柳本賢治は丹波波多野氏出身。細川高国の寵臣となるが、兄・香西元盛の謀殺を機に高国に反旗を翻す。細川晴元・三好元長と連携し、桂川原の戦いで高国を破り畿内の実権を掌握。しかし、播磨出兵中に暗殺された。
応仁・文明の乱(1467-1477年)以降、室町幕府の権威は失墜し、畿内は「主」と「管領」の座を巡る終わりのない権力闘争の舞台と化していた。特に、幕府管領を世襲した細川京兆家における内紛、いわゆる「両細川の乱」は、この時代の混乱を象徴する出来事であった。細川政元の暗殺後、その後継者の座を巡って細川高国と細川澄元・晴元父子が繰り広げた抗争は、畿内の国人をはじめとする諸勢力を巻き込み、権力構造の流動化を加速させた。
本報告書で詳述する柳本賢治(やなぎもと けんじ)は、まさにこの激動の時代、すなわち細川高国政権の崩壊から細川晴元政権の確立期、そして後の天下人・三好長慶が台頭する直前という、極めて重要な過渡期に彗星の如く現れ、そして散っていった武将である 1 。彼の活動期間はわずか数年間に過ぎないが、その間に主君を追放して畿内の中枢を掌握し、新たな政治秩序を模索したその生涯は、戦国初期の畿内政治史を理解する上で看過できない重要性を持つ。
従来の評価では、柳本賢治は主君を裏切った梟雄、あるいは三好元長との権力争いに明け暮れた一介の武将として語られることが多かった。しかし、近年の研究、特に馬部隆弘氏による細川京兆家の権力構造分析などを通じて、その実像はより複雑で多層的なものとして浮かび上がってきた 4 。彼は単なる野心家ではなく、新たな権力秩序を模索した「過渡期の梟雄」として再評価されるべき存在であり、その急激な台頭と唐突な死は、後の三好長慶による権力掌握の「試金石」あるいは「反面教師」として機能した可能性も指摘されている 4 。
本報告書は、ご依頼者が提示した概要情報を基点としつつ、彼の複雑な出自、権力闘争の力学、統治政策の萌芽、そして暗殺の真相に至るまでを、現存する史料に基づき多角的に検証し、柳本賢治という人物の実像に迫ることを目的とする。
柳本賢治の出自は、丹波国(現在の京都府中部、兵庫県北東部)の有力な国人領主であった波多野氏に遡る。父は波多野清秀とされ、兄弟には波多野本家を継いだ波多野元清(史料によっては稙通とも記される)、そして讃岐の名門・香西氏の名跡を継いだ香西元盛がいた 5 。賢治は彼らの弟、すなわち三男であったとするのが近年の研究における通説である 6 。波多野氏は、その系譜を日下部姓に求め、応仁の乱において山名宗全に従って上洛して以来、細川京兆家の被官として畿内政治に深く関与する家柄であった 8 。この一族の背景が、賢治の後の活動における重要な基盤となったことは言うまでもない。
賢治の青年期は、武士としてではなく、仏門の中で始まった。当初、兄・元清が僧籍にあったが、彼が還俗して波多野家の家督を継ぐことになったため、代わりに賢治が禅院に入り「仲霊寿犀(ちゅうれいじゅさい)」と名乗った 5 。しかし、彼の人生は、時の権力者である管領・細川高国の意向によって大きく転換する。13歳の時、高国の命令によって還俗させられ、まず山科興正寺の寺侍であった岩崎太郎左衛門の養子となった 5 。
そして、賢治の運命を決定づける事件が永正17年(1520年)に起こる。細川家の近習として仕えていた柳本長治が、細川澄元との戦いに敗れ、京都へ敗走する途上、山城国西岡の一揆勢による落ち武者狩りに遭い、嫡男の弾正忠某と共に討死したのである 10 。柳本氏は、細川政元個人の信任を得て台頭した新興の家臣であり、譜代の家柄ではなかったため、この当主父子の死は家の断絶を意味した 10 。この事態に対し、高国は極めて政治的な采配を振るう。彼は、岩崎氏の養子となっていた賢治を急遽抜擢し、柳本氏の名跡を継がせたのである 10 。
