板倉重昌は徳川家康の近習。三河深溝藩主。島原の乱で総大将となるも、諸大名の非協力で苦戦。老中派遣の報に焦り、原城へ突撃し戦死。その死は息子重矩の出世を助け、板倉家は存続した。
寛永15年(1638年)正月元旦。泰平の世を揺るがした島原の乱の戦地、肥前国・原城では、幕府討伐軍による三度目の総攻撃が開始された。しかし、堅固な城壁と、信仰に支えられた一揆軍の頑強な抵抗の前に、攻め手はまたしても頓挫していた。諸大名の足並みは乱れ、軍は統率を失いかけていた。その時、討伐軍の総大将、板倉内膳正重昌(いたくら ないぜんのかみ しげまさ)は、自ら馬を降り、手勢を率いて城の石垣へと突撃を敢行した。将の魁たるその姿も束の間、一揆勢の放つ鉛玉が彼の身体を貫き、重昌はその場に壮絶な最期を遂げた 1 。享年51。
利用者様がご存知の通り、板倉重昌は「徳川家臣。勝重の三男。三河深溝藩主。島原の乱の鎮圧に努める。しかし老中・松平信綱の派遣が決まると、突然、原城に総攻撃を掛けて敗北、戦死した」という生涯を送った人物である。この簡潔な概要は、彼の人生の結末を的確に捉えている。しかし、その悲劇的な行動の裏には、偉大な父と兄への複雑な思い、徳川家康から三代将軍家光に至るまでの奉公の軌跡、そして幕府の構造的欠陥と時代の要請が複雑に絡み合っていた。
本報告書は、この板倉重昌という一人の武士の生涯を、その出自から、徳川政権下での活躍、そして彼の名を歴史に刻んだ島原の乱における苦悩と決断、さらにはその死がもたらした影響に至るまで、あらゆる角度から徹底的に掘り下げ、その実像に迫るものである。彼の最後の突撃は、単なる功を焦った無謀な行動だったのか。それとも、追い詰められた武士が選びうる、唯一の名誉ある道だったのか。その答えを探る旅を、ここから始めたい。
和暦(西暦) |
年齢 |
出来事 |
出典 |
天正16年(1588年) |
1歳 |
駿府にて、板倉勝重の三男として誕生。 |
4 |
慶長8年(1603年) |
16歳 |
徳川家康に近習として仕え始める。 |
4 |
慶長19年(1614年) |
27歳 |
方広寺鐘銘事件に関与し、家康に報告。大坂冬の陣では豊臣方との和議交渉の軍使を務める。 |
1 |
元和6年(1620年) |
33歳 |
父・勝重が京都所司代を辞任し、兄・重宗が後を継ぐ。 |
6 |
寛永元年(1624年) |
37歳 |
父・勝重が死去。兄・重宗より父の遺領を分与され、三河深溝藩1万1850石余の大名となる。 |
4 |
(時期不明) |
- |
新墾田などにより、知行が1万5000石となる。将軍・徳川家光の談判衆を務める。 |
1 |
寛永14年(1637年) |
50歳 |
10月、島原の乱が勃発。11月9日、幕府より討伐上使に任命される。 |
1 |
寛永15年(1638年) |
51歳 |
1月1日、原城への総攻撃を指揮し、自らも突撃するが、鉄砲に撃たれ戦死。 |
1 |
板倉重昌の生涯と人格を理解する上で、彼が生まれ育った板倉家という特異な環境を抜きにして語ることはできない。特に、偉大な父・勝重と有能な兄・重宗の存在は、彼の人生に決定的な影響を与えた。
板倉氏は、清和源氏足利氏の流れを汲むとされ、下野国板倉郷を苗字の地とする由緒ある家柄であった 10 。重昌の父である板倉勝重(1545-1624)は、この家の歴史の中でも傑出した人物である。彼は元々、父と兄の戦死を弔うため浄土真宗の僧侶(香誉宗哲)となっていたが、家督を継いだ弟までもが戦死したため、徳川家康の命により還俗し、武士として家を継いだという異色の経歴の持ち主であった 11 。
