村上顕国は武田信玄を退けた村上義清の父。史料は少ないが、砥石城主として村上氏の戦略的基盤を築き、寺社建立で権威を強化。生前隠居し、義清の活躍の礎を築いた。
戦国時代、甲斐の武田信玄が率いる最強と謳われた騎馬軍団を二度にわたり撃退した猛将、村上義清。その輝かしい武功は、川中島の戦いへと連なる信濃の歴史において、ひときわ強い光彩を放っている。しかし、その義清の父として、また北信濃に覇を唱えた村上氏の当主として、一時代を築いた村上顕国(むらかみ あきくに)という人物の存在は、その偉大な息子の影に隠れ、歴史の深い霧に包まれている。顕国自身の生涯を直接的に物語る信頼性の高い同時代史料は極めて乏しく、その姿は後世に編纂された系図や寺社の縁起、あるいは軍記物語の中に、断片的にその名をとどめるに過ぎない。
本報告書は、この「史料の壁」に正面から向き合うことを目的とする。顕国をめぐる情報の錯綜、特にその名、生没年、そして家督相続の経緯に見られる諸説を丹念に比較検討する。さらに、彼の確かな足跡として伝わる寺社建立の事績を深く掘り下げ、その行動が持つ宗教的、政治的、そして社会的な意味を解き明かす。これにより、顕国の人物像とその時代における役割を浮き彫りにする。
本報告書の目的は、単に散逸した情報を集積し、列挙することではない。史料批判の視座に立ち、後世の伝承と一次史料に近い記録を慎重に峻別し、顕国が生きた16世紀前半の信濃国の動向というマクロな文脈の中に彼を位置づけることにある。この作業を通じて、これまで漠然としていた村上顕国という武将の実像を、可能な限り立体的に再構築することを目指す。彼は単なる「義清の父」という血縁上の存在に留まらない。村上氏が北信濃にその権勢を確立し、戦国大名として最盛期を迎えるための礎を築いた、極めて重要な過渡期の人物として再評価されるべきである。
村上顕国の生涯を解明する上で、まず直面するのは、その基本的なプロフィールに関する情報の錯綜である。名前、系譜、生没年、家督相続といった人物の根幹をなす要素において、複数の説が並立し、確固たる定説を見ていない。本章では、これらの断片的な情報を史料批判の観点から整理・分析し、一つの伝承に依拠することなく、多角的な視点からその輪郭を浮かび上がらせることを試みる。
顕国の実像に迫る第一歩は、彼がどのような名で呼ばれていたかを特定することから始まる。しかし、この基本的な情報からして、史料は一筋縄ではいかない錯綜を見せている。
村上顕国は、「頼衡(よりひら)」という別名でも知られている 1 。一部の資料では「頼平」という表記も見られ 3 、これらが同一人物を指すのか、あるいは親子関係にある別人なのかについては、同一人物説と親子説の両方が提示されている 3 。さらに、村上氏の系図の中には、義清の父を「義国(ぎこく)」とするものも存在するが、この「義国」という名は信頼性の高い史料ではその存在が確認されていない 4 。このように、顕国を指す呼称自体が複数存在し、その関係性も不明確である点が、人物像を特定する上での最初の障壁となっている。
信濃村上氏は、清和源氏の中でも河内源氏の流れを汲み、源頼信の子である源頼清を祖とするとされる 5 。この系譜は、『尊卑分脈』などの権威ある系図集にも記されており、村上氏が信濃国において高い家格を誇っていたことの証左である 5 。平安時代後期、源頼清の子・顕清が信濃国に配流されたことをもって村上姓を称するようになったと伝えられ 5 、鎌倉時代から北信濃の有力国人として勢力を扶植してきた。
しかし、こうした輝かしい系譜も、戦国時代の武家が自らの正統性と権威を誇示するために、後世に整理・潤色された側面を持つことは否定できない。特に、村上氏の初期の系譜に関しては、史料的な裏付けに乏しい部分も指摘されており 5、その系譜が持つ歴史的「事実」と「権威付け」という二重性を念頭に置いておく必要がある。
顕国が、武田信玄を二度も破った猛将・村上義清の父であることは、多くの資料で共通して述べられている点である 2 。しかし、その息子である義清の出自に関しても、村上持清の子とする説や、村上満信の弟・満清の子とする説など複数の異説が存在し、確定を見ていない 4 。これは、顕国を義清の父として自明視することへの警鐘となる。顕国を父とする系譜が、後世、特に義清の武名が高まるにつれて、その権威を高めるために特定の系譜が選択され、確立された可能性も十分に考えられる。顕国の存在は、義清という著名な人物との関係性の中で語られることが多く、彼自身の独立した評価を困難にしている一因と言える。
