本山茂宗は土佐の戦国大名。山間部から高知平野へ勢力を拡大し、吉良氏を滅ぼすなど土佐最大勢力となる。しかし、弘治元年(1555年)に病死し、本山氏は急速に衰退した。
室町時代中期に勃発した応仁の乱(1467-1477年)は、京都を焦土に変えただけでなく、その影響は全国に波及し、中央の権威であった室町幕府の統制力を著しく減退させた。土佐国においても例外ではなく、守護であった細川氏の支配力は次第に形骸化し、国内は事実上の権力空白地帯と化した 1 。この権力の空白を埋めるように、各地の在地領主、すなわち国人たちが自立を強め、互いに領地を拡大せんと鎬を削る「群雄割拠」の時代が到来した。荘園制という旧来の土地支配体制は崩壊し、力こそが正義となる下剋上の風潮の中、国人たちは自らの武力と知略を頼りに、独立した領国支配を確立しようと動き出したのである。これが、後に本山茂宗や長宗我部元親といった英雄たちが躍動する、土佐戦国史の幕開けであった。
中央権力の弛緩に伴い、土佐国内では特に有力な七つの国人領主が台頭し、互いに覇を競った。彼らは後世、「土佐七雄」と総称されることになる 3 。長岡郡を本拠とする本山氏、同じく長岡郡の岡豊城に拠る長宗我部氏、東部の安芸郡を支配する安芸氏、高岡郡の津野氏と大平氏、吾川郡の吉良氏、そして香美郡の香宗我部氏がその主要な勢力であった 3 。彼らは、時に婚姻を結んで同盟し、時に利害が対立すれば容赦なく戈を交えるという、複雑で流動的な関係の中にあった。この七雄の中でも、西端の幡多郡に下向した公家大名である土佐一条氏は、国司としての権威から別格の存在と見なされていたが、その影響力も絶対的なものではなく、土佐中央部は実質的にこれら国人たちの草刈り場となっていた 1 。本山茂宗は、この混沌とした情勢の中で、一族を率いて頭角を現していくことになる。
本山茂宗の名は、多くの場合、長宗我部元親による土佐統一物語の序盤に登場する「乗り越えられるべき壁」、すなわち敵役として語られる。しかし、そのような一面的な評価は、彼の歴史的実像を見誤らせる危険性を孕んでいる。本報告書は、茂宗を単なる元親の引き立て役としてではなく、彼自身が一人の独立した戦国大名として、卓越した戦略と才覚で一時代を築き上げた人物として捉え直すことを目的とする。
彼の生涯は、守護不在の権力闘争の中で、一介の在地領主がいかにして自立的な「戦国大名」へと脱皮し、領国を形成しようとしたかの典型的な軌跡を示すものである。山間の不利な地理的条件を克服し、一時は土佐国で最大とも言われる勢力を築き上げた彼の成功と、その死がもたらした一族の急転直下の悲劇を詳細に分析することで、戦国時代における地方豪族の興亡のダイナミズム、そして一個人の傑出した能力が歴史に与える影響の大きさとその限界を解き明かす。本山茂宗という人物の多角的な再評価を通じて、勝者の視点から描かれがちな歴史の深層に光を当てることこそ、本報告書の目指すところである。
年号(西暦) |
本山氏の動向 |
長宗我部氏の動向 |
その他(一条氏など) |
永正5年 (1508) |
本山茂宗、生誕 7 。 |
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土佐一条房家、長宗我部兼序の遺児・国親を保護 8 。 |
永正6年 (1509) |
本山氏ら連合軍、岡豊城を攻撃。長宗我部兼序、敗死 9 。 |
岡豊城落城。当主・兼序が自害し、一時没落 9 。 |
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永正15年 (1518) |
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長宗我部国親、一条房家の支援を得て岡豊城に復帰 9 。 |
一条房家、国親の岡豊城復帰を支援 9 。 |
大永年間 (1521-28) |
茂宗、土佐中央平野部への進出拠点として朝倉城を築城(または拠点化) 6 。 |
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天文9年 (1540) |
