最終更新日 2025-07-13

本泉寺蓮悟

本泉寺蓮悟:信仰と権力の狭間で散った悲劇の御曹司 ― 詳細調査報告書


序論

本泉寺蓮悟(応仁2年/1468年 – 天文12年/1543年) 1 は、日本の戦国時代において、巨大宗教勢力であった本願寺教団の権力闘争と、その政治構造の変質を一身に体現した人物として歴史に名を刻んでいる。彼の生涯は、父である本願寺中興の祖・蓮如が築き上げた、巧みな地方分権に基づく支配体制が、次世代の指導者による強力な中央集権化の波に飲み込まれていく激動の過程を、克明に映し出す鏡である。

父・蓮如は、その卓越した布教手腕と、実子である「一門衆」を全国の要衝に戦略的に配置する手法によって、本願寺を戦国大名に匹敵する一大勢力へと押し上げた 3 。しかし、その急成長と分権的な支配構造は、教団内部に権力分散という構造的な矛盾を必然的に内包させることになった。本泉寺蓮悟の栄光と悲劇は、この蓮如が遺した「偉大なる負の遺産」とも言うべき構造的課題と、分かちがたく結びついている。

本報告書は、蓮悟の生涯を単なる年代記として追うのではなく、彼の行動と運命を規定した三つの重要な軸、すなわち本願寺教団の内部力学、加賀国における「百姓の持ちたる国」の特異な統治構造、そして兄弟間の宿命的な対立、という観点から多角的に分析し、その歴史的意義を徹底的に解明することを目的とする。

【表1】本泉寺蓮悟 略年表

和暦

西暦

年齢

出来事

関連情報・出典

応仁2年

1468年

1歳

本願寺8世法主・蓮如の7男として誕生。

1

文明14年

1482年

15歳

長兄・順如の介添えにより得度し、養父・蓮乗から本泉寺を継承。

2

長享元年

1487年

20歳

加賀支配の拠点として、若松本泉寺を創建。

2

長享2年

1488年

21歳

長享の一揆で守護・富樫政親が滅亡。加賀が「百姓の持ちたる国」となる。

2

永正3年

1506年

39歳

北陸一向一揆の総指揮官として越前に侵攻するも、九頭竜川の戦いで朝倉宗滴に大敗。

6

大永5年

1525年

58歳

9世法主・実如が死去。10歳の証如が法主となり、兄・蓮淳が後見人として実権を掌握。

8

享禄4年

1531年

64歳

大小一揆(享禄の錯乱)が勃発。蓮淳の支援を受けた大一揆に敗北し、加賀から逃亡。

8

享禄5年

1532年

65歳

潜伏先の越前で嫡男・実教が毒殺される。

2

天文12年

1543年

76歳

破門を解かれぬまま、亡命先の和泉国堺にて死去。

2


第一章:誕生と本願寺一門における出自

第一節:父・蓮如と本願寺の拡大戦略

本願寺蓮悟の生涯を理解する上で、父である第8世法主・蓮如(1415-1499)の存在は不可欠である。蓮如は本願寺第7世存如の長男として生まれたが、母は寺の使用人であり身分が低かったため、6歳の時に生き別れるという複雑な幼少期を過ごした 11 。この出自に関する経験は、後に彼が身分の貴賤を問わず万人の平等を説き、多くの民衆の心を掴む布教スタイルを確立する一因となった可能性がある。彼は『御文(御文章)』と呼ばれる平易な仮名書きの手紙を用いて教えを広め、それまで青蓮院の末寺に過ぎず困窮していた本願寺を、全国に門徒を抱える巨大教団へと飛躍させた 3

蓮如の拡大戦略の核となったのが、彼自身の多くの子女、いわゆる「一門衆」の活用であった。蓮如は生涯に5人の妻を娶り、男子13人、女子14人、合計27人もの子宝に恵まれた 13 。彼はこの一門衆を、北陸や畿内といった教団の戦略的要衝に住持として配置し、現地の門徒組織を統括させることで、本願寺の勢力網を全国に張り巡らせた 16 。この手法は、各地域の実情に即した柔軟な支配を可能にする一種の封建的な分権体制であり、教団の安定と発展に大きく寄与した。しかしその一方で、中央である本願寺の統制力が相対的に弱まり、各地域の一門衆が半ば独立した権力を持つという構造的な問題を将来に残すことにもなった。

