本報告書は、居合の始祖として武道史にその名を刻む林崎甚助重信(はやしざきじんすけしげのぶ)という人物の姿を、伝承、史料、そして武道史的文脈から多角的に解明することを目的とする。彼の物語は、単なる一剣客の生涯を超え、日本の武道精神の象G象として、また数多の居合流派の源流として、後世に絶大な影響を与え続けている 1 。
林崎甚助に関する情報の多くは、彼の死後、江戸時代中期以降に成立した各流派の伝書や武芸書に依拠しており、同時代における客観的な一次史料は極めて乏しいのが現状である。この事実は、彼が厳密な意味での「歴史上の人物」であると同時に、後世の武道家たちの理想や願いが投影された「文化的英雄」としての側面を強く持つことを示唆している。したがって、彼の人物像を追うことは、一個人の伝記研究に留まらず、日本の武道文化が如何にしてその理想像を形成し、伝承してきたかを解明する重要な鍵となる。
本報告では、まず最も広く知られる英雄譚を各伝承資料に基づき再構成する第一部、次に諸説入り乱れるその実像を史料批判を通じて探求する第二部、そして彼が遺した「居合」という武術の歴史的意義と文化的影響を分析する第三部の三部構成を採る。これにより、史実と伝説の狭間に屹立する林崎甚助という存在の本質に迫りたい。
本部は、後世に語り継がれ、多くの武道家の心を捉えてきた林崎甚助の英雄的な生涯を、諸伝承に基づき物語として再構成する。これは、後の史料批判の土台となると同時に、彼の物語が持つ普遍的な魅力の源泉を明らかにすることを目的とする。
林崎甚助の物語は、出羽の地で幕を開ける。通説によれば、彼は天文11年(1542年)または天文17年(1548年)頃、出羽国楯山林崎(現在の山形県村山市林崎)に生を受けた 1 。本姓は源、諱(いみな)は重信 1 。父は楯岡城主・最上氏の家臣であった浅野数馬とされ、幼名を民治丸(たみじまる)といった 3 。
平穏な幼少期は、突如として終わりを告げる。天文16年(1547年)、民治丸が数え年六歳という幼さであった時、父・数馬が同僚の坂一雲斎(さかいちうんさい。一説には坂上主膳とも 5 )に恨まれ、夜更けに囲碁の会合から帰宅する途中、闇討ちに遭い非業の死を遂げた 1 。この悲劇的な事件が、まだ幼い民治丸を、父の仇を討つという過酷な運命へと導くことになるのである。
父の仇討ちという重い宿命を背負った民治丸は、その本懐を遂げるため、楯岡城の武芸師範であった東根刑部太夫(ひがしねぎょうぶだゆう)に師事し、武術の修行に明け暮れる日々を送った 3 。しかし、その上達は思うように進まなかったとも伝えられている 7 。
自らの技量に限界を感じた民治丸は、神仏の力に活路を求める。弘治2年(1556年)、12歳とも14歳ともいわれる年に、故郷の林崎明神(古くは熊野明神とも呼ばれた 7 )に百日間の参籠を誓願した 1 。昼夜を問わず一心不乱に祈りを捧げ、抜刀の稽古に励んだという。
そして満願の日、民治丸の夢の中に林崎明神が示現し、長大な刀を瞬時に抜き放って敵を制する神妙秘術を授けたと伝えられる 1 。この神託によって開眼した技こそが、後に「居合」と呼ばれる武術の濫觴(らんしょう)となった。特に、家伝とされた三尺二寸三分(約98cm)もの長大な刀を自在に操るための秘術「卍抜(まんじぬき)」を授かったとする具体的な伝承も存在する 9 。この神秘的な体験が、彼の剣技を飛躍的に向上させ、仇討ちへの道を切り拓いたのである。
神託を得て抜刀の妙を悟った民治丸は、永禄2年(1559年)、17歳で元服する。その際、生まれ故郷の地名から「林崎」を姓とし、「甚助重信」と名を改めた 5 。そして、父の仇である坂一雲斎を討つべく、諸国を巡る長い旅に出立した。
