村上景親は、戦国時代の村上水軍の武将。海賊から武士へ転身し、激動の時代を生き抜いた。毛利氏に忠義を尽くし、長州藩の海事組織の礎を築いた人物。
戦国時代の日本において、瀬戸内海は経済と軍事を繋ぐ大動脈であった。この広大な内海を制する者は、西日本の覇権を左右するほどの絶大な影響力を有した。この海域に君臨したのが、能島・来島・因島の三家からなる村上水軍である。彼らは単なる「海賊」という言葉では捉えきれない存在であった。平時には水先案内や海上警固、交易の保護を担い、海の秩序を維持する「海の豪族」あるいは「海の大名」とでも言うべき独立勢力であった 1 。その武威と影響力は、日本を訪れたイエズス会宣教師ルイス・フロイスをして「日本最大の海賊」と評さしめるほど、天下に広く知れ渡っていたのである 5 。
この村上水軍の中でも、特に能島村上氏を率いた村上武吉(1533-1604)は、一族の最盛期を築き上げた傑出した頭領であった 3 。天文24年(1555年)の厳島の戦いでは毛利元就に与してその勝利に大きく貢献し、毛利氏の中国地方制覇の立役者の一人となった。しかし、彼は特定の陸の大名に完全に臣従することなく、あくまで独立領主としての気概と誇りを持ち続けた人物として知られる 3 。
本稿で詳述する村上景親は、この偉大な父・武吉の次男として、永禄元年(1558年)に生を受けた 10 。それは、織田信長が尾張で台頭し、天下統一の大きなうねりがまさに始まろうとしていた激動の時代であった。景親の生涯は、村上水軍が独立勢力として最も輝いた時代から、豊臣秀吉による天正16年(1588年)の「海賊停止令」によってその存立基盤を根底から覆され、最終的に近世大名の家臣団へと組み込まれていく、まさに時代の転換期そのものを映し出す。父・武吉が体現した中世的な「実力主義の海上独立領主」としての生き様と、景親が最終的にたどり着いた近世的な「俸禄制の武家官僚」としての姿は、鮮やかな対比をなしている。彼の人生を追うことは、単なる一個人の伝記に留まらず、戦国時代の海上勢力が、徳川幕藩体制という新たな社会秩序の中でいかにして生き残りを図ったかという、より大きな歴史的変遷を解明する鍵となるのである。
村上景親は、能島村上氏の当主・村上武吉を父とし、来島村上氏の当主であった村上(来島)通康の娘を母として生まれた 7 。この婚姻は、時に利害を異にし、対立することもあった村上三家の結束を強めるための戦略的な意味合いを持つものであった。兄には、父と共に早くから水軍の主力として活躍した村上元吉(1553-1600)がいた 12 。景親の通称は、はじめ源八郎、後に三郎兵衛尉と称した 11 。
村上三家の中でも、能島村上氏は宗家格と見なされており、他の二家とは一線を画す特質を持っていた。因島村上氏が早くから毛利氏や小早川氏と、来島村上氏が伊予の河野氏と関係を深めたのに対し、能島村上氏は最後まで独立した立場を志向する傾向が強かった 7 。この「独立性」という家風こそが、父・武吉の行動原理を理解する上で極めて重要であり、景親の世代が直面する時代の変化をより一層際立たせる背景となっている。
毛利元就の三男である小早川隆景は、毛利家の軍事力、特に水軍戦力の中核を担う存在であった 1 。毛利氏が中国地方に覇を唱える上で、瀬戸内海の制海権を握る村上水軍との連携は不可欠であり、隆景はその関係構築において中心的な役割を果たした。
景親の経歴において特筆すべきは、彼が若くしてこの小早川隆景に仕えたことである。そして、主君である隆景の名から「景」の一字を与えられ、「景親」と名乗った 16 。これは「偏諱(へんき)」と呼ばれる、主君が家臣に対して自身の諱(実名)の一字を与える慣習であり、両者の間に特別な信頼関係と主君からの期待があったことを示唆している。