第二節:蓮悟の血脈と成長

蓮悟は応仁2年(1468年)、蓮如の7男として生を受けた 1 。諱は兼縁と称した 1 。母は蓮如の第二夫人である蓮祐尼で、彼女は室町幕府の政所執事を務めた名門・伊勢氏の出身(伊勢貞房の娘)であった 2 。この母方の高貴な血筋は、蓮悟に本願寺一門内での一定の権威を与えたと考えられる。彼の同母兄には、後に本願寺第9世法主となる実如(五男)、そして彼の生涯最大の政敵となる蓮淳(六男)がいた 13

蓮悟の経歴で特筆すべきは、幼くして異母兄である次兄・蓮乗の養子となったことである 1 。蓮乗は蓮如の第一夫人・如了尼の子で、越中井波瑞泉寺と加賀本泉寺という北陸における二大拠点を統括する重要人物であった 15 。この養子縁組は、単なる家族間の取り決めではなく、病弱であった蓮乗の後継者として蓮悟を明確に位置づけ、本願寺の北陸支配体制を盤石にするための、父・蓮如による高度な戦略的人事であったと推測される。文明14年(1482年)、蓮悟は15歳で長兄・順如を戒師として得度すると 2 、まもなく養父・蓮乗から寺務を譲り受け、若くして加賀本泉寺の住持となった。こうして彼は、北陸門徒を率いる本願寺教団の重鎮として、そのキャリアの第一歩を踏み出したのである 2

蓮悟の運命は、彼の出自そのものに内在する根本的な矛盾によって、生まれながらにして方向づけられていたと言える。彼は血筋の上では、本願寺指導部の中核をなす一族(蓮如の息子であり、将来の法主・実如や中央の実力者・蓮淳の弟)の一員であった 13 。しかし同時に、蓮如の統治戦略によって、教団の周縁部である北陸地方の権力者として派遣された 2 。中央の血を引きながら地方の領主でもあるというこの二重のアイデンティティは、やがて本願寺内部で中央と地方の利害が衝突した際に、彼をその渦中へと否応なく引きずり込むことになる。兄・蓮淳が本願寺の権力中央集権化を推し進めた時、強力で半独立的な加賀三ヶ寺の筆頭である蓮悟は、その政策の最大の障害として立ちはだかった。皮肉にも、父・蓮如から与えられた地方の有力者という役割そのものが、彼を兄の政治的野心と真っ向から対立させる原因となったのである。彼の悲劇は偶然の産物ではなく、彼が生まれ、与えられた役割の直接的な帰結であった。


第二章:加賀における権力基盤の確立

第一節:「百姓の持ちたる国」の形成

蓮悟が北陸の指導者となった時代、加賀国は大きな歴史的転換点を迎えていた。文明6年(1474年)、加賀守護・富樫政親は弟・幸千代との家督争いに際し、蓮如率いる本願寺門徒の力を借りて勝利を収めた 4 。しかし、その後、門徒たちの強大な組織力を恐れた政親は、一転して弾圧政策に乗り出す。これに反発した門徒たちは大規模な一揆を組織し、長享2年(1488年)、高尾城に籠城する政親を攻め滅ぼした 5 。この「長享の一揆」により、加賀は守護大名の支配を完全に排除し、本願寺門徒を中心とする「百姓の持ちたる国」と呼ばれる、約100年間にわたる事実上の自治体制(惣国一揆)へと移行したのである 4

