固め、政権の安定的な継承を実現しようとする深謀遠慮の現れであった 7 。重茲は秀吉と秀次の間を取り持つ「取次役」も務めており、名実ともに関白体制の中枢を担う存在となった 7 。この時期、彼は山内一豊や中村一氏といった他の秀次付家老と共に、次期政権の運営を担う中核グループを形成していた 8

文禄の役と山城淀十八万石

秀次政権下でも、重茲の武人としての役割は続いた。文禄元年(1592年)に始まった文禄の役(朝鮮出兵)では、3,500人の兵を率いて朝鮮半島へ渡海した 2 。九州の名護屋城には、出兵の拠点として築かれた彼の陣屋跡が今も残されている 2 。朝鮮の戦線では、一時的な敗戦を喫しながらも、最終的には敵の首を多数挙げる功績を立てたと記録されている 7

これらの功績が秀吉に高く評価され、重茲は山城国淀城(現在の京都市伏見区)へ18万石という破格の加増移封を命じられた 2 。これにより彼の石高はキャリアの頂点に達し、名実ともに豊臣政権を代表する大名の一人となったのである。

第二章:秀次事件の真相

事件の背景と連座

順風満帆に見えた重茲と秀次政権であったが、文禄2年(1593年)に秀吉と淀殿の間に嫡男・秀頼が誕生したことで、その歯車は大きく狂い始める。唯一の後継者であった秀次の立場は微妙になり、秀吉との間に徐々に亀裂が生じていった。

そして文禄4年(1595年)、事態は破局を迎える。秀吉は秀次に対して突如「謀反」の嫌疑をかけ、関白職を剥奪の上、高野山へと追放し、切腹を命じた 19 。この「秀次事件」において、宿老であった重茲は絶体絶命の立場に追い込まれた。秀次を弁護したため、あるいは秀次の与党の筆頭と見なされたため、連座の罪に問われたのである 2

最期の地

同年7月15日、重茲は摂津国茨木(現・大阪府茨木市)の大門寺において、秀吉の命により自害した 2 。公家である山科言経の日記『言経卿記』にも、7月16日の条に「昨日、山崎ニ於イテ、大閤御内木村常陸介、腹ヲ被切也」と、その死が記録されている 7 。大門寺には、今なお「常陸大明神」と刻まれた墓碑と、彼が自害の際に着用したとされる血染めの経帷子が寺宝として伝えられており、その悲劇の最期を物語っている 2

一族の悲劇

秀吉による粛清は苛烈を極めた。重茲自身の死に留まらず、その一族にも刃が向けられた。長男であった高成(たかしげ)も父に連座して切腹させられ、その首は梟首された。さらに、吉田兼見の日記『兼見卿記』によれば、重茲の娘も三条河原で磔に処されるという、凄惨な末路を辿った 2 。これにより、栄華を誇った木村常陸介家は事実上、滅亡した。

妻・宮内卿局と次男・重成の運命

しかし、この過酷な粛清の中で、奇跡的に命を繋いだ者たちがいた。重茲の妻・宮内卿局(くないきょうのつぼね)と、当時まだ幼かった次男・重成(しげなり)である 21 。助命された宮内卿局は、後に秀頼の乳母として大坂城に召し出され、それに伴い重成も秀頼の小姓として仕えることになった 22 。この一点の温情が、木村家の血脈を辛うじて保ち、後に大坂の陣で「美将」としてその名を馳せる木村重成の物語へと繋がっていくのである。

第三章:『太閤記』が描く二つの「木村常陸介」像

秀次事件における重茲の役割と人物像は、同時代から江戸初期にかけて編纂された二つの『太閤記』において、全く対照的に描かれている。この記述の差異は、事件の歴史的評価をめぐる政治的な意図を浮き彫りにする。

太田牛一『大かうさまくんきのうち』の悪臣像

秀吉の祐筆(書記)として知られる太田牛一が著した『大かうさまくんきのうち』(『太閤さま軍記のうち』)では、重茲は徹底して悪臣として描かれている 7 。同書によれば、重茲は「関白殿ゑ口の道より取り入り」、つまり口先だけで秀次に取り入った奸臣とされる。そして、秀次の数々の悪行、例えば比叡山での殺生や盲人への残虐行為などに同道・加担し、さらには自らも越前府中において私腹を肥やすなどの悪政を行ったと断罪されている 7

