柳川調信は対馬藩家老。朝鮮出兵後の日朝国交回復のため、国書偽造という禁断の策を実行し、己酉約条締結に貢献。対馬藩を経済的破綻から救うも、その功績が柳川家の権勢を増大させ、後の「柳川一件」という藩内対立の火種となった。
柳川調信(やながわ しげのぶ)という名は、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけての歴史を語る上で、決して広く知られた存在ではない。しかし、彼は単なる対馬藩の一家老にとどまらず、時代の転換期において日本の対朝鮮外交を事実上主導し、その後の日朝関係の枠組みを決定づけた極めて重要な人物であった。宗家の家臣として外交に長け、家老の地位に至ったという一般的な理解は、彼のキャリアの一面に過ぎない。本報告書は、彼の行動を突き動かした動機、その手法の特異性、そして彼が後世に残した功罪の二面性を深く掘り下げることを目的とする。
柳川調信という人物を理解するためには、まず彼が生きた対馬という土地の地政学的・経済的特殊性を把握する必要がある。対馬は山がちで耕作に適した土地が極めて少なく、古来より朝鮮半島との貿易が島の経済を支える生命線であった 1 。しかし、この生命線は豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)によって無残にも断ち切られ、対馬は藩の存亡に関わる絶望的な状況に陥った。この「死活問題」こそが、柳川調信のあらゆる行動原理を解き明かす根源的な鍵となる。
彼の生涯は、その功績が皮肉にも次世代の深刻な藩内対立の火種となる「柳川一件」の源流として捉えることができる 2 。一個人の類稀なる功績が、いかにして藩を二分するお家騒動へと繋がり、ひいては江戸幕府による外交管理体制の強化という、より大きな歴史の潮流へと結びついていったのか。本報告書は、その複雑な因果の連鎖を、多角的な視点から解明するものである。
出自不明の一人の男が、いかにして国境の島・対馬で絶対的な地位を築き上げ、さらには豊臣、徳川という中央政権からも重用されるに至ったのか。この第一部では、柳川調信の立身の軌跡を追跡し、その権力基盤が形成される過程を明らかにする。
柳川調信の出自は、史料上明確ではない。一説には商人出身ともいわれ 5 、氏素性も不明であったという記録は 6 、彼が宗家に代々仕える譜代の家臣ではなく、自らの才覚一つでのし上がった人物であったことを強く示唆している。この出自は、伝統的な武家の価値観や格式に縛られない、現実主義的で大胆な交渉術の素地となった可能性が考えられる。
彼のキャリアは、宗氏の一族である津奈調親への仕官から始まった。その後、主君である宗義調に帰順し、その非凡な能力を認められて許されたという経緯を持つ 8 。これは、彼が単に抜擢されたのではなく、一度は敵対勢力に身を置きながらも、それを乗り越えて取り立てられるほどの傑出した才能の持ち主であったことを物語っている。その外交能力は早くから開花しており、天正4年(1576年)には宗義純の使者として、当時備後国にいた将軍・足利義昭に面会するなど、比較的早い段階から外交の表舞台で活動していたことが確認できる 8 。
柳川調信にとって、その名を天下に知らしめる最大の転機となったのが、豊臣秀吉による九州平定 8 と、それに続く文禄・慶長の役であった 2 。天正15年(1587年)、主君・宗義調が秀吉に帰順する際の使者を務め、中央政権との直接交渉の端緒を開いた 8 。この任務の成功により、彼は宗家にとって不可欠な存在としての地位を固めていく。
文禄・慶長の役では、主君・宗義智、そして小西行長らとともに一番隊に属し、日本軍の先鋒として朝鮮へ渡った 9 。商人出身で、当初から戦争には批判的で和平を重視していた行長と行動を共にした経験は 11 、調信の外交思想に決定的な影響を与えたと考えられる。彼は朝鮮・明との和平交渉の最前線に立ち、秀吉の強硬な要求をそのまま伝えれば交渉が決裂することを深く理解していた。そのため、時には秀吉の意向を歪曲し、文書を改ざんすることも厭わないという、危険な交渉術を駆使した 12 。この戦時下での経験が、後に彼が実行する大胆な国書偽造へと繋がる、いわば予行演習となったのである。