数年にわたる探索の末、永禄4年(1561年)、19歳(一説には21歳 11 )の時、ついに京都において仇の居場所を突き止める。そして、長年の修行で磨き上げた神速の抜刀術をもって、見事これを討ち果たし、本懐を遂げたのである 1 。この仇討ちの経緯については、一度仇を発見した後に故郷へ戻り、再び京に上って清水寺の付近で討ち果たしたという、より詳細な伝承も残されている 5 。
悲願を達成した甚助は故郷へ帰り、母に孝養を尽くすが、その母も翌年には病によってこの世を去る 5 。全ての俗縁から解き放たれた彼は、自らが開眼したこの技をさらに高め、後世に伝えるべく、再び孤剣を抱いて終わりのない武者修行の旅へと出発した。その際、仇討ちの際に用いた愛刀「信国」作の太刀(三尺三寸あったともいう 7 )を、神託を授かった林崎明神に奉納したと伝えられている 7 。
甚助の廻国修行は、単なる自己の鍛錬に留まらなかった。彼の神技はたちまち諸国に知れ渡り、その教えを乞う者が後を絶たなかった。甚助は彼らに惜しみなく技を教え、数多くの優れた弟子を育てたとされる 1 。その道中、肥後国(現在の熊本県)で加藤清正に招かれ、その家臣たちに居合を指南したという逸話も残っている 1 。
彼の武名は、他流派の達人たちとの交流も生んだ。林崎新夢想流の伝書によれば、当代随一の剣聖と謳われた塚原卜伝に師事して鹿島新当流を学び、その最高秘技である「一之太刀(ひとつのたち)」を授けられたとも伝えられる 1 。また、鞍馬流剣術の伝書においては、甚助が第二代宗家として系譜に名を連ねており、彼の武術的探求の幅広さがうかがえる 1 。
彼の薫陶を受けた弟子の中から、後世に名を残す多くの達人が輩出された。中でも、田宮平兵衛重正(たみやへいべえしげまさ、田宮流開祖)、関口弥六右衛門氏心(せきぐちやろくえもんうじむね、関口流開祖)、長野無楽斎槿露(ながのむらくさいきんろ、無楽流開祖)、片山伯耆守久安(かたやまほうきのかみひさやす、伯耆流開祖)らは特に名高く、「五大高弟」などと称されることもある 3 。彼らはそれぞれが林崎の教えを礎に独自の流派を大成させ、居合という武術を全国に広める上で極めて重要な役割を果たした。
甚助の晩年は、再び謎に包まれている。元和3年(1617年)、70歳を超えてなお武道への探求心は衰えることなく、再び廻国修行の旅に出た後、その消息はぷっつりと途絶えたとされる 1 。その死没地や正確な没年は定かではない。この謎に満ちた最期もまた、林崎甚助という人物の伝説性を一層高める一因となっているのである。
第一部で詳述した林崎甚助の物語は、多くの人々に親しまれている「通説」である。しかし、この物語は果たして歴史的事実なのか。本部は、この通説がいかなる史料的根拠に基づき、また、いかなる歴史的経緯を経て形成されたのかを批判的に検証する。特に、彼の出自や神託をめぐる異説を詳細に分析し、伝承の背後にある歴史的、文化的な力学を浮き彫りにすることを試みる。
現在、我々が知る「出羽国林崎に生まれ、故郷の林崎明神(熊野明神)から神託を受けて居合を開眼した」という林崎甚助の物語は、その原型を江戸時代中期(享保年間)に日夏繁高によって著された『本朝武芸小伝』に見出すことができる 15 。
この書物は、当時の武芸諸流派を網羅的に紹介した一種の武芸百科事典であり、その記述は後世に絶大な影響力を持った。多くの武芸者がこの書を参考にし、自らの流派の歴史を語る際に引用したため、『本朝武芸小伝』に記された甚助像が、それまで存在した他の異説を凌駕し、後世における「定説」として広く受け入れられるに至ったと考えられる 15 。林崎甚助の物語を検証する上で、この文献の存在と影響力を看過することはできない。
