日本の戦国時代は、数多の武将たちが天下統一の夢を追い、あるいは自領の安寧を求めて激しく争った時代である。その歴史は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった傑出した英雄たちの物語として語られることが多い。しかし、その華々しい表舞台の裏には、中央の巨大な権力奔流に翻弄されながらも、必死に自家の存続を図った無数の地方領主、「国衆(くにしゅう)」の存在があった。信濃国伊那郡の松岡城主、松岡貞利(まつおか さだとし)もまた、そうした国衆の一人である。
彼の名は、信濃の豪族として織田、徳川に仕えながら、本能寺の変後の混乱期に一つの決断を誤り、約五百年にわたる一族の歴史に終止符を打った人物として、歴史に記録されている。しかし、彼の生涯は単なる地方豪族の盛衰史に留まるものではない。その行動の軌跡を丹念に追うと、武家社会における「恩義」と「裏切り」の相克、在地領主としての矜持と限界、そして歴史の必然と偶然が複雑に交錯する、一人の人間のドラマが浮かび上がってくる。
本報告書は、松岡貞利という一人の武将の生涯を、その出自から没落、そして意外な結末に至るまで、あらゆる角度から徹底的に調査・分析するものである。一族の淵源、武田・織田・徳川という強大な権力との関わり、そして彼の運命を決定づけた井伊家との二代にわたる因縁を解き明かすことを通じて、戦国という時代の転換点を生きた地方武将の実像に迫ることを目的とする。
本報告書の本文に入るに先立ち、松岡貞利の生涯と、彼を取り巻く国内外の情勢、そして彼の運命に深く関わる井伊氏や座光寺氏の動向を時系列で整理する。これにより、複雑に絡み合う事象の文脈を把握し、読者の理解を助ける一助としたい。
西暦(和暦) |
松岡氏・松岡貞利の動向 |
中央・周辺情勢 |
関連人物の動向(井伊氏・座光寺氏等) |
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1387年(至徳3年) |
松岡貞政が安養寺に経典を寄進 1 。 |
南北朝の動乱が続く。 |
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1400年(応永7年) |
大塔合戦に松岡次郎が信濃守護・小笠原長秀方として参陣 1 。 |
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1513年頃(永正10年頃) |
松岡貞正が菩提寺として松源寺を創建。実弟の文叔瑞郁禅師が開山となる 2 。 |
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文叔瑞郁禅師は後に井伊家の菩提寺の住持に招聘される 4 。 |
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1544年(天文13年) |
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井伊直満が今川義元に誅殺される。その子・亀之丞(後の井伊直親)は松源寺へ亡命し、松岡氏の庇護下に入る 1 。 |
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1554年(天文23年) |
武田信玄の伊那侵攻に対し、戦わずして降伏。武田氏の配下(伊那衆)となる 6 。 |
武田信玄が伊那郡を平定。知久氏、小笠原氏などが滅ぼされる 6 。 |
座光寺貞信も武田氏に敗れ、後に武田配下となる 8 。 |
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1555年(弘治元年) |
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亀之丞(井伊直親)が今川氏から赦免され、遠州井伊谷に帰還 1 。 |
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1575年(天正3年) |
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長篠の戦いで武田勝頼が織田・徳川連合軍に大敗。 |
座光寺為時の父・為清が、岩村城の戦いで織田方に捕縛され処刑される 9 。 |