この記述は、秀次とその家臣団の粛清を正当化しようとする、秀吉政権の公式見解、すなわちプロパガンダとしての性格が極めて強い。牛一は、秀次と重茲を「悪の権化」として描くことで、彼らの死は当然の報いであるという因果応報の物語を構築し、秀吉の措置の正当性を強調したのである 7

小瀬甫庵『甫庵太閤記』の悲劇の忠臣像

一方、江戸時代初期に医師である小瀬甫庵が著した『甫庵太閤記』では、重茲の人物像は180度転換する 7 。甫庵は、重茲を秀吉に取り立てられた有能な武将であったと評価する。しかし、石田三成ら奉行衆との政権内での対立に敗れ、その地位を奪われた結果、やむなく秀次に接近せざるを得なくなった悲劇の人物として、深い同情を込めて描いている 7

甫庵は、秀次には謀反の意図はなく、重茲は三成らによって密偵を付けられ監視されるなど、陰謀によって陥れられた犠牲者であるという見方を示している 7 。そして、秀次や重茲の死を「哀れなる事どもなり」と評し、その非業の死を悼んでいるのである 7

この二つの『太閤記』における重茲像の極端な差異は、秀次事件の本質を解き明かす鍵となる。牛一の記述が事件当時の権力者(秀吉)の意向を反映したものであるのに対し、徳川の世が安定した後に書かれた甫庵の記述は、事件をより客観的に、あるいは反石田三成的な視点から再評価しようとする意図がうかがえる。重茲は、豊臣政権内部の深刻な派閥対立の渦中で、一方からは「逆臣の与党」と断罪され、もう一方からは「政争の犠牲者」として同情されるという、二重の評価を背負わされた存在であった。彼の人物像をめぐる言説の変遷は、秀次事件そのものが、豊臣政権の崩壊へと繋がる重大な転換点であったことを物語っている。

第三部:人物像と後世への影響

木村常陸介重茲は、戦場を駆け巡る猛将であると同時に、当代一流の文化人でもあった。彼の悲劇的な死は、豊臣政権の行く末に暗い影を落とすとともに、その遺志を継ぐかのように生きた息子・重成の運命を決定づけた。

第一章:文化人としての側面

千利休と茶の湯

重茲は、武辺一方の人物ではなかった。彼は当時の最高峰の文化であった茶の湯に深く通じ、千利休に直接師事した高弟の一人であった 3 。その腕前と審美眼は高く評価され、主君である豊臣秀次や、同じく大名茶人として名高い蒲生氏郷らと共に、利休から台子点前の奥義を伝授された「台子七人衆」の一人に数えられている 3

「台子七人衆」に名を連ねることは、単に茶が上手いというだけでなく、豊臣政権における文化的なヒエラルキーの頂点に位置することを意味した。重茲がこの一員であったという事実は、彼が武功だけでなく、文化的素養においても秀吉や秀次から高く評価され、政権中枢の文化サロンを構成する重要人物であったことを示している。利休から重茲に宛てられたとされる茶道の伝書が存在するという伝承も、両者の親密な関係を物語っている 28

第二章:歴史的評価と遺産

息子・木村重成への影響

木村重茲の生涯は文禄4年(1595年)に幕を閉じるが、その物語は息子・重成へと受け継がれる。父・重茲と兄・高成が「逆臣」として非業の死を遂げたという事実は、重成の人生に計り知れない影響を与えた 21 。父の汚名をそそぎ、木村家の名誉を回復したいという強い思いが、彼の行動原理の根底にあったことは想像に難くない。

