戦国時代の動乱期、伊勢国にその名を刻んだ武将、木造長正(こづくり ながまさ)。彼の生涯を深く理解するためには、まずその出自である木造氏の歴史的背景と、伊勢国における絶大な権威を誇った宗家・北畠氏との複雑な関係性を解き明かす必要がある。
木造氏の源流は、南北朝時代に南朝の重鎮として活躍した公家、北畠親房に遡る 1 。親房の子、北畠顕能(きたばたけ あきよし)は、後醍醐天皇より伊勢国司に任じられ、一志郡多気に拠点を構えた。これが伊勢国に勢力を張った戦国大名・北畠氏の始まりである 1 。以後、北畠氏は「多芸御所(たげごしょ)」と称され、伊勢南部に盤石な支配体制を築き上げた。
木造氏は、この初代伊勢国司・北畠顕能の子である顕俊(あきとし)が、一志郡木造庄(現在の三重県津市木造町一帯)に居を構え、「木造御所(こづくりごしょ)」を称したことに始まる、北畠氏の最も有力な分家であった 3 。京都においては油小路に屋敷を構えたことから「油小路殿」とも呼ばれ、その格式の高さが窺える 5 。
しかし、木造氏は単なる従順な分家ではなかった。室町時代を通じて、幕府や朝廷から宗家である多芸御所と「同格」の待遇を受けることもあり、極めて独立性の高い存在であった 5 。この特異な立場は、必然的に宗家との間に緊張と対立の火種を燻らせ続けることになる。
その確執が表面化したのが、明応6年(1497年)に勃発した大規模な内乱である。当時の木造家当主・木造政宗が、国司・北畠具方の弟である師茂を擁立し、宗家に反旗を翻したのだ 7 。この争いは、北畠家の被官同士の対立に端を発しながらも、その背景には木造氏の強い独立志向と、宗家に対する長年の反目が横たわっていた。この内乱で木造氏は最終的に敗北を喫するものの、両家の間に刻まれた深い亀裂は、一世紀後の戦国時代に至るまで癒えることなく、木造長正の父・具政による歴史的な決断の遠因となるのである 7 。織田信長の伊勢侵攻における木造氏の離反は、突発的な裏切り行為ではなく、こうした一世紀以上にわたる構造的対立の必然的な帰結であったと見るべきであろう。
表1:木造長正の経歴概観
時期(西暦) |
主な出来事 |
主君 |
役職・知行 |
関連史料・典拠 |
生年不詳 |
木造具政の子として誕生 |
- |
- |
9 |
天正2年 (1574) |
伊勢長島一向一揆攻めに従軍 |
織田信雄 |
侍大将 |
6 |
天正12年 (1584) |
小牧・長久手の戦い(戸木城籠城戦) |
織田信雄 |
城主 |
10 |
天正14年 (1586) |
田辺城を築き居城とする |
織田信雄 |
城主 |
9 |
天正18年 (1590) |
主君・信雄が改易される |
(豊臣秀吉) |
- |
5 |
文禄元年 (1592)頃 |
織田秀信の家老となる |
織田秀信 |
家老(2万5千石) |
5 |
慶長5年 (1600) |
関ヶ原の戦い(岐阜城攻防戦) |
織田秀信 |
家老 |
12 |
慶長5年 (1600)以降 |
福島正則に仕官 |
福島正則 |
家臣(1万9千石) |
12 |
慶長9年 (1604) |
死去 |
福島正則 |
- |
9 |
木造長正の生涯を決定づけたのは、父・木造具政(ともまさ)が下した、宗家・北畠氏への裏切りと織田信長への帰順という重大な決断であった。この行動は、個人的な怨恨と、一族の存亡を賭けた冷徹な政治的計算が複雑に絡み合った、戦国武将ならではの合理的な選択であった。
木造具政の出自は複雑である。彼は伊勢国司・北畠晴具(はるとも)の実子であり、当時の宗家当主で「剣豪大名」として名高い北畠具教(とものり)の実弟であった 4 。しかし、彼は木造家の当主・木造俊茂の娘を娶り、その養子となって木造家の家督を継承したのである 4 。宗家の血を引きながら分家の長となるというこの立場は、彼のアイデンティティに大きな影響を与え、宗家への忠誠心よりも木造家としての利益と存続を優先させる素地を形成したと考えられる。
具政が宗家と決定的に袂を分かつ直接的な引き金となったのが、「多気祭」における序列事件であったとされる。『勢州軍記』などの軍記物によれば、具政は兄・具教が主催した祭礼の席で、他の分家である田丸・大河内・坂内の三御所よりも下位の席次を命じられた 6 。これを屈辱と受け取った具政は、兄・具教を深く恨むようになったという 6 。この個人的な感情の軋轢が、燻り続けていた宗家と分家の対立関係に火をつけたのである。