この一連の経緯は、賢治の初期のキャリアが、彼自身の意志よりも主君・高国の政治的都合によって形成されたことを明確に示している。僧侶から岩崎氏、そして柳本氏へと流転したその経歴は、彼が波多野本家や香西家を継いだ兄たちとは異なり、安定した家督を持たない「根無し草」であったことを物語る。彼の地位は、完全に高国個人への奉公に依存するものであり、この「作られた家臣」という出自は、彼の後の行動原理を理解する上で極めて重要な鍵となる。伝統的な家臣が「家」の存続を第一に考えるのに対し、高国から「与えられた」柳本家と一心同体であった賢治にとって、家の存続は自己の権力維持と完全に同義であった。このため、主君の行動が自己の存立基盤を脅かすと判断した際に、伝統的な忠義の観念に縛られず、より冷徹な政治判断を下す素地が、この時点で既に形成されていたと分析できる。
柳本氏を継承した賢治は、細川高国政権の中枢へと急速に食い込んでいく。その証左として、彼は高国の重臣であった細川尹賢(ただかた)から偏諱(主君や高位の人物が、臣下などに自身の名前の一字を与えること)を受け、「賢治」と名乗った 5 。これは、彼が高国政権の一員として公式に認められたことを象徴する出来事である。さらに、大永8年(1528年)頃からは、討死した先代・柳本長治の嫡子が名乗っていた官途名「弾正忠」を自らも称するようになり、名実ともに柳本家の後継者としての地位を確立した 5 。
彼の武将としての活動も記録に残っている。大永4年(1524年)には、和泉国において敵対する細川澄元派の残党と戦っており、高国方の有力な武将として軍事行動に従事していたことがわかる 13 。
また、後世の軍記物である『足利季世記』には、高国と賢治の個人的な関係性を示唆する興味深い記述がある。それによれば、高国は若く美童であった賢治を「男色にふけり、寵愛も勝れていた」とされ、その寵愛ゆえに身に余るほどの俸禄を与えられ、他の家臣を凌ぐほどの栄華を誇ったという 14 。この記述の真偽は定かではないが、賢治が高国の並々ならぬ信任を得ていたことを示す逸話として注目される。
近年の馬部隆弘氏の研究によれば、細川高国は自身の権力基盤を強化するため、伝統的な譜代の家臣だけでなく、賢治やその兄弟(波多野元清、香西元盛)のような、出自は多様だが実力のある者たちを「近習」として積極的に登用した 4 。これは、守護代など旧来の有力家臣層を牽制し、権力を自身のもとに集中させる狙いがあったと考えられる 4 。
しかし、この高国の政策は、政権の強化に繋がると同時に、深刻な内部対立の火種を孕む「両刃の剣」であった。賢治ら新興近習層の急激な台頭は、従来の身分秩序を重んじる旧来の重臣層との間に、見えざる軋轢を生み出していったのである 4 。
賢治の存在は、戦国期における主君と家臣の関係が、世襲的な「家と家」の繋がりから、実力や個人的な信頼に基づく「個人と個人」の関係へと変質していく、まさにその過渡期の典型例であった。高国は、敵対勢力との絶え間ない抗争を勝ち抜くため、家格にとらわれず即戦力となる実力者を登用する必要に迫られた。これが賢治のような人物に活躍の機会を与えた。一方で、この実力主義的な登用は、旧来の秩序を重んじる者たちの反発を招く。前述の『足利季世記』における男色云々の記述 14 は、こうした旧勢力側からの「新参者が不当な寵愛によってのし上がった」という嫉妬や非難が、物語として具現化したものと解釈することも可能である。すなわち、賢治の台頭そのものが、高国政権が内包する構造的な矛盾を象徴していたと言えるだろう。
細川高国政権下で順調に地位を築いていた賢治の運命は、大永6年(1526年)7月13日、突如として暗転する。彼の兄であり、高国の執事として政権を支えていた香西元盛が、主君・高国によって謀殺されたのである 15 。
この悲劇の直接的な引き金となったのは、高国の従弟であり、政権の重鎮であった細川尹賢による讒言であった 5 。尹賢は、何らかの理由で元盛を陥れようとし、高国に虚偽の報告を行った。史料によっては、尹賢が高国の命令と偽って元盛を呼び出し、自殺に追い込んだとも記されている 20 。この事件は、前章で述べた高国政権内部における新興近習層と旧来の重臣層との対立が、ついに修復不可能な破局へと至ったことを示すものであった。