『本朝武芸小伝』が通説を形成する以前の文献や、異なる系統の伝書には、全く別の林崎甚助像が描かれている。
直心影流の伝書を研究した山田次朗吉が引用する『武術太白生伝』という文献によれば、林崎甚助(名は氏賢とされる)の生国は 相模国 (現在の神奈川県)であったと記されている 15 。この説では、甚助は武州川越(現在の埼玉県川越市)に縁が深く、元和2年(1616年)に甥の高松勘兵衛を訪ねた後、奥州へ旅立ち戻らなかったという。そして、彼の孫弟子にあたる人物が、享保元年(1716年)に川越の蓮馨寺に墓碑を建立したとまで具体的に述べられている 15 。
さらに、後北条氏の歴史を記した『北条五代記』には、 鹿島明神 が老翁の姿で「林崎勘助勝吉」という人物(後世、甚助と同一視される)の夢に現れ、長柄の刀の利を伝えたという記述が存在する 15 。
この「鹿島」という地名は、多くの古田宮流や林崎系流派の伝書に見られる記述とも響き合う。これらの伝書では、神託を与えた神を「林崎明神」と特定せず、単に「林明神」または「林之明神」と記している例が多い 15 。この「林」とは、常陸国鹿島の神域にあった「林村」を指し、そこで祀られていた神、すなわち鹿島神宮の主祭神である武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)のことではないか、という説が唱えられている 15 。この解釈は、甚助が剣聖・塚原卜伝(鹿島新当流の創始者)に学んだという伝承とも見事に整合する。
これらの異説の存在は、林崎甚助の物語が一つではなかったことを示している。そして、なぜ「出羽・林崎明神」の物語が通説となったのかを考えることは、居合という武術のアイデンティティ形成の過程を理解する上で極めて重要である。
この二つの説は、単なる事実関係の相違に留まらない。これは、居合という武術の「聖地」と「正統性」をどこに求めるかという、二つの大きな物語(ナラティブ)の競合と見ることができる。
「相模出身・鹿島神託」説は、居合を、塚原卜伝に代表される関東の伝統的武術、すなわち「鹿島・香取の武林」という既存の権威ある武術体系の系譜上に位置づける。これは、居合が由緒正しい武術の中心地から生まれたという正統性を与える物語である。
一方で、「出羽出身・林崎明神神託」説は、居合を、他の何ものにも依らない、全く新しい「神授の武術」として東北の地に誕生させる。この物語は、山形県村山市の林崎居合神社を、他の武術流派とは一線を画す、唯一無二の「居合発祥の聖地」としての地位へと押し上げる力を持っていた 7 。
結果として、江戸時代を通じて『本朝武芸小伝』に代表される「出羽説」が通説として定着していった。これは、特定の土地と結びつき、より神秘的で独立性の高い「創世神話」が、自己の流派の独自性と権威を求める武道家たちの心を強く惹きつけ、広く支持された結果と解釈できる。この物語の勝利が、今日の林崎居合神社の「聖地」としての権威を不動のものとしたのである。
林崎甚助の生涯を正確に再構築しようとする試みは、史料の壁に突き当たる。生没年 1 、仇討ちの正確な年号 1 、仇の名 3 など、その生涯に関する基本的な情報でさえ、伝承や文献によって記述が異なり、確定は極めて困難である。
これらの情報の多くは、各流派がその正統性を示すために作成した伝書に由来する。伝書は、技法や系譜を伝える歴史的記録であると同時に、流派の権威を高めるための「物語」としての性格を併せ持つ。例えば、無双直伝英信流の伝書は流祖を「天真正林崎明神」とするが、他の田宮流系統の伝書ではそのような記述は見られないといった違いも、その証左である 15 。