永禄12年(1569年)、尾張の織田信長が伊勢への本格的な侵攻を開始すると、具政の不満はついに具体的な行動となって現れる。信長軍の将・滝川一益は、木造家の家臣である柘植保重(つげやすしげ)や、具政の異母弟ともされる僧侶・源浄院(げんじょういん、後の滝川雄利)を介して、具政に内応を働きかけた 5 。
この調略に対し、具政と嫡男・長正は応じることを決断。織田軍の南伊勢侵攻において、道案内役を務めることとなった 11 。この決断は、単なる個人的な恨みだけではなく、破竹の勢いであった信長の軍事力を前に、徹底抗戦を唱える兄・具教の路線では一族が共倒れになると判断した、極めて現実的な政治判断でもあった。既存の対立構造を利用し、信長に与することで宗家を出し抜き、木造家そのものを存続させようとしたのである。
この木造氏の内応は、伊勢の戦局を決定づけた。背後を突かれる形となった北畠具教は、木造城を攻めるも堅固な守りに阻まれ、やがて信長率いる大軍の前に、本拠地である大河内城での籠城を余儀なくされる 6 。そして、約二ヶ月にわたる籠城戦の末、信長の次男・茶筅丸(後の織田信雄)を具教の嫡男・具房の養嗣子として迎えるという条件で和睦。これにより、名門・伊勢北畠氏は実質的に織田氏の支配下に置かれ、滅亡への道を歩むことになったのである 15 。
父・具政と共に織田家に帰順した木造長正は、北畠家の家督を継いだ織田信雄の配下として、武将としてのキャリアを本格化させる。特に、天下人・豊臣秀吉を相手に繰り広げられた小牧・長久手の戦いにおける戸木城(へきじょう)での籠城戦は、彼の武勇と忠誠心を天下に知らしめる重要な戦いとなった。
長正が信雄の家臣として歴史の表舞台に登場するのは、天正2年(1574年)の伊勢長島一向一揆攻めである。この戦いで長正は侍大将として水軍を率いており、早くから信雄軍の中核を担う存在であったことがわかる 6 。
天正12年(1584年)、織田信雄が徳川家康と結び、天下人への道を歩む羽柴秀吉と対立すると、小牧・長久手の戦いが勃発する。伊勢方面では、秀吉方の蒲生氏郷、長野信包(信長の弟)らが大軍を率いて侵攻し、信雄方の諸城を次々と攻撃した 10 。
この時、長正と父・具政は、具政の隠居城であった戸木城に一族郎党と共に立て籠もり、秀吉の大軍を相手に徹底抗戦の構えを見せた 11 。蒲生軍は戸木城の東西南北に付城を築いて包囲したが、木造勢は数で圧倒的に劣りながらも果敢に城から討って出て、激しく抵抗したという 16 。この籠城戦は、約半年にも及んだとされる 20 。
この戦いは、父の代に北畠宗家を裏切った木造氏にとって、新たな主君・信雄への忠誠を自らの武勇によって証明する絶好の機会であった。もしここで容易に降伏していれば、「木造氏は風見鶏」との評価を免れなかったであろう。彼らはこの壮絶な籠城戦を戦い抜くことで、織田家中の確固たる一員としての地位を自らの血をもって勝ち取ったのである。
戦いが長期化する中、ついに真宗高田派の本山である一身田専修寺(いっしんでんせんじゅじ)の門跡、堯慧(ぎょうえ)大僧正が仲介に入り、和睦が成立した 11 。伊勢国において絶大な宗教的権威を持つ専修寺が、一分家の籠城戦の仲介に乗り出したという事実は、木造氏が単なる武辺者ではなく、地域の宗教勢力とも深い繋がりを持つ名士であったことを物語っている。
戦後、長正は戸木城を明け渡したが、その武功は高く評価された。天正14年(1586年)には、北伊勢の員弁郡に田辺城を新たに築いて居城としており、信雄麾下における彼の地位がより一層強固なものとなったことが窺える 9 。
小牧・長久手の戦いで武名をとどろかせた長正であったが、その後の政治情勢の激変は、彼の運命を新たな舞台へと導く。主君・織田信雄の改易という危機を乗り越え、彼は信長の嫡孫・織田秀信の筆頭家老という、更なる重責を担うこととなる。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が完了し、天下統一が成ると、秀吉は信雄に対し、旧領の尾張・伊勢から徳川家康の旧領である東海地方への国替えを命じた。しかし、信雄はこれを拒絶したため、秀吉の怒りを買い、領地を没収され改易処分となった 5 。