この歴史的激動の直前、長享元年(1487年)、蓮悟は一つの重要な決断を下していた。彼は、それまで山間の二俣にあった本泉寺 21 を、加賀平野の中心部に位置し、交通の要衝でもある河北郡若松荘へと移転させたのである 2 。この移転は、単に不便な場所から便利な場所へ寺を移したというだけではない。浅野川水系の水運を利用した流通路を確保し、広大な加賀国内からの門徒の参集や物資輸送の利便性を格段に向上させるという、明確な戦略的意図があった 2 。この若松本泉寺こそ、以後、蓮悟の権力を象徴する拠点となった。

第二節:賀州三ヶ寺体制と蓮悟の役割

富樫氏という世俗権力が消滅した後の加賀国は、本願寺一門による神政政治体制へと移行した。その統治の中核を担ったのが、蓮悟が住持を務める若松本泉寺と、彼の三兄・蓮綱が住持を務める波佐谷松岡寺であった 16 。この二つの寺院は「両御山」と称され、加賀門徒の最高指導部として君臨した 2 。さらに、四兄・蓮誓の山田光教寺 16 もこれを補佐する役割を担い、これら三つの寺院は「賀州三ヶ寺」として、加賀一向一揆の頂点に立つ統治機関となった 16

賀州三ヶ寺の権力は、単なる宗教的権威に留まるものではなかった。彼らの支配を実効的なものにしていたのは、「郡中」と呼ばれる在地武士層との緊密な連携である。「郡中」とは、加賀国内の郡単位で組織された本願寺門徒の武士団であり、賀州三ヶ寺はこの郡中を巧みに組織化し、指導下に置くことで、軍事・政治両面にわたる強力な支配力を確立した 2 。蓮悟と蓮綱が、京都の天龍寺が所有する荘園の代官として、年貢未進問題の解決を依頼されたという記録が残っているが 2 、これは彼らが単なる高僧としてではなく、加賀国における事実上の統治者として外部の権力からも公式に認識されていたことを示す動かぬ証拠である。

この「百姓の持ちたる国」の統治は、僧侶(一門衆)、武士(郡中)、そして農民や商人といった多様な階層の人々が一体となった、一種の合議制的な性格を持っていたとされる 24 。本願寺の教義を精神的支柱としながらも、地域の国人たちの利害を調整し、国を運営する高度な政治的機能を担っていたのである 25 。蓮悟は、この複雑で強大な統治システムの最高指導者の一人として、加賀国に君臨した。

蓮悟が加賀で築き上げた権力は、本願寺教団の歴史における重大な転換点を象徴している。それは、教団が純粋な信仰共同体から、領土を支配し、統治機能を持つ政治権力、すなわち事実上の神政国家へと変貌を遂げたことを意味する。1488年の守護・富樫政親の打倒は加賀に権力の空白を生み出し 2 、蓮悟とその兄弟たちがその空白を見事に埋めた。彼らの権力は、宗教的正当性を提供する寺院と、軍事・行政力を提供する在地武士「郡中」との共生関係の上に成り立っていた 2 。この「国家内国家」ともいえる体制の成功は、加賀を非常に豊かで強力な地域へと押し上げた。しかし、その成功は逆説的に、加賀を本願寺中央にとって見過ごすことのできない魅力的な標的へと変えてしまった。蓮悟が築き上げた統治体制の完成度の高さこそが、後の内部対立の舞台を整え、彼自身の失脚を招く遠因となったのである。


第三章:北陸一向一揆の総指揮官として

第一節:永正三年(1506年)越前侵攻の背景

加賀国を完全に掌握した本願寺勢力にとって、東に隣接し、宿敵である朝倉氏が支配する越前国は、常に脅威であり、また攻略すべき対象でもあった。両者の間では、国境地帯で小規模な衝突が絶えなかった 7 。永正3年(1506年)に蓮悟が主導した大規模な越前侵攻は、こうした長年の対立関係が頂点に達した出来事であった。

