末吉長増は平野郷の豪商で、末吉家の礎を築いた。東西両家を分立させ、陸運・鉱山経営、廻船業、銀座頭役、朱印船貿易で活躍。徳川幕府の特権商人として繁栄した。
戦国時代から江戸時代初期にかけて、日本の経済と政治の激動期にその名を刻んだ豪商、末吉一族。一般に「堺の商人」として知られることが多いこの一族だが、その実像を正確に捉えるには、彼らの真の権力基盤であった摂津国住吉郡平野郷(現在の大阪市平野区)に焦点を当てる必要がある。本報告書は、初代・末吉長増(すえよし ちょうます)から、その子・利方(としかた)、孫・吉安(よしやす)へと至る三代の軌跡を追い、彼らが単なる商人にとどまらず、いかにして時代の権力者と渡り合い、富を築き、日本の近世経済の形成に寄与したかを解明することを目的とする。
利用者様が提示された「堺の商人」という認識は、一族の活動の一側面を捉えたものに過ぎない。末吉家の本拠地である平野郷は、戦国時代において国際貿易港・堺と並び称されるほどの自治都市として繁栄していた 1 。周囲に環濠を巡らせたこの町は、外部権力の干渉を排し、独自の自治運営を行っていた 2 。末吉家は、この平野郷において「七名家(しちみょうけ)」と称される指導者層の一角を占める名家であった 3 。この事実は、彼らの権力基盤が、堺の会合衆(えごうしゅう)のような商業資本の連合体とは異なり、特定の地域社会における世襲的な指導者としての地位に根差していたことを示唆している。
したがって、末吉一族の成功物語を解き明かす鍵は、彼らが単なる商才に長けた人物たちであったという理解を超え、平野郷という自治共同体における「在地権力者」としての側面を正しく評価することにある。彼らは商人であると同時に、地域の行政・司法を担う惣年寄(そうどしより)の地位をも継承する、領主的な性格を帯びた存在であった 5 。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人が彼らを重用したのは、その莫大な富のみならず、戦略的要衝である平野郷を実質的に支配する在地勢力としての価値を認めたからに他ならない。本報告書では、この視座に基づき、末吉一族の多角的な事業展開と権力との関係性の変遷を、経済史的文脈の中に位置づけていく。
末吉一族の出自は、伝説の域を出ない部分もあるが、その権威の源泉を理解する上で重要である。伝承によれば、末吉氏は征夷大将軍・坂上田村麻呂の次男である広野の子孫と称する平野氏の一族とされる 2 。安土桃山時代、平野氏の当主であった平野隼人正利吉の弟、平野勘兵衛利方が豊臣秀吉より「末吉」の姓を名乗るよう命じられたことが、末吉姓の始まりと伝えられている 2 。このような由緒ある武家への連なりは、たとえ後世の潤色が加わっていたとしても、戦国乱世において一族の社会的地位を高め、他の新興商人と一線を画すための重要な文化的資本として機能したと考えられる。
彼らの揺るぎない基盤となったのが、前述の自治都市・平野郷である。10世紀から15世紀にかけて、平野氏の末裔とされる七名家によって開発が進められたこの地は、戦国時代には堺と比肩するほどの自治能力を備えるに至った 4 。郷の運営は、末吉家を含む七名家筋の惣年寄が中心となり、総会所を拠点として行われた 4 。この自治的な環境は、大名などの外部権力による直接支配を比較的受けにくい「自由」な空間を生み出し、末吉家が独自の裁量で事業を展開し、莫大な富を蓄積するための肥沃な土壌となったのである。
末吉一族の商業的発展の礎を築いたのが、初代とされる藤右衛門長増である。史料によっては彼の名が「行増(ぎょうます)」と記されることもあるが 7 、通称が「藤右衛門」であること、そして息子たちの名(長男・増久、次男・利方)が一致することから、これらは同一人物を指すものと見て間違いない 7 。本報告書では、この人物を「長増(行増)」と併記して扱う。