彼の活動は日本側だけでなく、交渉相手である朝鮮王朝からも重要視されていた。『朝鮮王朝実録』の一つである『宣祖実録』には、かつて柳川調信が通信使の派遣を要請してきたが、その結果として壬辰倭乱(文禄の役)が起きた、という趣旨の記述が残されている 13 。これは、彼が朝鮮側にとって忘れがたい、重要な交渉相手として明確に認識されていたことの証左である。
文禄・慶長の役が秀吉の死によって終焉を迎えると、日本国内は関ヶ原の戦いという次なる動乱期に突入する。宗家は、当主・宗義智が小西行長の娘を正室に迎えていた縁から西軍に与した 2 。これは、戦後の宗家にとって藩の存亡を揺るがす最大の危機であった。
この絶体絶命の窮地を救ったのが、柳川調信の交渉力であった。彼は徳川家康に対し、西軍に与したのは本意ではなかった旨を懸命に弁明し、陳謝の交渉を行った。その結果、宗家は改易を免れ、対馬一国の本領安堵を勝ち取ることに成功する 2 。この功績により、調信の藩内における地位はもはや誰にも揺るがすことのできない不動のものとなり、同時にその卓越した交渉能力は、新たな天下人である徳川家康にも強く印象付けられた。
調信は、徳川政権下で対馬が生き残るためには、中央政権との強固なパイプが不可欠であると判断し、巧みに幕閣中枢へと食い込んでいく。特に、家康の側近であった本多正純との関係構築は、その後の柳川家の立場を決定づける上で極めて重要であった 1 。この中央政権との直接的な繋がりは、柳川家が主家である宗家を介さずに幕府と意思疎通を図ることを可能にし、後の藩内における権力構造の歪みを生み出す遠因となったのである。
柳川調信の台頭は、彼の個人的な才覚もさることながら、「九州平定」「朝鮮出兵」「関ヶ原の戦い」という、宗家が直面した三つの大きな危機と完全に連動していた。彼は、主家の危機を自らの存在価値を高める絶好の機会へと転換させる稀有な能力を持っていた。もしこれらの危機がなければ、譜代でもない彼が家老筆頭にまで上り詰めることはなかったであろう。彼の権力基盤は、常に外部からもたらされる政治的緊張関係の中にこそ、その源泉があったのである。
表1:柳川調信 関連年表(1576年~1605年)
西暦 |
和暦 |
柳川調信の動向・宗家の状況 |
日本中央政権の動向 |
朝鮮・明の動向 |
1576年 |
天正4年 |
宗義純の使者として足利義昭に面会 8 。 |
織田信長、安土城の築城を開始。 |
- |
1587年 |
天正15年 |
宗義調の使者として豊臣秀吉に帰順 8 。 |
秀吉、九州を平定。バテレン追放令を発布。 |
- |
1590年 |
天正18年 |
秀吉より五位諸大夫に任じられる 14 。 |
秀吉、小田原征伐により天下統一を達成。 |
- |
1592年 |
文禄元年 |
文禄の役。宗義智・小西行長らと共に出兵 10 。 |
秀吉、朝鮮へ出兵(文禄の役)。 |
日本軍の侵攻により、国王・宣祖は義州へ避難。 |
1593年 |
文禄2年 |
朝鮮・明との和平交渉の最前線で活動 12 。 |
明との和平交渉が開始される。 |
李如松率いる明軍が平壌を奪還 15 。 |
1597年 |
慶長2年 |
慶長の役。再び朝鮮へ渡る。 |
秀吉、再度朝鮮へ出兵(慶長の役)。 |
日本軍の再侵攻。 |
1598年 |
慶長3年 |
- |
秀吉が死去。日本軍は朝鮮から撤退。 |
- |
1600年 |
慶長5年 |
関ヶ原の戦いで西軍に与するも、戦後、家康と交渉し本領安堵を勝ち取る 2 。 |
関ヶ原の戦い。徳川家康が勝利。 |
- |
1601年 |
慶長6年 |
朝鮮人捕虜を返還し、国交回復交渉を開始 1 。 |
- |
朝鮮側、捕虜全員の返還を条件に和議に応じる姿勢を示す 1 。 |
1604年 |
慶長9年 |
朝鮮からの使節を伴い、伏見で家康・秀忠に謁見 1 。 |
- |
回答兼刷還使が対馬へ派遣される。 |
1605年 |
慶長10年 |
9月29日、死去。享年67 8 。 |
- |
- |
柳川調信の生涯における活動の核心であり、彼の名を歴史に刻む最大の功績、そして同時に最大の問題点となったのが「国書偽造」である。この第二部では、対馬の存続という至上命題を前に、彼がいかにしてこの禁断の策に手を染めていったのか、その動機、実行プロセス、そしてもたらされた結果を詳細に分析する。