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1582年(天正10年) |
2月 : 織田信長の甲州征伐により武田氏が滅亡。当主・松岡頼貞は織田氏に帰順し、本領を安堵される 7 。 |
6月 : 本能寺の変後、勃発した天正壬午の乱において、徳川家康に臣従する。 |
2月 : 甲州征伐。 6月2日 : 本能寺の変。 6月~10月 : 天正壬午の乱。旧武田領を巡り徳川・北条・上杉が争う 10 。 |
座光寺為時は天正壬午の乱で徳川家康に属する 8 。 |
1585年(天正13年) |
8月 : 第一次上田合戦に徳川方として出陣を命じられる 1 。 |
12月 : 徳川方から豊臣方へ寝返った小笠原貞慶に同調し、高遠城攻撃に出陣するも、途中で引き返す 12 。 |
小牧・長久手の戦いを経て豊臣秀吉の優位が確立。松本城主・小笠原貞慶が徳川を離反し、高遠城を攻撃する 12 。 |
家臣の座光寺為時が、貞利の裏切り行為を伊那郡司・菅沼定利に密告 13 。 |
1588年(天正16年) |
高遠城攻撃の咎により、徳川家康から改易(所領没収)を命じられる。松岡城は廃城となる 13 。 |
豊臣政権が安定期に入る。 |
井伊直政の助命嘆願により死罪を免れる。直政に召し抱えられ、500石(または350石)を与えられる 1 。 |
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井伊直政の家臣として、上野箕輪城、後に関ヶ原の戦いを経て近江彦根藩に移る 6 。 |
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座光寺為時は徳川直参の交代寄合(旗本)となる 8 。 |
松岡貞利の行動原理を理解するためには、まず彼が背負っていた一族の歴史と、その権力の基盤であった松岡城について深く知る必要がある。松岡氏は、単なる一地方の土豪ではなく、長い歴史と格式、そして独自の文化資本を有する、誇り高き一族であった。
松岡氏の起源については、平安時代後期の「前九年の役」(1051年~1062年)で敗れた奥州の俘囚長・安倍貞任の次男である仙千代が、乳母に連れられてこの信濃国市田郷に落ち延び、郷民に推されて地頭となり「松岡」を名乗ったという伝承が残されている 6 。これは、在地領主が自らの権威を高めるため、中央の著名な氏族に系譜を繋げるという、当時しばしば見られた手法の一つであった可能性が高い。しかし、このような伝説が生まれること自体が、松岡氏が古くからこの地で有力な存在であったことを物語っている。
より確実な歴史的記録としては、南北朝時代にその名が登場する。1400年の「大塔合戦」において、松岡次郎が信濃守護であった小笠原長秀の旗下として参陣しており、この頃には既に小笠原氏の配下にある有力な武家として確立していたことがわかる 1 。室町時代から戦国時代にかけては、近隣の座光寺氏、宮崎氏といった小豪族を傘下に組み入れ、伊那郡南部における一大勢力を築き上げていった 3 。
松岡氏の権力の象徴が、本拠地である松岡城であった。松岡氏が最初に居館を構えたのは、現在の松岡城の北西に位置する「松岡古城」と呼ばれる場所であったと伝えられる 16 。この古城跡には、樹齢600年を超える「夫婦杉」が聳え、その根元には松源寺を開基した松岡貞正の夫人の供養塔とされる石碑が残っており、往時を偲ばせる 3 。
その後、南北朝時代の争乱の中で、より防御に適した現在の地、すなわち東に天竜川を望む標高560メートルの段丘の突端に、新たな城「松岡本城」が築かれた 16 。この城は、西方の平地から続く丘陵を、深く巨大な堀で幾重にも断ち切り、本郭、二の郭、三の郭など5つの郭が直線的に連なる「連郭式縄張り」の典型的な山城である 15 。その保存状態は、中世の段丘を利用した城跡としては長野県下でも屈指のものであり、堅固な要害であったことがうかがえる 16 。特に、城の防御施設には武田氏の支配下で改修が加えられた痕跡が見られ、城の正面を守る「丸馬出(まるうまだし)」があったという伝承は、武田流築城術の影響を強く示唆している 12 。
松岡氏の勢力が頂点に達したと考えられるのが、16世紀初頭の松岡頼貞・貞正の二代の時代である 3 。この頃、松岡氏は下條氏や小笠原氏と並ぶ南信濃の大豪族と称され、その領地は現在の高森町、飯田市、喬木村の一部にまで及んでいた 3 。この最盛期を築いた当主・松岡貞正は、永正年間(1511年~1513年頃)に一族の菩提寺として松源寺を創建した 2 。