茂宗、吾川郡の豪族・土佐吉良氏を滅亡させる 7 。 |
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天文13年 (1544) |
嫡男・茂辰が、長宗我部国親の娘と婚姻 10 。 |
国親、娘を本山茂辰に嫁がせ、本山氏と和議を結ぶ 10 。 |
一条房家の仲介により、本山・長宗我部両氏が和睦 9 。 |
弘治元年 (1555) |
2月、本山茂宗、朝倉城にて病死 。嫡男・茂辰が家督を継承 3 。 |
茂宗の死を機に、本山領への圧力を強化 16 。 |
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永禄3年 (1560) |
5月、長浜の戦いで長宗我部軍に大敗 14 。6月、浦戸城を失う 12 。 |
5月、長浜の戦いで本山軍を破る。元親が初陣で武功を挙げる 14 。6月、国親が病死し、元親が家督を継承 19 。 |
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永禄6年 (1563) |
1月、茂辰、朝倉城を焼き払い、本拠地の本山城へ退却 9 。 |
元親、本山氏の諸城を攻略し、朝倉城を奪取。弟・親貞を吉良氏の名跡を継がせ、吉良城主とする 13 。 |
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永禄7年 (1564) |
茂辰、本山城を放棄し瓜生野城へ退却。同年、病死(異説あり) 9 。孫の貞茂(後の親茂)が跡を継ぐ。 |
元親、本山城を攻略 23 。 |
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元亀2年 (1571) |
当主・親茂(貞茂)、長宗我部氏に降伏。戦国大名としての本山氏は実質的に滅亡 3 。 |
本山氏を降伏させ、土佐中部の平定を完了 25 。 |
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天正14年 (1586) |
本山親茂、豊臣秀吉の九州征伐に従軍し、戸次川の戦いで討死。 本山氏の嫡流、断絶 9 。 |
当主・元親の嫡男・信親が戸次川の戦いで討死 9 。 |
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本山氏が土佐の歴史の表舞台で確固たる存在感を示すのは戦国時代に入ってからであるが、その出自については諸説あり、明確な定説を見ることは難しい。最も広く知られているのは、軍記物である『土佐物語』などが伝える、清和源氏の名門・吉良氏の庶流である八木氏を祖とする説である 9 。この説によれば、八木伊典なる人物が長岡郡本山郷に来住し、その子・養明、孫・茂宗の三代にわたって本姓を改め、地名にちなんで「本山」を称するようになったとされる 9 。この他にも、平氏の流れを汲むとする説や、古代の但馬国造の後裔である八木氏とする説も存在し、そのルーツは謎に包まれている 27 。
しかし、戦国時代の武将が自らの権威を高めるために、名門の系譜を自称、あるいは「創出」することは決して珍しいことではなかった。本山氏が、在地名である「本山」を名乗ったという事実 9 こそが、彼らが土佐の地に深く根を張った土着の国人領主であったことの何よりの証左と言えるだろう。高貴な出自の伝承は、茂宗の代に勢力を急拡大させた本山氏が、その支配を正当化し、他の国人たちに対して優位性を示すための戦略の一環であった可能性も否定できない。
いずれにせよ、茂宗の父とされる本山養明の時代には、一族は本山郷周辺の支配を固め、来るべき飛躍の時代に向けた確かな土台を築いていた 5 。茂宗の登場は、この養明が築いた基盤の上に、新たな時代を切り拓くための必然であったのかもしれない。