豊臣秀吉の死後、天下人となった徳川家康は、荒廃した朝鮮との国交を正常化することを目指した。しかし、侵略を受けた朝鮮側の日本に対する不信感はあまりにも根深く、交渉は困難を極めた。一方で、対馬藩にとって朝鮮貿易の再開は、藩の経済を立て直すための「悲願」であり、文字通りの「死活問題」であった 1 。
交渉の中で、朝鮮側は和議に応じる条件として、日本側には到底受け入れがたい二つの厳しい要求を突きつけた。第一に、朝鮮出兵の際に先王の陵墓を荒らした犯人を捜し出して引き渡すこと 1 。第二に、日本側、すなわち徳川家康から先に国書を差し出すことである 1 。
陵墓荒らしの犯人については、すでに行方が知れず、特定は不可能であったため、対馬藩は藩内の罪人を身代わりに仕立てて朝鮮側に引き渡すという苦肉の策で乗り切った 1 。しかし、より深刻な問題は国書の提出であった。当時の東アジアの外交慣習において、先に国書を提出する側は、相手に対して「降伏」や「従属」の意を示すものと見なされていた。天下統一を成し遂げた家康が、そのような屈辱的な要求に応じるはずがなかった 1 。これにより、対馬藩は幕府の威信と朝鮮の面子の間で板挟みとなり、交渉の手段を完全に失うという絶体絶命の状況に追い込まれたのである。
この完全な膠着状態を打破するため、藩主・宗義智、家老・柳川調信、そして対馬の外交を担う以酊庵の住持・景轍玄蘇らは、前代未聞の策に打って出ることを決断する。それは、幕府にも朝鮮にも内密で、徳川家康の名を騙る国書を偽造するという、国家を欺く禁断の策であった 1 。
この偽造工作は、一度きりの場当たり的なものではなく、組織的かつ継続的に、極めて巧妙に行われた。
この危険極まりない綱渡りの結果、対馬藩は望んでいた成果を手にする。慶長12年(1607年)、ついに朝鮮使節一行が来日し、江戸城で二代将軍・徳川秀忠、駿府城で大御所・家康との謁見が実現した 4 。そして慶長14年(1609年)には、日朝間の新たな貿易協定である「己酉約条(きゆうやくじょう)」が締結され、対馬藩の悲願であった朝鮮との公式な貿易が、ついに再開されることになったのである 1 。
この一連の交渉において、朝鮮側は対馬藩による国書の偽造に薄々気づいていた、あるいは確信していた可能性が極めて高い 1 。しかし、一度は国交が断絶した日本との関係を再び悪化させることは得策ではないという高度な政治的判断から、あえてその不正を黙認し、交渉に応じたと考えられる。これは、この外交劇が単に対馬藩による一方的な詐欺ではなく、双方の「実利」を優先した結果としての「暗黙の共犯関係」ともいえる側面を持っていたことを示唆している。
この国書偽造事件は、「名分」と「実利」の対立というテーマを鮮明に映し出している。江戸幕府は「天下人としての名分(権威)」を、李氏朝鮮は「侵略された側としての名分(面子)」を、それぞれ国として譲ることができなかった。その狭間で、対馬藩は「貿易再開という実利」を何よりも優先するために、両国の名分を偽りの文書上で取り繕うという手段を選んだ。柳川調信は、この「実利」を追求する冷徹なリアリストの象徴的存在であった。物理的に両立不可能な問題を、正攻法ではなく「情報操作」によって解決しようとするその手法は、武力や正論が全てであった戦国の世から、新たな時代への移行を象徴する出来事であったとも評価できる。
柳川調信が築き上げた輝かしい功績と絶大な権勢は、対馬藩を救う一方で、その内部に深刻な対立の火種を宿すことになった。この第三部では、調信の死後、彼が残した遺産がいかにして藩を二分する大事件「柳川一件」へと繋がっていったのか、その権力構造の変化と対立の萌芽を分析する。
日朝国交回復の功績により、対馬藩には幕府から2800石が加増された。この時、徳川家康(あるいはその意を受けた本多正純)の指示により、加増分のうち1000石が、宗家を介さず柳川調信の子・智永に直接分与された 1 。これは、一介の家臣である柳川家が、幕府から直接知行を得る「幕府直参」に等しい待遇を受けたことを意味し、柳川家の立場を藩内で絶対的に特別なものにした決定的な出来事であった。