主君を失った長正は、一転して浪人の身となる可能性に直面した。しかし、彼の武将としての名声は秀吉の耳にも達しており、秀吉自身に召し出されることとなる 9 。これは、秀吉が旧織田家臣団の中から有能な人材を自らの体制に組み込もうとする意図の現れであった。
その頃、織田家の家督は、本能寺の変で父・信忠と共に斃れた信長の嫡孫・三法師(後の織田秀信)が継承していた。秀吉は、自らの甥である豊臣秀勝が美濃岐阜城主のまま死去すると、その後継として秀信を岐阜13万石の領主に取り立てた 21 。そして、この若き当主を支える筆頭家老として白羽の矢が立ったのが、木造長正であった 23 。
この人事は、秀吉による巧みな「織田家管理政策」の一環であったと考えられる。信長の血を引く秀信を「岐阜中納言」として厚遇することで、自らの政権の正統性を補強する一方、その家老に自らの意向を汲むことができる信頼の置ける武将を配置することで、織田家を実質的に管理下に置こうとしたのである。長正は、秀信の傅役(もりやく)であると同時に、秀吉の意向を岐阜の統治に反映させるための「監視役」という、極めて重要な政治的役割を期待されたのであった。
『勢州軍記』によれば、秀信の家老となった長正の知行は二万五千石であったと伝えられる 9 。これは、秀信の総石高13万石の約2割にも相当する破格の待遇であり、秀信家臣団における長正の地位が、百々綱家(どど つないえ)といった他の重臣たちを凌ぐ筆頭格であったことを明確に示している 24 。この高禄は、彼に課せられた役割の重要性を物語るものであった。
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した徳川家康と石田三成の対立は、天下分け目の関ヶ原の戦いへと発展する。この戦いは、木造長正の生涯における最大の試練であり、彼の政治的判断力、武将としての力量、そして主君への忠義が最も鮮明に示された舞台であった。
家康が会津の上杉景勝討伐の兵を挙げると、三成は畿内で挙兵し、諸大名に西軍への参加を呼びかけた。美濃岐阜城主の織田秀信は、三成から美濃・尾張二国の安堵を約束され、西軍に与することを決断する 27 。
この重大な局面において、家老である長正は、冷静に天下の形勢を分析していた。彼は、家康率いる東軍の優勢を予見し、主君・秀信に対して東軍に味方するよう強く進言した。しかし、秀信はこの諫言を聞き入れなかった 12 。さらに長正は、野戦での迎撃ではなく、難攻不落と謳われた岐阜城に籠城して東軍を迎え撃つべきだと重ねて主張したが、これも当初は退けられた 12 。
8月22日、秀信は軍を率いて出陣し、木曽川北岸の米野(現在の岐阜県笠松町)に布陣した。しかし、福島正則、池田輝政らが率いる東軍の先鋒部隊との激戦の末、織田軍は敗北を喫し、岐阜城への撤退を余儀なくされる(米野の戦い) 29 。
翌23日、東軍は岐阜城への総攻撃を開始する。城に籠もった長正は、子・右京長雄と共に約1千の兵を率いて奮戦。城の防衛上の要衝である「七曲口」の守備を担当した 9 。東軍の猛攻に対し、長正の部隊は激しく抵抗し、攻め寄せる福島勢を大いに苦しめた。
しかし、衆寡敵せず、東軍の圧倒的な兵力の前に織田方の防衛線は次々と破られていく。戦闘の最中、長正自身も鉄砲で撃たれ負傷するという不運も重なり、城の守りは一気に脆弱となった 31 。もはや落城が時間の問題となる中、長正は同じく家老の百々綱家と共に、これ以上の無益な戦いを避け、主君・秀信の身の安全を確保するため、降伏を決断する。二人は福島正則らの陣に使者を送り、秀信の助命を条件に城を明け渡すことを申し入れた 13 。この申し入れは受け入れられ、岐阜城はわずか一日で落城した 32 。
この一連の長正の行動は、理想的な家老の姿を体現していると言える。まず、冷静な政治判断に基づき主君に最善の策を「諫言」し、それが容れられないと知るや、私情を捨てて主命に命を懸けて「奮戦」する。そして、敗北が必至となれば、いたずらに玉砕を選ぶのではなく、主家の存続を第一に考え、最も困難な「降伏交渉」を遂行する。彼の進言がもし聞き入れられていれば、織田宗家の運命は大きく変わっていたかもしれない。
