松下重綱は秀吉の旧主の子。関ヶ原で東軍につき武功、大坂の陣でも奮戦し5万石大名となるも急逝。子の代で改易されるが、旗本として家名は存続。綱火を創始するなど多才な武将。
本報告書は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて活躍した大名、松下重綱(まつした しげつな)の生涯を、関連する人物や社会情勢との関わりの中で多角的に分析し、その歴史的実像に迫るものである。
松下重綱の生涯は、彼の父・之綱(ゆきつな)が若き日の豊臣秀吉を庇護したという稀有な縁によって、大きく規定された。この宿縁を背景に豊臣政権下で大名として出発し、天下分け目の関ヶ原の戦いを経て徳川の世を生き抜き、最終的には五万石の大名にまで上り詰めた。しかし、その栄光は一代で頂点を迎え、次代で大名家としては断絶するという、時代の転換期を象徴するような劇的な浮沈を経験した。
本報告書では、重綱を単なる「秀吉の旧主の子」という側面からのみならず、一人の武将、統治者、そして時代の激動に翻弄された大名家の当主として捉え直し、その武功、治績、そして悲劇に至るまでの全貌を、史料に基づき徹底的に解明することを目的とする。
和暦 (西暦) |
年齢 (数え) |
出来事 |
関連事項/石高 |
天正7年 (1579) |
1歳 |
松下之綱の次男として誕生 1 。 |
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天正16年 (1588) |
10歳 |
豊臣秀次に仕え、右兵衛尉に任官 1 。 |
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慶長3年 (1598) |
20歳 |
父・之綱の死去に伴い家督を相続。遠江国久野藩主となる 1 。 |
1万6000石 |
慶長5年 (1600) |
22歳 |
関ヶ原の戦いで東軍に属し、石田三成軍と戦い武功を挙げる 1 。 |
所領安堵 |
慶長8年 (1603) |
25歳 |
久野城の無断修築を咎められ、常陸国小張藩へ移封される 1 。 |
1万6000石 |
慶長19年-元和元年 (1614-15) |
36-37歳 |
大坂の陣に徳川方として参陣。天王寺・岡山の戦いで奮戦する 1 。 |
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元和2年 (1616) |
38歳 |
大坂の陣での戦功により4,800石を加増される 1 。 |
2万800石 |
元和9年 (1623) |
45歳 |
下野国烏山藩へ移封 1 。 |
2万800石 |
寛永4年 (1627) |
49歳 |
舅・加藤嘉明の会津転封に伴い、陸奥国二本松藩へ加増移封 1 。 |
5万石 |
寛永4年10月2日 (1627) |
49歳 |
二本松にて病死 1 。 |
嫡男・長綱が家督相続 |
松下重綱の生涯を理解する上で、彼の父・之綱と豊臣秀吉との関係は避けて通れない。この宿縁こそが、松下家を戦国大名へと押し上げた原動力であった。
松下氏は、近江源氏佐々木氏の庶流を称する一族で、三河国碧海郡松下郷(現在の愛知県豊田市)を発祥の地とする 2 。室町時代には幕府政所執事であった伊勢氏の被官となるなど、小規模な土豪でありながら中央政権との繋がりを模索する意欲的な家系であったことが記録から窺える 5 。
重綱の父・之綱(通称:嘉兵衛)は、槍術の達人として知られた松下長則の子として天文6年(1537年)に生まれた 4 。彼は駿河の今川義元に仕え、遠江国頭陀寺城(現在の静岡県浜松市)の城主を務めていた 4 。この時期、松下家は歴史的な出会いを果たす。後に天下人となる、木下藤吉郎と名乗っていた若き日の豊臣秀吉を召し抱えたのである 8 。『太閤記』などの後代の編纂物では、之綱が秀吉に武芸や学問、兵法を教えたとされ、秀吉の「最初の主君」として広く知られることとなった 4 。秀吉が松下家を去った理由は、同輩からの嫉妬などが伝えられるが、その真相は定かではない 8 。