武士に戻った勝重は、その卓越した行政手腕を家康に見出され、駿府町奉行、江戸町奉行を歴任 13 。関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601年)には、幕府の最重要ポストの一つである京都所司代に抜擢された 12 。京都所司代としての勝重の働きは目覚ましく、朝廷や公家の監視、西国大名の動静偵察、京都の治安維持と民政において絶大な功績を挙げた。方広寺鐘銘事件では豊臣家を追い詰める役割を担い、大坂の陣後には禁中並公家諸法度の運用を監督するなど、徳川政権の基盤固めに不可欠な存在として「名所司代」と称揚された 11 。
勝重には、重昌の兄である重宗(1586-1656)がいた。彼は父の跡を継いで元和6年(1620年)に京都所司代に就任すると、承応3年(1654年)まで35年もの長きにわたってその重責を全うし、父に劣らぬ名声を得た 6 。父子の優れた裁定や逸話は、後に『板倉政要』としてまとめられ、名奉行の代名詞として後世に伝えられている 6 。
この偉大な父と兄の存在は、三男である重昌にとって誇りであると同時に、生涯にわたる大きな重圧であったと考えられる。それを象徴する逸話が『名将言行録』などに残されている。ある時、父・勝重が重宗と重昌に対し、ある訴訟の是非について意見を求めた。重昌がその場で即答したのに対し、兄・重宗は一日の猶予を願い、翌日に弟と同じ結論を述べた。周囲の者たちは、即断した重昌の方が優れていると評したが、勝重は「重宗も結論は早く出ていたはずだ。ただ、万全を期すために慎重に行動したのだ。この慎重さこそが重要であり、重宗の方が器量が上である」と評したという 16 。
この逸話は、板倉家が重んじる価値観が、瞬発的な才気よりも、熟慮に基づく「慎重さ」にあったことを示している。勝重と重宗の功績は、いずれも武力ではなく、交渉力、裁定力、そして忍耐力が求められる「管理・調整型」の役職である京都所司代で発揮された。一方で、重昌の長所とされた「迅速な判断力」は、父から二次的な評価しか得られなかった。この経験は、若き重昌の心に、自らの資質が家の本流とは異なるとの認識、あるいは「自分なりのやり方で認められたい」という強い欲求を植え付けた可能性がある。この心理的背景は、後年、島原で彼が下すことになる悲劇的な決断を理解する上で、極めて重要な伏線となる。
Mermaidによる関係図
(注:上記は主要人物を抜粋した略系図である) 16
重昌は天正16年(1588年)、父・勝重が駿府町奉行を務めていた頃に、その三男として駿府で生を受けた 4 。母は粟生永勝の娘である 18 。彼が育った家庭は、武辺一辺倒ではなく、父の僧侶としての教養と、卓越した行政官としての実務能力、そして徳川家への絶対的な忠誠心が支配する、知性的かつ規律正しい環境であったと想像される。家の本流が「知」と「慎重さ」を重んじる中で、彼は自らの「武」や「行動力」をもって家に貢献する道を模索していくこととなる。
偉大な父兄とは異なり、重昌のキャリアは幕府の制度的な役職ではなく、最高権力者である徳川家康への個人的な奉仕から始まった。彼の権威とアイデンティティは、この「天下人の近習」という立場に深く根差していた。
重昌は慶長8年(1603年)頃、16歳の若さで大御所・徳川家康の「近習出頭人」として仕え始めた 4 。これは将軍や大御所の側近くに仕え、その意を体して諸事にあたる、極めて信任の厚い者のみが任じられる役職である。大御所として駿府に隠居していた家康は、依然として天下の実権を握っており、重昌はその側で直接、老練な政治家の思考と決断に触れるという、得難い経験を積んだ。この日々を通じて、彼は家康から深い信頼を勝ち取っていった。