兄・元吉が能島村上氏の後継者として父・武吉と共に毛利本家の麾下で活動したのに対し、次男である景親は小早川家に属するという、兄弟で異なる道を歩んだ。これは、独立志向の強い能島村上氏が、毛利家との関係を複線化し、リスクを分散させるための戦略的な人事配置であった可能性が考えられる。毛利本家との直接的なパイプ役を嫡男の元吉に担わせる一方で、毛利家中で絶大な影響力を持ち、水軍の事実上の総責任者でもあった隆景の元に次男の景親を置くことで、能島村上氏は毛利家内の両方のラインに影響力を行使し、情報を得ることが可能となる。これは、戦国時代の有力な国人領主が、一族の存続をかけてしばしば用いた巧みな生存戦略であった。
景親は隆景の隠居後、その養子である小早川秀秋に仕えたが、慶長2年(1597年)に隆景が没すると毛利家に復帰し、安芸国竹原に所領を与えられている 16 。
景親の武人としての一面を物語る逸話として、彼の初陣に際して父・武吉から贈られた一本の笛の話が伝わっている。武運を祈って贈られたこの笛は、その後も能島村上氏の景親の家系に家宝として大切に受け継がれた 13 。この逸話は、武勇一辺倒ではない村上氏の文化的な側面と、父子の深い絆を今に伝えている。
景親が歴史の表舞台に登場するのは、織田信長と毛利氏の対立が激化した時期である。天正4年(1576年)の第一次木津川口の戦いでは、兄・元吉が村上水軍の主力を率いて織田方の九鬼水軍を壊滅させる大勝利を収めた 5 。景親自身のこの戦いへの直接参加は史料上確認できないが、一族にとって最大の戦果の一つとして、その武名を共有したことは想像に難くない。景親の具体的な参戦記録としては、天正6年(1578年)の播磨における上月城の戦いが挙げられる 16 。この頃から、彼は兄・元吉と行動を共にし、毛利方の一武将として各地を転戦するようになった。
豊臣秀吉による天下統一後、村上氏の活動領域は瀬戸内海という限定された舞台から、日本全国、さらには東アジアへと否応なく拡大していく。文禄元年(1592年)に始まった文禄・慶長の役において、景親は兄・元吉と共に小早川氏や毛利氏の軍勢に従い、朝鮮半島へと渡海した 5 。彼らが長年培ってきた高度な海戦技術と大規模な輸送能力は、この渡海作戦において不可欠なものであった。
景親は異国の戦場においてもその武勇を発揮し、特に茂渓(モゲ)の戦いなどで目覚ましい活躍を見せ、その勇名を馳せたという 20 。この朝鮮出兵は、景親の私生活にも大きな影響を与えた。彼はこの戦役において捕虜とした朝鮮の貴族階級(両班)の娘を側室として迎えたのである 13 。これは、当時の戦争の苛烈な現実と、国境を越えた武将の私生活の一端を伝える生々しい記録である。この女性の墓とされるものは、現在も景親の墓所がある山口県周防大島に残されている 20 。
この一連の戦歴の変遷は、村上氏がもはや独立した「海の大名」ではなく、巨大な中央政権の軍事力の一部へと組み込まれていく過程そのものであった。景親の武勇は、常にこの大きな時代の潮流の中で発揮されたのである。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の合戦が勃発すると、主君である毛利輝元が西軍の総大将に推戴されたため、村上一族も西軍として参戦することとなった。これは、能島村上家にとって、その後の運命を決定づける重大な岐路であった。
景親は水軍を率いて伊勢路に進出し、東軍方の富田信高が守る安濃津城や、京極高次が籠る大津城の攻略戦に参加し、戦功を挙げた 5 。一方、兄であり能島村上家の当主であった元吉は、毛利勢の先鋒として四国方面軍を指揮した。阿波国(現在の徳島県)に侵攻し、蜂須賀氏の支城である猪山城を攻略するなど、破竹の勢いであった 5 。
しかし、9月15日の関ヶ原本戦における西軍の壊滅的な敗北の報は、四国の戦況を一変させる。元吉は伊予国(現在の愛媛県)の三津浜に布陣していたが、東軍方の加藤嘉明の家臣・佃十成による夜襲を受け、壮絶な戦いの末に討ち死にした(三津刈屋口の戦い) 8 。当主・元吉の戦死と西軍の敗北は、能島村上家にとって後継者を失うという直接的な打撃と、主家である毛利氏の存亡の危機という間接的な打撃を同時にもたらし、一族を未曾有の苦境へと突き落としたのである。
