最終更新日 2025-05-13

本多正信

本多正信:徳川家康の天下取りを支えた知謀の臣

I. 序論:本多正信 – 徳川家康の「友」と呼ばれた謀臣

本多正信(1538年~1616年)は、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて、徳川家康の側近として活躍した武将であり、卓越した知謀と政治手腕によって徳川幕府の創設と安定に大きく貢献した人物である 1 。彼の生涯は、主君への一度の反逆という汚点を乗り越え、後に家康から「友」とまで呼ばれるほどの深い信頼を得るに至った特異な軌跡を辿る 2 。その功績は、武勇を尊ぶ当時の武士社会において、知略と行政能力という非武断的な側面で主君を支えた点に大きな特徴がある 5 。本報告書は、本多正信の生涯、徳川政権における役割、政治的手腕、人物像、そして歴史的意義について、現存する史料や研究成果に基づき、多角的に分析・考察することを目的とする。

II. 生涯の軌跡:反逆から幕府の中枢へ

A. 出自と初期の奉公

本多正信は天文7年(1538年)、三河国において、松平氏(後の徳川氏)の譜代家臣である本多俊正の次男として生を受けた 1 。幼少期より徳川家康(当時は松平元康)に仕え、当初は鷹匠としての役目を担っていたと伝えられている 1 。この鷹匠という役職は、武勇を第一とする武士の中では必ずしも高い地位ではなかったかもしれないが、若き日の家康に近侍する機会を得たことは、後の両者の緊密な関係の素地となった可能性が考えられる。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは家康に従軍し、その際に膝を負傷し、以来生涯足を引きずるようになったとの記録も残る 3 。この逸話が事実であれば、彼の武人としての側面も初期には存在したことを示唆しているが、彼の名を後世に知らしめたのは、戦場での武勲よりもむしろ、その卓越した知謀であった。

B. 三河一向一揆:家康への反旗と流浪

永禄6年(1563年)、三河国において浄土真宗(一向宗)門徒による大規模な反乱、いわゆる三河一向一揆が勃発した。この一揆は、家康の支配基盤を揺るがす深刻な危機であった。熱心な一向宗門徒であった本多正信は、弟の正重と共に一揆方に加担し、主君である家康に弓を引くという重大な決断を下した 1 。単に一揆に同調しただけでなく、一揆軍の武将あるいは軍師として、家康軍と敵対したとされる 3

この主君への反逆という行為は、封建社会の倫理観からすれば許されざるものであり、死罪に処されても何ら不思議ではなかった。家康にとって、三河一向一揆は多くの家臣が離反し、まさに存亡の危機であった 4 。そのような状況下で、正信が敵対勢力の中核として活動したことは、彼の宗教的信念の篤さ、あるいは当時の複雑な社会政治的状況が彼に与えた影響の深さを示している。永禄7年(1564年)に一揆が鎮圧されると、正信は三河を追われ、流浪の身となった 1 。一部の記録によれば、一向宗の勢力が強かった加賀国へ逃れたとも伝えられている 1 。この一連の出来事は、彼の生涯における最初の大きな転機であり、その後の彼の処世術や人間観にも影響を与えた可能性は否定できない。

C. 帰参と信頼の確立

本多正信が徳川家康のもとに帰参した正確な時期については諸説あり、元亀元年(1570年)の姉川の戦いの頃から、天正10年(1582年)の本能寺の変直前まで、研究者の間でも見解が分かれている 2 。確実な史料でその名が再び確認されるのは、天正10年(1582年)10月頃である 9 。帰参に際しては、大久保忠世ら他の徳川家臣の尽力があったとされている 3

帰参当初は、かつての反逆の経緯から他の家臣たちの風当たりも強く、再び鷹匠など比較的低い役職から再スタートを切ったとも言われる 3 。しかし、正信は徐々にその類稀なる知謀と戦略眼を発揮し、家康の信頼を勝ち得ていく。家康が、かつて自らに反旗を翻した正信を許し、最終的に重用するに至った背景には、家康自身の極めて現実的な判断力と、正信が持つ他に代えがたい能力への評価があったと考えられる。三河武士団は忠誠心と武勇で知られていたが 5 、正信はその枠には収まらない、卓越した知性、戦略的思考、そして行政手腕といった、当時の武将には稀有な資質を備えていた。家康が時に正信の「悪知恵」をも評価したとされる逸話は 3 、家康が正信の持つ非凡な才能をいかに重視していたかを物語っている。この主君の度量の広さと、家臣の非凡な才能が結びついたことが、後の徳川政権の成功に繋がる重要な要素となったのである。