顕国の生涯で最も大きな謎の一つが、その没年と家督相続の時期をめぐる矛盾である。複数の資料が異なる情報を示しており、一見すると不可解な時系列が浮かび上がる。しかし、この謎を解く鍵は、当時の武家社会に存在した「隠居」という独特の慣習にあると考えられる。
顕国の没年については、大きく分けて二つの説が存在する。一つは永正17年(1520年)に病没したとする説 2 、もう一つは大永6年(1526年)に死去したとする説である 1 。一方で、息子の義清が家督を相続した時期については、永正14年(1517年)に父・顕国から本拠地である葛尾城を譲られたと伝えられている 2 。
ここに一つの矛盾が生じる。もし顕国が1520年や1526年に亡くなったのであれば、なぜその数年前に家督を譲る必要があったのか。また、家督を譲った後の顕国は、単に余生を送っていただけなのだろうか。彼の行動を追うと、そうではないことがわかる。彼は家督委譲後も、永正17年(1520年)に寶珠山自性院を開基し 11、同じく永正17年頃には龍洞院の開闢に関わるなど 9、活発な活動を続けている。
この一見した矛盾は、戦国時代初期の武家の家督相続のあり方を理解することで合理的に説明できる。当時の家督相続は、当主の死亡時にのみ行われるものではなく、当主が生前に家督を後継者に譲る「隠居」という形が広く行われていた 12 。この「隠居」は、現代的な意味での完全な引退とは異なり、一族の軍事指揮権や政治的な表舞台(惣領職)は後継者に譲るものの、隠居した当主自身は「大殿」や「御隠居様」として一族の長老としての権威を保持し、さらには「隠居分」として個人資産を留保することも可能であった 12 。
このモデルを村上顕国に適用すると、次のような解釈が可能となる。
この「隠居」という慣習を媒介とすることで、生前の家督委譲、二つの異なる没年説(家督委譲の年と実際の没年が混同された可能性)、そして家督委譲後の活発な寺社建立という、これまで断片的で矛盾しているように見えた事象が、当時の社会慣習に則った一連の合理的な行動として、一つの線で結ばれる。これは、顕国の晩年の行動を理解する上で極めて重要な視点である。
断片的な記録を繋ぎ合わせることで、顕国の人物像は二つの側面から浮かび上がってくる。一つは北信濃の覇権を支える武将としての顔、もう一つは篤い信仰心を持つ文化人としての顔である。
複数の資料が、顕国を「砥石城主」であったと伝えている 9 。砥石城は、村上氏の本拠地である葛尾城(現・長野県坂城町)の東方、上田盆地に位置する。この城は、千曲川を挟んで東信濃や甲斐方面からの侵攻に備える最前線であり、村上氏が小県郡一帯に支配を及ぼすための最重要拠点であった 17 。顕国がこの戦略的要衝の主であったという事実は、彼が単に家柄によって当主となった名目上の君主ではなく、村上氏の勢力圏の維持・拡大という軍事的実務を担う、有能な武将であったことを強く示唆している。
顕国のもう一つの顔は、深く仏教に帰依した人物としてのものである。彼は出家入道し、「龍洞院」という院号を名乗ったと伝えられる 9 。後述するように、彼は自らの院号を寺院の名に残すほど、その信仰は篤いものであった。戦乱の世に生きた武将が、武力による支配だけでなく、宗教的な権威を通じて領民の心を掌握し、領国の安寧を図ろうとすることは、当時の国人領主の統治術としてしばしば見られる。顕国の寺社建立は、個人的な信仰の発露であると同時に、村上氏の支配者としての文化的・宗教的権威を高めるための、高度な政治的行為であったと解釈できる。武と文、俗と聖、この二つの側面を併せ持つことこそ、村上顕国という人物の奥深さを示している。
顕国に関する情報の錯綜を視覚的に整理するため、以下に比較表を示す。
情報項目 |
典拠(史料・伝承名) |
内容 |
備考・考察 |
呼称 |
複数資料 |
村上顕国 |
最も一般的に使用される名。 |
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『東筑摩郡誌』等 1 |
頼衡(よりひら) |
顕国と同一人物とされることが多い。 |
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保科村の伝承 3 |
頼平(よりひら) |
頼衡の異表記か。顕国と親子説、同一人物説がある。 |
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一部系図 4 |
義国(ぎこく) |
信頼性の高い史料では確認できず、後世の創作の可能性が高い。 |
