戦国時代という、下剋上が常態化し、旧来の権威が次々と失われていく激動の時代において、一人の武将が注目される。その名は朽木稙綱(くつき たねつな)。近江国の山間に本拠を置く一介の国人領主でありながら、彼の名は室町幕府の最後の輝きと深く結びついている。多くの武士が将軍家を見限り、自らの勢力拡大に奔走する中、稙綱は二代にわたる将軍を庇護し、その権威を支え続けた。彼の生涯は、単なる一地方豪族の興亡史に留まらない。それは、失墜しゆく中央政権に最後まで寄り添い、忠節と現実主義の間で巧みに舵を取り続けた、戦国期における在地領主の実像を浮き彫りにする貴重な事例である。本報告書は、『朽木家古文書』をはじめとする一次史料を丹念に読み解き、朽木稙綱の生涯を多角的に分析することで、彼の歴史的役割を再評価し、室町幕府末期の政治・社会構造の変動を、一人の人物を通じて深く理解することを目的とする。
朽木氏の歴史を語る上で、その本拠地である近江国高島郡朽木谷の地理的特性を無視することはできない 1 。この地は、京都と若狭・越前を結ぶ最短経路の一つである若狭街道、通称「鯖街道」が縦断する交通の要衝であった 2 。経済的・軍事的に重要なこの街道を押さえることは、朽木氏の勢力基盤を成していた。同時に、朽木谷は四方を山々に囲まれた天然の要害でもあった 1 。この地政学的な特性が、政争に敗れた権力者、とりわけ足利将軍家にとって、都から程近く、かつ安全を確保できる格好の避難場所としての価値を高めることになった 5 。朽木氏と足利将軍家の密接な関係は、この朽木谷という土地の持つ戦略的価値と不可分だったのである。
朽木氏の出自は、鎌倉時代に近江守護として権勢を誇った近江源氏佐々木氏に遡る 7 。佐々木氏四代当主・信綱が承久の乱の功により近江国高島郡朽木荘の地頭職を与えられ、その所領は三男・高信に受け継がれた 7 。高信の家系は高島氏を称し、その庶流から朽木氏が分出する。高信の孫にあたる義綱が朽木荘を領して「朽木」を名乗ったのがその始まりである 5 。こうして朽木氏は、高島郡に割拠した佐々木一族の有力武士団「高島七党」の一角として、地域の歴史にその名を刻み始めた 7 。
朽木氏と足利将軍家の強固な結びつきは、稙綱の代に始まったものではない。その礎は、父・材秀(きひで)の時代にすでに築かれていた。材秀は室町幕府10代将軍・足利義材(後の義稙)から偏諱(将軍の名前の一字を賜ること)を受け、その名乗り自体が将軍家との特別な関係を示している 9 。さらに、永正の錯乱で京を追われた前将軍・足利義澄を朽木谷に保護した実績もあり、将軍家にとって朽木氏が信頼に足る存在であることは、この頃から確立されていた 5 。この父祖代々の忠節の積み重ねが、稙綱の代でさらに大きな役割を果たすための素地となったのである。
朽木稙綱の生年は不詳であるが、史料上の初見は永正2年(1505年)の『朽木家古文書』であり、「竹松」という幼名でその名が記されている 11 。この時、彼は室町幕府の奉行人である飯尾元行、松田頼亮からの奉書を受け取っており、幼少期から幕府との公的な関わりがあったことがわかる。
正確な元服年は不明ながら、永正13年(1516年)、稙綱は父・材秀と同様に、時の将軍・足利義稙から「稙」の一字を賜り、「稙広(たねひろ)」と名乗った 11 。その後、大永2年(1522年)から同4年の間に「稙綱(たねつな)」へと改名している 11 。将軍からの偏諱は、単なる名誉に留まらず、幕府の秩序の中に正式に位置づけられた有力な武将であることの証であった 8 。
彼の幕府への出仕は早く、永正年間(1504年-1521年)の初頭には、すでに将軍直属の親衛隊ともいえる「奉公衆」として、御所の門の警備役を務めていた記録が残っている 2 。この事実は、稙綱がキャリアの極めて早い段階から幕府中枢に関与し、将軍家の側近くで奉仕する立場にあったことを示している。父から受け継いだ将軍家との信頼関係を基盤に、稙綱は戦国の動乱の中で、その存在感を着実に高めていくことになる。
室町幕府の権威が大きく揺らぐ中、朽木稙綱の名を歴史に刻印したのは、二代にわたる将軍の保護という比類なき功績であった。それは単なる庇護に留まらず、幕府の政治的命脈を繋ぐという、極めて重要な意味を持っていた。