兄の非業の死に激怒した賢治は、高国への反逆を決意する。彼は、もう一人の兄である丹波八上城主・波多野元清(稙通)と連携し、高国政権に反旗を翻した 6 。同年10月、賢治は丹波国の神尾寺城に籠り、挙兵した 13 。
彼らは、単独で高国に立ち向かうのではなく、阿波国(現在の徳島県)に逼塞していた高国の最大の政敵、細川晴元(故・澄元の子)およびその重臣である三好元長と連絡を取り、反高国連合戦線を形成した 10 。高国は直ちに討伐軍を派遣するが、賢治らは丹波の地でこれを巧みに迎撃し、撃退に成功する。この防衛戦においては、丹波黒井城主・赤井五郎が背後から高国方を攻撃し、包囲軍を敗走させるなど、周辺国人の協力も大きかった 22 。この勝利が、彼らの反乱を単なる局地的な抵抗から、京を目指す本格的な上洛戦へと発展させる大きな契機となった。
この一連の出来事は、高国の政治家としての致命的な判断ミスを浮き彫りにしている。彼は尹賢の讒言を鵜呑みにし、政権の重要な柱石であった香西元盛を自らの手で排除してしまった。これにより、彼は最も有能で忠実であったはずの近習集団、すなわち波多野兄弟を一夜にして敵に回したのである。この事件は、高国政権がもはや内部の利害対立を調整・統御する能力を完全に失っていたことを露呈した。賢治の離反は、単なる兄弟の仇討ちという私憤に留まるものではない。彼は、主君が内部対立の末に自滅していく様を間近で目撃し、この政権に見切りをつけたのである。そして、自らが新たな権力の中枢に座るべく、最も効果的な反高国勢力である晴元・元長と手を結ぶという、極めて合理的かつ冷徹な政治行動を選択した。これは、彼の政治的嗅覚の鋭さを示す重要なエピソードと言えよう。
高国政権からの離反を果たした柳本賢治は、その軍事的才能を遺憾なく発揮し、畿内の政治地図を塗り替えていく。大永7年(1527年)1月下旬、賢治は丹波の軍勢を率いて摂津へと進攻し、野田城や交通の要衝である山崎城などを次々と攻略した 13 。同年2月には、彼の動きに呼応して阿波から渡海してきた三好元長の弟・三好勝長らの軍勢と合流し、京都への圧力を強めた 13 。
そして同年2月12日から13日にかけて、賢治・三好連合軍は、将軍・足利義晴を奉じる細川高国・武田元光(若狭守護)の連合軍と、京都南西の桂川河原で激突する(桂川原の戦い) 22 。高国軍が川沿いに陣を敷く中、連合軍は三好勢が奇襲的に渡河攻撃を仕掛けたのを皮切りに、終始優勢に戦いを進めた 22 。この戦いにおいて、丹波勢の主体は柳本賢治と見なされており、彼の軍功は極めて大きかったと記録されている 22 。結果、高国軍は総崩れとなり、高国と将軍・義晴は都を捨てて近江国へと逃亡。これにより、長らく畿内に君臨した高国政権は事実上崩壊した 13 。
高国を追放した後、細川晴元と三好元長は、将軍・義晴の弟(従弟とも)にあたる足利義維(よしつな)を阿波から擁立し、国際貿易港として栄える堺に新たな政権を樹立した。これは、将軍が不在のまま堺で政務が行われたことから、通称「堺公方府」と呼ばれる 10 。
柳本賢治は、この新政権の中核を担う実力者として、畿内に絶大な権勢を振るった。彼は摂津国の山崎(大山崎)にある実相庵を拠点とし、京都およびその周辺地域の事実上の支配を開始した 10 。山崎は、淀川水運と陸上交通が交差する経済・軍事上の要衝であり、ここを抑えることは畿内支配の鍵であった 13 。さらに賢治は、自らの権力基盤を固めるため、京都近郊の国人である鴫野春重、能勢治頼、中井治安らに「柳本」の姓を与えて自身の配下に組み込み、家臣団を急速に拡大させた 5 。彼らは「年寄衆」と呼ばれ、柳本家中の上層部を形成したという 5 。