関ヶ原の敗戦の結果、毛利氏は安芸・備後など中国地方8カ国120万石の広大な領地を没収され、周防・長門の二カ国、およそ36万石へと大幅に減封された 20 。この未曾有の危機に際し、毛利家中では大規模な家臣の解雇(召し放ち)が行われるなど、大混乱に陥った 20 。
このような状況下で、景親の武勇は敵方であった東軍の諸将からも高く評価されていた。豊前国中津藩主となった細川忠興や、備前国岡山藩主の池田輝政といった有力大名から、破格の待遇での仕官の誘いを受けたことが記録されている 16 。しかし、景親はこれらの魅力的な誘いをすべて断り、苦境に喘ぐ主君・毛利輝元のもとに留まることを選択した 16 。慶長6年(1601年)には、毛利家への変わらぬ忠誠を神仏に誓う起請文を提出しており、その覚悟のほどが窺える 23 。
この決断の後、景親は父・武吉、そして戦死した兄・元吉の遺児で家督を継いだ元武と共に、新たな知行地である屋代島(現在の周防大島)の和田に移住し、1,500石の所領を与えられた 7 。この選択は、単なる感情的な忠義の発露ではなかった。豊臣政権による「海賊停止令」以降、村上氏のような独立海上勢力はその存在基盤を失い、いずれかの大名家に仕える「武士」として生きる道を模索せざるを得なかった。他家に個人として高禄で仕官する道もあったが、それは「村上一族」という家の伝統と専門性を捨て、一介の家臣となることを意味した。対照的に、苦境の毛利家に留まることは、彼らが持つ「海事の専門性」という無形の価値を最大化する選択であった。大幅に減封されながらも海に面した領国を治める毛利氏にとって、村上氏が持つ海事の知識と技術は、以前にも増して不可欠なものとなっていたのである。景親の忠義は、一族の未来を見据えた、極めて合理的な戦略的投資であったと言える。
減封後の長州藩(萩藩)にとって、藩の海事能力を維持・再編することは喫緊の課題であった。そこで、村上水軍が長年培ってきた知見と人材を、藩の公式な組織として制度化したのが「御船手組(おふなてぐみ)」である。
景親は、その戦場での実績と関ヶ原後の忠節を高く評価され、この新たな組織の初代組頭に任命された 7 。これは、能島村上氏が長州藩の海事を統括する家として、近世大名家の組織の中に公式に位置づけられたことを意味する、歴史的な瞬間であった。
御船手組の職務は多岐にわたった。藩主が江戸へ向かう参勤交代の際の御座船の管理・運行・警護、幕府の公的行事であった朝鮮通信使一行の先導や曳航、領海内での海難事故への対応、さらには藩が所有する船舶の建造や修理の監督など、その専門性は藩政の様々な場面で発揮された 7 。かつて瀬戸内海を縦横に駆け巡った「海賊」の技術と経験は、泰平の世における藩の公務として、新たな形で活かされることになったのである。
また、主君である毛利輝元が隠居して剃髪し「宗瑞幻庵」と号すると、景親もそれに倣って剃髪し、「如真(にょしん)」と名乗った 11 。これは、独立領主の子から、主君と運命を共にする近世武士へと、そのアイデンティティが完全に移行したことを示す象徴的な行動であった。
長州藩御船手組の初代組頭として、藩の海事の礎を築いた村上景親は、慶長15年(1610年)2月9日、その新たな本拠地であった周防大島にて、53年の生涯を閉じた 10 。その墓所は、同島の正岩寺にあり、現在も子孫によって手厚く守られている 13 。
景親の死後、家督は嫡男の八助が相続したが、慶長18年(1613年)にわずか11歳で早世してしまう。そのため、次男の元信(幼名:源八郎)が、まだ6歳という若さで家督を継ぐこととなった 13 。
景親が築いた礎は盤石であった。彼の家系(村上一学家)は、兄・元吉の家系と共に、江戸時代を通じて代々長州藩の御船手組頭を世襲し、幕末に至るまで藩の海事を支え続ける名門として存続した 15 。現在、愛媛県今治市の村上海賊ミュージアムに収蔵されている貴重な古文書や武具の多くは、この景親の子孫の家に伝来したものであり、彼の存在がなければ今日我々が村上水軍の歴史を深く知ることは困難であったかもしれない 18 。