長増(行増)の時代における最大の功績は、彼自身が特定の事業で大成功を収めたこと以上に、一族が将来にわたって繁栄を続けるための巧みな家業継承の仕組みを構築した点にある。彼は、長男の藤左衛門増久に本家を継がせ、その居住地から「東末吉家」と呼ばせる一方、次男の勘兵衛利方を分家させ、「西末吉家」を興させた 7 。これは単なる家督相続の問題ではなく、一族が時代の荒波を乗り越えるための、極めて高度な「二元的存続戦略」であったと分析できる。
この戦略の巧みさは、両家に分担させた事業領域と政治的結びつきの違いに明確に表れている。
第一に、本家である東末吉家には、比較的安定した国内利権の確保を担わせた。後述するように、東末吉家は織田信長や豊臣秀吉といった当代の覇者と結びつき、陸運業や鉱山経営といった国内の安定収益源を固めていった 7。
第二に、分家である西末吉家には、より政治的変動の影響を受けやすく、しかし大きな成長が見込める領域を任せた。西末吉家は、豊臣政権に仕えながらも、将来の覇者となる可能性を秘めていた徳川家康とも早期に関係を築き、廻船業や代官職といった、政治権力と密着した事業で飛躍を遂げることになる 9。
このように、長増(行増)は二人の息子に異なる事業ポートフォリオと、潜在的に異なる政治的庇護者を担わせることで、一族全体としてのリスクを巧みに分散させた。仮に政治的変動で一方の庇護者が失脚したり、事業が不振に陥ったりしても、もう一方が存続できるという保険をかけたのである。彼は、戦国乱世を生き抜くための、先見性に満ちたリスク管理家であったと言えよう。この長増(行増)が築いた二元的構造こそが、末吉一族がその後、江戸時代を通じて繁栄を謳歌する根本的な要因となったのである。
初代・長増(行増)の戦略に基づき、本家を継いだ東末吉家の藤左衛門増久は、国内における安定した利権の確保に注力した。その活動は、当時の天下統一事業を推進していた織田信長との結びつきから始まる。東末吉家は、信長から堺の南北両庄における馬座(ばざ)、すなわち馬借(ばしゃく)と呼ばれる陸上輸送業者の同業組合を支配する権利を公式に認められた 7 。これは、単なる商業活動の許可ではない。信長が堺や平野といった経済的要衝を支配下に置く過程で、在地有力者である末吉家を取り込み、その経済力を自身の兵站や物流ネットワークに組み込もうとした証左である。見返りとして東末吉家は、競争相手を排除した独占的な利権を手に入れ、陸運業から莫大な利益を上げることに成功した。
信長の死後、天下人の地位を継承した豊臣秀吉の時代になっても、東末吉家の勢いは衰えなかった。大和の筒井順慶や秀吉自身からも手厚い保護を受け、その事業領域をさらに拡大していく 7 。特筆すべきは、文禄2年(1593)に越前国の北袋銀山の採掘を請け負ったことである 7 。陸運業に加え、鉱山経営という新たな収益の柱を確立したことは、事業の多角化戦略が着実に進行していたことを示している。特に銀山経営は、当時、日本の主要な輸出品であり、貨幣の素材でもあった銀の生産に直接関与することを意味し、一族の富を飛躍的に増大させる潜在力を持っていた。