この有名な逸話には、歴史的考察を要する点が存在する。通説では秀吉は之綱に仕えたとされるが、両者は共に天文6年(1537年)生まれの同年齢である 4 。当時の身分秩序を鑑みれば、同年齢の人物が主従関係を結ぶことには不自然さが伴う。そのため、研究者の間では、秀吉が実際に仕えたのは之綱の父である長則であり、後に天下人となった秀吉が直接恩顧を与えた相手が之綱であったことから、物語として分かりやすくするために奉公の対象も之綱に集約されていったのではないか、という説が有力視されている 4 。秀吉自身が九州征伐の際に発した朱印状で「松下加兵衛(之綱)事、(秀吉が)御牢人の時、忠節の仁(人)に候間」と記していることから 4 、秀吉が之綱を旧主として公に認めていたことは事実であり、これが通説を強固にしたと考えられる。史実としては「父・長則の代から松下家に仕え、その縁を息子の之綱が引き継いだ」と解釈するのが最も合理的であろう。
桶狭間の戦いで今川義元が討たれ、遠州地方が混乱に陥ると、之綱は頭陀寺城を失うなど苦難の道を歩む 4 。一時は徳川家康に仕えるも、武田氏に降伏するなど安定しない時期を過ごした 4 。その之綱に手を差し伸べたのが、織田家臣として長浜城主に出世していた秀吉であった。秀吉は困窮していた旧主を召し出し、破格の厚遇で迎えた 12 。天正11年(1583年)のことと伝わる 4 。
秀吉の家臣となった之綱は、九州征伐などで武功を立て、小田原征伐後の天正18年(1590年)、秀吉から遠江国久野(現在の静岡県袋井市)に1万6千石を与えられ、ついに大名の列に加わった 4 。秀吉の恩義は格別なもので、之綱に与えられた久野城は、その石高に比して格式の高い瓦がふんだんに用いられた壮麗な城であったことが近年の発掘調査で明らかになっており、天下人の旧主への深い配慮を物語っている 12 。
松下重綱は、天正7年(1579年)、父・之綱の次男として誕生した 1 。母は同族の松下連昌の娘である 2 。彼は早くから武将としての道を歩み始め、父と共に豊臣秀吉に仕えた後、秀吉の甥で関白となった豊臣秀次に属した 1 。天正16年(1588年)、わずか10歳で右兵衛尉に任官されており、将来を嘱望されていたことが窺える 1 。
慶長3年(1598年)、父・之綱が62歳でこの世を去ると、松下家に一つの転機が訪れる 4 。家督は、長男の暁綱(あきつな)ではなく、次男である重綱が相続したのである 2 。これにより、重綱は20歳で遠江久野藩1万6千石の二代藩主となった 1 。
長子相続が原則であったこの時代において、次男の重綱が家督を継いだ理由は明確には記録されていない 4 。しかし、この背景には、松下家の将来を見据えた戦略的な判断があったと推測される。長男の暁綱は武士としてのキャリアを選ばず、地元に残り庄屋になったとの伝承がある 14 。これは、彼が在地領主としての生活を望んだか、あるいは何らかの理由で大名家の当主として不適格と見なされた可能性を示唆する。一方で、次男の重綱は早くから秀次に出仕して中央政権との繋がりを持ち、武将としての経験を積んでいた 1 。秀吉の死が目前に迫り、政情が不安定化する中で、父・之綱や一族が、松下家を大名として存続させるためには、中央での活動実績があり、武将としての能力も期待できる重綱こそが当主にふさわしいと判断した可能性は高い。この家督相続は、単なる家族内の問題ではなく、戦国末期の武家が生き残りをかけて下した、極めて政治的な決断の一例と見ることができる。
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した対立は、天下分け目の関ヶ原の戦いへと発展した。この国家的な動乱において、松下重綱は徳川家康率いる東軍に与するという重大な決断を下す 1 。