特筆すべきは、この松源寺の開山(初代住職)に、貞正の実弟である文叔瑞郁(ぶんしゅくずいいく)禅師を迎えたことである 1 。文叔禅師は、単なる地方寺院の僧侶ではなく、禅宗臨済宗の大本山である京都・妙心寺の二十四世住持を務めたほどの高僧であった 2 。一地方の国衆が、実弟を中央の禅宗界の頂点にまで押し上げることができたという事実は、松岡氏が相当な経済力と、中央の文化人脈に繋がるだけの「格」を持っていたことを雄弁に物語っている。至徳3年(1387年)に松岡貞政が安養寺へ膨大な経典を寄進した記録も、その豊かな財力を裏付けている 1 。
この約五百年にわたる在地支配の歴史 3 と、中央にも通じる文化的・経済的基盤に裏打ちされた「格の高さ」こそが、松岡一族の矜持を育んだ。そしてこの矜持は、後の当主・貞利の代において、徳川家康のような新興の支配者に対し、絶対的な忠誠ではなく、ある種の対等意識を抱かせる素地となった可能性がある。彼の後の悲劇的な決断は、この一族の栄光の歴史そのものに根差していたのかもしれない。
戦国乱世を生き抜くため、多くの国衆は、より強大な勢力に臣従することで自家の安泰を図った。松岡氏も例外ではなく、その時々の最も有力な支配者に従うという、現実的な生存戦略を一貫して取り続けた。
天文23年(1554年)、甲斐の武田信玄が自ら大軍を率いて伊那郡に侵攻した 7 。この時、鈴岡城の小笠原氏や神之峰城の知久氏など、伊那の国衆の多くは武田軍に抵抗し、その結果、城を落とされ滅亡の道をたどった 6 。この情勢を冷静に分析した松岡氏は、抵抗は無益と判断し、戦わずして武田氏の軍門に降り、所領を安堵される道を選んだ 6 。これは、無謀な戦いで家を滅ぼすよりも、時勢を読んで臣従することで家名を存続させるという、国衆としての極めて合理的な判断であった。
武田氏の支配下において、松岡氏は信濃先方衆(信州衆)の一つである「伊那衆」として位置づけられた。これは、武田家譜代の家臣団とは区別される外様の国人領主という立場であり、一定の独立性を保ちながら武田氏の軍事力の一翼を担う存在であった。
武田氏に臣従した松岡氏には、50騎の軍役が課せられた 7 。当時の軍制では、騎馬武者1騎あたりに数名の従卒が付くのが通例であり、50騎という兵力は、およそ200名から250名規模の軍勢を動員できることを意味する 7 。これは伊那衆の中でも有力な存在であったことを示しており、松岡氏の武力が武田方から高く評価されていたことがうかがえる。
さらに重要なのは、松岡氏が武田四天王の一人に数えられる猛将・山県昌景の配下に組み込まれていたことである 1 。山県昌景が率いる部隊は、武具を朱色で統一した「赤備え」として敵から恐れられた武田軍最強の精鋭部隊であった。その一翼を担ったという経験は、松岡氏に武人としての大きな誇りと自負心をもたらしたに違いない。
約30年にわたる武田氏の支配も、天正10年(1582年)2月、織田信長の圧倒的な軍事力の前に終焉を迎える。織田信忠を総大将とする軍勢が伊那郡に侵攻すると(甲州征伐)、武田氏はなすすべなく崩壊した。この時、織田軍の兵火により、松岡氏の菩提寺である松源寺を含む多くの寺社が焼失するという被害も被っている 7 。
主家である武田氏が滅亡するという未曾有の事態に際し、当時の松岡城主であった松岡頼貞(貞利の先代か、あるいは同一人物の別名か)は、またしても迅速な対応を見せる。彼は速やかに織田信長に帰順し、その忠誠を認められて本領を安堵された 3 。武田氏に従った時と同様、大勢力に逆らわず、時勢を的確に読んで臣従することで家を保つという、松岡氏の伝統的な生き残り戦略がここでも貫かれたのである。
しかし、この一連の経験は、松岡氏の価値観に複雑な影響を与えたと考えられる。武田氏、織田氏という巨大権力に次々と臣従した経験は、「主君は絶対的なものではなく、時勢に応じて乗り換えるもの」という、戦国乱世特有のドライな主従観を内面化させた可能性がある。特に、武田家臣団には、主家滅亡後に真田昌幸のように巧みな外交戦略で自立的な動きを見せる者も多かった 24 。こうした旧武田家臣の気風は、松岡貞利が後の徳川家康に対して抱いた忠誠心が、絶対的なものではなく、あくまで状況に応じた一時的な臣従関係であるという認識に繋がる、一つの要因となったのかもしれない。