表1:本多正信 略年表

年号(西暦)

出来事

天文7年(1538年)

三河国に生まれる 1

永禄3年(1560年)

桶狭間の戦いに従軍 3

永禄6年(1563年)

三河一向一揆に与し、家康に敵対 1

永禄7年(1564年)

一揆鎮圧後、三河を出奔 1

元亀元年~天正10年頃(1570-1582年頃)

徳川家に帰参(正確な時期は諸説あり) 2

天正10年(1582年)

本能寺の変後、甲斐国経営に参画 2

天正12年(1584年)

小牧・長久手の戦いで献策 3

天正18年(1590年)

関東総奉行に任じられる 2

慶長5年(1600年)

関ヶ原の戦いに秀忠軍として従軍 2

慶長8年(1603年)

江戸幕府成立、幕政の中枢を担う 2

慶長12年(1607年)

徳川秀忠付の年寄(老中)となる 3

慶長19年~元和元年(1614-1615年)

大坂の陣に参陣 3

元和2年6月7日(1616年7月20日)

江戸にて死去 1

III. 徳川家康の懐刀:参謀としての本多正信

A. 主要な合戦における役割と献策

本多正信の真価は、戦場での武勇よりも、むしろ合戦の趨勢を左右する戦略や謀略の立案にあった。彼の献策は、しばしば徳川家の運命を決定づける重要な局面でなされた。

  • 三方ヶ原の戦い(元亀3年、1573年)
    家康生涯最大の敗北の一つとされる三方ヶ原の戦いにおいて、本多正信が家康の参謀として活躍したという記録は確認できない。三河一向一揆で家康に敵対した経緯から 4、この時点ではまだ家康の信頼を完全に回復していなかったか、あるいは帰参して間もなかった可能性が高い。この戦いで武勇を示したのは、同姓の本多忠勝であった 10。正信の戦略家としての才能が本格的に開花するのは、これ以降、家康の信頼を再び勝ち得てからのことである。従って、三方ヶ原の戦いにおける家康の苦境に、正信が直接的な戦略的助言をもって関与したとは考えにくい。
  • 小牧・長久手の戦い(天正12年、1584年)
    羽柴(豊臣)秀吉との間で繰り広げられた小牧・長久手の戦いは、正信の戦略家としての側面が明確に現れた戦いの一つである。当時、徳川家中では柴田勝家に加勢すべきか否かで意見が割れていたが、正信は家康に対し、性急な軍事行動を避け、静観策を提言したとされる 3。この「静観する」という献策は、短期的な戦術的勝利よりも、長期的な戦略的有利性を重視する正信の思考様式を如実に示している。また、この戦いに関連して、秀吉の信用を失墜させるための檄文の配布や高札の設置といった心理戦が展開された記録があり 12、これは正信の得意とした謀略の一環であった可能性も指摘される。戦いを単なる武力衝突として捉えるのではなく、政治的駆け引きや情報操作をも含む総力戦として認識していた彼の戦略眼は、当時の武将の中では異質であり、家康にとって極めて貴重なものであった。この戦いを通じて、正信は家康の天下取りに不可欠な人物としての地位を固めていったと言えるだろう 3。
  • 関ヶ原の戦い(慶長5年、1600年)
    天下分け目の決戦となった関ヶ原の戦いにおいて、本多正信は家康本隊には加わらず、徳川秀忠率いる別働隊に従軍し、中山道を進んだ 2。秀忠軍は、信濃上田城に籠る真田昌幸・幸村(信繁)親子の巧みな籠城戦術によって足止めをくらい、関ヶ原の本戦に遅参するという失態を犯した。この時、正信は秀忠に対し、上田城攻略に固執せず、家康本隊との合流を優先するよう進言したと伝えられるが、若き秀忠はその献策を容れなかったとされる 3。この出来事は、いかに優れた参謀であっても、指揮官の決断が優先されるという戦場の現実と、経験の浅い指揮官を補佐する難しさを示している。
    戦後、石田三成の嫡男・重家の処遇を巡っては、正信がその助命に重要な役割を果たした逸話が残る。彼は家康に対し、「三成が西国大名を集めて関ヶ原という無用の戦を起こしたおかげで、日本中が徳川家に服した」と述べ、三成の行動が結果的に徳川家の天下統一に貢献したという逆説的な論理で重家の赦免を説いた 4。これは、単なる温情主義ではなく、戦後処理における政治的計算と、将来的な遺恨を減らすための高度な戦略的判断が込められた献策であったと言えよう。
  • 大坂の陣(慶長19年~元和元年、1614年~1615年)
    豊臣家との最終決戦となった大坂の陣では、本多正信は既に70代後半の老齢であったにもかかわらず、家康に従って参陣した 3。夏の陣において、真田幸村の猛攻により家康本陣が危機に陥った際には、自ら鉄砲を取って応戦したと伝えられる 3。家康が「信長や秀吉と同じ地獄を背負い、あの世へ逝く。それが、最後の役目じゃ」と覚悟を語った際、正信も「一緒に行きます」と応じ、最後まで主君と運命を共にする決意を示した 3。また、大坂冬の陣後の和睦条件であった堀の埋め立てに関して豊臣方が異議を唱えた際、「どちらが埋めるかなど、どうでも良い。城さえ無力化すれば豊臣家は戦えないのだから」と述べ、最終的な戦略目標を見失わない現実的な姿勢を示している 3。老齢にもかかわらず、最後の奉公として家康に付き従ったその姿は、数十年にわたる主従関係の深さと、徳川政権の確立にかける彼の執念を物語っている。