父・之綱は秀吉から絶大な恩顧を受けた大名であったが、重綱の代では豊臣家との直接的な恩義は相対的に薄れていた。加えて、彼の所領である遠江国は家康の旧領であり、地理的にも徳川方の影響力が強い地域であった 15 。同じく遠江掛川城主であった山内一豊をはじめ、周囲の多くの豊臣恩顧大名が東軍への参加を表明する中 15 、重綱もまた時勢を冷静に読み、現実的な選択をしたと考えられる。
この決断は、単なる裏切りや変節として片付けられるべきではない。当時の豊臣恩顧大名の多くは、石田三成ら吏僚派の奉行衆と対立しており、彼らの行動は豊臣家への忠誠心とは別の政治力学によって動いていた。重綱の東軍参加もまた、こうした大局的な流れに沿ったものであり、何よりも自らの家を存続させるための計算された政治的行動であった。西軍に付けば、周囲を東軍方の大名に囲まれ、即座に攻撃される危険性が極めて高かった。勝利の可能性が高いと見られた家康に味方し、明確な武功を立てることで、新しい時代における自家の地位を確保しようとしたのである。
重綱の判断は、戦場での具体的な行動となって結実する。彼は関ヶ原の本戦に自ら兵を率いて参加し、西軍の中核である石田三成の軍勢と直接刃を交えた 1 。この激戦の中で、首級50を挙げるという目覚ましい武功を立てたことが記録されている 1 。この具体的な戦功の記録は、戦後の論功行賞を強く意識したものであり、彼の冷徹なリアリズムを物語っている。この功により、重綱は戦後、所領を安堵され、徳川政権下で大名として生き残ることに成功した。
関ヶ原の戦いから十数年後、徳川家と豊臣家の最後の対決である大坂の陣が勃発する。慶長19年(1614年)からのこの戦役において、松下重綱は徳川方として参陣し、本多忠朝の部隊に属して戦った 1 。
彼の武功が特に際立ったのは、元和元年(1615年)の夏の陣、最終決戦となった天王寺・岡山の戦いであった。この戦いは、豊臣方の真田信繁(幸村)や毛利勝永らが徳川家康本陣に肉薄する、大坂の陣で最も激しい戦闘の一つとなった 20 。重綱が属した本多忠朝隊は、正面から毛利勝永隊の猛攻を受け、将である忠朝自身が討死するという壊滅的な打撃を被った 20 。この死闘の最中、重綱は自ら槍を手に取って敵陣に突撃するという、獅子奮迅の働きを見せたことが伝えられている 1 。
父の代の主家である豊臣家を滅ぼす戦いにおいて、重綱はなぜこれほどまでに激しく戦ったのか。それは、徳川政権への完全な帰順を証明し、自らの立場を盤石にするための、計算された行動であったと見ることができる。豊臣恩顧の大名である重綱は、幕府から潜在的な警戒対象と見なされていた可能性があり、事実、この戦いの十数年前には「無断普請」の罪で処罰を受けている。大坂の陣は、諸大名にとって徳川家への忠誠を試される「踏み絵」であった。ここで曖昧な態度を取ることは、将来の改易に直結しかねない。
重綱は、ただ参陣するだけでなく、最も激しい戦場で「自ら槍を取って奮戦する」という目に見える武功を示すことで、新時代の支配者への絶対的な忠誠を疑いのない形で証明しようとしたのである。この奮戦は幕府に高く評価され、戦後の元和2年(1616年)、重綱は4,800石を加増され、合計2万800石の大名となった 1 。彼は旧主家への刃を振るうことで、過去の出自を清算し、徳川の世での確固たる地位をその手で掴み取ったのである。
関ヶ原の戦いから3年後の慶長8年(1603年)、松下重綱のキャリアは大きな試練を迎える。居城である遠江久野城の石垣(あるいは石畳、礎石建物)を幕府に無断で修築したとして罪に問われたのである 1 。この一件により、重綱は常陸国小張(おばり、現在の茨城県つくばみらい市)へ、同石高の1万6千石ながらも懲罰的な意味合いの強い移封を命じられた 1 。
