戦国時代の九州は、大友、大内、島津という三大勢力が覇を競う激動の舞台でした。その中で、豊後国(現在の大分県)を拠点に、一時は九州六カ国の探題にまで上り詰めた大友氏の権力基盤は、傑出した当主の指導力のみならず、彼らを支えた有能な家臣団によって強固に築かれていました。しかし、大友宗麟のような著名な当主の影で、その礎を築いた重臣たちの実像は、歴史の中に埋もれがちです。
本報告書では、大友義長・義鑑の二代にわたり、宿老として政治・外交・軍事の全般で活躍した本荘右述(ほんじょう すけのぶ)という人物に焦点を当てます。右述は、大友家の最高意思決定機関である加判衆(かはんしゅう)の一員として政務を担い、筆頭宿老として中央の室町幕府との交渉を統括し、さらには大友氏の宿敵・大内氏との最前線である筑後国に出陣するなど、その活動は多岐にわたります [1].
しかしながら、彼の具体的な功績や生涯の全体像は、断片的な史料の中に散在しているのが現状です。本報告書は、これらの史料を丹念に読み解き、一人の重臣の軌跡を再構築することを試みます。その生涯を追うことは、単に一個人の伝記を明らかにするに留まりません。それは、大友氏が守護大名から戦国大名へと飛躍を遂げた時代の権力中枢が、いかにして機能していたのか、その実態に迫ることを目的とします。
和暦(西暦) |
年齢(推定) |
本荘右述の動向および関連事項 |
関連する大友家当主 |
典拠・史料 |
文明元年(1469) |
1歳 |
誕生(推定)。父は本荘繁栄。 |
大友親繁 |
[1, 2] |
明応5-10年頃(1496-1501) |
28-33歳頃 |
大友義右より偏諱を賜り「右述」と名乗る(推定)。 |
大友義右 |
[2] |
永正5年(1508) |
40歳 |
大友氏年寄(加判衆)として、坂折秀家らと共に奉書に連署。 |
大友義長 |
[3] |
永正15年(1518) |
50歳 |
大友義長が死去し、義鑑が家督を継承。引き続き宿老として仕える。 |
大友義鑑 |
[4] |
大永8年(1528) |
60歳 |
伊賀守を名乗る。臼杵長景と共に島津忠朝へ書状と贈答品を送付。 |
大友義鑑 |
[5] |
享禄4年-天文3年頃(1531-34) |
63-66歳頃 |
大内氏との抗争が激化。加判衆として筑後方面の軍事を統括。 |
大友義鑑 |
[6, 7] |
天文8年(1539) |
71歳 |
死去(推定)。 |
大友義鑑 |
[1] |
(参考) 天文19年(1550) |
― |
(死後) 二階崩れの変が勃発。大友義鑑が死去し、義鎮(宗麟)が家督継承。 |
(大友義鎮) |
[8] |
本荘右述の生涯にわたる活躍の基盤は、彼個人の才覚のみならず、父の代から築き上げられた本荘家の政治的地位に深く根差していました。
右述の父は、本荘繁栄(ほんじょう しげはる/しげひで)という人物であったことが記録されています [2]。繁栄は、大友氏第15代当主・大友親繁(おおとも ちかしげ、1411-1493)の治世において、年寄衆(としよりしゅう、家老などの重臣で構成される合議体)の一員を務めていました [2]。この事実は、本荘家が右述の代に突如として歴史の表舞台に登場したのではなく、少なくとも父の代から大友家の中枢で重きをなしていたことを示しています。
親繁が家督を継承した15世紀半ばは、応仁の乱(1467-1477)へと向かう中央政局の混乱が地方にも波及し、国内の統制が揺らぎ始めた時期でした。このような時代において、年寄衆として主君を支えた繁栄の存在は、本荘家が、大友氏が戦国乱世を生き抜くための権力基盤を再編・強化していく過程で、重要な役割を担っていたことを物語っています。
本荘右述のキャリアの原点と、本荘家の政治的地位を象徴するのが、彼の名前に含まれる「右」の一字です。史料によれば、右述は、大友氏第17代当主・大友義右(おおとも よしすけ/よしう)から偏諱(へんき、主君が家臣に自らの名前の一字を与えること)を賜ったとされています [2]。つまり、「右述」の「右」は、主君・義「右」に由来するものであり、これは主君から家臣へ与えられる最高の栄誉の一つでした。