しかし、豊臣家の滅亡を決定づけた大坂の陣の後、東末吉家の運命については、通説として「豊臣方についたために没落した」と語られてきた。だが、近年の研究では、この「没落説」に修正が試みられている。大阪大学大学院の研究によれば、東末吉家は平野郷の郷長、すなわち惣年寄として、地域の「内的な領主権力」を保持し続けていた可能性が指摘されている 5 。つまり、大坂の陣の後、西末吉家が徳川幕府の代官として「公的な支配者」の地位を確立した一方で、東末吉家は地域の長老、内的な実力者として平野郷に影響力を持ち続けたという、両家の役割分担による二重構造が存続したのではないか、という見方である。この説は、東末吉家が豊臣家滅亡と共に完全に力を失ったわけではなく、むしろ在地領主としての性格を強め、一族の基盤である平野郷の支配を内側から支え続けた可能性を示唆しており、非常に興味深い。
本家の東末吉家が国内の安定利権を固める一方で、分家である西末吉家は、二代目・勘兵衛利方(1526-1607)の卓越した手腕により、新時代を切り拓く大飛躍を遂げる。通称を勘兵衛、名を利方、号を道勘と称した彼は、安土桃山時代を代表する政商の一人であった 9 。
利方の経営手腕の核心は、行政権力と経済活動を直結させるビジネスモデルの構築にあった。彼は豊臣秀吉に仕え、河内国丹北郡の代官に任命されると同時に、廻船業を大々的に営んだ 8 。代官として徴収した年貢米などの物資を、自らが所有・運営する船で大坂などの消費地へ輸送し、販売する。これにより、生産(徴税)、流通、販売の全ての段階で利益を確保することが可能となり、莫大な富を築き上げた。これは、公的な権力と私的な経済活動の間に生まれるシナジー効果を最大限に活用した、極めて巧みな戦略であった。
しかし、利方の真の非凡さは、その政治的な先見の明にあった。彼は豊臣政権に深く食い込み、その恩恵を享受する一方で、来るべき次の時代を見据えていた。驚くべきことに、利方は徳川家康がまだ三河国岡崎の城主に過ぎなかった時代から接触を持ち、家康の領国における自由な通商活動の許可を得ていたのである 9 。豊臣秀吉が天下を掌握し、その権勢が頂点に達していた時期に、将来の対抗勢力となりうる家康に「投資」していたという事実は、彼の類稀なる洞察力を物語っている。この早期の布石こそが、関ヶ原の戦いを経て徳川の世が到来した際に、西末吉家が他の豊臣恩顧の商人たちを尻目に、新政権下で絶大な信頼を得る決定的な要因となった。
その信頼の証が、慶長6年(1601年)、家康が全国の貨幣制度統一を目指して伏見に銀座を設置した際、利方がその銀座頭役に抜擢されたことである 9 。彼は国内で通用する銀貨の統一を家康に提唱したとも言われ、これは一介の商人が国家の根幹である貨幣鋳造事業の中枢を担ったことを意味する。家康は、利方の経済的手腕と、西日本における銀流通への影響力を高く評価し、自らの経済政策を実現するための重要なパートナーとして彼を選んだのである。利方はもはや単なる御用商人ではなく、政策立案にも影響を与える経済アドバイザーのような存在へと昇り詰めていた。
さらに、利方は文化人としての一面も持っていた。茶の湯の世界では、千利休と親しく交流したことが知られている 12 。当時の茶の湯は、大名や豪商たちが集う最高の社交場であり、最先端の情報交換の場でもあった。利休との交流は、利方が高い文化教養を身につけていたことを示すと同時に、彼が茶の湯というネットワークを通じて、政治・経済界の重要人物たちと広範な人脈を築いていたことを示唆している。
項目 |
東末吉家(本家) |
西末吉家(分家) |
家祖 |
末吉 藤左衛門 増久 |
末吉 勘兵衛 利方 |
家系の通称 |
太郎兵衛家 |
勘兵衛家 → 孫左衛門家 |
本拠地 |
摂津国平野郷 東 |
摂津国平野郷 西 |
主要事業 |
陸運業(馬座)、鉱山経営 |
廻船業、代官職、金融(銀座)、朱印船貿易 |
結びついた主要権力者 |
織田信長、豊臣秀吉 |
豊臣秀吉 → 徳川家康 |
主な功績・特権 |