出自 |
『尊卑分脈』等 5 |
清和源氏頼清流 |
村上氏の権威の源泉。ただし初期の系譜は史料的裏付けに乏しい。 |
親子関係 |
複数資料 2 |
村上義清の父 |
最も広く受け入れられている説。 |
生年 |
『戦国人名事典』 8 |
文亀元年(1501年) |
これは息子の義清の生年であり、顕国のものではない。顕国の生年は不明。 |
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『信濃史料』等 1 |
応仁3年(1469年) |
逆算による推定か。確たる史料はない。 |
家督相続 |
複数資料 2 |
永正14年(1517年)、義清に葛尾城を譲る |
顕国の生前に行われた「隠居」による家督委譲と考えられる。 |
没年 |
複数資料 2 |
永正17年(1520年) |
龍洞院の開闢年と一致する。 |
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『信濃史料』等 1 |
大永6年(1526年) |
1520年説と並存する有力説。 |
主な事績 |
寺伝 1 |
永正14年(1517) or 17年(1520) 寶珠山自性院を開基 |
建立地から、真田地域への影響力が窺える。 |
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寺伝 9 |
永正17年(1520年)頃 龍洞院を開闢 |
自らの院号を寺名とする。広域的な文化ネットワーク構築の意図が見える。 |
役職・称号 |
寺伝 9 |
砥石城主 |
村上氏の軍事戦略上の重要拠点を担っていたことを示す。 |
村上顕国の生涯において、具体的かつ確実にその名を刻む行為は、寺社の建立という宗教的活動に集約される。史料の乏しい彼の実像を探る上で、これらの事績は極めて貴重な手がかりとなる。本章では、顕国が関わった二つの曹洞宗寺院、寶珠山自性院と龍洞院の建立に焦点を当て、その行為が単なる個人的な信仰心の発露に留まらず、いかにして村上氏の権力基盤の強化と文化的威信の向上に寄与したかを深く分析する。
顕国の活動として記録に残る一つ目の重要な事績は、寶珠山自性院(ほうしゅさん じしょういん)の開基である。この寺院の建立は、当時の村上氏の勢力範囲を物語る上で重要な意味を持つ。
寺社の伝承によれば、顕国は永正14年(1517年) 1 、あるいは永正17年(1520年)に寶珠山自性院を開基したとされている 11 。この寺は曹洞宗に属し、同じく村上氏と縁の深い上田市蒼久保の龍洞院の末寺として創建された 11 。寺の屋根には村上氏の家紋である「丸に上文字」が今も残されており、両者の深いつながりを物語っている 20 。
自性院が建立された場所は、現在の上田市真田町本原である 11 。この地域は、後に武田信玄の信濃侵攻において重要な役割を果たすことになる真田氏が本拠とした、いわゆる「真田郷」に近接する。16世紀初頭という早い段階で、村上氏の当主である顕国がこの地に寺院を建立し得たという事実は、当時の村上氏の政治的・軍事的影響力が、後の真田氏の領域にまで深く浸透していたことを示す極めて重要な物証である 22 。これは、単に領土が広かったというだけでなく、その地域において寺院建立という恒久的な施設を造営できるだけの安定した支配権を確立していたことを意味する。後の武田・村上・真田の三者の関係性を考える上で、この時期の勢力図を規定する貴重な史実と言える。
自性院の歴史において興味深いのは、顕国による堂宇の建立(開基)が永正17年(1520年)であるのに対し、龍洞院三世の底山元徹大和尚を正式な住職として迎えての開山が、それから70年以上も後の文禄2年(1593年)であったという点である 11 。この長い時間差は、創建当初の自性院が、正式な伽藍を備えた寺院というよりは、顕国個人の、あるいは村上氏一族が管理・維持する小規模な庵や祈願所のような性格を持っていた可能性を示唆している。戦国期の動乱の中で、村上氏の庇護を失いながらも、村上氏ゆかりの人々によって細々と法灯が守られ続け 11 、世が安定した豊臣政権下になってようやく正式な寺院として再整備された、という歴史的経緯が推察される。
顕国の事績の中でも、その人物像と政治思想を最も色濃く反映しているのが、上田市蒼久保にある龍洞院(りゅうどういん)の開闢(かいびゃく、創始)である。この寺院の成立過程は、顕国が信濃国内に留まらない、広域的な視野を持っていたことを示している。