賢治が展開した一連の統治手法は、後の三好長慶による権力掌握術の「原型」とも評価できる。長慶が堺や芥川山城といった経済・交通の要衝を拠点としたこと、また松永久秀のような出自の低い実力者を重用して家臣団を編成したことは、賢治の戦略と軌を一にする。これは、旧来の守護所を中心とした支配体制から、経済・流通を直接掌握することの重要性を彼らが認識していたことを示している。また、地縁のない国人たちに自らの姓を与えて取り立てるという賢治の手法は、血縁や旧来の主従関係に頼らない、実力主義的な家臣団形成の試みであり、その思想は長慶の家臣団編成にも通じるものがある。ただし、賢治の権力基盤は急ごしらえであり、彼個人のカリスマに依存する度合いが強かった。それゆえに、彼が暗殺されると、その権力構造は急速に瓦解することになる。賢治の試みは、その先進性と同時に、過渡期の権力者ならではの脆さをも内包していたのである。
桂川原の戦いで共通の敵・細川高国を打倒した晴元政権であったが、その内部では早くも深刻な亀裂が生じていた。特に、軍事の双璧であった柳本賢治と三好元長との対立は、政権の安定を揺るがすほどのものへと発展していく 13 。
この対立の根源は、単なる個人的な感情のもつれではなく、政権の基本方針を巡る構造的な路線対立にあった。
第一に、「将軍問題」である。賢治は、近江に逃れた現将軍・足利義晴との和睦を模索し、あくまで敵を高国個人に絞る現実的な路線を主張した。これに対し元長は、自らが擁立した堺公方・足利義維を正統な将軍としてあくまで堅持する立場を崩さなかった 4。賢治のこの立場は、同じく義晴派であった丹波出身の武将・松井宗信らと共通するものであった 4。
第二に、「京都支配」を巡る主導権争いである。賢治が山崎を拠点に京都周辺の国人を束ね、実効支配を強める一方、元長もまた自らの権力基盤を築こうとした。しかし、元長は畿内の国人を信用せず、本拠地である阿波から配下を送り込み、山城国で郡代として直接統治を行おうとした 29 。この手法は、既に現地勢力と密接な関係を築いていた賢治から見れば、自らの領域を侵す敵対行為に他ならず、両者の衝突は避けられないものとなった。
この対立は、やがて露骨な権力闘争へと発展する。賢治は、兄の波多野元清や、三好一族でありながら元長と対立していた三好政長(宗三)らと結託し、主君である細川晴元に対して元長が謀反を企んでいると繰り返し讒言した 13 。
畿内にあって賢治らの軍事力に依存せざるを得ない晴元は、この讒言を信じ、元長への不信感を募らせていく。四面楚歌の状態に陥った元長は、享禄元年(1528年)8月、ついに政権中枢から離脱し、本拠地の阿波へと一時帰国を余儀なくされた 12 。これにより、賢治は畿内における政治・軍事の主導権を完全に掌握し、その権勢は絶頂期を迎える。彼はこの機を逃さず、畿内に残る元長派の国人衆の討伐に乗り出し、享禄2年(1529年)には摂津の有力国人・伊丹元扶を伊丹城に攻め滅ぼすなど、自らの権力基盤をさらに強固なものとしていった 13 。
この一連の権力闘争は、賢治と元長の対立という側面だけでなく、より大きな構図、すなわち「畿内勢力」と「阿波勢力」の代理戦争という様相を呈していた。丹波出身で高国政権下で活動し、畿内の政治力学を熟知していた賢治にとって、阿波から来た元長とその軍勢は、協力者であると同時に自らの支配領域を侵す競争相手であった。一方、元長の権力基盤はあくまで阿波の三好本家と、主君・晴元、そして堺公方・義維という大義名分にあった。彼が阿波の人間で支配を固めようとしたのは、畿内勢力への不信感の表れであり、この「畿内の論理」と「阿波の論理」の衝突は必然であった。
そして、この対立を調停できず、一方の讒言に乗って他方を排斥するという細川晴元の政治的力量の欠如が、政権の不安定さを決定づけた。有力な家臣同士を使いこなすのではなく、場当たり的に一方を切り捨てる晴元の姿勢は、家臣たちの忠誠心を削ぎ、後の三好長慶による下剋上の遠因となった。賢治と元長の対立は、晴元政権そのものが抱える構造的欠陥を映す鏡であったと言える。
