松屋久政は奈良の塗師で豪商。利休と交流し、北野大茶会に参加。三代にわたる茶会記『松屋会記』を起筆し、茶道史の貴重な記録を残した。松屋三名物を所蔵。
日本の茶道史において、千利休、武野紹鷗、今井宗久といった人物が燦然と輝く星であるならば、松屋久政(まつや ひさまさ)は、その星々の光を静かに、しかし克明に記録し続けた観測者のような存在である。一般に彼は、三代にわたる茶会記『松屋会記』の起筆者として知られる。しかし、その人物像を単なる「記録者」の枠に収めることは、彼の本質を見誤ることになる。
松屋久政は、戦国時代から安土桃山時代という、日本史上類を見ない激動の時代を生きた。彼の拠点は、政治と経済の中心地であった堺や京都ではなく、古都・奈良であった。そして彼の生業は、豪商でありながら、職人としての側面を持つ「塗師(ぬし)」であった 1 。この堺や京の茶人たちとは一線を画す出自と地理的背景は、彼の審美眼や茶の湯における独自の立ち位置を形成する上で、決定的な役割を果たした。
本報告書は、松屋久政という一人の文化人を多角的に分析し、その実像に迫ることを目的とする。具体的には、第一に、彼が根差した「松屋」という家の系譜と「塗師」という生業の歴史的背景を解明する。第二に、千利休をはじめとする当代一流の文化人との交流や、天下人・豊臣秀吉との接点など、彼の生涯の軌跡を追う。第三に、彼が後世に残した最大の遺産である一級史料『松屋会記』の内容を精査し、その歴史的価値を明らかにする。そして最後に、彼が愛蔵し、その審美眼の象徴であった「松屋三名物」を詳細に分析する。これら三つの柱を通して、久政が単なる記録者に留まらず、時代の文化を享受し、媒介し、そして後世に伝えるという、極めて重要な役割を担った人物であったことを論証する。
松屋久政の人物像を理解するためには、まず彼が属した「松屋」という家と、その家業である「塗師」が、当時の奈良においてどのような存在であったかを知る必要がある。松屋家は、職人としての高い技術力と、茶の湯を嗜む文化的素養を兼ね備えた、奈良を代表する一族であった。
松屋家の本姓は「土門(どもん)」といい、代々「漆屋源三郎」を通称としていた 1 。その通称が示す通り、彼らの生業は漆器を製作する塗師であった。奈良における漆工芸の歴史は極めて古く、飛鳥時代に大陸から伝来して以来、日本の漆工芸発祥の地と見なされている 4 。特に天平文化が花開いた時代には、正倉院宝物に見られるような、螺鈿(らでん)や金銀平脱(きんぎんへいだつ)といった高度な技法を駆使した漆器が数多く生み出された 5 。
中世に入ると、奈良の塗師たちは興福寺や春日大社といった「南都」の有力寺社に所属し、その庇護のもとで活動するようになる 5 。彼らは寺社の建造物における漆塗りや、儀式で用いる什器の製作・修理を担うことで、安定した経済基盤と高い社会的地位を確保した。同時に、茶の湯の発展に伴い、茶道具を製作する塗師の中から名人上手が現れるなど、芸術性の高い工芸品を生み出す土壌が育まれていった 5 。松屋家もまた、こうした奈良の由緒ある塗師の系譜に連なる一族であり、その技術力と文化的背景は、久政が茶の湯の世界で重きをなすための重要な基盤となったのである。
松屋家が茶の湯の世界でその名を高める礎を築いたのは、久政の父(あるいは祖父)とされる初代・松屋久行であった。久行は、わび茶の祖と称される村田珠光の直弟子であった古市播磨に師事し、珠光が所持していたとされる「松屋三名物」を譲り受けたと伝えられている 7 。これにより、松屋家は単なる塗師の家ではなく、珠光流茶道の正統を継ぐ家としての権威を得ることになった。