龍洞院はもともと、上田市神畑にあった鳳林寺という寺院が前身であったと伝えられる 16 。この寺を、砥石城主であった村上顕国が出家入道した際に、自らの院号である「龍洞院」にちなんで寺名を改め、新たに開創したとされる 9 。この事実は、顕国が単に資金を提供する寄進者(檀那)であっただけでなく、寺院の歴史そのものに深く関与し、自らの名を冠するほどの強力な庇護者(大檀那)であったことを物語っている。開闢の年は、顕国の没年とされる永正17年(1520年)と伝えられており 9 、彼の生涯の集大成ともいえる事業であった可能性が高い。
龍洞院の建立において最も注目すべき点は、開山(初代住職)として招聘された人物である。顕国は、信濃国内の高僧ではなく、遠く上野国(現在の群馬県)館林にある曹洞宗の名刹・青龍山茂林寺の二世であった南渓正曹(なんけい しょうそう)禅師を招いている 9 。
この選択は、単なる偶然や個人的な縁故によるものとは考えにくい。当時の有力な禅宗寺院は、学問や最新文化の中心地としての役割も担っていた。高名な禅師を遠方から招聘するという行為は、その人物が持つ学識や徳、そして彼が属する教団のネットワーク、さらには彼と交流のある各地の有力者との人脈までをも、自らの領国に導入することを意味した。
顕国が、隣国とはいえ関東の有力寺院である茂林寺から禅師を招いた背景には、以下のような戦略的意図があったと推察できる。
このように、龍洞院の建立は、単なる信仰の証に留まらず、村上氏の「中央」や他国への志向と、武力のみに頼らないソフトパワーを活用した巧みな領国経営術を示す、高度な政治的・文化的戦略であったと評価できる。
村上氏の権力と文化の象徴であった龍洞院は、その後の戦乱の渦に巻き込まれる。天文19年(1550年)頃、村上義清と武田信玄・真田幸隆が砥石城をめぐって激しく争った際に焼失したと伝えられている 9 。そして、村上氏が越後へ逃れた後の天正5年(1577年)、現在の上田市蒼久保の地で再興された 9 。庇護者であった村上氏の盛衰と運命を共にしたこの寺院の歴史は、戦国時代の信濃における宗教と権力の密接な関係を如実に物語っている。
村上顕国の行動と決断を正しく理解するためには、彼が生きた16世紀前半の信濃国がどのような時代であったかを把握することが不可欠である。彼の生涯は、守護の権威が揺らぎ、国人領主たちが自立と勢力拡大を目指して鎬を削る、まさに戦国乱世の幕開けと重なる。本章では、顕国が村上氏を率いた時代の政治的・軍事的環境を概観し、彼の事績が持つ歴史的意義を文脈の中に位置づける。
顕国が活躍した時代、信濃村上氏はその権勢の頂点に達しつつあった。
室町時代を通じて、信濃国では幕府が任命した守護・小笠原氏の権威は必ずしも全土に行き渡っていなかった。山がちで広大な信濃では、各地の国人領主が強い独立性を保ち、地域ごとに割拠する状態が続いていた。中でも、鎌倉時代以来の歴史を持つ村上氏は、北信濃において最強の勢力を誇る国人領主の筆頭格であった。時には、信濃に入国しようとする守護・小笠原氏の軍勢を武力で撃退することさえあり、その実力は守護を凌駕することもあった 6 。顕国は、この村上氏の伝統的な権威と実力を背景に、一族を率いる当主となったのである。
顕国から息子の義清へと引き継がれる時代、村上氏の勢力は最大版図に達した。その支配領域は、本拠地である埴科郡、更級郡に加え、高井郡、水内郡のいわゆる「川中島四郡」、さらには東信濃の小県郡半郡にまで及んだ 26 。その所領の経済規模は九万貫に達したとされ、これは信濃国内において突出した勢力であったことを示している。顕国の時代は、この広大な領域支配を確立し、安定させるための重要な時期であった。
顕国が家督を継承し、当主として活動した永正・大永年間は、日本全体が応仁の乱以降の混乱から抜け出せず、各地で実力者が台頭する時代であった。
中央政界の混乱は「永正の乱」として地方にも波及し、信濃国内でも国人領主間の抗争が一層激しさを増していた 27 。村上氏は、同じく北信濃に勢力を張る高梨氏や井上氏、信濃守護の家系である小笠原氏、東信濃の滋野一族など、周辺の有力勢力と常に緊張関係にあった 6 。この時期の村上氏の軍事行動として、永正年間に若槻城へ侵攻し、城主の若槻広隆を追い落としたといった具体的な記録も残っている 30 。このような絶え間ない抗争の中で領国を維持・拡大していくことが、当時の国人領主にとって最大の課題であった。