しかし、この侵攻は単なる地域紛争に留まらない、より大きな政治的文脈の中に位置づけられる。当時、畿内で絶大な権勢を誇っていた管領・細川政元は、対立勢力と結びつきのあった越前の朝倉氏を牽制するため、本願寺に協力を要請した 2 。蓮悟が指揮した越前侵攻は、この細川政元との政治的連携の一環であり、本願寺がもはや一宗教勢力ではなく、中央の政争にも積極的に関与する有力な政治プレーヤーであったことを明確に示している。この壮大な軍事行動の口火を切るべく、蓮悟は加賀、越中、能登の全門徒に向けて檄を飛ばし、一斉蜂起を促した 26 。その軍勢は30万と号されたが、これは実数ではなく、敵を威圧し、味方の士気を最大限に高めるための誇張表現であった可能性が高い 7

第二節:九頭竜川の戦い ― 大敗とその衝撃

永正3年(1506年)7月、蓮悟率いる一向一揆軍は越前国内へ侵攻し、九頭竜川を挟んで朝倉軍と対峙した 7 。一揆軍は圧倒的な兵員数を誇ったが、その内実は武装した農民や浪人を多く含む「烏合の衆」であり、統率や戦術面で大きな課題を抱えていた 28 。対する朝倉軍は、総大将に名将・朝倉宗滴(教景)を戴き、数こそ1万数千と劣るものの、訓練された精兵で固められていた 7

8月6日の未明、戦況は動く。朝倉宗滴は、数の上で劣る自軍が勝利するには奇襲しかないと判断し、一揆軍の油断を突いて夜陰に乗じた九頭竜川の強行渡河作戦を決行した 7 。伝承によれば、まず屈強な騎馬武者を川上に並べて急流の勢いを弱め、その下流を歩兵たちが互いに手や弓を取り合って渡るという、極めて統率の取れた戦術が用いられたという 30 。全く予期せぬ敵の出現に、一揆軍の陣営は大混乱に陥り、組織的な抵抗もままならないまま総崩れとなった 29

この九頭竜川の戦いにおける敗北は、蓮悟と本願寺勢力に深刻な結果をもたらした。

第一に、一揆軍は文字通り壊滅的な打撃を受け、加賀へと敗走した7。この大勝利によって、朝倉氏は越前における支配体制を盤石なものとした。

第二に、勢いに乗った朝倉軍は、かつて蓮如が北陸布教の拠点とした越前吉崎御坊をはじめ、本覚寺、超勝寺といった越前国内の本願寺系寺院をことごとく破却した7。これにより、本願寺は越前における重要な拠点をすべて失った。

そして第三に、この敗戦が将来の内部対立の火種を生んだことである。拠点を失い、加賀へと逃げ延びた本覚寺・超勝寺の門徒たちは、蓮悟ら加賀三ヶ寺の統治下で、故郷を失った不満分子となった。彼らの急進的な思想と、失地回復への渇望は、25年後に勃発する「大小一揆」において、蓮悟に敵対する「大一揆」の中核勢力を形成する直接的な遠因となったのである7。

九頭竜川の戦いは、蓮悟にとって単なる軍事的な敗北ではなかった。それは、彼の最終的な失脚の種を直接的に蒔いた、破滅的な政治的失敗であった。加賀権力ブロックの最高指導者として、彼は越前侵攻の全責任を負っていた 6 。しかし、彼は当代きっての戦術家である朝倉宗滴の前に完膚なきまでに打ち破られた 7 。その結果は、越前における本願寺の基盤、特に本覚寺と超勝寺の完全な破壊につながった 7 。これらの寺院の信者たちは、加賀への亡命を余儀なくされ、自分たちをこの災厄に導いた張本人である蓮悟の権威の下で暮らす、土地を失い憤慨した集団となった。25年後、蓮悟の兄・蓮淳が加賀三ヶ寺の権力を打倒するための駒を探したとき、彼はこの亡命者集団という格好の道具を見出すことになる 9 。1506年の蓮悟の軍事的失敗が、1531年に彼を破滅させるために使われた政治的武器を、皮肉にも彼自身の手で生み出してしまったのである。