母・宮内卿局の縁によって秀頼の乳兄弟、そして小姓として取り立てられた重成は、豊臣家への絶対的な忠誠を誓い、成長していく 22 。そして慶長20年(1615年)の「大坂夏の陣」において、豊臣軍の主力として奮戦し、若江の戦いで壮絶な討死を遂げる 21 。その際、首を検分した徳川家康が、兜に焚き込められた香の香りに感じ入り「稀代の勇士」と賞賛したという逸話はあまりにも有名である 21 。重成のこの潔い最期は、父・重茲の悲劇的な死と対をなし、木村一族の物語を完結させるものであった。父が政争の犠牲者として非業の死を遂げたのに対し、息子は主君への忠義を貫き、武士として理想的な死を遂げたのである。

歴史的評価の再検討

秀次事件は、豊臣政権の構造的欠陥が露呈した一大粛清であった。この事件で命を落としたのは、重茲のほか、但馬出石11万石の前野長康、但馬豊岡2万石の明石則実、遠江横須賀3万石の渡瀬繁詮など、いずれも豊富な軍事・行政経験を持つ大名たちであった 19 。彼らは秀吉の天下統一を支え、秀次政権の中核を担うはずだった、かけがえのない人的資源であった。

この大粛清は、豊臣政権の屋台骨を大きく揺るがした。経験豊かな大名とその家臣団が一掃されたことで生じた権力の空白と統治能力の低下は、結果として徳川家康の台頭を容易にし、豊臣家の命運を縮める遠因となった。重茲の死は、この豊臣政権の自己破壊プロセスを象徴する悲劇であった。彼を単に「秀次の与党」として片付けるのではなく、秀吉の譜代として政権を支え、次代の秀次を後見しようとした結果、非情な権力闘争の渦に飲み込まれた「悲劇の大名」として再評価することこそ、歴史の真相に迫る道であろう。

結論:木村常陸介重茲が歴史に刻んだもの

木村常陸介重茲の生涯は、安土桃山という時代、そして豊臣政権という特異な権力の栄光と悲劇を凝縮したものであった。出自不詳の身から実力で大名へと駆け上がった栄達の物語は、豊臣政権のダイナミズムを象徴している。一方で、政権の後継者問題という構造的な矛盾に起因する粛清によって非業の最期を遂げたその結末は、豊臣政権が内包していた脆弱性を見事に映し出している。

彼の死、そして彼と共に粛清された多くの有能な大名たちの喪失は、豊臣政権にとって回復不可能な打撃となった。秀次事件は、単なる秀吉の個人的な感情や残虐性によるものではなく、秀頼誕生によって引き起こされた、より根深い政治的・構造的な問題が噴出した一大政変であった。この事件によって失われた人的資源と政権の求心力が、秀吉死後の豊臣家の急速な衰退、そして徳川家康の覇権確立へと繋がったことは疑いようがない。

息子・木村重成の華々しい活躍と悲壮な最期の影で、その父・重茲は長らく「逆臣の与党」という汚名を着せられ、歴史の片隅に追いやられてきた。しかし、一次史料と後代の編纂物を丹念に比較・検討することで見えてくるのは、秀吉の天下統一を支え、次代を担う秀次を後見しようと努め、結果として政争の非情な論理の犠牲となった一人の武将の実像である。木村常陸介重茲の生涯を詳細に追跡することは、豊臣政権崩壊の序曲ともいえる秀次事件の重層的な意味を解き明かし、歴史に埋もれた悲劇の武将に正当な光を当てる作業に他ならない。

引用文献

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  25. 秀次事件の謎 http://kenkaku.la.coocan.jp/juraku/ziken.htm
  26. 豊臣秀次 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1
  27. 和泉城の見所と写真・100人城主の評価(岐阜県神戸町) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/2522/
  28. 近代建築家の茶室論にみる茶の湯の生活空間に関する研 - CORE https://core.ac.uk/download/pdf/39313342.pdf
  29. 第37話 〜木村重成 - ここまで知らなかった!なにわ大坂をつくった100人=足跡を訪ねて=|関西・大阪21世紀協会 https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/037.html
  30. 木村重成~妻・青柳との別れと意外な最期 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/5279
  31. 前野長康(まえの ながやす)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%89%8D%E9%87%8E%E9%95%B7%E5%BA%B7-1109220
  32. 渡瀬繁詮 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E7%80%AC%E7%B9%81%E8%A9%AE
  33. 明石則実 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E5%89%87%E5%AE%9F