戦国時代の日本において、西国に最大版図を築いた大内氏。その栄華と悲劇的な滅亡の歴史の中に、杉興運(すぎ おきかず/おきゆき)という一人の武将の名が刻まれている。彼は、大内氏の筑前国守護代として九州支配の最前線に立ち、宿敵・少弐氏との激戦「田手畷の戦い」で大敗を喫した将として、また、主君・大内義隆が家臣の謀叛に倒れた「大寧寺の変」に際して、最後まで忠節を貫き殉じた忠臣として、断片的に語られてきた 1 。
しかし、これらの情報は杉興運という人物の多面的な実像を捉えるにはあまりに不十分である。彼の生涯は、単なる一武将の伝記にとどまらない。それは、西国最大の大名と称された大内氏の権力構造、北部九州の複雑な地政学的力学、そして「忠義」という武士の価値観が激しく交錯した、戦国時代そのものの縮図であった。
本報告書は、現存する多様な史料を丹念に読み解き、比較検討することで、これまで断片的にしか知られてこなかった杉興運の生涯の全体像を再構築する試みである。彼の出自と大内家中における地位、筑前守護代としての具体的な役割、田手畷の戦いにおける敗北の意味、そして、主家の滅亡に際して彼が下した決断の背景を深く掘り下げる。これにより、杉興運を単なる「敗将」や「忠臣」という一面的な評価から解き放ち、彼の実像を、①大内氏の家臣団構造、②北部九州の政治情勢、③主君への「忠義」という武士の価値観、という三つの視点から立体的に浮かび上がらせることを目的とする。
杉興運の行動原理を理解するためには、まず彼が属した「杉氏」という一族が、大内家中でいかなる存在であったかを把握する必要がある。杉氏は、単なる一介の家臣ではなく、大内氏の草創期からその武威を支え、複雑な一族構造を形成しながら重きをなした譜代の名門であった。
杉氏の武門としての名声は、室町時代初期の応永の乱(1399年)にまで遡ることができる。興運の祖とされる**杉豊後入道重運(すぎ ぶんごのにゅうどう しげゆき)**は、時の大内氏当主・大内義弘に従い、足利義満の幕府軍と対峙した堺の戦いにおいて、比類なき武勇を示したと伝えられる 1 。
軍記物語『応永記』などによれば、主君・義弘や自らの子息が討死する絶望的な状況下にあっても、重運は一人敵陣に突入し、大太刀を振るって奮戦したという。その壮絶な戦いぶりは、敵であった将軍・足利義満からも賞賛されたと記録されており、杉氏が大内家中で早くから軍事的中核を担う、武勇に優れた家系であったことを物語っている 3 。この祖先の武勇伝は、後世の杉氏一族、とりわけ興運の精神的な支柱となり、彼の忠節心の源流を形成したと考えられる。
大内氏の最盛期において、杉氏は陶氏・内藤氏と並ぶ宿老の家柄として重きをなし、その一族は「八本杉(はっぽんすぎ)」と称された 3 。この呼称は、杉氏の系譜が極めて複雑であり、その全容を解明することが研究者にとっても困難であるとされるほど、広範な一族を形成していたことを示している 3 。
この「八本杉」という言葉は、単に八つの分家が存在したという系譜上の分類を示すものではない可能性が高い。日本の文化において「八」という数字は、しばしば「数が多いこと」や「広がり」を意味する象徴的な数として用いられてきた(例:八百万の神)。また、日本各地には「八本杉」と名付けられた巨木やそれにまつわる伝説が存在し、力強さや神聖さの象徴ともなっている 6 。これらの文化的背景を考慮すると、「八本杉」とは、杉氏一族が大内領内に深く根を張り、複雑に枝葉を広げたその権勢と影響力の大きさを、比喩的に表現した言葉と解釈するのが妥当であろう。それは、単一の家系ではなく、大内氏の支配体制を支える一大勢力圏、あるいは一種の派閥連合体としての杉氏の姿を物語っている。
実際に、杉氏一族はそれぞれが異なる役割を担い、大内氏の広大な領国支配を分担していた。興運の家系である弾正忠・豊後守家が筑前国の守護代を世襲したのに対し 9 、同族の杉重矩(すぎ しげのり)が属する伯耆守家は豊前国の守護代を務めるなど、異なる家系がそれぞれに重要な役職を世襲していた 4 。このような一族内での役割分担と勢力圏の存在は、平時においては大内氏の支配を強固にする一方で、有事、特に大寧寺の変のような内乱においては、一族内の対応に差異を生む要因となった。事実、興運が主君に殉じたのに対し、重矩は謀反を起こした陶方に加担するという、全く異なる道を選ぶことになる。