B. 甲斐国経営と関東総奉行としての行政手腕

本多正信の才能は、軍事戦略のみならず、内政や行政の分野でも遺憾なく発揮された。天正10年(1582年)、本能寺の変後の混乱の中で武田氏が滅亡し、甲斐国が家康の支配下に入ると、正信は井伊直政や大久保忠隣らと共に奉行として甲斐国の経営に参画した 2 。これは、彼が単なる謀臣ではなく、実務的な行政能力も備えていたことを示す初期の事例である。

天正18年(1590年)、家康が豊臣秀吉によって関東へ移封されると、正信は相模国玉縄に1万石(後に2万2千石に加増)を与えられ大名となるとともに、「関東総奉行」に任じられた 2 。関東総奉行としての正信は、広大な関東地方の検地、農村支配、江戸の都市整備(普請の監督など)、そして諸大名や旗本の統制といった多岐にわたる重責を担った 2 。家康が新たな本拠地として定めた関東地方の安定と発展は、徳川政権の将来にとって死活的に重要であり、その基盤整備を任されたことは、家康の正信に対する絶大な信頼を物語っている。この関東経営における成功は、後の江戸幕府の行政システムの原型を形作る上で重要な意味を持ち、正信が徳川政権の「設計者」の一人であったことを示している。

IV. 江戸幕府初期の政治運営と本多正信

A. 幕政への参画と政策

慶長8年(1603年)に江戸幕府が開かれると、本多正信は家康の側近として幕政の中枢を担い、実質的に老中に相当する地位にあったと目される 2 。家康の征夷大将軍就任に際しては、朝廷との交渉役を務めるなど、幕府の権威確立に尽力した 3