家康の信頼は、徳川家と豊臣家の最終決戦である大坂の陣をめぐる重要な局面で、重昌に大役を与える形で示された。慶長19年(1614年)、大坂の陣の引き金となった方広寺鐘銘事件において、重昌は問題となった鐘の銘文を調査し、家康に報告する役目を担っている 1 。資料によっては、家康が学僧・金地院崇伝と共に重昌を呼び出し、鐘銘への不快感を露わにしたと記されており 21 、彼が家康の政治的意図を汲んで動く腹心の一人であったことがうかがえる。
続く大坂冬の陣では、和平交渉の軍使という、両軍の狭間で命の危険も伴う大役を見事に果たした 1 。これらの功績は、彼が単なるお側仕えではなく、重要な政治的・外交的任務を遂行できる能力を持っていたことを証明している。
重昌の家康への忠誠心を物語る象徴的な逸話が『寛政重修諸家譜』に記されている。大坂冬の陣の和議が成立し、豊臣方が誓書を提出する際、その宛名を大御所・家康にすべきか、二代将軍・秀忠にすべきか迷い、軍使である重昌に尋ねた。これに対し、重昌は迷うことなく「家康公へ」と答えた。後に陣に戻り、家康からその理由を問われると、彼は「私は二君(家康と秀忠)の使いではございません。あくまで家康公の家臣として参りました」と答えたという。家康はこの揺るぎない忠誠心を大いに賞賛したと伝えられる 18 。
この言葉は、彼のアイデンティティが、特定の役職や領地ではなく、最高権力者である家康個人への直接的な奉仕にあることを明確に示している。彼の権威の源泉は、この「将軍・大御所との個人的な近さ」にあった。この事実は、彼のキャリアを輝かせた一方で、後の島原の乱で彼が直面する困難を予見させるものでもあった。彼の権威は、彼個人の力量や家康との絆を知る幕閣には通用しても、遠い九州の地で、石高や家格という客観的な指標を絶対視する外様大名たちには、容易には通用しなかったのである。
徳川家康、秀忠の二代に仕え、着実に評価を高めていった重昌は、父・勝重の死を契機に、ついに大名の列に加わることとなる。しかし、彼の「大名」としてのあり方は、領国経営に専心する地方領主というよりも、江戸にあって将軍の側近として奉公することを主とする、中央志向の強いものであった。
寛永元年(1624年)、父・勝重が79歳で死去した。家督と京都所司代職を継いだ兄・重宗は、父の遺領の中から三河国額田郡・幡豆郡・碧海郡内にあった6610石を弟の重昌に分与した。これにより、重昌が以前から拝領していた知行と合わせて、その合計は1万1850石余となり、大名となる条件である1万石を突破した 4 。彼は三河国額田郡深溝に陣屋を構え、ここに三河深溝藩が成立した。重昌は、父・勝重から続く板倉本家とは別に、分家である「重昌流板倉家」の初代藩主となったのである 18 。その後、新田開発などにより、彼の知行は最終的に1万5000石まで増加した 1 。
大名となった後も、重昌の活動の中心は領国の三河ではなく、江戸にあった。彼は三代将軍・徳川家光の「談判衆(だんぱんしゅう)」という役職を務めていたことが記録されている 8 。談判衆は「御伽衆(おとぎしゅう)」とも呼ばれ、将軍の側で古今の学問や武勇伝について語り、様々な相談に応じる、いわば知的な話し相手であり、ブレーンとしての役割を担う側近であった 23 。この役職には、特定の地域情勢や専門分野に精通した経験豊富な者が選ばれる傾向があり 25 、重昌が家康、秀忠に続き、家光からも個人的な信任を得ていたことを示している。
一方で、三河深溝藩主としての具体的な藩政に関する記録は、各種資料を調査してもほとんど見出すことができない 7 。これは、彼が領国経営に深く関与するタイプの藩主ではなかったことを強く示唆している。彼の生活と職務の重心は、あくまで江戸城内の将軍の側にあり、1万5000石の知行は、大名としての体面を保ち、江戸での奉公に必要な経費を賄うための経済的基盤という側面が強かったと考えられる。