大永7年(1527年)、室町幕府の権力を巡る争いは、管領・細川高国と、彼に対抗する細川晴元・三好元長の連合軍との間で頂点に達した。桂川の戦いで高国方が大敗を喫すると、高国に擁立されていた第12代将軍・足利義晴は京の都を追われる身となる 14 。近江の六角氏を頼った後、彼らが最終的な安息の地として選んだのが、父祖以来の忠臣・朽木稙綱が治める朽木谷であった。
享禄元年(1528年)、稙綱は亡命してきた将軍・義晴一行を温かく迎え入れ、彼らのために「岩神館」と呼ばれる御在所を設営した 16 。この岩神館は、単なる仮の住まいではなかった。記録によれば、南側と西側にそれぞれ29mと56mに及ぶ土塁が築かれ、その外側には空堀が巡らされていたといい、有事に備えた砦としての堅固な機能を有していた 16 。
義晴はこの岩神館に、享禄4年(1531年)に京へ帰還するまでの約3年間滞在し、この地から政務を執り行った 1 。この期間、朽木谷は事実上の「幕府」として機能し、将軍の権威と政治機能を維持するための「亡命政権の拠点」となったのである。一部の研究者がこの時期を指して「朽木幕府」と呼ぶのも、こうした実態に基づいている 16 。将軍が滞在し、管領が補佐し、政務が行われる。これらの事実を総合すれば、朽木谷は一時的に日本の政治的中心地としての役割を担ったと言える。稙綱の功績は、将軍の身柄を物理的に保護したことに留まらず、幕府という統治機構そのものの存続を支えた点にこそ、その本質がある。
この朽木滞在期には、特筆すべき文化的遺産も生まれている。義晴に同行していた管領・細川高国が、都を追われた将軍を慰めるために作庭したと伝えられる池泉観賞式の庭園である 1 。現在、国の名勝に指定されている「旧秀隣寺庭園」がそれであり、石組みで「鼓の滝」を配し、亀島・鶴島を浮かべた池泉は、室町時代の洗練された美意識を今に伝えている 1 。政争に明け暮れる乱世の最中にあっても、朽木谷には中央の高度な文化が持ち込まれ、花開いていた。このことは、稙綱自身がそうした文化を理解し、受け入れる素地を持っていたことを示唆している。
稙綱の忠節は、次代の将軍に対しても変わることはなかった。義晴の子である第13代将軍・足利義藤(後の義輝)もまた、三好長慶との激しい権力闘争の中で京を追われ、二度にわたって朽木谷に身を寄せている 5 。天文22年(1553年)から永禄元年(1558年)にかけての滞在は5年間に及んだ 1 。この長きにわたる庇護は、朽木氏が将軍家にとって、もはや代替の利かない最も信頼すべき最後の砦であることを天下に示すものであった。この比類なき功績により、朽木稙綱は幕府内における地位を絶対的なものとし、中央政界の深奥へと進んでいくのである。
将軍家に対する二代にわたる献身的な保護は、朽木稙綱の政治的地位を飛躍的に高めた。彼は近江の一国人領主という立場を超え、室町幕府の中枢で政治決定に関与する重要な存在へと上り詰める。
将軍保護の功績により、稙綱は幕府の最高意思決定機関の一つである「内談衆(ないだんしゅう)」の一員に加えられた 2 。内談衆は、将軍の私的な諮問に応じ、幕政の根幹に関わる重要な政策決定に参与する側近集団であり、これに列せられることは将軍からの絶大な信頼の証であった。さらに、将軍の行幸や幕府の公式儀礼に付き従う栄誉職である「御供衆(おともしゅう)」にも任命されており、名実ともに将軍の側近としての地位を確立した 2 。
公家・山科言継の日記『言継卿記』や『大舘常興日記』といった同時代の一次史料には、幕臣としての稙綱の具体的な活動が詳細に記録されており、彼の日常を垣間見ることができる 19 。
これらの記録を分析すると、稙綱が単なる武辺一辺倒の武将ではなかったことが明らかになる。年始の儀式や公家への挨拶回りといった政務はもちろんのこと、飛鳥井雅綱邸で催された歌会始に参加するなど、文化的な活動にも積極的に関与している 19 。彼の妻が公家の葉室頼継の娘であり 19 、息子の晴綱の妻も歌道の名家である飛鳥井雅綱の娘であることからも 20 、朽木家が中央の貴族社会と深い姻戚関係を結び、その文化を理解・受容していたことがわかる。こうした当時の支配者層に必須であった文化的素養、いわゆる文化資本が、将軍や公家との円滑な関係を築き、彼の政治的地位を支える重要な基盤となっていたのである。