この文化的遺産を受け継ぎ、大きく発展させたのが三代当主の久政である。彼は父祖の築いた基盤の上に、堺や京都の茶人たちと積極的に交流し、その活動の記録を『松屋会記』として残し始めた。久政の跡を継いだ四代・久好(ひさよし)、そして五代・久重(ひさしげ)もまた茶の湯を深く愛し、『松屋会記』の記録を書き継いでいった 3 。以下の表は、この三代の活動をまとめたものである。
表1:松屋家三代の略年譜と比較
代 |
名前・通称 |
生没年 |
『松屋会記』記録期間 |
主な活動・特記事項 |
三代 |
松屋久政(源三郎) |
1521年~1598年 1 |
1533年~1596年 10 |
『松屋会記』を起筆。千利休と親交を結び、北野大茶会に参加。 |
四代 |
松屋久好(源三郎) |
不明~1633年 9 |
1586年~1626年 10 |
父・久政と共に北野大茶会に参加。小堀遠州らとも交流。 |
五代 |
松屋久重 |
1566年~1652年 3 |
1604年~1650年 10 |
三代にわたる会記を編纂。後に『茶道四祖伝書』を作成 11 。 |
この表が示すように、久政の活動期間は、千利休がわび茶を大成させていく時期と完全に重なっている。続く久好は織豊政権から江戸幕府初期への移行期を、そして久重は茶の湯が武家社会に定着していく時代を生きた。三代にわたるこの連続した記録は、時代の変遷を捉える上で比類なき価値を持つ。
ここで重要なのは、松屋久政のアイデンティティが、今井宗久や津田宗及、千利休といった堺の豪商たちとは根本的に異なる点である。彼らが信長や秀吉と直接結びつき、政治・経済の中枢で活動したのに対し、久政はあくまで「古都・奈良の職人」という、中心から一歩引いた場所に身を置いていた 1 。この地理的・職業的な「周縁性」は、決して弱みではなかった。むしろ、政治権力闘争の渦中から距離を置くことができたからこそ、彼は冷静な観察者として、当代の文化の動向を客観的に記録し得たのである。彼の記録が、利休自身の記録とは異なる視点を提供し、互いに補完し合うことで、当時の茶の湯の世界をより立体的に浮かび上がらせる。この点において、『松屋会記』は「周縁からの貴重な証言」としての意義を持つと言えるだろう。
松屋久政の生涯は、茶の湯を通じて当代一流の文化人たちと深く結びついていた。特に、わび茶の大成者である千利休との交流は、彼の茶人としてのキャリアにおいて決定的な意味を持った。
松屋久政は、大永元年(1521年)に生まれ、慶長三年(1598年)に78歳でその生涯を閉じたと記録されている 1 。彼の名が茶の湯の歴史の表舞台に明確に登場するのは、天文十三年(1544年)2月27日の出来事である。この日、当時まだ23歳の若き日の千利休(名は宗易)が、和泉国・堺で初めて茶会を催した。その記念すべき茶会の客として招かれたのが、松屋久政と、奈良・称名寺の僧であった恵遵房(えじゅんぼう)の二人だったのである 12 。
この事実は極めて重要である。利休が自身の茶人としての門出を飾る席に、わざわざ奈良から久政を招いたということは、この時点で既に久政が、堺の新進気鋭の茶人が敬意を払うべき、大和国を代表する数寄者として広く認識されていたことを物語っている。久政はこの時まだ24歳前後であり、利休とほぼ同世代であった。若き二人の才能が、この早期の段階で互いを認め合い、交流を始めていたことは、後の茶道史の展開を考える上で見逃せない点である。
久政の茶人としての名声が、一地方に留まるものではなかったことを示す最大の証拠が、天正十五年(1587年)10月に豊臣秀吉が京都・北野天満宮で催した「北野大茶湯」への参加である 1 。この茶会は、身分を問わず、茶の湯を嗜む者であれば誰でも参加できるという前代未聞の触れ込みで行われた、秀吉の権勢を天下に示す一大イベントであった。