この事件の背景には、成立間もない江戸幕府の、大名に対する強固な統制政策があった。幕府は大名の軍事力を削ぎ、謀反の芽を摘むため、城郭の普請を厳しく管理する方針を採っていた。この方針は、元和元年(1615年)に「武家諸法度」として、「新規の築城は厳禁、居城の修理といえども幕府に届け出ること」と明文化されることになる 24 。重綱の事件は、この法令が明文化される以前の、幕府が支配権を確立していく過渡期に起きた象徴的な出来事であった。
「無断普請」は、幕府にとって豊臣恩顧の大名を抑圧するための格好の口実であった。後年、豊臣恩顧の代表格である福島正則も広島城の無断修築を理由に改易されており 27 、幕府がこの種の理由を政治的弾圧の常套手段としていたことが窺える。重綱の居城・久野城は、江戸と京・大坂を結ぶ東海道沿いの戦略的要衝に位置していた 15 。ここに豊臣と縁の深い大名を置いておくことは、幕府にとって潜在的なリスクと見なされた。一方、移封先の常陸小張は、当時の関東の中心地から外れた場所であり、軍事的・経済的な重要度は低かった 30 。この配置転換は、明らかに松下家の影響力を削ぐための措置であった。
幕府が改易(領地没収)ではなく、同石高での移封に留めた点も巧妙である。これは、関ヶ原での功績に配慮する姿勢を見せつつも、幕府の意向に逆らえばいかなる大名も処罰されるという強いメッセージを天下に示す、見せしめの意味合いがあった。松下重綱は、徳川による新たな支配体制構築の過程で、その見せしめとして選ばれたのである。この屈辱的な経験は、彼に徳川政権下で生き抜くことの厳しさを痛感させ、後の大坂の陣における過剰なまでの奮戦に繋がる、強い動機の一つとなった可能性は否定できない。
松下重綱の生涯は、戦場での武功や幕府との緊張関係だけでなく、各地の領主として残した統治の足跡によっても特徴づけられる。頻繁な移封に見舞われながらも、彼はそれぞれの土地で確かな治績と文化的な遺産を残した。
期間 (西暦) |
藩名 |
石高 |
藩庁 (城) |
移封の理由/背景 |
1598-1603 |
遠江久野藩 |
1万6000石 |
久野城 |
父・之綱の死に伴う家督相続。 |
1603-1623 |
常陸小張藩 |
1万6000石 |
小張城(陣屋) |
久野城の無断修築による懲罰的移封。 |
1623-1627 |
下野烏山藩 |
2万800石 |
烏山城 |
大坂の陣での戦功による加増移封。 |
1627 |
陸奥二本松藩 |
5万石 |
二本松城 |
舅・加藤嘉明の与力大名としての加増移封。 |
常陸小張藩主として過ごした20年間(1603-1623年)は、重綱の統治者としての一面を色濃く示している。彼は小張城(あるいは陣屋)を拠点として領地を治めた 31 。この地で、重綱は後世にまで伝わる最も重要な文化的功績を残す。それが「小張松下流綱火(つなび)」の創始である 19 。
綱火は、空中に張った綱を操作してあやつり人形を動かし、それに仕掛け花火を組み合わせた、物語性のある独創的な民俗芸能である 35 。伝承によれば、重綱自身が火薬の扱いに長けた「火薬師」であり 33 、元々は戦勝祝いや戦没者の供養のために陣中で行っていたものを、この地で民衆の娯楽として定着させたとされる 33 。この技術は家臣の大橋吉左衛門に秘法として伝えられ 37 、現在では「国の重要無形民俗文化財」に指定されている 19 。懲罰移封という政治的逆境の中で、軍事技術を平和的な文化創造へと昇華させたこの事実は、重綱の多才さと精神的な強靭さを示している。また、この他にも谷田部街道沿いに高雲寺を開基するなど、地域の発展に寄与した 39 。
元和9年(1623年)、重綱は大坂の陣での功績が改めて評価され、2万800石に加増の上で下野国烏山(現在の栃木県那須烏山市)へ移封された 1 。烏山での在城は4年と短期間であったが、彼はこの地でも統治者としての実務能力を発揮する。領国経営の基礎である検地に着手し、次代の藩主へと引き継がれる善政の礎を築こうとした 40 。また、寛永元年(1624年)には天性寺に寺領を寄進しており、その際の寄進状が現存している 42 。これは、地域の宗教勢力との関係を良好に保とうとする、堅実な統治手腕を物語る貴重な史料である。