本山氏の勃興を理解する上で最も重要な鍵は、その地理的・経済的背景にある。彼らの本拠地であった長岡郡本山郷、すなわち現在の高知県本山町一帯は、四国山地の懐深くに位置し、平地に乏しい山間部であった 3 。戦国時代の経済の根幹をなし、軍事力を直接的に左右したのは米の収穫量、すなわち石高であったが 31 、本山氏の所領の大部分は生産力の低い山岳地帯であり、経済的な基盤は極めて脆弱であったと言わざるを得ない 3 。この地理的・経済的な制約こそが、本山茂宗に、より豊かで戦略的価値の高い南方平野部への進出を決意させた根源的な動機であった。
この南進戦略の拠点として、茂宗が白羽の矢を立てたのが、現在の高知市に位置する朝倉城であった。大永年間(1521-27年)頃、茂宗はこの地に城を築くか、あるいは既存の城を大規模に改修して拠点とした 6 。朝倉は高知平野の西端に位置し、交通の要衝であるだけでなく、浦戸湾に通じる港へのアクセスも容易であり、交易の利便性も高かった 3 。山間の領主であった本山氏にとって、この地を確保することは、経済基盤の抜本的な強化と、さらなる勢力拡大に向けた盤石な足掛かりを意味した。茂宗のこの一手は、単なる領土欲に駆られた軍事行動ではなく、一族の生存と発展を賭けた、極めて合理的な経済・軍事戦略であった。
茂宗の統治者としての非凡さは、その後の行動にも見て取れる。彼は伝統的な本拠地である本山城を嫡男の茂辰に譲り、自らはフロンティアである朝倉城に移り住み、新領土の直接経営にあたった 7 。これは、平野部の支配を確固たるものにし、そこから得られる経済的利益を最大化しようとする強い意志の表れである。この新たな拠点を足掛かりに、茂宗は南進をさらに加速させる。
その過程で最大の障害となったのが、吾川郡に勢力を張る土佐七雄の一角、土佐吉良氏であった。天文9年(1540年)頃、茂宗は好機を捉えて吉良氏に攻撃を仕掛ける。軍記物によれば、当主の吉良宣直が仁淀川へ狩猟に出て城を留守にしている隙を突き、軍を二手に分けて本城と当主自身を同時に攻撃するという、周到な計画に基づいた作戦でこれを完膚なきまでに打ち破り、滅亡に追い込んだ 7 。この勝利によって、本山氏は土佐中央部における支配権を確立し、その勢威は土佐国中に鳴り響くこととなったのである。
人物/勢力 |
本山茂宗 |
本山茂辰 |
長宗我部国親 |
長宗我部元親 |
一条房家 |
吉良氏 |
安芸国虎 |
本山茂宗 |
- |
父子 |
宿敵 |
宿敵 |
敵対/間接的協力 |
滅亡させる |
競合 |
本山茂辰 |
父子 |
- |
舅 |
義兄弟 |
仲介者 |
名跡僭称 |
競合 |
長宗我部国親 |
宿敵 |
婿 |
- |
父子 |
庇護者 |
競合 |
競合 |
長宗我部元親 |
宿敵 |
義兄弟 |
父子 |
- |
主家筋→敵対 |
名跡利用 |
滅亡させる |
一条房家 |
敵対/間接的協力 |
仲介者 |
庇護者 |
主家筋 |
- |
競合 |
競合 |
吉良氏 |
滅ぼされる |
名跡を僭称される |
競合 |
名跡を利用される |
競合 |
- |
|
安芸国虎 |
競合 |
競合 |
競合 |
滅ぼされる |
競合 |
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- |
本山茂宗の生涯、そして本山氏の運命を語る上で、長宗我部氏との関係は避けて通ることができない。両家の因縁は、茂宗が歴史の表舞台に登場する以前、永正6年(1509年)にまで遡る。この年、本山氏を含む連合軍は、当時岡豊城主であった長宗我部元親の祖父・兼序を攻撃し、自害に追い込んで岡豊城を落城させた 9 。この事件により、長宗我部氏は一時没落の憂き目に遭い、両家の間には消しがたい遺恨が刻まれた。
その後、長宗我部氏は土佐一条氏の庇護の下で再興を遂げ、国親の代には再び勢力を盛り返した 9 。これにより、南進して勢力を拡大する本山氏との衝突は避けられないものとなった。土佐国内の二大勢力による全面戦争の危機が高まる中、天文13年(1544年)、国内の安定を望む土佐国司・一条房家の仲介によって、両者の間に和議が結ばれる 5 。この和議の証として、茂宗の嫡男である茂辰のもとに、国親の娘が嫁ぐという政略結婚が成立した 9 。これは、互いに相手の実力を認めつつも、決定的な対決を先延ばしにしたい両者の思惑と、国人たちの争いを調停することで自らの権威を保とうとする一条氏の利害が一致した結果であった。