和暦 |
西暦 |
月日 |
動向 |
出典 |
天文5年 |
1536 |
9月2日 |
足利義晴が隠居し、菊童丸(後の義輝)へ家督を譲る際、政務を担う奉行衆の一人に指名される。 |
『巌助往年記』 |
天文6年 |
1537 |
1月1日 |
将軍・足利義晴、菊童丸への年始御礼に出仕する。 |
『言継卿記』 |
天文6年 |
1537 |
1月6日 |
公家・山科言継のもとへ年始の挨拶に訪れる。 |
『言継卿記』 |
天文6年 |
1537 |
2月8日 |
飛鳥井雅綱邸にて催された歌会始に参加する。 |
『言継卿記』 |
天文8年 |
1539 |
閏6月16日 |
足利菊童丸母子の八瀬行きに供奉する。 |
『蜷川親俊日記』 |
天文11年 |
1542 |
3月17日 |
坂本に在陣中の足利義晴への万里小路惟房の礼問の際の申次(取次)役を務める。 |
『惟房公記』 |
天文11年 |
1542 |
閏3月25日 |
御殿普請のため、足利義晴より人夫を提供するよう命じられる御供衆の一人として名が挙がる。 |
『大舘常興日記』 |
天文15年 |
1546 |
12月19日 |
足利義藤(義輝)の元服式において、打乱(うちみだれ、儀式で太刀を振るう役)を務める。 |
『厳助往年記』 |
天文22年 |
1553 |
8月30日 |
三好長慶に追われた足利義藤(義輝)が朽木に到着し、保護下に入る。 |
『言継卿記』 |
(出典: 19 に基づき作成)
ユーザーが事前に把握していた「申次七人衆」という呼称は、稙綱が幕府内で果たした重要な役割を象徴する言葉である 12 。申次役とは、諸大名や公家からの奏上を将軍に取り次ぐ役職であり、将軍と外部とのコミュニケーションを司る、まさに幕政の結節点であった 8 。表1の天文11年の記録にも、彼が申次を務めたことが記されている。
しかし、「申次七人衆」という特定の定員を持つ固定化された役職名が、同時代の公式な史料で確認することは難しい。室町幕府の職制において、申次役は伊勢氏や大舘氏といった特定の家柄が世襲的に務めることが多かったが 21 、「七人衆」という制度として確立されていたという記録は乏しい 22 。このことから、「申次七人衆」という言葉は、稙綱が申次役として活躍した事実を基に、彼を含む主要な側近グループを指す後世の呼称、あるいは通称であった可能性が高いと考えられる。彼の重要性を端的に示す言葉として理解すべきであり、厳密な制度名として捉えることには慎重であるべきだろう。
幕府の中枢で華々しく活躍する一方、朽木稙綱は本拠地である近江国において、一人の在地領主として厳しい生存競争に直面していた。彼の生涯は、失墜しつつある中央の権威(将軍)への忠誠と、台頭する地域の権力(守護大名)への順応という、二つの顔を巧みに使い分ける必要があった。
当時の近江国で圧倒的な力を誇っていたのが、南近江の守護・六角定頼であった。幕府に直属する奉公衆である朽木氏も、この地域最大の権力者を無視しては存立し得なかった。
その関係は複雑な様相を呈している。大永5年(1525年)、北近江の浅井氏を攻める際には、稙綱は六角定頼の軍に加わり、その先鋒を務めている 11 。これは、朽木氏が六角氏の軍事指揮下に入ることもあったという事実を示す。一方で、朽木氏はあくまで独立した領主としての立場を維持しようと努めたが、六角氏が勢力を拡大するにつれて、その影響力を認め、実質的には従属的な立場を取らざるを得ない状況へと変化していった 11 。
この二重性は、幕府の公式儀礼の場にも見て取れる。天文15年(1546年)に行われた足利義輝の元服式では、加冠役(元服する者の頭に冠を載せる最も重要な役)を六角定頼が務め、稙綱は打乱役という名誉ある役を務めた 25 。これは、幕府という公的な秩序の中では、両者がそれぞれの立場で将軍を支える協力者として並び立つ一方で、近江国内においては明確な主従関係に近い力関係が存在していたことを示唆している。
さらに、国立公文書館所蔵の『朽木家古文書』には、朽木氏と近隣の田中氏との間で起こった山林を巡る争いを、守護である六角氏が裁定した文書が残されている 26 。これは、六角氏の守護としての宗主権が、幕府直臣であるはずの朽木氏の領内にまで及んでいたことを示す動かぬ証拠である。