戦場での武功が彼のキャリアを押し上げたことは間違いないが、これらの治績は、重綱が単なる武辺者ではなく、実務能力と文化的な素養を兼ね備えた、立体的な人物であったことを明確に示している。
松下重綱のキャリアの頂点は、有力大名との姻戚関係によってもたらされた。彼は、豊臣恩顧の重鎮であり、賤ヶ岳七本槍の一人として名高い加藤嘉明の長女・星覚院を正室に迎えていた 2 。この婚姻は、彼の運命を大きく左右する決定的な要因となった。
寛永4年(1627年)、会津藩主であった蒲生氏が嗣子なく改易となると、幕府は東北地方の支配体制を再編する。その一環として、伊予松山藩主であった加藤嘉明を、東北の要衝である会津40万石へと移封した 1 。この大規模な配置転換に伴い、娘婿であった重綱もまた、白羽の矢が立てられた。彼は2万石近くという大幅な加増を受け、陸奥国二本松5万石の領主として、嘉明の「与力大名」に抜擢されたのである 1 。与力大名とは、大藩の藩主に付属させられ、軍事的に協力する義務を負う中小大名のことであり、幕府が有力大名の周辺に親族や縁者を配置することで、地域の安定と監視を図るための制度であった。
父・之綱の1万6千石から始まった松下家は、重綱の代でついに5万石の大々名へと飛躍を遂げた。これは、重綱自身の武功と、有力者との縁組という政治的手腕が結実した、生涯最大の栄光であった。
しかし、その栄光はあまりにも短かった。二本松への移封が完了し、これから大名として本格的な領国経営を始めようという矢先の同年10月2日、重綱は病により急逝してしまう 1 。享年49。まさに栄光の頂点での、あまりにも突然の死であった。
この予期せぬ死は、松下家にとって最大の悲劇の序章となる。もし重綱が長命であれば、会津40万石の藩主である舅・加藤嘉明という強力な後見人の下で、家の地位を盤石なものにできた可能性は高い。しかし、彼の死により、若年の嫡男・長綱は強力な庇護者を失い、幕府の政策の荒波に直接晒されることになった。重綱の亡骸は、後に息子の長綱が藩主となる三春の地に運ばれ、自らの戒名「州伝院長厳長洋大居士」を寺号とする州伝寺に葬られた 1 。彼の生涯は、あと一歩で築き上げた安泰を目前にして力尽きた、という点で極めて悲劇的であった。
父・重綱の急逝により、嫡男の長綱が18歳で5万石の家督を継いだ 49 。しかし、松下家の栄光は長くは続かなかった。わずか数ヶ月後の寛永5年(1628年)、幕府は長綱が「幼稚(若年であること)」を理由に、2万石を減封した上で陸奥三春3万石へ移すという、理不尽とも言える命令を下した 6 。
それでも長綱は、移封先の三春において、城郭を近世的なものに改修し、城下町を整備するなど、藩主としての治績を挙げている 49 。また、父・重綱の菩提を弔うために州伝寺を、母・星覚院のために光岩寺を建立するなど、信仰心も篤かった 49 。
しかし、寛永21年(1644年)、長綱は「乱心(狂気)」を理由に突如として改易(領地没収)を言い渡される 49 。これにより、大名としての松下家は完全に断絶した。
この「乱心」という公式理由は、額面通りに受け取ることはできない。江戸時代初期、幕府は意に沿わない大名、特に豊臣恩顧の大名を取り潰す際に、「乱心」や「家中不取締」を便利な口実として多用した。長綱の改易の真相は、彼の個人的な資質の問題ではなく、より大きな政治的粛清の文脈の中にあったと見るべきである。
その直接的な引き金は、松下家が姻戚関係にあった加藤家の改易であった。改易の前年、寛永20年(1643年)、本家筋にあたる会津藩主・加藤明成が家中騒動(会津騒動)を理由に改易された 49 。これに連なる形で、加藤家の与力大名であった松下家もまた、粛清の対象となったのである 49 。一説には、幕府が将軍家光の異母弟である保科正之を会津に配置するため、その地盤を固める上で邪魔な加藤一族を一掃する必要があったとも言われている 49 。