しかし、この政略結婚も、両家の根深い不信感を完全に払拭するものではなかった。特に、在地の実力でのし上がってきた茂宗にとって、中央の権威である室町幕府や、土佐一条氏との関係を利用して勢力を回復した長宗我部氏のやり方は、好ましいものには映らなかったであろう。後世の記録によれば、茂宗は長宗我部氏を「虎の威を借る野狐」と評したと伝えられている 36 。この言葉は、虎(幕府や一条氏)の威光を借りて振る舞う野狐(長宗我部氏)という痛烈な侮蔑であると同時に、そのしたたかさに対する強い警戒心を示すものであり、茂宗の気骨と人物像を雄弁に物語っている。
茂宗の覇権戦略は、長宗我部氏との対立だけに留まらなかった。彼は土佐国内のあらゆる勢力と、時に敵対し、時に協調するという複雑な外交を展開した。
その筆頭が、土佐国司として別格の権威を持っていた土佐一条氏である。茂宗は勢力拡大の過程で一条氏の軍と直接戦闘に及んだ記録もあり、当初は明確な敵対関係にあったことが窺える 7 。しかし、前述の通り、長宗我部氏との和睦においては一条房家の仲介を受け入れるなど、その権威を完全に無視するのではなく、自らの戦略のために利用する柔軟さも持ち合わせていた 7 。これは、戦国武将が旧来の権威と対峙しながらも、それを巧みに利用して自らの支配を正当化していく過程を示す好例である。
また、安芸郡の安芸国虎や高岡郡の津野基高といった、他の「土佐七雄」の動向も、茂宗の戦略に大きな影響を与えた。史料上、茂宗と安芸国虎が直接的にどのような関係にあったかを具体的に示すものは乏しい 7 。しかし、彼らは共に長宗我部氏の台頭を警戒する立場にあり、水面下での連携や牽制が行われていた可能性は高い。事実、茂宗という土佐中央部の「重し」が失われた後、これらの勢力は長宗我部元親によって次々と各個撃破されていく運命を辿る 5 。このことは、茂宗の存在が、長宗我部氏の膨張を抑止する上で、いかに大きな役割を果たしていたかを逆説的に証明している。茂宗の時代、土佐のパワーバランスは、彼の存在を軸に、かろうじて均衡を保っていたのである。
本山茂宗の治世において、本山氏はその歴史上、最大の輝きを放った。山間の本拠地から高知平野へと進出し、吉良氏を滅ぼしてその版図を拡大した結果、本山氏の所領は5千貫に達したと記録されている 26 。これは、公家大名である土佐一条氏を別格とすれば、当時の土佐国において他の追随を許さない最大勢力であり、「土佐一番の大名」と称されるにふさわしいものであった 1 。
この隆盛を支えたのは、紛れもなく茂宗個人の傑出した能力であった。軍記物『土佐物語』は、彼を「其の器傑出して、偏に興立の志あり」と高く評価している。さらに、「近辺の者に金銀衣食を与えてこれを懐け、諸士に賄いを厚くして親しみをなし、遂に人数を属す」と続き、彼が物質的な報酬と人間的な魅力の両方で人心を巧みに掌握していたことを伝えている 7 。また、敵対した領主であっても、降伏を願い出ればこれを赦して家臣団に加えるなど、硬軟織り交ぜた統治術は、多くの人々を惹きつけ、その勢力基盤を強固なものにした 7 。
多くの史料が彼を武勇と知略を兼ね備えた「知勇兼備の名将」と評しており 3 、その評価に疑いの余地はない。経済的に不利な状況から出発し、一代で一族を土佐の覇権を争う地位にまで押し上げた茂宗の生涯は、戦国乱世の理想的な立志伝中の人物像を体現していたと言えるだろう。彼の個人的な力量こそが、本山氏の栄光を支える最大の、そして唯一無二の柱であった。
栄華を極めた本山氏であったが、その運命はあまりにも唐突に暗転する。弘治元年(1555年)2月、一族の支柱であった本山茂宗が、南進の拠点・朝倉城で病に倒れ、この世を去ったのである 7 。享年48歳(数え年)。この偉大な指導者の死は、本山氏にとって計り知れない損失であり、土佐国内のパワーバランスを根底から揺るがす激震となった。