畿内における権勢を確立した柳本賢治は、その影響力を隣国へと拡大しようと試みる。享禄3年(1530年)5月、賢治は播磨国(現在の兵庫県南西部)の有力国人・別所就治(村治とも)から、宿敵である依藤氏の討伐を依頼された 10 。この要請に応じ、賢治は自ら軍勢を率いて京を出立し、播磨へと進軍した。
現地で別所氏、小寺氏の軍勢と合流した賢治は、依藤氏が籠る城(史料により豊地城または小沢城と比定される)を包囲した 32 。しかし、依藤氏の抵抗は頑強で、戦いは一ヶ月半にも及ぶ膠着状態に陥った 32 。この播磨出兵は、賢治の権勢が絶頂に達していたことを示す行動であると同時に、彼の運命を暗転させる直接的な原因となった。
同年6月29日の夜、長期にわたる陣中生活の油断か、賢治は悲劇的な最期を迎える。依藤城攻めの陣中にて、何者かによって暗殺されたのである 13 。
複数の史料が、彼がその夜、酒に酔っていたと伝えている 32 。公家・鷲尾隆康の日記である『二水記』によれば、実行犯は夜陰に乗じて賢治の陣所に忍び込んだ「浄春」と名乗る大和の山伏であった 32 。浄春は賢治を刺殺した後、混乱する陣中から脱出に成功したという。総大将を失った柳本軍は大混乱に陥り、その隙を突いた依藤軍の逆襲を受けて百人余りの兵が討たれ、軍は敗走を余儀なくされた 32 。
この暗殺は、単独犯による偶発的な犯行ではなかった。その背後には、賢治と敵対する勢力による周到な計画が存在した。暗殺を直接命じたのは、細川高国方についていた播磨の実力者・浦上村宗の被官(家臣)である中村助三郎であったと記録されている 32 。また、別の史料では、実行犯は浦上村宗の重臣・島村貴則が放った刺客であったともされる 10 。
浦上村宗にとって、細川晴元派の重鎮である賢治が、自らの勢力圏である播磨に大軍を率いて進駐してきたことは、到底看過できない脅威であった 33 。正面からの戦闘で賢治を破ることが困難と判断した村宗は、より確実な手段として「暗殺」という謀略を選択したのである。暗殺成功後、細川高国と浦上村宗は、功労者である浄春と中村助三郎に対し、公式に感状(感謝状)を与えており、この暗殺が高国・村宗ラインによる組織的な謀略であったことは疑いようがない 32 。
賢治の死は、彼の権力が個人的な軍事力とカリスマに大きく依存しており、組織的な危機管理能力を欠いていたという限界を露呈した。敵地での長期滞陣、酒に酔っていたという油断 32 、そして総大将一人が殺害されただけで軍全体が崩壊したという事実 32 は、彼に代わって軍を統率できる副将や、組織的な指揮系統が未熟であったことを物語っている。彼の権力は、彼一人の存在にあまりにも大きく依存していた。彼が消えれば、全てが瓦解する。この脆弱性こそが、彼が「天下人」にはなれず、「過渡期の梟雄」に留まった最大の理由であった。
柳本賢治の突然の死は、畿内の政治情勢に大きな変動をもたらした。彼の存在によって抑えられていた権力の均衡は崩れ、新たな権力闘争の時代が幕を開けた。
賢治の死によって最大の柱を失った細川晴元政権は、深刻な窮地に陥った 29 。晴元は、一度は自ら排斥した三好元長を畿内に呼び戻し、その軍事力に頼らざるを得なくなる 34 。しかし、復帰した元長もまた、木沢長政や三好政長らとの対立の末、天文元年(1532年)に飯盛城で一向一揆に攻められ自害に追い込まれた 18 。賢治という重石がなくなった畿内では、木沢長政のような新たな梟雄が次々と台頭し、一層混沌とした状況を呈した 25 。
一方、賢治が一代で築き上げた柳本家は、彼の死とともに急速に凋落していく。家督は幼い息子の虎満丸(当時4、5歳)が継いだが、一族の柳本甚次郎がその後見人(名代)として活動した 1 。しかし、この甚次郎も三好元長と京都の支配権を巡って対立し、享禄5年(1532年)に居城の京都三条城で討ち取られてしまう 10 。虎満丸は後に「柳本又二郎」として史料にその名が見えるが 10 、かつての勢いを取り戻すことはできず、柳本氏は畿内の政治史の表舞台から静かに姿を消していった。