この絶体絶命の状況で、興味深い動きを見せたのが、長綱の舅である土佐藩主・山内忠義であった。記録によれば、長綱の改易は、山内忠義が「長綱が発狂したので領地を幕府に返上したい」と自ら願い出たことで決定づけられている 56 。これは、幕府の意向を察した山内家が、正面から抵抗すれば自家も危ういと判断し、長綱の生命の安全を確保することを条件に、改易を受け入れるという「政治的取引」を行ったものと解釈できる。事実、長綱は死罪を免れ、土佐藩預かりの身となり、その地で生涯を終えている 49 。
父・重綱が築き上げた5万石の栄光は、強力な縁戚関係であったがゆえに、その縁戚が粛清の対象となると、逆に家を取り潰される要因となってしまった。これは、個人の力では抗いようのない、江戸幕府の絶対的な権力構造を象徴する悲劇であった。
大名としての松下家は長綱の代で断絶したが、その血脈は途絶えることはなかった。万治元年(1658年)、長綱の子である長光が、松下家の名跡を継ぐことを特別に許され、3,000石の旗本として取り立てられたのである 6 。この家系は旗本寄合席に列せられ、江戸時代を通じて存続した 6 。
幕府が松下家の完全な断絶ではなく、旗本としての存続を認めた背景には、いくつかの計算された政治的意図があったと考えられる。第一に、父・重綱が関ヶ原・大坂の陣で徳川方として立てた多大な功績への配慮である。功臣の家系を完全に断絶させることは、幕府の評判を損ないかねないため、小禄ながらも家名を存続させることで、幕府の「温情」を示すポーズを取る必要があった。
第二に、改易の正当性を補強する意図である。家系の存続を許すことで、「今回の改易はあくまで長綱個人の問題(乱心)であり、松下家そのものに罪があったわけではない」という幕府の公式見解を内外に示す効果があった。
そして第三に、改易に協力した土佐藩主・山内家への配慮である。山内家の面目を立て、幕府へのさらなる忠誠を促すための「貸し」を作る意味合いも含まれていた。
旗本としての松下家の再生は、単なる温情措置ではなく、大名を改易するという強硬策と、功臣や協力者への配慮という柔軟策を巧みに組み合わせた、江戸幕府の高度な統治技術の表れであった。松下家は、その浮沈の全過程を通じて、江戸幕府初期の政治力学を体現する存在となったのである。
松下重綱は、父・之綱と豊臣秀吉との特別な縁という、類まれな政治的資産を背景にキャリアをスタートさせた武将であった。彼はその資産を活かしつつも、関ヶ原、大坂の陣という時代の大きな転換点において、自らの武功によって徳川政権下での地位を確立し、父の代を大きく超える5万石の大名へと家を飛躍させた。その手腕は、武将としても政治家としても高く評価されるべきであろう。
彼の生涯は、戦場での武勇に留まらない多面性を持っていた。懲罰移封先の常陸小張で創始した「小張松下流綱火」は、彼の文化的な創造性を示す不朽の遺産であり、下野烏山で試みた検地は、統治者としての実務能力を物語っている。
しかし、彼の成功は、豊臣恩顧大名に対する徳川幕府の厳しい監視と統制という、常に不安定な土台の上にあった。久野城での懲罰移封はその象徴であり、彼の生涯は常に幕府との緊張関係の中にあったと言える。そして、生涯最大の栄光を掴んだ直後の急逝は、結果として次代での家の没落を招く直接の原因となった。
松下重綱の生涯、そしてその後の松下家の運命は、豊臣から徳川へと移行する時代のダイナミズムと、その中で生き残りをかけて戦った中小大名の栄光と悲劇を凝縮した、貴重な歴史の縮図である。彼は自らの手で家を大きくしたが、その家が存続するには、時代の波はあまりにも荒々しかった。それでもなお、その血脈を旗本として未来へ繋いだという事実は、彼の奮闘が無に帰したわけではなかったことの、唯一の証左と言えるだろう。