この偏諱が授けられた時期を考察すると、その政治的意味合いが一層明確になります。大友義右の当主在任期間は、明応五年(1496年)から長享三年もしくは明応十年(1501年)頃までと比較的短く、その治世は決して安泰ではありませんでした。父・政親の死後、叔父にあたる大友親治との間で家督を巡る対立があり、その地位は常に不安定な状況に置かれていました [9]。
このような政治的に緊迫した状況下で、当主が若き日の右述(当時20代後半から30代前半と推定)に自らの諱の一字を与えた行為は、単なる儀礼的なものではありませんでした。それは、父・繁栄の代からの忠勤に報いると同時に、有力な譜代家臣である本荘家を自らの確固たる支持基盤として取り込み、政権を安定させようとする義右の明確な政治的意図の表れであったと分析できます。一方、本荘家にとっても、新当主から偏諱を授かることは、家格の高さを内外に示すとともに、新たな主君への忠誠を誓う重要な機会でした。
したがって、「右述」という名は、彼が主君から格別の信頼を寄せられた重臣であったことを示す「生きた証拠」であると同時に、大友宗家の家督継承というデリケートな問題にも関与しうる、本荘家の高い政治的地位を物語るものと言えます。右述の生涯にわたる活躍の礎は、この時点で既に固く築かれていたのです。
元服し、主君との強固な関係を築いた右述は、大友義長(義右の跡を継いだ当主)・義鑑の時代に、その政治的手腕を本格的に発揮していきます。彼の活動の中心となったのが、大友家の最高政務機関である「加判衆」としての役割でした。
右述が加判衆として活動していたことを示す直接的かつ極めて重要な史料が、九州大学附属図書館に所蔵されている「大友氏年寄連署奉書」です [3]。この古文書は、永正五年(1508年)十一月三日付で発給されたもので、当時40歳であった右述が、既に大友家の政策決定を担う中枢にいたことを明確に示しています。
この奉書(ほうしょ、上位者が下位者へ出す命令書)には、本荘右述の名に加え、坂折秀家、朽網親満、一万田常泰といった、当時の大友家を代表する宿老たちの名が連署されています [3]。彼らはいずれも大友氏の庶流や有力な譜代家臣であり、それぞれが領内に強固な勢力基盤を持つ一族でした [9]。右述がこれらの重鎮たちと肩を並べて連署している事実は、彼が家中で極めて高い地位にあったことを裏付けています。
また、この奉書の宛所が、守護の代理人である守護代官や、筑後の有力国人領主である草野太郎となっている点も重要です [3]。これは、加判衆が単なる諮問機関ではなく、大友当主の意思を受け、領国支配の具体的な指示を国人衆や代官に伝達する、実務的な執行権能をも有していたことを示しています。
加判衆の最大の特徴は、当主が発給する文書に連署し、その内容に政治的な正当性と権威を与える点にあります。このシステムは、当主の権力を補佐し、その命令を円滑に執行させる機能を持つと同時に、有力家臣団の合意形成を促し、当主の独断専行を抑制するという、権力分担の側面も持っていました。つまり、加判衆による連署は、大友家の統治が「合議制」によって支えられていたことを示唆します。
右述が仕えた大友義長・義鑑の時代は、西の宿敵・大内氏との抗争が激化し、領内では国人一揆が頻発するなど、内憂外患の絶えない多難な時期でした [4, 8]。このような不安定な情勢下において、加判衆による安定した政務運営は、大友氏の領国支配の根幹を支える生命線でした。
本荘右述は、この合議制システムの中核を担う、いわば「宰相」として、他の重臣たちと時には協調し、時には対立しながら、大友家の政策を形作っていったと考えられます。彼の政治力は、単に当主からの個人的な信任に依存するものではなく、他の有力家臣たちとの複雑な力学の中で発揮されたものであり、戦国大名家のリアルな権力構造を垣間見せます。右述の存在は、大友氏の政治基盤の安定に不可欠なものであったと言えるでしょう。
内政を安定させる一方で、本荘右述は外交の舞台でもその手腕を発揮しました。彼の視線は豊後国内に留まらず、北は京の室町幕府、南は薩摩の島津氏へと向けられ、大友家の対外的な地位向上と安全保障に大きく貢献しました。