この経済的基盤に加え、調信が一代で築き上げた朝鮮および幕府中央との強固な人脈と、それに伴う外交上の利権は、息子の智永 10 、そして孫の調興(しげおき) 5 へと世襲されていく。これにより、柳川家は対馬藩の外交実務を独占的に掌握する、独立した権門と化した。その権勢は主家を凌ぐことさえあり、甚だしいケースでは、幕府の命令が家臣である柳川調興を通じて藩主の宗義成に伝達されるという、主従関係が逆転したかのような異常事態も発生した 22 。こうして、藩主・宗氏が統治する公の権力とは別に、柳川家が外交を背景に持つ「第二の権力」が藩内に形成され、深刻な二重権力構造が生まれていったのである 6 。
国交回復を見届け、その権勢が絶頂期にあった慶長10年(1605年)9月29日、柳川調信は67歳でその生涯を閉じた 8 。彼の死後、慶長20年(1615年)には主君・宗義智も死去し、それぞれの子である宗義成(当時12歳)と、柳川智永の子・調興(当時11歳)が若くして家督を継ぐことになった 22 。
しかし、父祖の世代、すなわち宗義智と柳川調信の間にあったような、共に国家の危機を乗り越えた固い協力関係は、若い二人の間には存在しなかった。彼らが相続したのは、歪んだ権力構造と、柳川家に与えられた特権的な地位であった。江戸で生まれ育ち、幼少期から家康や秀忠の近侍を務め、幕閣にも強い繋がりを持つエリートであった調興は 22 、自らを対馬藩の一家老という立場に飽き足らず、幕府の直臣たる旗本への昇格を画策し始める 1 。
この野望が、主家である宗氏との対立を決定的なものにする。そして、宗氏を失脚させ自らの独立を勝ち取るための最終手段として、調興は祖父・調信が命懸けで隠蔽した「国書偽造」という藩の最大の秘密を幕府に暴露するという、破滅的な行動へと突き進んでいくのである。
柳川家の台頭と宗家との対立は、現代の組織論にも通じる普遍的な問題をはらんでいる。柳川調信は対馬藩を救った英雄であったが、そのあまりに大きな功績の代償として柳川家に与えられた「聖域化」された特権が、結果として組織全体のガバナンスを崩壊させる原因となった。調信が主家のために築き上げた「幕府とのパイプ」や「国書偽造の秘密」が、皮肉にも孫の代には主家を攻撃するための最大の武器へと変貌したのである。これは、創業者の偉大な功績が、後継者の代には組織を破壊する道具となり得るという、歴史の皮肉を雄弁に物語っている。
表2:宗氏・柳川氏の権力関係変遷表
世代 |
主な人物 |
関係性 |
主な出来事 |
権力バランス |
|
初代 |
藩主:宗 義智 家老:柳川 調信 |
協力・共存 |
関ヶ原の戦後の危機回避 2 。 |
国書偽造による日朝国交回復 1。 |
宗家が藩の主導権を掌握しつつも、柳川家の外交専門能力に大きく依存する相互補完的な関係。 |
二代 |
藩主:宗 義成 家老:柳川 調興 |
対立・抗争 |
柳川調興の独立画策と幕閣への接近 4 。 |
国書偽造の暴露(柳川一件) 3。 |
藩主権力の確立を目指す宗家と、幕府の権威を背景に独立を目指す柳川家。二重権力構造が破綻し、全面対決へ。 |
柳川調信の生涯は、その目的と手段の間に存在する著しい乖離によって、単純な評価を許さない。彼は主家を救った忠臣なのか、それとも主君を欺き秩序を乱した梟雄なのか。この第四部では、同時代の他の「梟雄」とされる人物との比較分析を通じて、その歴史的独自性と人物像の複雑性を明らかにする。
柳川調信の行動を分析すると、その著しい二面性が浮かび上がる。主家・対馬藩の経済的存続という目的においては、彼の行動は紛れもなく「忠臣」的である。しかし、その目的を達成するために用いた手段、すなわち国書の偽造、幕府や朝鮮への二重の欺瞞、中央権力との直接的な癒着による藩内権力の掌握といった行為は、主君を欺き、藩の秩序を乱す「梟雄」的な側面を色濃く持つ。
この忠と奸が同居する複雑な人物像の根底にあるのは、武士としての伝統的な忠義や名誉よりも、藩を存続させるという「結果」を何よりも重視する、冷徹なまでの現実主義(リアリズム)であったと考えられる。彼は、倫理や名分が藩の存続を脅かすのであれば、躊躇なくそれを踏み越えることができる、マキャベリスト的な政治家であった。
彼の特異性を理解するために、戦国時代を代表する他の「梟雄」たちと比較検討を行う。