第四章:享禄の錯乱 ― 兄弟の対立と教団の内紛

第一節:権力構造の変化と対立の萌芽

九頭竜川での敗北から25年後の大永5年(1525年)、本願寺教団の権力構造を根底から揺るがす出来事が起こる。第9世法主であった実如(蓮悟の同母兄)が死去し、その跡をわずか10歳の証如が第10世法主として継承したのである。この幼い法主の後見人として教団の全実権を掌握したのが、証如の外祖父(母方の祖父)にあたる蓮淳、すなわち蓮悟のもう一人の同母兄であった 8

権力の頂点に立った蓮淳は、父・蓮如が築いた分権的な一門支配体制を抜本的に改革し、法主(そしてその後見人である自身)への権力集中を強力に推し進めた 33 。彼は、本願寺中央の意向に従わない地方寺院に対し、「破門」という宗教的権威を武器として濫用し、強権的に統制を図るなど、中央集権化を断行した 33 。この蓮淳の政策は、加賀国において半独立的な巨大権力を享受していた蓮悟ら賀州三ヶ寺にとって、自らの既得権益を根底から覆しかねない深刻な脅威であった 8 。ここに、本願寺教団の支配体制のあり方を巡り、中央集権を志向する蓮淳と、地方分権を維持したい蓮悟という実の兄弟が、それぞれ中央と地方の利害を代表する形で、宿命的に対立する構図が完成した。

第二節:大小一揆の勃発

享禄4年(1531年)、加賀国内で燻っていた対立は、ついに大規模な武力衝突へと発展した。この本願寺教団史上最大の内紛は、両派の規模から「大小一揆」、あるいは年号をとって「享禄の錯乱」と呼ばれる 17

その対立構造は複雑であった。

一方の「小一揆」は、蓮悟の本泉寺、蓮綱の松岡寺、そして蓮誓の子・顕誓が継いだ光教寺の賀州三ヶ寺を中心とする勢力である。彼らは加賀の在地武士層である「郡中」を支持基盤とし、さらに越前の朝倉氏や能登の畠山氏といった周辺の世俗大名とも連携していた。彼らの目的は、既存の統治体制を維持することにあり、「現状維持派」と言うことができる8。

対する「大一揆」は、かつて九頭竜川の戦いで敗れて越前から追放された、本覚寺・超勝寺の門徒たちを中核としていた。彼らは失地回復と教団内での地位向上を目指す急進的な集団であった。この「急進派」に、中央の蓮淳と、彼の意を受けた本願寺の坊官(家老格)・下間頼秀、頼盛兄弟が加担し、全面的に支援した 9

【表2】大小一揆(享禄の錯乱)対立構造図

大小一揆は、複数の主体と動機が絡み合う複雑な内乱であった。この対立構造を視覚的に整理することで、地方の既成勢力(小一揆)と、中央が支援する急進派(大一揆)との間の核心的な対立が浮き彫りになる。

小一揆 (Shō-ikki / 小さい一揆)

大一揆 (Dai-ikki / 大きい一揆)

指導者

本泉寺蓮悟、松岡寺蓮綱、光教寺顕誓

超勝寺実顕、本覚寺蓮恵

中核勢力

賀州三ヶ寺、加賀の在地国人(郡中)

越前からの亡命門徒衆(旧本覚寺・超勝寺)

支援勢力

越前・朝倉氏、能登・畠山氏、加賀守護・富樫氏

本願寺中央(蓮淳、下間頼秀・頼盛兄弟)

基本的立場

加賀における既存の統治体制の維持(地方分権)

本願寺中央による直接支配の強化(中央集権)

出典

8

9

第三節:戦闘の経過と小一揆の壊滅

享禄4年(1531年)閏5月、本願寺中央からの援軍を得て勢いづいた大一揆側が、ついに攻勢を開始した 9 。戦闘は熾烈を極めたが、戦局は大一揆側に有利に進んだ。

7月、大一揆軍は波佐谷松岡寺を奇襲して陥落させ、住持の蓮綱らを自害に追い込み、寺を完全に滅亡させた8。続いて山田光教寺も攻撃され、住持の顕誓は越前へ逃亡したものの捕縛され、寺は廃寺処分となった36。