このように、林崎甚助という人物の存在を直接証明する同時代の一次史料は乏しい。しかし、だからといって彼を架空の人物と断定することはできない。彼から直接、あるいは間接的に教えを受けたとされる高弟たちが興した流派(田宮流、関口流、無楽流など)が、江戸時代初期に確かに存在し、現在までその血脈を伝えているという事実は、林崎甚助という卓越した抜刀術の使い手が実在したことの、何より強力な傍証となる 18 。彼の存在は、確固たる史実と豊かな伝説の狭間に、しかし武道史における確かな影響力をもって屹立しているのである。
本部は、林崎甚助が創始、あるいは体系化したとされる「居合」という武術が、なぜその時代に生まれ、どのように発展し、現代の武道文化にどのような影響を与え続けているのかを、時代背景や技術的側面から分析する。
林崎甚助が生きた戦国末期から江戸初期は、日本の武術史における大きな転換期であった。居合の誕生と発展は、この時代の精神的、技術的な変化と深く結びついている。
大規模な合戦が終息し、徳川幕府による泰平の世が訪れると、武術の役割も大きく変化した 22 。戦場で敵兵を効率的に殺傷するための「殺人剣(さつじんけん)」から、平時において不意の危難から身を護り、心身を鍛え、人格を陶冶するための「活人剣(かつにんけん)」へと、その思想的重心が移りつつあった 6 。
剣術が、既に抜刀された状態からの攻防を主とするのに対し、居合は刀が鞘に収まっている状態から、不意の襲撃に咄嗟に対応する術である 2 。この「鞘の内」に勝敗の起点を置く思想は、「治にあって乱を忘れぬ」という江戸時代の武士の精神性と深く共鳴し、広く受け入れられた 25 。戦わずして勝つ、あるいは鞘から刀を抜くその一瞬に勝負を決するという思想は、実戦的な護身術であると同時に、極めて高い精神性を要求される修養の道でもあった 26 。
居合という技術体系の発展は、刀の佩用(はいよう)様式の変化と不可分である。それまでの太刀(たち)が刃を下に向けて腰から吊るされていたのに対し、この時代には刃を上に向けて腰帯に差す「打刀(うちがたな)」が武士の主たる帯刀形式として定着した 28 。刃を上に向けることで、鞘から抜き放つ動作と斬り下ろす動作を、より速く、一連の流れで行うことが可能になった。この打刀の普及が、抜刀に特化した技術体系である居合の発展を技術的に後押ししたのである。
また、伝書に残る形、例えば「三尺三寸の刀を以て、敵の九寸五分の小刀にて突く前を切止る」といった想定 9 は、戦場の甲冑武者同士の戦いとは明らかに異なる状況、すなわち屋内など狭い空間での近接戦闘や、座した状態からの不意の襲撃といった、江戸時代の武士が日常的に直面し得た具体的な脅威に対応するものであった 29 。居合は、新たな時代の要請に応える形で生まれた、実践的な武術だったのである。
林崎甚助の教えは、固定的な「型」の伝授に留まらず、普遍的な「抜刀の理合」の伝授であったと推察される。その証拠に、彼の弟子たちはその教えを基盤としながらも、それぞれが独自の解釈と工夫を加え、多種多様な特徴を持つ流派を創始していった。
この流れは、幾多の分派と統合を経て、現代居合道の二大潮流である「無双直伝英信流」と「夢想神伝流」へと繋がっていく。
林崎甚助から発した居合の流れが、いかに広範かつ多様に展開していったかを以下の系譜図に示す。
代数 |
氏名 |
備考(流派名、特徴など) |
始祖 |
林崎甚助重信 |
居合の始祖。神夢想林崎流、林崎流などと呼ばれる。 |
↓ |
(主要な弟子たちによる分派) |
|
2代 |
田宮平兵衛重正 |
田宮流 の開祖。「美の田宮」と称される。長柄の刀を推奨 16 。 |