杉興運の父は**杉興長(すぎ おきなが)**といい、彼もまた筑前守護代を務めた人物であった 1 。興長は、大内氏の最盛期を築いた名君・大内義興に仕え、その名の一字である「興」の字を拝領(偏諱)している 2 。そして、その子である興運もまた、父同様に義興から「興」の字を賜っているのである 1 。
戦国時代において、主君から偏諱を授かることは家臣にとって最高の栄誉であり、主君との特別な信頼関係を示す何よりの証であった。杉興長・興運親子が、大内義興・義隆という二代の主君にわたり、その名の一字を拝領し、かつ筑前守護代という要職を世襲したという事実は、単なる形式的な主従関係を超えた、世代を超えて継承されるべき強固な信頼と忠誠の絆が存在したことを物語っている。
この絆は、大内氏の当主が義興から義隆へと代替わりした後も揺らぐことはなかった。興運が義隆の代に父の跡を継いで筑前守護代となり、後述する田手畷の戦いで大敗を喫した後も更迭されなかった背景には、この義興の代から続く父子二代にわたる信頼関係が強固な基盤として存在したからに他ならない。この「世代間の信頼の継承」こそが、杉興運の行動原理を理解する上での鍵であり、彼が最後まで主君・義隆に殉じるという壮絶な最期を選ぶに至った理由の根幹をなしているのである。
杉興運の生涯における最も重要な役割は、筑前守護代としての活動であった。この役職は、西国最大の大名・大内氏にとって、九州支配の成否を左右する極めて重要なポストであった。
大内氏の分国支配は、陶氏、内藤氏、そして杉氏といった有力な譜代家臣を各国の守護代に任命し、現地の統治を委ねるという形で行われていた 13 。筑前守護代であった杉興運は、単なる主君の代理人ではなく、軍事指揮権、家臣への知行宛行(領地の給付)、段銭(臨時軍事税)の賦課徴収など、広範な権限を有していた 10 。その権限は事実上の一国主に近く、筑前における大内氏の支配を実質的に担う存在であった。
興運の居城は、若杉山城(別名、高鳥居城)であった 16 。この城は、国際貿易港として繁栄する博多と、古代以来の九州の政治的中心地であった太宰府を眼下に収める戦略的要地に位置していた 10 。当時の博多は、日明貿易や日朝貿易における日本の玄関口であり、その支配権を握ることは、莫大な経済的利益を意味した 17 。興運は、この経済的・地政学的な要衝を拠点とし、大内氏の九州支配の橋頭堡としての役割を担っていたのである。
彼の役割は軍事面に留まらなかった。天文八年(1539年)の大内氏による遣明船派遣に際して、興運が明への進物用として馬一頭を調達したという記録が残っている 18 。これは、彼が単なる方面軍司令官としてだけでなく、大内氏の国家的な経済・外交政策にも深く関与していたことを示す貴重な証拠である。
16世紀前半の北部九州は、周防国を本拠とする 大内氏 、肥前国を拠点に再興を目指す 少弐氏 、そして豊後国に勢力を張る 大友氏 という、三つの大勢力が覇を競う、まさに群雄割拠の時代であった 20 。
中でも筑前国は、大内氏にとって、かつて九州の覇者でありながら大内氏によって没落させられ、その再興に執念を燃やす少弐氏との最前線であった 24 。少弐氏は、鎌倉時代以来の北部九州の名門であり、その権威と影響力は依然として無視できないものがあった。杉興運は、この宿敵との絶え間ない軍事的緊張の中で、大内氏の九州支配の生命線を維持するという、極めて重い責務を背負っていたのである。
杉興運の名が歴史に最も大きく刻まれた出来事が、享禄三年(1530年)の田手畷(たでなわて)の戦いである。この戦いは、興運にとって生涯最大の屈辱であったと同時に、彼と主君・義隆との間の絆の強さを逆説的に証明する契機ともなった。