そして7月29日、小一揆最後の拠点であった蓮悟の若松本泉寺も、大一揆軍の総攻撃を受けて炎上した5。蓮悟は、彼を養子としていた弟の実悟(蓮如の十男)と共に、辛うじて戦場を脱出し、同盟関係にあった能登の畠山氏を頼って落ち延びた8。

この敗北により、父・蓮如の時代から約半世紀にわたって加賀国を統治してきた賀州三ヶ寺体制は、完全に崩壊した。大小一揆は、本質的に、中央の本願寺指導部(蓮淳)が、半独立状態にあった地方政府(蓮悟の加賀三ヶ寺)を武力で解体するために画策した政権交代劇であった。それは、権力と富を中央の管理下に統合するという純粋に政治的な目的を達成するため、宗教的な対立を口実にし、過激化した内部派閥を軍事的な道具として利用した、計算され尽くしたクーデターだったのである。蓮悟は単に戦いに敗れたのではない。彼が築き上げ、象徴でもあった政治システムそのものが、実の兄の手によって転覆させられたのである。


第五章:破門、流転、そして死

第一節:追われる身として

大小一揆に敗れ、加賀国から追放された蓮悟であったが、兄・蓮淳による追及の手は緩むことがなかった。その執拗さは、彼の血脈を根絶やしにしようとする冷徹な意志の表れであった。享禄5年(1532年)1月、蓮悟が最も愛したとされる嫡男・実教は、潜伏先の越前において毒殺された 2 。これは単なる報復ではなく、蓮悟の家系を断絶させ、将来にわたる再起の可能性の芽を完全に摘み取るための、非情な政治的暗殺であった。

最愛の息子を失った蓮悟自身は、辛うじて追手を逃れ、当時いかなる大名の権力も及ばないとされた「アジール(聖域)」、すなわち自治都市・和泉国堺へと逃げ込んだ 2 。蓮淳ら本願寺中央も、堺の持つ特殊な地位と独立性を考慮し、この地にまで手を出すことはできなかったとされる 10 。蓮悟は、この「自由都市」に身を潜めることで、かろうじてその命脈を保つことができた。

第二節:破門の意味と晩年

蓮悟を肉体的、社会的に追い詰めただけでなく、精神的にも完全に打ちのめしたのが「破門」という処分であった。本願寺教団における破門は、単に教団から追放されることを意味しない。信者にとって、それは来世での救済、すなわち「往生成仏」の可能性を否定されることに等しく、信仰に生きる人間にとって最大の精神的苦痛であった 33 。さらに、それは門徒で構成される社会共同体からの完全な追放、すなわち社会的死をも意味した。蓮悟は、かつて君臨した国の権力、財産、そして家族だけでなく、信仰上の救済という最後の希望までも、兄の手によってすべて奪われたのである。

その後、蓮悟が赦免されることは二度となかった。天文12年(1543年)7月16日、彼は亡命先の堺で、零落したまま76年の波乱に満ちた生涯を閉じた 2 。父が築き上げた北陸の巨大な王国に君臨した男の最期は、あまりにも孤独で無残なものであった。

興味深いことに、蓮悟の死後、彼が深く関わった本泉寺は二つに分かれて再興されている。蓮悟自身が創建した若松本泉寺は、大坂の地に再建され 21 、そして元々の発祥の地である二俣には二俣本泉寺として復興し、現在に至っている 21 。これは、蓮悟が築いた権力基盤とその原点の両方が、形を変えながらも後世に伝えられたことを示しており、彼の歴史から完全に抹殺されたわけではないことを物語っている。

蓮悟の最晩年は、彼の敗北が政治的・軍事的領域をはるかに超え、完全な実存的破滅であったことを示している。息子の暗殺は彼の未来を破壊し、破門は彼の過去と永遠の魂を破壊した。それは、現世と来世の両方において人を断罪できる、神政的権威の恐るべき力をまざまざと見せつけるものであった。堺での彼の孤独な死は、家族、権力、そして信仰そのものから切り離された、彼の完全な疎外を象徴している。


