本多正信(1538年~1616年)は、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて、徳川家康の側近として活躍した武将であり、卓越した知謀と政治手腕によって徳川幕府の創設と安定に大きく貢献した人物である 1 。彼の生涯は、主君への一度の反逆という汚点を乗り越え、後に家康から「友」とまで呼ばれるほどの深い信頼を得るに至った特異な軌跡を辿る 2 。その功績は、武勇を尊ぶ当時の武士社会において、知略と行政能力という非武断的な側面で主君を支えた点に大きな特徴がある 5 。本報告書は、本多正信の生涯、徳川政権における役割、政治的手腕、人物像、そして歴史的意義について、現存する史料や研究成果に基づき、多角的に分析・考察することを目的とする。
本多正信は天文7年(1538年)、三河国において、松平氏(後の徳川氏)の譜代家臣である本多俊正の次男として生を受けた 1 。幼少期より徳川家康(当時は松平元康)に仕え、当初は鷹匠としての役目を担っていたと伝えられている 1 。この鷹匠という役職は、武勇を第一とする武士の中では必ずしも高い地位ではなかったかもしれないが、若き日の家康に近侍する機会を得たことは、後の両者の緊密な関係の素地となった可能性が考えられる。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは家康に従軍し、その際に膝を負傷し、以来生涯足を引きずるようになったとの記録も残る 3 。この逸話が事実であれば、彼の武人としての側面も初期には存在したことを示唆しているが、彼の名を後世に知らしめたのは、戦場での武勲よりもむしろ、その卓越した知謀であった。
永禄6年(1563年)、三河国において浄土真宗(一向宗)門徒による大規模な反乱、いわゆる三河一向一揆が勃発した。この一揆は、家康の支配基盤を揺るがす深刻な危機であった。熱心な一向宗門徒であった本多正信は、弟の正重と共に一揆方に加担し、主君である家康に弓を引くという重大な決断を下した 1 。単に一揆に同調しただけでなく、一揆軍の武将あるいは軍師として、家康軍と敵対したとされる 3 。
この主君への反逆という行為は、封建社会の倫理観からすれば許されざるものであり、死罪に処されても何ら不思議ではなかった。家康にとって、三河一向一揆は多くの家臣が離反し、まさに存亡の危機であった 4 。そのような状況下で、正信が敵対勢力の中核として活動したことは、彼の宗教的信念の篤さ、あるいは当時の複雑な社会政治的状況が彼に与えた影響の深さを示している。永禄7年(1564年)に一揆が鎮圧されると、正信は三河を追われ、流浪の身となった 1 。一部の記録によれば、一向宗の勢力が強かった加賀国へ逃れたとも伝えられている 1 。この一連の出来事は、彼の生涯における最初の大きな転機であり、その後の彼の処世術や人間観にも影響を与えた可能性は否定できない。
本多正信が徳川家康のもとに帰参した正確な時期については諸説あり、元亀元年(1570年)の姉川の戦いの頃から、天正10年(1582年)の本能寺の変直前まで、研究者の間でも見解が分かれている 2 。確実な史料でその名が再び確認されるのは、天正10年(1582年)10月頃である 9 。帰参に際しては、大久保忠世ら他の徳川家臣の尽力があったとされている 3 。
帰参当初は、かつての反逆の経緯から他の家臣たちの風当たりも強く、再び鷹匠など比較的低い役職から再スタートを切ったとも言われる 3 。しかし、正信は徐々にその類稀なる知謀と戦略眼を発揮し、家康の信頼を勝ち得ていく。家康が、かつて自らに反旗を翻した正信を許し、最終的に重用するに至った背景には、家康自身の極めて現実的な判断力と、正信が持つ他に代えがたい能力への評価があったと考えられる。三河武士団は忠誠心と武勇で知られていたが 5 、正信はその枠には収まらない、卓越した知性、戦略的思考、そして行政手腕といった、当時の武将には稀有な資質を備えていた。家康が時に正信の「悪知恵」をも評価したとされる逸話は 3 、家康が正信の持つ非凡な才能をいかに重視していたかを物語っている。この主君の度量の広さと、家臣の非凡な才能が結びついたことが、後の徳川政権の成功に繋がる重要な要素となったのである。
表1:本多正信 略年表
年号(西暦) |
出来事 |
天文7年(1538年) |
三河国に生まれる 1 |
永禄3年(1560年) |
桶狭間の戦いに従軍 3 |
永禄6年(1563年) |
三河一向一揆に与し、家康に敵対 1 |
永禄7年(1564年) |
一揆鎮圧後、三河を出奔 1 |
元亀元年~天正10年頃(1570-1582年頃) |
徳川家に帰参(正確な時期は諸説あり) 2 |
天正10年(1582年) |
本能寺の変後、甲斐国経営に参画 2 |