享禄元年(1528年)、大内氏の当主・義興が病没し、その跡を嫡男の義隆が継いだ 26 。若き新当主・義隆は、長年の宿敵であった少弐資元(しょうに すけもと)に止めを刺し、父の代からの悲願であった北部九州の完全平定を成し遂げるべく、室町幕府将軍・足利義晴の許しを得て、肥前国への大々的な軍事侵攻を決定した 27 。
この、新体制における最初の重要な軍事行動の総大将として白羽の矢が立ったのが、杉興運であった 28 。これは、義隆が興運の軍事的手腕と忠誠心に絶大な信頼を寄せていたことの何よりの証左である。大内軍は、大内方についた北九州の国人衆を糾合し、その兵力は一万を超えたと伝えられている 29 。
大内軍の侵攻に対し、少弐資元は重臣たちに防戦を命じた。その中に、後に「肥前の熊」と恐れられる龍造寺隆信の曽祖父にあたる、**龍造寺家兼(りゅうぞうじ いえかね)**がいた。両軍は、筑後川の支流である田手川周辺の湿地帯、いわゆる「畷(なわて)」で対峙した 29 。
合戦は当初、兵力で圧倒的に優位に立つ大内軍の優勢で進んだ。しかし、少弐方が敗色濃厚となったその時、戦況は一変する。龍造寺家兼の指揮のもと、鍋島清久・清房父子らが率いる百人ほどの一団が、突如として大内軍の側面に奇襲をかけたのである 29 。この部隊は、兵士たちが赤熊(しゃぐま)の毛皮を被るという異様な出で立ちをしており、その奇抜な姿と、鉦や太鼓を打ち鳴らしながらの突撃は、大内軍に大きな動揺と混乱をもたらした 30 。
この好機を逃さず、龍造寺本隊が猛然と反撃に転じると、大軍ゆえに統制を失った大内軍は総崩れとなった。この乱戦の中で、大内方についていた筑紫尚門(ちくし ひさかど)や朝日頼実(あさひ よりざね)といった諸将が討死し、総大将の杉興運は命からがら敗走を余儀なくされた 29 。
田手畷の戦いは、北部九州の勢力図に大きな影響を与えた。この勝利によって少弐氏は一時的に勢力を回復し、何よりも、戦勝の最大の功労者である龍造寺氏が少弐家中で急速に台頭し、戦国大名へと成長していく大きな契機となった 30 。
一方で、大内氏にとってこの敗戦は手痛い失策であった。しかし、ここで注目すべきは、その後の杉興運の処遇である。戦国時代の常識からすれば、これほどの大軍を率いながら大敗を喫した総大将は、その責任を厳しく問われ、更迭、あるいは自刃に追い込まれるのが通例であった。
ところが、杉興運はその後も筑前守護代の地位を解かれることなく、引き続き北九州方面の軍事を任されている 1 。この敗戦の汚名を雪ぐため、後に大内氏の重鎮である陶興房(すえ おきふさ)が九州に派遣されることになるが 34 、興運自身は指揮官として留任し、大友氏との戦いを継続するなど、その立場は揺るがなかった。
この事実は、戦国時代の厳格な実力主義の中では極めて異例と言える。それは、主君・大内義隆が、田手畷での敗北の責任を興運個人の資質の問題としてではなく、戦術的な不運や敵将の機略によるものと判断したことを示唆している。そして何より、一時の戦いの勝敗以上に、杉家が父・興長の代から示してきた長年にわたる忠義を高く評価し、九州支配の要として彼を信頼し続けていたことの証左である。義隆にとって、興運は単なる軍功によって評価される将ではなく、世代を超えた絆で結ばれた、かけがえのない忠臣であった。皮肉にも、田手畷での敗北は、義隆と興運の間の強固な主従関係を浮き彫りにする出来事となったのである。
田手畷の戦いから約10年後、大内氏の内部では、その後の運命を決定づける深刻な政争が進行していた。杉興運は、この中央の政争においても、一貫して主君・義隆を支持する立場を鮮明にした。
天文12年(1543年)、大内義隆は出雲の尼子氏を討つべく自ら大軍を率いて遠征したが、惨憺たる敗北を喫した(第一次月山富田城の戦い)。この敗戦を境に、義隆は武事を厭い、相良武任(さがら たけとう)に代表される文治派の側近を重用するようになる 36 。これにより、大内家の軍事を支えてきた武断派の家臣たちの不満が鬱積していった。その筆頭が、周防守護代であり、大内家中で随一の実力者であった**陶隆房(すえ たかふさ、後の晴賢)**であった 36 。