右述は「筆頭宿老として幕府交渉を統括した」と評価されています [1]。戦国時代中期、室町幕府の権威は大きく揺らいでいましたが、守護職の任命権や官位の授与など、その権威は地方の戦国大名にとって、自らの領国支配の正当性を内外に示す上で依然として重要な価値を持っていました [10]。
研究によれば、大友義長は3つ、義鑑は8つの幕府官職や栄典を獲得しています [11, 12]。これらは、大友氏側から申請したものと、幕府側から与えられたものがありましたが、いずれの交渉においても、中央の政治情勢を的確に把握し、効果的な献金などを行う必要がありました。これらの複雑な交渉の背後で、右述が中心的な役割を果たしていたことは想像に難くありません。彼の尽力によって、大友氏は幕府との公式な関係を維持し、九州における対外的な権威を高めることに成功したのです。
右述の外交活動を具体的に示す一級史料が、大永八年(1528年)八月十一日付で、薩摩の島津氏当主・島津忠朝に宛てられた「臼杵長景・本庄右述連署書状写」です [5]。この書状は、右述が同僚の重臣・臼杵長景と共に、島津氏との外交交渉に直接あたっていたことを示しています。
この中で右述らは、贈答品として沈香(じんこう)十両と唐扇(からおうぎ)二本を島津氏に送っています [5]。沈香や唐扇は、当時極めて高価な輸入品(唐物)であり、これらを贈る行為は、単なる儀礼的な挨拶以上の意味を持ちます。それは、大友氏の豊かな経済力と高い文化的水準を誇示する「ソフト・パワー」を用いた、高度な外交戦略の一環でした。
この書状が送られた1528年頃、大友氏は北部九州の覇権を巡り、大内氏と激しい軍事衝突を繰り返していました [7, 13]。このような状況で、南九州の雄である島津氏が敵に回ることは、二正面作戦を強いられることになり、大友氏にとって致命的な事態を招きかねません。後に大友氏と島津氏は耳川の戦い(1578年)で激突しますが [14]、この時点ではまだ全面対決には至っておらず、緊張関係を管理する必要がありました。
したがって、この贈答品を伴う書状は、軍事的な緊張を緩和し、島津氏との友好関係を再確認することで、背後の安全を確保し、大内氏との戦いに全戦力を集中させるための、極めて戦略的な環境整備であったと分析できます。これは、武力だけでなく、文化や経済力を外交ツールとして駆使できる、右述の洗練された交渉家としての一面を浮き彫りにします。
また、この書状の中で右述は「伊賀守(いがのかみ)」という受領名(ずりょうめい)を名乗っています [5]。これは彼の格式の高さを示すものであり、大友家を代表する外交官としての公的な地位を裏付けるものです。
宰相として、また外交官として活躍した本荘右述は、同時に戦場の指揮官という顔も持っていました。彼の文武両道ぶりは、大友氏の積年の課題であった対大内氏政策、特に筑後国を巡る攻防において遺憾なく発揮されました。
筑後国(現在の福岡県南部)は、豊後を本拠とする大友氏と、周防・長門を本拠とし、当時すでに筑前国(福岡県西部・北部)を勢力下に置いていた大内氏の力が直接衝突する、地政学的に極めて重要な最前線でした。この地の支配権を巡り、両氏は永正年間(1504-1521)から享禄・天文年間(1528-1555)にかけて、一進一退の激しい攻防を繰り広げます [7, 8]。
特に右述が仕えた大友義鑑は、弟を肥後守護の菊池氏へ養子として送り込むなど、筑後・肥後方面への勢力拡大を積極的に推し進めていました [8]。そのため、筑後国を安定的に支配することは、大友氏の九州戦略全体の要でした。
大内氏との戦いにおける右述の役割は、単なる一武将として前線で戦うことに留まりませんでした。ある史料によれば、大内方の重臣である陶氏や杉氏が筑前国境に軍を進めてきた際、大友方は田北親員、山下長就、臼杵鑑続といった将を国境地帯へ派遣しました [6]。そして、この軍事行動の文脈で、「本荘伊賀守(右述)など加判衆クラス」の人物が関与していたことが明確に記されています [6]。
この記述は極めて重要です。現場で直接部隊を率いる田北氏らと、右述ら「加判衆クラス」が区別して言及されていることは、右述が最前線にありながらも、より高次の立場、すなわち方面軍全体の作戦を統括・指導する司令官として派遣されていたことを強く示唆します。