天正10年(1582年)6月2日、京都・本能寺で起きた政変は、遠く信濃の国衆たちの運命をも大きく揺るがした。絶対的な支配者であった織田信長の突然の死は、旧武田領国に権力の空白を生み出し、松岡貞利にもまた、新たな主君を選択するという厳しい決断を迫ることになった。
本能寺の変の報が伝わると、信長によって旧武田領に配置されていた織田家の統治者たちは、在地勢力の一揆などによって次々と殺害されるか、領地を放棄して逃亡した 10 。甲斐国を任されていた河尻秀隆は一揆に殺害され、上野国を任されていた滝川一益は北条氏との戦いに敗れて敗走した 10 。これにより、甲斐・信濃・上野の三国は、事実上の無主の地となり、これを好機と見た周辺の三大勢力、すなわち相模の北条氏、越後の上杉氏、そして三河・遠江・駿河を領する徳川氏が、一斉にこの空白地帯へと侵攻を開始した。世に言う「天正壬午の乱」の勃発である 11 。
この未曾有の動乱の中、信濃の国衆たちは、三大大名のいずれに付くか、あるいはそれらの狭間で自立を図るかという、自家の存亡を賭けた選択を迫られた 25 。小県郡の真田昌幸のように、当初は上杉氏に、次いで北条氏に、そして最終的には徳川氏にと、目まぐるしく主君を変えながら自領の拡大を図る者もいた 24 。
松岡氏が本拠とする伊那郡は、地理的に徳川家康の領国である三河・遠江に最も近く、その影響力が最も及びやすい地域であった。家康は本能寺の変の報を受けると、堺から命からがら領国へ帰還し(伊賀越え)、直ちに甲斐へと兵を進めてこれを平定するという迅速な行動を見せた 10 。松岡貞利は、こうした地政学的な状況と、家康の示した実力を冷静に判断し、徳川方への帰属を決断したと考えられる。この時期、伊那郡は家康が任命した郡司・菅沼定利によって統治されており、松岡氏もその支配体系の中に組み込まれていった 7 。
徳川家への帰属を決めた松岡貞利は、家康に対して忠誠を誓う「誓詞(せいし)」を提出し、その見返りとして所領を安堵された 7 。これにより、松岡氏と徳川家の間に正式な主従関係が成立した。天正壬午の乱が徳川と北条の和睦によって終結した後も、貞利は徳川家の家臣としての立場を維持した。天正13年(1585年)に徳川家が真田昌幸を攻めた「第一次上田合戦」では、貞利も徳川方として出陣を命じられており、この時点では家臣としての軍役を忠実に果たしていたことが確認できる 1 。
しかし、この臣従は、天正壬午の乱という極度の混乱期において、最も現実的で合理的な「生き残り策」として選択されたものであった。それは、絶対的な忠誠心に基づくものではなく、あくまで情勢判断に基づく「契約」に近いものであった可能性が高い。貞利にとって、家康は新たに選んだ主君であり、状況が変わればその契約は破棄しうるもの、という認識があったのかもしれない。この、国衆特有の自立性を内包した主従観と、徳川家が求める絶対的な忠誠との間の認識のズレが、後に彼の運命を暗転させる悲劇の伏線となっていく。
徳川家康に臣従し、一時はその支配体制の中で安泰を得たかに見えた松岡貞利。しかし、天正13年(1585年)、彼はその後の人生を決定づける、一つの重大な判断ミスを犯す。それは、徳川家に対する明白な裏切り行為であった。
天正12年(1584年)の「小牧・長久手の戦い」を経て、全国的に豊臣秀吉の優位が確立しつつあった。この新たな情勢を敏感に察知したのが、信濃松本城主の小笠原貞慶であった。彼は天正13年(1585年)、これまで属していた徳川方から離反し、豊臣方へと寝返った 1 。そして、自らの立場を鮮明にするため、徳川方の重要拠点であった高遠城(城主:保科正直)に攻撃を仕掛けたのである 12 。
この時、松岡貞利は不可解な行動に出る。徳川家康に誓詞を提出し、その家臣となっていたはずの彼が、小笠原貞慶の動きに同調し、高遠城攻撃の軍勢に加わったのである 7 。この行動は、一見すると衝動的で理解しがたい裏切り行為に見える。しかし、その背景には、貞利なりの合理的な計算があったと推察される。
第一に、小笠原氏は信濃の旧守護家であり、伊那の国衆にとっては、新興勢力である徳川氏よりも古くからの馴染み深い存在であった 1 。貞利は、徳川という「よそ者」の支配よりも、地域の伝統的な権威である小笠原氏の下に付くことが、国衆としての自立性を保ち、地域の秩序を回復する道だと考えた可能性がある。