この好機を誰よりも鋭敏に察知したのが、宿敵・長宗我部国親であった。彼は茂宗の死を知るや、それまで結んでいた和議を事実上破棄し、本山領への軍事圧力を一気に強めた 16 。永禄3年(1560年)には、本山方の潮江の城兵が長宗我部氏の兵糧輸送船を襲撃して強奪するという事件が発生し、これを口実に両者の対立は決定的となった 14 。
そして同年5月、土佐戦国史の転換点となる「長浜の戦い」の火蓋が切って落とされる。長宗我部国親が本山方の支城である長浜城を調略によって鮮やかに奪取したことに端を発し、両軍の主力が長浜表の戸ノ本で激突した 9 。本山方は当主・茂辰が率いる2千余の軍勢であったのに対し、長宗我部方は国親とその嫡男・元親が率いる1千余と、兵力では劣勢であった 9 。
この戦いが、当時22歳であった長宗我部元親の初陣であった。それまで色白で物静かな性格から「姫若子(ひめわこ)」と揶揄されていた元親であったが、この戦場で彼は鬼神の如き働きを見せる 14 。家臣に槍の使い方を尋ねるほどの初々しさを見せながらも、いざ戦闘が始まると自ら精鋭を率いて敵陣の真っ只中に突入し、これを大いに切り崩した 14 。この元親の予想外の活躍が勝敗を決し、数で勝る本山軍は総崩れとなって敗走した 14 。
長浜での敗北は、本山氏の軍事的な衰退と、長宗我部氏の台頭を誰の目にも明らかにする象徴的な出来事となった 5 。茂宗という偉大な指導者を失った本山氏が、その勢いを急速に失っていく一方で、元親という新たな英雄を得た長宗我部氏が、土佐の歴史の主役へと躍り出た瞬間であった。本山氏の没落は、ここから加速度的に進行していく。
本山茂宗という絶対的な指導者を失った本山氏の衰退は、誰にも止められない濁流の如くであった。茂宗の後を継いだ嫡男・茂辰は、父が築いた遺産を守るべく奮闘するも、時代の流れはあまりにも過酷であった。長浜の戦いで手痛い敗北を喫した後、茂辰は浦戸城をも失い、平野部における最後の拠点・朝倉城に籠城する 12 。しかし、長宗我部元親は攻城戦を急がず、周辺の支城を一つずつ着実に攻略し、同時に本山氏の家臣団に調略の手を伸ばすという巧みな切り崩し戦略を展開した 19 。主家の劣勢を悟った家臣たちの離反が相次ぎ、孤立無援に陥った茂辰は、ついに朝倉城の維持を断念する 3 。永禄6年(1563年)1月、茂辰は自らの手で栄光の拠点であった朝倉城に火を放ち、一族の故地である北方の本山城へと退却していった 9 。
しかし、本山城も安住の地ではなかった。元親の追撃は執拗であり、本山城すらも支えきれなくなった茂辰は、さらに北方の険しい山中にある瓜生野城へと落ち延びる 3 。この絶望的な状況の中、心労が祟ったのか、永禄7年(1564年)に茂辰は病死したとされる(降伏後も生存したという異説もある) 9 。
茂辰の跡を継いだのは、その子・貞茂(後の親茂)であった。貞茂は「父に勝る勇将」と評されるほどの武勇の持ち主で、瓜生野城に籠って何度も長宗我部軍の攻撃を撃退し、一矢を報いた 9 。しかし、大勢を覆すには至らず、衆寡敵せず、元亀2年(1571年)についに元親に降伏。ここに、戦国大名としての本山氏は実質的に滅亡した 3 。
降伏後、貞茂はその武勇と、元親の姉の子(甥)という血縁から元親に気に入られ、その器量を高く評価された 19 。元親から「親」の一字を与えられて「親茂」と改名し、長宗我部家の一門衆という破格の待遇で迎え入れられ、元親の嫡男・信親の家老として仕えることになった 1 。かつての宿敵の懐に飛び込み、その重臣として生きる道を選んだのである。しかし、その生涯もまた、戦国の非情な運命に翻弄される。天正14年(1586年)、豊臣秀吉の九州征伐に長宗我部軍の一員として従軍した親茂は、豊後戸次川の戦いにおいて、主君である長宗我部信親を守って奮戦するも、島津軍の猛攻の前に信親と共に討死した 9 。これにより、本山茂宗から続いた本山氏の嫡流は、悲劇的な形で完全に途絶えることとなった。