この文治派と武断派の対立が先鋭化する中で、杉興運の立場は明確であった。彼は、主君・義隆の側に立ち、武断派の中心人物である陶隆房とは一線を画していた。そのことを示す最も象徴的な行動が、陶氏から命を狙われるようになった義隆の寵臣・相良武任を、自らの支配地である筑前の花尾城にかくまったことである 16 。これは、興運が単に九州方面を任された地方官僚ではなく、大内氏の中枢で繰り広げられる政争においても、自らの信念に基づき行動する、義隆派の重鎮であったことを示している。
陶隆房との対立が深まる天文19年(1550年)7月、杉興運は従五位下・豊後守に叙された後、さらに**太宰権少弐(だざいのごんのしょうに)**に任官された 1 。軍記物である『大内義隆記』の異本では、この官職を「太宰少弐」と記している 16 。この任官は、単なる名誉的な昇進ではなく、当時の北部九州の政治状況において、極めて高度な政治的意味を持つものであった。
「大宰少弐」という官職は、鎌倉時代以来、武藤氏が世襲し、やがてその官職名をもって「少弐氏」と名乗るようになった、まさに少弐一族のアイデンティティそのものと言える官職であった 20 。大内義隆は、朝廷への多額の献金を通じて高い官位を得ることを重視し、その権威を自らの統治に利用する政策をとっていた 41 。その義隆が、長年の宿敵の象徴である「少弐」の名を冠する官職を、九州方面の最高司令官である興運に与えたのである。
これは、大内氏が宿敵・少弐氏を名実ともに完全に打倒し、その支配権と権威を吸収したことを内外に宣言する、計算され尽くした政治的パフォーマンスであった。20年前、田手畷でその少弐氏(に仕える龍造寺氏)に苦杯をなめさせられた興運が、時を経てその少弐氏そのものを意味する官職に就く。この構図は、義隆から興運への20年にわたる労苦への最大の労いであり、大内氏の九州における最終的な勝利者として彼を位置づけるものであった。一部の記録で、この任官が「不吉の兆し」として語られているのは 16 、この行為が持つ、尋常ならざる政治的な重みを当時の人々が敏感に感じ取っていたからに他ならない。
天文20年(1551年)、杉興運の主家・大内氏の運命は、そして彼自身の運命は、劇的な終焉を迎える。陶隆房の謀叛、いわゆる「大寧寺の変」である。この未曾有の国難に際し、興運の行動は、彼の生涯を貫く忠義の最終的な証明となった。
天文20年8月、かねてより主君・義隆との対立を深めていた陶隆房は、ついに山口で挙兵し、義隆を急襲した 36 。義隆は長門国の大寧寺へと逃れるが、追い詰められ自害。西国に栄華を誇った大内氏は、事実上、ここに滅亡した。
この謀叛に際し、豊前守護代の杉重矩をはじめとする多くの大内重臣は、陶方に加担するか、あるいは日和見の態度をとった 4 。そのような状況下で、杉興運は、石見国の吉見正頼らと共に、数少ない義隆への忠誠を貫いた重臣の一人であった 16 。しかし、彼は筑前守護代として任地に在国していたため、山口で窮地に陥った主君を直接救援することは叶わなかった。
主君・義隆の死後、杉興運がどのような最期を遂げたかについては、後世に編纂された軍記物語を中心に複数の説が存在し、錯綜している。その真相を探るため、主要な史料の記述を比較検討する必要がある。
史料名 |
記述される最期の状況 |
特徴・信憑性に関する考察 |
典拠 |
『大内義隆記』 |
義隆自害後、陶隆房が派遣した軍勢に筑前の居城・若杉山城を攻められる。防ぎきれず城を落ち、 糟屋浜(かすやのはま)にて自害 した。 |
比較的事件に近い時代に成立した軍記物語。事件関係者の見聞が反映されている可能性があり、地理的整合性も高い。ただし、物語としての脚色も考慮する必要がある。 |
1 |
『陰徳太平記』 |
陶軍が高鳥居城に迫る。子・隆景と共に抵抗を試みるが、地元の国人に見限られ、若杉山を落ち延びる。 津屋村(つやむら)にて討死 した。 |