結論

本泉寺蓮悟の生涯は、しばしば「弟(兄)との権力争いに敗れた悲劇の人物」という単純な物語として語られがちである。しかし、本報告書で詳述したように、彼の人生はより複雑で、深い歴史的意味を内包している。彼は、父・蓮如の拡大路線を忠実に実行し、加賀に「百姓の持ちたる国」という巨大な自治王国を築き上げた、有能な統治者であった 2 。しかし、皮肉なことに、その統治者としての成功こそが、本願寺教団が中央集権的な政治権力へと変貌を遂げる過程で生じた内部矛盾の最大の犠牲者となる運命を、彼に背負わせたのである。

蓮悟の悲劇は、個人の資質や兄弟間の個人的な不和だけに帰結するものではない。それは、信仰が巨大な権力と富を生み出した時、その支配のあり方を巡って必然的に発生する構造的な権力闘争であった。父・蓮如が蒔いた「地方分権」という種と、兄・蓮淳が推し進めた「中央集権」という時代の論理が激突したとき、その最前線に立たされた蓮悟の敗北は、ある意味で歴史の必然であったとも言える。

彼の人生は、信仰と権力、中央と地方、そして家族の絆と骨肉の争いが複雑に絡み合った、戦国という時代の特質を鮮やかに映し出す鏡である。一人の高僧の栄光と転落の物語を通して、我々は戦国期における宗教勢力の世俗権力化という、日本史の大きな転換点の一つを目撃するのである。

引用文献

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  22. 二俣本泉寺 - つとつとのブログ - Seesaa https://tsutotsuto.seesaa.net/article/201306article_10.html
  23. Untitled https://otani.repo.nii.ac.jp/record/3673/files/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%AD%B8%E5%A0%B1%20%E7%AC%AC34%E5%B7%BB%E7%AC%AC2%E5%8F%B7-05%E5%8C%97%E8%A5%BF.pdf
  24. (前説) 戦国時代、わたしたちの祖先が活躍した松任城を知っていますか。 加賀の国の人々は https://www.city.hakusan.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/002/820/talk1.pdf
  25. 蓮如の布教・一向一揆・能登への伝播 https://geo.d51498.com/CollegeLife-Labo/6989/JoudoShinshuu.htm
  26. 第9回 越前朝倉氏と九頭竜川合戦 - 北陸経済研究所 https://www.hokukei.or.jp/contents/pdf_exl/hokuriku-rekishi2505.pdf
  27. 九頭龍川の合戦 - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/Kuzuryuugawa.html
  28. 【戦国軍師入門】九頭竜川大会戦――30倍の勢力差を逆転 - 攻城団 https://kojodan.jp/blog/entry/2020/09/29/180000
  29. 本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑧ 越前朝倉氏との死闘「九頭竜川の戦い」 https://negorosenki.hatenablog.com/entry/2025/06/05/091229
  30. 朝倉宗滴 名軍師/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/90086/
  31. 九頭竜川の戦い【30万の軍勢を打ち破った空前の大決戦】 - 土岐日記 https://ibispedia.com/kuzuryugawanotatakai
  32. 超勝寺・本覚寺の両寺末寺帳から見た 越前諸寺院の近世における動向について - 福井県立図書館 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/tosyo/file/614690.pdf
  33. 中世末期における蓮如像の形成 https://otani.repo.nii.ac.jp/record/5900/files/28_149.pdf
  34. 享禄・天文の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AB%E7%A6%84%E3%83%BB%E5%A4%A9%E6%96%87%E3%81%AE%E4%B9%B1
  35. 加賀の一向一揆⑦享禄の錯乱から尾山御坊建立まで | 市民が見つける金沢再発見 https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12575846645.html
  36. 加賀 山田光教寺-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/kaga/yamada-kokyo-ji/
  37. 真宗寺院の門前町として歴史を歩んできました。 https://futamata.jimdofree.com/%E4%BA%8C%E4%BF%A3%E7%94%BA%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/