2代 |
関口氏心(柔心) |
関口流 の開祖。柔術を中核とし、居合も伝える総合武術 21 。 |
2代 |
片山伯耆守久安 |
伯耆流 の開祖。 |
2代 |
長野無楽斎槿露 |
無楽流 の開祖。甚助と田宮重正に学ぶ。多くの分派の源流となる 38 。 |
↓ |
(長野無楽斎の系譜が主流となり発展) |
|
7代 |
長谷川主税助英信 |
無双直伝英信流の中興の祖(流祖)。 技法を大きく発展させる 19 。 |
↓ |
(土佐藩へ伝来) |
|
9代 |
林六太夫守政 |
土佐藩士。英信流を土佐に伝え、大森流を加えて体系化。 土佐英信流 の礎を築く 19 。 |
↓ |
(土佐英信流が二派に分かれる) |
|
12代以降 |
(谷村派) |
林政誠の系統。第17代・ 大江正路 が技を再編し、現代の 無双直伝英信流 を確立 42 。 |
12代以降 |
(下村派) |
松吉久盛の系統。 中山博道 がこの系統を学び、 夢想神伝流 を創始する 44 。 |
林崎甚助の物語は、彼にまつわる物理的な場所、すなわち「聖地」の存在によって、より強固なリアリティを獲得している。その中心が、山形県村山市に鎮座する林崎居合神社である。
甚助が参籠し神託を得たとされる林崎明神は、後に甚助自身の御霊も祭神として合祀され、「熊野居合両神社」、通称「林崎居合神社」として今日に至っている 3 。この神社は、単なる史跡ではない。江戸時代から、羽州街道を通る諸藩の武士たちが武運長久と武術上達を祈願して必ず参詣する場所となり、数多くの刀剣や絵馬が奉納されてきた 7 。
今日でも、林崎居合神社は「日本唯一の居合神社」「居合の聖地」として、流派の垣根を越え、国内外の多くの居合道修行者から篤い崇敬を集めている 7 。毎年9月には例大祭が執り行われ、全国から剣士が集い奉納演武を行うなど、流派を超えた交流の場としての役割も担っている 7 。
この神社の存在は、林崎甚助の「伝説」を、参拝や祈願といった具体的な行為が可能な物理的な「聖地」として具現化している。武道家たちはこの地を訪れ、祈りを捧げ、奉納演武を行うことで、甚助の物語を追体験し、自らをその偉大な系譜に連なる者として再認識する。このような定期的な儀式は、同じ信仰(甚助への崇敬)を共有する人々を結びつけ、「居合道」という一つの共同体意識を醸成・維持するための、生きた装置として機能しているのである。
林崎甚助の生涯は、確たる同時代の史料に乏しく、その多くの部分が後世に創られた伝説の霧に深く包まれている。彼の生没年、出身地、師弟関係、そして仇討ちの細部に至るまで、複数の説が存在し、その歴史的実像を確定することは極めて困難である。
しかし、彼の物語 — 父の仇討ちという悲壮な誓い、神への一心不乱の祈願、苦難の修行の末の開眼、そしてその神技を惜しみなく後進に伝えたという武徳 — は、武道を志す者にとって、時代や流派を超えた普遍的な理想像を提示し続けてきた。
彼の歴史的実像を史料批判によって追求する試みは重要である。だが、それ以上に、なぜ彼がこれほどまでに語り継がれ、数多くの居合流派の「始祖」として仰がれるに至ったのか、その伝説の持つ文化的・精神的な意味を理解することこそが、林崎甚助という存在の本質に迫る鍵となる。彼は、単なる一人の剣客であると同時に、居合という武道が内包する「静中の動」「鞘の内での勝利」「心身の修養」といった深遠な思想を体現する、不滅の象徴なのである。
林崎甚助が遺した武道への探求心と、その技と精神は、決して過去の遺物ではない。それは形を変え、無数の弟子たちによって受け継がれ、現代の道場で振るわれる一刀一刀の中に、今なお確かに生き続けている。