このように、稙綱の生涯は、幕府への忠誠という「名分」と、地域での生存という「実利」を両立させるための、高度な政治的バランス感覚の上に成り立っていた。これは、幕府の権威が名目上は維持されつつも、実質的な支配力が各地の戦国大名へと移行しつつあった、この時代特有の過渡期の状況を典型的に体現するものであった。
稙綱の時代にはまだその影響は限定的であったが、北近江では浅井氏が六角氏からの独立を画策し、着実に勢力を伸長させていた 27 。この動きは、次代の当主である晴綱、そして孫の元綱の時代に、朽木氏の運命を大きく左右する重要な伏線となる。特に元綱の代には、浅井長政との間で同盟と離反を経験し、織田信長の登場によって、近江の勢力図は劇的に塗り替えられていくことになる 16 。稙綱が苦心して維持した勢力均衡は、次世代には新たな挑戦に晒される運命にあった。
朽木稙綱が幕政に関与し、将軍を保護するという大事業を成し得た背景には、朽木谷の豊かな経済基盤があった。彼は領内の資源と地の利を最大限に活用し、安定した支配体制を築いていた。
朽木谷は、古代より「朽木の杣(そま)」として知られる、良質な木材の産地であった 2 。杣とは、朝廷や寺社の造営用材を供給するために指定された森林のことである。この地で伐採された檜や杉などの木材は、領内を流れる安曇川を利用した筏流しによって琵琶湖へと運ばれ、そこから京都や奈良へと供給された 31 。東大寺や平等院の造営にも朽木の材が使われたと伝えられている 33 。この林業資源は、朽木氏にとって最大の財源であり、その経済力の根幹を成すものであった。
朽木谷のもう一つの経済的支柱は、その地理的優位性にあった。若狭湾で水揚げされた海産物を京都へ運ぶ「鯖街道」が領内を通過しており、朽木氏はこの物流ルートを掌握することで、通行税や商業利益を得ていた 2 。
領国の中心には「市場(いちば)」と呼ばれる町場が形成され、朽木氏の居館(陣屋)もここに置かれた 1 。市場は文字通り、各谷からの物資が集散する商業の中心地であり、江戸時代には材木や薪炭を扱う問屋が置かれ、賑わいを見せた 1 。
『朽木家古文書』を分析すると、朽木氏が領民に対して「奥畑炭かま銭」(炭焼き窯への課税)、「商人銭」(商人への営業税)、「馬宿銭」(運送業者への課税)といった多様な税を課していたことがわかる 1 。これは、朽木氏が林業だけでなく、領内の商業や交通といった経済活動全般を多角的に掌握し、そこから安定した収入を得るシステムを構築していたことを示している。
朽木氏の領国支配は、家臣団である「殿原衆(とのばらしゅう)」を通じて村落を間接的に支配する形態と、土地の買得や開発によって自らの直轄地を増やしていく直接支配の形態を併用していた 1 。特に、室町時代後半から戦国時代にかけては、在地領主が土地の所有権を積極的に集積していく傾向が見られるが、朽木氏もその例に漏れず、領内の一円支配を強化し、国人領主としての権力基盤を固めていったのである。こうした安定した領国経営こそが、稙綱が中央の政治舞台で活躍するための経済的・軍事的な後ろ盾となっていた。
朽木稙綱の晩年は、安泰とは程遠いものであった。嫡男の予期せぬ死は、彼に再び朽木家の舵取りを迫り、その政治生命を大きく延長させることになった。
天文19年(1550年)4月21日、稙綱の嫡男であり、すでに家督を継いでいた朽木晴綱が、合戦において討ち死にするという悲劇が起こる 20 。享年33の若さであった 20 。敵は、朽木氏の宗家筋にあたる高島氏の当主・高島越中守であった 20 。
この合戦の直接的な原因を記した史料は限定的である 24 。しかし、その背景には、高島郡内における惣領家(高島氏)と、力をつけた庶流家(朽木氏)との間の、長年にわたる主導権争いや所領問題が存在したと推測される 35 。特に、朽木氏は稙綱の代に足利将軍家との強固な結びつきを背景に、幕府内での地位を高め、その勢力を伸長させていた。この朽木氏の台頭が、本家である高島氏の警戒心や反発を招き、ついに武力衝突へと至った可能性は十分に考えられる。