  • 本願寺勢力分割策
    正信の献策の中でも特筆すべきは、強大な宗教勢力であった本願寺に対する政策である。当時、本願寺内部では前法主・教如と法主・准如兄弟の間に対立が生じていた。正信はこれを利用し、本願寺を東西に分裂させることを家康に献策したとされる 6。かつて自身もその一員として戦った一向宗勢力の弱体化を図るというこの策は、一見すると冷徹な権謀術数に見える。しかし、この政策の背景には複雑な動機があったと考えられる。単に潜在的な脅威を排除するという現実的な国家戦略であった可能性もあれば、既に分裂状態にあった教団の混乱を収拾し、形を変えてでも本願寺そのものを存続させるための措置であったという解釈も存在する 6。彼自身が一向宗門徒であった過去を考えると、この政策は単なる弾圧ではなく、宗教勢力を新たな政治秩序の中に組み込むための、高度な政治的判断であったのかもしれない。
  • その他の献策と影響
    正信は、「軍法というは軍事ばかりに用いるものではない。軍法は常の備えである。善い政治は勝ち、悪い政治は負ける。勝負の本は国を治める事にある」と述べ、軍事と政治を一体のものとして捉え、善政こそが国家安泰の要であるという統治哲学を持っていた 6。また、「士農工商は天下の四民である」として、民衆を国家の基盤として重視する姿勢も示している 6。これらの思想は、江戸幕府初期の政策決定に影響を与え、長期的な安定政権の礎を築く一助となった。

B. 二代将軍・徳川秀忠の補佐

慶長10年(1605年)に家康が将軍職を秀忠に譲り、大御所として駿府に隠居した後も、本多正信は江戸にあって幕政に関与し続けた。慶長12年(1607年)頃からは、正式に秀忠付きの年寄(後の老中)となり、二代将軍を実質的に指導する役割を担った 2 。この時期、駿府の家康のもとにいた息子の本多正純と連携を取りながら、家康の意向を幕政に反映させ、円滑な権力移譲と幕府運営の安定化に努めた 2

正信は秀忠を「偉大なる凡庸」と評したと伝えられる 3 。これは、突出した才能やカリスマ性を持つ君主よりも、法度や先例を遵守し、組織を安定的に運営できる平凡な指導者の方が、国家を長続きさせるという彼の政治観を反映した言葉であろう。秀忠自身は、父家康のような圧倒的な指導力や政治的才覚には恵まれていなかったかもしれないが、正信のような経験豊かで忠実な補佐役を得たことで、初代将軍の偉業を引き継ぎ、幕府の基盤を固めるという重責を果たすことができた。正信の存在は、徳川幕府の初期における権力の継承と制度の定着にとって、不可欠なものであったと言える。

表2:本多正信の主要な役職と貢献

役職

期間

主要な職務・貢献

典拠

甲斐国奉行

天正10年頃(c. 1582)

武田氏滅亡後の甲斐国統治、行政担当

2

関東総奉行

天正18年~(1590-)

関東移封後の領国経営、江戸の都市整備監督、諸大名・旗本の統制

2

幕府老中格(年寄)

慶長8年~(1603-)

江戸幕府初期の幕政運営、政策立案、家康の将軍任官交渉

2

徳川秀忠付年寄

慶長12年~(1607-)

二代将軍秀忠の補佐、幕政指導、家康と秀忠の連携

2

V. 人物像:逸話と評価

本多正信の人物像は、彼にまつわる数々の逸話や同時代人からの評価を通じて、多面的に浮かび上がってくる。

A. 徳川家康との関係

家康は、4歳年長の正信を「友」あるいは「好物」と呼んだと伝えられており、これは単なる主従関係を超えた深い信頼と親近感を示している 2 。この特異な関係性は、正信が家康に対して率直な意見を述べ、大きな影響力を行使することを可能にした。正信が徳川家の葵の紋をアレンジした「丸に立ち葵」の家紋の使用を許されたことも、家康の彼に対する並々ならぬ評価の表れである 15

『明良洪範』に記された逸話は、正信の巧みな人心掌握術と、家康との関係の深さを物語っている。ある時、家康が近習たちを厳しく叱責している場に正信が現れた。正信は家康以上に激しい口調で近習たちを咎めた後、一転して「上様がお前たちを大事に思うからこその御教訓なのだ」と諭し、家康の怒りを鎮め、場の雰囲気を和らげたという 6 。このような逸話は、正信が家康の性格を熟知し、主君の感情を巧みにコントロールすることで、政務の円滑な運営に貢献していたことを示唆している。この主従を超えた絆は、正信の権勢の源泉であり、家康が非伝統的な背景を持つ人物であっても、知的な尊敬と共通の目標に基づいて深い関係を築くことができた証左と言える。