天正12年(1584年) |
小牧・長久手の戦いで献策 3 |
天正18年(1590年) |
関東総奉行に任じられる 2 |
慶長5年(1600年) |
関ヶ原の戦いに秀忠軍として従軍 2 |
慶長8年(1603年) |
江戸幕府成立、幕政の中枢を担う 2 |
慶長12年(1607年) |
徳川秀忠付の年寄(老中)となる 3 |
慶長19年~元和元年(1614-1615年) |
大坂の陣に参陣 3 |
元和2年6月7日(1616年7月20日) |
江戸にて死去 1 |
本多正信の真価は、戦場での武勇よりも、むしろ合戦の趨勢を左右する戦略や謀略の立案にあった。彼の献策は、しばしば徳川家の運命を決定づける重要な局面でなされた。
本多正信の才能は、軍事戦略のみならず、内政や行政の分野でも遺憾なく発揮された。天正10年(1582年)、本能寺の変後の混乱の中で武田氏が滅亡し、甲斐国が家康の支配下に入ると、正信は井伊直政や大久保忠隣らと共に奉行として甲斐国の経営に参画した 2 。これは、彼が単なる謀臣ではなく、実務的な行政能力も備えていたことを示す初期の事例である。
天正18年(1590年)、家康が豊臣秀吉によって関東へ移封されると、正信は相模国玉縄に1万石(後に2万2千石に加増)を与えられ大名となるとともに、「関東総奉行」に任じられた 2 。関東総奉行としての正信は、広大な関東地方の検地、農村支配、江戸の都市整備(普請の監督など)、そして諸大名や旗本の統制といった多岐にわたる重責を担った 2 。家康が新たな本拠地として定めた関東地方の安定と発展は、徳川政権の将来にとって死活的に重要であり、その基盤整備を任されたことは、家康の正信に対する絶大な信頼を物語っている。この関東経営における成功は、後の江戸幕府の行政システムの原型を形作る上で重要な意味を持ち、正信が徳川政権の「設計者」の一人であったことを示している。
慶長8年(1603年)に江戸幕府が開かれると、本多正信は家康の側近として幕政の中枢を担い、実質的に老中に相当する地位にあったと目される 2 。家康の征夷大将軍就任に際しては、朝廷との交渉役を務めるなど、幕府の権威確立に尽力した 3 。
慶長10年(1605年)に家康が将軍職を秀忠に譲り、大御所として駿府に隠居した後も、本多正信は江戸にあって幕政に関与し続けた。慶長12年(1607年)頃からは、正式に秀忠付きの年寄(後の老中)となり、二代将軍を実質的に指導する役割を担った 2 。この時期、駿府の家康のもとにいた息子の本多正純と連携を取りながら、家康の意向を幕政に反映させ、円滑な権力移譲と幕府運営の安定化に努めた 2 。
正信は秀忠を「偉大なる凡庸」と評したと伝えられる 3 。これは、突出した才能やカリスマ性を持つ君主よりも、法度や先例を遵守し、組織を安定的に運営できる平凡な指導者の方が、国家を長続きさせるという彼の政治観を反映した言葉であろう。秀忠自身は、父家康のような圧倒的な指導力や政治的才覚には恵まれていなかったかもしれないが、正信のような経験豊かで忠実な補佐役を得たことで、初代将軍の偉業を引き継ぎ、幕府の基盤を固めるという重責を果たすことができた。正信の存在は、徳川幕府の初期における権力の継承と制度の定着にとって、不可欠なものであったと言える。
表2:本多正信の主要な役職と貢献
役職 |
期間 |
主要な職務・貢献 |
典拠 |
甲斐国奉行 |
天正10年頃(c. 1582) |
武田氏滅亡後の甲斐国統治、行政担当 |
2 |
関東総奉行 |
天正18年~(1590-) |
関東移封後の領国経営、江戸の都市整備監督、諸大名・旗本の統制 |
2 |
幕府老中格(年寄) |
慶長8年~(1603-) |
江戸幕府初期の幕政運営、政策立案、家康の将軍任官交渉 |
2 |
徳川秀忠付年寄 |
慶長12年~(1607-) |
二代将軍秀忠の補佐、幕政指導、家康と秀忠の連携 |
2 |
本多正信の人物像は、彼にまつわる数々の逸話や同時代人からの評価を通じて、多面的に浮かび上がってくる。
家康は、4歳年長の正信を「友」あるいは「好物」と呼んだと伝えられており、これは単なる主従関係を超えた深い信頼と親近感を示している 2 。この特異な関係性は、正信が家康に対して率直な意見を述べ、大きな影響力を行使することを可能にした。正信が徳川家の葵の紋をアレンジした「丸に立ち葵」の家紋の使用を許されたことも、家康の彼に対する並々ならぬ評価の表れである 15 。
『明良洪範』に記された逸話は、正信の巧みな人心掌握術と、家康との関係の深さを物語っている。ある時、家康が近習たちを厳しく叱責している場に正信が現れた。正信は家康以上に激しい口調で近習たちを咎めた後、一転して「上様がお前たちを大事に思うからこその御教訓なのだ」と諭し、家康の怒りを鎮め、場の雰囲気を和らげたという 6 。このような逸話は、正信が家康の性格を熟知し、主君の感情を巧みにコントロールすることで、政務の円滑な運営に貢献していたことを示唆している。この主従を超えた絆は、正信の権勢の源泉であり、家康が非伝統的な背景を持つ人物であっても、知的な尊敬と共通の目標に基づいて深い関係を築くことができた証左と言える。