堺の陸運独占権の獲得 7 、越前北袋銀山の採掘請負 7 |
銀座頭役への就任 9 、朱印船貿易の主導 15 、大坂の陣での軍功 |
その後の役割 |
平野郷の惣年寄として在地支配を継続 5 |
徳川幕府の代官・旗本として特権商人の地位を確立 5 |
西末吉家の栄華は、三代目・孫左衛門吉安(別名、吉康)の時代に頂点を迎える。彼の家督継承は、一族の柔軟な相続戦略を物語っている。利方の長男であった藤四郎利長が早世したため、吉安は利方の長女まきの子、すなわち利方の孫として家督を継いだ 15 。慶長12年(1607年)、祖父である利方が82歳で亡くなると、吉安は37歳で西末吉家の当主となった 15 。血縁の近さよりも、一族の事業を継承・発展させる能力を重視する、実力主義的な判断があったことが窺える。
吉安の時代は、徳川家康が国策として朱印船制度を整備し、日本の商船が東南アジアの海へ大挙して乗り出した大航海時代と重なる。西末吉家はこの国家プロジェクトの最大の担い手の一つとなり、歴史にその名を刻んだ。慶長9年(1604年)から寛永11年(1634年)までの30年間に、大坂から海外へ派遣された朱印船は22隻を数えるが、その過半数にあたる12隻が、吉安とその後継者である長方(ながかた)によって送り出された「末吉船」であった 15 。その航路は、安南(ベトナム北部・中部)、東京(トンキン、現在のハノイ一帯)、シャム(タイ)、フィリピンなど、南洋の広範囲に及んだ 12 。
末吉船が運んだ品々は、当時の日本の産業と世界の需要を繋ぐものであった。輸出品は、国内の鉱山から産出される銅や鉄、精巧な作りの刀剣、そして硫黄や樟脳といった特産品であった。それらと引き換えに日本へもたらされたのは、高級織物の原料となる生糸や絹織物、貴重な薬品、そして人々の生活を豊かにする砂糖、さらには富の象徴であった伽羅(きゃら)や丁子(ちょうじ)といった香木など、多岐にわたった 15 。
しかし、この朱印船貿易の圧倒的な成功は、単に吉安一代の才覚によるものではない。その成功の根底には、祖父・利方が築き上げた盤石な国内事業基盤が存在した。この構造を分析すると、末吉家の成功の本質が見えてくる。
第一に、利方は代官として領地を支配しており、輸出品の主力であった銅や鉄といった鉱産物や、その他の物資を国内で効率的に調達するルートを確保していた 9。
第二に、彼は廻船業の元締めでもあり、日本各地から調達した物資を、自らの海運ネットワークを用いて貿易の拠点である大坂へ低コストで集積することができた 9。
第三に、銀座頭役としての経験は、国際的な価値を持つ銀の動向や為替レートに関する深い知見を彼にもたらし、貿易における有利な取引を可能にした 9。
つまり、西末吉家の朱印船貿易とは、単なる商品の輸出入ではなく、国内の「生産(代官職による物資調達)」「流通(廻船業)」「金融(銀座の知見)」を有機的に結合させ、それを国際貿易へと繋げた、極めて高度なサプライチェーン・マネジメントの賜物であった。吉安の活躍は、先代が築いた揺るぎない土台の上でこそ、花開いたのである。
西末吉家の繁栄を決定づけたのは、大坂冬の陣・夏の陣(1614-1615年)における徳川方への忠誠であった。豊臣恩顧の大名や商人が数多く存在した大坂において、西末吉家はいち早く徳川家康に味方した 12 。この決断は、利方の代から続く家康への長年の投資が、最大の果実を結んだ瞬間であった。
戦後、家康はその忠誠に絶大な信頼で応えた。吉安は戦の直後に旗本としての身分を保証され、西末吉家は幕府の代官に正式に就任し、本拠地である平野郷を含む広大な天領の支配を任されることになった 5 。これにより、彼らは単なる「町人」の身分から、武士階級に準ずる「特権商人」へと、その社会的地位を劇的に向上させた。彼らが住んだ大坂の町は、その名声から「末吉孫左衛門町」と呼ばれるほどであった 12 。