この「中央志向」のキャリアは、彼が行政官僚や将軍の代理人としての経験を積む一方で、大規模な軍勢を組織し、指揮するという実務経験を積む機会がなかったことを意味する。島原の乱という未曾有の大規模な内乱は、彼にとって初めて直面する本格的な実戦指揮の場であった。その経験不足が、後に彼を襲う悲劇の一因となったことは想像に難くない。
寛永14年(1637年)、大坂の陣から20年以上が経過し、「元和偃武」以来の泰平に慣れきっていた徳川幕府を震撼させる事件が、西国の果て、肥前国島原と肥後国天草で勃発した。この乱は、板倉重昌の運命を決定づけることになる。
乱の直接的な原因は、島原藩主・松倉勝家と、天草を領有していた唐津藩主・寺沢堅高による、領民の限界を超えた収奪にあった。両藩主は、過大な石高に見合う年貢を課し、連年の凶作にもかかわらず情け容赦のない取り立てを行った 27 。さらに、キリシタンへの弾圧は残虐を極め、領民の肉体的・精神的苦痛は頂点に達していた 2 。追い詰められた農民たちは、かつてこの地で深く根を張っていたキリスト教の信仰を精神的な支えとして団結し、「天草四郎」という少年を救世主として担ぎ上げ、ついに蜂起したのである 29 。
寛永14年10月25日に始まった一揆の報は、早馬によって伝えられ、11月9日にようやく江戸の幕府に届いた 9 。この半月ほどの時間の隔たりは、幕府が現地の実情を正確に把握することを困難にした。当初、幕府首脳はこの事件を、過去に頻発した百姓一揆の延長線上で捉え、その深刻さを過小評価していた節がある。
この初期の楽観的な見通しが、討伐軍の総大将である「上使」の人選に表れている。幕府は、老中などの最高幹部ではなく、御書院番頭であり1万5000石の譜代大名である板倉重昌を上使に、目付の石谷貞清を副使として派遣することを決定した 9 。
重昌がこの大役に選ばれた理由として、資料には「九州での経験を買われて」という記述が見られる 2 。しかし、その具体的な経験内容を記したものはなく、むしろ将軍家光の談判衆を務めるなど、個人的な信頼が厚かったこと、そして大坂の陣で軍使を務めた経験から、将軍の代理人としてその威光を背負い、諸大名をまとめ上げる能力を期待されたと考えるのが妥当であろう 4 。
しかし、この任命は、重昌にとって名誉であると同時に、彼のキャリアと能力の限界を超える「無理な任務」であった。幕府は彼の「忠誠心」と「代理人としての交渉能力」に期待したが、現場で求められたのは「数十万石の外様大名を力で抑えつけ、大規模な攻城戦を立案・実行する実戦指揮能力」であった。この期待と現実の能力との間にあった致命的なギャップが、彼の悲劇を構造的に生み出すことになる。彼は、幕府の初動における判断ミスの、最初の犠牲者となったのである。
肥前国に到着した板倉重昌を待っていたのは、信仰に燃える一揆軍の頑強な抵抗と、それ以上に厄介な、味方であるはずの九州諸大名の非協力的な態度であった。彼の苦悩はここから始まる。
幕府の命令により、討伐軍には肥前佐賀35万石の鍋島勝茂、肥後熊本54万石の細川忠利、筑後久留米21万石の有馬豊氏といった、九州の錚々たる外様大名が動員された 1 。彼らは、石高も家格も、そして動員兵力も、わずか1万5000石の譜代大名である重昌を遥かに凌駕していた。
武家社会の序列が石高と家格によって厳格に定められていた当時、これらの大大名が、格下の重昌の指揮に素直に従うはずはなかった 20 。彼らは重昌を「将軍の使い」としては敬いつつも、軍事指揮官としては軽侮していた。特に佐賀藩主・鍋島勝茂は、重昌の指示を無視して独自の判断で行動し、家中に抜け駆けを奨励するなど、公然と指揮系統を乱した 2 。諸大名は互いに手柄を競い合い、足並みは全く揃わなかった。討伐軍は名ばかりの「寄せ集め」であり、重昌は孤立無援の総大将と化していた。この状況は、単なる重昌の指揮能力の問題ではなく、幕府の権威がまだ絶対的ではなかった時代における「譜代 vs 外様」という構造的対立と、武家社会の価値観が露呈した事件であった。