このような不安定な情勢下で、有力な国人領主たちは武力だけでなく、宗教的権威を利用した領国経営を積極的に行った。例えば、南信濃の木曾氏は、この時期に禅宗寺院である定勝寺や興禅寺を創建し、一族の菩提寺とすることで領内の求心力を高めている 31 。顕国による自性院や龍洞院の建立もまた、こうした同時代の潮流の中に位置づけられる。寺社の建立と保護は、単なる信仰の表明ではなく、領民の精神的な支柱となると同時に、支配者の権威を可視化し、領国支配を安定させるための高度な統治術だったのである。
顕国の治世は、村上氏の歴史における一つの転換点であった。彼は、次代の義清が戦国乱世を戦い抜くための、盤石な軍事的・戦略的遺産を残した。その最大の功績は、武田信玄との決戦の舞台となる「砥石城」の戦略的価値を確立したことにある。
村上氏の支配体制の根幹は、本拠地である葛尾城と、上田盆地への進出・防衛拠点である砥石城の二大拠点によって支えられていた。葛尾城が政治的中心地であるとすれば、砥石城は東方に対する軍事的最前線であった。この二つの城は、千曲川を挟んで相互に連携し、侵攻してくる敵を迎え撃つ一大防衛ネットワークを形成していた 18 。
顕国が「砥石城主」であったという事実は、彼がこの防衛網の要を直接管轄していたことを意味する。彼が当主であった時代に、砥石城とその周辺地域の支配が安定し、城の防備が固められたからこそ、息子の義清は、甲斐から信濃へ侵攻してくる武田信玄の軍勢を、この地で迎え撃つことができたのである。
この顕国が築いた戦略的基盤の重要性は、天文19年(1550年)の「砥石崩れ」において劇的に証明される。武田信玄が7000の大軍で砥石城に攻め寄せた際、城を守る村上方の兵はわずか500であった 32 。しかし、砥石城の堅固な守りと、後詰めに駆け付けた村上義清本体の猛攻により、武田軍は1000人もの死者を出す歴史的な大敗を喫し、信玄自身も命からがら敗走した 32 。この勝利は、義清の卓越した軍事的才能を示すものであると同時に、その土台となった砥石城という戦略拠点を盤石なものにしていた父・顕国の深慮遠謀の賜物であったと評価することができる。
顕国の功績は、単に「義清の父」という血縁関係に留まるものではない。彼は、村上氏の軍事戦略における最重要拠点を確立・維持し、次代の栄光への道を準備した「戦略家」として再評価されるべきである。義清の華々しい武勇伝は、顕国が築き上げた堅固な土台なくしては語り得ないのである。
村上顕国と義清の生涯を、信濃国および日本全体の歴史的出来事と並行して示すことで、彼らの行動の時代的文脈を明確にする。
西暦 |
和暦(元号) |
村上顕国・義清の動向 |
信濃国の主要な出来事 |
日本全体の主要な出来事 |
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1501 |
文亀元年 |
村上義清、生まれる (父は顕国とされる) 2 。 |
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1504 |
永正元年 |
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守護・小笠原氏が深志城(後の松本城)を築城か 35 。 |
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1508 |
永正5年 |
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北信濃の高梨政頼が越後長尾氏と結ぶ(永正の乱) 29 。 |
足利義稙が将軍に復帰。 |
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1515 |
永正12年 |
義清、元服する 8 。 |
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1517 |
永正14年 |
顕国、義清に葛尾城を譲る(家督相続・隠居か) 2 。 |
自性院を開基 (一説) 1 。 |
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1520 |
永正17年 |
顕国、没する(一説) 2 。 |
自性院を開基 (一説) 11 。 |
龍洞院を開闢 9 。 |
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1521 |
大永元年 |
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足利義晴が第12代将軍に就任。 |
