本報告書は、戦国時代の伊勢国にその名を刻んだ武将でありながら、従三位・参議という公卿の高位にまで登り詰めた特異な人物、木造俊茂(こづくり とししげ)の生涯を徹底的に解明することを目的とする。彼の人生は、地方武士団の棟梁としての顔と、京の公家社会の一員としての顔という、二つの世界を往還するものであった。
俊茂が生きた16世紀前半の日本は、応仁の乱(1467-1477)を経て室町幕府の権威が地に堕ち、各地で守護大名や国人領主が実力で覇を競う「下剋上」の時代であった 1 。伊勢国もその例外ではなく、守護の権威が及ばない中で、南伊勢を支配する名門国司・北畠氏、北伊勢に割拠する諸豪族連合「北勢四十八家」、そして長島を拠点に強大な宗教的・軍事的勢力を誇った一向一揆など、多様な勢力が複雑に入り組む、緊張に満ちた政治情勢を呈していた 2 。この時代、北畠氏は伊勢国内での支配を固めつつ、近江の六角氏や大和の筒井氏ら国人衆との間で絶えず抗争を繰り広げており、一門の結束が極めて重要な意味を持つ状況にあった 5 。
このような混沌とした時代の中で、北畠氏の有力な分家という立場にありながら、なぜ俊茂は中央の官界で目覚ましい栄達を遂げることができたのか。そして、なぜ公家武将として絶頂期にあったはずの彼が、突如として出家し、さらには自らの血統を巡る不可解な決断を下したのか。本報告書では、俊茂個人の事績を追うだけでなく、彼を育んだ木造家の歴史的特質、宗家・北畠氏との間に横たわる相克の力学、そして彼の決断が後世に与えた深刻な影響までを多角的に分析し、その実像に迫るものである。
木造俊茂という人物を理解するためには、まず彼が背負っていた「木造家」そのものの歴史的性格を把握する必要がある。木造家は、単なる北畠氏の家臣ではなく、宗家と愛憎の入り混じった複雑な関係を宿命的に抱える存在であった。
木造氏は、村上源氏の流れを汲む公家の名門・北畠家にその源流を持つ。南北朝時代、南朝の重鎮として伊勢国司に任じられた北畠顕能の次男(一説に三男)である顕俊が、正平21年(1366年)、伊勢国一志郡木造郷(現在の三重県津市木造町)に分家し、城を構えて「木造氏」を称したことに始まるとされる 7 。
その出自から、木造氏は北畠一門の中でも別格の扱いを受けていた。同じく顕能の子孫から分かれた大河内氏、坂内氏と共に「北畠三家」と称される最有力分家の一つであり 8 、時には北畠家の政務を補佐する「北畠四管領」にも数えられた 11 。これは、彼らが単なる被官ではなく、宗家当主から「御所」という敬称で呼ばれる、血縁を共有した特別な親族衆であったことを示している 12 。木造家は、北畠氏が南伊勢に築いた支配体制において、北伊勢方面への抑えとなる最前線を担う、極めて重要な戦略拠点でもあった 8 。
しかし、その輝かしい出自とは裏腹に、木造家の歴史は宗家である北畠氏との絶え間ない緊張と対立の歴史でもあった。彼らの行動には、単なる内紛に留まらない、一貫した戦略性が見て取れる。
その最初の顕著な例が、応永22年(1415年)の出来事である。当時、宗家当主の北畠満雅が室町幕府に対して反乱を起こした際、木造家三代当主の俊康はこれに同調せず、幕府方についた。結果として俊康は満雅に木造城を攻め落とされるが、これは木造氏が宗家の意向よりも中央政権との連携を優先し、独自の判断で行動する自立性の高さを早くから示している 5 。
この宗家との対立関係は、俊茂の父・木造政宗の代にさらに先鋭化する。明応6年(1497年)、政宗は宗家当主・北畠具方(材親)の家督相続に不満を持つ勢力と結び、具方の異母弟である師茂を擁立して、宗家の家督争いに公然と介入した。この内乱(師茂の乱)において、政宗は具方の大軍による攻撃を受けるが、北伊勢の長野氏の援軍を得てこれを撃退している 5 。この事件は、木造氏がもはや単なる分家の立場を超え、宗家の内政を揺るがし、外部勢力と連携して宗家と対峙しうる独立した政治勢力であったことを明確に物語っている。
こうした一連の行動は、単なる個人的な野心や不満によるものとは考えにくい。むしろ、木造氏が置かれた地政学的な立場に起因する、構造的な要因から生まれたものと分析できる。北畠氏の支配領域の北端に位置する木造氏は 8 、常に北伊勢の諸豪族や京の中央政界の動向に直接晒されていた。そのため、南伊勢に本拠を置く宗家の内向きの論理よりも、より大きな政治的枠組み、すなわち幕府や周辺の有力大名との関係性が、自家の存亡にとって死活問題であった。このため、宗家と利害が対立した際には、外部勢力と結びついてでも自家の利益と存続を確保しようとする「戦略的叛逆」とも言うべき行動様式が、木造家の伝統として形成されていったのである。この相克の歴史こそが、木造俊茂の生涯、そして彼の後継者たちが下す重大な決断を理解する上で不可欠な背景となる。