統率を欠いた軍が勝利を得られるはずもなく、重昌は苦戦を強いられた。寛永14年12月10日と20日の二度にわたり、原城への総攻撃を敢行するが、一揆軍の巧みな防戦と高い士気の前に、いずれも多数の死傷者を出して敗退した 8 。坑道を掘って城内に侵入しようという奇策も、一揆軍に察知され失敗に終わるなど 36 、戦況は完全に膠着状態に陥った。
重昌の苦戦と討伐軍の混乱ぶりは、江戸の幕府にも伝わった。事態を重く見た将軍家光と幕閣は、ついに最終手段に打って出る。老中首座であり、家光の懐刀として「知恵伊豆」の異名をとる松平信綱を、新たな総大将として派遣することを決定したのである 1 。
この報は、重昌にとって事実上の更迭通知であり、武士としての面目を公衆の面前で剥ぎ取られるに等しい、最大の屈辱であった 1 。信綱の派遣は、軍事的なテコ入れであると同時に、重昌に対する「政治的死刑宣告」でもあった。このまま信綱の到着を待てば、任務失敗の責を問われ、江戸に生きて帰ったとしても、良くて隠居、悪ければ家門断絶という厳しい処分が待っていることは明らかだった。
この「武士としての社会的生命の終わり」を悟った重昌は、物理的な生命と引き換えに、失われた名誉を回復する道を選ぶ以外になかった。彼の心は、信綱が到着する前に、何としても自らの手で原城を落とさねばならないという、極度の焦りと悲壮な決意に支配されていった 3 。
追い詰められた板倉重昌が選んだのは、武士として最も華々しく、そして最も悲劇的な道であった。寛永15年の幕開けと共に、彼は自らの命を賭して最後の戦いに挑む。
正月元旦の総攻撃を前に、重昌は死を覚悟し、一首の辞世を詠んだと伝えられる。
「新玉(あらたま)の 年に任せて 散る花の 名のみ残らば 魁(さきがけ)と知れ」 4
(「散る花の」の部分は「咲く花の」とする説もある 40 )
この句には、彼の万感の思いが込められている。輝かしい新年の始まりにあえて「散る」ことを選び、もし自分の名が後世に残ることがあるならば、それは臆病者としてではなく、誰よりも先に敵陣に切り込んだ「魁」としての名誉ある死であったと記憶してほしい。これは、勝利という「実」を半ば諦め、後世の「名」という無形の評価に最後の望みを託した、悲痛な叫びであった。彼の目的は、もはや軍事的な勝利から、武士としての自己の存在証明へと完全に移行していた。
寛永15年(1638年)1月1日、重昌は討伐軍全軍に総攻撃を命じた 1 。しかし、昨日までの混乱が一日で解消されるはずもなく、諸大名の動きは鈍く、連携は取れないままだった 2 。
戦況が動かない中、重昌はついに意を決する。総大将の面目を捨て、一人の武士に戻ったかのように自ら馬を降り、僅かな手勢を率いて原城の石垣へと突撃した 2 。その姿は、戦国時代の「武辺」の価値観を体現するものであった。しかし、彼が生きていたのは、個人の武勇よりも組織の秩序が重んじられる江戸時代である。彼の行動は、軍を統率すべき総大将としては無責任な行為であったかもしれない。だが、彼にはもはやこの道しか残されていなかった。
城の塀際に迫り、まさに城内へ討ち入らんとしたその瞬間、一揆勢の鉄砲隊からの容赦ない集中射撃が彼を捉えた。一弾が眉間、あるいは胸を撃ち抜き、板倉重昌はその場に崩れ落ち、壮絶な戦死を遂げた 8 。
総大将の死により、この日の攻撃は完全な失敗に終わった。幕府軍の死傷者は4000人近くに上り、その損害は甚大であった 3 。板倉重昌は、時代の転換期に生きた武士の葛藤をその一身に背負い、原城の土と消えたのである。
板倉重昌の死は、一個人の悲劇に終わらなかった。それは皮肉にも、彼が命を賭して守ろうとした「家名」の存続と発展の礎となった。