本山一族の栄光と悲劇の物語は、土佐の地に今なおその痕跡を残している。茂宗が南進の拠点とし、一族の栄枯盛衰の舞台となった朝倉城跡は、現在も高知市にその姿を留めている。近年の発掘調査では、曲輪、巨大な竪堀や横堀、土塁といった遺構が確認されており、当時の堅固な山城の縄張りを偲ぶことができる 11 。特に、調査によって出土した15世紀後半から16世紀にかけての中国製陶磁器(白磁、青磁、青花)や国産の土器類は、茂宗の時代における城の活動を考古学的に裏付ける貴重な資料となっている 41 。これらの遺物は、本山氏が単なる山間の武士ではなく、海外との交易ルートにも連なる経済活動を行っていた可能性を示唆している。
本山茂宗の遺産は、物理的な遺構だけに留まらない。彼の名は、地域の歴史の中に深く刻み込まれている。茂宗の死から実に350年以上が経過した大正2年(1913年)、故地である本山町の有志たちの手によって「本山茂宗顕彰碑」が建立され、盛大な合同法要が執り行われた 1 。この時に読み上げられた祭文には、茂宗が「門閥傑出の士」であり、「其の遺芳、功績は千古不朽なり」と最大級の賛辞が記されている 36 。これは、彼が土佐統一の「敗者」として忘れ去られたのではなく、嶺北地方に善政を敷いた偉大な領主として、地域の人々によって永く記憶され、敬愛され続けてきたことの力強い証拠である。全国的な戦国史の大きな物語の中では脇役であっても、地域史というミクロの視点に立てば、彼は紛れもない英雄なのである。
本山氏の血脈が完全に絶えたわけではないことも、特筆すべきであろう。嫡流は戸次川で途絶えたが、その傍流は存続した。近代に入り、その血を引く子孫の中から、高知のシンボルである桂浜の坂本龍馬像や高知城の板垣退助像を制作した高知県を代表する彫刻家・本山白雲が輩出されている 30 。武によって一時代を築いた一族の血が、形を変えて文化・芸術の領域で花開いたこの事実は、歴史の不思議な巡り合わせを感じさせる。
本山茂宗とは、一体何者だったのか。彼の生涯を多角的に検証した結果、その人物像は、単一の言葉で定義できるほど単純ではないことが明らかになる。
一つの側面から見れば、彼は間違いなく「悲運の将」であった。自らの死後、あれほどまでに盤石に見えた勢力が、わずか十数年で瓦解し、宿敵・長宗我部氏に吸収される様は、戦国時代の無常を象徴している。長宗我部元親という、より大きな時代の奔流、より優れた組織力と戦略を持つ強者の前に、彼の築いた属人的なカリスマに依存した支配体制は脆くも崩れ去った。彼の死が、そのまま一族の没落に直結したという事実は、その支配の限界を物語っている。
しかし、別の側面から見れば、彼は紛れもなく「時代の創造者」であった。応仁の乱以降の権力空白地帯という混沌の中から、彼は自らの武勇と知略、そして人心掌握術によって新たな秩序を創り出した。経済的に恵まれない山間の国人領主という出自から、一代で土佐の覇権に手をかける「戦国大名」の域にまで一族を押し上げたその手腕は、驚嘆に値する。彼の南進戦略と朝倉城の経営は、旧来の枠組みに囚われない、極めて近代的で合理的な思考に基づいていた。
土佐の戦国史という文脈において、彼の存在を再評価することも重要である。本山茂宗という巨大な壁が存在したからこそ、長宗我部国親・元親父子はその勢力拡大において多大な苦心を強いられ、結果としてその戦略や組織をより強靭なものへと鍛え上げていった。茂宗は、元親が「土佐の出来人」へと飛躍するための、いわば最高の試金石であり、土佐の歴史を次のステージへと進めるための触媒の役割を果たしたとも言えるだろう。
最終的に、本山茂宗の物語は我々に二つの重要な教訓を提示する。一つは、一個人の傑出したリーダーシップが組織や地域の運命を劇的に好転させる力を持つ一方で、その力に過度に依存した体制がいかに脆弱であるかという、普遍的な組織論的教訓である。そしてもう一つは、歴史というものが、常に勝者の視点からのみ語られるべきではないということである。全国史の片隅に追いやられた敗者の物語に光を当てる時、そこには地域の人々によって語り継がれてきた、もう一つの豊かで誇り高い歴史が存在する。本山茂宗の探求は、土佐という一地方の歴史に留まらない、歴史と向き合う我々の姿勢そのものを問い直す、深遠な意義を内包しているのである。