第二に、当時の全国情勢は、明らかに豊臣秀吉に傾いていた。家康は秀吉に対して劣勢にあり、将来性という点では豊臣方に付くのが得策と判断しても不思議ではない。貞利にとって、豊臣方へ寝返った小笠原氏への加担は、武田、織田に従った時と同様の、「次なる時勢への順応」を狙ったハイリスクな政治的賭博であったのかもしれない。
しかし、この貞利の賭けは、完全に裏目に出る。高遠城攻めは失敗に終わり、小笠原軍は大敗して松本へ退却した 12 。その敗報を聞いた貞利は、形勢不利と見て、高遠城に到着する前に慌てて軍を引き返した 7 。
貞利のこの一連の不審な行動は、彼の家臣の座光寺次郎右衛門為時(ざこうじ ためとき)によって、伊那郡司の菅沼定利へ密告された 13 。座光寺為時にとっても、これは苦渋の決断であっただろう。しかし、主君・貞利の行動は、徳川体制下では明らかに破滅行為であり、このまま従えば座光寺氏も共倒れになることは明白であった。為時は、主家への忠誠よりも、自家の生き残りを優先し、貞利を密告することで徳川家康への忠誠を示し、自らを主家から切り離して直接徳川に繋がる道を選んだのである。
密告を受けた菅沼定利は、直ちに貞利を捕縛 3 。貞利の身柄は、徳川家康のいる駿府へと送られ、家康の重臣である井伊直政のもとに預けられることとなった 3 。
天正16年(1588年)、駿府にて家康の面前で座光寺氏との対決の場が設けられるなど、詮議が行われた結果、松岡貞利に対して最終的な裁定が下された 3 。徳川家康を裏切った罪は重く、改易、すなわち全所領の没収が命じられた 7 。
この決定により、平安時代から約五百年にわたって伊那谷に根を張り、栄華を誇った豪族・松岡氏の領主としての歴史は、完全にその幕を閉じた 3 。堅固を誇った松岡城も、主を失い廃城となったのである 15 。
改易という厳しい処分を受け、一族の歴史に終止符を打った松岡貞利。通常であれば、裏切り者として処刑されてもおかしくない状況であった。しかし、彼の運命は、数十年前に彼の父祖が結んだ、一つの「恩」によって劇的に救われることになる。それは、徳川四天王の一人、井伊直政との深い因縁であった。
話は、貞利が生まれる前の天文13年(1544年)に遡る。遠江国井伊谷の領主であった井伊直満は、主君である今川義元への讒言によって誅殺された 1 。この時、直満の嫡男でまだ幼かった亀之丞(後の井伊直政の父、井伊直親)にも追っ手がかかり、その命は風前の灯であった。
家臣に連れられて井伊谷を脱出した亀之丞が逃れた先こそ、信濃国伊那郡にある松岡氏の菩提寺・松源寺であった 1 。この亡命が可能であったのは、井伊家の菩提寺である龍潭寺の住持と、松源寺の開山である文叔瑞郁禅師(松岡貞正の弟)との間に法縁があったためである 1 。亀之丞は、当時の松岡城主であった松岡貞正(あるいはその跡を継いだ貞利の先代)の庇護の下、松源寺で約10年もの歳月を過ごし、無事に成長を遂げた 1 。この松岡氏による命を懸けた庇護は、井伊家にとって忘れることのできない大恩となった。この事実は、後に井伊家の家伝として編纂された『井伊家伝記』にも明確に記されている 1 。
そして時は流れ、天正16年(1588年)。かつて松岡氏に命を救われた亀之丞(井伊直親)の子、井伊直政は、徳川家康の最も信頼する重臣の一人として、目覚ましい活躍を見せていた。父・直親をかくまってくれた松岡家の当主・貞利が、裏切りの罪で捕らえられ、死罪に処されるかもしれないという窮状を知った直政は、行動を起こす。
直政は、家康に対して必死に貞利の助命を嘆願した 7 。それは、父が受けた恩義に報いるという、武士としての「義」を貫くための行動であった 3 。直政は、自ら貞利の身柄を預かることを家康に申し出たのである 7 。
徳川家康にとって、松岡貞利の行為は許しがたい反逆であった。しかし、寵臣である直政の必死の願いを無下にはできなかった。家康自身も、直親が信濃で過ごした事情をよく知っていた 7 。家康は、直政の忠誠心と、彼が重んじる「恩義」の価値を認め、貞利の処分を直政に一任するという、異例の裁可を下した 7 。
この決定により、松岡貞利は死罪を免れ、改易のみで済まされることになった 3 。貞利の救済は、単なる人情話ではない。それは、武家社会における「恩」という無形の価値が、政治的・軍事的な「罪」を覆しうることを示す、極めて稀有な実例であった。家康にとっても、この裁可は、恩義や義理を重んじる姿勢を家臣団に示すことで求心力を高めるという、高度な人心掌握術の一環であったと言えるだろう。松岡貞利の運命は、二代にわたる井伊家との因縁と、それを裁く徳川家康の政治的判断が交差した結果、劇的な形で救われたのである。