この歴史的な大茶会に、松屋久政は「奈良三十六衆」の一人として名を連ね、正式に参加している 1 。これは、彼が秀吉の治世下において、公的に認められた「天下の数寄者」の一人であったことを意味する。息子の久好もまた、この茶会に参加しており、松屋家が奈良の茶道界において中心的な役割を担っていたことがうかがえる 9 。『松屋会記』には、この北野大茶会の様子が詳細に記録されており、津田宗及の『宗及他会記』などと並んで、この一大イベントの実態を伝える貴重な一次史料となっている 16 。
久政の活動を俯瞰すると、彼が二つの異なる役割を同時に果たしていたことがわかる。一つは、利休の茶会などに客として「参加し、記録する」という客観的な記録者としての側面である。もう一つは、自らも「松屋三名物」という天下に名だたる茶道具を所持し、それを目当てに訪れる人々を「招き、もてなす」という主観的な実践者としての側面である。
彼は、利休のように茶道の新たな地平を切り拓く革新者や、大名たちを指導する茶頭という立場ではなかった。むしろ、当代一流の文化が生成される場に立ち会い、それを享受し、その詳細を正確に記録することで、次代へと伝える「文化の媒介者・保存者」としての役割を強く意識していたと考えられる。名物を所持するほどの高い見識があったからこそ、他者の茶会における道具の取り合わせや亭主の創意工夫を深く理解し、価値ある記録を残すことができた。久政の歴史的重要性は、この「実践と記録の往還」の中にこそ見出されるのである。
松屋久政が後世に残した最大の遺産は、言うまでもなく『松屋会記』である。この記録は、単なる一個人の茶会日記に留まらず、戦国末期から江戸初期にかけての日本文化の変容を克明に映し出す、比類なき歴史資料として高く評価されている。
『松屋会記』は、別名を『松屋筆記』あるいは『松屋日記』とも呼ばれ、松屋家の三代、すなわち久政、久好、久重によって書き継がれた茶会記の総称である 19 。その記録は、久政が起筆した天文二年(1533年)から、久重が筆を置いた慶安三年(1650年)まで、実に117年という長期間に及ぶ 20 。
その内容は、自身が催した茶会(自会記)の記録も一部含まれるが、大半は他人の茶会に客として招かれた際の記録(他会記)で構成されている 21 。記録された茶会は、奈良だけでなく、堺や京都で開催されたものも数多く含まれ、その総数は860会を超えるとも言われる 12 。残念ながら原本は散逸してしまい、現在我々が目にすることができるのは、江戸時代中期以降に書写された写本である 19 。
さらに、五代目の久重は、これらの膨大な記録をただ残すだけでなく、後世の学習者のために再編纂するという重要な作業も行っている。それが、千利休、細川三斎、古田織部、小堀遠州という、茶道の歴史における四人の巨匠(四祖)ごとに茶会の記録を整理し直した『茶道四祖伝書』である 11 。これは、単なる記録の継承に留まらず、歴史を体系化しようとする知的な営みであり、松屋家の文化に対する高い意識の表れと言えよう。
『松屋会記』の史料的価値が特に高いのは、その記録期間が、日本の茶の湯史上、最も劇的な変化が起こった時代と重なっているからである。すなわち、中国渡来の豪華絢爛な道具(唐物)を至上とする書院の茶から、簡素で静寂な美を追求し、国産の道具(和物)をも積極的に取り入れる「わび茶」が確立されていく、まさにその過程をリアルタイムで記録しているのである 16 。
『松屋会記』から読み取れる具体的な内容は、極めて多岐にわたる。
これらの網羅的な情報に鑑みれば、『松屋会記』の真価は、単なる茶会の日記ではなく、16世紀から17世紀にかけての日本のハイカルチャーに関する「生きたデータベース」である点にある。個々の茶会の記録を逸話として読むだけでなく、全体を一つの巨大なデータセットとして捉えることで、様々な分析が可能となる。例えば、特定の時期における高麗茶碗の使用頻度の増減を追うことで、わび茶の浸透度を量的に分析したり、懐石の品数の推移から当時の経済状況を推察したりすることもできる。久政たちが意図した「茶会の記録」という目的を遥かに超え、美術史、工芸史、建築史、食文化史、社会史といった多様な分野の研究者にとって、未だ掘り尽くせぬ価値を持つ第一級の史料群、それが『松屋会記』なのである。