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1526 |
大永6年 |
顕国、没する(一説) 1 。 |
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1541 |
天文10年 |
義清、武田信虎・諏訪頼重と連合し海野平の戦いで滋野一族(真田氏ら)を破る 8 。 |
真田幸隆(幸綱)、上野国へ亡命。 |
武田信虎が追放され、武田晴信(信玄)が家督相続。 |
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1542 |
天文11年 |
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武田晴信、諏訪氏を滅ぼす。 |
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1548 |
天文17年 |
義清、 上田原の戦い で武田晴信を破る。武田方の重臣・板垣信方、甘利虎泰らを討ち取る 36 。 |
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1550 |
天文19年 |
義清、**砥石城の戦い(砥石崩れ)**で武田晴信を再び破る 8 。 |
龍洞院、この頃の戦乱で焼失か 9 。 |
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1551 |
天文20年 |
真田幸隆の調略により、砥石城が武田方の手に落ちる 2 。 |
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1553 |
天文22年 |
義清、葛尾城を捨て越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り亡命。信濃村上氏、事実上滅亡 2 。 |
これにより川中島の戦いが始まる。 |
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1573 |
元亀4年 |
村上義清、越後根知城にて病没 8 。 |
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武田信玄、没する。 |
本報告書を通じて、戦国時代の信濃武将・村上顕国について、断片的かつ錯綜する史料を多角的に分析し、その実像に迫ることを試みた。その結果、顕国は単なる「村上義清の父」という以上の、信濃村上氏の歴史において極めて重要な役割を果たした人物であることが明らかになった。
彼の人物像は、北信濃の覇権を軍事的に支える「砥石城主」としての武将の顔と、自らの院号「龍洞院」を寺名に残すほどの篤信の士としての顔を併せ持つ、複合的なものであった。生前の家督委譲と、その後の活発な寺社建立という一見矛盾した行動は、戦国初期の武家社会における「隠居」という戦略的な権力移譲の慣習を適用することで、合理的なものとして理解できる。彼は、次代を担う若き義清に軍事・政治の表舞台を譲りつつ、自らは一族の長老として、文化的・宗教的な側面から村上氏の権威と支配基盤を固める役割を担ったのである。
顕国が生きた時代は、信濃の国人領主たちが守護の権威から脱し、自立した戦国大名へと変貌を遂げていく過渡期であった。彼はこの流動的な情勢の中で、巧みな領国経営と文化的戦略を駆使して村上氏の権力基盤を盤石なものにした。彼が確立した砥石城を中心とする軍事防衛網と、龍洞院建立に見られるような関東の有力寺院との広域的な文化的ネットワークは、息子・義清が、後に天下に名を轟かせる武田信玄と互角以上に渡り合うための、計り知れないほど大きな戦略的遺産となった。
村上顕国は、村上氏が北信濃の一国人領主から、信濃全土に影響を及ぼす戦国大名へと飛躍する、まさにその橋渡し役を担った人物である。彼の生涯は、次代の華々しい活躍の陰に隠れ、史料の乏しさから多くが謎に包まれている。しかし、その堅実な布石なくして、村上氏の最盛期はあり得なかったであろう。史料の狭間に見える彼の姿は、武力と信仰、伝統と革新が交錯する戦国という時代の転換期を、深慮遠謀をもって生き抜いた、一人の優れた地域支配者の肖像なのである。今後のさらなる史料発見と、関連分野からの研究の深化が、彼のより詳細な実像を解き明かし、信濃戦国史におけるその正当な評価を確立することを期待したい。