B. 「非常の器」:同時代及び後世からの評価

戦国時代の梟雄として知られる松永久秀は、正信について「徳川の侍を見ることは少なくないが、多くは武勇一辺倒の輩。しかしひとり正信は剛にあらず、柔にあらず、卑にあらず、非常の器である」と評したとされる 6 。策謀家として名高い松永からのこの評価は、正信の非凡さを裏付けるものとして重要である。

一方で、正信はその知略に長けた手法から、「謀臣」あるいは「イカサマ師」といった評価を受けることもあった 3 。これは、武勇を第一とする当時の武士社会において、彼の知的な戦略や謀略が異質であり、時に警戒心や不信感をもって見られたことの反映かもしれない。しかし、権謀術数が渦巻く戦国乱世を生き抜き、新たな時代を切り開くためには、正信のような知的な「武器」を持つ人材が不可欠であった。松永久秀のような人物が正信を高く評価したのは、彼らが権力の複雑性を理解し、正信の持つ特異な才能の価値を認識していたからであろう。後世の歴史家や評論家の中には、彼の役割を伝統的な「軍師」とは異なり、政治的駆け引きや長期的な国家構想に長けた人物として捉える見方もある 17

C. 息子・正純への訓戒に見る先見性

本多正信は、長男であり嫡子であった本多正純に対し、自身の死後、幕府から加増の話があっても禄高3万石までは受けても良いが、それ以上は決して受けてはならない、もしそれ以上の加増を固辞しなければ必ず災いが降りかかると繰り返し訓戒していた 4 。また、将軍秀忠に対しても、正純の所領を過度に増やさないよう嘆願したと伝えられる 6

この訓戒は、正信の驚くべき先見性を示している。彼は、自身の強大な影響力が家康との個人的な信頼関係に大きく依存していることを理解し、その庇護が失われた後、息子が過大な権力や富を持つことの危険性を察知していた。大きな石高や権勢は、政敵からの嫉妬や幕府からの警戒を招きかねない。事実、父の警告にもかかわらず(あるいは他の要因が絡み)、正純は後に宇都宮釣天井事件に連座したとされ失脚し、正信の懸念は現実のものとなった 16 。この逸話は、正信が権力の危うさと恩顧の儚さを深く理解し、一族の長期的な安泰のために自制と慎重さを説いた、現実的な政治家であったことを示している。

VI. 史跡と文化財

本多正信の歴史的重要性を物語る史跡や文化財もいくつか現存している。「絹本著色本多正信像」は国の重要文化財に指定されており、東京都台東区浅草の徳本寺が所蔵している 18 。この肖像画は、後世の人々が正信の功績を高く評価していたことの証左と言える。

また、東京都新宿区の市谷砂土原町付近には、かつて正信の別邸があったと伝えられている 19 。彼の所領であった武蔵国埼玉郡の一部は、大坂の陣の後、甥の大久保忠隣の子に与えられた記録もある 17

一方で、その多大な影響力にもかかわらず、正信の墓所は不明とされている 6 。一説には京都の本願寺に葬られたとも言われ、法名は善徳納誨院であったという 19 。著名な墓が存在しないことについて、ある本願寺の僧侶は「真宗門徒の正信らしい」とコメントしており 6 、彼の信仰心や個人的な価値観を反映している可能性も考えられる。生前の権勢とは対照的な墓所の不明確さは、彼の謎めいた人物像に更なる深みを与えている。

VII. 結論:本多正信の歴史的意義と遺産

本多正信は、徳川家康の天下取りと江戸幕府の創設・安定に、知謀と行政手腕をもって貢献した類稀なる臣であった。一度は主君に反旗を翻しながらも、その非凡な才能によって許され、やがて家康から「友」と呼ばれるほどの絶対的な信頼を得るに至ったその生涯は、戦国乱世のダイナミズムと、家康の現実的な人材登用術を象徴している。