井伊直政の尽力によって一命を取り留めた松岡貞利は、かつて伊那郡に君臨した大豪族という地位を完全に失い、一人の家臣として新たな人生を歩むことになった。その後半生は、戦国乱世の終焉と近世大名家臣団の形成過程を象徴するものであった。
死罪を免れた貞利は、その身柄を預かった井伊直政に家臣として召し抱えられた 6 。直政は、旧武田家の家臣団を多く召し抱えて精強な「井伊の赤備え」を編成しており、旧武田家臣であった貞利も、この「外様出身者」の一人として井伊家臣団に組み込まれた。彼の存在は、井伊家が「恩義に厚い」家風であることを内外に示す、象徴的な意味合いも持っていたと考えられる。
貞利に与えられた禄高については、諸資料に若干の差異が見られる。500石であったとする説 6 と、350石であったとする説 1 があるが、いずれにせよ、反逆の罪を犯した者に対する処遇としては破格のものであった。この禄高は、彼の能力や実績ではなく、もっぱら井伊家との過去の「因縁」によって決定されたものであり、近世武家社会における身分や処遇が、実力だけでなく家格や由緒といった要素に大きく左右されたことを示す好例と言える。
貞利はまず駿河安倍郡鷹峯に屋敷を与えられ 1 、その後は主君・直政の転封に従い、上野箕輪城、そして関ヶ原の戦いの後には近江佐和山城、彦根城下へと移り住んだと推測される 6 。後に成立した彦根藩の藩士名簿にも「松岡」の名が見られることから、貞利の子孫が彦根藩士として家名を存続させたことがうかがえる 31 。
伊那谷の領主の座を追われた貞利の後半生は、皮肉な運命の連続であった。かつて自らの家臣であった座光寺為時は、貞利を密告した功績により徳川直参の旗本(交代寄合)へと出世し、大名に準じる格式を得た 8 。一方で、その旧主君である貞利は、大名の家臣、すなわち陪臣(ばいしん)という立場に甘んじることになった。
その後の貞利個人の詳細な活動に関する記録は乏しいが、彼は井伊家の家臣として、かつての栄華を胸に秘めながら、静かな後半生を送ったものと思われる。伊那の松岡城から眺めたであろう故郷の山河を、遠く近江の地からどのような思いで追憶していたのであろうか。
信濃国衆・松岡貞利の生涯は、激動の時代に翻弄された一地方領主の盛衰の物語である。しかし、その軌跡を深く掘り下げることで、我々は単なる歴史上の一挿話に留まらない、普遍的な教訓を見出すことができる。
第一に、彼の人生は、 在地領主としての矜持とその限界 を浮き彫りにしている。約五百年という長きにわたり伊那谷を治めてきた松岡氏の当主として、貞利は強い自負心を持っていた。そのプライドと、国衆として時勢に応じて主君を選ぶという旧来の価値観が、彼に徳川家康への裏切りという「政治的賭博」を決断させた。しかし、時代は既に、国衆の自立性を許さない、より中央集権的な徳川の支配体制へと移行しつつあった。彼は、この時代の大きな転換点を読み違えたために没落したのである。
第二に、彼の決断は、 変革期における政治的判断の危うさ を示している。豊臣の優位と徳川の劣勢という当時の情勢分析に基づいた彼の行動は、彼なりの合理性を持っていた。しかし、その判断は結果的に致命的な誤りであった。これは、過去の成功体験(武田、織田への臣従)が、新たな状況下での正しい判断をいかに曇らせるかという、現代の組織論にも通じる教訓を我々に示している。
そして第三に、彼の運命は、 武家社会における「恩義」という倫理観の重要性 を物語っている。論理的に考えれば、反逆者である貞利は処刑されるのが当然であった。しかし、彼の父祖が井伊直親に施した一つの「恩」が、数十年後、井伊直政による「返礼」という形で彼を救った。計算や損得だけでは測れない人間関係や非合理的な要素が、時として人の運命を決定づけるという事実は、時代を超えて我々の胸を打つ。
松岡貞利は、戦国乱世の旧来の価値観に生きたために没落し、しかし近世的な主従の倫理観によって救われた、まさに時代の矛盾を体現した象徴的な人物であった。彼の生涯は、組織や社会が大きく変わる時、我々が拠り所とすべきものは何か、そして人間関係における信義の価値とは何かを、静かに、しかし力強く問いかけているのである。