父・政宗が宗家との激しい内乱の渦中にあった明応4年(1495年)、木造俊茂はこの世に生を受けた 16 。彼の生涯は、父祖伝来の「戦略的叛逆」の精神を、より洗練された形で体現したものであった。彼は武力だけでなく、朝廷の権威という新たな武器を手に、木造家の地位を飛躍的に高めていく。
俊茂は幼少期から、伊勢の武将としてではなく、京の公家としての道を歩み始める。その官歴は、当時の公卿の名簿である『公卿補任』に詳述されており、異例とも言える速さで昇進を重ねたことがわかる 16 。
表1:木造俊茂 官歴一覧
(典拠:『公卿補任』16)
西暦(和暦) |
年齢 |
位階 |
官職 |
1500年(明応9年) |
6歳 |
従五位下 |
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1505年(永正2年) |
11歳 |
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侍従 |
1509年(永正6年) |
15歳 |
従五位上 |
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時期不詳 |
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左近衛少将 |
1512年(永正9年) |
18歳 |
正五位下 |
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1514年(永正11年) |
20歳 |
従四位下 |
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1515年(永正12年) |
21歳 |
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左近衛中将 |
1519年(永正16年) |
25歳 |
従四位上 |
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1522年(大永2年) |
28歳 |
正四位下 |
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1526年(大永6年) |
32歳 |
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参議 |
1530年(享禄3年) |
36歳 |
従三位 |
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1533年(天文2年) |
39歳 |
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(出家) |
わずか6歳で叙爵されたのを皮切りに、侍従、左近衛少将・中将といった近衛府の官職を歴任。大永6年(1526年)には32歳の若さで国政を議する参議に任ぜられ、公卿の仲間入りを果たした。そして享禄3年(1530年)、36歳で従三位に叙せられ、公家としての栄達は頂点に達した 16 。
戦国時代の地方武士、それも宗家ではない分家の当主が、武功ではなく文官としてこれほどの高位に至るのは極めて稀有な事例である。これは、伊勢国司として北畠宗家が代々培ってきた朝廷との太いパイプ 6 を最大限に活用した結果であろう。加えて、三条西実隆の『実隆公記』紙背文書や鷲尾隆康の『二水記』といった当時の公家の日記には、俊茂が禁裏小番(天皇の身辺を警護する当番)を務めていた記録が散見される 18 。これは彼が名目上の官位を持つだけでなく、実際に公家社会の一員として京で活動し、朝廷の儀礼や経済を支える重要な役割を担っていたことを示している。
公家として京で栄達する一方、俊茂は本国・伊勢における領主としての基盤固めも怠らなかった。その象徴的な事業が、享禄元年(1528年)から3年がかりで断行された居城・木造城の大規模な改修である 7 。
伝承によれば、この改修は初代・顕俊が築いた旧城(木造村字稲垣)が手狭、あるいは防御に不向きであったため、約300メートル北の湿地帯に新たに城を築き、移転したものであったとされる 7 。単に城を新しくするだけでなく、二重三重の堀を巡らせ、南側には侍屋敷を計画的に配置し、寺社を建立して道路を整備するなど、城郭機能と城下町の整備を一体で行う、当時としては先進的な構想に基づいていた 7 。