彼の功績は多岐にわたる。甲斐国経営や関東総奉行としての行政手腕は、徳川家の新たな本拠地の基盤を固め、江戸を政治の中心地へと発展させる上で不可欠であった。幕府草創期には、家康の将軍任官交渉や本願寺勢力の分割策など、重要政策の立案と実行に深く関与し、二代将軍秀忠の時代にはその後見役として幕政を指導し、政権の安定化に尽力した。

松永久秀が評した「非常の器」 6 という言葉は、正信の複雑で多面的な人物像を的確に捉えている。彼は冷徹な謀臣であると同時に、主君への深い忠誠心と、国家の将来を見通す先見性を備えていた。その影響力は、しばしば表舞台ではなく水面下で発揮されたが、徳川幕府という巨大な統治機構の設計と運営に、本多正信が果たした役割は計り知れない。彼は、武力だけでは成し遂げられない天下泰平の実現に、知力をもって貢献した、まさに徳川の平和を築いた陰の立役者の一人と言えるだろう。その遺産は、二百数十年に及ぶ江戸時代の平和と安定の中に、深く刻まれている。

VIII. 参考文献

  • 『駿府記』 6
  • 真田増誉『明良洪範』 6
  • 『藩翰譜』 6
  • 『佐久間軍記』 6
  • 『大久保家留書』 6
  • 本多正信 [撰]『正信記』 20
  • 『徳川家康朱印状』 20

引用文献

  1. 本多正信- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E6%AD%A3%E4%BF%A1
  2. 家臣団の嫌われ者・本多正信が辿った生涯|天下取りに欠かせない ... https://serai.jp/hobby/1110659
  3. 本多正信-歴史上の実力者/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44332/
  4. 裏切り続けた本多正信が家康の謀臣たりえた裏側 家康に苦悩も、有能 ... https://toyokeizai.net/articles/-/649697?display=b
  5. 徳川家康と本多正信|なぜ信長・秀吉・家康のもとに“優秀な人材”が集まったのか? 【戦国三英傑の採用力】 - note https://note.com/toshi_mizu249/n/nd957d1fe007d
  6. 本多正信 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E6%AD%A3%E4%BF%A1
  7. 徳川家康とは?家康の名言で紐解く苦難と学びの半生 https://life-and-mind.com/ieyasu-tokugawa-53166
  8. 「どうする家康」本多正信論:家康に「友」と呼ばれた男の生涯 - Tech Team Journal https://ttj.paiza.jp/archives/2023/07/29/9833/
  9. 特別展「安城ゆかりの大名 家康の名参謀 本多正信」(2017年2月18日) https://ameblo.jp/hiibon33/entry-12249342618.html
  10. 本多忠勝は何をした人?「最強!6.5mもある蜻蛉切の槍をぶん回して無双した」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/tadakatsu-honda
  11. 徳川四天王の略歴・特徴、どんな活躍をしたのか?功績と役割 - 戦国武将のハナシ https://busho.fun/column/tokugawa-four
  12. 「どうする家康」第32回「小牧長久手の激闘」 徳川家の覚醒と数正の孤独な懸念の理由 - note https://note.com/tender_bee49/n/nc0cdce405aaf
  13. 徳川秀忠。家康の息子が関ヶ原の戦いで「世紀の大遅参」をした理由とは? - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/38089/
  14. 本多正信は何をした人?「政敵を封殺する陰謀の数々で晩年の黒い家康を創出した」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/masanobu-honda
  15. 本多正信 名軍師/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/90092/
  16. 本多正信があえて「権勢」を振るった理由 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/26522
  17. 本多正信は、優秀な“軍師”だったのかー古川薫著『謀臣亡ぶ』より。 https://kogotokoub.exblog.jp/25077093/
  18. 国指定・登録文化財 - 東京 - 台東区 https://www.city.taito.lg.jp/gakushu/shogaigakushu/shakaikyoiku/bunkazai/kunibunkazai.html
  19. 本多正信|国史大辞典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=57
  20. 本多 正信 - 古典籍総合データベース https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%E6%9C%AC%E5%A4%9A+%E6%AD%A3%E4%BF%A1