村上景親の生涯は、戦国時代の自由闊達だが常に危険と隣り合わせであった「海賊」という生き方から、徳川幕藩体制下の安定的だが厳格な身分秩序に組み込まれた「藩士」という生き方への、大きな社会構造の転換を一身に体現している。武勇と知略をもって海を支配した父・武吉の時代から、組織の中で専門性を発揮し、主家への忠勤に励むことで家名を後世に繋いだ景親の時代への移行は、そのまま日本の歴史の大きな転換点を映し出している。
一人の武将として評価するならば、景親は戦場にあっては類稀なる武勇を示し、平時においては主家が最も苦しい時期に忠義を貫き、新たな時代の藩政に不可欠な役割を果たした人物であった。特に、有力大名からの高禄の誘いを蹴り、減封された毛利家に留まった決断は、近世武士の理想像の一つとして高く評価されるべきであろう。
彼の生涯をこれほど詳細に追うことができるのは、ひとえに彼の子孫が長州藩で重用され、その家に伝来した文書群が、藩の公式記録である『萩藩閥閲録』巻23「村上一学」 13 や、山口県文書館に所蔵される『村上家文書』 29 といった形で、奇跡的に現代にまで伝えられたからに他ならない。これらの一次史料は、景親個人だけでなく、戦国末期から江戸初期にかけての村上水軍全体の動向を解明する上で、第一級の学術的価値を持つ。村上景親は、その生き様を通じて時代を繋ぎ、そして後世に残された記録を通じて、歴史に不滅の足跡を刻んだのである。
西暦 |
和暦 |
景親の年齢 |
村上景親の動向・事績 |
関連する歴史上の出来事 |
主要関連人物 |
典拠 |
1558年 |
永禄元年 |
1歳 |
村上武吉の次男として誕生。通称は源八郎。 |
織田信長が尾張統一を進める。 |
父:村上武吉、母:来島通康の娘、兄:村上元吉 |
10 |
(不明) |
(不明) |
(不明) |
小早川隆景に仕え、偏諱を受け「景親」と名乗る。 |
毛利氏、中国地方に勢力を拡大。 |
小早川隆景 |
16 |
1578年 |
天正6年 |
21歳 |
播磨国の上月城の戦いに参戦。 |
羽柴秀吉による播磨攻略が進む。 |
羽柴秀吉、小早川隆景 |
16 |
1592年 |
文禄元年 |
35歳 |
文禄の役に従軍し、兄・元吉と共に朝鮮へ渡海。 |
豊臣秀吉による朝鮮出兵が開始される。 |
豊臣秀吉、毛利輝元 |
5 |
1597年 |
慶長2年 |
40歳 |
小早川隆景の死後、毛利家に復帰し安芸国竹原に領地を得る。 |
小早川隆景が死去。 |
毛利輝元、小早川秀秋 |
16 |
1600年 |
慶長5年 |
43歳 |
関ヶ原合戦で西軍として伊勢・安濃津城などを攻める。兄・元吉が伊予三津浜にて戦死。 |
関ヶ原の戦いで西軍が敗北。 |
毛利輝元、石田三成、加藤嘉明 |
5 |
1601年 |
慶長6年 |
44歳 |
細川忠興・池田輝政の誘いを断り、父・武吉らと周防大島へ移住。1,500石を与えられる。 |
毛利氏が防長二カ国へ減封される。 |
毛利輝元、細川忠興、池田輝政 |
13 |
(時期不明) |
(不明) |
(不明) |
長州藩(萩藩)の御船手組の初代組頭に就任。 |
長州藩の藩政機構が整備される。 |
毛利輝元 |
13 |
1604年 |
慶長9年 |
47歳 |
父・村上武吉が周防大島にて死去。 |
徳川家康が江戸幕府を開く(慶長8年)。 |
村上武吉 |
7 |
1610年 |
慶長15年 |
53歳 |
2月9日、周防大島にて死去。法名は如真。 |
徳川家康・秀忠による幕府体制が固まる。 |
子:八助、元信 |
10 |
1613年 |
慶長18年 |
- |
嫡男・八助が11歳で死去。次男・元信(6歳)が家督を継ぐ。 |
大坂冬の陣の前年。 |
村上元信、毛利輝元 |
13 |