関ヶ原の戦いで主家を失った木造長正であったが、その武名は敵将の心をも動かし、彼の晩年は意外な形で安住の地を得ることになる。そして、その血脈は、父の武勇と名声を頼りに、新たな時代を生き抜いていく。
岐阜城攻防戦において、東軍の先鋒として長正らと激しく戦った猛将・福島正則は、敵ながら天晴れなその戦いぶりに深く感銘を受けていた 33 。戦後、主君・秀信は改易され高野山へ追放となり、家臣団は離散。長正もまた浪人の身となるはずであったが、正則は彼の武勇を高く評価し、自らの家臣として招き入れたのである 9 。
この登用は、家柄や譜代であることが重視される江戸時代へと移行する過渡期にあって、個人の「武勇」や「実務能力」を評価する戦国時代的な価値観が、依然として強く残っていたことを示す象徴的な事例である。
関ヶ原の戦功により安芸広島49万8千石の大名となった福島正則のもとで、長正は一万九千石という破格の知行を与えられて仕えることになった 9 。この禄高は、単なる温情ではなく、彼の能力に対する正当な評価であったことを物語っている。しかし、安芸での生活は長くは続かず、長正は福島家に仕えて数年後の慶長9年(1604年)にその生涯を閉じた 9 。彼の墓所が具体的にどこにあるかを示す確かな史料は、現在のところ確認されていない 35 。
長正の子である右京長雄(うきょう ながかつ)も、父と共に福島正則に仕えた 9 。しかし、主家の福島氏は元和5年(1619年)、幕府の咎めを受けて改易されてしまう 33 。これにより、長雄も再び仕官先を失った。
その後の彼の足取りを示す直接的な史料は乏しいが、極めて興味深い記録が残されている。それは、寛文14年(1674年)に作成された出雲松江藩主・京極家の分限帳(家臣の名簿)である。この分限帳の中に、「多賀三左衛門組」の組下として「木造右京 500石」という名の武士が記載されているのだ 40 。
「右京」という官途名の一致から、この人物が長正の子・右京長雄である可能性は非常に高い。福島家改易後、父・長正の名声やかつての人脈を頼りに、新たな仕官先として京極家を見つけ、安芸から遠く離れた出雲の地で武士として生き続けたものと推測される。彼の経歴は、主家の改易によって路頭に迷いながらも、自らの才覚で新たな道を切り拓いた、江戸初期の武士社会のリアルな実態を映し出している。
木造長正は、織田信長や豊臣秀吉のような天下人の影に隠れ、歴史の表舞台で華々しく語られることの少ない武将である。しかし、その生涯を丹念に追うことで、戦国時代から江戸時代への大転換期を生きた、一人の武将の鮮やかな実像が浮かび上がってくる。
第一に、彼は時代の流れを的確に読み、一族の存続のために最善の道を選択できる、優れた 現実主義者 であった。父・具政の代に下された織田家への帰順という決断は、長年の宗家との確執という背景があったにせよ、旧来の権威に固執することなく、新興勢力の実力を見極めた結果であった。長正自身も、主君・信雄の改易後は速やかに豊臣政権に従い、関ヶ原で西軍に与した秀信が敗れた後は、敵将であった福島正則に仕えるという、極めて柔軟な処世術を見せている。
第二に、彼は一度主と定めた者には命を懸けて尽くす、 忠誠心と武勇 を兼ね備えた武人であった。小牧・長久手の戦いにおける戸木城での徹底抗戦は、新たな主君・信雄への忠義の証であり、関ヶ原の戦いにおける岐阜城での奮戦は、敗色濃厚な中でも武人としての本分を全うする気概を示している。特に、敵将であった福島正則がその戦いぶりに惚れ込み、破格の待遇で召し抱えたという逸話は、彼の武将としての力量が同時代人からいかに高く評価されていたかを何よりも雄弁に物語っている 9 。
最後に、彼の生涯は、歴史の大きな物語を支える 名脇役の重要性 を我々に教えてくれる。北畠氏の内紛、織田氏の伊勢平定、小牧・長久手の戦い、そして関ヶ原の戦いという歴史の転換点において、彼の決断と行動は、決して小さくない影響を与えた。木造長正のような中堅武将たちの生き様を深く知ることによって、我々は戦国乱世の終焉と江戸幕藩体制の成立という巨大な歴史のうねりを、より立体的かつ人間味あふれるものとして理解することができるのである。彼は、歴史の主役ではなかったかもしれないが、その物語に深みとリアリティを与える、欠くことのできない重要な人物であったと言えよう。