江戸時代初期成立の軍記物。毛利氏の視点が強く、劇的な脚色や教訓的な逸話が多い。史料としての信憑性は慎重な検討を要する。 |
16 |
『中国治乱記』 |
主君・義隆に最後まで同行し、長門**大寧寺にて共に自害(殉死)**した。 |
『陰徳太平記』と同様に後世の軍記物。忠臣の鑑として最も劇的な最期を描くが、他の史料との整合性に乏しく、理想化された記述の可能性が高い。 |
16 |
これらの異なる記述を史料批判の観点から検証すると、杉興運の最期として最も可能性が高いのは、『大内義隆記』に記された筋書き、すなわち「大寧寺の変の後、陶晴賢が派遣した討伐軍によって、自らの任地である筑前国内で攻撃され、最期を迎えた」という説である。
第一に、 職務上の蓋然性 が高い。興運は筑前守護代であり、変の勃発時に任地である筑前に在国していたと考えるのが最も自然である 16 。山口にいた義隆に同行し、長門の大寧寺まで赴いたとする『中国治乱記』の説は、地理的・時間的に大きな困難が伴う。
第二に、 陶晴賢の行動との整合性 が取れている。陶晴賢は謀叛を成功させた後、義隆に味方した相良武任や杉興運らを討伐するため、野上房忠らの軍勢を筑前に派遣したことが確認されている 48 。興運が筑前で攻撃を受けたという『大内義隆記』の記述は、この歴史的事実と完全に一致する。
第三に、 史料の性格 を考慮する必要がある。『陰徳太平記』や『中国治乱記』は、事件から時を経て江戸時代に編纂された軍記物であり、特に『陰徳太平記』は文学的・教訓的な脚色が多いことで知られている 45 。これに対し、『大内義隆記』は比較的事件に近い時期に成立しており、その記述は他の一次史料に近い記録(例えば、同時代の公家の日記などをもとにした『歴名土代』)とも、場所(糟屋浜/津屋邑)や状況(自害/討死)において共通点が見られる 1 。
以上の点から、杉興運は山口での主君の悲報を任地の筑前で聞き、やがて来襲した陶軍と対峙したものの、衆寡敵せず、糟屋郡の海岸(糟屋浜またはその近隣の津屋村)で自害、もしくは討死したと考えるのが、最も合理的な結論と言えるだろう。
杉興運の死と共に、大内氏の筑前支配を担った彼の家系もまた、悲劇的な結末を迎えた。興運の子とされる 杉隆景 も、父と共に糟屋浜で討死したと記録されている 9 。これにより、大内氏の譜代家臣として筑前に重きをなした杉豊後守家は、歴史の舞台から姿を消すこととなった。
杉興運は、その生涯において唯一の大規模な合戦であった田手畷の戦いでの敗北によって、ややもすれば「敗将」としての印象を持たれがちである。しかし、彼の生涯を多角的に検証した時、全く異なる人物像が浮かび上がってくる。
彼は、西国最大の大名・大内氏が最も輝いていた時代から、その劇的な崩壊に至るまでの激動の歴史と、その運命を分かちがたく結びつけられた人物であった。筑前守護代として、国際貿易港・博多を擁する九州支配の最前線に立ち続け、宿敵・少弐氏や大友氏との絶え間ない緊張関係の中で、主家の権益を守り抜いた有能な方面軍司令官であったことは間違いない。
そして、彼の人物像を最も特徴づけるのは、その揺るぎない「忠義」の精神である。父・興長の代から続く主家への恩義を重んじ、主君・大内義隆が田手畷での大敗を許してもなお彼を信頼し続けたことに、自らの命を懸けて応えた。多くの重臣が自己の保身や野心のために日和見や裏切りに走る中、最後まで主君と運命を共にした彼の生き様は、戦国時代における主従関係の一つの理想形を、身をもって体現したと言えるだろう。
杉興運の死は、単なる一個人の悲劇ではなかった。それは、大内氏の譜代家臣団による筑前支配の完全な終焉を意味し、北部九州に巨大な権力の真空地帯を生み出した。この混乱、すなわち「筑前表錯乱」と呼ばれる状況の中から 21 、やがて大友宗麟、龍造寺隆信、そして島津義久といった新たな戦国大名たちが覇を競う時代が到来する。杉興運の生涯は、西国の歴史が大きく転換するその節目において、一つの時代の終焉を象徴する物語として、深く記憶されるべきなのである。