柳本賢治の生涯を総括すると、彼は伝統的な身分秩序が崩壊し、個人の実力がものをいう戦国乱世の申し子であったと言える。異例の抜擢による急激な台頭、卓越した軍事的才能に裏打ちされた権勢の掌握、そして政敵との路線対立と自らの慢心による突然の破滅というその生涯は、戦国武将の一つの典型を鮮やかに描き出している 1 。
しかし、彼の歴史的意義はそれだけにとどまらない。馬部隆弘氏らの研究が示すように、賢治は後の三好長慶に先駆けて、畿内の国人や商人層を取り込み、経済的要衝を拠点とする新しい形の権力構造を模索した 4 。彼の試みは、彼自身の死によって未完に終わったが、その成功と失敗の経験は、畿内における権力闘争の力学を大きく変えた。三好長慶は、父・元長、そして柳本賢治や木沢長政といった先人たちの熾烈な闘争の末に生まれた政治的空白地帯に、より洗練され、より安定した形で自らの政権を打ち立てることに成功したのである。その意味で、柳本賢治は三好政権成立の重要な「露払い役」を果たした、戦国史において決して無視できない人物として再評価されるべきであろう。
和暦 |
西暦 |
柳本賢治の動向 |
関連人物・勢力の動向 |
畿内全体の情勢 |
不明 |
不明 |
丹波国人・波多野清秀の子として誕生。 |
兄弟に波多野元清、香西元盛。 |
両細川の乱が継続中。 |
永正17年 |
1520年 |
細川高国の命により、戦死した柳本長治の跡を継ぎ、柳本氏の家督を相続する 10 。 |
細川高国が管領として畿内を掌握。柳本長治父子が西岡一揆に討たれる 11 。 |
高国政権が安定期に入る。 |
大永6年 |
1526年 |
兄・香西元盛の死をきっかけに、兄・波多野元清と共に高国から離反。丹波神尾寺城で挙兵 13 。 |
7月、細川尹賢の讒言により、細川高国が香西元盛を誅殺 15 。 |
高国政権に内部亀裂が生じる。 |
大永7年 |
1527年 |
摂津に進攻し、山崎城などを制圧。三好勢と合流し、桂川原の戦いで高国軍に大勝 22 。 |
細川晴元・三好元長らが阿波から渡海。高国と将軍・足利義晴は近江へ逃亡 13 。 |
高国政権が崩壊。「堺公方府」が成立し、晴元政権が畿内を掌握。 |
享禄元年 |
1528年 |
摂津山崎を拠点に権勢を振るう。三好元長と対立し、晴元に讒言して元長を阿波へ追い落とす 13 。 |
三好元長が阿波へ帰国。細川晴元は賢治ら畿内勢力に依存する形となる。 |
堺公方府内で賢治派が主導権を握る。 |
享禄2年 |
1529年 |
元長派の摂津国人・伊丹元扶を伊丹城に攻め滅ぼす 27 。 |
- |
賢治の権勢が絶頂に達する。 |
享禄3年 |
1530年 |
5月、播磨の別所就治の要請で依藤氏を攻めるため播磨へ出兵 31 。6月29日、陣中にて暗殺される 15 。 |
浦上村宗が刺客を放ち、賢治を暗殺させる 10 。高国が播磨から摂津へ進出 27 。 |
賢治の死で晴元方は窮地に陥る。 |
享禄4年 |
1531年 |
- |
晴元は三好元長を畿内に呼び戻す。元長は尼崎大物崩れで細川高国・浦上村宗を破り、両者は自害 35 。 |
両細川の乱が終結。 |
享禄5年 |
1532年 |
1月、名代の柳本甚次郎が三好元長と対立し、京都三条城で討死 10 。 |
6月、三好元長が飯盛城で一向一揆に攻められ自害 35 。木沢長政が台頭。 |
畿内は再び混沌とし、天文法華の乱へと突入する。 |
天文2年 |
1533年 |
子の虎満丸が細川晴元から所領を安堵されるが、一族の勢力は大きく後退 10 。 |
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- |
天文14年 |
1545年 |
『言継卿記』に「柳本又二郎」として虎満丸の名が見えるのが、その後の確実な消息の一つ 10 。 |
- |
三好長慶が細川晴元政権下で台頭し始める。 |