父・重昌と共に島原の陣中にあった嫡男・板倉重矩(しげのり)は、父の死という悲報に奮起した。松平信綱が到着し、戦いが兵糧攻めに移行した後、寛永15年2月28日の最後の総攻撃の際、彼は父の弔い合戦とばかりに、軍令を破って抜け駆け突撃を敢行した佐賀藩勢に遅れじと城内に突入した 1 。この時、一揆軍の将の一人である有家監物を一騎討ちで討ち取るという大手柄を立てている 2 。
この抜け駆けは軍律違反とされ、戦後、一時的に謹慎処分を受けた 1 。しかし、その武功は高く評価され、特に歴戦の将である水野勝成などはその勇猛さを賞賛したという 45 。翌寛永16年(1639年)、重矩は家督相続を正式に許され、父の遺領を継いで深溝藩主となった 7 。
重昌がもし生きて江戸に帰り、任務失敗の咎で処罰されていたならば、板倉分家は改易か大幅な減封を免れなかったであろう。しかし、彼が総大将として壮絶な戦死を遂げたことで、幕府は板倉家に対して一種の「負い目」を感じた可能性がある。その結果、父の汚名をそそごうと奮戦した息子・重矩の功績を高く評価し、取り立てることで、その負い目を解消しようとしたと考えられる。
事実、重矩はその後の出世が目覚ましく、大坂定番、京都所司代、そして幕政の中枢である老中を歴任し、最終的には5万石の大名にまで加増された 1 。父が果たせなかった幕閣での大成を成し遂げ、父の死によって失墜しかけた家名を、見事に回復・発展させたのである。
重矩に始まった重昌流板倉家は、その後も大名家として存続した。時代の変遷と共に、下野烏山藩、武蔵岩槻藩、信濃坂木藩と転封を重ね、最終的には陸奥福島藩に定着し、明治維新まで存続した 18 。
特筆すべきは、福島市に今も重昌を祀る「板倉神社」が現存し、その福島では、重昌の訃報が江戸に届いたとされる1月7日に正月の門松を片付けるという、彼の死を悼む風習が長く続いていることである 18 。遠い島原の地で戦死した藩祖を悼む風習が、数百年後の転封先でまで受け継がれているのは異例のことである。これは、板倉家が代々、祖先である重昌の悲劇的な忠義を家伝として語り継ぎ、藩の精神的支柱としてきた証左に他ならない。重昌の死は、単なる歴史的事実から、家のアイデンティティを形成する「神話」へと昇華されたのである。
板倉重昌の生涯を振り返る時、我々の前に現れるのは、単なる「失敗した将」という一面的な姿ではない。彼は、偉大な父と兄の背中を追いながら、自らの価値を「行動」と「忠誠」によって証明しようとした、実直な武士であった。彼の権威は、制度的な地位よりも、徳川家康や家光といった最高権力者との個人的な信頼関係に根差していた。それが通用しない、家格と石高が絶対的な価値を持つ地方での大規模な軍事指揮という、彼の経験を遥かに超えた任務において、彼は構造的な困難に直面した。
彼の最期は、個人の資質の問題以上に、一揆の規模を過小評価した幕府の初動ミス、石高の低い譜代大名に大大名を指揮させようとした指揮系統の構造的欠陥、そして個人の武勇を尊ぶ戦国の価値観と組織の秩序を重んじる江戸の価値観が交錯する、時代の矛盾が生んだ悲劇であったと言える。
しかし、彼が自らの命と引き換えに求めた「名」は、確かに残った。その壮絶な「名誉の死」は、結果として息子・重矩の立身出世を助け、板倉家の安泰と繁栄をもたらした。そして彼の名は、福島板倉神社に祀られ、風習として今なお人々の記憶に留められている。
辞世の句に詠んだ通り、彼は「魁」として死ぬことで、武士としての本懐を遂げたのかもしれない。成功と失敗、名誉と屈辱、そして生と死の狭間で苦悩し、自らの信念に従って壮絶な最期を選んだ板倉重昌は、時代の転換期に生きた、極めて人間的な魅力を持つ武士として、歴史に記憶されるべき人物である。