この大規模な城郭改修の時期が、俊茂のキャリアにおいて極めて重要な意味を持つ。改修が行われた1528年から1530年という期間は、彼が参議に任官し、従三位に叙せられる栄光の時期と完全に一致しているのである。これは単なる偶然ではない。俊茂が、中央(京都)で獲得した政治的地位や権威(ソフトパワー)と、本国(伊勢)における軍事的・経済的基盤(ハードパワー)を、明確な意図をもって同時に、かつ連動させて強化していたことを示している。朝廷での栄達は彼の権威を高め、領国経営に必要な資金調達や正当性の確保を容易にする。一方、強固な城とそれを支える軍事力は、その権威を実質的なものとし、宗家や周辺勢力に対する交渉力を飛躍的に高める。したがって、この木造城改修は、俊茂の「公家武将」としてのアイデンティティを体現する事業であり、宗家からのさらなる自立と、北伊勢における確固たる支配権の確立を目指す、彼の静かなる野心の現れと解釈することができる。
享禄3年(1530年)に従三位に昇り、公家武将として絶頂を極めたかに見えた俊茂であったが、そのわずか3年後の天文2年(1533年)、突如として出家する 16 。当時まだ39歳。その理由は史料に明記されておらず、彼の生涯における最大の謎の一つとなっている。
いくつかの可能性が考えられる。第一に、当時の畿内の政情不安である。俊茂が出家する直前の享禄4年(1531年)、彼の岳父(妻の父)でもあった管領・細川高国が「大物崩れ」で敗死し、畿内は細川氏の内部抗争や一向一揆の蜂起などで極度に不安定な状況にあった 6 。中央政局との関わりが深い俊茂が、その混乱から距離を置き、自領の安泰を優先するための戦略的判断であった可能性は否定できない。
第二に、後述する家督継承問題を円滑に進めるための布石であったという見方である。自らが表舞台から退き、出家という形で俗世の権力から一歩引いた立場をとることで、家中の反発を抑えながら、次世代への権力移譲という自身の構想を実現しようとしたのかもしれない。
いずれにせよ、出家後の俊茂の動向は、史料からほとんどその姿を消す。彼の死没年も不明であり 16 、その栄光に満ちた前半生とは対照的に、後半生は深い謎に包まれている。
俊茂の出家後、木造家は歴史的な転換点を迎える。それは、彼の嫡子を巡る不可解な継承問題である。この出来事は、俊茂の冷徹な政治家としての一面を浮き彫りにすると同時に、木造家、ひいては北畠家全体の運命を大きく左右することになる。
俊茂の出家後に関する最も衝撃的な記述として、「のち、子息の具康を殺害したという」という伝承が存在する 16 。木造具康は俊茂の嫡男であり、天文6年(1537年)には従四位下・左近衛中将に任官した記録も残る、れっきとした後継者であった 5 。
しかし、この「殺害」を直接的に証明する一次史料(同時代の信頼できる記録)は、本調査の範囲では確認できなかった。この伝承は、おそらく後の時代に編纂された軍記物語である『勢州軍記』などに由来する可能性が高い 21 。軍記物語は歴史的事実を元にしつつも、物語性を高めるために脚色や創作が加えられることが多く、史料としての取り扱いには慎重を期す必要がある。
この伝承は、史実として確定するには証拠が不十分である。しかし、なぜこのような劇的な物語が生まれたのかを考察すること自体に、歴史的な意味がある。事実として、正式な後継者であったはずの具康は歴史の舞台から忽然と姿を消し、家督は養子へと渡った。この不自然極まりない家督交代劇について、後世の人々が納得のいく説明を求めた結果、父と子の間に深刻な対立があったことは容易に想像された。その対立の帰結として、最も劇的で分かりやすい物語が「父による息子殺し」であったと考えられる。この物語は、戦国時代の非情さや下剋上の風潮を象徴するものとして、また、その後の北畠家の悲劇的な運命を予兆させる伏線として、説得力を持って受け入れられた可能性がある。したがって、この伝承は「事実」そのものではなく、「事実の欠落を埋めるために生まれた物語」として捉えるべきであろう。そしてそれは、俊茂と具康の間に、家督継承を覆すほどの深刻な対立があったことを示唆する、極めて重要な間接的証拠と見なすことができる。
嫡子・具康を事実上排除した後、俊茂は驚くべき行動に出る。長年対立してきた宗家当主・北畠晴具の三男である具政を養子として迎え入れ、木造家の家督を継がせたのである 16 。具政は俊茂の娘を娶ったとも伝えられており 24 、血縁と家督の両面で木造家と宗家を固く結びつける形となった。
図1:木造俊茂周辺 簡略系図
Mermaidによる関係図
この養子縁組は、木造家の歴史における極めて重大な、そして一見すると矛盾した決断であった。代々、宗家への「戦略的叛逆」を繰り返してきた木造家が、その宗家から次期当主を迎えるのである。これは、俊茂が仕掛けた最後の、そして最大の政治的賭けであったと解釈できる。
おそらく俊茂は、木造家がこのまま宗家と対立し続けることの限界を冷静に認識していた。いずれは宗家との全面戦争か、あるいは外部勢力の介入によって滅ぼされる危険性を感じていたのだろう。一方で、嫡子・具康との間には、その能力や性格、あるいは宗家との協調路線に対する考え方の違いなど、何らかの理由で修復不可能な対立が生じていた。