戦国時代の梟雄として知られる松永久秀は、正信について「徳川の侍を見ることは少なくないが、多くは武勇一辺倒の輩。しかしひとり正信は剛にあらず、柔にあらず、卑にあらず、非常の器である」と評したとされる 6 。策謀家として名高い松永からのこの評価は、正信の非凡さを裏付けるものとして重要である。
一方で、正信はその知略に長けた手法から、「謀臣」あるいは「イカサマ師」といった評価を受けることもあった 3 。これは、武勇を第一とする当時の武士社会において、彼の知的な戦略や謀略が異質であり、時に警戒心や不信感をもって見られたことの反映かもしれない。しかし、権謀術数が渦巻く戦国乱世を生き抜き、新たな時代を切り開くためには、正信のような知的な「武器」を持つ人材が不可欠であった。松永久秀のような人物が正信を高く評価したのは、彼らが権力の複雑性を理解し、正信の持つ特異な才能の価値を認識していたからであろう。後世の歴史家や評論家の中には、彼の役割を伝統的な「軍師」とは異なり、政治的駆け引きや長期的な国家構想に長けた人物として捉える見方もある 17 。
本多正信は、長男であり嫡子であった本多正純に対し、自身の死後、幕府から加増の話があっても禄高3万石までは受けても良いが、それ以上は決して受けてはならない、もしそれ以上の加増を固辞しなければ必ず災いが降りかかると繰り返し訓戒していた 4 。また、将軍秀忠に対しても、正純の所領を過度に増やさないよう嘆願したと伝えられる 6 。
この訓戒は、正信の驚くべき先見性を示している。彼は、自身の強大な影響力が家康との個人的な信頼関係に大きく依存していることを理解し、その庇護が失われた後、息子が過大な権力や富を持つことの危険性を察知していた。大きな石高や権勢は、政敵からの嫉妬や幕府からの警戒を招きかねない。事実、父の警告にもかかわらず(あるいは他の要因が絡み)、正純は後に宇都宮釣天井事件に連座したとされ失脚し、正信の懸念は現実のものとなった 16 。この逸話は、正信が権力の危うさと恩顧の儚さを深く理解し、一族の長期的な安泰のために自制と慎重さを説いた、現実的な政治家であったことを示している。
本多正信の歴史的重要性を物語る史跡や文化財もいくつか現存している。「絹本著色本多正信像」は国の重要文化財に指定されており、東京都台東区浅草の徳本寺が所蔵している 18 。この肖像画は、後世の人々が正信の功績を高く評価していたことの証左と言える。
また、東京都新宿区の市谷砂土原町付近には、かつて正信の別邸があったと伝えられている 19 。彼の所領であった武蔵国埼玉郡の一部は、大坂の陣の後、甥の大久保忠隣の子に与えられた記録もある 17 。
一方で、その多大な影響力にもかかわらず、正信の墓所は不明とされている 6 。一説には京都の本願寺に葬られたとも言われ、法名は善徳納誨院であったという 19 。著名な墓が存在しないことについて、ある本願寺の僧侶は「真宗門徒の正信らしい」とコメントしており 6 、彼の信仰心や個人的な価値観を反映している可能性も考えられる。生前の権勢とは対照的な墓所の不明確さは、彼の謎めいた人物像に更なる深みを与えている。
本多正信は、徳川家康の天下取りと江戸幕府の創設・安定に、知謀と行政手腕をもって貢献した類稀なる臣であった。一度は主君に反旗を翻しながらも、その非凡な才能によって許され、やがて家康から「友」と呼ばれるほどの絶対的な信頼を得るに至ったその生涯は、戦国乱世のダイナミズムと、家康の現実的な人材登用術を象徴している。
彼の功績は多岐にわたる。甲斐国経営や関東総奉行としての行政手腕は、徳川家の新たな本拠地の基盤を固め、江戸を政治の中心地へと発展させる上で不可欠であった。幕府草創期には、家康の将軍任官交渉や本願寺勢力の分割策など、重要政策の立案と実行に深く関与し、二代将軍秀忠の時代にはその後見役として幕政を指導し、政権の安定化に尽力した。
松永久秀が評した「非常の器」 6 という言葉は、正信の複雑で多面的な人物像を的確に捉えている。彼は冷徹な謀臣であると同時に、主君への深い忠誠心と、国家の将来を見通す先見性を備えていた。その影響力は、しばしば表舞台ではなく水面下で発揮されたが、徳川幕府という巨大な統治機構の設計と運営に、本多正信が果たした役割は計り知れない。彼は、武力だけでは成し遂げられない天下泰平の実現に、知力をもって貢献した、まさに徳川の平和を築いた陰の立役者の一人と言えるだろう。その遺産は、二百数十年に及ぶ江戸時代の平和と安定の中に、深く刻まれている。