「美濃の蝮」と恐れられた斎藤道三と柳川調信には、いくつかの共通点が見られる。第一に、身分の低い出自(道三は油売り、調信は商人説)から、その知略と策略によって一国の重臣にまでのし上がった点である 5 。第二に、彼らの築いた権力が、結果として子や孫の代に主家(道三の場合は自分自身)への反乱を引き起こす原因となった点も酷似している 26 。
しかし、両者には決定的な相違点が存在する。斎藤道三は、最終的に主家である土岐氏を美濃から追放し、自らが国主となる「完全な下剋上」を成し遂げた 25 。彼の行動目的は、自己の権力掌握と立身出世にあった。一方、柳川調信は、どれほど絶大な権力を手にしても、生涯を通じて宗家の家臣という立場を逸脱することはなかった。彼の行動は、あくまで藩の枠内で権力を最大化し、それを「主家の存続」という目的のために行使した。その目的が「自己の権力」か「主家の利益」かという点で、両者は明確に区別される。
三好家の実権を握り、後に織田信長に仕えながらも二度反逆した松永久秀も、比較対象として興味深い。久秀と調信は、主家の中で主君を凌ぐほどの権力を握った点 28 、中央政権の動向に敏感で巧みに立ち回った点、そして茶人としての高い教養を持つなど、単なる武人ではない側面を持っていた点で共通している 31 。
しかし、その行動のスケールとベクトルは大きく異なる。松永久秀は「将軍足利義輝の殺害」や「東大寺大仏殿の焼き討ち」といった、天下の秩序そのものを揺るがす破壊的行動と結びつけられ(近年の研究では見直しが進んでいるが)、最終的には主君・織田信長に反逆し、独立勢力として滅びた 30 。彼の行動には、天下の情勢に直接介入しようとする野心が見え隠れする。対照的に、柳川調信の行動は、どれほど大胆であっても、その目的は常に対馬藩の利益という枠内に限定されており、天下の秩序そのものに挑戦するような野心は窺えない。
斎藤道三や松永久秀が「戦国」という時代の論理、すなわち実力主義と下剋上を純粋に体現した人物であるのに対し、柳川調信は「戦国」と「近世(江戸)」の移行期に生きた、より複雑な存在であった。彼の行動は、国書偽造という戦国的な策略を用いながらも、その目的は近世的な「家(藩)の存続と安定」にあった。この戦国と近世の価値観が混在するハイブリッドな性格こそが、彼の歴史的独自性であり、彼を単なる「梟雄」というカテゴリーに収めることを困難にしているのである。
柳川調信の生涯を俯瞰するとき、その功績と罪過は分かちがたく結びついていることがわかる。
彼の最大の「功」は、国書偽造という禁じ手を用いてでも破綻した日朝国交を回復させ、対馬藩を経済的破滅の淵から救い、江戸時代を通じての安定の礎を築いたことである 1 。彼の外交手腕がなければ、宗家は関ヶ原の戦後の混乱の中で改易されるか、あるいは経済的に立ち行かなくなり、歴史の舞台から姿を消していた可能性さえある。
一方で、彼の最大の「罪」は、その功績によって得た柳川家の特権的な地位が、藩内に深刻な二重権力構造を生み出し、孫の代に藩を存亡の危機に陥れる大事件「柳川一件」の遠因を作ったことである 4 。彼が藩のために行った超法規的な措置と、それによって得た権勢が、皮肉にも次世代の対立の火種となった。彼の功と罪は、まさに表裏一体の関係にあった。
柳川調信が残した歴史的遺産は、さらに大きな文脈で捉えることができる。「柳川一件」は、結果として江戸幕府の全面的な介入を招き、対馬藩の外交は幕府から派遣される僧侶(以酊庵輪番制)による厳格な管理下に置かれることになった 4 。これは、調信が築き上げた「対馬藩(と柳川家)による外交の自由裁量」の時代の完全な終わりを意味した。藩の自律性を守るために彼が取った手段が、最終的に藩の自律性を失わせる結果に繋がったのである。
この事件は、江戸幕府が全国の大名、特に国境に位置し独自の対外関係を持つ藩の統制をいかに強化していくかという、近世国家体制の確立過程における重要な一里塚となった。柳川調信の物語は、単なる一個人の立身出世譚や、一つの藩のお家騒動に留まらない。それは、一個人の類稀なる才覚と行動が、国家間の関係や国内の統治体制のあり方にまで深く影響を及ぼした、壮大な歴史のドラマとして記憶されるべきである。