松屋家が代々所蔵した「松屋三名物」は、単なる高価な財産ではなかった。それは、村田珠光以来の茶の湯の正統を受け継ぐという一族の自負の証であり、時代の美意識をリードする高い審美眼の象徴であった。茶入、絵画、漆器という異なる分野の三つの名宝は、それぞれが戦国から安土桃山時代の価値観を色濃く反映している。
表2:松屋三名物の概要
名称 |
種類 |
主な伝来 |
特記事項 |
現状 |
松屋肩衝 (まつやかたつき) |
唐物肩衝茶入 |
松本珠報 → 松屋家 → (近代)根津家 |
「楢柴」「投頭巾」と共に天下の三肩衝と称された。 |
根津美術館所蔵(重要文化財) 30 |
徐煕筆 鷺の絵 (じょきひつ さぎのえ) |
中国(五代・南唐)の絵画(伝) |
村田珠光 → 古市澄胤 → 松屋家 → (近代)島津家か? |
千利休が「わび茶の極意を象徴する」と高く評価。 |
西南戦争で焼失したとされ、所在不明。 |
存星の盆 (ぞんせいのぼん) |
中国の漆芸品(盆) |
松屋家 |
当時極めて希少だった「存星」技法の漆器。 |
所在不明。 |
「松屋肩衝」は、唐物(中国製)の肩衝茶入であり、日本の茶道界において最高峰の茶入の一つとして君臨した名品である 31 。元々は松本珠報という人物が所持していたことから「松本肩衝」と呼ばれていたが、松屋家の所有となって以降、「松屋肩衝」の名で知られるようになった 11 。その評価は絶大で、「楢柴(ならしば)肩衝」「投頭巾(なげずきん)肩衝」と並び、「天下の三肩衝」と称された 31 。
この茶入を巡る逸話は、その別格の価値を物語っている。戦国の梟雄・松永久秀が東大寺大仏殿を焼き討ちにする際、兵火が奈良市中に及ぶことを予期し、事前に松屋に使者を送ってこの名物を安全な場所へ避難させるよう伝えたという話は有名である 31 。また、江戸時代に入ってからもその名声は衰えず、茶人として名高い細川三斎(忠興)や、大名茶人の松平不昧(治郷)は、この茶入を拝見する際に正装である長袴を着用し、器に対して最大限の敬意を表したと伝えられる 31 。不昧は千両箱を三つ積んで譲渡を懇願したが、松屋は最後まで手放さなかったという 31 。この茶入は、近代に入って松屋家の手を離れ、複数の所有者を経て、現在は根津美術館に重要文化財として収蔵されており、我々はその姿を実際に見ることができる 30 。
「徐煕(じょき)筆 鷺の絵」は、松屋三名物の中でも特に、わび茶の精神性を象徴する道具として重要な意味を持つ絵画である。千利休が、弟子であり後に独自の茶風を確立する古田織部に対して、「この鷺の絵の意味を会得することができれば、天下の数寄(茶の湯)の真髄を理解したことになるだろう」と語ったという逸話は、この絵が単なる美術品ではなく、わび茶の理念そのものを体現する存在と見なされていたことを示している 34 。
この絵の伝来については、史料によって記述が異なり、非常に興味深い。天正年間に記された『山上宗二記』など、久政と同時代の信頼性の高い記録によれば、この絵は元々、わび茶の祖である村田珠光が所持していたものとされる 8 。これが最も確度の高い伝来と考えられる。
ところが、時代が下り、久政の孫である久重の代になると、新たな「物語」が付加される。久重は寛永十六年(1639年)、京都・大徳寺の住持であった天祐紹杲(てんゆう しょうこう)に依頼し、この絵の由来書である『徐煕鷺画記』を執筆させた 8 。この中で、この絵は珠光所持であることに加え、元は室町幕府八代将軍・足利義政の愛蔵品(東山御物)であり、その表装は義政の同朋衆であった能阿弥が手掛けた、という華麗な来歴が初めて詳細に語られるのである 8 。