晴綱の突然の戦死により、朽木家の家督は、その嫡男で、当時はまだ竹若丸と名乗っていた後の朽木元綱が、わずか2歳で継承することになった 5 。当然、2歳の幼児に領国経営や政治判断ができるはずもなく、ここに祖父である稙綱が再び表舞台に登場する。
晴綱の死後、朽木家は当主の座を退いていたはずの稙綱が「名実ともに後見役として」(小説『淡海乃海』の記述ながら歴史的蓋然性は高い) 39 、幼い孫の元綱を支え、事実上の当主として家中の実権を掌握したと考えられる。実際、晴綱の死からわずか3年後の天文22年(1553年)、将軍・足利義輝が三好長慶に追われて朽木谷に亡命してくるが、この重大な政治判断と受け入れを主導したのは、経験豊富な稙綱であったと見るのが自然である 5 。嫡男の早世という不幸は、結果的に稙綱の政治生命を大幅に延長させ、彼の経験と人脈が、存亡の機にあった朽木家を救うことになったのである。
朽木稙綱の没年は定かではない。『朽木文書』において彼の名が最後に登場するのは天文18年(1549年)とされるが、これは晴綱が戦死する以前の記録である 11 。しかし、後見役としての活動を考慮すれば、彼の政治活動はそれ以降も活発に続いていたはずである。永禄5年(1562年)の史料にもその名が見えるという説もあり 11 、孫の元綱が成長し、自ら政治判断を下せるようになる1560年代まで生存していた可能性は極めて高い。
Mermaidによる家系図
(出典: 11 に基づき作成)
朽木稙綱がその生涯をかけて築き上げた遺産は、孫の元綱の代に真価を発揮する。将軍家との強固なパイプ、幕府内部における情報網、そして近江国内の複雑な勢力関係を乗り切るための巧みな政治感覚。これら全てが元綱に受け継がれた。元亀元年(1570年)、元綱が織田信長の越前からの撤退「朽木越え」を助け、織田政権下で生き残る道を選んだ際、その判断の背景には、祖父・稙綱が築いた幕府との関係や、中央の情勢を見極める知見があったことは想像に難くない 5 。さらに、関ヶ原の戦いでの寝返りを経て、江戸時代には旗本・交代寄合として家名を存続させることができたのも、その源流を辿れば、戦国の乱世を忠節と現実主義で生き抜いた祖父・稙綱の類稀なる政治手腕に行き着くのである。
朽木稙綱の生涯を総括する時、我々は彼の中に、戦国という時代の持つ二律背反的な要素が凝縮されているのを見る。彼は、一方では滅びゆく旧秩序への「忠臣」であり、もう一方では、台頭する新秩序に適応する「現実主義者」であった。
忠臣としての側面は、彼の行動の中で最も際立っている。将軍の権威が地に堕ち、多くの大名が離反していく中で、稙綱は二代の将軍、足利義晴と義輝を自領に迎え入れ、その命と地位を守り抜いた。特に、朽木谷が「朽木幕府」として機能した数年間は、彼の存在なくして室町幕府の命脈は途絶えていた可能性すらある。幕府から内談衆・御供衆に任じられ、幕政の中枢で活躍した事実は、彼が単なる庇護者ではなく、将軍家と運命を共にする真の忠臣であったことを物語っている。
しかし、彼を単なる理想主義者として片付けることはできない。本拠地である近江国においては、彼は極めて冷静な現実主義者であった。南近江の覇者・六角定頼の勢力下では、その軍事指揮下に入ることも厭わず、守護の裁定にも従った。これは、幕府への忠誠という「名分」を掲げつつも、在地領主として生き残るためには地域の力関係に適応せざるを得ないという、「実利」を重んじる戦国武将としての側面を明確に示している。
この一見矛盾する二つの側面こそが、朽木稙綱という人物の本質であり、彼の歴史的価値を規定している。彼は、室町幕府という旧来の権威に最後まで敬意を払い、その秩序の中で自らの役割を果たそうと努めた。同時に、戦国という新たな時代の到来を肌で感じ、在地における自家の存続を第一とする現実的な判断を下すこともできた。
結論として、朽木稙綱は、滅びゆく旧秩序への「忠誠」と、台頭する新秩序への「順応」という、戦国時代の過渡期に生きた武将の苦悩、葛藤、そして生存戦略を、最も象徴的に体現した人物の一人として再評価されるべきである。彼の生涯は、戦国史の主役として語られることは少ないかもしれない。しかし、その堅実な歩みの中にこそ、時代を読み解く重要な鍵が隠されているのである。