この二つの難問を同時に解決する一手が、「具康を排除し、宗家から養子を迎える」という策であった。この策により、俊茂は複数の目的を達成しようとしたと考えられる。第一に、宗家との長年の確執を血縁によって解消し、木造家の将来的な安泰を図ること。第二に、自らの政治構想に反対する可能性のある嫡子を排除し、家中の統制を維持すること。そして第三に、宗家の血を木造家に取り込むことで、将来的には木造家が北畠一門全体に対してより強い影響力を持つことである。これは単なる降伏や迎合ではない。対立の構造そのものを内部から組み替えることで、新たな局面における主導権を握ろうとする、極めて高度で冷徹な政治的判断であった。
木造俊茂が、一族の安泰と宗家との融和を願って断行したであろう「宗家からの養子縁組」。しかし、この深慮遠謀は、時代の大きなうねりの中で全く予期せぬ結果を生み、皮肉にも北畠宗家そのものを破滅へと導く直接的な引き金となった。
俊茂の跡を継いだ木造具政は、実父が宗家当主、養父が有力分家の長という、他に類を見ない複雑な立場にあった。彼は俊茂の路線を引き継ぎ、木造城の北西約6キロメートルの地に新たに戸木城(へきじょう)を築き、「戸木御所」と呼ばれるなど、その勢力の維持拡大に努めた 8 。彼は養父・俊茂が築いた公家武将としての権威と、実家である北畠宗家の威光を背景に、木造家を巧みに統治していた。
永禄12年(1569年)、尾張の織田信長が伊勢国への大規模な侵攻を開始すると、木造家の歴史的特質が再び、そして決定的な形で表面化する。信長麾下の勇将・滝川一益らの執拗な調略を受け、木造具政は究極の選択を迫られた。そして彼は、血の繋がった実兄である宗家当主・北畠具教を裏切り、信長に内応するという道を選んだのである 7 。
具政の裏切りは、信長の伊勢平定において決定的な意味を持った。彼は信長軍の南伊勢侵攻の案内役を務め、宗家一族が籠城する本拠・大河内城への道筋を教えた。これにより、信長軍は北畠方の諸城を次々と攻略し、大河内城を包囲することに成功した(大河内城の戦い) 7 。実の弟によるこの裏切りに対し、具教は激怒。人質として預かっていた木造家筆頭家臣・柘植三郎左衛門の娘(9歳)を、木造城の将兵に見せつけるように雲出川の南岸で磔にして惨殺したと、『勢州軍記』などの軍記物は生々しく伝えている 7 。
この歴史の皮肉をどう解釈すべきか。俊茂が断行した融和策が、なぜ破滅を招いたのか。その答えは、養子・具政が、木造家の当主として、その城や領地だけでなく、代々受け継がれてきた「戦略的叛逆」の歴史と、北伊勢の最前線という地政学的な立場をも継承した点にある。彼にとって、忠誠を誓うべき相手は、血の繋がった兄・具教か、それとも天下に覇を唱えつつある圧倒的な力を持つ新興勢力・織田信長か。この究極の選択を迫られた時、彼を信長へと傾かせたのは、木造家が生き残りのために代々培ってきた「外部のより強大な権力と結びつくことで自立を保つ」という、いわば家訓とも言うべき生存戦略であった。
結果として、俊茂が作り出した「宗家の血を引く木造家当主」という、本来ならば一門の結束の象徴となるべき存在が、信長にとっては北畠家を内部から切り崩すための、またとない切り札となった。俊茂の深謀遠慮は、彼が予期しえなかった時代の大きなうねりの中で、全く意図せぬ結果を生み出し、自らが属する名門・北畠氏そのものを滅亡へと導く道を開いてしまったのである。
木造俊茂は、戦国時代の地方領主でありながら、従三位・参議という公卿として中央政界でも重きをなした、日本史上でも稀有な人物である。彼は京の洗練された公家文化と、伊勢の荒々しい武士社会という二つの世界に生き、双方の論理を巧みに駆使して自家の勢力と権威を飛躍的に高めることに成功した、卓越した政治家であった。
彼の最大の功績であり、同時に最大の負の遺産となったのは、嫡子を廃して宗家から養子を迎えた家督継承の決断である。この一見不可解な行動は、木造家が宿命的に抱える宗家との構造的矛盾を、血縁という絆によって解消し、一門の未来を恒久的に安定させようとする、彼の深慮遠謀の表れであった。しかし、その masterful な一手は、時代の激動の中で彼の意図を大きく超え、結果的に戦国大名・北畠氏の滅亡を決定づける致命的な要因となった。
史料の断片から浮かび上がる木造俊茂の姿は、複雑で多面的である。彼は高い教養を持つ文化人であり、冷徹な計算のできる政治家であり、そして時には我が子をも切り捨てる非情な決断を下す、紛れもない戦国の武将でもあった。彼の生涯は、一個人の類稀な才覚や深い思慮がいかに時代の大きな力学に翻弄され、時に意図とは全く逆の結果を生んでしまうかを示す、一つの象徴的な事例として歴史に記憶されるべきである。木造俊茂という一人の公家武将の人生は、成功と失敗、意図と結果が複雑に絡み合う、戦国という時代の深淵を我々に垣間見せてくれるのである。