この言説の変遷は、茶の湯の世界において、道具の価値がその物理的な美しさだけでなく、それに付随する「物語(伝来・由来)」によっていかに構築され、増幅されていくかを如実に示している。16世紀末の時点では「珠光所持」が価値の源泉であったが、茶の湯が体系化され、より高い権威が求められるようになった17世紀中頃には、文化君主であった足利義政という、さらに古く高貴な出自が必要とされたのである。これは、久重が先祖から受け継いだ家宝の価値を最大化するために、時代の求める権威ある物語を意識的に「纏わせた」、文化的な価値創造の営みであったと分析できる。久政が名物を「所持」したのに対し、久重はその価値を「演出」したと言えるだろう。この絵は近代に島津家に伝わった後、西南戦争の兵火で焼失したと伝えられ、現在はその姿を見ることはできない。
三名物の最後の一つ、「存星(ぞんせい)の盆」は、当時の日本において極めて希少であった中国渡来の漆器である 19 。存星とは、中国の宋・元・明時代に作られた高度な漆芸技法で、色漆を塗り重ねて文様を彫り出す「彫彩漆」や、文様の輪郭線を彫って色漆を埋める「填漆(てんしつ)」などを指す 38 。
これらの技法で作られた漆器は、室町時代以降、唐物として日本に舶載されたが、その数は極めて少なく、千利休ですら生涯に三度しか実物を見ることができなかったと言われるほど、「幻の漆器」であった 39 。このような希少品を松屋家が所持していたという事実は、彼らが単なる一地方の塗師ではなく、国際的な交易ルートを通じて最高級の美術品を入手できるほどの財力とネットワーク、そしてそれを真物と見抜く高い鑑識眼を兼ね備えていたことを雄弁に物語っている。この盆もまた、現在は所在が分かっていない。
松屋久政という人物の生涯と業績を多角的に検証してきた。その歴史的功績は、以下の三つの側面に集約することができる。
第一に、彼は「優れた実践者・目利き」であった。千利休をはじめとする当代一流の茶人たちと対等に交流し、豊臣秀吉主催の北野大茶会にも招かれるほどの高名な数寄者であった。そして何よりも、「松屋三名物」に代表される超一級の茶道具を所持し、その価値を深く理解する審美眼を持っていた。この実践者としての素養が、彼の記録に深みと信頼性を与えている。
第二に、彼は「稀代の記録者」であった。約120年にわたって書き継がれることになる『松屋会記』を起筆し、唐物中心の茶からわび茶へと移行する、日本文化史における一大転換期の様相を後世に伝えるという、計り知れない貢献を果たした。もしこの記録がなければ、千利休の茶の湯の具体的な姿や、安土桃山時代の文化の細部に関する我々の理解は、遥かに貧しいものになっていたことは間違いない。
第三に、彼は「奈良に根差した文化の担い手」であった。政治・経済の中心地であった堺や京とは異なる、古都・奈良の塗師という独自の立ち位置から茶の湯の世界に関わった。彼は、文化的中心で生まれる最先端の動向を吸収し、それを記録として残す一方で、奈良という伝統文化の土壌に根差した独自の価値観を保持し続けた。その存在は、中心と周縁を結ぶ、文化の重要な結節点として機能したのである。
松屋久政は、自らが歴史の主役として脚光を浴びるタイプの人物ではなかったかもしれない。しかし、彼の鋭い審美眼、記録への飽くなき情熱、そして彼の一族が三代にわたって紡いだ壮大な記録は、戦国乱世の文化を豊かに彩り、その真の姿を現代に伝える、かけがえのない光を放ち続けている。彼の存在なくして、日本の茶の湯の歴史を正確に語ることはできないであろう。