西末吉家の富と権勢を象徴するのが、京都の清水寺に奉納された絵馬である。末吉家では、朱印船が無事に海外から帰国した際に、その感謝の意を込めて清水寺へ船の絵馬を奉納する習慣があった 15 。平野郷が、清水寺を創建した坂上田村麻呂に縁の深い土地であったことや、京都が彼らの水上輸送の終着点の一つであったことが、その理由として推測されている 15 。特に、吉安の子・長方が寛永年間(1632-1634年)に奉納した3枚の「末吉船絵馬」は、当時の朱印船の姿を今に伝える貴重な史料として、国の重要文化財に指定されている 12 。この絵馬奉納は、単なる信仰心の表れにとどまらない。多くの人々が参詣する全国的な名刹に、自らの事業の象徴である巨大な船の絵を掲げることは、末吉家の富と成功、そして幕府公認の貿易商人としての威信を天下に示す、壮大な広告塔としての役割も果たしていたのである。
吉安は元和3年(1617年)に48歳でその生涯を閉じるが、彼と利方が築いた礎の上に、西末吉家は幕府の代官、そして特権商人として、江戸時代を通じて繁栄を続けることになる。その墓は、祖父・利方と同じく、高野山蓮花定院に築かれている 12 。
末吉一族、特に初代・長増(行増)から三代・吉安に至るまでの軌跡は、戦国乱世の混沌から中央集権的な徳川幕藩体制へと移行する激動の時代において、商人がいかにして生き残り、富と権力を掴んでいったかを示す、稀有な成功事例である。彼らの成功は単一の要因によるものではなく、複数の戦略的要素が巧みに組み合わさった結果であった。
第一に、 強固な在地基盤 の存在である。彼らは単なる流浪の商人ではなく、自治都市・平野郷の指導者層「七名家」の一員として、揺るぎない社会的・政治的地位を故郷に有していた。この基盤が、彼らの活動の安定した足場となった。
第二に、 戦略的な事業多角化とリスク分散 である。初代・長増(行増)が断行した東西両家への分立は、陸運・鉱山といった国内の安定事業と、廻船業・国際貿易といった高成長・高リスク事業へポートフォリオを分散させる、見事な一手であった。これにより、一族は政治や経済の変動に対する強靭な耐性を獲得した。
第三に、 卓越した政治的洞察力 である。特に西末吉家の利方は、豊臣政権の絶頂期にありながら、次代の覇者として徳川家康に早期に接近するという驚くべき先見の明を発揮した。時代の変化を的確に読み、権力者との関係を巧みに構築・転換する能力は、彼らが単なる商人ではなく、優れた政治家でもあったことを示している。
第四に、 世代を超えた巧みな事業継承 である。長増(行増)が築いた二元的存続戦略の基礎の上に、利方が代官職・廻船業・銀座という多角的な経営基盤を構築し、さらにその基盤を活かして吉安が朱印船貿易という国際的な大事業を展開した。この三代にわたる見事なバトンパスが、一族の持続的な成長を可能にした。
末吉一族の歴史的意義は、彼らが中世的な自治商人から、幕府の経済政策と不可分に結びついた近世的な特権商人へと華麗に変貌を遂げた点にある。彼らは代官として幕府の地方支配の一端を担い、銀座頭役として国家の貨幣制度に関与し、朱印船貿易の担い手として国策を推進した。その活動は、大坂が「天下の台所」として飛躍的に発展する礎を築くとともに、近世初期日本の経済と権力のダイナミックな関係性を象徴している。彼らの物語は、日本の歴史が武士や大名だけで作られたのではなく、卓越した才覚を持つ商人たちが、経済の力で時代を動かした紛れもない事実を我々に教えてくれるのである。