戦国時代の、特に国境地帯における紛争は、単なる兵力の衝突だけで決着がつくものではありませんでした。敵方の国人領主を味方に引き入れる調略や、味方国人の離反を防ぐための政治工作が、勝敗を大きく左右しました。大友家における最高の政治的権威を持つ加判衆である右述が現地に赴くこと自体が、現地の国人衆に対する強力なメッセージとなりました。彼の発する命令や下す裁定は、当主・大友義鑑のそれと等しい重みを持ち、軍事指揮と政治工作を一体として遂行することができたのです。
この役割は、現代の軍隊における「戦域司令官」や、政治的な権限を持って前線に派遣される「政治将校」にも通じるものがあります。本荘右述の筑後派遣は、単なる軍事行動ではなく、大友氏の統治権威そのものを最前線に投入する、高度な政治的・軍事的行為でした。彼は、戦場で采配を振るうだけでなく、大友家の「法」と「権威」を体現する存在として、複雑な紛争地帯の支配と安定化に従事したのです。
文武にわたり大友家を支え続けた本荘右述ですが、その活動の終焉と、彼が歴史に残した影響について考察します。
史料上で確認できる右述の具体的な活動は、大永八年(1528年)の島津氏への書状 [5] や、それに続く享禄年間(1528-1532)の筑後方面での軍事指揮 [6] が主なものとなります。後年のゲーム作品のデータではありますが、彼の没年は天文八年(1539年)、享年71と設定されており [1]、史料上の活動時期の記録と大きな矛盾はありません。この頃に、高齢を理由に大友家の政治・軍事の第一線から退いたか、あるいは世を去ったと考えるのが妥当でしょう。
右述が亡くなったと推定される天文八年(1539年)は、主君・大友義鑑の治世の末期にあたります。彼が心血を注いで支えた義長・義鑑の時代は、次代の当主・大友義鎮(後の宗麟)が九州六カ国に覇を唱える最盛期へと至る、まさに礎を築いた重要な時代でした。
右述は、宗麟の栄光の時代を見ることなくこの世を去りました。しかし、彼が中心となって整備した加判衆による安定した政務運営システム、幕府や島津氏といった周辺勢力との外交ルート、そして宿敵・大内氏に対抗しうる軍事・政治体制は、すべて宗麟の代に引き継がれました。宗麟の飛躍は、決して彼一人の力によるものではなく、右述らが築き上げた強固な基盤の上に成り立っていたのです。
右述の死から約10年後の天文十九年(1550年)、大友家を揺るがす大事件が勃発します。当主・大友義鑑が、嫡男である義鎮(宗麟)を疎んじ、三男の塩市丸に家督を譲ろうと画策した結果、義鎮を支持する家臣団によって義鑑自身が殺害されるというお家騒動「二階崩れの変」です [8]。
右述がこの悲劇的な内紛が起こる以前に亡くなっていたことは、彼の輝かしいキャリアの終着点として、ある意味では幸運であったかもしれません。しかし、同時に、別の視点から見れば、家中をまとめ上げ、当主に対しても諫言できるほどの重みを持った右述のような宿老が、この時に不在であったことが、義鑑の暴走を止められず、悲劇を招いた一因となった可能性も否定できません。彼の死は、大友家にとって一つの時代の終わりを象徴する出来事であったとも言えるでしょう。
本荘右述の生涯を追うことで見えてくるのは、一人の有能な家臣が、主家をいかにして支え、その発展に貢献したかを示す見事な軌跡です。
父・本荘繁栄の代からの忠勤と政治的地位を受け継ぎ、若くして大友家の権力中枢に入った右述は、その生涯を通じて多岐にわたる分野で卓越した能力を発揮しました。加判衆として内政を安定させ、外交官として主家の対外的な権威を高め、そして軍事指揮官として領土的野心の遂行を支えました。彼の活動は、まさに「文武両道」を体現するものであり、戦国大名に仕える家老・宿老の一つの理想像を示しています。
大友義長・義鑑という、後の宗麟に比べるとやや地味な印象を持たれがちな当主たちの時代は、決して停滞期ではありませんでした。それは、大友氏が九州の覇者へと飛躍するための、極めて重要な準備期間でした。断片的な史料から浮かび上がる本荘右述の姿は、その「準備」を設計し、実行した最高の「宰相」の一人であったことを雄弁に物語っています。彼は、大友王国の礎を築いた功労者として、より高く評価されるべき人物であると言えるでしょう。